もし武田信玄が死なずに西上を続けていたら・・・

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591人間七七四年
義昭も信玄の上洛に期待して挙兵を促しまくり
摂津の伊丹親興が挙兵したり、京都西岡地方で土一揆挙兵、西近江三井寺光浄院挙兵、
挙兵準備中の義昭自身は信長への和睦条件として
六角氏の甲賀にいた武田信虎に哀願して近江諸将と和睦斡旋してもらうように信長に命令してたり
毛利輝元を右馬頭に任じて隆景に出兵命令出したりと信長との対決姿勢をいよいよ強くしていったことからもわかる。
さらに三好三人衆だけでなく松永久秀や三好義継を許して信長に対して敵対させるし
信長も事態が切迫して義昭に対して「自分と信忠は将軍が許してくれるなら、頭を丸めて武器も持たずに会いに赴きます」と
土下座状態だったが義昭は強気を崩さず信長はさかんに「義昭の行動を公家や御所はどう思っているのか?」と心配して聞いてる。
さらに信長は義昭に人質を出すから和睦して欲しいと哀願してるし

義昭攻撃にあたり信長は金子100枚・大判200枚しか集められず
細川に荒木と協力して資金集めしろと命じた挙句に下記のような真似までやってるほど財源不足だった。
これにより織田軍は鉄砲・弾薬・兵糧すら満足に集められない状態。
上京焼討ちでは、戴恩記に信長が呼び寄せた近隣の土民達の略奪の凄まじさ
が書かれている。 また庶民が火事により大井川へ飛び込み溺死膨大(東寺光明講過去帳)
「京中辺土ニテ、乱妨ノ捕物共、宝ノ山ノ如シ」 (天正元年、織田軍上洛ノコト・「永禄年代記」「続群書類従」)
また信玄の西上作戦により織田の軍費がまったく足らず下京や寺社などに焼き討ちを免れるための条件に
大金を要求しまくって、それを軍費にする目的もあったので
(加茂野の地の寺社だけで銀棒300、各43匁の重量とフロイスは書いている)
天皇の御所まで延焼するのもまったく気にせず信長は「御所に類火が及べば遷幸するように!」と命じたので
困った天皇は信長の目論見通りに将軍義昭に信長との和睦を勧めて延焼がこれ以上に広がる前に調停させた。
こういうこともあり本能寺の変後に義昭は毛利の乃美への「信長を討ち果たした」
島津義久には「織田は天命のがれがたく自滅した」と語ってる

29日に信長が岐阜から上京。信長がやってきたところ二条城には三つの堀と数箇所の新しい稜堡が備えられてたという
二条城が大改造されフロイスも「とても陥落するとは思えない」と記述するなど信長完全涙目www
30日に先制攻撃で義昭が京都奉行の村井定勝の屋敷を包囲。
4/1に信長は京都吉田神社の吉田兼和に南都北嶺を滅ぼしたら朝廷の祟りがないか尋ねて
兼和が祟りになるような記述はないと解答を貰って安心してる。
4/2には1万の軍勢を指揮する柴田・明智・細川・荒木・鉢屋・中川・佐久間に下賀茂〜嵯峨あたりまでの128箇所を全焼させた。
3日夜から上京の二条から北側を焼き払い、市民は大井川で大量に溺死で京洛は阿鼻叫喚の騒ぎになる。
あたり一面が焦土となりこれに危機感を持った天皇が動いて勅使が二条城で義昭を諭してから信長の元へ向かい
津田・佐久間・細川らが5日に二条城で義昭と講和交渉をはじめ
7日に講和完了し4/27に信長が和約の誓詞を差し出した。

金策命令の時に信長は丹波の宇津氏は義昭の供衆に加わったが丹波の実力者の内藤氏は義昭に味方していないと言ってるが
実際に義昭が二条城に籠城してるメンバーに射撃手1000を含む内藤5000が参加してたなど
たった1万の信長側は圧倒的不利な立場に追い込まれたために信長の予想戦略見通しは誤算の連続になった。
金策命令の時に謙信が武田の背後を突く予定だとか他力本願の希望的観測で虚勢を張ったが
義昭の甲越和与の力で信長の謙信への出兵要求を謙信はまったく聞いてないだろwww
それにいざという時は北条が北上して謙信を牽制すればいいだけだし