武田信玄上洛成功

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767人間七七四年
永禄10年11月7日に顕如が信長が上洛しようとするのを
祝福して太刀を贈ってるし(顕如上人御書札案留)
また同じ頃に朝廷からも上洛するようにと
同じ時期に勅使が来たと奥野高広氏が書いてるぞ。
万里小路惟房も勅裁が下された上は信長も
朝廷を早く馳走するのが肝要と言って上洛を促してるし。
12/1には信長が興福寺に義昭の上洛に供奉する&松永久秀が信長に協力すると言ってるし
1/18には三好義継までが義昭と信長の上洛は成功すると詠んだ歌を多聞院が見てる。
3/11には大和国人の十市氏や篠原弾正や三好康長まで
義昭上洛側に組してるのを多聞院が3/14に書いてるし(三好康長らはのちに仲違いしたが)
4月にはさかんに和田を含め甲賀衆や蒲生郡の義昭擁立派と織田と連絡を取り合ってるし。
(蒲生郡には義昭を後援していた奉公衆が活動しており、義昭と共闘する信玄に蒲生が呼応する理由は存在する)
比叡山も荘園の奪回を期待して信長を後援してるし
(しかし約束は果たされず元亀元年10/26正親町天皇が信長に荘園を延暦寺に返せと命じてるがやはり無視)

美濃国も一向宗の巣窟。
また信長の長島攻撃には美濃真宗門徒が一揆を組織し長島参加している。
元亀三年7/13に信長は専福寺に対して大坂にいる門徒たちを引き払わせるように命じてる。
本願寺の下間頼龍も濃州坊主衆宛に専福寺の忍悟が戦死したので跡目を忍勝に認めている。
また天正四年に安八郡長久寺が本願寺から感謝されていたり
河野門徒が濃尾門徒を指揮して石山にいたり
教徳寺の六代賢正が石山や加賀に出陣するなど
美濃本願寺教団の兵糧輸送やら出陣やらの断片的記録が遺る。
美濃国中支配者51人の僧を本願寺護持に任命している。
岐阜市内では末寺や門徒の力に応じて上中下と序列している。
川之方 上
専勝寺 上
浄土寺 中
上宮寺 下
教徳寺 中下
勅命二度目で教如もさすがに断念し信長と和睦したが美濃の一向一揆衆の戦力は非常に大きく
信玄本隊の美濃進軍は彼らの一斉蜂起により
信長は致命的ダメージを受けて壊滅するだろう。