伊達政宗、島津義弘>>>織田信長

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2人間七七四年
宮城県最大の基地害にしてナチのもっとも冷血にして効率的な死刑執行虐殺者
宮城県史上いやこの理不尽さは日本史上!最強の屠殺業者政宗公


政宗が甘言で大崎葛西一揆の首謀者達を集めて須江山で謀殺した数は葛西側資料には70以上はあり、
秀次の命でやむを得ず殺したと知る成実記はウソを書いてるし、伊達秘鑑における二十数名を殺したってのもウソだとしている。
葛西氏と山内首藤一族は
やはり大崎葛西一揆鎮圧で政宗は甘言で深谷に呼び出して集合させた武士500農民2000を虐殺したとしてる。

左沼城撫で切りで百姓2000人武士500と桃生郡江糠塚山の一揆物頭衆騙し討ちで伊達に殺された加西氏は完全に息の根を止められたしな。

また関ヶ原に絡んだ記述として和賀一揆を支援した政宗に対して反撃した南部側に花巻で敗れた伊達軍は
捲土重来を期して南部侵略の拠点にした水沢からさらに増援を送り出し岩崎城に物資を集積。
南部軍は4/4水沢からきた伊達軍を野戦で撃破し26日には岩崎城を陥落させ、
伊達軍は岩崎が火の海になる中を逃げ惑い伊達領へ壊走した。
その時たまたま家康の鷹匠が現地にいたので南部利直はさっそく井伊直政宛に書状を書いてる。
政宗は家康に対しては、すべて和賀のせいにして無理やり自刃させ、その首を利直へ贈り、あなたの賊は政宗が成敗したから今回の事は水に流して欲しいと哀願。
さらに今井宗薫へ宛て百万石はムリでもせめて堪忍分として十万石でも二十万石でもどっちでもいいから加増させてもらいたいと哀願したと書かれている

岩崎城攻撃は3月から約一ヶ月間。
南部の花巻城でのゴタゴタは政宗が山形に兵を送った頃で、花巻城防衛に南部が成功した後は、関ヶ原終了で南部側も様子見していた。
下手に伊達と大規模紛争したらまかり間違って上杉側と思われるような誤解が怖かったからだ。
政宗から山形へ兵をもらい助けてもらったはずの最上側もさっそく家康に政宗の南部侵攻の暴挙を報告してる。
そのうち雪が降ってきたので岩崎城を放置。
すると政宗が岩崎城の兵力と物資を増強。
3月には南部は伊達攻撃について家康から許可をもらったのだろう。
つまり家康は伊達を東軍とは到底認識しておらず見捨てたにも等しい。

こうして岩手県の南部信直公と花巻城主北信愛は政宗に天罰を加え、
怨みに満ちた宮城県民はさすがは南部公だと拍手喝采を叫んだという。
これを恐れた仙台はスペイン軍誘致策も失敗したこともあり
宮城県での住民洗脳に力を入れていくのである。