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56人間七七四年
道雪に圧倒されていた筑前秋月や筑後筑紫と同盟していた島津は道雪の死により北上を開始
紹運は島津の北上を前に筑紫との婚姻に成功し
筑紫の諸城と自らの岩屋城や宝満城や立花城による籠城遅滞戦術の大消耗戦を開始。
特に岩屋城での大損害は島津には痛く、島津に従った諸将は島津の城攻め命令を拒否。
宝満城や立花城では疲弊し力攻め不可能な島津は、高橋氏配下の一族家臣の家族親類を前面に出して矢弾の盾にして脅迫し降伏を強要する卑怯な真似をしたが結局は宗茂の前に敗走。
連年の戦ばかりで疲弊した島津は略奪を餌に士気を鼓舞して戦ってたが
いよいよ限界になり、生贄に囲まれて生活していた義久を迷信で操っていた僧侶達の意見に従い
くじ引きで豊後侵攻を決めた島津だが、
大友側は紹運がやって成功した籠城による遅滞戦術による大消耗戦を開始。
特にキリシタン人口が多かった玖珠郡や自身がキリシタンの岡城の志賀らが義弘をさんざんに破りまくり
義統もキリシタンの士気と忠義に認識を改めたりしてる。
家久も日向から豊後に入ってすぐの佐伯地方で大敗し、それを無視して北上する愚を犯し常に背後に不安を抱えていた。
結局、城攻めで被害が死傷率は軍隊として崩壊レベルで増大し続け、
厭戦気分の島津兵の略奪軍は略奪品を持っての薩摩帰郷が相次ぎ
勝手に豊後国主を称した家久は臼杵攻略が不可能なので
義弘に早く来いと命じるが敵中孤立の義弘にそんなことはできず拒否られるや
義久に義弘は卑怯者と讒言を繰り返す。