武田信玄上洛成功

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759人間七七四年
当時の当主は北畠具房(具教の嫡男)であり
まず北畠具教と木造具政(晴具三男・具教の弟)の内訌において
木造が織田の力を借りて内訌を有利に運ぼうとしたことが挙げられる。
北畠に苦戦した織田は義昭の和睦調停において茶筅を人質に出して安全撤退した。
(北畠は人質を出してない)その時に茶筅の安全を守るため織田家から津田一安が付けられ、
木造からは滝川雄利(木造一族)と拓植三郎左衛門(木造重臣)が警護に付けられた。
さて成長し茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。
大湊中に宛てたものだ。これは長島一向宗攻撃のために伊勢水軍に桑名派遣を命じてる。
そこには「本所よりも固く御申し付けあるべく」とあり、本所とは具教もしくは具房を指しており
信雄より先に本所からも命令文書が発給されているのがわかる。
そして具教や具房の奉公人である山室氏(9/16・10/13・10/14・10/16・10/29)や
鳥屋尾氏(10/13・10/16・10/19・10/晦)によって大湊への軍事動員書状が発給されてる。
9/20頃に伊豆の敵船が大湊入り津田一安が現地入りして糾明に乗り出し大湊諸衆と交渉してる。
しかし大湊の船主たちが軍事動員に反対して拒絶している姿が山室氏の書状で判明する(太田家古文書)
つまり大湊の船主の総意は織田に従いたくないという大前提が見て取れる。
また天正元年11月15日に山田三方中と北監物に信雄は文書発給しており
大意としては両御所様御同前に北監物(伊勢大神宮御師)の息子の
福島左京亮(皇大神宮御師)の跡職相続を認めたもの。
これも9/16・9/22・10/22に山室氏から奉書が発給済みのもの。
天正元年の信雄の具豊名での発給文書はこの3通のみ。
このように信玄が死去し義昭が追放された後になってやっと信雄の発言力が多少向上してるに過ぎない。
ここに至っても伊勢水軍が織田に服属してないのが理解できる。
760人間七七四年:2012/01/21(土) 15:23:12.19 ID:LT+1R35y

次ぎに信雄が発給しているのは天正3年7/24から「信意」の名前で発給開始している。
つまり天正2年はまったく書状を発給していない。
よって7月の伊勢長島一揆討伐の軍事動員も具房らが主導していると見てよい。
ではなぜ天正3年から発給が開始されるのか?そして「具」ではなく「信」が使用されるのか。
それは多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
天正2年はまったく書状を発給していないことに着目し
信雄が織田家に突っ返されてしまったとする考え方もある。
そして天正3年6月に再度、伊勢入部したとする。
その後、8月の越前一向宗殲滅戦には信雄は大和衆を率いる塙を部下としているように見え
滝川一益や津田一安は信長の命に従っているように見え、信雄とは別系統とも思える。
果たしてこの時の北畠衆は何をしてたのかわからんが、
天正4年11月に北畠一族を大殺戮をすることでやっと北畠支配が支配できた。
761人間七七四年:2012/01/21(土) 15:24:01.18 ID:TKEt5c3i
>>757
間違いだらけの知識披露ご苦労さん。
信玄の上洛とはほぼ関係ない内容だな。
762人間七七四年:2012/01/21(土) 15:29:03.03 ID:LT+1R35y
家督を具房に譲ってはいたが実権を握って現役張ってた具教が織田との和睦を機に出家して引棲しただけで
娘の雪姫の養子になっただけの信雄に家督相続が見えてたわけじゃないから。
家督相続は長島一揆を織田が壊滅させ初めてパワーバランスの変化が生じて信雄が田丸城に入った時であって
それまでは具房が北畠当主だから。
吸収されたのは当主と同格の御所様が乱立していた北畠首脳陣をことごとく汚い暗殺で抹消したからで
それまではまったく織田が北畠を吸収できるような状況じゃなかった。
逆に言えば武力でも政治でも北畠を屈服させられず、汚い手段を執らない限り現状打開すら織田には無理だった。
どんな状況かを見分けられずすべてを混同し同一視するのは馬鹿のやること。人質を出すことの本質が理解出来てないね。
そもそも信雄小学5年生がいきなり娶るわけないだろ。 当初は雪姫の養子として入っただけだから。
具房の養嗣子にすらなってない。つーかのちに信雄が北畠を乗っ取った事実に引きずられて
信長が最初から北畠を乗っ取るつもり前提とか誤解してるだろ。
あの時点でそんなこと計画してないし長島一揆を鎮圧するまではそんなのそもそも無理だから。
北畠氏の本拠は多気御所と呼ばれた霧山城でそこは具房の妻の兄である北畠政成が城代として守り
具教らは最前線の大河内城で出張して指揮してた。
特に家城之清の武略は凄まじいもので織田軍をガンガン打ち破りまわり手におえなかった。
さらに南方には伊勢新宮を支配する田丸城ってのがあってだな。
ここも北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから織田による北畠支配がスタートしたと言うべきもの。
織田軍は大河内城さえ落とせずアホみたいに討ち死にしまくりだった。
一隊を霧山城方面に送ったが政成の妻は松永久秀で大和国人を引き連れて援軍にやってくるなどで織田軍はボロボロ。
しかも北畠・松永・信玄はつながっていた。
ちなみに信虎が以前、北畠軍を率いて志摩から九鬼を追い払ってるなど同じ源氏ゆえか元々親しい。
信雄がきた後も伊勢湊を支配する鳥屋尾満栄が信長が伊勢水軍を長島一揆に使おうとするのに
非協力的で雑賀水軍などを攻撃しなかったりさらに反織田の者達が集まってきた曽原城。
ここは具房がやってくると戦わず降伏するなど織田に対して自作自演をやってる。
しかもこいつらすぐ松阪城の前身にあたる砦を具教御所様の許しを得たと言って集まってくるが
ここは大河内城のすぐ南で田丸城の北方にある場所で反織田やってる。
そもそも具教らが暗殺された時に大規模な北畠一族の広範囲にわたる
騙し討ちがあった事からも織田の北畠支配がうまく言ってなかったのがわかる。
ちなみに伊勢国司記略や津市史や安濃郡誌や北畠氏の研究などが出典
763人間七七四年:2012/01/21(土) 15:29:53.10 ID:LT+1R35y
信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた
水谷刑部少輔が賛意を取り付け和睦に合意
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから
織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。
伊勢長島一揆でも北畠に関係の南伊勢諸国人は船舶動員に非協力的で何度も信長の要請をシカトしてるし
彼らは北畠家臣や南朝以来の繋がりがある
紀伊半島の土豪連中まで長島一揆に入城してるし伊豆国方面からも敵大船が伊勢大湊へやってきたと
織田側は通報してる(日根野弘就に協力してた自由商業町の山田三方の福島親子とか有名)

武田水軍は土屋や岡部らによって作られ駿河清水に拠点が作られた(戦国遺文武田1496・1515・1625)
もともとは北条の梶原水軍を仮想的にしたものだ(本光国師日記)
元亀2年には伊勢水軍から小浜氏や向井氏を招集してるが(1748・1789)
北条との同盟によって仮想敵が徳川へ変更される。
元亀3年10月からの徳川攻撃では武田水軍も高天神城攻略にも出動していたとされ、
11月には武田水軍(伊勢水軍)が三河田原表襲撃の計画があったのがわかっている(1995)
天正2年遠江国今切に武田の兵糧船が現れ徳川の船で取り囲んだが徳川方の寺島が討死させられてる(当代記)
6月には武田が兵糧を北条領から調達しようとして北条方に押収され
翌月から武田が船手判を発行することで解決してる(静岡県史資料8の773・785)
小川雄氏は今切では伊勢から武田領への兵糧の回送が行われていたり、
三河田原表襲撃などから、武田伊勢水軍が海上でも徳川を圧倒しつつあったと論証してる。
天正7年9月に駿河用宗城が徳川に攻略され遠江へ進出することがなくなった武田伊勢水軍は(3178)
天正8年4月より北条水軍を相手に伊豆で圧倒しており(3331・3332)
北条方の水軍根拠地まで攻め込まれてる(3534・3535・3536・3372)(静岡県史資料8の1394)
要するに伊勢水軍によって織田と徳川水軍は圧倒されており、武田の兵糧の海上輸送は磐石なんだよ。

伊勢での織田の支配がスタートしたのは天正3年から。
角明浩氏によれば摂津同様に信長の命令を無視して私戦を繰り返しまくって去就著しい大和衆の統御を
織田家がうまく行えるようになったのは天正2年(1574年)の蘭奢待採取と塙直政の大和守護任官が大きいそうだ。
これにより筒井衆や興福寺を始めとした大和衆の本願寺攻撃への協力が取り付けれるようになり
伊勢長島への有効的な攻撃が可能になったのだと。
(しかし同時に信玄と義昭に内通したが許された松永が
筒井より下の立場に逆転したので不満をもっており大和混乱の火種は残る)
伊勢長島攻略を完了して北伊勢での支配を確立させると信長は南伊勢への関与を強め始め
1575年に信雄が北畠家督を得て田丸城へ入り御本所と呼ばれるようになる(田丸具忠は一ノ瀬御所へ移城)
北畠当主として滝川に差出検地をやらせることで初めて伊勢での実効支配を進めようとしたのだ。