武田信玄上洛成功

このエントリーをはてなブックマークに追加
763人間七七四年
信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた
水谷刑部少輔が賛意を取り付け和睦に合意
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから
織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。
伊勢長島一揆でも北畠に関係の南伊勢諸国人は船舶動員に非協力的で何度も信長の要請をシカトしてるし
彼らは北畠家臣や南朝以来の繋がりがある
紀伊半島の土豪連中まで長島一揆に入城してるし伊豆国方面からも敵大船が伊勢大湊へやってきたと
織田側は通報してる(日根野弘就に協力してた自由商業町の山田三方の福島親子とか有名)

武田水軍は土屋や岡部らによって作られ駿河清水に拠点が作られた(戦国遺文武田1496・1515・1625)
もともとは北条の梶原水軍を仮想的にしたものだ(本光国師日記)
元亀2年には伊勢水軍から小浜氏や向井氏を招集してるが(1748・1789)
北条との同盟によって仮想敵が徳川へ変更される。
元亀3年10月からの徳川攻撃では武田水軍も高天神城攻略にも出動していたとされ、
11月には武田水軍(伊勢水軍)が三河田原表襲撃の計画があったのがわかっている(1995)
天正2年遠江国今切に武田の兵糧船が現れ徳川の船で取り囲んだが徳川方の寺島が討死させられてる(当代記)
6月には武田が兵糧を北条領から調達しようとして北条方に押収され
翌月から武田が船手判を発行することで解決してる(静岡県史資料8の773・785)
小川雄氏は今切では伊勢から武田領への兵糧の回送が行われていたり、
三河田原表襲撃などから、武田伊勢水軍が海上でも徳川を圧倒しつつあったと論証してる。
天正7年9月に駿河用宗城が徳川に攻略され遠江へ進出することがなくなった武田伊勢水軍は(3178)
天正8年4月より北条水軍を相手に伊豆で圧倒しており(3331・3332)
北条方の水軍根拠地まで攻め込まれてる(3534・3535・3536・3372)(静岡県史資料8の1394)
要するに伊勢水軍によって織田と徳川水軍は圧倒されており、武田の兵糧の海上輸送は磐石なんだよ。

伊勢での織田の支配がスタートしたのは天正3年から。
角明浩氏によれば摂津同様に信長の命令を無視して私戦を繰り返しまくって去就著しい大和衆の統御を
織田家がうまく行えるようになったのは天正2年(1574年)の蘭奢待採取と塙直政の大和守護任官が大きいそうだ。
これにより筒井衆や興福寺を始めとした大和衆の本願寺攻撃への協力が取り付けれるようになり
伊勢長島への有効的な攻撃が可能になったのだと。
(しかし同時に信玄と義昭に内通したが許された松永が
筒井より下の立場に逆転したので不満をもっており大和混乱の火種は残る)
伊勢長島攻略を完了して北伊勢での支配を確立させると信長は南伊勢への関与を強め始め
1575年に信雄が北畠家督を得て田丸城へ入り御本所と呼ばれるようになる(田丸具忠は一ノ瀬御所へ移城)
北畠当主として滝川に差出検地をやらせることで初めて伊勢での実効支配を進めようとしたのだ。