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58人間七七四年
もはや使えない毛利に出る幕は無く
筑前で秋月を降伏させ楽勝で南下する秀吉軍の先鋒の蒲生らは島津弱すぎて休めないと不満爆発。
秀長率いる日向南下軍は根白坂の戦いで島津と決戦に。
秀長の先鋒軍相手に攻撃をかけるも寡兵の宮部や藤堂らにさんざんに翻弄されまくり結局あっけなく敗走する義弘。
島津は義弘の敗走を知るや義久が秀吉への土下座を内密に決定する。
日向で島津のために戦っていた相良は
この島津の裏切りを知るや丸裸の相良領に必死に撤退してきて
島津よりもだいぶ遅くなってから秀吉への降伏工作に乗り出す羽目になり
相良滅亡の危機に卑怯者島津への怒りを露にした。
島津に見放された宗像氏など滅亡させられたが
相良は連歌の才覚がずば抜けた深水長智を秀吉との交渉に派遣し
秀吉はその才覚に驚き、直臣に取り立てようとしたが固辞した。
秀吉は九州において立花、志賀、佐伯、鍋島、深水の才覚を大いに賞賛している。
そして島津に放火させられて廃墟になった博多の復興による
現地調達のできる対朝鮮渡海の軍事補給力回復、
北九州の良港の管理による貿易利権独占の為にキリシタン追放を決意。
しかし内実は豊臣政権に利益を与える外国人に関しては黙認する方針であった。
そのためにキリシタン狩りはやらなかったのだが小心者で志賀への嫉妬からキリシタン狩りを始めて無能ぶりを秀長から呆れられた義統と違い、
肥後佐々領などには豊後や毛利領から逃れてきた宣教師らが滞在していた。
また秀吉は小勢力の独立国人ばかりの肥後での一揆を危惧して
佐々に検地はとうぶんやるなと命じていたが佐々が支配力強化を目指して強行してしまい反乱が勃発。