武田信玄に天下統一が出来るの?

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703人間七七四年
信玄の父の信虎は六角領近江甲賀にいて義昭と連絡を取っているが信虎は伊勢や伊賀に顔が利く。
北畠家臣の鳥屋尾満栄が信玄に使いし信玄の上洛の時は岡崎まで大船団を派遣し出迎える申し出ている。
ちなみに志摩水軍で北畠家臣だった小浜景隆は土屋貞綱の元で武田水軍創設に尽力。
南方の伊賀国衆は北畠支援で具房の母は六角氏
北畠政成の妻は松永久秀なので大和国人も援助していて反織田側という地域
北伊勢では長島門徒・高田門徒・天台宗信徒らが織田の敵
吉野・紀州に連なる三瀬谷城に具教が隠棲してるが具教を慕って集住し
あっという間に城下町が形成されたくらい反織田で、雑賀衆・大和三人衆も北畠の味方。
しかも背後の伊賀・大和吉野・紀州・志摩・熊野は南北朝以来の北畠旧臣国人達がいた。
紀伊の熊野新宮の豪族で熊野水軍最強と言われた堀内氏善(新宮城主)まで北畠支援で出張る始末。
大河内城2ヶ月大包囲で織田は高級幹部20人以上が討ち死し、追撃を恐れて退却もできず
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで水谷刑部少輔が賛意を取り付け和睦に合意
信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから
織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。
信長公記すらも信長が方々手塞がりとなったと記しているほど絶対絶命
信長も事態が切迫して義昭に対して「自分と信忠は将軍が許してくれるなら、
頭を丸めて武器も持たずに会いに赴きます」と土下座状態
京都所司代に似た役目を負っていた村井貞勝を攻めて先制攻撃をしたのはむしろ義昭の方。
信長は二条城までまんまと誘き出され味方と思っていた
内藤の鉄砲隊に銃撃され小便ちびって天皇の斡旋を願ったのが実態。

角明浩氏によれば命を無視して私戦を繰り返し去就著しい大和衆の統御を
織田家がうまく行えるようになったのは天正2年の蘭奢待採取と塙直政の大和守護任官が大きいそうだ。
これにより筒井衆や興福寺を始めとした大和衆の本願寺攻撃への協力が取り付けれるようになり
伊勢長島への有効的な攻撃が可能になったのだと。