【太閤への道】明るい豊臣秀吉【近世の開幕者】

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1人間七七四年
ここは、木下藤吉郎、羽柴秀吉、豊臣秀吉の機知、知略、軍略、政略を賞賛するスレです。
秀吉を嫌う人は、来ないでください。朝鮮および在日の方々は、このスレに来るのをご遠慮ください。

2人間七七四年:2010/10/11(月) 11:42:49 ID:8C1ynCHH
三木合戦で大量殺りくか 秀吉の助命説覆す報告書 

 三木城主・別所長治の自害によって羽柴(豊臣)秀吉が城兵たちの命を助けたとされてきた
「三木合戦」は、実は長治の命ごいがかなわず、大量殺りくがあった可能性が高いとの見解を、
大手前大学(西宮市)の小林基伸准教授(56)が発表した。三木市教委刊行の
「三木城跡及び付城跡群総合調査報告書」で明らかにしたもので、長治の自害と秀吉による
城兵の助命は地元で美談として伝えられてきただけに、新説は波紋を広げそうだ。(藤森恵一郎)

 小林准教授によると、これまでの定説は史料「播州御征伐之事」などの記述に基づくもの。しかし、
「播州‐」は秀吉の徳を顕彰・美化するため後代に書かれたとみられ、疑問が残る部分があるという。

 小林准教授は、秀吉本人が書状で三木城の落城後、ことごとく首をはねたと述べていることと、
織田方の武将宇喜多直家が秀吉の使者から「切腹した者以外を一所に追い寄せ、番を付け置いて
悉(ことごと)く殺す」との報告を受けていることに注目。秀吉の誇張を差し引いても「通説的理解とは
ほど遠い」とみた。

 さらに天正8(1580)年4月に、織田勢と敵対する石山本願寺の僧顕如が「(織田方への)抵抗を
続ければ、最後には有岡や三木同然になることはあきらか」と述べ、敗戦で六百数十人が
処刑された有岡城(伊丹市)の例を三木城と同列に扱っており、「ほかの全員が助命されたのであれば、
三木城の結末は有岡城に匹敵するほどの凄惨(せいさん)なものとして記憶されたか」と疑問視。
三木合戦の最終段階で「大量殺りくがあった可能性が高い」と結論付けた。

http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/0003226192.shtml
3人間七七四年:2010/10/11(月) 12:33:23 ID:B9VcI31T
>>2
あっ?この記事はバカか。
秀吉が虐殺をやったじゃなくて
信長がそう指示したと断定したと
書くべきだろ。
どんだけ秀吉嫌いの悪意の情報操作による誘導だよ。
4人間七七四年:2010/10/11(月) 12:51:00 ID:7EPkGlmW
嫌われるスレよりの転載
九州の島津らは南蛮貿易において鉄砲に使う火薬用硝石を手に入れるために日本人じょせいや童を売り払う奴隷貿易をやっていた。
また島津は九州全土で略奪して周り餓死者を大量に出し、博多を燃やし尽くした。
秀吉はその九州の悪魔を退治し奴隷貿易を禁止し博多を復興させて平和を作った功労者。
とてもじゃないが秀吉を悪く言うやつは理解できないな。
5人間七七四年:2010/10/11(月) 12:52:06 ID:7EPkGlmW
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6人間七七四年:2010/10/11(月) 12:55:21 ID:ZBF0CUq9
後半おかしくなった秀吉はこのスレではどう扱いになるかね
7人間七七四年:2010/10/11(月) 13:57:05 ID:iRP0L6kC
独裁者をキチガイになるまで放置してはいかんということだな
8人間七七四年:2010/10/11(月) 14:13:10 ID:7EPkGlmW
>>6
 太閤への道とありますので、暗黒化する前あたりが宜しいかと
9人間七七四年:2010/10/11(月) 19:28:06 ID:B9VcI31T
在日必死過ぎてワロタ
10人間七七四年:2010/10/11(月) 19:30:22 ID:FG/HW9Vu
うるさいなあ
11人間七七四年:2010/10/11(月) 19:38:11 ID:Eddeg9Zp
神一歩手前
12人間七七四年:2010/10/12(火) 21:44:44 ID:Beaf4aqc
謝罪しろ
13太閤:2010/10/13(水) 00:30:59 ID:BaO1dxik
朝鮮征伐してすいません
14人間七七四年:2010/10/13(水) 11:40:43 ID:yoPVM6Vi
世界のガンの朝鮮民族なんか一匹残らず絶滅させておけばよかったのに
15人間七七四年:2010/10/13(水) 11:59:11 ID:nbUWI80v
ついでに関西もまるごと絶滅させておけば良かったな
16人間七七四年:2010/10/13(水) 15:17:31 ID:nGVDXbpG
俺は関西人好き。
17人間七七四年:2010/10/14(木) 03:57:47 ID:7rqZWBUN
現在の皇室は織田氏、浅井氏、豊臣氏の血を受け継いでいる。

豊臣完子─九条道房─九条待姫─九条輔実─九条幸教─二条宗基─二条治孝─九条尚忠─九条道孝─貞明皇后─昭和天皇─今上天皇
18人間七七四年:2010/10/15(金) 08:04:09 ID:FiVgFgxD
豊臣完子

羽柴秀勝(秀吉の姉日秀の次男三好小吉)、浅井長政と市の娘・江(崇源院)の間に生まれる。徳川家光には異父姉にあたる。


豊臣完子─九条道房─九条待姫─九条輔実─九条幸教─二条宗基─二条治孝─九条尚忠─九条道孝─貞明皇后─昭和天皇─今上天皇
19人間七七四年:2010/10/28(木) 23:31:12 ID:E2sKqjpf
低い身分からのし上がった政治家=今太閤ないし○○の秀吉
の称号が与えられてるけど(有名なのは田中角栄)

村山富一や野中広務が
平成の秀吉って言われたことないよな?
20人間七七四年:2010/10/29(金) 12:14:46 ID:sfJkkYMK
今太閤しか聞いた事がないが
なんにしても羽柴○○秀吉とかはあっても、松平○○家康ってのは絶対にない
それだけ秀吉にカリスマがあるって事だ
21月孔雀:2010/10/31(日) 15:08:08 ID:XMrmZjeC
スレが伸びない。
太閤は今、人気ないのかな?
22人間七七四年:2010/10/31(日) 16:03:32 ID:KBDquTpO
みんなブラックな秀吉さんが好きなんです♪
23人間七七四年:2010/10/31(日) 16:09:25 ID:PefAkVTo
織田厨在日チョンがたくさんあった秀吉スレを荒らしまくって
秀吉好き住人を排除しまくって
秀吉関連スレは叩くためのスレ以外はほとんど落ちて消えたのよ。
このスレだって2週間前に立てられた新スレだし。
24人間七七四年:2010/10/31(日) 17:14:53 ID:armrq3Hc
まあ、秀吉の業績は近世日本にとって良かった事ばかりだと思うのです。
惣無事令、太閤検地、刀狩り、この3政策はガチで近世への扉を開く良政策でしょう。
25人間七七四年:2010/10/31(日) 19:10:58 ID:VP2ydFZ0
朝鮮出兵は賛否両論、秀次殺害は完全に失敗だった
26人間七七四年:2010/10/31(日) 19:21:24 ID:JvMz69CZ
少なくとも秀吉の時代の朝鮮出兵に賛はねえよ
27月孔雀:2010/10/31(日) 19:29:32 ID:XMrmZjeC
やっぱり、西欧に対抗して、船造るとか。
28人間七七四年:2010/10/31(日) 20:57:38 ID:PefAkVTo
秀次事件に関しても真相不明で
どちらが良い悪いは新たな史料が出てこない限り判断の下しようがない。
どちらか寄りの立場で判断するやつはバカ丸出し。
29人間七七四年:2010/10/31(日) 21:14:22 ID:armrq3Hc
問題は、関白による統治機構を破壊したことだな。
秀次事件以降の豊臣政権は、独裁者秀吉と五大老という巨大軍閥の連合体に成り下がった。
せっかく秀次のような凡庸な人物でも、政権運営が可能な体制を作り出したのに、我が子かわいさに
潰し、結果として徳川家康の政権奪取への道筋を作った点が残念でならない。
30人間七七四年:2010/10/31(日) 22:10:39 ID:2oDD/DJQ
刀狩りは不完全
検地はどこでもやってる
惣無事令レベルのは他になかったっけ
>>23
秀吉を戦前史観で見てるやつって脳内が大日本帝国でしょ
31人間七七四年:2010/10/31(日) 22:43:04 ID:PefAkVTo
>>30
チョンさんこんにちは
32人間七七四年:2010/10/31(日) 23:10:30 ID:2oDD/DJQ
>>31
そうやってアンチを全員レッテル貼って差別的な傾向あるから駄目なんだよネトウヨが。
検地なんて戦国大名なら誰でもやっていて秀吉より半世紀前の義元ですらやってるわ。
刀狩りは不完全。
33人間七七四年:2010/10/31(日) 23:52:20 ID:VP2ydFZ0
>>28
真相がどうとか言うよりは>>29の言うとおりせっかくの譜代政権構造を潰して外様の連合政権にしたのは余程の理由でもない限り愚行といわれとも仕方ないだろ
それこそ秀次が秀吉に対して謀反を起こそうとしてたとかならともかくなあ
34人間七七四年:2010/11/01(月) 00:25:30 ID:GVn427rJ
秀次は存在自体が謀反みたいなものだろう。秀頼誕生後の秀吉にとってはな。
35人間七七四年:2010/11/01(月) 09:09:18 ID:B4dicjVd
身内を殺す戦国大名多し。
応援上げ
36人間七七四年:2010/11/01(月) 14:13:35 ID:vEHunIsQ
譜代政権構造を破壊?
もともと秀吉がやってた地位を秀次に与えてたのを
秀吉が取り返しただけで構造改革なんてやってない。
本当に無罪ならあんな大規模な粛清やら地方流しは有り得ない。
だいたい秀吉が悪いって話はだいたい最上や伊達が謀反に協力するわけがないって主張してるだけで、
この話自体が政宗をかばう為に無理やり持ち出してきた論理。
秀次が毛利や伊達などに金を貸して恩を施していたのは事実で
実際には政宗の場合は物証まで出され、言い訳不可能で
家康に相談してアドバイスをもらってから秀吉の使者に落涙して土下座してる。
秀次が挙兵した場合は本能寺の変の信長のような可能性に発展する可能性もあるから油断してるような間柄じゃない。
秀吉が悪いから秀次が可哀想みたいな論理は明らかに誘導だわ。
37人間七七四年:2010/11/01(月) 14:26:22 ID:lUgRscKA
少なくとも秀次を後継者と一度は秀吉は定めてるんだから秀次がそういう政治活動するのは当然だろうよ
秀吉が実子生まれたからそれを後継にしたいって言うのは私情でしかない
少なくとも地位権力は玩具みたいに与えたり取り上げたりしていいものじゃない
38人間七七四年:2010/11/01(月) 15:08:50 ID:B4dicjVd
秀頼が産まれ育ったことが、豊臣家の滅亡に繋がったようですね。
39人間七七四年:2010/11/02(火) 08:50:24 ID:7m9gZelf
>>21
そもそもこのスレ自体がキチガイ朝鮮人の立てたネタスレだから。
40人間七七四年:2010/11/02(火) 10:40:27 ID:N9fAlI8P
↑キチガイとやらが立てたスレをわざわざ覗きに来て
何か一言言わないでは済まないキチガイ日本人
41人間七七四年:2010/11/02(火) 19:33:37 ID:JH76Q33L
秀吉を貶したくて仕方がない
まで読んだ
在日チョンは相変わらず必死だよな。
42人間七七四年:2010/11/02(火) 23:35:13 ID:7m9gZelf
>>40
キチガイ登場w
43人間七七四年:2010/11/03(水) 00:15:12 ID:opj9VuZs
と、キチガイ再登場www
44人間七七四年:2010/11/03(水) 22:09:36 ID:oHtHylR9
煽る事さえただ鸚鵡返しするだけとは、さすがチョン。
45人間七七四年:2010/11/04(木) 11:15:15 ID:rpf2AdOy
うるせえよ関西人
46人間七七四年:2010/12/11(土) 18:01:21 ID:JU0z9oo2
豊国大明神万歳
47人間七七四年:2010/12/11(土) 18:13:52 ID:Fbumpij3
秀吉は世界史的人物
48人間七七四年:2010/12/12(日) 10:38:56 ID:ivJ1LVQQ
明るい秀吉と言うか、死ぬまで超熱血な秀吉ならなんか見てみたい
熱血にチョンを完全に地球上から駆除する秀吉とか。
49人間七七四年:2010/12/12(日) 11:06:28 ID:NkFakL2T
>>48
う〜ん残念ながら秀吉は明の奴隷の朝鮮を解放し
朝鮮を支配し朝鮮民を奴隷にしていた両班貴族を懲らしめ
朝鮮の領民を救おうとしたから真逆な行動をしてしまったんだよね。
まさか秀吉もそこまで朝鮮民がキチガイだったのは気付かなかったんだろうね。
でもまあ現代の我々は様々な歴史的教訓を得たよ。
50月孔雀:2010/12/12(日) 12:13:33 ID:CrDGZmX0
現代に応用して、韓国・北朝鮮に、日本は勝てるのか?
51人間七七四年:2010/12/12(日) 13:04:48 ID:kOOZzloW
>>48
ここはキチガイアンチが立てたネタスレ。スレタイもそういう事。
52月孔雀:2010/12/18(土) 11:05:11 ID:SCt4tXM8
今度の大河「江」で、太閤さんは、どう描かれるか?
53人間七七四年:2010/12/22(水) 16:11:40 ID:px25ikQS
>>52
原作小説を見る限りでは、愛に狂うおっさんってかんじ。
お市に惚れて何とか好意をもってもらおうとするが、
やってる事といやあ、お市の夫を殺し、義理とはいえその幼い子を殺し、再婚先の相手まで殺しまくると。
で、淀たちをおしつけられたときも「手をだすなよ猿。」と念をいれられ、これまた悶々の日々。
結局淀がほだされてラブラブだから近年ではいい扱いにはいるんじゃないかな。
そのかわり へうげもの がNHKでアニメ化されるというから、そこで思いっきり
黒い秀吉が大活躍されるでしょう。
54人間七七四年:2010/12/23(木) 08:23:46 ID:0dUf5paq
天地人であれだけ家康を黒く描かれたのだから
いたし方ないでしょう
家康ファンとすれば怒りでブルブル震える内容ですし
55人間七七四年:2011/01/04(火) 21:02:34 ID:PJ0+R0rn
いや黒いだろ史実のがw
56人間七七四年:2011/01/04(火) 22:18:26 ID:F86kA+lp
でも今年は主役の義父なので白く描かれます
57人間七七四年:2011/01/07(金) 15:37:25 ID:7ABvxram
信長、秀吉、家康。
黒い話の無い方などいません。
戦国は今日もよい黒さです。
58人間七七四年:2011/01/16(日) 19:51:15 ID:1e9zquuj
29様、おっしゃるとおり。
あなたは真に聡明なお方でござりまするな。

出来が悪いからといって排除すると一族崩壊に
つながるのは豊家をみても分かります。
豊臣秀次は出来は悪いかもしれないが、
生きておれば、豊臣家、武将は、こぞって
次をかばったであろう。そうすると
家康は天下を取るのにさぞ、困ったことであろう。
59人間七七四年:2011/01/16(日) 20:24:23 ID:QXqiwvvD
逆に秀吉がまだいつ何があるかわからないと感じていたっていう裏返し
無能では豊臣家はもたないと。秀頼は3代目でもいいわけだし
60人間七七四年:2011/01/16(日) 22:24:51 ID:sxp49BvX
>>30
秀吉以前の検地は自己申告制だから
太閤検地とはまたべつものでは?
61人間七七四年:2011/04/07(木) 19:47:47.40 ID:QdlC9MEw
秀吉が努力の人とか言ってるバカがいて驚愕したわ…
兵法は詭道という言葉を知らないのだろうか
62人間七七四年:2011/11/16(水) 13:52:30.69 ID:n87jBTlU
近世というのは学問上の分類であって、別に文明が進んでいるとかそういった意味はない。
63人間七七四年:2011/12/03(土) 11:56:45.02 ID:8ZWIuxsY
今の時代で一番秀吉に近い人って孫正義なのかな?
個人的に竜馬よりも秀吉の方がイメージにあっているし
お互いに「禿げ」って言われてたし
64人間七七四年:2011/12/03(土) 12:59:38.27 ID:6Qy60Fkc
>>63
確かに共通点多いな
「農民のくせに」「在日のくせに」と蔑れてるあたりも。
目立つ事も好きだよね。かたや黄金の茶室、かたやホークス優勝時の胴上げ参加とか
65人間七七四年:2012/03/03(土) 11:53:58.19 ID:TE2YPdzM
最近、山田邦和氏が秀吉が征夷大将軍になろうとしたのは事実ではないかと唱えている
66人間七七四年:2012/05/12(土) 03:51:20.45 ID:+EvAnCCm
保全
67人間七七四年:2012/05/12(土) 03:55:17.54 ID:b/WuevvU
太閤さんの偉いのは、戦国時代を終わらせたことでしょう。
68人間七七四年:2012/05/12(土) 03:59:09.64 ID:a1Oasuu2
孫は在日パチ・闇金成金の息子だぞ
おまけにアメリカと結びついてる可能性まである
秀吉と一緒にするな
69人間七七四年:2012/05/12(土) 09:16:17.71 ID:gcWAO0CT
そりゃそうだw
太閤殿下は外国の脅威から日本を救った英雄
70人間七七四年:2012/05/12(土) 09:28:03.16 ID:b/WuevvU
「江」を観てたけど、秀吉さん死んで、つまらなくなった。
家康を美化しすぎだった。

家康は飾りで、実質は天海が有能だったわけよ。
そういえば、天海出てこなかったな・・・

71人間七七四年:2012/05/14(月) 20:13:33.64 ID:RLlht0cO
見た目ど真ん中ストライ〜クのソープ嬢を妊娠させたくてたまんねぇ
嫁にして子供産ませてぇ〜
72人間七七四年:2012/05/23(水) 20:13:29.17 ID:uOFjeZwl
>>18の他は高台院の子孫しか残っていないんだよな
73人間七七四年:2012/05/24(木) 13:11:55.86 ID:9GwopVoY
太閤さんの功績は検地によって中世の
複雑な権利関係をご和算にして税制を簡略化した事だとオモ。
そして侍=役人の図式化を定着させ、階級としての侍を無力化
した事だとオモ。
百姓がパートで侍の従者になっても身分上は雇用期間中は侍。
(例 伊藤博文)
戦国の頃は地侍で現在でも勢力をもち、一応二本差してるけど
身分上は百姓(例 土方歳三、奥羽の大地主本間家)
74人間七七四年:2012/05/27(日) 20:50:28.03 ID:qiO9ryYh
秀吉はもっと評価されていい
75人間七七四年:2012/05/27(日) 21:22:07.59 ID:INMFHHis
秀吉なんて信長より遥かに過大だろ
織田家臣だから版図拡張できただけ
芦名家臣だったら金上盛備レベルにもなれたか怪しい
76人間七七四年:2012/05/28(月) 02:27:08.69 ID:4NpXCqls
秀吉は織田家でもっとも無能で暗愚の将とされてる織田信雄よりも戦下手

信雄家臣の木造親子や吉村氏吉に大敗した。
77人間七七四年:2012/05/28(月) 02:32:32.12 ID:27GWEG9m
自分が織田家にした仕打ちを家康にやられた秀吉。
因果応報という言葉がこれ程しっくりくるのもめずらしい。
78人間七七四年:2012/05/28(月) 20:30:19.77 ID:4lp7fMbE
秀吉の場合やられてしまえる状況を自ら作り出したからな
79人間七七四年:2012/05/30(水) 03:01:59.91 ID:DJ0+mGl3
歴史ヲタになって三大英傑の中で一番イメージ違いが秀吉。
陽気で人なつっこい人というイメージだったけど残酷な一面
は驚いた。
ある意味信長以上に残酷だと思う。
どこか陰湿な根深い闇を感じさせる。
80人間七七四年:2012/05/30(水) 03:05:05.15 ID:TyMgyv4p
>>79
フロイスの史観に騙されちゃいけませんよ
81人間七七四年:2012/05/30(水) 13:00:46.64 ID:DJ0+mGl3
フロイスの記述以外にわんさかあるべ。
82人間七七四年:2012/05/30(水) 19:42:19.04 ID:mPOgrTS2
「日本側の史料にない」っつっても、秀吉が怖くて書けんだろうしなぁ。
死んだ後は死んだ後で嫌なことは忘れようとするだろうし。
83人間七七四年:2012/05/30(水) 22:23:12.50 ID:VVq+9unu
徳川の御用学者にとっては格好のプロパガンダ材料になったはずだが?
84人間七七四年:2012/05/31(木) 09:11:33.79 ID:k/Epx6tF
秀吉が手中にした織田版図は信長の最大版図より小さく、反織田勢力は信長最晩年当時より威勢を回復させている。
なのに秀吉はあれだけの絶対権力を行使できたのだから、信長が暗殺されてなかったら、どんだけの凄まじい権力者になってたのか。
まさに神の領域。
85人間七七四年:2012/05/31(木) 14:58:00.05 ID:DLyd8U1X
毛利…懐柔済み
宇喜多…秀家を人質をいれ小牧長久手時には援軍1万も派遣するなど完全に従属
上杉…完全に味方で佐々・徳川と争う

四国の十河・河野ら反長宗我部勢力、九州の大友、関東の佐竹
対柴田戦でも稲葉・信雄・勝豊が味方で不破・前田・金森も撤兵
小牧長久手だと伊勢の信包・神戸・関らが味方で南伊勢は木造以外ろくな抗戦勢力なし
おまけに家康が対上杉と北条の変心恐れて8000しか兵力つれてこれない状況

こんな糞イージーモードなら毛利輝元レベルでも天下統一できる
86人間七七四年:2012/05/31(木) 15:02:03.53 ID:vKp/KXwq
秀吉が天下(形だけ)取れたのは光秀や信長が馬鹿だったおかげ。
信長が愚行を繰り返し謀反だらけで寡兵の光秀に瞬殺され、光秀もまんまと反逆者の汚名被ったから味方多く集まっただけ。
87人間七七四年:2012/05/31(木) 15:03:43.16 ID:JxQ2bp5v
圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。
別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
88人間七七四年:2012/05/31(木) 15:05:43.31 ID:80/z4x+G
家康始め諸大名。あんなもん形式的にしたがってるだけでしょ
いわば実力のない公家や公方とかに形だけ頭下げてるのと同じ。
信濃では小笠原、木曽、真田が秀吉に帰属し家康の支配はわずか3郡
石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見した状況で
母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる


圧倒的兵力差があった上に秀吉の敵対勢力の敵を利用してん寝返らせたから屈服できただけ。
上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争いその後も川中島〜安曇・筑摩・小県方面に積極的に出陣し
徳川方勢力と交戦。85年の上田城攻めにも援軍を派遣した。毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。
宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河、三好や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った
木曽、小笠原、真田等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用したから勝てただけ。

単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
89人間七七四年:2012/05/31(木) 15:06:53.88 ID:KI66OHD/
※秀吉失態集※

・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる

90人間七七四年:2012/05/31(木) 15:18:00.19 ID:xE4gHGaQ
秀吉は天下など取っていない
表面的に諸大名を従えただけ
公家なんかと同じ
91人間七七四年:2012/05/31(木) 15:19:30.32 ID:7OMFNicY
秀吉の三大デタラメ

○秀吉は城攻めがうまい→デタラメ。松ノ木・三木・戸木・長久保・韮山・鳥取など大苦戦
圧倒的資金力と人心掌握と大規模軍隊が必要な水攻めや兵糧攻めや降伏勧告で楽に勝ってるだけ

○秀吉の一夜城→一次資料にない太閤記のデタラメ

○秀吉の中国大返し→事前に兵糧・街道確保など準備してたからできただけ
         
92人間七七四年:2012/05/31(木) 15:20:48.84 ID:MUVCR71P
葦名、佐竹>田村>伊達>相馬、白川、最上>石川、二階堂>猪苗代>大崎、葛西>>>>>>>>秀吉

織田家中でいえば
柴田、滝川、明智>佐々>佐久間、丹羽、細川、森(父)、蜂谷、稲葉>原田、川尻、日根野、金森、前田、池田
>>>>>>>>>>>秀吉
こんなもん

長久手の戦いは単なる局地戦ではなく天下を揺るがす大事件だったのは
戦いの後京で数日間騒乱が起きた事や丹波の赤井氏など国人が蜂起している事
それまで短期決戦一辺倒だった秀吉が一転して楽田周辺の施設を堅固に普請させ
長期戦の構えをさせてる事からも一目瞭然
池田親子に加え、ねねの親類の木下兄弟・森長可他1万人戦死

結局あの戦いの後も木造、奥、松の木、蟹江など各城郭で苦戦、敗戦して
結局84年一杯使いながら兵力比7倍で尾張口すら突破できないとか
弱いにもほどがある
しかも相手は家康ではなく織田家で最も無能かつ権力もクソ弱い信雄とその領国
ちなみに捏造でいえば信長や秀吉の方が遥に酷い。
83年に滝川が降ってない時期にもう城を明け渡したと嘘ついたり
84年に伊勢南半分すら完全には平定してないのに伊賀伊勢全て平定したと言ったり
紀州の敵勢が攻めて撃退しただけなのにもう既に国内に攻め込んで多数討ち取って平定目前だと言ったり
尾張の小幡城にノータッチなのに2の丸まで攻め落としたと言ったり奴のいう戦果は滅茶苦茶
秀吉が外様大名系にいう戦果ははじめから嘘っぱちと疑ってかかった方がいい。

徳川が捏造したなどとアホみたいな妄想を毎回語る馬鹿は消えろ
長篠の戦いも本当は武田圧勝だったけど徳川が捏造して織田徳川圧勝だったとかそういう話でもするか?


93人間七七四年:2012/05/31(木) 15:22:15.21 ID:4imG03Im
豊臣軍135000が、織田家で最も無能な信雄&寝返りばかりで権力ガタガタな22000相手に敗走、大苦戦。
戦国最弱の豊臣軍。
94人間七七四年:2012/05/31(木) 15:23:58.33 ID:KmlA3avZ
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。

実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない

95人間七七四年:2012/05/31(木) 15:39:27.51 ID:KmlA3avZ
秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。
この状況で前田が兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。
96人間七七四年:2012/05/31(木) 17:21:01.51 ID:iQGROfEN
秀吉は暗愚の凡将織田信雄より戦下手。
信雄家臣の吉村・木造などに大敗した雑魚
97人間七七四年:2012/05/31(木) 17:55:12.50 ID:iQGROfEN
秀吉は軍事的才能が致命的に欠如していたんだろうな

この戦いに限らず常に圧倒的大軍で寡兵の敵に敗走、大苦戦、大損害。

織田兄弟で最も無能な信雄ごときに苦戦する雑魚はそうそういないだろう。

信雄がもう少し基盤の強い土地で防戦できたら秀吉は蟹江あたりで戦死してたんじゃないか。
98人間七七四年:2012/05/31(木) 17:59:00.93 ID:PCdiFIr/
秀吉がまともに戦って勝った戦なんて一つとしてねえよw

九州征伐では22万もの圧倒的動員で4万の島津軍に大敗したけど
途中で風向きが運良く変わって島津軍の兵士の目に砂ぼこりが入った上に
島津方の諸将が後ろから家久・豊久軍を急襲したから勝てただけだし。

秀吉が天下とったとか徳川時代の講談にしかないし後世の創作だろう。
99人間七七四年:2012/05/31(木) 18:06:53.58 ID:YgZncF8Y
関東でいえば
佐竹>里見、大田>厩橋北条 後北条>壬生、由良、水谷、結城>佐野、成田、皆川
>深谷上杉>小田>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
100人間七七四年:2012/06/01(金) 08:24:01.35 ID:vp+u21JC
だがさんの御用スレ
101人間七七四年:2012/06/01(金) 13:50:11.22 ID:o0HmGSur
中国口でも戦国最弱の雑魚毛利相手に連戦連敗
宇喜多は簡単に撃退した毛利に秀吉軍が加わったら簡単に美作から駆逐されるゴミ
但馬〜因幡〜備中あたりは寝返りばかりで助かっただけ
102人間七七四年:2012/06/01(金) 16:11:54.46 ID:DRYqcMjb
信長・家康・謙信・信玄など力のある武将に対しては土下座外交しまくり
良好な関係築く事を重視した氏政が秀吉に歯向かったのも秀吉が雑魚な証拠
ただ徳川や伊達が敵になってしまったのは予想できなかった。運が悪かったな
103人間七七四年:2012/07/04(水) 22:33:17.99 ID:FZjflDH3
age
104人間七七四年:2013/02/20(水) 15:05:27.83 ID:RVgvW81a
昔は大人気だったのに、チョンのせいで最近のTVでは極悪人にしかかかれない
105人間七七四年:2013/02/20(水) 15:06:20.81 ID:wE1Ty/nJ
秀吉は朝鮮なんかよりむしろ国内でやったことでドン引きされてるんですがそれは
106人間七七四年:2013/02/20(水) 15:17:50.30 ID:RVgvW81a
現代の基準で残虐でない大名なんておらんだろ。残虐さが嫌いなら戦国大名なんかに興味持つなって
戦下手に天下取られるなんて、まさに戦略は戦術に勝るってとこだな
秀吉以外は喧嘩が強いだけのアホだらけだったって事だ
107人間七七四年:2013/02/20(水) 15:22:20.97 ID:3yKiHZr7
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
108人間七七四年:2013/02/20(水) 16:20:03.48 ID:D74u3snq
何と言おうが天下人になったのは厳然とした事実。全国の一般庶民、特に京周辺の民は歓喜してます
109人間七七四年:2013/02/21(木) 00:12:46.96 ID:q/CsFKg0
運も実力のうち、世間が求めるのは結果

実力重視の信長に目をつけた選球眼の良さが第一歩
そして実力重視でリストラばんばんやってた信長の秀吉優遇っぷりは、
秀吉がそれだけ有能だった証拠

他の大名は最初から地盤があったのに、農民出というハンデを克服したのは異常
キリスト教の廃止、刀狩りと政策も良いことしてくれたわ
110人間七七四年:2013/02/21(木) 00:26:22.46 ID:FkALWTwt
そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)

津田や木下は織田家の親類衆でしょ。
秀吉は親類だから公記での初登場でも
すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが
その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が
氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。
完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり
美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
111人間七七四年:2013/02/21(木) 00:27:08.84 ID:FkALWTwt
圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。
別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
112人間七七四年:2013/02/21(木) 00:27:30.64 ID:FkALWTwt
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)

尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
113人間七七四年:2013/02/21(木) 00:27:51.10 ID:FkALWTwt
※秀吉失態集※

・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
114人間七七四年:2013/02/21(木) 00:28:31.59 ID:2JG40MkZ
豊臣軍135000が、織田家で最も無能な信雄22000相手に敗走、大苦戦。
戦国最弱の豊臣軍。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒した
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。

>>243
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
115人間七七四年:2013/02/21(木) 00:29:09.99 ID:FkALWTwt
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)

秀吉は譜代いまくりでしょ
尾張衆の前野・蜂須賀や加藤や長浜衆一杯で叩き上げ武将だらけ。
譜代衆だから外様に大封やったんじゃなくてただ単に他力本願でなあなあな同盟みたいな関係で
トップにたっただけでいわば公家とか朝廷みたいなもんで武力で押さえつけたわけじゃなく
そんな力秀吉にはなくて上杉毛利宇喜多木曽小笠原石川水野佐竹十河河野大友佐竹芦名真田等
敵勢力の敵が味方をしたから成っただけのハリボテ政権だから崩れさっただけ。
大体家康なんて天正12年初頭の徳政連発・木曽小笠原石川水野真田とそれによる軍事機密露見・天正大地震
による領国崩壊でめちゃめちゃな状況なのに これで母や妹人質に出す程雑魚なんだからどうしようもない

秀吉が過大評価されるのは徳川時代の太閤記とか豊臣秀吉譜等の糞講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。

実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない

秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。
この状況で前田が兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。
116人間七七四年:2013/02/21(木) 00:30:08.66 ID:2JG40MkZ
秀吉が統率87なら他の有力大名なんか200か300くらいないとおかしい
何せ雑魚に蹴散らされる事で有名な信雄・氏政・輝元の日本三大凡将に大敗したレベルだし
秀吉が城攻めうまいってどこから出た話なんだろうな
大嘘もいいとこなんだが。
松ノ木・戸木・三木とかめちゃめちゃ苦戦してるし
小田原1200程度に手も足も出なかったレベルなのに

秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ

家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反とそれによる領国軍事機密露見と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
117人間七七四年:2013/02/21(木) 00:32:07.46 ID:2JG40MkZ
秀吉は暗愚の凡将織田信雄より戦下手。
信雄家臣の吉村・木造などに大敗した雑魚


秀吉は軍事的才能が致命的に欠如していたんだろうな

この戦いに限らず常に圧倒的大軍で寡兵の敵に敗走、大苦戦、大損害。

織田兄弟で最も無能な信雄ごときに苦戦する雑魚はそうそういないだろう。

信雄がもう少し基盤の強い土地で防戦できたら秀吉は蟹江あたりで戦死してたんじゃないか。
118人間七七四年:2013/02/21(木) 00:34:13.20 ID:FkALWTwt
大友や宇喜多に蹴散らされまくった雑魚輝元に敗北した秀吉w

史料総覧  毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
【管理番号】020100216456
【編/冊/頁】10編911冊179頁
【綱文和暦】天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、

晋叟寺文書
天正6年8/21
今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下

荻藩閥閲禄巻91林平八
敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判

巻115の2湯原文左衛門
桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 
輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少
如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉
去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉
去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉
去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状
一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉
態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元
去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略  昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
119人間七七四年:2013/02/21(木) 00:35:03.08 ID:FkALWTwt
秀吉って鉄砲の名産地長浜を根拠とし、その後も富裕地を領国としてるから
経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに
こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな
秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。
何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな
しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や大損害を重ね、天下失った凡将w
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には
芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。
家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。
中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める
あと秀吉は中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだが
ここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる一柳直末にあてた書状から明らか。


皆もいってるけど単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う
野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる

あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、
南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると
夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより
秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手にこの醜態ってw
120人間七七四年:2013/02/21(木) 17:05:21.95 ID:ZKD2zQw0
こんな一行すら読む気になれない書き込みもめったにないな
121人間七七四年:2013/02/24(日) 10:43:05.51 ID:APGWmK2W
去年の5月くらいからだよね、この子。
たまにレス返してきたりもするから、
実際自分がやってる事がどういう事なのか良くわかってない。
完全な本物。
122人間七七四年:2013/04/03(水) 12:38:25.96 ID:PGT+SAK6
秀吉「ワシほどの大偉人ともなると悪質なストーカーの一人や二人しかたないw
っというか少ないぞ!もっと仲間を連れてきて盛大にファビるがよい、カカカ1」
123人間七七四年:2013/06/27(木) 15:32:00.50 ID:pmVJsRAu
まぁ在日とチョンは嫌いだろうね。
有る意味一番わかりやすいw
124人間七七四年:2013/06/27(木) 16:03:37.98 ID:IJHq4PeZ
在日が一番嫌いなのは秀吉
その次に嫌いなのが秀吉を従えていた信長
家康は意外と好かれていたりする
125人間七七四年:2013/06/28(金) 09:54:32.50 ID:uuANiG8e
いや秀吉の業績は全部、
信長から考えていたことで、
全て信長がやろうとしていたことを盗んだだけって論法で
秀吉を貶しているので、
在日は信長がむちゃくちゃ好き。
しかも信長なら半島侵略じゃなくて、
大航海時代みたいな進出で各地に日本街を作り、
家康みたいな鎖国もせずに貿易立国していたとか妄想するからな。
在日は家康の場合は好きなんじゃなく、秀吉を貶すツールとして利用してるだけ。
126人間七七四年:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN ID:txnPkwOI
信長は日本人を女子供問わず数十万人虐殺したから半島では人気ある。
家康が人気なのは中国。
秀吉は中国も半島人も大嫌いだしね。
127人間七七四年:2013/07/27(土) NY:AN:NY.AN ID:1dmCtmCl
信長体制とは無政治無内政体制ともいうべきもので、とても国家の体を為してない
単なるあらっぽい下克上大名のレベルからの昇華は認められない。
それに家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成がなされていないからこそ生じた問題であろう。
それを武篇道の督励で対応しただけの蒙昧ぶりが信長。
信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
信長は分国法すら作る知識も能力も無かった。
また甲州の治水技術は関東開発に役に立ったが織田は治水をやらないために後世に残る織田治水などは一切残らなかった。
秀吉が治水をしているのも田畑開発、水害防止、大坂から京への海上経済通商政策を理解しているから。
兵農分離の先駆けは天正13年卯月22日付けの秀吉朱印状が嚆矢。
紀州の雑賀・根来を討ったときに刀狩りを命じていて
その際に頭領の者を選んで皆殺し、平百姓は許すと書いていて
明確に兵と農を区別して国人指導層を殺し、武器を没収して完全な農民にしている。
これにより専業武士と農民が区分けされ秩序が生まれ国内は安定を迎えた。
信長にはそういう思考はなく皆殺しの撫で切りや根切りや磔など残虐な極刑による地域消滅政策。
秀吉は農村の生産力確保維持政策が基本にある。
秀吉の平和安定のための物流革命と言えば、信長死ぬや早くも
天正10年10月には京の出入口に設けられていた関所を廃止し(禁裏領率分関)、
信長のやり方の否定を開始し、次々と経済振興策を繰り出し始め、
ついには「公家武家地下商人に至っては諸役を止め、座を破らる。
これに依りて悦ぶ者多く悲しむ者少なし」などと秀吉の政策は激賞され、
「日本国の諸役、京のみいり(関銭)、兵庫の関、津々役儀かくのごとく往古より有り来る役さへあがり候処」と宣言し昔からあり続けた税の免除を開始。
「日本国諸役悉く上げ申し候処」
関所や港で商品にかける役銭をはじめとして日本国中のすべての役の賦課権を没収するまでに至り、空前の活況を示した。
信長のもとで関所や座の組合が経済活動を押さえ付けていたが(薄と言う公家が牛にまで税を賦課していたのも秀吉が完全廃止した)
これにより自由往来と自由通商が可能となり瀬戸内海から伏見〜京への河川流通網整備のため大河治水が開始された。
これが桃山文化と呼ばれ日本各地で城下町が整備され、
日本史史上最も派手で豪勢な時代と言われている。秀吉の下、インフラ整備と経済活況化への資本投入による民心安定策である。
さらに秀吉は太閤検地と身分法令において人口戸籍まで作らせて言わば国政調査をしている。
例えば伊達が朝鮮出兵で飛ばされている間を狙って石田豊前守にやらさせたりしてる。
また朝鮮出兵は看羊録によれば国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ
戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。
また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。
128人間七七四年:2013/07/27(土) NY:AN:NY.AN ID:1dmCtmCl
秀吉は帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し
大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで
戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。
〜キリシタンはさらに悪質で領主層を惑わす〜と秀吉は書状に書いている。
秀吉が給付した領地の主人は変更することはあるが、其の地の農民の移動はない。
それなのにキリシタン大名が秀吉の許可も得ずに領地の寺社を勝手に燃やしたり略奪するのは許されない。
宣教師の企みを喝破できたのは日本の中でいまはまだ私だけだ」と言っている。
信長のようにただ単に興味本位で珍しい新しい物好きで宣教師を厚遇してるバカとは違う。
また高山右近が高槻に続き転封先の明石で寺社を破壊してたのを施薬院全宗が秀吉にチクったことで
激怒した秀吉が博多でポルトガル人の奴隷売買を糾弾したり、
牛馬は人間に仕え有益な動物なのになぜ食べるのか?と言ってたが、
(秀吉の基本思考・・・ポルトガル船でも純粋な交易のためなら寄港するのも問題なし、
秀吉から2000貫以上を給付される者がキリスト門徒になる場合は自分の許可を得よ。
それ以下の者の場合、日本の宗派は八宗あるが、キリスト教が加わり九宗になっても大して変わらんから
信教の自由は保障し何を信じようが構わない。但し、秀吉から給地を与えられた者が、権力を以って
庶民にキリスト教信者になることを強制したら罰する。)
小田原城を降伏に追い込み奥州仕置きをしようとする秀吉は
天正18年8/10に関東にも刀狩り令をだし、その中において
人を売買することを禁止し、天正16年以来で人を売買した者は
すべて返却するように命じ、売る者も買う者も処罰すると宣言している。
このことから高利貸しが政権運営する北条が滅亡するまで頻繁に奴隷売買をしていたことがわかる。
信長のような蒙昧暗愚の暴君と秀吉の差は天地の開きがある。
重商主義的・帝国主義的な植民地化がすでにフィリピンにまで押し寄せている中で
秀吉のみがキリシタンの野望を喝破し、逆に朝鮮への遠征を行うことで
日本の武威を知らしめ、陶工などを連れ帰り現在に至る名産品を生む。
秀吉は明確に日本人民の安全を謀り世界に対する武力誇示と同時に
国内混乱要因の武士層のストレスを解消させる政策を実行(神風連の乱や西南戦争を見れば明治政府の武士への扱いの苦心もわかる)
129人間七七四年:2013/07/27(土) NY:AN:NY.AN ID:1dmCtmCl
池上裕子氏 〜信長は人的破壊者〜
信長は多くの人を殺害した。
そして「鬱憤を散じた」というのである。
異常に感じるほど残忍なやりかたが多かった。
それでも敵対者は次々と現れ必死に戦った。
戦功を積み重ねても、謀反の心を持たなくても
信長の心一つでいつ失脚するか抹殺されるかわからない
不安定な状況に家臣たちは置かれていた。
一門と譜代重視のもと、譜代でない家臣には
より強い不安感があった。
独断専行的で、合議の仕組みもなく
弁明・弁護の場も与えられず
家臣に連帯がなく孤立的で、
信長への絶対服従で成り立っている体制が
家臣の将来への不安感を強め、謀反を生むのである。
領域支配には譜代と家長権を振るえる子供や弟の登用が中心になる。
自分のそばにいて手足のごとく動き、あるいは自分の意を体して
各地に赴く者たちも譜代であった。
信長の政権の基盤は一門・譜代にあった。
長住は信長の怒りを買って越中を追われ、二度と戻ることはなかった。
もう用済みだったのである。
一度でも失敗すれば、それを理由に存在を否定される。そのようにして国人層の多くが命脈を絶たれた。
130人間七七四年:2013/07/27(土) NY:AN:NY.AN ID:1dmCtmCl
平安な世になっていたのに、
己が野心家の為にいたずらに大乱を起こした奸臣が家康だろ。
なんせ家康には大義がない。
豊臣政権の家臣同士の争いとか事実の歪曲をしているが、
そもそも本当に大老筆頭として豊臣を守る為に反乱を鎮圧しようとしたなら、
輝元や三成らに対抗して、
新5大老5奉行制を宣言して、豊臣政権の枠組みを守ろうとする大義名分を用意するのが当然だし、
最悪でも戦後に前田や小早川あたりを大老にして、
武断派からも奉行を出す有力者連盟による公論制は護持するのが筋だが、
家康のやったことは政権の枠組みの破壊しかやってない。
明らかに専制独裁→簒奪の流れがみえみえw
131人間七七四年:2013/07/28(日) NY:AN:NY.AN ID:p2oU5dfS
アスペルガーだがとは?

だがの信条
 嘘も言い続ければ本当になる

生息地
 HOST:ntaich063200.aich.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp
 愛知県安城市
 これによりSubと同一人物であることが判明

レスの特徴
 @織田信長や織田家を蔑むレス
 A武田信玄や武田家を讃えるレス
 B協調性の無い自己顕示の強いレス
 Cスレを荒らすための煽り挑発が著しいレス
 D「織田厨」という言葉を連呼するレス
 E自作自演一人芝居しているレス
 F嘘と偽りによる妄想レスでソースは一切無し

レスの戦術
 かまってちゃんのため相手をしてくれる人をコピペ爆撃で燻り出し発見次第にスレ荒らしを展開

戦国板三大事件
 上洛スレ64の自演自爆事件
 64検証スレの歴史改変事件
 歴ゲー板の創造・天道の屈辱

信野暮の武将FILEから戦国時代の知識を獲得
だがの主観により事実を捻じ曲げて覚えたため日本の教科書を排撃
平日休日関係なく24時間2chに常駐して見えない敵と永遠に戦い続ける
132人間七七四年:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:yVSc22/N
織田厨の自演だろ。下記のレスであからさまにバレたじゃんw



>>(天下ハ朝倉(義景)殿持給え。我ハ二度望ミ無」ト起請ヲ書給ひて、無事ヲツクリて岐阜ヱ引給ふなどとデタラメをデッチ上げている
武田厨を装い、キチガイ爆撃コピペをして荒らしまわっていたが、ついに織田厨チョンの顔を現したかwww
133人間七七四年:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:76pfUdnd
>>130
能力ある人がトップになるべきだと思うよ
134人間七七四年:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:ABZ/PY4X
能力0の棚ボタ天下トリオが信長秀吉家康の三馬鹿アホ
135人間七七四年:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:qmqi1UWe
>>134
棚から落ちたぼた餅が手に入るように努力したのがその三人で、
棚にぼた餅があるのを知ってたのに、そこまで行くことさえしなかったのが武田信玄。
遠すぎて、棚にぼた餅が入ってるのが確信出来なかったのが上杉謙信。
ぼた餅が食べたい一心で足元の石にけつまづいたのが今川義元
136人間七七四年:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:ABZ/PY4X
生まれたときからボタ餅が手に入ってたも同然の信長などと違って信玄はボタ餅の入った棚自体が
なかったといっていいからなぁ

畿内での有力者が動乱の影響などで次々消えうせ、足利義昭訪問やら和田や甲賀衆や浅井らや六角義秀らの
大協力の元、信長が何もしなくてもボタ餅が食べられるような状態が生まれたときから存在してたのに対して
信玄の場合超天嶮・難治の自国の2倍もある信濃やら自国よりも国力高い今川・北条連合やら
上杉・長尾・北信濃連合やら織田・徳川連合やらに阻まれてて食べられるはずのボタ餅が谷底に投げ捨てられたような状態といっていいし
137人間七七四年:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:qmqi1UWe
>>136
内乱と足利の度重なる圧迫で地に落ちた今川
関東に緩やかな共同体を作るのが精一杯の伊勢

足利幕府一門のしば、土着の大物土岐、別次元の名門北畠

身内一つ御せ無かったことを棚にぼた餅が無かったは流石にw
武田贔屓は、凄いね
138人間七七四年:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:6/8m/z4Q
信玄の引き継いだ遺産

甲斐一国の権力(親父の信虎のおかげ)
今川との婚姻(親父の信虎のおかげ)
大膳大夫という立派な官位(親父の信虎のおかげ)
信濃情勢の悪化(親父の信虎の軍事行動によるもの)

大半親父のおかげw
139人間七七四年:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:Ck+NxEk5
今川は突発事故で死んだみたいだが、信長が殺したなんてどんな一次資料にも書いてないし
信長公記の記述だと1552年に桶狭間があった事になってるし明らかに矛盾
今川も偶然死後松平が勝手に独立して東の心配なし
西方面からは大河に挟まれた地形から全く侵攻の脅威がなく、北畠も木造やら長野やらの内訌で勝手に崩壊
斉藤は幼君で勝手にクーデター騒ぎで自落崩壊
六角は対浅井の敗戦や観音寺騒動で極度に弱体化
浅井朝倉は当時の織田からしたらハナクソみたいな国力(浅井は途中まで味方)
上洛時には近隣の諸将もアホみたいに信長にはせ参じてくるし
播磨・但馬など中国地方からも謁見求めたり帰属したりしてるし

大して信玄は周辺が基地外のような天嶮に囲まれ、しかも国力的にも同格以上の勢力や連合ばかり
両上杉を倒し、拡張真っ只中の北条
内乱を自力でまとめ上げ、毎年のように関東に遠征できるような兵站力持つ上杉
しかもこれらは単体ではなく、連合で対武田に向かってきたため、当時の武田からしてみりゃかなり脅威だろ
織田・徳川、今川・北条、信濃連合・長尾ともに武田より国力は上だが武田は侵攻側で侵攻しまくっている
140人間七七四年:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:ABZ/PY4X
>>信長ですら尾張の小身からスタートして
はいはいすでにここからしてデタラメ捏造。
それに大仏を燃やした三好らに危機感を持ったため
畿内では義昭将軍擁立にむけてお膳立てしてもらったのが信長じゃん。
義昭を蔑ろにした途端、信玄に追い詰められてたった兵1万しか動員できないまで無力化され
自暴自棄で京で乱逆無道の賊行為を働いたのが信長。

そもそも美濃は斉藤の元で統一されてるから、
濃尾平野にあった井の口居城を攻略すれば簡単に美濃平定が完了するヌルゲーっぷりと違って
山谷国といわれた信濃は要害堅固を支えに群雄割拠する戦国っぷりで、
各地域に1000〜の兵が篭る国人だらけで篭城する敵相手に信濃全域で苦労したわけだ。
岐阜県の面積: 10,620 km2(井の口居城を落とすだけで一国平定)
長野県の面積: 13,590 km2(要害堅固・縦に領土が長く交通補給路に難儀・群雄割拠)
だいたい跡部氏や逸見氏らが専横していた甲斐では、
甲斐守護武田信重が甲斐への入国を将軍から言われても拒否するほどだった。
17年後に無理やり入国させたが穴山氏に暗殺される始末。
こんなに武田の基盤は崩壊していたわけだしな。
141人間七七四年:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:ABZ/PY4X
私が思うに信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
しかし北条は謙信や信玄らがなかなか死ななかった。これでは関東制覇も難しいだろう。
そういう意味では大内義隆や尼子晴久が死んだ元就もおいしい。
永禄3年に六角軍は北郡征伐に失敗し浅井長政に敗北。これをもって長政は家督を継ぎ六角からの再自立を達成(肥田・野良田の戦い)
六角は斉藤氏と共同しての浅井攻め戦略に移行。
翌年2月には逆に長政が美濃へ進攻する攻勢を示したが
3月に入るや背後から六角軍が進攻し佐和山城を落とされた(斉藤家の竹中重高への六角氏の感状あり)
しかし長政は反転し六角の退路を封鎖する動きを示すことで退却を誘い佐和山城の奪回に成功する。
またこの長期に渡る六角と斉藤との攻防の中で義龍が病死し美濃からの脅威は減少したこともあり、
畠山高政と六角義賢による三好長慶との京を巡る戦いが始まるや、長政は太尾城(米原市)を攻めるなど六角の背後を混乱させた。
このように浅井による北郡造反は畠山への援軍派兵の遅れを誘発し六角弱体化をさらに助長した。
そしてこの攻防は三好の勝利に終わり畠山の没落が確定し、
単体では三好にかなわない六角は三好と和睦を結び京を巡る戦いに終止符を打つ決断をすることになる。
三好政権に服従する義賢が騒動で家臣暗殺をして家中は一時的に統制されたかに見えたが、
義輝が暗殺されるや畠山や奉公衆や反義賢の六角家臣による義昭の近江脱出が図られ、
永禄9年4月になると義昭を左馬頭に任官させ、
一方、三好が働きかけている左馬頭義栄の将軍任命拒否を出させるなど朝廷工作を成功させた上で、
反義賢家臣や畠山や若狭武田や信長や徳川や北畠を率いて義昭が8月に上洛戦開始することになる。
しかし土壇場で信長が義昭が和睦斡旋した斎藤を奇襲する背反をした挙句に大敗し、
この上洛戦自体が崩壊し、三好の後援を受けている義賢の威勢が増し義昭は近江にいられなくなり朝倉を頼り逃げた。
そして信長の裏切りから脈なしと見た朝廷が三好が押す義栄を将軍にしてしまった。
このように義昭問題によりさらに混迷したものの、反義賢重臣たちは奉公衆と協力し、
織田と浅井の婚姻を成立させるなど上洛戦を成功させる手を打ち、
中央政界でも朝廷工作をして反三好+義賢+近衛の勢力と結託し、
ついに永禄10年に当主権限を制限する六角氏式目に同意せざるを得なくなるまで義賢らを追い詰められた。
これが可能になったのは再度、義昭上洛戦をする為であり、斎藤と義賢を凋落させることに成功。
これにより義昭は再度、近江に戻ってくる。
今回は奉公衆の他に大和衆や松永久秀も三好軍を引き付ける為に義昭上洛戦を前に挙兵させるなど辣腕を振るう。
しかしこの近江の反義賢勢力や浅井らを統合指揮して
高いレベルの朝廷工作もやってのけるだけの高い家格の持主が誰なのかわかんないんだよね。
京極は浅井の操り人形に過ぎず六角系家臣は操れないし(天文18年が京極氏奉公人奉書現存最古の発給)
信長公記から消された人物がいるのは間違いない。そもそも浅井氏が挙兵しての天文日記に書かれる
北郡錯乱・国錯乱は天文21年の六角定頼死去翌年であり、この時に浅井久政は六角軍に敗北し六角に従属したわけだが
このような大規模な近江国人を二分する近江国錯乱の理由として考えられるのは
六角義賢を六角氏相続には大きな大問題がはらんでいたのだろう。
六角義賢親子と朝廷との強いパイプを持つ近江の舊主(旧主)との対立・・・この六角分裂が義昭上洛と絡んでいくのである
142人間七七四年:2013/08/09(金) NY:AN:NY.AN ID:IENEE/wP
秀吉はんの親は信長はんの親の家臣かなんかやったんちゃう?
でないとあんな近づき方したら、自分の命を守るために信長が日吉丸を殺すように命令を出してると思うねん。
143人間七七四年:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN ID:6bAMVrB2
華やかに出世し一族でこの世を謳歌したが
滅亡。織田家で一番出世するぐらいの知恵を自宅の畑に使っていたら尾張一の豪農になれたかもしれない。だが農業の方が厳しいか
144人間七七四年:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN ID:9PtGhv2s
秀吉は最初からかなり高い身分だっただけだろ
安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
乞食の経験?というとフロイスの記述にも秀吉が若いころ、一度、信長の元を出奔してることを書いているから
出奔後に乞食になってたのだろう。
天正11年4/12付秀吉→輝元宛では前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる
秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。 秀吉は親類だから公記での初登場でも すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が 氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。 完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
秀吉は最低でも1565年時点で織田家でもかなりのレベルの地位の領主だった事は間違いない
領土安堵状出してるのは丹羽佐久間柴田など大身とされる連中だけだし
そもそも他家の場合大名しか出してない例も多々あるほど。
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる

木下秀吉判物写

三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田

…(以下略)

あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)

清洲建設・墨俣一夜城は太閤記の糞講談 取り立てらたのではなく最初から丹羽と並ぶような大身だっただけ
太閤記は年次レベルで間違いあるような糞講談なのは常識
墨俣一夜城とか農民出身とか長久手の戦いが池田の献策とかデタラメばかりデッチ上げて秀吉マンセーしてる糞史料
1565年時点で既に領土安堵状だし1568年でも大身丹羽と並ぶような立場で領土安堵状出してるし
信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる
145人間七七四年:2013/08/23(金) NY:AN:NY.AN ID:eXci1OKy
三大水攻めの一つ、忍城の水攻め模型。
http://mirai660.net/castle/
146人間七七四年:2013/09/14(土) 20:56:31.67 ID:w+j4FQ1f
バカテスの木下秀吉について語りましょう。
147人間七七四年:2013/09/20(金) 15:55:35.95 ID:xYeGFlCV
或る人の曰く、秀吉に十徳あり〜将軍家家長(信長)繁栄の基なり、祝々珍重(天正8年正月晦日付け)

ちなみに安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
大なる事は、近年信長の下にても、羽柴羽柴と申候て、世上操りをも、又弓矢をも手に取り候て、鑓をもつき、
城をも責候て存んぜられ候、又、小事の儀は小者一ケにても、又、乞食をも仕り候て存んぜられ候仁か、
申し成しなとにては成る間敷候、日本を手の内にまわし候、今日まては名人にて候、明日の不慮は、存ぜず候
などとどんなことでもなんでも抜群にこなせるオールラウンドプレイヤーで頭角を現し、信長の名も霞むほどだと書いてる。
ここで面白いのは秀吉は乞食まで経験してるので、世間の人情の機微も心得ていて名人なので
信長のような犬死のような突然の死に方もしないと書いてるところ。
乞食の経験?というとフロイスの記述にも秀吉が若いころ、一度、信長の元を出奔してることを書いているから
出奔後に乞食になってたのだろう。フロイスは秀吉の才覚について面白い話を残していて
尾張時代の信長がいろんな家臣に買い物へ行かせるが、商人との交渉がうまくいかず
値段が高すぎたりすると買わずに帰ってくることもあった。
しかし秀吉だけはどんな買い物でもきっちり買ってきたので信長が大喜びしていたが、
実は秀吉は自分の手持ちの金も追加して買い物してきていたって話がある。
また天正11年4/12付秀吉→輝元宛では
前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる。秀吉の才覚じゃ自他共に認める隔絶した将器だったのが判明しよう。

他にも上井覚兼日記や島津側書状で、 天下静謐のために秀吉が島津に停戦受け入れるよう命じた時に、
島津が秀吉のことを、なんでお前みたいな馬の骨に名門島津が従う必要あんだよ?みたいな侮り記述がある
フロイスの日本史にも身分も低く血統も賤しいと秀吉の人となりを書いているので、島津の批判は間違っていないだろう。

天正10年10/18の秀吉書状には、自分のことを「小者一僕の者に過ぎなかったのに信長が召し上げてくださり」
などと書いていて「下僕」の身分に過ぎなかったのに、信長が身分を引き上げてくれたことを感謝してる。
また、天正17年11/24の秀吉書状では、
「秀吉若輩の時、弧と成りて信長公幕下に属し」などと書いていて
「孤児」に成り下がり、頼るべき親類もいないほど貧しくなって信長公に仕えたと書いている。
あぁ孤児って訳は染谷氏の解釈であって俺が勝手に訳したわけじゃないからな。
148人間七七四年:2013/09/21(土) 07:29:41.58 ID:4eNJOktq
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/
149人間七七四年:2013/09/25(水) 21:29:44.17 ID:S69JiiGj
>>49
救おうとしたかはわからないけど、
朝鮮出兵全般を通じて、朝鮮人たちが秀吉軍の占領地に
逃げ込んだり、商人が往来したり、村ごと味方したりしてるんだよな。

朝鮮出兵で秀吉軍勢力地に、どんどん逃げ込む朝鮮人民衆が当時の朝鮮の記録に記されています。
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffcerk3c2n

そして朝鮮人と左翼が「日本軍の残虐性」ばかりを強調する慶長の役にも
日本軍に味方する村々や人物がいたと朝鮮の記録に記されている↓
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffcgggz3w9


更におまけに↓
宣祖実録の記録と、小西行長とその将兵から聞き取りしたフロイスの記録に残る、
日本人に成りすまして、略奪暴行する朝鮮人の記録↓(今も昔も変わらないね)

唐武陣 文禄・慶長の役の偏り2 民衆の騒乱
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffcvk4n5gd
150人間七七四年:2013/09/27(金) 03:03:36.00 ID:WpUWdDjN
秀吉が凄いのは、普通のジジイではないということだ。
人間は歳を重ねると失敗を恐れて挑戦しなくなるが、秀吉は朝鮮できる漢だ。
まあ、常人では考えられんが、信長、家康を超える大器であったことは疑いがない。
151人間七七四年:2013/09/27(金) 08:30:42.35 ID:kpADuLu8
朝鮮出兵とか利休殺し秀次や縁者殺しなど愚行を繰り返してたから豊臣はあっさり崩壊したんだろうね。
152人間七七四年:2013/09/28(土) 01:35:31.85 ID:ALr7wJ4n
唐入りは実質的に失敗したし、秀次粛清も豊臣政権にとってはマイナスだけど
じゃあ致命的だったか?と言われると疑問
秀吉があと10年ほど生きてれば豊臣政権はふつうにそのまま続いた気はする
武断派が自然に勢力を失ってゆるやかに文治に転換していっただろうし
信長死亡時の織田政権は実質的にほとんど何も制度化されてない脆弱なもの
だったけど、豊臣政権は統一政権としてすでに年月を経ており
政権としての制度的な基盤は比較にならないくらい整ってるわけで
153人間七七四年:2013/09/28(土) 07:22:11.18 ID:HQ9f0yuu
10年生きてたら朝鮮出兵→中国との泥沼の全面戦争で余計豊臣の国力は崩壊してただろ。
朝鮮半島を下手にもっと深入りした所で秀吉が死んだら、在国組がどうなるかとか
諸々の問題も生じるし明がこの期を逃さないわけがない。下手したら半島で日本軍はスターリングラードのドイツ軍みたいになって
帰り打ちにあったかもな。
しかも石田三成や小西ら文治派がまた半島での恩賞問題でミスをやらかしたり、
武功派との亀裂が深まる可能性が高いし、そうなればいかに秀頼が大きくとも豊臣内部に亀裂が入るのは目に見えてる。
武功派なんて結局自分の欲や三成への恨みのために家康に篭絡され、豊臣を見捨てた張本人だし、毛利とか大封受けてる武将も
あまり頼りにならんし
154人間七七四年:2013/09/28(土) 08:36:53.04 ID:7twPhTUx
むしろ朝鮮への出兵財政負担が原因で明の国内が混乱し、
史実よりも内乱でさらに早く明が滅ぶ。
しかし秀吉政権は財政基盤がしっかりしていたので経済的損耗を回避出来るし、
戦争狂の武人達を海外で討ち死にさせて世代交代をさせればさせるほど
豊臣政権の国内支配力が強くなり安定する。
言わば士族を纏めて朝鮮出兵することで、西南戦争を回避するようなもん。
155人間七七四年:2013/09/28(土) 10:22:35.15 ID:D6MveUJy
明は当時実力の10分の1くらいしか出してないし
明本土での戦いには全くなっておらずあくまで辺境での小競り合い状態
明での戦争が長期化すれば豊臣系武将も日本本土の国力も大きく衰退し
結果徳川や伊達など外様衆が得をするだろうし
下手に海外を占領した状態で秀吉が死にでもしたら余計日本本土では徳川が暗躍するチャンスとなるだけ。
だからこそ三成ら官僚達も戦争の長期化には反対だったんだし
156人間七七四年:2013/09/28(土) 10:36:12.73 ID:tH9ZMkbc
朝鮮出兵で得た領土は功のあった武功派や西日本大名に与えられるだろうが
奉行派には加増があるか非常に怪しいしどの道武功派が、戦争が長期化することで余計大きくなった三成らへの
恨みつらみを何らかの形でぶつけて徳川などがそれを利用してあっさり崩壊するのは目に見えてる
下手すりゃ明も同時に攻めてきて一気に滅亡させられる可能性すらある。
157人間七七四年:2013/09/28(土) 10:52:20.92 ID:QPOSC1YJ
明はすでに赤字財政で破綻寸前。
万暦20年(1592年)に起こった、日本の豊臣秀吉による朝鮮への出兵への手当ても
新しく軍を用意できる金はなくモンゴル人の反乱であるボハイの乱を鎮圧していた軍を宛てる
そのために北方警備はがら明きになってしまう始末。
財政破綻中の明の新規募兵すらできずに、朝鮮出兵に便乗して南方では楊応龍の乱が勃発。
『明史』王徳完伝によると「寧夏用兵、費八十余万、朝鮮之役七百八十余万、播州之役二百余万」の莫大な金が浪費され
国内は戦費調達の増税の重さに一揆が頻発し内乱続く状況下で、北方ではヌルハチの勃興を許すことになる。
そのため『明史』は「明朝は万暦に滅ぶ」と結論づけている。
158人間七七四年:2013/09/28(土) 12:08:51.12 ID:jb5N4EWG
赤字で破綻寸前でも自分の国の存亡に関われば全力でそれを排除しようと動くのは必然だし
日本程度の生産力じゃ広範な明の領土を掌握したり維持したりするのは困難だろ。
第二次世界大戦時でも戦闘自体は終盤でも日本が優勢だが中国側は広範な領土を生かして逃げ隠れて
ゲリラ作戦で襲って安定的に日本側の支配に入る事はなかったし
明が破綻しても日本がそれを簡単に支配下におけるかは別だよ。むしろかえって、広範な領土に兵力が分散化することで
戦力の集中が不可能になり泥沼のゲリラ戦に持ち込まれる可能性が高い
159人間七七四年:2013/09/28(土) 14:19:13.35 ID:QPOSC1YJ
少数異民族征服王朝を知らないとか無知過ぎw
160人間七七四年:2013/11/11(月) 17:30:15.33 ID:guzD7QF1
>>153
そもそも、慶長の役は懲罰戦争で、半島南部の割譲が
目的だったから深入りしたかどうか。

1598年時点で明や李氏朝鮮の書物に、日本に勝てる見込みは
無かったって記されてるんだから。
161人間七七四年:2013/11/13(水) 10:36:49.42 ID:z3ZcsQTC
朝鮮水軍が完全に崩壊したからな。
家康や利家や南部や最上の軍は温存されてるし
上杉や伊達も半島に渡ったけど、ロクに仕事してねーしで
まだまだ日本軍は余裕あったけど、
中国も朝鮮も限界だったからな。
一番重要なのは名護屋城と言う最大軍事基地で兵站一括管理できたところだな。
朝鮮側には経済政治流通の要路がまったく存在しないので南下すればするほどきつくなる。
一番致命的なのは倭寇対策する苦戦する明軍には海上戦力と海上輸送ができないこと。
あとは小早川が下手打った全裸道の穀倉地帯を全力で攻め込めばOK
162人間七七四年:2013/11/17(日) 11:12:54.82 ID:8iju5vJd
先進地帯だった近江惣村合議体制と
和泉摂津商人合議体制という
武家独裁政治から民主的合議制へ移行させた豊臣政権は
幕末の賢公雄藩連合に通じるものがあり、
もっと評価されるべきだな。
163人間七七四年:2013/11/19(火) 16:39:25.45 ID:xyDUiw3P
>>158
五胡十六国や金帝国、モンゴル、清帝国が中原の首都や
大都市を陥落させたときに中国の諸都市や武官、文官が
我も我もと雪崩のように、異民族軍に投降していったことを知らんの?

日華事変でも同じような現象は起きていたし、
昭和20年8月の時点で、王政府の南京を発とする解放区は
ドンドン広がっていて治安も経済も安定していってたんだが。
164人間七七四年:2013/11/22(金) 15:59:37.12 ID:AcYC7kp1
信長の百日供養からして、やったのは秀吉と市だけだからなー。
葬儀は誰もやらなかったから秀吉が朝廷から供養のために
故信長の従一位昇格を引き出してから秀吉だけがやったが誰も出席しなかったから無駄になった。
秀吉は信長の後妻の小倉氏の娘の鍋の生活を援助していたりと
亡くなった主君の妻も保護している家臣の鏡のような働きをしているのは褒めてもいい。
165人間七七四年:2013/11/22(金) 16:35:34.42 ID:AcYC7kp1
ちなみに天正11年6/1の信長1周忌の法会をやったのは秀吉ただ一人。
これに出席後に、秀吉は今までの拠点だった山崎城から、大坂新城へ移転している。
166人間七七四年:2013/11/25(月) 16:36:22.69 ID:qqP8NIRP
秀長が宗麟に内々の儀は利休に、
公儀のことは私に相談してくれと言ってたけど、
秀長死後に公儀は取次制を経て、大老がその任に付き、
内々の儀は北政所や淀の側近がやるようになったことを考えると、
利休の死が、内々の儀という権力の争奪に関わると思われる。
167人間七七四年:2013/11/26(火) 11:59:08.69 ID:cH0MPyeD
秀吉と細川忠興以外の織田家臣って信長のことを超嫌ってたのは明白。
168人間七七四年:2013/11/26(火) 16:11:00.67 ID:jQ0hGp8e
一般的に忠興が信長を慕っていたとされるが、
それは内外におけるポーズに過ぎないだろう。
なぜなら清洲会議が終わって2週間後には
早くも秀吉と無二の同盟を結んでいて
7/11には秀吉から細川親子は血判状までもらっている。
同日には秀吉から忠興宛てに丹後一国の一職併せて
光秀の丹波での城2つほどの知行を秀吉から与えられている。
これは秀吉を当主として、領地安堵と新地宛がいを頂く主従契約に他ならない。
織田家の当主権を忠興は否定しているのだ。
そこに信長を慕い、織田家を尊重する態度はまったくない。
169人間七七四年:2013/11/26(火) 20:06:12.43 ID:InR8BgVL
そんなに忠興が信長を尊敬していたなら
そもそも秀吉が主催した信長への百日供養や葬儀や一周忌のうち、
最低でも1回は出席してるはずだろ。
しかも秀吉とはかなり結束を固めていて、
秀吉の執行したものは出席したくないって話にはならんし。
170人間七七四年:2013/11/27(水) 08:41:49.33 ID:yERaneZQ
パワハラ基地外信長なんて慕われているわけねーよ。
一応、主君だったから義理だてしてるフリをしてただけ。
事実、名護屋城に駐屯していた旧織田家臣団系大名なんて、
利家を中心に完全にピクニック気分で自由に派閥作って、
政宗やら津軽らを田舎モンとかバカにしてこの世の春とばかり楽しんでるし。
信長の話題なんて一切出てこないほど記憶から消去されてんじゃん。
171人間七七四年:2013/11/27(水) 11:36:58.25 ID:KPKeSkWy
アジアの戦争屋はやはり日本の大和民族だ。
豊臣秀吉は壬辰倭乱の時、天下制覇計画を明らかにするが、
その度胸と野望がすごい。
「明国の首都、北京に天皇を移して首都とし、私は上海近所の寧波に住んで天下を治め、
戦争の先鋒に立った大名らにはインドを分ける。」
鄭和が東アフリカまで行く航路を切り開いたが、その後、縮こまった中国や、
最初から東方礼儀の国を自任した私たち民族とは気質が違う。
172人間七七四年:2013/11/27(水) 13:41:51.46 ID:pNpxUcgu
縮こまった朝鮮人並みの家康w
173人間七七四年:2013/11/29(金) 09:35:06.94 ID:hP/NGFSg
慶長元年4/27に秀吉が長曾我部邸訪問の時、
家康、秀秋、景勝、利家、秀元、秀雄、利長、秀康、勝俊、貞通、定次、元親、広家、義光、政宗、義康
このような序列で、
秀吉は信雄の嫡男をしっかりと取り立てているのがわかる。
前田と上杉が席次を争うこともあったようだ。
また秀吉は公式の席では、内府、大納言の順番で呼び、
家康、利家の序列にしていたが、
信長のことを思い出して噂などを話したり、
信長の部下時代の武辺話で盛り上がると、
大納言、内府と利家、家康の序列で話をするので、
利家はこころの底から御名誉に思っており、
旧織田家臣から慕われていたそうだ。
特に蒲生氏郷や毛利秀頼、浅野長政、加藤清正、堀秀政などが利家贔屓だった。
こんな調子なので、家康より人々は利家を崇めており発言力や威勢は5倍も家康よりあった。
利家の武辺者ぶりは人望を集めていた。
174人間七七四年:2013/11/29(金) 10:27:52.35 ID:hP/NGFSg
宇喜多は出席してないので、
それぞれの家の代表として出席している序列は、
徳川、小早川、上杉、前田、毛利の順番であり、
小早川家の地位が毛利より高いのがわかる。
その後に、出家した前内大臣織田信雄嫡男である織田秀雄がおり、
前田嫡男利長、家康嫡男秀康が続く。
秀吉は織田家を篤く保護しているのがわかる。
次世代では織田秀雄が前田利長や徳川秀康を率いるトップになるのは既定路線であろう。
175人間七七四年:2013/11/29(金) 12:57:14.69 ID:NsCiPdm7
秀吉は秀次の娘と秀頼を婚姻させるために
仲人を利家夫妻に頼んでるし、
やはり、朝鮮出兵に対して反対していた奥羽の大名と
秀次がつるんで秀吉を暗に批判したのが原因だろうね。
176人間七七四年:2013/12/16(月) 14:15:47.26 ID:81JsL/8/
天正12年戦役の結果、
秀吉は屈服した家康や石川や本多らから人質を取り、
秀吉への家康の服属を確認後に安心して、
徳川と同盟していた雑賀衆や高野山や長曾我部や佐々成政を屈服させた。
家康は自分を信用して一緒に戦ってきた者たちを見捨てざるを得なかった。
そうしなければ人質が殺されるからである。
177人間七七四年:2013/12/16(月) 14:18:53.92 ID:PuH4NdoG
>>天正12年戦役の結果、秀吉は屈服した家康や石川や本多らから人質を取り

家康は人質なんて出してない。下記が正しい年表ね。
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
178人間七七四年:2013/12/16(月) 14:19:36.40 ID:PuH4NdoG
>>人質を得て家康の服属を以って東国平定がなった秀吉
家康は人質なんて出してないし、全く服属してねーよカス
家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
天正13は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
179人間七七四年:2013/12/16(月) 14:20:41.48 ID:gZXtymXT
>>自分には絶対勝てないと分かっていた秀吉にはへりくだり
>>実力で負けた


信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
180人間七七四年:2013/12/16(月) 14:21:14.59 ID:XHeUxnhs
>>秀吉は信雄を長島城へ追い詰めて屈服させてる。
信雄も家康も全く追い詰められてもなければ屈服もしてねーよクズ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
181人間七七四年:2013/12/16(月) 14:25:43.14 ID:PuH4NdoG
>>自分には絶対勝てないと分かっていた秀吉にはへりくだり
>>実力で負けた


信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
182人間七七四年:2013/12/16(月) 14:26:21.34 ID:ZqKeHLLT
毎回垂れ流される秀吉厨の同じ妄想集

>>信雄と家康が土下座した
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
183人間七七四年:2013/12/16(月) 14:26:46.48 ID:PuH4NdoG
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
184人間七七四年:2013/12/16(月) 14:28:47.97 ID:ZqKeHLLT
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
秀吉自体が土下座と棚ボタと謀略で成り上がってきただけの人だから純粋な戦がゴミみたいに弱いのは仕方がない。
雑魚の毛利に連戦連敗するアホなんてそうそういないよ。
毛利なんて5万石程度の南条にすら攻略失敗したり20万石そこそこの宇喜多にも野戦でガチ大敗するくらい弱い軍隊なのに
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
185人間七七四年:2013/12/16(月) 14:41:12.22 ID:NTb/Nx7V
>>天正12年戦役でも秀吉に圧倒されヤバくなった家康は、
全く圧倒されてないしヤバくなってない。
むしろ秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
>>秀吉にビビって清洲城で引き篭もったまま動けず
兵力差7〜8倍程度なら雑魚武将相手でも流石にビビるわwしかも小牧山などに秀吉は2万以上留守居部隊置いて
家康がなかなか動けないようにした上で、家康が寡兵では到底後詰にこれない敵陣深い木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の城を
攻めて、家康から逃げ回ってる。その上、家康が秀吉のいた大垣から眼前にある秀吉方の蟹江・前田・下市場の、超重要拠点をわずかな兵で攻めてたら
ビビリまくって大垣から一目散に大阪までヘタレ敗走してる。いかに長久手合戦で自軍の8分の1にすぎない兵力にもかかわらず規格外の兵力を殺された
雑魚の信雄や家康にビビリまくってたかわかるな。
>>信雄への援軍すら出せずに見捨て
小牧山城やその周辺拠点には秀吉方の兵力2万以上いたから、秋時点で8000程度しかいなかった信雄・家康勢ではどうしようもない(家忠日記や当代記で
8月時点で家康はただでさえ少ない兵力の半分を領国に帰してるのがわかる)
しかもそんなわずかな兵力にもかかわらず6月には前田・下市場7月には蟹江・浜田を奪回し11月に長久保城を奪回してるのが信雄。
雑魚の信雄でも秀吉よりは遥かに戦上手だったのがわかる。
>>秀吉から懇望があったからとか
織田信雄の書状によれば間逆で秀吉が懇望してきたが断ったといってる
また9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
  信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった
などとデタラメをいつもの如くデッチあげているが、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
等と、なぜか9月時点での懇望を断ったのに11月では容認という明らかにデッチ上げの内容を書き連ねてる。
池上裕子氏も、小牧長久手の講和は、秀吉の懇望によって行われたと書いてる。
秀吉の戦果報告は以下のようにデッチ上げがほとんどなので、人質と書いてるのは例の如く秀吉のハッタリ誇大喧伝と見るべき。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ
186人間七七四年:2013/12/17(火) 01:10:18.85 ID:7AERnJVK
相変わらずIDがコロコロと変わりますなぁ。

信長の野望スレを4年間荒らしたキチガイが自ら本名を公開
http://www.logsoku.com/r/livejupiter/1380635645/

荒らしのために複数回線と契約してる菅沼遼太さん。



菅沼遼太がやらかしたこと一覧↓

上洛スレ60事件
「アスペルガー」姓の下賜
だねえ事件
上洛スレ64事件
ウィキペ参照事件
美濃御料所崩れ
投票否定事件
だがアホ事件
教科書改変事件
創造・天道の屈辱
対立煽り失敗事件
したらば落ち
10.1事件
筆頭家老・佐久間信盛の変
菅沼遼太発禁事件
だが2世事件だが2世事件・後編
http://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/1.html

「織田厨のでっち上げ」「事実無根の偽名虚像」だとされた「菅沼遼太」という名前が
なぜかしたらば掲示板で嘆願され書き込み不能の事態になったのである。
これはどういうことだろうか・・・(棒)
http://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/58.html
187人間七七四年:2013/12/17(火) 10:14:44.06 ID:IgbEkSWb
188人間七七四年:2013/12/17(火) 10:15:25.86 ID:EhfGzx/9
189人間七七四年:2013/12/17(火) 10:16:17.30 ID:BZL/aZ7j
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1375162107/169-205

織田厨はガチで脳味噌腐ってんなw
決着ついた話題を何回も他スレで張りなおすとか、リアルのアルツハイマーだろw
190人間七七四年:2013/12/17(火) 10:17:13.74 ID:FpQ1hD86
秀吉マンセーしてる奴が悉く馬鹿しかいないのがよくわかるレスだな
191人間七七四年:2013/12/17(火) 10:18:16.92 ID:sO/zETBp
毎回垂れ流される秀吉厨の同じ妄想集

>>信雄と家康が土下座した
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
192人間七七四年:2013/12/17(火) 10:18:55.13 ID:EhfGzx/9
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない
193人間七七四年:2013/12/17(火) 10:19:16.60 ID:FpQ1hD86
>>秀吉は信雄を長島城へ追い詰めて屈服させてる。
信雄も家康も全く追い詰められてもなければ屈服もしてねーよクズ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
194人間七七四年:2013/12/17(火) 10:20:54.68 ID:EhfGzx/9
>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる

下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
195人間七七四年:2013/12/17(火) 10:21:34.89 ID:8WsSBwWf
>>もうビビッて有楽斎に、信雄との冷え切った関係の修復の斡旋
そんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
196人間七七四年:2013/12/18(水) 22:42:12.09 ID:34PNteRW
相変わらずIDがコロコロと変わりますなぁ。

信長の野望スレを4年間荒らしたキチガイが自ら本名を公開
http://www.logsoku.com/r/livejupiter/1380635645/

荒らしのために複数回線と契約してる菅沼遼太さん。



菅沼遼太がやらかしたこと一覧↓

上洛スレ60事件
「アスペルガー」姓の下賜
だねえ事件
上洛スレ64事件
ウィキペ参照事件
美濃御料所崩れ
投票否定事件
だがアホ事件
教科書改変事件
創造・天道の屈辱
対立煽り失敗事件
したらば落ち
10.1事件
筆頭家老・佐久間信盛の変
菅沼遼太発禁事件
だが2世事件だが2世事件・後編
http://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/1.html

「織田厨のでっち上げ」「事実無根の偽名虚像」だとされた「菅沼遼太」という名前が
なぜかしたらば掲示板で嘆願され書き込み不能の事態になったのである。
これはどういうことだろうか・・・(棒)
http://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/58.html
197人間七七四年:2013/12/19(木) 18:08:48.00 ID:Vz3UxIO+
[新]豊臣秀吉・天下を獲る! 「第一部 日吉丸 天下へ旅立つ その一」
tv.so-net.ne.jp/m/dapReservationAddingOpened.action?id=142032201312191900&originChartId=1001798&origin=%2Fm%2Fchart.action%3Fhead%3D201312191803
(●まで買ってるのにリンク貼れないとかマジで糞)

これなんだろう、めっちゃ楽しみなんだけど
話題もなく唐突にはじまるのが訳わからん
198人間七七四年:2013/12/19(木) 18:10:11.16 ID:Vz3UxIO+
リンクがマイページだった、すまんw
199人間七七四年:2013/12/31(火) 15:43:40.09 ID:zEO9x4Yg
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww



ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
200人間七七四年:2013/12/31(火) 20:56:11.54 ID:tLvoSXpS
敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
201人間七七四年:2014/03/11(火) 16:50:39.73 ID:1x45d+11
>>199

>>196を参照。
IDを変えまくって自演を繰り返す
菅沼遼太っていう人間。
202人間七七四年:2014/06/07(土) 10:51:55.87 ID:Oh5rUYaF
或る人の曰く、秀吉に十徳あり〜将軍家家長(信長)繁栄の基なり、祝々珍重(天正8年正月晦日付け)
ちなみに安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
大なる事は、近年信長の下にても、羽柴羽柴と申候て、世上操りをも、又弓矢をも手に取り候て、鑓をもつき、
城をも責候て存んぜられ候、又、小事の儀は小者一ケにても、又、乞食をも仕り候て存んぜられ候仁か、
申し成しなとにては成る間敷候、日本を手の内にまわし候、今日まては名人にて候、明日の不慮は、存ぜず候
などとどんなことでもなんでも抜群にこなせるオールラウンドプレイヤーで頭角を現し、信長の名も霞むほどだと書いてる。
ここで面白いのは秀吉は乞食まで経験してるので、世間の人情の機微も心得ていて名人なので
信長のような犬死のような突然の死に方もしないと書いてるところ。
乞食の経験?というとフロイスの記述にも秀吉が若いころ、一度、信長の元を出奔してることを書いているから
出奔後に乞食になってたのだろう。フロイスは秀吉の才覚について面白い話を残していて
尾張時代の信長がいろんな家臣に買い物へ行かせるが、商人との交渉がうまくいかず
値段が高すぎたりすると買わずに帰ってくることもあった。
しかし秀吉だけはどんな買い物でもきっちり買ってきたので信長が大喜びしていたが、
実は秀吉は自分の手持ちの金も追加して買い物してきていたって話がある。
また天正11年4/12付秀吉→輝元宛では
前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる。秀吉の才覚じゃ自他共に認める隔絶した将器だったのが判明しよう。
他にも上井覚兼日記や島津側書状で、 天下静謐のために秀吉が島津に停戦受け入れるよう命じた時に、
島津が秀吉のことを、なんでお前みたいな馬の骨に名門島津が従う必要あんだよ?みたいな侮り記述がある
フロイスの日本史にも身分も低く血統も賤しいと秀吉の人となりを書いているので、島津の批判は間違っていないだろう。
天正10年10/18の秀吉書状には、自分のことを「小者一僕の者に過ぎなかったのに信長が召し上げてくださり」
などと書いていて「下僕」の身分に過ぎなかったのに、信長が身分を引き上げてくれたことを感謝してる。
また、天正17年11/24の秀吉書状では、
「秀吉若輩の時、弧と成りて信長公幕下に属し」などと書いていて
「孤児」に成り下がり、頼るべき親類もいないほど貧しくなって信長公に仕えたと書いている。
あぁ孤児って訳は染谷氏の解釈であって俺が勝手に訳したわけじゃないからな。
看羊録の著者は、 秀吉の父の家は元来貧賤で、農家に雇われてどうにかたつきをを立てていた。
壮年になってから自分から奮発し、信長の奴隷になったが関東に逃げて数年し、
また戻って信長に自首したので、秀吉は一心に奉公して昼夜風雨を厭わなかったと書いてる。
耶蘇会の1584年の年報にも はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。

天正10年10月には京の出入口に設けられていた関所を廃止し(禁裏領率分関)、
信長のやり方の否定を開始し、次々と経済振興策を繰り出し始め、
ついには「公家武家地下商人に至っては諸役を止め、座を破らる。
これに依りて悦ぶ者多く悲しむ者少なし」などと秀吉の政策は激賞され、
「日本国の諸役、京のみいり(関銭)、兵庫の関、津々役儀かくのごとく往古より有り来る役さへあがり候処」と宣言し昔からあり続けた税の免除を開始。
「日本国諸役悉く上げ申し候処」
関所や港で商品にかける役銭をはじめとして日本国中のすべての役の賦課権を没収するまでに至り、空前の活況を示した。
信長のもとで関所や座の組合が経済活動を押さえ付けていたが(薄と言う公家が牛にまで税を賦課していたのも秀吉が完全廃止した)
これにより自由往来と自由通商が可能となり瀬戸内海から伏見〜京への河川流通網整備のため大河治水が開始された。

信長には分国法すら無く、単に室町幕府に寄生してたら下克上された 歴史的意義の無い 実質10年弱で淘汰された畿内政権だからね。
203人間七七四年:2014/07/09(水) 18:18:41.48 ID:N+khe1wz
織田信長が長篠合戦後に叙任されてた従三位権大納言に羽柴秀吉が叙任されて時点で、朝廷から織田信長の後継者と認識されたと見て良いであろう
204人間七七四年:2014/07/10(木) 09:58:41.50 ID:mBorPoAR
菅沼遼太
205人間七七四年:2014/07/10(木) 16:12:16.95 ID:dOWNvSrJ
秀吉の母親が亡くなりそうになったとき
帰京のため名護屋から急ぎ乗った船が難破した
秀吉は海に投げ出され、命からがら岩礁に取り付いて助かった。
こんな記録は国内には無いが西洋にはある。
このとき秀吉が溺死してれば歴史は変わったな。
206人間七七四年:2014/09/13(土) 23:36:02.18 ID:zs8tPGbL
太閤様は家族思いなんよ
207人間七七四年:2014/10/02(木) 01:51:31.10 ID:B1tKdaFV
有名どころの太閤記(新書太閤記(吉川)、異本太閤記(山岡)、新史太閤記(司馬))以外のおもしろい太閤記(豊臣秀吉の伝記小説)教えてください
208人間七七四年:2014/10/24(金) 06:47:08.22 ID:A6efltIe
いつのまにやら秀吉=頭のおかしなおっさんみたいな風潮ができちまったよな
209人間七七四年:2014/10/24(金) 19:19:37.47 ID:i5QS2JEP
>>207
巨匠の作品で黒い秀吉が好きなら妖説太閤記(山田風太郎)
竹中半兵衛がカッコいい
210人間七七四年:2014/10/25(土) 01:39:28.71 ID:0yt27gyW
>>209
その「妖説太閤記」というのは史実に基づいているのですか?
211人間七七四年:2014/10/25(土) 11:21:48.87 ID:ECtkrHNq
>>208
ほんとこれ
212人間七七四年:2014/10/25(土) 23:49:37.17 ID:yPpQDrR7
>>210
小説だから史実に基づいているとはいえない
秀吉の女好きを許さない竹中は秀吉に毒殺され
本能寺は竹中が生前に仕組んだことになっている
213人間七七四年:2014/11/03(月) 21:53:04.82 ID:NqfklsVv
>>212
なんちゅう糞本や…
214人間七七四年:2014/11/03(月) 22:01:38.05 ID:/W0ifYCq
>>213
山田風太郎も知らんのか。

魔界転生、最近だとバジリスク 〜甲賀忍法帖〜とかあるから、
高年齢層〜青年まで知ってて当然、もはや教科書に採用されても
全然おかしくない大家だぞ。
215人間七七四年:2014/11/03(月) 22:39:33.80 ID:Ym0Iu3dE
山田風太郎はくのいち忍法帖とかの短編でも
たいてい秀吉のことはボロクソに書いているよな
216人間七七四年:2014/11/03(月) 23:39:16.56 ID:/W0ifYCq
>>215
いやどの伝記の主人公も英雄も全部似たようなもんだろ。
217人間七七四年:2014/11/03(月) 23:43:19.41 ID:/W0ifYCq
バジリスク 〜甲賀忍法帖〜
218人間七七四年:2014/11/10(月) 21:08:13.34 ID:IgAkfyUe
秀吉好きを公言しながら年老いたら別人とバッサリ切り捨てる司馬よりも
風太郎は秀吉の死まできっちり書いているから
ボロクソに書きながらも秀吉愛を感じるな
219人間七七四年:2014/11/16(日) 13:05:11.58 ID:DCSK8DDZ
山田風太郎は下衆な人間ほど力入れて描くから。
220人間七七四年:2014/11/16(日) 17:09:12.30 ID:zXJ7ENl3
隆慶一郎も前田利家が大好きだが、利家の描き方は結構アレだしな。
前田慶次は若年の利家とまで言われてるし
221人間七七四年:2014/11/16(日) 20:55:40.83 ID:Xho7NmIq
>>218
天下人になってからの秀吉の劣化と失政に、司馬先生は執筆意欲を喪失しただけだ。
そもそもボロクソに書きながらも秀吉愛を感じるとは、糞政治家の糞詭弁レベルの糞話。
222人間七七四年:2014/11/17(月) 00:01:43.53 ID:W1qivh7e
山田風太郎を全く読まずに思い付きでレスしてるのバレバレだな。
223人間七七四年:2014/11/18(火) 00:25:03.91 ID:XgTMzG0F
秀吉に愛を感じてるのに何でボロクソに書けるのか、この矛盾が分からない馬鹿
224人間七七四年:2014/11/18(火) 01:50:07.06 ID:WAq9P/Km
薄い。意地になって脊髄反射でレスされても困る。
225人間七七四年:2014/11/21(金) 18:59:35.19 ID:KbQdv/aP
秀吉はむちゃくちゃ早く急いで信雄の官位官職を上げまくってんだよな。
朝廷で自分の補佐が出来る立場に信雄を引き上げたかったんだろうな。
関ヶ原でも家康と同格、いや出家して前が付くだけ先輩風吹かせたのは信雄だけだったし。
信長なんて武田勝頼が官位官職につけないように朝廷を脅迫して嫌がらせしてたのに、
天正3年信長が右近衛大将になった際に、従五位下左近衛中将になったっきり昇進出来なかった信雄を
いきなり、 秀吉は正三位権大納言にしてあげたのを皮切りに、
一年を経ずして従二位かよ! しかもその年のうちに正二位内大臣か。 前例自体がない異例の大出世だろ。
よく朝廷が許可してくれたなあ。 秀吉はどんだけ信雄を厚遇しまくってんだよ。
秀吉は子供を半ば諦め、信雄に跡を継がせようとしてたのかも知れんな。
秀吉は信雄を自分の後継者にする為に、官位官職をガンガン上げた。
さらに甲斐信濃駿河遠江三河の超加増をしようとしたほど。
極上のバカ信雄はそれを拒否したので、平凡な秀次を取り立てることになった。
226人間七七四年:2014/11/21(金) 21:45:23.86 ID:8YpUlFBl
↑ 自分の馬鹿っぷりを披露したい、常人とは異質な精神構造の群盲の雑魚
227人間七七四年:2014/11/22(土) 15:36:42.50 ID:AqPR0Tdf
マジレスもなんだが、織田家のため、という大義名分
だもんなぁ。
だからすぐに安土から追い出しにかかって
エグいことしてるし。
228人間七七四年:2014/11/22(土) 21:43:02.07 ID:aD/crHbc
>>224
なら、ボロクソに書きながらも秀吉愛を感じる箇所を列挙してみろ。
出来んだろ。
そもそも、秀吉の死まできっちり書けば、内容がボロクソでも愛があると思う時点で、知能は猿レベル。否、猿未満。
229人間七七四年:2014/11/22(土) 23:24:34.22 ID:I4ujgvNR
三法師を安土に戻さず拉致って傀儡にしたのは信孝だよ。
だから北畠信雄が三法師を廃した。
230人間七七四年:2014/11/23(日) 00:22:44.35 ID:FmYJ3UVt
北畠氏によって織田は滅亡させられた。
231人間七七四年:2014/11/23(日) 06:24:52.85 ID:ikcx7MvR
菅沼遼太って基本信長の野望の知識しかないよなwwww
信雄の家臣は旧北畠家臣しかいないと思ってそうwwww
232人間七七四年:2014/11/23(日) 09:22:32.32 ID:FmYJ3UVt
北畠信雄は木造氏の傀儡
233人間七七四年:2014/11/25(火) 17:53:50.13 ID:RcpMPPAE
信長の野望では地位高いもんねwwww
信長の野望がソースの菅沼君はそう思っても仕方ない
織田からつけられた家臣誰もいないもんwww
234人間七七四年:2014/11/25(火) 19:26:46.32 ID:8Zwy4/2y
当時の当主は北畠具房(具教の嫡男)であり
まず北畠具教と木造具政(晴具三男・具教の弟)の内訌において
木造が織田の力を借りて内訌を有利に運ぼうとしたことが挙げられる。
北畠に苦戦した織田は義昭の和睦調停において茶筅を人質に出して安全撤退した。
(北畠は人質を出してない)その時に茶筅の安全を守るため織田家から津田一安が付けられ、
木造からは滝川雄利(木造一族)と拓植三郎左衛門(木造重臣)が警護に付けられた。
さて成長し茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。
大湊中に宛てたものだ。これは長島一向宗攻撃のために伊勢水軍に桑名派遣を命じてる。
そこには「本所よりも固く御申し付けあるべく」とあり、本所とは具教もしくは具房を指しており
信雄より先に本所からも命令文書が発給されているのがわかる。
そして具教や具房の奉公人である山室氏(9/16・10/13・10/14・10/16・10/29)や
鳥屋尾氏(10/13・10/16・10/19・10/晦)によって大湊への軍事動員書状が発給されてる。
9/20頃に伊豆の敵船が大湊入り津田一安が現地入りして糾明に乗り出し大湊諸衆と交渉してる。
しかし大湊の船主たちが軍事動員に反対して拒絶している姿が山室氏の書状で判明する(太田家古文書)
つまり大湊の船主の総意は織田に従いたくないという大前提が見て取れる。
また天正元年11月15日に山田三方中と北監物に信雄は文書発給しており
大意としては両御所様御同前に北監物(伊勢大神宮御師)の息子の
福島左京亮(皇大神宮御師)の跡職相続を認めたもの。
これも9/16・9/22・10/22に山室氏から奉書が発給済みのもの。
天正元年の信雄の具豊名での発給文書はこの3通のみ。
このように信玄が死去し義昭が追放された後になってやっと信雄の発言力が多少向上してるに過ぎない。
ここに至っても伊勢水軍が織田に服属してないのが理解できる。

次ぎに信雄が発給しているのは天正3年7/24から「信意」の名前で発給開始している。
つまり天正2年はまったく書状を発給していない。
よって7月の伊勢長島一揆討伐の軍事動員も具房らが主導していると見てよい。
ではなぜ天正3年から発給が開始されるのか?そして「具」ではなく「信」が使用されるのか。
それは多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
235人間七七四年:2014/11/25(火) 19:29:15.19 ID:8Zwy4/2y
信雄は天正2年はまったく書状を発給していないことに着目し
信雄が織田家に突っ返されてしまったとする考え方もある。そして天正3年6月に再度、伊勢入部したとする。
その後、8月の越前一向宗殲滅戦には信雄はなぜか大和衆を率いる塙を部下としているように見え
(塙の大和支配もあくまで信雄の配下としての行動に過ぎないのではないか)
滝川一益や津田一安は信長の命に従っているように見え、信雄とは別系統とも思える。
伊勢衆は信雄の統制下にはまったく置かれてない独自行動してるのがわかる。
北畠は結局、兄弟内訌で滅んだだけだしね。
木造具政は織田を利用して兄の北畠具教を滅ぼして戸木御所を自称してた張本人で
信雄を傀儡擁立にした木造家本家を継いだ首脳人物だからね。外様なわけが無い。
(息子は木造長政・具康・長正・長忠など別名多数)
236人間七七四年:2014/11/26(水) 04:19:09.81 ID:hG4/dLqm
織田信雄を北畠信雄として北畠の人間とカウントする割には
木造姓を捨てて織田の侵略者に媚びた滝川雄利は木造としてカウントするんだね菅沼遼太君wwww
237人間七七四年:2014/11/26(水) 09:03:46.46 ID:Hsb2qtnV
神戸信孝は、三法師を傀儡にした際に、
織田信孝の名に戻し書状発給しているが、
信雄は織田に戻した書状を出したことはない。
なぜなら北畠の名前は公家国司としての地位を持つからだ。
神戸にはあまり価値がない。
そして三法師を廃した宣言をしたのは北畠信雄。
この瞬間、木造専制国司北畠氏による織田家滅亡が達成された。
これは下剋上しようとした織田を、北畠による上意討ちで処罰したことになり、
強力な正当性が付与された織田処分になった。
238人間七七四年:2014/11/26(水) 13:18:47.23 ID:rmyhHxWG
秀吉はむちゃくちゃ早く急いで信雄の官位官職を上げまくってんだよな。
朝廷で自分の補佐が出来る立場に信雄を引き上げたかったんだろうな。
関ヶ原でも家康と同格、いや出家して前が付くだけ先輩風吹かせたのは信雄だけだったし。
信長なんて武田勝頼が官位官職につけないように朝廷を脅迫して嫌がらせしてたのに、
天正3年信長が右近衛大将になった際に、従五位下左近衛中将になったっきり昇進出来なかった信雄を
いきなり、 秀吉は正三位権大納言にしてあげたのを皮切りに、
一年を経ずして従二位かよ! しかもその年のうちに正二位内大臣か。 前例自体がない異例の大出世だろ。
よく朝廷が許可してくれたなあ。 秀吉はどんだけ信雄を厚遇しまくってんだよ。
秀吉は子供を半ば諦め、信雄に跡を継がせようとしてたのかも知れんな。
秀吉は信雄を自分の後継者にする為に、官位官職をガンガン上げた。
さらに甲斐信濃駿河遠江三河の超加増をしようとしたほど。
極上のバカ信雄はそれを拒否したので、平凡な秀次を取り立てることになった。

信雄と信孝が対立して何も決めれない無能揃いだったから秀吉が動くのは仕方ないだろ。
信長の百日供養からして、やったのは秀吉と市だけだからなー。
葬儀は誰もやらなかったから秀吉が朝廷から供養のために
故信長の従一位昇格を引き出してから秀吉だけがやったが誰も出席しなかったから無駄になった。
秀吉は信長の後妻の小倉氏の娘の鍋の生活を援助していたりと
亡くなった主君の妻も保護している家臣の鏡のような働きをしているのは褒めてもいい。
ちなみに天正11年6/1の信長1周忌の法会をやったのは秀吉ただ一人。
これに出席後に、秀吉は今までの拠点だった山崎城から、大坂新城へ移転している。
信雄の官位官職をアホみたいな速さで急速に引き上げて自分に次ぐ立場にまで登らせて後援したのも秀吉。
それなのに、なんら感謝せず増長し、家康家臣団が一生懸命、不満も言わず関東転封の作業をしている最中に、
転封なんてするわけねーだろ!本気にすんな無視!とか言って、関白秀吉を挑発したから逆鱗に触れたわけで
完全に信雄が悪いし、その代わり、秀信をちゃんと取り立てて、織田家を継続させてるし、
信雄への怒りも、秀吉は一ヶ月も経たずにすぐ水に流して許しているほど甘い。
秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だったし、 彼らを関が原後に改易したのは家康であり、
大坂陣の時も、巻き添え滅亡にならない限界ギリギリまで家康に抵抗して大坂城にいたのも信雄や有楽斎なんだけどw
むしろ三方が原や長篠の御恩があるはずの家康の方が故信長に対してひどくないかね?
信長はロクに家臣に援助もせずに家臣自らの武辺と才覚で、俺の要求を一刻も早く達成しろって
パワハラ恫喝と改易脅迫で精神圧迫していただけで 信長自身は、鷹狩り、茶道具や武具の没収コレクション、
鹿狩り、相撲遊び、衆道、女装しての女踊り、乗馬パレードや競馬観戦、幸若舞、豪華な食材取り寄せ
など遊びほうけていただけじゃん。だから信長死んだら細川忠興くらいしか信長の死を悼んでないし、
清洲会議の池田や丹羽や勝家ら信長遺領分配もみんな自己努力と自力救済による当然の権利だと思ってるでしょ。
だけど、家康は武田家の攻撃で存亡の危機に至り、信長からの援軍や織田との安保同盟を背景にしなければ、
つなぎとめていられたかも怪しいよね。 水野みたいに、家康なんていつでも改易できたにも関わらず、
信長は家康に駿河まで加増してくれたしね。
239人間七七四年:2014/11/26(水) 13:20:33.18 ID:rmyhHxWG
秀吉は充分に主家に義理立てしたじゃんよ。
信孝を切腹に追い込むほど信雄は恨んでいたくらいで、
信雄と信孝は超アホで調停不能で、
信長の葬儀すら誰もやろうとしなかった中で、
秀吉は朝廷から故信長の昇進を土産に弔ったし、
信雄の官位官職も上げまくって後ろ盾になってんじゃん。
秀信も父の信忠の岐阜を与えられ感謝してたから、
実際、関ヶ原では信雄も秀信も西軍として行動したし、
大坂陣の時も豊臣と一緒に滅亡しないギリギリまで大坂にいた。
信雄や秀信の行動をみたら織田家は秀吉に感謝していたのと同時に、
織田が家康を嫌ってたのは明白だろ。
だいたい、秀吉や光秀らは、佐久間や柴田らと違い、
自らの武辺と才覚で國持ちになったようなもんで、
信長はむしろ移動を命じたりと戦略、外交の邪魔ばかりしてたし、
猜疑心を解くために献上品たんまり信長に送ってんじゃん。
池田も丹羽も柴田も本能寺の変後にすぐ信長遺領分配を指揮してたくらい人徳がなかった。
逆に豊臣恩顧なんて秀吉の出世のおかげで、たまたま秀吉の部下だったおかげで
身が引き立てられただけで大した武将いないだろ?
秀吉は信雄や秀信を見捨てたりしなかった。
しかし、家康は秀頼どころか国松まで殺し、
秀信を高野山に幽閉し22才で死に至らしめた。
信雄だって公家や寺社に強い影響力を公使できる
京都五山の僧侶達が全力で擁護で助命を何とか勝ちとったほど難航した。
勝てない相手が死ぬまでは卑屈なまでに篤実な善人顔を装おっておいて、
いざ勝てない相手が死ぬやたちまち態度を豹変させて、
どんだけ織田や豊臣に対して冷酷非道だよ。
実力を競って勝ち取る下克上ならまだいい。
しかし家康は幼君が成長しきる前に、
圧倒的立場を築き上げて、
国内が平和になっていたにも関わらず、
平時に乱を望んで天下を盗んだに過ぎない。
そして女子供を含む20万人大虐殺し、大坂を秀吉時代の痕跡をすべて消して更地にした。
想いっきり屈折した嫉妬と屈辱の人生を思い出す風景を消そうとするキチガイ老人の醜い人間性が垣間見える。

織田秀信の場合、
岐阜城が落され捕縛された時に
福島正則が死一等を免じるように嘆願して命拾いしたが、
高野山に幽閉され、5年満ずに22歳で夭折してんだから
家康が死に追いやっているのは明らかだろ。
武徳編年集成に至っては高野山に憂死スとまで書いてるし。
家康も織田秀信や豊臣国松と言ったかつての主君であった天下人の嫡孫を
殺してなければまだ弁護もできたんだけどな。
240人間七七四年:2014/11/26(水) 13:26:40.37 ID:rmyhHxWG
秀吉だけが信長の葬儀をしてるのに、何を言ってるんだ?
秀吉は葬儀の準備をしつつ、岐阜で監禁されていた三法師の近江安土への移動を催促していたんだぞ。
秀吉は死んだ信長の葬儀を立派なものにしようと、朝廷に掛け合って朝廷の職を辞して無官になっていた
故信長を贈従一位太政大臣に任じてもらい、大徳寺へ贈官宣命使として少納言舟橋国賢が派遣されてしまったために
これ以上、葬儀延引きができず、やむなく三法師を葬儀に招くことを断念して養子秀勝を喪主にして葬儀してる。
これほどの旧主への義理立てがあるかよ。だいたい信雄は秀吉に敵対した男だぞ。
それなのに信雄の官位官職を狂ったように急速に向上させて、甲斐信濃駿河遠江三河の超加増までやろうとしてたんだぞ。
信雄が我がままで自分で断ったのに、なんでそれを以って秀吉が批判されなきゃならないんだ?
やむなく信雄の代わりに秀信を取り立てて父の信忠の岐阜城を与えて官位官職につけてやったし、
信長への義理から信雄を許し、信長ですら信雄には従五位下しかくれなかったのに、
秀吉は政権No.2の正二位内大臣にしてやったほど、信雄を引き立ててやったんだぞ。
実力のない信雄に対して、旧主信長への義理立てから秀吉が厚遇していたのに、その恩を忘れて増長し、
家康家臣団が転封準備しているのを知った、信雄家臣団が、転封準備しないとまずいですよって忠告したのに
信雄は、絶対転封はないから、秀吉の命は無視していいなんて言い放って、秀吉の顔を潰してるのが信雄。
結局、信雄も秀信も有楽斎も西軍に付き、大阪陣寸前まで豊臣擁護をしているのだから、
織田家は秀吉に感謝していたのは行動でわかる。
しかし家康は何をした?秀吉や利家らが死ぬやにわかに野望を露骨にむき出し
幼君であることを良いことに、幼君のためと偽る奸臣となって
その地位を奪いたい一心で平時に乱を起こし、
幼君が成長する前に権力と権威を奪い取り独裁し
秀信を高野山で幽閉し22歳で死に至らしめたし、
信雄も公家や寺社に影響力を行使できる五山の僧たちの
全力擁護で家康を説き伏せ助命と領地宛がいをなんとか約束させただけだし
孫娘千姫と夫である秀頼を殺しただけでなく、国松まで殺し、
女子供を含めた大坂20万人大虐殺をして、秀吉の墓を暴き、神号を剥奪し、
自らは東方を照らす大権現となってる糞老人だろ。


織田家を滅ぼしたのを秀吉だと必死に中傷している織田半島人wwww
三法師を拉致傀儡にしたのは信孝。
三法師を廃して、信孝を殺したのは北畠信雄。
北畠氏が織田を滅亡させたの。
241人間七七四年:2014/11/26(水) 14:06:55.21 ID:Hsb2qtnV
なんら武功ない秀信を
父の遺領岐阜に封じて官位をあげてやった秀吉を
秀信は感謝しつつ家康を恨みながら死んでいっただろうね。
ほんと家康って冷酷非道だよね。
そういや川角太平記の伝聞記事で、
関ヶ原後に福島邸に武功派が集まって夜伽話をしていたら、
宇都宮陣での上杉=備中陣での毛利
三成挙兵=明智挙兵
みたいな感じで太閤と違い家康の動きが遅過ぎでクソ。8月中に勝負つけれた。でも家康すごい。
なんて話になった時に忠興が「は?家康ぜんぜん凄くねぇよ。太閤様はたった播磨一国で信長も死んでた。一か八かの勝負で全てを棄てて勝負した。
しかし家康は関八州の大大名じゃん。しかも我々がほとんどやったから、らくらく天下に登れた。だからワシらが一国まるまるもらえるのは当然じゃん」って言ってるんだよね。
家康に媚びないあたりさすが忠興さん
242人間七七四年:2014/11/26(水) 16:01:38.61 ID:hG4/dLqm
菅沼遼太くんの自演遊びは今日も絶好調だね
あ、そういえば武田は諏訪に乗っ取られたんだっけwww
勝頼と諏訪御前の誑かしで信玄まで諏訪大社を重用
諏訪頼重も草場の陰でほくそ笑んだことだろうね
243人間七七四年:2014/11/26(水) 23:26:22.35 ID:wkoXhhvB
秀次殺したのが一番愚策だな。
関白という地位がなんの価値も無いことを自ら証明する失笑もの。
244人間七七四年:2014/11/26(水) 23:31:09.88 ID:9b9PJ0sW
そもそも主家簒奪の名分として自分を利用するだけ利用してポイ捨てしたり
自分にいちゃもんつけて改易した秀吉の恩によって信雄や秀信が西軍についたというのは相当無理があるだろ。
恩どうこう言うなら高い身分まで取り立ててもらった秀吉の方が、ろくに援軍も出さず畿内平定にこき使われまくってた家康より遥かに恩を受けてるわな
つか、一番秀吉から恩を受けてるはずの福島加藤浅野らが家康に篭絡されてる時点で、
武功派が主家を考えず自分の好悪の感情だけで動いていたのがハッキリわかる。

家康が信長から恩を受けていたとか、もうね、笑わせるなと。
畿内平定に狩り出され、大国武田に攻められてもろくに助けてもくれず
散々いじめられてただろうが家康。
立身出生を全面的にお膳立てと棚ボタであげてやった秀吉の方が異常に恩受けてるだろうがクズ

織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない
245人間七七四年:2014/11/26(水) 23:31:43.59 ID:9b9PJ0sW
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね

看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。

看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐

秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
246人間七七四年:2014/11/26(水) 23:32:50.51 ID:9b9PJ0sW
散々こき使われまくり同盟とは名ばかりの援軍なし放置状態(しかも大国と交戦中なのに)の、
恨みばかり残ってもおかしくない状況で織田家を再興してやったのが家康。
恩を受けまくり、信長のおかげでトップにたてたといってもおかしくないくらいなのに
主家を崩壊簒奪し、役に立たなくなったと思ったらポイ捨てしたのが秀吉。
だからこそ、織田家は江戸期でも細々とながら残り、豊臣家あっさりは滅亡し、家康が天下取れたんだろうな。
247人間七七四年:2014/11/26(水) 23:43:40.39 ID:9rGzNbs8
丹羽長重死んだ後もすぐに123万石から15万石にしてるしな。それでも西軍に付いた息子すげーわ。
やっぱ人たらしだったのは天下とるまでで、あとは権力に精神蝕まれたっぽいな。誰も豊臣に味方しないのわかるわ。
248人間七七四年:2014/11/29(土) 00:41:45.27 ID:SLmIkD7z
丹羽氏は織田四天王で唯一、江戸時代も大名で復活して残れた。
地味に堅実。
249人間七七四年:2014/11/30(日) 22:11:21.84 ID:BzHpySzf
>>246
菅沼君の中では、家康が容赦なくぶっ潰した織田秀信の存在は
無かったことになってるんだな。
長文コピペしすぎて脳内蝕まれたっぽい?
250織田チョンへ:2014/12/01(月) 12:20:42.84 ID:6T7EC7y7
思考回路
いや秀吉の業績は全部、 信長から考えていたことで、
全て信長がやろうとしていたことを盗んだだけって論法で
秀吉を貶しているので、 在日は信長がむちゃくちゃ好き。
しかも信長なら半島侵略じゃなくて、
大航海時代みたいな進出で各地に日本街を作り、
家康みたいな鎖国もせずに貿易立国していたとか妄想するからな。
在日は家康の場合は好きなんじゃなく、秀吉を貶すツールとして利用してるだけ。
(朝鮮を侵略した秀吉の全人格を否定し悪魔と罵倒しつつ、
日本人を大量虐殺した信長や家康をマンセーする左翼脳。
それどころか豊臣政権を守ろうとした忠臣三成を自分ででっち上げた噂で中傷しつつ
看羊録曰く朝鮮人に囲まれていた輝元を全力擁護。)

またアンチ秀吉のキチガイ織田チョンが暴れているのかよ。
ガチうぜぇ。だいたい秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww

秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。
最古参筆頭として石川数正と同格。
他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、
井伊直政に至ってはさらに13歳下。
本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。
つか出世より家康へのイラつく直言で有名で、
その命を惜しまぬ直言ぶりで三河武士の見本と呼ばれ鬼作左と言う名前の方が有名。
おかげで北条征伐後間もなく蟄居になってるからあまり有名になってないだけで、
一筆啓上、火の用心〜の日本一短い手紙でも有名で、
現存天守が残る福井県の作左の嫡男が封じらた丸岡城の宣伝文句にも採用されてる。

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww

アンチ秀吉の織田チョンは相変わらずバカだねw
天正15年正月時点で、
本多重次は岡崎城代で、
酒井忠次が吉田城代なんだけどwww
天正17年6/22時点ではまだ重次は岡崎城代を続けているのがわかる。

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
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251織田チョンへ:2014/12/01(月) 12:46:19.60 ID:6T7EC7y7
このキチガイ在日織田チョンのコピペ爆撃まじうぜぇ。
他人のレスを盗用改竄の上で武田厨のフリをして自演して気持ち悪いし。
鴨川達夫先生も小牧長久手での秀吉軍の被害は3000であり、
1万というのは家康側の誇張吹聴だと断じてますね。
これ2011年5月に鴨川氏が発表したあと、
誰も反論する人がいないよね。なんで、ほぼ決着したね。

そうだね。鴨川の発表に反論した学者は誰もいないよね。
そりゃ今までのは徳川幕府史観のただの家康贔屓だから反論できるわけがない。
キチガイ在日コピペ爆撃アンチ秀吉の織田チョンは
藤田達生編纂「小牧・長久手の戦いの構造 上下巻)
っていう最初から家康勝利ありきを大前提にして我田引水してる
2006年の大昔の糞本を持ち出して必死なだけのアホだから
相手すんな。白峰旬や谷口などと、さも分けて書いているが
すべてこの本に書いている古いもんばっかで 誰もいまさら見向きもしない。

続く2014年6/10発表での鴨川氏は三河から尾張を分断すべく
小牧の東方を縦に楽田(秀吉本陣)・柏井(重点強化)・小幡(壊滅させた)・岩崎(三河尾張国境)と
長く長城の如く半包囲しつつ、家康が出撃してきても取り合わないことを秀吉の計画だとしているね。
楽田・柏井・岩崎で半包囲して家康を窮せしめ、家康が捨て身で戦闘を挑んできても
要害堅固にして守る大網戦略(大あみ)を遂行していたと。
それが柏井・大草を普請丈夫に構えて、敵が身を捨てて攻めてきても取り合わず
いかにも嬲りまくって大網を置いて家康を取巻くのが完成した後に討ち果たすという宣言でもわかる。
しかし秀次が暴走して岩崎から出撃してさらに三河方面へと先へ先へと焦って進出してしまったのだろう。
森長可は出撃前に遺書を書いて死後の森家のことを家族に託しているように自殺出撃であったわけだし。
(だから岩崎から一番近い位置にいて柏井を堅く守っていた生駒や一柳らは、徳川が出てきても
こちらからは出撃せずに要害に留まり間違いがないようにとの命令を受けていたため秀次救援に出撃しなかった)
鴨川氏は陸軍参謀本部の妄想戦記の思考を踏襲した岩澤愿彦氏が2000年に発表した
愛知県史研究「羽柴秀吉と小牧・長久手の戦い」という論文の定説化に対して下記のように論難してる。
【三河行きの部隊に誘き出された家康を楽田の本陣と一緒に挟撃するのが秀吉の策だと断じた件を批判し、
秀吉はちゃくちゃくと包囲を築き家康が捨て身の攻勢に出てきても取り合わないと言っており、
家康とあえて戦わないというのが秀吉の考えだと断じています】
小牧から出た兵力が小幡へ(補充のため)移動するなら納得するという秀吉の考えを
小牧から家康が誘き出されて満足に思うと間違った解釈をしているのを批判しています。
これについても鴨川への批判はいまのところ皆無です。
はっきり言って原文の正確翻訳の達人鴨川への反論など不可能ですしね。
252織田チョンへ:2014/12/01(月) 12:47:01.19 ID:6T7EC7y7
鴨川氏は秀次の迅速な侵攻は見事で、まんまと家康を出し抜いて
岩崎城を落してしまってそれを知って焦った家康がなんとか巻き返しただけと書いていますね。
鴨川氏が指摘するように長久手は主戦場ではなく、一次史料などを見ても岩崎の戦いと書いていて
後世に4/9に勃発した戦を長久手の戦いと呼んでいるのも徳川史観いよる捏造歪曲なのでしょうね。
一年に渡る小牧対陣をあたかも長久手での家康の勝ち戦だけをクローズアップさせて
天正12年戦役全体を家康の勝利にミスジャッジさせてきた徳川史観が鴨川によって論破された。

織田在日アホすぎwお前こそ自分の都合よいものだけしか抽出してねーし。しかも捏造歪曲しまくりじゃんw
鴨川は一次史料の原文書状を確認し一字一句レベルでキチンと読み込む達人だしw
鴨川は武田、毛利に続いて秀吉研究をしていたからな。 だから誰も反論できないのよ。
原文書状確認作業やれる人は限られてるからな。 むしろ小牧・長久手の戦いの構造って本の方がまったく
史料列挙してねーじゃん。ウソはいてんなよ。
幕府史観のままに疑念もなく家康勝利を前提にした結果ありきの願望妄想を背景に戦を論じてる本だろうが。
そんな8年も前の当時の常識で語った本なんて読む価値すらないわ。
253人間七七四年:2014/12/01(月) 13:31:01.48 ID:mxc/WJMy
>>小牧の東方を縦に楽田(秀吉本陣)・柏井(重点強化)・小幡(壊滅させた)・岩崎(三河尾張国境)と
>>長く長城の如く半包囲しつつ、家康が出撃してきても取り合わないことを秀吉の計画

そんな事秀吉の書状のどこにも書いてないし秀吉が短期決戦構想で戦いを挑んでるのは
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。



あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。
仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が
頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も
京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた
5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
254人間七七四年:2014/12/01(月) 13:38:55.75 ID:mxc/WJMy
>>楽田・柏井・岩崎で半包囲して家康を窮せしめ、家康が捨て身で戦闘を挑んできても
>>要害堅固にして守る大網戦略(大あみ)を遂行していたと。

そんな事秀吉はどこにも書いてないし、秀吉が持久戦戦法に変わり出すのは小牧長久手合戦より後の事だよ
しかしそれでも何回も三河遠州への大々的な出兵画を何回も書状で書いてる
この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる
255人間七七四年:2014/12/01(月) 13:51:45.33 ID:mxc/WJMy
>>柏井・大草を普請丈夫に構えて、敵が身を捨てて攻めてきても取り合わず
>>いかにも嬲りまくって大網を置いて家康を取巻くのが完成した後に討ち果たすという宣言

それが書かれてるのは小早川隆景の5/2の書状だけど原文を読むと
三河衆勝利を得、其後は一円取り合わず、小牧山を要害に取り誘い持ち固められ
と書かれてて明らかに家康の事なんだがw

>秀次が暴走して岩崎から出撃してさらに三河方面へと先へ先へと焦って進出してしまったのだろう

秀次が襲撃されたのは白山林で岩崎城よりも北に位置してるからそれはまずない
秀吉の書状によれば、岩崎城を攻略しさらに岡崎方面へ行軍中、不慮の体となり勝利を失ったと書いてるから。
ついでに敗戦前日の丹羽長秀宛書状を読んでも
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかるし
秀次は秀吉の命令通り、岩崎城を攻略のち、岡崎方面へ行軍中背後を襲撃されて敗北しただけでしょ

>森長可は出撃前に遺書を書いて死後の森家のことを家族に託しているように自殺出撃であったわけだし。
何で今度の戦が熾烈なものであり戦死する可能性があったから、遺書を書いただけなのを最初から無謀な進軍の予定に摩り替わるんだよアホ
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる

追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない

>(だから岩崎から一番近い位置にいて柏井を堅く守っていた生駒や一柳らは、徳川が出てきても
>こちらからは出撃せずに要害に留まり間違いがないようにとの命令を受けていたため秀次救援に出撃しなかった)

彼らは最初から情報収集目的と砦や屋敷の普請が目的で派遣されてるだけでしょ
256人間七七四年:2014/12/01(月) 14:02:31.89 ID:mxc/WJMy
>秀吉はちゃくちゃくと包囲を築き家康が捨て身の攻勢に出てきても取り合わない

それはおそらく5月9日の毛利宛書状とか6/4の佐竹宛書状の秀吉のハッタリ喧伝書状を曲解した解釈だと思うが
どちらも小牧長久手合戦前後で秀吉の戦略が少し変更された後だし、
原文を読むと小牧表10町15町陣を張り、野合之合戦を挑むと雖も、家康小牧山城中一切罷出候間、便々在之も不入儀と存じ
などと書いてて、家康が秀吉からの合戦の挑戦を受けないと書いてるだけだぞ。
しかもこれも秀吉のハッタリ誇大喧伝で、実際には秀吉からの挑戦受けて小牧長久手で秀吉を木端微塵にしたからね

>家康とあえて戦わないというのが秀吉の考えだと断じています

小牧長久手の戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

秀吉が短期戦構想で決戦を挑んでいるのは

3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。
257人間七七四年:2014/12/01(月) 14:06:20.89 ID:mxc/WJMy
>小牧から出た兵力が小幡へ(補充のため)移動するなら納得するという秀吉の考えを
>小牧から家康が誘き出されて満足に思うと間違った解釈をしているのを批判しています。

それは柏井に宛てた一柳宛書状の解釈だろうがどちらの解釈も明らかにおかしいね
小幡城=家康方の拠点
小牧山=家康方拠点
だから小牧出候人数、小幡へうつり候者、得其意候は
小牧を出た家康方の軍勢が小幡城へ移ったら、その旨を知らせるように
という白峰や谷口が小牧長久手の戦いの時系列データベースに書いてる解釈が正しいでしょ
鴨川は小牧や小幡城を秀吉方拠点と勘違いしてとんでも解釈してるけど。
258人間七七四年:2014/12/01(月) 14:10:22.94 ID:mxc/WJMy
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗

長久手町史通史編 谷口央氏

P276
4月8日付丹羽長秀宛秀吉書状で
楽田からかなり南東へ移動した小幡城への攻撃と竜泉寺砦への移動が記されてる
この書状からは、この行軍は隠密行動ではなくかなり堂々としたしかも戦闘を行いながらのものであったことになる
大軍での移動であり隠密とは程遠いものであったといえよう。
続いて史料を見ていくと秀吉は一柳直末や、山内、矢部らに宛てて柏井、大草などの普請を行わせる書状をだし₍長久手町史102号103号₎
その後に三河国への進軍を計画していたところである

以上長久手の戦い前日となる4/8付け丹羽宛書状を詳細に見てきたがこれによると秀吉はかなり計画的に三河中入り作戦を立てていたことがわかる
この書状の内容を裏付ける事柄として前記のように長久手への行軍と同時に道中にある屋敷の普請が秀吉の命令のもと行われてあり
その行軍状況が計画的に見えること、同時に大がかりな計画であったことを彷彿とさせるようなゆっくりとした行軍状況であったことがあげられる
このような事実を考え合わせるとこの書状に記された内容はほぼ事実を反映しているといってよい。
そうすると長久手への行軍は隠密ではなくかなり堂々としたものであったのである


谷口央氏

「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」

秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」₍長久手町史106号
と柏井にいる一柳に伝えている

このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる
しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。
しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。₎


小牧長久手合戦は秀吉の立てた三河方面総攻撃作戦がウンコすぎたからね。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
259人間七七四年:2014/12/01(月) 14:11:00.71 ID:yb8mPH0R
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。
仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が
頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も
京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた
5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、
これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
260人間七七四年:2014/12/01(月) 14:11:57.65 ID:yb8mPH0R
秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから


小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)


小牧長久手合戦後の出来事

4/30日〜5/2頃
二重堀合戦が起こり、信雄1000が秀吉50000を奇襲して楽田から叩きだす(家忠日記)
6/19信雄が秀吉の尾張下市場城攻略(家忠日記)
6/23信雄が秀吉の尾張前田城攻略(家忠日記)
7/3信雄が秀吉の尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10信雄が秀吉の伊勢浜田城攻略(7/14秀吉→津田)
11/10信雄が秀吉の尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)

4/12には秀吉が吉村氏吉に敗北(信雄→吉村書状)
秀吉はそれ以外でも5/5に小浜・間宮に伊勢の生津・村松で敗北してる(5/5家康→小浜・間宮)
また、3月から戸木城
4月から松の木城、東駒野城
6月から河波城、
などを攻略していたが
いずれも落ちずに撃退されてる
6月は特に信雄から吉村などへ感状ラッシュで度々秀吉軍を撃退した功績を賞賛されてる

元春は秀吉との関係が悪いどころか広家を人質に出したりして関係は良好だったからねえ
ドラマは無理矢理すぎて違和感だらけだった。

秀吉が短期戦構想で決戦を挑んでいるのは

3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
261人間七七四年:2014/12/01(月) 14:12:37.71 ID:PtkRSmk+
◎小牧長久手合戦の戦死者は1万人以上

4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人

戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる

吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい
長久手合戦後に京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる 。

さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから

イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな

京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
262人間七七四年:2014/12/01(月) 14:12:58.33 ID:yb8mPH0R
別働隊の隊長は池田親子森木下兄弟堀長谷川でそのうち半分が戦死してる。
また別働隊の兵力は24000。つまり戦死率から考えても普通に別働隊の半数は戦死してないとおかしい。
つか顕如日記は明らかに秀吉の捏造歪曲フィルターによって捻じ曲げられた事実ばかり書かれてるし、その顕如日記でも
その後の沙汰(噂)にてと真横に加筆されて書かれてる。明らかにこれは敗戦の事実を隠蔽したい秀吉の工作であって、
家康の誇大喧伝なんて存在しない。つか、秀吉によって捻じ曲げられた捏造情報ばかり書かれてるイエズス会年報やフロイスの日本史ですら
一万人戦死と書かれてるし看羊録でも秀吉は家康に大敗して和議を結んだと書かれてるしな

小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし

つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと

顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ
信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ
公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた
263人間七七四年:2014/12/01(月) 14:13:48.94 ID:eRzWFUt4
小牧長久手の戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

3月13日の丹羽長秀宛書状では『14、5日程で一気に酒の酔いを醒ますごとく
決着つけてやる』と言ってるししかも大軍結集してるから実行にも移してる。
敗戦前日の丹羽宛書状等複数の書状では『家康さへ討果候へは』
とあるし龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、
生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河
へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦も
その一貫であり自分の意思で池田等の兵力を三河に向け発向させる予定である旨
を報じてる。
北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被
仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀かねに同道してた
渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる。
その後も秀吉の決戦構想は
は秋頃まで一貫してて11月の信雄との和睦時ですら
「家康には恨みが深いので年内であっても攻め滅ぼしてくれん」とか言ってる

伊勢にいた軍勢北尾張に呼び寄せてるし留守居に最低限の兵
残して北尾張に秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄、
細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、
赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、
小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、
蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、越中衆、伊藤祐時、加藤清正、
加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、長久手方面進軍者を除きこれだけ
主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、
一柳、生駒吉一、矢部、山内 彼らが柏井の屋敷に在番してる。
上記の最低限の留守居除く全て総力でかき集めたといっていい

21日に美濃池尻に来た時は125000(細川軍記)100000(当代記や野坂文書)
これだけ大軍を連れてきたとある。伊勢の兵も四月にはだいぶ尾張に進めてるし。
それから詳細な地図ないから説明しずらいが犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、
小口、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでてそこにも兵をある程度配置してると思われる
し、さらに楽田〜龍泉寺までの大草、柏井、篠木にも屋敷が普請さ れている
264人間七七四年:2014/12/07(日) 22:48:46.86 ID:1W9XbKky
菅沼遼太さんは、何でこんなに秀吉スレを荒らすんですか?
もうやめてくださいませ。
265人間七七四年:2014/12/21(日) 16:08:18.68 ID:FA5NJz4J
お願い!編集長「まんが日本史 〜豊臣秀吉の野望〜」
Eテレ 2014年12月21日(日) 16時00分〜17時00分

視聴者からのリクエストに応える「お願い!編集長」。
今回は「まんが日本史」から、1992年に放送した、第1〜4回「豊臣秀吉の野望」のアニメ部分を再構成してお届けする。

出演 河内家菊水丸
豊臣秀吉(声) 間寛平
266人間七七四年:2015/02/03(火) 15:27:37.28 ID:N9UmShZz
ハシバって、アラブの名前みたいだよ
267人間七七四年
使い捨て関白