武田信玄上洛成功

このエントリーをはてなブックマークに追加
779人間七七四年

43 :人間七七四年:2011/11/05(土) 16:44:04.22 ID:pbf/wSxc
信長公記では松永降伏が昨年冬(元亀3年〜天正元年)となっているけれど、
今年冬(天正元年〜天正二年)の間違い。
三好義継が11月に死んでいるので久秀の降伏はやむなしだろうし、
信長が久秀の降伏を許したのは、

筒井順慶は興福寺官符衆徒(荘園管理官・事実上の守護代)であるため、基本行動は外敵排斥。
そのため大和支配を目指す松永久秀と永年抗争し、松永の行動如何で派閥を変える。
天正元年信長が松永を赦免したのも、寺院領廃止の目的があったため。
高市郡高取城には越智家高(旧南朝)。筒井氏と永年抗争。戦国期は河内畠山氏に属。
元亀前期は畠山派として松永と組んで筒井と戦うが、2年9月伯父家益に暗殺。

松永が降伏したのは天正元年12月26日「多聞院日記」「尋憲記」
これも公記の誤りで、本来天正2年の頭に記すべきもの。丸1年ズレている。
ちなみに軍記物「和州諸将軍伝」に松永筒井は明智の扱いで元亀2年11月1日和睦したという。
実際、この間の同時代史料に戦闘はなく逆に翌年3月筒井が上洛している。戦闘再開は4月末(松永謀反)。
信長が検分のため接収した多聞山城に入城したのは元亀2年だから、
多聞山城の落城は天正元年12月26日頃であり、信長公記の記述は明らかにおかしい。

たしか尋憲記では天正元年3/6に義昭も義継と松永を許して京都にくるのはめでたい。
足利家への奔走を頼むって書いてあるんだよね。
公記の記述から信長に降伏を装いつつ
その裏で義昭への降伏交渉してて3月にまとまり義昭に内応してた。
和田を殺した荒木も同様な真似をしてると思う。
天正元年正月には信長と義昭の対立が表面化しているから、
これは義昭ー三好ー松永の密約を世間に公開し、織田派への圧力を
目的とした行動と考えるのが自然かと。
公記は松永が降伏したのを一年前倒しで記して、信玄との呼応の事実を隠蔽してる。
実際の大和・山城での松永の行動は信長にとってかなり脅威だったからこその歪曲だろう。
ついでに堺・京商人の動向。
まず堺会合衆だが、一般には永禄12年に信長に屈服したと言われるが、事実は違う。
会合衆の長老格天王寺屋津田宗及は日記(天王寺茶会記)によると、 元亀争乱期を
通じて、何度か本願寺や三好と会い、信長が天満森で敗走した直後に本願寺にも
訪問し、御茶を点てている。 逆に織田方とは全く会っておらず、津田が仲間の
会合衆と共に初めて信長に会うのは、天正元年11月京妙覚寺においてである。
元亀期、堺会合衆は二派に分かれ、津田が長老格に対し、信長派今井は新参なので、
反信長派が優勢だったと考えられる。 むしろ今井を残しておいて、裏目が出た時に
対処する商人らしいやり口だったのだろう。 また津田は元亀2年2〜3月京へ赴き、
京町衆と数度会合をもっている。
天正元年4月信長は上京を焼き、町衆の多い下京に自分に従えと命じているため、
京町衆も反信長派になっていたかと。 畿内一円の商人逹は「矢銭」をかけた信長を
嫌い、反信長派の動きをしていたと推定。 資金流通や弾薬物資も、信長よりも反信長
陣営に有利に回っていたと考えられる。
和泉
三好分国として安定。配下領主松浦・寺田・沼間・眞鍋など。
讃岐十河存保が織田に通じた後、誘降を受け入れる。