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人間七七四年:
近江で信長が支配していたのは主なところで
佐和山・横山・観音寺(一時奪回されたりしてるが)・大津・坂本など
琵琶湖南岸に沿った街道沿いだけであり、その南は六角支配下である。
また天野川以北は湖北十ヶ寺一揆支配圏を構成しており
姉川南部ですら、いまだに安定統治が為されていないのが織田。
大津を維持していた山岡景隆の弟の山岡景友が義昭から山城半国守護になり
近江で有力な山岡家まで分裂してる始末。
秀吉が旧浅井領の一職支配を任されたわけだが
実際は浅井が支配していた全域を任されたわけじゃなくて
浅井が滅亡した時点で浅井が実効支配していた地のみの支配だった。
そのため先の天正元年8月に降伏した山本山城の阿閉氏
(伊香郡の一部・浅井郡菅浦&大浦下庄)
については秀吉には与えられず、阿閉氏は信長直参扱いになっている。
よって秀吉が与えられたのは坂田郡(天野川以北)から
浅井郡を挟んで伊香郡(木之本町)以南の地域でのみ秀吉発給文書がある。
この部分はそのまま湖北十ヶ寺一揆支配圏内であり、
要するに秀吉がいた横山城や虎御前城は敵中に孤立した
大海に囲まれた小島のようなものでしかなかった。
「織田軍が攻略済みの佐和山や横山も街道沿いなように」と書いてるわけだが読めないのか?
さて朝倉は西近江幕府奉公衆高島七頭と抵抗し背後の敦賀へ織田軍が進撃できないようにしてる。
浅井は湖北十ヶ寺一揆から軍事&兵糧支援をしてもらい篭城。
六角は三雲氏など南近江国人達(蒲生を除く)や一揆衆に支えられ、
天正元年4/11鯰江城の六角と挙兵した百済寺を攻撃のため義昭と和睦するや即進撃。
9月鯰江城が落城するも石部城へ後退。
天正2年4/13六角義賢が石部城で抵抗後に三雲氏の本拠地の信楽に向けて退城し、
この時に敵を追い払った山中山城に感状を12/24に出してる。
(この間に勝頼が美濃明智城と遠江高天神城を攻略し、信長は越前での一揆を危惧)
信長が近江で維持してるのは面では無く点でしかない。
ちなみに伊賀守護は六角氏綱から養子に入った仁木義政の領地で
北伊勢の一向宗が暴れてるのも実は仁木氏の領土。
実際、近江はほとんど反織田方でしょ。
織田軍が攻略済みの佐和山や横山も街道沿いなように
織田が近江で支配してたのは街道に位置した城を織田武将が
維持してただけに過ぎないし。
大津を維持していた山岡景隆の弟の山岡景友が義昭から山城半国守護になり
近江で有力な山岡家まで分裂してる始末だし。
高島七頭が朝倉と書状交換してるように、近江の西岸を北上して
小谷に出てくる朝倉の背後を付いて敦賀攻撃もできないのが織田。
義昭挙兵の時も六角と一揆に背後を閉じられ、朝廷和睦斡旋で
信長公御名代として信広が義昭と会談した翌日にはすぐに六角と百済寺を攻撃に出撃してるし。
これで蒲生が武田に内通したら、近江がほぼ敵になったと考えて間違いないし、
織田が一万しか兵を集められなかったとするソースを、さらに裏付けることになる。