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人間七七四年:
越後で一番多くの人々が従事していたのが塩田で大量生産してたのに
それが新潟港からの通商で会津盆地に入ってこないのが明白なわけだが。
しかも会津盆地で灌漑農業がなされていた記録もないどころか飢饉になって統治能力も欠如し
盛氏末期にはみんなが挨拶に来ないと嘆いてるくらい洞の解体が始まってる。
一方で探題の輝宗の馬備えには葦名家臣達が参加してる。
さらに農業最先端地域の伊勢から商人達をたくさん引き連れて転封してきた蒲生時代の大開発で大きく会津は変化し
その後、大規模河川改修作業で
田園への河川氾濫が頻発していた
根本解決を図って若松城の欠点を無くした大城郭になってる。
秀吉が石高を計算する時は開発したらこのくらいは収穫できると言う予想付きのものだ。
その蒲生時代と盛氏を重ねるのはバカ過ぎる。