伊達政宗、島津義弘>>>織田信長

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184人間七七四年:2012/11/28(水) 21:50:33.81 ID:cwAv+nWp
この馬鹿何いってんの?
185人間七七四年:2012/11/29(木) 20:58:14.59 ID:GVgUbJMe
島津勢は八月六日宝満城を包囲。統虎の弟高橋統増は、立花城への退去を条件に開城するが、
島津方は約束を違え統増は捕らわれの身となってしまう。
そしてついに島津勢は立花城へと至る。身柄を拘束した統増をも盾とし、
統虎に開城を迫るが統虎はこれを拒絶。さらに島津の陣に夜討ち等を繰り返し翻弄する。

島津勢は八月六日宝満城を包囲。統虎の弟高橋統増は、立花城への退去を条件に開城するが、
島津方は約束を違え統増は捕らわれの身となってしまう。
そしてついに島津勢は立花城へと至る。身柄を拘束した統増をも盾とし、
統虎に開城を迫るが統虎はこれを拒絶。さらに島津の陣に夜討ち等を繰り返し翻弄する。

島津勢は八月六日宝満城を包囲。統虎の弟高橋統増は、立花城への退去を条件に開城するが、
島津方は約束を違え統増は捕らわれの身となってしまう。
そしてついに島津勢は立花城へと至る。身柄を拘束した統増をも盾とし、
統虎に開城を迫るが統虎はこれを拒絶。さらに島津の陣に夜討ち等を繰り返し翻弄する。

島津勢は八月六日宝満城を包囲。統虎の弟高橋統増は、立花城への退去を条件に開城するが、
島津方は約束を違え統増は捕らわれの身となってしまう。
そしてついに島津勢は立花城へと至る。身柄を拘束した統増をも盾とし、
統虎に開城を迫るが統虎はこれを拒絶。さらに島津の陣に夜討ち等を繰り返し翻弄する。



卑怯者の島津はこれを絶対表に出さない。  祁答院に拉致監禁を未だに認めない鬼畜生。
186人間七七四年:2012/11/30(金) 00:09:36.50 ID:C73I/VWa
島津って野戦のみは得意なようだが、城攻めが極端に下手糞だから評価低い。
187人間七七四年:2012/11/30(金) 16:36:58.69 ID:cwM9rCIS
野戦での圧倒的な島津の強さに恐れてすぐ篭城されているからな
篭城されたら名門島津といえども簡単には落とせん
188人間七七四年:2012/11/30(金) 19:24:25.26 ID:C73I/VWa
pu ↑ こいつ島津が秀長にレイープされたのも知らんのか www
189人間七七四年:2012/11/30(金) 20:47:44.09 ID:VpoqykjC
またいつもの馬鹿か
弱小は辛いっすね
190人間七七四年:2012/11/30(金) 21:00:06.89 ID:C73I/VWa
島津は騙してズルして侵略三昧した屑。
他国の寺社に火を放ち焦土と化す。 故に薩摩への怒りは頂点に達してる。
九州で加藤や黒田贔屓が多いのは島津への強烈な敵対心。
191人間七七四年:2012/11/30(金) 22:13:34.47 ID:cwM9rCIS
言ってろカス
192人間七七四年:2012/11/30(金) 22:55:04.25 ID:C73I/VWa
>>182
「釣り野伏せ」 は正攻法ではありません。 騙し討ちです。 各地から顰蹙買ってます。
本当の正攻法は長尾影虎の「車懸りの陣」のような戦法を指すんですよ、薩摩芋 w
193人間七七四年:2012/11/30(金) 23:01:17.97 ID:i5qGK3sk
御船城の甲斐親直に負けまくり
その子の甲斐親英にも負けまくり
御船城が攻略できずターゲットを高森城にしたら見事に謀られた島津は高森惟居の反撃に壊滅的ボロ負けを喫して相良領まで大敗走。
天正10年に島津の先鋒となり戦死した相良義陽の死と同時に相良領八代を奪い取っていた島津との最前線の堅志田城で負けまくって攻略を断念していた島津が
天正11年に堅志田城の押さえとして花山城を築いていたが、
天正13年に勝ちに乗じて堅志田城を防衛するために阿蘇軍を率いた親英に花山城が攻略されてしまう弱さを発揮。
阿蘇合戦に大敗した島津は、ついに相良を戦わず降伏させた際と同様の圧倒的大軍で北上。
それでも親英に大苦戦。
親英に勝てない義弘は、親英との和睦交渉の席でいきなり拉致り、弓矢の前では偽りもありと開き直り連行したために阿蘇氏は滅亡。
そういや宝満山城を守っていた宗茂の弟の統増に対しての和睦交渉でも
島津は城兵の命を助ける&母の宋雲院と統増の立花城への移動の安全保証の約束がありながら
宋雲院と統増を拉致り、立花城攻めにおいて高満城兵を前線に出して弓矢の盾にして宗茂に降伏すれば違う場所に城と領地を与えると提案してきたが宗茂はまったく信用しなかったな。
島津の戦を冒涜し、武門を辱める行為の数々は卑劣かつ悪質な犯罪者ですらある。
いつも負けまくり圧倒的大軍でないと勝てない弱島津の捏造マンセーは見るに耐えない愚劣さだ。

訂正
×高満城兵を前線に
○宝満山城兵を前線に

寡兵で島津が勝ったなんて完璧な捏造だよな。ほとんど負けまくりの島津が戦国最強とかチョンみたいだよな薩摩隼人族って。
194人間七七四年:2012/12/01(土) 00:47:46.06 ID:u46QV8O3
アホは都合が悪くなると長文

伊達が一番強い
195人間七七四年:2012/12/01(土) 13:34:18.66 ID:6lRPhRiW
琉球王国wwwwwwwwwwwww
196人間七七四年:2012/12/01(土) 13:35:49.53 ID:6lRPhRiW
誤爆
197人間七七四年:2012/12/01(土) 13:48:46.34 ID:Ol8ltt1F
伊達政宗の凄いところは、
ただだか一野戦の摺上原の戦勝を一気に奥州制覇にもって行ってる所だな

普通は野戦で勝っても、城に篭られて、延々と合戦を繰り返すだろ

政宗は摺上原で、ただ勝つだけでなく、敵の主力を殲滅して一気に黒川城をも落とし
さらに一気に会津を制圧し、南奥を征し、マジックのように一気に奥州の覇王になっている

やっぱ政宗>島津、信長だろ
198人間七七四年:2012/12/02(日) 00:56:44.41 ID:ReJv9JJj
島津、伊達如きが名君信長と比べんなカス
199人間七七四年:2012/12/02(日) 18:13:39.86 ID:HePURI15
信長って、愛知と岐阜の2県を切り取るのに10年ぐらいかかってる
政宗の方が倍ぐらい侵略のスピードが速いぜ
200人間七七四年:2013/01/22(火) 22:05:42.14 ID:MaNDtplU
侵略のスピード
敵を翻弄する進軍スピード
その両方を兼ね備えていたからこそ、「韋駄天の伊達」 なわけで 。
201人間七七四年:2013/01/24(木) 07:34:30.61 ID:M6tEVTV+
最上すら倒せない雑魚がなんかホザいとるのう
202人間七七四年:2013/01/24(木) 18:13:37.74 ID:CW+aBrH6
正宗は終始家康に媚売ってる感じだが、最後まで猿に徹底抗戦した
島津家は凄いと思う
関が原でわずか数百で家康本陣3万に突撃した島津の捨てがまり
これは全国の大名を恐れさせた

朝鮮出兵では数万〜十数万の明・朝鮮連合軍をたった数千で
フルボッコにした島津軍
203人間七七四年:2013/01/24(木) 21:36:50.89 ID:X7UELWZp
関が原の島津が数百とか相当無知だな
石田三成人数書立や義弘書状でも読んで出直しな
204人間七七四年:2013/01/25(金) 10:34:42.38 ID:3NMMUqrL
何処かを贔屓しているヤツは、得てして抜けているものだよ。
だって、全体が見えないんだもんw
205人間七七四年:2013/01/26(土) 10:19:56.00 ID:aMNcRGl5
まあ突破直前には数を減らしていたのは事実だろうがな
206人間七七四年:2013/01/26(土) 11:38:38.72 ID:jB+gVNCV
関が原での島津軍は6000。これは三成の記録その他数点の記録にちゃんと書いてるし
義弘も領国の軍勢全て呼び出してるのが書状でわかる
このうち本戦でほとんど蹴散らされて副将以下ほぼ全滅の戦死したのが実態
207人間七七四年:2013/01/26(土) 13:14:09.08 ID:aMNcRGl5
実際は、国許の義久は義弘の軍勢の催促を無視し、

1500人程度(通説)しか集められなかった島津軍は

攻略案を破棄されるなど三成に軽視されたのだが
208人間七七四年:2013/01/26(土) 13:15:36.73 ID:aMNcRGl5
実際は、国許の義久は義弘の軍勢の催促を無視し、

1500人程度(通説)しか集められなかった島津軍は

攻略案を破棄されるなど三成に軽視されたのだが
209人間七七四年:2013/01/26(土) 14:16:56.23 ID:Bmbs25pv
どちらにしろ少ない兵数で数万の本陣に的中突破をやったのは事実
合戦後徳川は敵であった島津軍を褒め称えている

で、後にその徳川幕府を倒したのが薩摩島津家の子孫である
薩摩の西郷と大久保(薩長同盟)だから歴史は面白い
210人間七七四年:2013/01/26(土) 15:13:09.28 ID:jB+gVNCV
島津は領国の兵ほとんど関が原に連れてきてる(8/20義弘→本田正親書状で惣在国之人集ハ彼表へ在番可申付と書いてる)
石田三成人数書立にも美濃口 羽柴兵庫頭(島津義弘) 六千人と書いてるし
伊達家文書の関が原合戦時の記録にも同様の人数。
後合戦後徳川が敵方島津を褒めたなんて事実はない
211人間七七四年:2013/01/26(土) 15:19:13.52 ID:6aCFvA2D
敵中突破って島津軍6000は徳川方にほとんどぶち殺されて数十騎で命からがら帰ってきたんだがw
真田文書・石田三成人数書立・慶長見聞書  羽柴兵庫頭(島津義弘) 六千騎
8/20義弘→本田正親書状 惣悉在国之人集ハ彼表へ在番可申付

島津が寡兵とか馬鹿じゃね
212人間七七四年:2013/01/26(土) 16:20:02.35 ID:cy90xvpj
ここは馬鹿しかいねぇのか?
島津や伊達はうつけ信長よりずっとマシだろ
213人間七七四年:2013/01/26(土) 19:17:33.19 ID:aMNcRGl5
前者は真田を西軍に引き込むためのもの
後者は他の軍勢と比較して規定軍役に達していないことを嘆いたもの

当主である義久は兵を関が原へ送らなかった
義弘の義勇兵+兵を動かすことの出来た豊久の軍勢で通説程度が妥当だろ

家康は薩摩に多くの兵が温存されていることを認識していたのだが
214人間七七四年:2013/01/26(土) 21:28:03.07 ID:jB+gVNCV
>>213
お前の妄想なんぞ知らん。ちゃんと史料を持って論拠示せ馬鹿が
215人間七七四年:2013/01/26(土) 21:31:24.51 ID:6aCFvA2D
>>213
真田文書・石田三成人数書立・慶長見聞書と6000で皆共通し
義弘書状でも総勢呼び集めてるのに
薩摩に兵が多く残ってたとか相当馬鹿だな
幼稚園からやり直せゴミ野郎
216人間七七四年:2013/01/26(土) 21:53:19.18 ID:jB+gVNCV
島津は実際の所1万人くらいいたんじゃね
朝鮮出兵のときも陣立書によればそのくらいだったはずだし
217人間七七四年:2013/01/26(土) 21:58:56.76 ID:Bmbs25pv
どちらにしろ俺たちの言っていることに根拠はまったくない
妄想で十分楽しめ
218人間七七四年:2013/01/26(土) 22:09:11.66 ID:6aCFvA2D
島津の史料はデタラメばっか書かれてるからな
朝鮮出兵時の兵力も豊臣作成の陣立書と比べてかなり少なく捏造されて
寡兵で勝ったとか妄想観念をうえつけようとさせてるし
219人間七七四年:2013/01/26(土) 22:35:31.69 ID:VnpIhxmO
証拠も根拠も何もないけどそこまで島津リスペクトしてくれてありがとうよ
あと信長が生きていたら今頃シナチョンも日本国だったかもな
やはり信長と秀吉が一番凄いよ
220人間七七四年:2013/01/26(土) 22:44:06.31 ID:jB+gVNCV
信長や秀吉なんて動乱の影響でくたくたになった畿内をチート国力と敵勢力分裂状態を利用して火事場泥棒したにすぎん

中身のない形式的な主従関係しか取れなかったから徳川に天下奪われた負け犬雑魚
221人間七七四年:2013/01/26(土) 22:49:18.46 ID:6aCFvA2D
信長や秀吉は畿内・美濃に大苦戦

家康は瞬殺した。

信玄はその家康を瞬殺した。
222人間七七四年:2013/01/26(土) 22:50:16.88 ID:jB+gVNCV
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長  姉川
謙信>>>>柴田  手取川
謙信>>信玄    川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉  84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉     しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉      伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉   小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉            尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川            神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族   中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津       九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦       鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直            天正壬午
仁科>>>信忠  高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀     二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部     戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
223人間七七四年:2013/01/26(土) 22:51:59.28 ID:6aCFvA2D
信玄が死んでも武田領は織田徳川の草刈場にならなかったが
信長・秀吉が死んだら織田豊臣領は周辺大名の草刈場になり、一気に崩壊した。
いかに織田豊臣が雑魚だったかわかる。
224人間七七四年:2013/01/26(土) 22:52:45.35 ID:6aCFvA2D
武田信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長より遥かに戦上手

根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた

根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)

根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍

信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
225人間七七四年:2013/01/26(土) 23:01:26.46 ID:Bmbs25pv
彼らが同時期だったら話はわからないでもないが
結局適当な結果論じゃねーか・・

>信玄はその家康を瞬殺した。
でも最後は幕府を開いた徳川の圧勝だな
武田家は親子とも中途半端
真田家のほうがよっぽど活躍した
226人間七七四年:2013/01/26(土) 23:04:25.89 ID:Bmbs25pv
ID:6aCFvA2D

根拠だけでは話にならないよ
どうせ証拠も出せないんだから

信玄が信長より上?
天下もとってねーのに無いわ
227人間七七四年:2013/01/26(土) 23:05:34.87 ID:jB+gVNCV
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし

×武田が実力で信長に滅ぼされた

○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒

こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる

あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな


信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
228人間七七四年:2013/01/26(土) 23:05:56.01 ID:jB+gVNCV
武田対織田の結果

上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり


武田と織田比較

領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り

天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。

甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
229人間七七四年:2013/01/26(土) 23:06:12.71 ID:jB+gVNCV
三方が原の戦いの、双方の顔ぶれから推測した兵数考察

・武田(約18,000人)北条(約3,000人)
・佐久間、林、平手、滝川(約9,000人)水野(約2,000人)徳川(約12,000人)

/武田、上杉は全兵力を投入できない為、自国の兵士はせいぜい18,000人程度が限度
/佐久間、林、平手、柴田は代々重臣の家柄
/戦略家・織田信長が相手より少ない兵を送り込むとは考えにくい
/洪水や退却中というのも恐らく織田側の情報操作、織田家武将の退却戦は定評あり

『総見記』元禄初年(1690?)
佐久間信盛、平手汎秀、林秀貞、水野信元、毛利長秀・美濃三人衆、都合三千
三方原合戦については谷口克広でさえ、このメンバーで3千人という
信長の援軍は少なすぎると述べている
三方原合戦の謎とされる下記も、織田ー徳川方が優勢だったとすれば納得がいく

@劣勢な家康が出陣した理由

A劣勢な徳川軍は鶴翼の陣を取り、武田方は魚鱗の陣で待ち構えていたとされる。

鶴翼の陣は通常は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形であり、逆に魚鱗の陣は
劣勢の側が敵中突破を狙うのに用いる陣形で、両軍の規模を見ればどちらも定石と異なる
布陣を敷いていたことがわかる。

三方原については、

佐久間信盛:(約4000人)織田家の最有力武将、前田本家(与十郎)を支配していた
林秀貞:(約2000人)幼少信長付の筆頭家老
平手汎秀:(約1000人)代々家老の家柄
滝川一益:(約2000人)伊勢攻略及び尾張西部の守備を担う有力武将
毛利長秀:(約1000人)赤母衣衆、斯波氏?
美濃三人衆:(約3000人)織田家遊撃軍の主力
水野信元:(約2000人)織田家の同盟相手、尾張から三河にかけて勢力を有する水野一族惣領

全員揃うと織田家の援軍だけで1万3千、水野家2千、
徳川家最大動員数1万2千とすると、合計約2万7千人が妥当
柴田勝家、佐久間信盛はそれぞれ当時の織田家最有力武将であった。
つまり織田家は果敢に上杉謙信、武田信玄に総力戦を挑み、敗れ去っていたという真実。

更にこのことは織田信長に東方との戦争を危険性を強烈に認識させ、
1.長篠合戦での極端な守備的布陣
2.甲斐侵攻までの長い空白期間
3.甲斐侵攻作戦における慎重な指示
4.更に消極的な越後侵攻
に繋がったと推測できる。


元亀2年の長島一向一揆攻め5万人の内容

信長本隊
佐久間信盛軍団
(浅井政貞・山田勝盛・長谷川与次・和田定利・中嶋豊後守など尾張衆が中心)
柴田勝家軍団
(氏家卜全・稲葉良通・安藤定治・不破光治・市橋長利・飯沼長継・丸毛長照・塚本小大膳など美濃衆が中心)

佐久間信盛、柴田勝家は、この頃すでに1万〜2万を率いていたと考えるのが妥当だろう
230人間七七四年:2013/01/26(土) 23:06:27.06 ID:jB+gVNCV
勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。

馬場は700の兵でも信長3万の兵卒より強かったから、
三万÷700=43
兵力比の2乗が戦闘力に比例するから
43の2乗=1844
攻守三倍原則を適用するにしても
43÷3=14.3
14.3の2乗=204.49だから最低でも馬場は信長より204.49倍戦上手。
信長が統率100なら馬場は20449が妥当

一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
231人間七七四年:2013/01/26(土) 23:07:32.04 ID:Bmbs25pv
ダメダメ
武田なんて上杉に比べたら屁
232人間七七四年:2013/01/26(土) 23:07:35.37 ID:jB+gVNCV
1546年 信長初陣。
今川勢相手に何もできずに放火だけしてすぐさま逃げ出す。
後の多数の敗北を髣髴とさせる華々しい初陣であった。
1552年 信長家督継承。
素行の悪さからあちこちで「うつけ」と呼ばれて馬鹿にされ、
やさしかった父親の葬式にろくに服装もととのえないでやってきて
抹香を投げつける親不孝者。家臣失望。後にみんな離反。
守役の平手絶望。「守り立てる甲斐なし」といって自害。
1554年
村木攻め。斉藤道三から援軍もらって城を任せ、残り全軍で多数で攻めて成功。
1555年
叔父信光を使って清洲をだまし討ちにしてのっとる。
信光は用済みとばかりに信長に殺される。
1556年 舅道三が斉藤義龍に謀反され、窮地に陥る。
散々助けてもらってたくせに舅の危機に間に合わず、道三は討ち死に。
信長勢は行きがけの駄賃とばかりに、斉藤勢に攻撃され、あっという間に突き崩され
織田の武将が何人も討ち取られ、森も重傷を負う。たまらず敗走。
この無様な敗戦で尾張で離反相次ぐ。
1560年桶狭間の戦い。敵先陣と本陣を勘違いするというありえないミスを犯す。
先陣と勘違いしながら突っ込んだらいきなり大雨が発生し
今川勢が崩れる。本陣突っ込んだら大将が乗る塗り輿があり、
初めて自分が戦ってるのが本陣だと気づく。
大雨でぬかるんだ大地を逃げ切れなかった義元、織田勢に首を取られる。
1560年
桶狭間の勝ちを実力と勘違いしたか、
美濃にせめこみ、義龍にあっさり撃破される。2回。
1561年
斉藤義龍死亡。美濃は幼君が継ぎ、クーデター騒ぎまで起きるようになる。
信長、これを見て美濃侵攻。
嵐を利用して森部で勝利。
しかし調子にのって14条に攻め込んだら真正面から斉藤勢に撃破される。
織田一族信清の弟戦死して敗走。
軽海で夜まで戦ってなんとか追撃を振り切って逃げ延びる
1562年
14条で弟を死なせたからか信清離反。
尾張小口城を攻めて敗北。側近岩室長門死亡。
1563年
新加納で斉藤勢に敗北。
1565年 鵜沼猿食調略。丹羽のおかげ。
東美濃で武田の一部隊と衝突。あわてて兵を引き、婚姻同盟を申し込む。
堂々砦攻防戦。
砦攻略したと思ったら斉藤勢三千に襲われ死人負傷者多数出してたまらず敗走。
1566年
足利義昭から上洛救援要請来る。
信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。
しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。
し か し こ こ ま で し て も 勝 て な い。
攻撃はあっさり斉藤に防がれ、ここまでして騙まし討ちにしたのにあしらわれ
上洛救援も果たせず、「天下の笑い者」になる。
逆上して河野島まで進出するが、斉藤勢に迎撃されたら武具まで捨ててあわてて逃亡。
逃げる途中で洪水に見舞われ死亡者多数。逃げ遅れたものは斉藤勢に虐殺される
233人間七七四年
1567年楠・高岡城の攻略に失敗。
1568年 義昭を擁して上洛開始。
浅井に押され、観音寺騒動で弱体化していた六角を攻略する。
このときは織田のみならず浅井・徳川その他も含めた5万近い大軍であった。
分裂していた三好勢、これに対抗できず京都から撤退。
1569年 北畠を大軍で攻める。しかし見事に敗北。
当時の公卿の日記には「神の戦であろうか?国司達の勝利である。」と記される。
困った信長は和議を持ちかける。北畠これを受諾。信長はあとで謀殺してのっとり。
1570年朝倉にいちゃもんつけて攻め込む。
朝倉と同盟であった浅井はこれに反発。織田を挟撃する。
信長は部下を見捨てて逃亡。金ヶ崎の醜態である。
1570年 姉川の戦い。
従来織田による織田のための宣伝で織田の大勝とされてきた。
しかし織田のいう朝倉浅井一万近く死亡して浅井長政死亡という割には
朝倉の資料では戦死120となり、浅井長政も生きている。
実際は痛みわけと見るのが妥当といわれる。
野田福島の戦い。
数に任せて三好勢を追い詰めるが、それまでの行動から不振をもっていた本願寺が
織田に対して決起。野田福島でこれを迎撃。織田勢は押し返され無様に敗走。
坂本攻防。織田の将である森と織田一族が雁首並べて朝倉浅井勢に討ち取られ
そのまま京都に侵攻される。
志賀の陣。
織田主力と比叡山に陣を敷く朝倉浅井勢対陣。
信長は手も足も出ず、領土奪って困窮させたはずの比叡山に援助を頼み込むが
当然断られる。堅田に派遣した坂井勢はあっさりと朝倉浅井勢に壊滅させられ
打つ手なくなる。
小木江攻防。
信長の弟がこもる尾張小木江を伊勢長島勢攻撃。信長救援送れず見殺し。
周囲を包囲網勢に圧迫され、窮した信長は天皇を介して
朝倉浅井に「朝廷とか公方とか寺社とかその他のことは仰るとおりにいたします」と
無条件降伏に近いこといって和睦。その後しっかり和睦を破る
1571年 伊勢長島第一次。
信長自らが大軍を率いて攻撃するが失敗。
撤退するところを追撃され大敗北。氏家朴全死亡。部隊壊滅。柴田も負傷。
比叡山大虐殺。
先年の志賀の陣の仕返しに比叡山を焼き討ち。もともと敵対させたのは誰だったと思ってるのか。
虐殺焼き討ちは天を焦がし、悪名は天下に響き渡る。
1572年 信長、本隊を率いて朝倉浅井と対陣。
嵐を突いて朝倉勢に陣地を焼き討ちされ、700以上焼失。
信長、横山城から美濃に帰還。
その後朝倉浅井勢、織田勢を攻撃し大利をあげる。
その戦果は常陸にまでとどろき、複数の同時代資料で確認される。
信長、武田織田の両属だった岩村を当主が死んだのをいいことに部隊を派遣してのっとる。
武田、これを受け秋山を岩村に派遣。岩村勢、これに呼応して武田につく。
武田本軍、徳川領土を次々と侵食。織田も援軍を送り、徳川とともに
三方ヶ原におびき出され完敗。
戦死武将50名以上、死者千名〜2千名に達する大敗北。
徳川はこれ以後しばらく三千ほどしか動かせなくなる。
1572年 武田の秋山隊、上村合戦で織田勢を撃破。
1573年
武田の馬場美濃、800余りの兵を率いて東美濃侵攻。
焼き討ちを行って織田を挑発。
信長は一万余りの兵を率いて進出するが、馬場美濃は手勢を率いて
織田勢を急襲し、織田勢敗走。信長は後ろも見ないで岐阜に逃げ込んだらしい。
信長、諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる。
この状態で将軍義昭離反。
「人質だしますから和睦しましょ」と持ちかけるが拒否される。
天皇を使ってダッシュで和睦してダッシュで美濃に帰る。
信玄死亡。武田勢撤退。反織田勢の反撃計画潰える。
信長、勢いにのって浅井に攻撃をしかけるが撃退される。