武田信玄上洛成功

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764人間七七四年
>>702
「鉄砲之薬 従大将陣配当之儀は勿論候 雖然如近年者 自然之時節欠乏候者
即凶事之基候之条 知行役相当に玉薬支度之事」のことだろうが。
これさ、大将が配当するのは当然なのだが、近年は自然と欠乏する時期もあると
凶事の元になりかねないから知行貰ってる者は玉薬の支度もしておくようにと
心構えを説いてるだけで、基本的には大将が用意するよって書いてあるだけなのに
思いっきり文意を歪曲するのはどうなのかねぇ。
しかもこの上記の書状は勝頼の署名も無ければ竜印も無い怪しげな写しでしょ。
同じ日付で勝頼の竜印付きの軍備の心構えを説いてる書状があるけど
それには上記の文章は存在してないし。
さらに言うと、信玄の西上の時である元亀4年正月の念頭挨拶で、
小山田が甲府陣所に1/5付けで塩硝50斤を進上してるほど余裕があるんだがw
逆に信長の場合は同時期に金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
ちなみに本願寺が元亀3年6月末に小谷城で籠城する長政に三十斤贈り(浅井兵力5000前後か)
横山にいた秀吉が大坂へ宛て元亀元年6/4に三十斤送れと火薬について書いてる。
(秀吉の書状から兵力3000を秀吉が持って籠城してるのがわかる)
長期籠城してても三十斤もあれば充分過ぎる量なんだろう。

元亀2年には駿河の富士金山・安部金山・井川金山などが武田金堀衆により本格稼動し始めてる。
といっても、もともと採掘してる武田領の長畑金山を駿河側から掘ったり(井川金山)
武田の早川金山を駿河側から掘ったり(安部金山)
武田の中山金山を駿河側から掘ったり(富士金山)
要するに武田氏が従来の金脈を駿河側から掘って採掘力を2倍に強化したと言うこと。
これで武田の財力基盤はさらに強化されている。

小規模な範囲での興福寺(永禄8年・永禄10年)や浅井氏(永禄9年)の撰銭令の猿真似をした
織田政権は上洛した翌年に撰銭令(永禄12年)を広範囲に出して
多くの悪銭を畿内で流通させインフレ経済崩壊を招いた愚か者。
ミクロレベルでの政策なら一定の成果が上がるが、マクロレベルでやった信長はアホ。
悪貨が良貨を駆逐するの例えどおりに重度に悪銭が畿内に集中し、
他地域では良銭が流通したため畿内→外地域での決済において拒否が続出。
そのため元亀2年辺りに至ると物々交換と言う古代時代に戻ってしまったw
元亀2年から天正8年の時期は信長の命令は無視され決済拒否される悪銭は使用さなくなり
そして天正8年に至ると石見銀の流通が活発化した。
豊臣政権は撰銭令を撤廃し米主体の石高制を採用し河川流通を整備するや
景気低迷を脱して桃山文化の香る時代が招来している。

一方の信長は永禄11年12月の誠仁親王の元服という晴れの舞台において
無礼にも流通拒否される悪銭ばかりを献上して朝廷の公家達を激怒させている。

このように信玄の上洛とは畿内経済の破綻による生活苦による一揆の隆盛。
東国経済の飛躍的向上に裏付けられた時代の流れなのである。
一方、1560年代より島津が大隈の加治木で偽銭製造を開始し
偽造硬貨による信用不安で西国において銭より米が決済に使われる頻度が上がる。
東国では悪銭でない永楽銭が信長の失政で信用低下著しい京銭4文との交換比率になっていた。
この信用不安を解消する手を打ったのは秀吉。
とくに天正大判を発行するなど秀吉の金本位体制は
西欧重商主義と金融資本の概念を先取りしていて驚愕的である。