武田信玄上洛成功

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386人間七七四年


>>356
金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。
5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築して長篠城落城の危機に焦り
5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
さっそく5/21に長篠の合戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。
>>360
むしろ信長が旧勢力の亡霊でしかない。
雪斎の意見に従い今川義元が合議制を導入したし北条も合議制導入したことで
さらに国威が揚がり領土拡大しており、謙信や信玄も合議によって運営してる。
合議制の中でリーダーシップしていける指導力とカリスマを見せつけることが大事。
信長はガチガチの独裁者。そのくせ守護領国制の昔に戻そうとして、
一職支配の許可(知行安堵権・軍事統率権・裁判権)
などえお考案し内政すべてを丸投げをしてるため各地で軍閥化が進展した。
本能寺の変とはつまるところ斎藤道三や武田信虎や長尾為景の失脚(信長謀死)と
家臣団による信雄や信孝や秀信の傀儡化=義龍や晴信や輝虎が合議制の導入であり、
織田家は信秀が優秀だったのと、尾張の富が、信長への円満家督継承につながり
一世代遅れた歴史展開となっていた。と言うか信長はさらに封権制への深化を推進し時間の針を戻していた。
>>379
>>甘い蜜の中に毒を入れるようだ
そのあとに「錦に毒石をつつむに 相にたる物哉」」の一文が見事に抜け落ちてるぞ。
>>384
永禄10年11月7日に顕如が信長が上洛しようとするのを
祝福して太刀を贈ってるし(顕如上人御書札案留)
また同じ頃に朝廷からも上洛するようにと
同じ時期に勅使が来たと奥野高広氏が書いてるぞ。
万里小路惟房も勅裁が下された上は信長も
朝廷を早く馳走するのが肝要と言って上洛を促してるし。
そりゃあ近江はまだ信長領じゃないから御料所を信長は返還していないわな。
「わかりましたなんとかします」としか言えないわ。

斉藤家は美濃の御料地を返却してるから美濃で返却するところは、そもそも無いし。
そこまで言うなら美濃でまだ返却してない御料所を教えてくれればいいだけ。