1月に入ると本願寺が遠三尾濃の一揆の蜂起を命じ
(天正2年8/5の幽斎宛て信長書状にも尾・勢之中一揆を尋ね出して悉く楯切り(思いっきり)しろと命じてる)
岡崎にある勝鬘寺が蜂起予定だし、伊勢長島門徒も岐阜城付近に要害を建設した。
2/17に信玄が野田から撤収したと23日付けで幽斎に信長は言ってるが、
3/6には信玄が秋山に東美濃に織田が攻めてきたから追い払えと命じてる。
(ちなみにこの後に信長の子の御坊主丸を甲府に送ったとされる)
その後も岩村は武田方なので、織田軍はまた岐阜へ敗走したんだろうねw
3/7に義昭が信長の人質を突っ返して断交してるし
京都の大山崎にある山城離宮八幡宮は、信玄の上洛は確実とみて
さっそく諸役免除と禁制発給をお願いしてるし(26日に諸役免除を認めてる)
元亀2年5/11朝廷が信玄に比叡山再興を頼んだ
7/16朝廷が続けて東大寺大仏殿の再興も頼んだ
どちらに正義があるかなんて明らかじゃないか。
比叡山延暦寺は信長と敵対して志賀の陣などの戦乱で荒廃した。
そこで王城鎮護の比叡山の再興を朝廷が信玄に頼み、
信長が攻撃したり金を出させていた南都の東大寺の復興も頼むのは
重大なことだろうね。
戦国遺文武田の4043(延暦寺再興)と4044(東大寺の再興)がソース
信長の御勘気をこうむっていた教如を顕如が義絶していたが
本能寺の変の20日後にはさっそく正親町 後陽成天皇が
待ってましたとばかりに教如を赦免するように顕如を諭してる。
元亀4年1月11日
信玄は義昭に、増長しまくりの信長が政治を正そうとせず傲慢で他者を侮り
朝倉や比叡山との勅命和睦無視などを書き連ね
信長と家康の非法を訴えた激文を送付した。
正親町天皇はその文を読み感動し、写を自ら作成された。
>>749 摂津では伊丹親興や池田重成も義昭に呼応して挙兵していて
反織田で染まっている。荒木や細川が領国を維持できていたソースは存在しない。
>>752 >>「最有力国人」とか言ってるのか知らないが
信長本人がを義昭が宇津を傘下に加えたが
同国の実力者内藤は参加してないと細川への書状に書いている。
しかし二条城へ来た信長は内藤が兵5000(射手1000)で二条城にいたのを見て驚愕。
赤井は織田配下の但馬山名を攻めたり、
但馬へ侵攻する吉川元春に呼応したりと完全に反織田。