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人間七七四年:
連絡斡旋してるのは郡上八幡城だよ。
長政が遠藤に三河や遠江での信玄の情報を聞いてて、
甲州からの使者が届いたと11/15付けで感謝してるし、
信玄も遠藤に江北にいる越前陣までの通路の保障を11/19付けで出してる。
また越中勝興寺にも長政は天正元年2/26に書状を出してたりする。
長政には湖北十ヶ寺一揆が味方してるから
書状も補給も可能だったし、
永禄3年8/3長政→島秀安で
伊勢長島一揆軍が北上し
今須(関ヶ原)と柏原口(米原)の隘路を封鎖し
不破口から美濃を突く作戦について触れている書状があり、
9/5にも島に信玄出馬と大君畑(多賀町)への伊勢長島一揆軍の侵攻の話を書いてたり、
天正元年6月にも伊勢長島一揆軍は濃尾国境を襲ってる。
基本的に武田や越中勝興寺だけでなく南方の石山本願寺や
伊勢長島一揆にも書状交換を普通にやってる。
信玄が美濃へ進軍したら当然、
伊勢長島一揆軍も美濃を突くのは間違いない。
明らかに小谷城を押さえる秀吉軍の慢性的兵力不足が原因だろうね。
>>信玄死ぬまで義昭は蜂起してなかったよね
水面下では元亀2年5/17の岡周防守宛ての信玄書状「公方様が信長へ遺恨のため討伐」と
すでに義昭は動いてたし義昭側近の六角義堯なども活動してる。
内外にはっきりと義昭が織田追討宣言を出したのが元亀3年5/13信玄宛ての義昭御内書
これは柴辻氏が2008年の講演と2009年の論文で明言してるし、現在のところ反論は皆無。
他にも日根野弘就が弟の盛就を長政のところへ派遣し
伊勢長島との一揆兵力の融通や城普請の協力もしてるなど
各地の反織田勢力は互いに密接に連絡を取り合っているのがわかる。
12/12に信玄は当年過半任存分候と言っていて
美濃の過半は武田方になったといってるし。
だからこそ来春の岐阜攻撃だからね。
信玄が言ったように、まさに信長滅亡の時がきたんだよ。
元亀元年の兵力について
浅井の裏切りで敦賀から戻ってきた信長。
怒って出陣して浅井に呼応した六角軍2万(常楽寺文書)に対して
5/9信長も2万で闘っている(言継卿記)
浅井軍・市原野一揆も出陣してきて信長を挟撃しようとしたので
まだ佐和山城が浅井方だったので
信長は近江南東から千草越えで退却(六角のゴルゴ13に信長が狙撃される)
この間、六角と信長が決戦したとされる。
信長公記では織田の圧勝のように書かれているが
姉川の戦いでは三河物語で朝倉軍3万・織田軍1万とされ
あきらかに六角と同様に織田軍もかなりのダメージを受けてるのがわかる。