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人間七七四年:
朝倉を抑えられないから志賀の陣で信長が土下座和睦したんだろw
信長は兵力が足らずに朝倉が小谷に来ても一度たりとも
多胡宗右衛門ら高島七頭らに邪魔されて
琵琶西岸を北上して朝倉の退路を断つ動きすら
一切取れなかった。
だからちょっと信長が京に入ったり岐阜へ帰るとすぐ
彼らや六角や一向宗がゲリラ化して
京への通路に砦を築いて背後を脅かす。
織田主力が来たら適当にあしらって退散する疲弊戦術に
泥沼のようにはまり込んで
元亀元年には六角2万に対抗して
2万くらい動員していた織田軍はどんどん減少して
元亀4年には総兵力たった1万(年代記抄節)まで大減少。
挙兵準備中の義昭自身は信長への和睦条件として
六角氏の甲賀にいた武田信虎に哀願して近江諸将と和睦斡旋してもらうように信長に命令してたり
信長も事態が切迫して義昭に対して
「自分と信忠は将軍が許してくれるなら、頭を丸めて武器も持たずに会いに赴きます」と土下座状態だったが義昭は強気を崩さず
信長はさかんに「義昭の行動を公家や御所はどう思っているのか?」と心配して聞いてる。
義昭は信玄の死も知らずに抗戦してるなど明らかに信玄が撤退しないのが前提の戦いをしてる。
思い返せば志賀の陣では
追い詰められた最後の手段として永禄元年10/3に援軍の徳川軍が近江横山城へ入り
代わりに横山城の秀吉らが坂本へ向かって出陣するも
兵力不足で戦況劣勢に追い込まれ2ヵ月後の12/13に信長が土下座する志賀の陣
永禄4年4/6に信長の元へ小栗大六を派遣してきた上洛準備中の家康に対して
2日3日に洛外を4日に上京を悉く焼き義昭と講和ができたので
家康の近江横山出陣は必要なくなったので遠江・三河を油断なく備えるように言ってる。
信長は兵力不足で信玄に負けてボロボロの家康にまで援軍を出すように要求していた。
信玄が死んでなかったら上洛できず2〜3ヵ月後に信長の土下座が確定していたと言える。
2/23に信長は信玄が野田表から撤収したから
上洛して畿内平定するって細川に書状出してるのは
過去にさんざん書かれてる内容だし、
その後に武田が津保城や加治田城を手に入れたとする長政書状を裏付けるように
信長は上洛出来なくなり、
2/29には何としてでも信長は和睦したくて、
信長が人質を出すことで義昭と和睦出来そうだと喜ぶが、
3/6に義昭が信長の人質を返却して強気になる。
その後も和睦を信長は試みるもダメ。
3/11には荒木や高山らが細川が世話役してる和田惟長を襲撃してるのが京にも届き完全に信長の意向を無視。
結局、3/18になり信長が岐阜を出て上洛する。
3/29に信長は京で細川と荒木に会って大喜びして贈り物し、
荒木が和田を襲った話を詰問すらしない。
4/6に横山城への援軍がいらなくなったと家康の使者小栗に言ってるから、
この時点より前に家康には援軍出すように命令してんだろ。
元亀3年10/2には六角義堯が三好甚五郎に四国衆の渡海準備を命じたと承禎に言ってる。
そのため三好の本国の四国から大規模兵力の上陸が予定されているのがわかり
三好康長・篠原自遁・岩成友通らの動きが止まってるのも、これらの上陸軍待ちなのがわかる。