上杉・武田・毛利・島津・伊達・今川>>>>>北条

このエントリーをはてなブックマークに追加
57人間七七四年
島津の劣勢の不安を解消すべく、降伏した諸将の家族から人質を取る方針に変更命令が来るや家久は恐怖のあまり義弘を見捨てて日向への逃亡を図る。
すなわち、今まで隠蔽してきたが島津兵の士気が非常に低く瓦解したも同然の島津の内情が人質達にバレたら大友の反撃で壊滅は確定と危惧したからだ。
事実、大友側は宗茂らによる筑後口方面からの圧力に加え、
肥後口を封鎖した志賀の岡城と佐伯地方の間にある唯一の日向口への撤退路の三重城の攻略による完全封鎖を狙ってきており近いうちに薩摩へ帰れなくなる可能性が高まったからだ。
家久は孤立中の義弘を見捨てて三重城まで長駆敗走。
それを知った義弘も筑後や肥後への撤退の不可能を悟り、
家久を追って日向への脱出を図るも、
ボロボロの家久から支援も無く
待ち構えていた大友軍にさんざんに破られ、殿の相良の奮戦のおかげで命からがら日向に脱出した。
これにより島津は戦力崩壊を引き起こし、
宗茂の攻勢の前に星野兄弟らを見捨てただけに止まらず、
宗像や長野や秋月らを見捨てることとなった。
その頃、黒田如水らがキリシタンと知ると小早川隆景は突然キリシタン顔を始めて露骨に卑しい好意を示し出して広島で一番良い土地を教会用に貢ぐなど宣教師を呆れさせる。
そして隆景と元春は豊前で長野の城を攻略するや住民らを大量虐殺して海に捨てて証拠隠滅したりしてた。
秀吉は秋月種実の弟の長野相手に毛利の侵攻の遅さに見切りをつけ
自分らが九州を一気に平定するからお前ら秋月を挑発せずに豊前で行軍止めて休んでろと言われる。
毛利弱しとみた秋月はすっかり自信を持ったが島津から援軍が来ずあっさり秀吉の先鋒の怒涛の勢いに呑まれ降伏