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人間七七四年:
言継卿記の元亀元年5/9六角入道の出張に浅井同心し信長2万で出陣。
5/22六角入道と右衛門督(義治)2万で甲賀石部城出陣と元禄初期の織田の動員力は2万。
そして柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚と並び称された
坂井政尚と森可成が討死しただけでなく織田信治・蒲生定秀の弟の青地茂綱らが討ち取られる志賀の陣で
(青地氏も六角の重臣の1人で湖東草津方面の豪族で六角家中では山岡と並び称されていて、
その人物が討死じゃ長光寺城の柴田・安土の中川の領地支配も揺らいでる事態)
信長は屈服するなど次第に追い詰められていく織田の兵力が激減することはあっても3万も動員できるわけがない。
(三河物語にも信長が朝倉に負け宣言をして天下は朝倉殿が取りたまえ。私は2度と天下を望まないと発言)
公記で織田3万と記述されてるのは下記の2回。
長篠の戦いで織田徳川双方を合わせた連合軍が3万と
長篠の戦い後に一向衆に奪われた越前に織田が攻め入った時の記述において、
かき集めた牢人衆や朝倉旧臣や浅井旧臣らも率いてた上でやっと3万に達してる。
尾張伊勢長島一向一揆衆には朝倉滅亡前の段階で林道政以外にも
織田信興・氏家卜全・蜂須賀正勝の弟が殺され柴田勝家も負傷。
そんな状態で、ついに金も兵糧も鉄砲も足らず三条河原で軍列を整え
知恩院に陣した総兵力織田軍たった1万だけ(年代記抄節)しか動員できず
(叡山焼討ちで言継卿記が伝聞から3000〜4000人殺されたと驚いているのを
年代記抄節はおよそ1600余人と誇張に惑わされずに冷静に書いてる)
朝倉軍は浅井の援軍として25000(朝倉始末記)もしくは2万(信長公記)を動員しているわけだ。
天正元年には慈敬寺文書によれば有岡城(伊丹城)を荒木に奪われていた
伊丹親興も織田に挙兵し京都西岡地方(幽斎の所領)でも土一揆。
三好康長や篠原自遁は12月に長岡京のある大山崎で禁制を発布してるし、
桂川の渡河先の淀城には石成友通がいる。
10/2付け六角承偵書状の内容には義昭側近六角義堯からの話として
信玄西上開始の秘密情報と共に三好甚五郎に四国衆の渡海を命じてるなど
三好勢も大規模上陸軍の編成をしてるようで総力あげてる。
(三好神五郎政長の子である三好政勝?姉妹は池田信正の正室だね。その子が池田長正でそのまた子が勝正)
よって幽斎が勝竜寺城を維持できている可能性はゼロ。京の西側はすでに三好勢力圏。
荒木と幽斎はすでに家無き子になって信長の上洛にやってきていたと考えるべき。
その後の伊勢攻撃でも帰陣中に一揆勢に先回りされて襲撃され豪雨で鉄砲が使えず林が討死し
夜間を信長は大垣まで敗走する中で多くの兵が凍死したし。
その後に越前が再び一向宗の手に落ちるわ、勝頼に明智城や高天神城を落とされるは踏んだり蹴ったりでしょ。