武田信玄は過大評価されすぎ!!

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759人間七七四年
信長は弟の信治や家臣の森可成、坂井政尚といった武将を
志賀の陣と並行しておきた野田城・福島城の戦いで失い
長島門徒の攻撃で信長の弟信興が討死
坂井政尚まで討死
朝廷と信長包囲網の主である足利義昭に土下座して
朝倉義景や六角義賢との和睦斡旋を願った。

信長公記では朝倉方から義昭に仲介を頼んだとデタラメ記述があるが
浅井へ「公家・門跡方の政道の件は貴国より沙汰に及ぶべきの条相違これあるまじき事」
という朱印状を
朝倉へ「天下は朝倉殿持ち給え、我は二度と望みなし」(三河物語)
という起請文を提出しており信長から和議を申し出たものと考えられている。