702 :
人間七七四年:
岐阜城は竹中重治や斎藤利堯や織田信雄や福島正則などに落とされるなど
馬鹿みたいに簡単に落城しまくった城で落すのに苦労したのは信長だけ。
大和衆が武田と上杉は天下一の軍と恐れたほど10年後になっても恐れられた
本願寺の商人との連絡すら完全に取り締まりできないのは永禄2年正月に
信長が秀吉に越前と大坂を往来する商人の通行禁止(姉川〜朝妻)してたのに
見事に本願寺が朝倉からきた年頭の挨拶に返事をし、
さらに朝倉から贈り物が来たことにも感謝してるようにバッチリ連絡取り合ってる
信長も本願寺を「天下に造意しておりその使いが商人の姿をしてる」として勝龍寺城の細川に捕縛命令まで出してる。
元亀3年正月に顕如は信長が本願寺を攻撃するようなので
背後を突いてと信玄に申し出てるのが顕如上人御書札案留でわかるし
同じく正月に義昭の面前で細川藤孝が上野秀政に対して信長を討つ決起をする謀に対して諫言し、
聞き入れられずに鹿ヶ谷に蟄居してるのが細川家記からわかる。
元亀3年謙信は看経所で加賀・越中一向宗平定を祈り8月に越中出陣。
松永久秀の元から信長に対抗すべく美濃守護土岐頼芸が美濃へ帰国
8月姉小路良頼が上杉と呼応して越中一向宗を討つ態度を示し、本願寺の救援要請もあり
武田・上杉両属の曖昧な態度を糺すべく木曽軍が飛騨に攻め込み江馬輝盛を粉砕し武田に従属させる。
信玄死後の姉小路とその配下の江馬は謙信に従う(武田が以前に姉小路を従属させた際に江馬に領地を分けさせた)
誓願寺文書7号9/10付けで下間正秀が十ヶ寺惣衆中に宛てた内容を見ると
御屋形様(六角氏)が一向衆を観音寺城に入城させている。
その頃の織田は永原城に佐久間、長光寺城に柴田、安土に中川、宇佐山城に森(討死後に光秀)を配置して
湖岸の非常に細い京への街道のみをかろうじて維持してるに過ぎない(現在は琵琶湖を埋立てて平地が広くなってる)
いまだ南近江の大半は六角支配下だと思って間違いない。
西上作戦で武田軍は駿河の兵を一切動員してない。
信玄が義景に11/19付けで「岐阜に程近い鉈尾城の修繕を手配した」と書いてることから
鴨川氏も信玄が生きてたら信長を滅亡させていた可能性があると言ってるよね。
12/12岩村へ兵を移したので来春に岐阜直接攻撃を通知し12/28信長破滅の時がきた宣言する信玄
美濃の安養寺や専福寺の末寺や家老の遠藤加賀守を通じて
遠藤胤基などが内応して信玄の侵蝕が内々に進んでる。
信玄は密かに100貫の加増を遠藤加賀守に約束してるし、
来春の岐阜攻略を通知し朝倉や浅井も遠藤加賀守に書状送ってる。