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人間七七四年:
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
六角重臣達と対立する六角義治に対抗して六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけだし
それでさえ、家康がいなければ信長は死んでた。姉川の戦いを織田圧勝などと捏造してるが
朝倉・高島七頭・一揆連合軍が9/20には宇佐山城攻めを開始し織田信治と森可成を討死させ
21日には山科までやってきて志賀の陣になり、朝倉軍が大敗した姿などまったくない。
信長は「朝倉殿が天下をとってください。我に望みなし」の土下座降伏してる。
ちなみに信玄の目標は明白で義昭側近の上野秀政に宛てて「信長を倒し比叡山を再興する」と
言っていて、三河攻略なんて軍事的戦略における陽動に過ぎず、
岐阜を落とし近江へ進軍することが戦略目標なのは明らか。
志賀の陣の時に朝廷が和睦斡旋に来た際に双方が人質交換をしたのだが
そもそも和睦など考えもしてなかった義景には出すべき人質がいなかった。
それでも朝廷に強く言われ家臣の子を出すしかなかった。
そのため織田方も家臣の質を出すと言うことで決着した。
そこで朝倉奉公人の魚住氏や府中奉行の青木氏などの子を出した。
さて信玄死後のこと、浅井を救う為に近江出陣の軍役を課したところ
子を人質に出していた魚住と強欲景鏡が疲弊を理由に出兵拒否。
それどころか朝倉軍が敗北したと知ると
越前侵攻の道案内を勤めたのが逆臣魚住景固であり
景鏡は頼ってきた義景を討った逆臣となった。
人質の人選を失敗した義景にはやはりセンスがない。
三好側も姉川で弱体化した織田を攻めるべく進軍開始。
それに対して信長は、義昭の土下座して何度も頼んで
「将軍親征」だよ〜って宣伝しまくり兵を募り
将軍権威に依存して兵力を増加した信長は
またまた増長し三好討伐ついでに石山本願寺の近くに陣を置いて
威圧しつつ石山退去要求を突然要求したので
ついに本願寺も堪忍の限界を超え挙兵を決意したと言うところだろう。