武田信玄上洛成功

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758人間七七四年
1575年に信雄が家督を得て田丸城へ入り御本所と呼ばれるようになる(田丸具忠は一ノ瀬御所へ移城)
北畠当主として滝川に差出検地をやらせることで伊勢での実効支配を進めようとしたのだ。
それに対して信雄側の加藤甚五郎に対して熊野勢堀内氏虎が攻撃をかけて激破。
具教の差し金ということで信長が徹底調査すると
以前に鳥屋尾満栄が信玄に使いし信玄の上洛の時は岡崎まで大船団を派遣し迎えると約していたことが発覚。
1576年正月に鳥屋尾が岐阜に国司の使いとして年賀の挨拶に来るや信長は挑発しまくって威嚇した。
11月北畠具房と四男・徳松丸、五男・亀松丸が共に暗殺され
同日朝に次男・長野具藤、三男・北畠親成、北畠房兼、大河内教通、大河内具良、
波瀬具祐、波瀬具通、岩内光安、坂内具義は
信雄の妻の千代御前(雪姫)が兄達にぜひ会いたいと騙されて田丸御所に呼び出され暗殺。
坂内御所では坂内具房・霧山御所では城代・北畠政成・波瀬具通が殺されたことで
北畠氏は完全に指導者を失うことでやっと伊勢国を鎮定するまでは北畠氏の支配はうまくいかなかった。
剣豪国司と言われた具教ももっとも信用する藤方慶由の嫡男である藤方朝成の家臣達の挨拶と聞いて
完全に油断していたそうで短刀しかもっていなかった。
のち息子が主家に不忠したことにショックを受け藤方慶由は自害。
鳥屋尾満栄は具房の妻子(具房嫡男昌教はのち本願寺へ)を助け出すことに成功し
具教の弟で大和興福寺別当にいた北畠具親は伊賀吉原氏の支援により
還俗し1577年蜂起した際に合流し川俣の戦いで戦死。具親は国司家復興と打倒信長を掲げ毛利客将になった。