上杉・武田・毛利・島津・伊達・今川>>>>>北条

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36人間七七四年
>>30
輝元時代の毛利なんぞ日本最低ランクだろ
武田…東美濃攻防戦や上村合戦、三方が原と勝ちまくり
長篠以降ですら岩村で半年近く持ち堪え家康相手に本拠地から程近くにある高天神城おとされるまで6年かかる有様
武田攻めでもそれ以前の対徳川北条戦やら無理な中央集権化、新府築城など
で疲弊しきった状況で圧倒的大軍で襲われて離反の連鎖起きたにも拘わらず
わずか1000以下の仁科に5〜6万の大軍で城外戦で最低4時間以上戦われ
武田より織田の損害の方が多く一門の一人が戦死

上杉…手取川で織田家最高峰の柴田率いる大軍をけちょんけちょんに蹴散らす
内乱につけこまれ神保や佐々長縄、長連竜、飛騨口別働隊の斉藤らの活躍で乱が終わる頃には
能登や越中の国衆が次々織田に帰参し圧倒的兵力差が生まれ81年に新発田が蜂起
82年には森や滝川が越後へ侵入する窮地という非常に苦しい状況で
内戦終了の80夏頃から越中中部から魚津松倉の間で2年も持ち堪える

毛利…圧倒的兵力がありながら秀吉5000程度が送り込まれて以来次々に侵略され
南条や宇喜多すら潰せず大苦戦
別所や播磨国衆の離反でできた大チャンスも見事無駄にし播磨や鳥取救援部隊も見事蹴散らされ
備中まで押し込まれる雑魚さ
37人間七七四年:2010/10/14(木) 15:21:07 ID:8TcBqmV0
三方が原、東美濃攻防戦や上村合戦で織田方大軍に勝ちまくり
長篠でダメージ負って序盤では対織田上杉徳川、後半は対徳川北条の多方面戦略や
新府築城や無理な中央集権化といった猪武者勝頼の自爆があったのに
岩村では援軍なしの状況で寡兵で5ヶ月以上持ち堪え最後は騙まし討ちにされてやっと落とされ
家康の本拠地高天神城落とされるまで81年までもかかり5〜6万の大軍や徳川・北条の大軍があって
やっと離反の連鎖起きて滅んだ武田(その戦いですら50〜60倍の兵力ありながら織田方の被害の方が多く一門の一人戦死)
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圧倒的大軍を動員できるのに秀吉が5000で送り込まれて以来
一方的に侵略されまくり別所や播磨諸将の離反やらのチャンスがあったのに結局むざむざ無駄にし
播磨や鳥取救援に送った援軍や補給隊蹴散らされ南条3.5万石を城外戦で大損害出して攻略できず
宇喜多30万石とも美作で一進一退で結局播磨但馬因幡備中高松と侵略されまくり
戦後も備中やほうき、石見銀山など多くの利権奪われ、関が原時も圧倒的大軍動員できたのに
何もできずに大減報喰らったゴミ大名毛利
38人間七七四年:2010/10/14(木) 15:23:14 ID:64ctvs3g
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長  姉川
謙信>>>>柴田  手取川
謙信>>信玄    川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉  84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉     しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉      伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉   小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉            尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川            神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族   中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津       九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦       鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直            天正壬午
仁科>>>信忠  高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀     二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部     戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
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圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利

これらを元に数値をつける
120 上杉謙信
110  武田信玄
100 徳川家康
  
  
 97 北条氏康 太原雪斎 山県昌景 上杉景勝 柴田勝家
 96 武田勝頼 明智光秀 葦名盛氏 田村清顕 本多忠勝
 95 本庄繁長 伊達政宗 織田信長 毛利元就
 94 佐竹義重 北条綱成 滝川一益
 93  立花道雪 北条氏直 相馬盛胤
 92 織田信忠
 91 島津家久 伊達政宗
 90 島津義弘 長宗我部元親 黒田孝高
    酒井忠次 真田幸村 朝倉宗滴


 70 羽柴秀吉

50 吉川 小早川(笑)
39人間七七四年:2010/10/14(木) 15:26:27 ID:kTX/ccrh
有田中井手の戦いもウソ臭い。従来よく言われるのが元繁が討ち死にし武田氏は衰退滅亡したということ。
だが実際には跡を継いだ武田光和は勇猛な英主で、父の死去の影響はまったくない。
1524年、大内義興・義隆親子は3万余の大軍を率いて、武田光和の居城佐東銀山城を包囲したが徹底的に抵抗し
尼子経久の援軍が来るまで持ちこたえたし、厳島神主家の後継者争いにも介入し勢力を拡大し続けた。
父が毛利に敗退し衰退してる姿など微塵も感じられない。
熊谷信直の討伐を進めていた矢先に33歳の若さで嫡子を残すことなく急死した事で事態は急変。
若狭守護武田氏の養子をもらう事で重臣の主導権争いが勃発し内紛により武田信実が若狭に逃亡し衰退したのだ。
それでも安芸における更なる拡大を目指し尼子詮久に毛利攻めを要求し実際に毛利攻めの際の武田氏は佐東銀山城に集まり、
大内の大軍の猛攻を支え続ける勇猛ぶりを発揮し毛利への援軍を阻止し陶の別働隊を組織し毛利援軍へ派遣せざるおえなくなる。
毛利が尼子の軍を相手に籠城したことばかりを過大に宣伝するバカがいるが
実際には大内領に隣接した武田の士気の高さと防衛ぶりの方がすさまじい。結局、尼子の撤退で孤立無援でフルボッコ。
なおも耐えていたが尼子経久の死去に伴い尼子派国人領主が大量に大内氏へ寝返ったため完全に孤立し滅亡した。
志し半ばで経久さえ死ななければ武田滅亡はなかったと言われてる。

毛利の資料ってほんとデタラメだよな。
武田もそうだけど尼子も経久死去した後に晴久が暗愚だったから新宮党を虐殺し衰退したみたいに書かれてるけど
実際は晴久時代の尼子が最盛期なんだよな。
晴久の急死後に20歳の義久が石見銀山ごと石見国を毛利に譲渡する和睦を結んだのが致命傷になっただけで。
大嘘つきの元就が見事に約束を反故にして出雲の国人を次々に切り崩して月山富田城まで侵攻された。
尼子晴久は1538年には城山城に拠って播磨西部を支配下におき播磨守護赤松晴政の逃亡を追って播磨東部の三木攻めまで敢行
尼子晴久の戦力集中は常に東側で1551年〜1554年に渡り支配の強化を図り
備前に出陣し播磨の浦上政宗と結んで宗景の居城である備前天神山城・沼城まで進出。
1556年には毛利軍を忍原にて撃破(忍原崩れ)9月には石見銀山を奪取する→尼子最盛期を作り出した尼子晴久急死
→尼子義久20歳が銀山ごと毛利に譲渡し和睦を願う→元就が約束を裏切って銀山収入を使って出雲国衆を裏切らせる。
志し半ばで晴久さえ死ななければ毛利は尼子に滅ぼされていたよな。
40人間七七四年:2010/10/14(木) 15:27:17 ID:kOJbVlTI
吉川って吉川経家の鳥取城を見捨てて逃げた人でしょ。
但馬有子山城の山名堯熙
播磨三木城主・別所長治
摂津国の荒木村重
も見事に見捨てたよね。
本願寺が必死こいてる時の元春の無能ぶりは異常。

基本的に絶対勝てる相手としか戦わないよね。
あとは逃げてる(長期籠城してる相手への言い訳は援軍を出したが間に合わなかったw)

41人間七七四年:2010/10/14(木) 15:29:42 ID:kOJbVlTI
決定的に元春は立花道雪の猛追撃に付け狙われ大敗走してるよ。

西国盛衰記
毛利軍が立花から降雪の深夜に小倉へ向かって長躯敗走描写において
凍えて脱落していく兵すら見捨てて逃避行してる。

子が親を捨て、家臣が主を捨てて大敗走のあとに
「我一にと逃げ行くを小倉の津まで追討にせし程に、
其の行程十余里が間は、死人算を乱せるが如し・・・」と続く
その結果、永禄12年11/15の夜に3491の首を討たれ毛利軍崩壊。
この時の殿に大失敗したのが元春の殿の指揮。

その裏づけ史料として有名なのが吉弘文書で、これにも辛10/15のこととして
紹運の兄の鎮信だけでも100人以上を討ち取ってる。
辛10/27に吉弘家中の者たちの分捕高名の着到状を見た宗麟が激賞してる。

42人間七七四年:2010/10/14(木) 15:31:24 ID:kOJbVlTI
毛利以外全て>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>毛利(笑)
43人間七七四年:2010/10/14(木) 15:32:55 ID:kOJbVlTI
実際、丹波、但馬、播磨、摂津、和泉、淡路あたりは
中国地方の覇者の毛利支持派と織田支持派で分裂していて
毛利にとってすごいチャンスだったし、
将軍義昭が毛利を頼ってきたりと、
京洛で隠然たる実力を有する寺社勢力の協力も取れた。
それなのに、吉川がことごとく、臆して彼等を見捨てたために
あらよ、あらよと戦線が後退して、
山陰道じゃ南条の挙兵で、因幡を秀吉にむし取られて東伯耆までなだれ込まれるし
ちょうど、淡路方面の調略が成功して四国方面に秀吉が赴く理由もあり助かったが
瀬戸内海では淡路の毛利水軍追い出され、
山陽方面の備前美作では宇喜多の裏切りで備中まで攻め込まれる始末。
どんだけ弱いんだよ元春ってw
これで全勝無敗とか笑えるんですけどwww