上杉・武田・毛利・島津・伊達・今川>>>>>北条

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1人間七七四年
あまりにも常識です
2人間七七四年:2010/09/14(火) 07:22:39 ID:5/In0qJt
また小田厨か姉小路厨の工作か
捏造も大概にしとけよ
3人間七七四年:2010/09/14(火) 18:01:26 ID:4YhOO1pi
今川義元にボロ負けした氏康w
4人間七七四年:2010/09/14(火) 20:04:31 ID:bshZzfli
公家かぶれのデブに負けた氏康w
5人間七七四年:2010/09/15(水) 22:50:21 ID:4eEH1QQy
ウジ虫大名・ウジ康w
6人間七七四年:2010/09/16(木) 00:24:52 ID:VAePkQH2
北条氏政>>>伊達政宗
7人間七七四年:2010/09/16(木) 00:51:36 ID:GMzP3K7y
北条氏政の輝かしい戦歴

@唐沢山城を攻撃中、上杉謙信の後詰に遭い敗走
A三増峠合戦でなんと戦場到着が遅れ、挟撃作戦大失敗、敗戦に導く
B三船山合戦で里見勢にフルボッコ、軍を壊滅させて敗走
Cド田舎関東で勘違いし、秀吉にたてついで北条氏を滅亡させる
8人間七七四年:2010/09/16(木) 01:10:56 ID:+2reHfzc
そしてついに240万石の広大な領土を勝ち取った、まさに相模の獅子!!
9人間七七四年:2010/09/16(木) 14:50:41 ID:+2reHfzc
『KOEI信長の野望・天道』政治力トップ5

北条氏綱 110
北条氏康 107
北条早雲 105
本願寺連如 105
羽柴秀吉 104

KOEIの中立的立場からの評価。それにしても上位トップ3独占はすごいねw
10人間七七四年:2010/09/17(金) 09:46:47 ID:y61Hkq9j
>>9
天下統一した秀吉より高いはないわ
流石KOEIはゲーム脳だな
11人間七七四年:2010/09/17(金) 22:21:12 ID:V6yutDVK
氏綱や氏康の居ない天下を秀吉が取っただけのこと
12人間七七四年:2010/09/27(月) 12:06:02 ID:NQWtR0I5
氏康軍は将も兵もザコ
13人間七七四年:2010/09/29(水) 08:23:18 ID:cMHEiSh/
北条もザコではないが島津や毛利より弱いだろうな
14人間七七四年:2010/09/29(水) 11:26:42 ID:PTRdba/0
いやいや島津や毛利の相手はザコばかり
さすがに上杉、武田、佐竹、里見らと遮るもののない関東平野で
長期に渡り抗争を続けてた北条が島津や毛利より弱いとは考えられないわ。
関東は激戦区だからな。
15人間七七四年:2010/09/29(水) 11:57:42 ID:cMHEiSh/
>>14
「関東が激戦区」はないだろ
関東なんざ当時は田舎
鉄砲が広く使われてた九州がJ1なら関東はJ2レベル
16人間七七四年:2010/09/29(水) 12:42:15 ID:PTRdba/0
鉄砲の普及数は結局、金山の財力を背景に九州より関東甲信越地域の方が早く多かった。
特に武田など対謙信籠城用に城での集積が組織的に行われているし
圧倒的大軍の対北条において佐竹も鉄砲隊で前進を食い止めてる。
たまたま地勢上、鉄砲伝来が早かっただけで激戦地認定とかできませんが何か?
薩摩なんてたかが琢磨5万石相良+水俣国人の支援を相手に一進一退してた単なるショボイ兵だけだし。
17人間七七四年:2010/10/02(土) 14:57:52 ID:/idoEyzT
>>16
何も知らないらしいが、東国の武田・北条・上杉の鉄砲普及率はドングリの背比べ
佐竹の鉄砲隊は秀吉侵攻直前の話で、時代が全然違う

例外は先見の明があった織田と今川
もちろん関東の大名じゃない
つまり関東は未開の地、戦国のアフリカ

西国ではキリシタン大名の大友をはじめ、広く普及していた
もともと九州北部は大陸の異民族に対する最前線で、兵は強かった
足利尊氏もこの地で募った兵で朝廷を打倒したのは有名
尊氏は関東の兵を従えていた時は朝廷に大敗している

九州南部は古代は隼人が精強を誇り、安土桃山では関が原で武名を上げた島津、
幕末の薩摩と日本屈指の強兵の血筋
つまり

九州>関東
18人間七七四年:2010/10/03(日) 00:05:41 ID:50FbCZhA
武田、上杉、北条の騎馬武者の割合を比べたら以外にもダントツに北条が多いんだよな。
武田、上杉の三倍くらいいたらしい。
まあソースは学研の歴史群像だが。
19人間七七四年:2010/10/03(日) 19:08:14 ID:Se+uhh+T
>>17

>>佐竹の鉄砲隊は秀吉侵攻直前
あんたの直前って言葉の概念がおかしいと思われるが
普通の感覚ならそんなことないと言えるぞ。

>>関東は未開の地、戦国のアフリカ
まぁ一面に平野が広がる関東の方が都会だけどな。
執権北条氏も寺社建築したりして文化的にも向上してたし。
そもそも京と鎌倉府は2大拠点だからね。
特に中国地方なんて沿岸部の猫の額ほどの狭い土地しかないから
石高からみてもド田舎。
大宰府だってそんな大したもんじゃない。

>>西国ではキリシタン大名の大友をはじめ
だから単に貿易港の関係における地勢的な理由であり実際の力関係とはまるで違う。
そもそも毛利も大友も相模武士なんだが・・・出自が不明の島津だって頼朝の命で西国に下向したのは確定だし。
>>大陸の異民族に対する最前線で、兵は強かった
意味がわからない。なぜ結果の部分で兵が強いと論理の飛躍が生じているのか?

>>足利尊氏もこの地で募った兵で朝廷を打倒したのは有名
尊氏は関東の兵を従えていた時は朝廷に大敗している

はぁじゃあ関東の兵を率いた頼朝は西国の軍に敗れていたのか?
家康は西国の軍に敗れていたのかね?

>>九州南部は古代は隼人が精強を誇り
隼人はここで議論してる島津氏とはまったく関係ないのも理解してないの?

>>関が原で武名を上げた島津
逃げただけですが・・・

>>幕末の薩摩
いや倒幕を目指して強兵した長州にのっかかっておいしいトコを盗んだだけ・・・

現代に至るまでその歴史の大半が
関東>>>九州
なわけだがw
20人間七七四年:2010/10/04(月) 00:05:19 ID:QR7Q7wFZ
>>19
火縄銃の量産に成功し最初に実戦使用して内乱を平定した島津
耳川の時点で既にフランキ砲を抗城に使用してた大友
最大規模の8000丁の火縄銃を配備した龍造寺
使節団を外国に派遣した九州クリスチャン大名達
中央が雑賀衆の鉄砲隊にビックリしてる時期には
九州では早合すら常識で、伏兵に鉄砲隊を混ぜる戦術まで確立されてました
ちなみに雑賀衆が九州と交易があった事は有名ですね
えと、その時期に関東ではどんな都会らしい事してたの?
講談でも良いんで関東の都会らしい逸話を教えてよ、ねえ
あと、もう1つ
何で秀吉は要注意人物の家康に関東なんて大都会の領地をあげたの?ねえ?何で?
21人間七七四年:2010/10/04(月) 03:20:47 ID:WGOv9uWV
なんだ?ただ単に南蛮船がやってくる場所にいたという
地勢的に有利なだけの話を持ち出して、
九州はだから関東より「強い」とか「激戦区」だって証明だと言うのか?
そもそもフランキ砲に至ってはもらっただけじゃんw
>>19で完全に論破されて可哀想に・・・薩摩がショボイ事実は変わらないのにwww

旧鎌倉府管轄地域だった関東エリアは340万石もあるんだぜ。
九州なんて240万石だろ。もう財政を含めた動員力に100万石も差があるんだよ。
22人間七七四年:2010/10/04(月) 12:17:38 ID:2ljB+5Jt
ならポルトガルのインド総督の支配地にいる
インド人が最新の武器を所有してるから激戦区という馬鹿げた論理で最強が決まるって話になるなw
馬鹿の言うことに従えば
最強民族ランキングは
ポルトガルに支配されたゴアのインド人>台湾オランダ植民地を破った漢人鄭成功>オランダ台湾人>>西日本人>東日本人
こうなるなw
アホ過ぎてワロタ
23人間七七四年:2010/10/05(火) 01:38:47 ID:pN8G0xfL
ぼくがおもうところ17世紀では
武器が最新なモノを持つ民族の戦闘力がさいきょうです。
24人間七七四年:2010/10/05(火) 03:26:44 ID:G2j2Uv1z
そもそも鉄砲普及量に関しては>>16が言い出した事じゃないのか?
交易ルートが発達しなかった関東は時代に取り残された田舎で
関東が強かったのは戦国初期だけで後は時勢が読めずにほとんど凋落した
ってのが一般認識
25人間七七四年:2010/10/05(火) 12:14:31 ID:DSOfMwkv
>>24
つまり関ヶ原の勝利者は家康じゃなくて
逃げただけの島津だと主張したいのか…キチガイ乙
時勢が読めないどころか蛮族丸出し思考で秀吉が攻めてきたら島津兵1人で秀吉軍100人殺せばいいだけだから大丈夫♪なんてアホな論理しかできなかったじゃん。
そもそも薩摩ほど万事につけ仏僧や占い師を通じて決めたり
戦後において気違いじみた行為をして名声を落とす国は日本66ヶ国いずこを見渡してもないって言われてんじゃんw
26人間七七四年:2010/10/05(火) 14:31:31 ID:G2j2Uv1z
お前は誰と戦ってんの?
急に島津を出して火病る意味が分からん
関東大名が悉く凋落した件は?
家康も秀吉も関東出身じゃないよな?
戦国時代の籤や占いは軍師の仕事の根幹だよな?
国力の劣る国が精神論に陥るのは近代でも普通にあるよな?
話を戻すが
九州が関東より交易に優れ近代化してた件は認めたって事で良いんだな
俺は不毛な「最強」とかの議論には興味無いから
27人間七七四年:2010/10/06(水) 02:58:01 ID:U0Wy7j77
西国はまだまだシャーマニズム的な呪術的な戦場判断が一般常識として存在してたから畿内や東国の軍勢の機を見るに敏な用兵には敵わないよね。
毛利・大内・尼子・大友・島津あたりはみんな論理的ではなくて戦場や城かた立ち上る気や天文が地上に与える影響やら
呪術やクジ引きおみくじの神託やら悪日や大凶日や易や暦を盲信してるからね。
島津の上井覚兼の日記なんてみたら笑っちゃうw
あと大友側の角隈石宗の占いとかなw
立花道雪が戸次鎮連に忠義を示さないと怨霊になって祟るぞって言ったり、
耳川敗戦後に家中に対して道雪が景林にと言う易者に占わせてから戦ったら勝てたから今後もその習慣を守れと言ったり
大友吉統は関が原での大友復興作戦で豊後上陸の場所を戦略面を考えずに
宗麟が運を開いた縁起のいい場所であった立石に上陸して結果的に黒田如水の派遣した軍に大敗してるしw
元就も山吹城を攻めようとした時にどこぞから家臣が連れてきた呪術者に易をさせたら
「占ったところ食料2年分に水も豊富にあるよ」と言われ見事に騙されて攻めずに安芸に帰ったり
陶の怨霊封じの儀式もやってたな元就w
元就が元春が暗殺した本城常光を暗殺した為に出雲の国衆が尼子側に戻ってしまった時に尼子調伏の呪法やったり、
尼子側も出雲大社や佐久佐社や伯州の大山権現で毛利降伏の祈祷やってたな。
もう呪術合戦状態www
西国の戦いってのはこういう素地が背景にあってのアホレベルの戦いばっかだからマトモに考えちゃダメだよ。

大内と尼子の自爆待ちで
気付いたら当時の平均年齢50歳でみんな死んでて
自分が地域の長老になってたので
死んで他に誰もいないのでやむをえずみんなに推戴され
(元就視点ではもともと安芸の国人一揆の盟主の家柄だし当たり前じゃボケ国人どもめ!)
吉川も小早川も普通に跡継ぎいないから次男か三男くれない→いいよ別に!
大内義隆が陶の謀反を知り調伏の護摩焚いてたらマジに陶が殺しにきた→陶が山田事件起こす→石見国人謀反→討伐中に元就火事場泥棒→
厳島でなにやら占いや気をみたりする陶がここ数日は大凶だから休戦日だな!→大凶?関係ねーよと元就襲撃→卑怯なり元就ぃ!
→石見銀山ゲット!ってあれ晴久突然死→20歳義久は毛利をビビリ石見を毛利にプレゼントするから和睦しよ♪→石見の国人見捨てられる→
うっひゃひゃ銀を出雲国人にばらまけ和睦なんて関係ねーし侵略じゃ!

呪術的占いが大好きな野人隼人の島津は、鎌倉の昔から相も変わらず占いで豊後侵攻路を決めたあげくに大苦戦したんだよ。
島津が大好きな神様に騙されたよねw
そういや上井覚兼は秀吉が大友に味方するって決まった途端に改めてくじ引きをまた引き直しやがってと激怒してるしね。
西国のくじ引き軍が畿内以東より強いわけがないね。

28人間七七四年:2010/10/06(水) 11:35:15 ID:WbCtdOHj
北条厨ってキモいよね
29人間七七四年:2010/10/06(水) 12:14:33 ID:4hEZ/ToF
おいおい中国では2000年以上前に孔子が
「子は怪力乱神を語らず」って言ってるくらいなのに
西国は近世になってもそんな蛮族の悪習みたいなもんがまことしやかに語られ政治や軍事を歪ませていたのか。
有り得ないくらいにものすげぇ遅れてるな。
東国では現代日本人でも見られるような
願掛けや自己の正義の裏付けや
士気を高めるのに利用したりするのに利用されるくらいで
政治や軍事に摩訶不思議な要素は介入してないのにな。
むしろ信玄とかは合理的根拠に基づかない旧習を笑って兵たちを諭したりしてるし。
30人間七七四年:2010/10/07(木) 09:58:22 ID:AdI9E7ks
基本的にどの世代と比べるからじゃね?
個人的に氏康時代なら上杉、武田は上、毛利は微妙、伊達、島津は下。
氏政時代なら、毛利が上、武田、上杉、島津が同等、伊達は下。
まあ、どう見ても上の方じゃないよね。
せめて家が残っていれば、評価が違ったかもしれないが。
自分は後北条好きだが、現実的にはこんな感じじゃね?
31人間七七四年:2010/10/09(土) 06:44:12 ID:fEKC9+x2
日本では産出されない
鉄砲用火薬に混ぜる硝石は
海外からの輸入に頼っており
九州では日本人を拉致連行して
西洋人商人との貿易における
支払い商品として
大量の人々を奴隷貿易に使用した。
そのため欧州やアフリカにおいて時として黒人以下の価格で
虐待された裸の日本人女性が大量に売られていた。
32人間七七四年:2010/10/09(土) 23:22:15 ID:fEKC9+x2
最も人命が軽く人権が踏みにじられてきた不毛の辺境九州。
33人間七七四年:2010/10/11(月) 14:23:26 ID:B9VcI31T
>>32
その地獄の世界を救ってくれたのが秀吉様です。
島津が略奪しまくり餓死者と疫病が蔓延していて
しかも鉄砲の火薬に使う硝石欲しさに日本人女性や童を拉致し売っていた島津の奴隷貿易を禁止し、
島津が焼き尽くした博多を再興させ
日本の領地をスペインポルトガルに譲渡させるのを禁止するなど
秀吉様は九州を平和にしました。
34人間七七四年:2010/10/14(木) 15:16:21 ID:Z0013OkP
こりゃあ九州を舞台にした大河ドラマは絶対に無理だな…九州史は気持ち悪すぎる!
35人間七七四年:2010/10/14(木) 15:18:58 ID:8TcBqmV0
>>30
各方面で敗戦や大苦戦を繰り返す雑魚秀吉や竜造寺や島津に大敗する雑魚大友や
河野やあげくの果てに南条宇喜多に敗戦する毛利が北条より上とか基地外だな

氏康>>>4兄弟、氏直>>>>>>>>>>>>元就>>>>>>>>両川、輝元


36人間七七四年:2010/10/14(木) 15:20:25 ID:8TcBqmV0
>>30
輝元時代の毛利なんぞ日本最低ランクだろ
武田…東美濃攻防戦や上村合戦、三方が原と勝ちまくり
長篠以降ですら岩村で半年近く持ち堪え家康相手に本拠地から程近くにある高天神城おとされるまで6年かかる有様
武田攻めでもそれ以前の対徳川北条戦やら無理な中央集権化、新府築城など
で疲弊しきった状況で圧倒的大軍で襲われて離反の連鎖起きたにも拘わらず
わずか1000以下の仁科に5〜6万の大軍で城外戦で最低4時間以上戦われ
武田より織田の損害の方が多く一門の一人が戦死

上杉…手取川で織田家最高峰の柴田率いる大軍をけちょんけちょんに蹴散らす
内乱につけこまれ神保や佐々長縄、長連竜、飛騨口別働隊の斉藤らの活躍で乱が終わる頃には
能登や越中の国衆が次々織田に帰参し圧倒的兵力差が生まれ81年に新発田が蜂起
82年には森や滝川が越後へ侵入する窮地という非常に苦しい状況で
内戦終了の80夏頃から越中中部から魚津松倉の間で2年も持ち堪える

毛利…圧倒的兵力がありながら秀吉5000程度が送り込まれて以来次々に侵略され
南条や宇喜多すら潰せず大苦戦
別所や播磨国衆の離反でできた大チャンスも見事無駄にし播磨や鳥取救援部隊も見事蹴散らされ
備中まで押し込まれる雑魚さ
37人間七七四年:2010/10/14(木) 15:21:07 ID:8TcBqmV0
三方が原、東美濃攻防戦や上村合戦で織田方大軍に勝ちまくり
長篠でダメージ負って序盤では対織田上杉徳川、後半は対徳川北条の多方面戦略や
新府築城や無理な中央集権化といった猪武者勝頼の自爆があったのに
岩村では援軍なしの状況で寡兵で5ヶ月以上持ち堪え最後は騙まし討ちにされてやっと落とされ
家康の本拠地高天神城落とされるまで81年までもかかり5〜6万の大軍や徳川・北条の大軍があって
やっと離反の連鎖起きて滅んだ武田(その戦いですら50〜60倍の兵力ありながら織田方の被害の方が多く一門の一人戦死)
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍を動員できるのに秀吉が5000で送り込まれて以来
一方的に侵略されまくり別所や播磨諸将の離反やらのチャンスがあったのに結局むざむざ無駄にし
播磨や鳥取救援に送った援軍や補給隊蹴散らされ南条3.5万石を城外戦で大損害出して攻略できず
宇喜多30万石とも美作で一進一退で結局播磨但馬因幡備中高松と侵略されまくり
戦後も備中やほうき、石見銀山など多くの利権奪われ、関が原時も圧倒的大軍動員できたのに
何もできずに大減報喰らったゴミ大名毛利
38人間七七四年:2010/10/14(木) 15:23:14 ID:64ctvs3g
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長  姉川
謙信>>>>柴田  手取川
謙信>>信玄    川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉  84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉     しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉      伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉   小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉            尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川            神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族   中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津       九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦       鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直            天正壬午
仁科>>>信忠  高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀     二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部     戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利

これらを元に数値をつける
120 上杉謙信
110  武田信玄
100 徳川家康
  
  
 97 北条氏康 太原雪斎 山県昌景 上杉景勝 柴田勝家
 96 武田勝頼 明智光秀 葦名盛氏 田村清顕 本多忠勝
 95 本庄繁長 伊達政宗 織田信長 毛利元就
 94 佐竹義重 北条綱成 滝川一益
 93  立花道雪 北条氏直 相馬盛胤
 92 織田信忠
 91 島津家久 伊達政宗
 90 島津義弘 長宗我部元親 黒田孝高
    酒井忠次 真田幸村 朝倉宗滴


 70 羽柴秀吉

50 吉川 小早川(笑)
39人間七七四年:2010/10/14(木) 15:26:27 ID:kTX/ccrh
有田中井手の戦いもウソ臭い。従来よく言われるのが元繁が討ち死にし武田氏は衰退滅亡したということ。
だが実際には跡を継いだ武田光和は勇猛な英主で、父の死去の影響はまったくない。
1524年、大内義興・義隆親子は3万余の大軍を率いて、武田光和の居城佐東銀山城を包囲したが徹底的に抵抗し
尼子経久の援軍が来るまで持ちこたえたし、厳島神主家の後継者争いにも介入し勢力を拡大し続けた。
父が毛利に敗退し衰退してる姿など微塵も感じられない。
熊谷信直の討伐を進めていた矢先に33歳の若さで嫡子を残すことなく急死した事で事態は急変。
若狭守護武田氏の養子をもらう事で重臣の主導権争いが勃発し内紛により武田信実が若狭に逃亡し衰退したのだ。
それでも安芸における更なる拡大を目指し尼子詮久に毛利攻めを要求し実際に毛利攻めの際の武田氏は佐東銀山城に集まり、
大内の大軍の猛攻を支え続ける勇猛ぶりを発揮し毛利への援軍を阻止し陶の別働隊を組織し毛利援軍へ派遣せざるおえなくなる。
毛利が尼子の軍を相手に籠城したことばかりを過大に宣伝するバカがいるが
実際には大内領に隣接した武田の士気の高さと防衛ぶりの方がすさまじい。結局、尼子の撤退で孤立無援でフルボッコ。
なおも耐えていたが尼子経久の死去に伴い尼子派国人領主が大量に大内氏へ寝返ったため完全に孤立し滅亡した。
志し半ばで経久さえ死ななければ武田滅亡はなかったと言われてる。

毛利の資料ってほんとデタラメだよな。
武田もそうだけど尼子も経久死去した後に晴久が暗愚だったから新宮党を虐殺し衰退したみたいに書かれてるけど
実際は晴久時代の尼子が最盛期なんだよな。
晴久の急死後に20歳の義久が石見銀山ごと石見国を毛利に譲渡する和睦を結んだのが致命傷になっただけで。
大嘘つきの元就が見事に約束を反故にして出雲の国人を次々に切り崩して月山富田城まで侵攻された。
尼子晴久は1538年には城山城に拠って播磨西部を支配下におき播磨守護赤松晴政の逃亡を追って播磨東部の三木攻めまで敢行
尼子晴久の戦力集中は常に東側で1551年〜1554年に渡り支配の強化を図り
備前に出陣し播磨の浦上政宗と結んで宗景の居城である備前天神山城・沼城まで進出。
1556年には毛利軍を忍原にて撃破(忍原崩れ)9月には石見銀山を奪取する→尼子最盛期を作り出した尼子晴久急死
→尼子義久20歳が銀山ごと毛利に譲渡し和睦を願う→元就が約束を裏切って銀山収入を使って出雲国衆を裏切らせる。
志し半ばで晴久さえ死ななければ毛利は尼子に滅ぼされていたよな。
40人間七七四年:2010/10/14(木) 15:27:17 ID:kOJbVlTI
吉川って吉川経家の鳥取城を見捨てて逃げた人でしょ。
但馬有子山城の山名堯熙
播磨三木城主・別所長治
摂津国の荒木村重
も見事に見捨てたよね。
本願寺が必死こいてる時の元春の無能ぶりは異常。

基本的に絶対勝てる相手としか戦わないよね。
あとは逃げてる(長期籠城してる相手への言い訳は援軍を出したが間に合わなかったw)

41人間七七四年:2010/10/14(木) 15:29:42 ID:kOJbVlTI
決定的に元春は立花道雪の猛追撃に付け狙われ大敗走してるよ。

西国盛衰記
毛利軍が立花から降雪の深夜に小倉へ向かって長躯敗走描写において
凍えて脱落していく兵すら見捨てて逃避行してる。

子が親を捨て、家臣が主を捨てて大敗走のあとに
「我一にと逃げ行くを小倉の津まで追討にせし程に、
其の行程十余里が間は、死人算を乱せるが如し・・・」と続く
その結果、永禄12年11/15の夜に3491の首を討たれ毛利軍崩壊。
この時の殿に大失敗したのが元春の殿の指揮。

その裏づけ史料として有名なのが吉弘文書で、これにも辛10/15のこととして
紹運の兄の鎮信だけでも100人以上を討ち取ってる。
辛10/27に吉弘家中の者たちの分捕高名の着到状を見た宗麟が激賞してる。

42人間七七四年:2010/10/14(木) 15:31:24 ID:kOJbVlTI
毛利以外全て>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>毛利(笑)
43人間七七四年:2010/10/14(木) 15:32:55 ID:kOJbVlTI
実際、丹波、但馬、播磨、摂津、和泉、淡路あたりは
中国地方の覇者の毛利支持派と織田支持派で分裂していて
毛利にとってすごいチャンスだったし、
将軍義昭が毛利を頼ってきたりと、
京洛で隠然たる実力を有する寺社勢力の協力も取れた。
それなのに、吉川がことごとく、臆して彼等を見捨てたために
あらよ、あらよと戦線が後退して、
山陰道じゃ南条の挙兵で、因幡を秀吉にむし取られて東伯耆までなだれ込まれるし
ちょうど、淡路方面の調略が成功して四国方面に秀吉が赴く理由もあり助かったが
瀬戸内海では淡路の毛利水軍追い出され、
山陽方面の備前美作では宇喜多の裏切りで備中まで攻め込まれる始末。
どんだけ弱いんだよ元春ってw
これで全勝無敗とか笑えるんですけどwww

44人間七七四年:2010/10/14(木) 15:40:28 ID:kbW2SFYi
S 北条早雲
A 織田信長 徳川家康 三好長慶 伊達政宗 毛利元就
B 葦名盛氏 豊臣秀吉 北条氏康 島津義久 本願寺顕如 斉藤道三 
C 上杉謙信 大友宗麟 今川義元 本多忠勝 柴田勝家 明智光秀



45人間七七四年:2010/10/14(木) 15:49:01 ID:Z0013OkP
>>44
ゲーム脳のアホ乙
46人間七七四年:2010/10/14(木) 19:27:44 ID:WF68xDeJ
どうみてもネタにマジに煽る田舎侍ワロスw
47人間七七四年:2010/11/03(水) 04:57:40 ID:+Lg5b9ty
北条ザコなのは常識
48人間七七四年:2010/11/03(水) 05:15:50 ID:+Lg5b9ty
wwwwwwwwww
連戦連敗w
49人間七七四年:2010/11/13(土) 12:47:29 ID:wKxhqduD
>>40
その頃が実質的には毛利織田の天下分け目だったよね。
吉川はその時勢の時にひたすら決戦回避の逃げをしたから
本願寺を降伏させた織田に一気に追いつめられたよね。
50人間七七四年:2010/11/17(水) 12:34:11 ID:W/vBbwKQ
うーん、吉川だけの問題ではないような。
51人間七七四年:2010/11/17(水) 15:25:30 ID:cgNi3zhZ
元就以来、毛利自体がヘタレ体質
52人間七七四年:2010/11/27(土) 01:00:44 ID:y6L4i0Rw
大丈夫、家臣が優秀だから
53人間七七四年:2010/11/27(土) 14:40:22 ID:arhsGAvK
元就爺さんが一代で領土を拡大したけど、戦費調達のために重税かけまくってた
それで毛利領では一揆の嵐で、広げた領地も戦乱で荒れていた
輝元と奉行衆が領地の復興を目指して頑張り国力を充実させた
けど毛利家も四面楚歌で(どこの大名もそうだけど)、特に大友家との戦いで激しく消耗する
大友家との対立は交易圏の支配を巡り両家の傘下の商人や水軍衆の意向もあって不可避だった
しかも両家の対立の根底にあったのは、大内義長の扱いなどではなく、宣教師と南蛮商人との関係だった
大友家や有馬・大村の統治下では寺社の権利が剥奪され教会に与えられた。さらに良港を含む領土が教会に献上された
奴隷貿易も加速していた。国外へ日本人が売り飛ばされた場合、禽獣の扱いを受けた
加えて東南アジア貿易ではこの頃、西欧商人たちが本国の征服活動を背景に、日本人商人の締め出しを始めていた
これらは歴史学においてイエズス会の文書で明らかになっている
当時の人々は当然知っていたので、大友家では大内家旧臣だけでなく一門衆まで反乱を起こしていた
一方、毛利家は寺社の権利を尊重し、寺社を統治に活用していた
反大友勢力は毛利家を頼り、毛利家も勢力拡大と自衛のために大友家との対決は不可避だった

要するに財源が豊富な毛利家の財政も火の車で、織田家との対決を避けようとしていたのは金がないからだった
毛利VS大友は、織田家に例えれば清洲同盟が成立せず松平・今川とひたすら戦い続けていたようなもの
天正年間に入っても、毛利と大友は絶え間ない小競り合いを続けていた
織田家と毛利家が激突すると、織田家は大友家と同盟。織田家の要請を受けて大友家は毛利領や毛利方の商船を攻撃している
しかも宣教師・南蛮商人と手を組んだ大友家は、将来の禍根を育てながらも、圧倒的な軍備と兵站の補給を確保していた
毛利家がやっと織田との戦に専念できるようになったのは、耳川で大友家が大敗してからで、
同盟者の秋月・龍造寺が勢力を拡大して大友家を牽制してくれたからだった
だが時すでに遅し
54人間七七四年:2010/12/01(水) 04:52:10 ID:SRbRt7/c
>>53
元就が焦土とした大商都の山口にかわる商都を欲して博多を狙った。
陶を裏切り焦土とした残虐な元就を嫌って山口から宣教師達は逃げた。
もともと筑前や豊前は大内領で大友の戦い続けてきた歴史がある地なので
毛利から支援の話がきたらすぐに大友を裏切った。
しかし結局、元就は大友に大敗して大友と提携していた尼子残党にも出雲や美作や備後を蹂躙される中で失意のうちに死んだ。
財政崩壊した毛利を継いだ輝元らは山口の復興を計画したが経済政策を知らないから大失敗。
大友はその領地の大半を部下に与えており直轄領が無く、
当時の僧は信長も敵視したように
政治介入し、民を迷信で騙し脅して民衆から富を奪っていたこともあり、
大友は寺社領を奪って配下に分配していた。
宣教師らは大友に教会を立てるわずかな領地を欲しいと言ってただけ。
宣教師を保護することで火薬や大砲といった武器を援助してもらい
交易で豊後はますます豊かになった。
もちろん火薬は援助でもらっているので島津みたいに奴隷貿易なんてする必要が無い。
大友一門衆でも宗家より巨大な田原親宏などは大友代々が常に裏切りを警戒してきた存在であり
力を削ぐために田原本家を親賢に継がせたりしていた。
宗麟お気に入りの田原親賢が耳川の敗北を宣教師のせいにしようとした際は親宏が宣教師をかばって親賢の罪を糾弾してる。
55人間七七四年:2010/12/01(水) 05:30:20 ID:SRbRt7/c
耳川のあと1年間は大友瓦解の危機的状態になるが、隠居していた宗麟の復帰で家中の動揺を抑え信長との外交チャンネルを開いた。
信長もゆくゆくは大友に毛利を突いてもらおうかと思い、義統に長門周防をあてがった。
大友に反旗を翻した国東半島の国人らへの毛利が援軍を出すが、この時期になるとかねがね育成していた大友水軍が巨大化しており
毛利水軍を大敗させ長門周防へ追撃をするなど毛利はもはや制海権すら失われた。
この時期になると大友本軍の支援も無いままに道雪による対龍造寺の筑前筑後での勢力回復戦を開始。
龍造寺と肥後で対立し始めた島津は精強な龍造寺との戦いを避け和睦し大友攻めを狙うも、
信長が乗り出し大友のために島津との和睦を斡旋し代わりに大友による長門周防攻撃を要請。
しかし毛利にとってラッキーなことに信長は本能寺に死す。
龍造寺は島原にて島津と激突するも右翼の有馬や中軍の赤星の奮戦と鍋島の裏切りで隆信が討ち死にし島津が北上を開始する。
老体にムチを打って道雪は龍造寺を筑後から追い出すべく長駆し柳川城攻めをするも
体調の悪化と水都と呼ばれる要害柳川城の力攻めによる少ない手勢の被害を鑑み撤退するが道雪を恐れて島津も龍造寺も追撃できなかった。
なおも道雪は筑後奪回しようと考えていたが陣没。
56人間七七四年:2010/12/01(水) 10:44:19 ID:SRbRt7/c
道雪に圧倒されていた筑前秋月や筑後筑紫と同盟していた島津は道雪の死により北上を開始
紹運は島津の北上を前に筑紫との婚姻に成功し
筑紫の諸城と自らの岩屋城や宝満城や立花城による籠城遅滞戦術の大消耗戦を開始。
特に岩屋城での大損害は島津には痛く、島津に従った諸将は島津の城攻め命令を拒否。
宝満城や立花城では疲弊し力攻め不可能な島津は、高橋氏配下の一族家臣の家族親類を前面に出して矢弾の盾にして脅迫し降伏を強要する卑怯な真似をしたが結局は宗茂の前に敗走。
連年の戦ばかりで疲弊した島津は略奪を餌に士気を鼓舞して戦ってたが
いよいよ限界になり、生贄に囲まれて生活していた義久を迷信で操っていた僧侶達の意見に従い
くじ引きで豊後侵攻を決めた島津だが、
大友側は紹運がやって成功した籠城による遅滞戦術による大消耗戦を開始。
特にキリシタン人口が多かった玖珠郡や自身がキリシタンの岡城の志賀らが義弘をさんざんに破りまくり
義統もキリシタンの士気と忠義に認識を改めたりしてる。
家久も日向から豊後に入ってすぐの佐伯地方で大敗し、それを無視して北上する愚を犯し常に背後に不安を抱えていた。
結局、城攻めで被害が死傷率は軍隊として崩壊レベルで増大し続け、
厭戦気分の島津兵の略奪軍は略奪品を持っての薩摩帰郷が相次ぎ
勝手に豊後国主を称した家久は臼杵攻略が不可能なので
義弘に早く来いと命じるが敵中孤立の義弘にそんなことはできず拒否られるや
義久に義弘は卑怯者と讒言を繰り返す。
57人間七七四年:2010/12/01(水) 11:06:54 ID:SRbRt7/c
島津の劣勢の不安を解消すべく、降伏した諸将の家族から人質を取る方針に変更命令が来るや家久は恐怖のあまり義弘を見捨てて日向への逃亡を図る。
すなわち、今まで隠蔽してきたが島津兵の士気が非常に低く瓦解したも同然の島津の内情が人質達にバレたら大友の反撃で壊滅は確定と危惧したからだ。
事実、大友側は宗茂らによる筑後口方面からの圧力に加え、
肥後口を封鎖した志賀の岡城と佐伯地方の間にある唯一の日向口への撤退路の三重城の攻略による完全封鎖を狙ってきており近いうちに薩摩へ帰れなくなる可能性が高まったからだ。
家久は孤立中の義弘を見捨てて三重城まで長駆敗走。
それを知った義弘も筑後や肥後への撤退の不可能を悟り、
家久を追って日向への脱出を図るも、
ボロボロの家久から支援も無く
待ち構えていた大友軍にさんざんに破られ、殿の相良の奮戦のおかげで命からがら日向に脱出した。
これにより島津は戦力崩壊を引き起こし、
宗茂の攻勢の前に星野兄弟らを見捨てただけに止まらず、
宗像や長野や秋月らを見捨てることとなった。
その頃、黒田如水らがキリシタンと知ると小早川隆景は突然キリシタン顔を始めて露骨に卑しい好意を示し出して広島で一番良い土地を教会用に貢ぐなど宣教師を呆れさせる。
そして隆景と元春は豊前で長野の城を攻略するや住民らを大量虐殺して海に捨てて証拠隠滅したりしてた。
秀吉は秋月種実の弟の長野相手に毛利の侵攻の遅さに見切りをつけ
自分らが九州を一気に平定するからお前ら秋月を挑発せずに豊前で行軍止めて休んでろと言われる。
毛利弱しとみた秋月はすっかり自信を持ったが島津から援軍が来ずあっさり秀吉の先鋒の怒涛の勢いに呑まれ降伏
58人間七七四年:2010/12/01(水) 11:43:36 ID:SRbRt7/c
もはや使えない毛利に出る幕は無く
筑前で秋月を降伏させ楽勝で南下する秀吉軍の先鋒の蒲生らは島津弱すぎて休めないと不満爆発。
秀長率いる日向南下軍は根白坂の戦いで島津と決戦に。
秀長の先鋒軍相手に攻撃をかけるも寡兵の宮部や藤堂らにさんざんに翻弄されまくり結局あっけなく敗走する義弘。
島津は義弘の敗走を知るや義久が秀吉への土下座を内密に決定する。
日向で島津のために戦っていた相良は
この島津の裏切りを知るや丸裸の相良領に必死に撤退してきて
島津よりもだいぶ遅くなってから秀吉への降伏工作に乗り出す羽目になり
相良滅亡の危機に卑怯者島津への怒りを露にした。
島津に見放された宗像氏など滅亡させられたが
相良は連歌の才覚がずば抜けた深水長智を秀吉との交渉に派遣し
秀吉はその才覚に驚き、直臣に取り立てようとしたが固辞した。
秀吉は九州において立花、志賀、佐伯、鍋島、深水の才覚を大いに賞賛している。
そして島津に放火させられて廃墟になった博多の復興による
現地調達のできる対朝鮮渡海の軍事補給力回復、
北九州の良港の管理による貿易利権独占の為にキリシタン追放を決意。
しかし内実は豊臣政権に利益を与える外国人に関しては黙認する方針であった。
そのためにキリシタン狩りはやらなかったのだが小心者で志賀への嫉妬からキリシタン狩りを始めて無能ぶりを秀長から呆れられた義統と違い、
肥後佐々領などには豊後や毛利領から逃れてきた宣教師らが滞在していた。
また秀吉は小勢力の独立国人ばかりの肥後での一揆を危惧して
佐々に検地はとうぶんやるなと命じていたが佐々が支配力強化を目指して強行してしまい反乱が勃発。
59人間七七四年:2010/12/01(水) 12:59:46 ID:fSgGn7N3
木沢長政>上杉謙信を定説にしたい。
60人間七七四年:2010/12/01(水) 23:33:13 ID:xH+JtnUT
38に一票
61人間七七四年:2010/12/07(火) 09:10:06 ID:6FlwYGCc
島津義弘が

30歳から56歳まで居た

宮崎県 えびの市の
「飯野城跡」

の現在は

http://shogo22222.ninja-web.net/miyazaki-kourakuti/iinojyouato/iinojyouato.html







62人間七七四年:2010/12/07(火) 10:57:33 ID:VaNdAF3F
伊達って弱かないんだろうけど、人取橋、蘆名を潰した戦い、、、、何かちょっと物足りないねぇ
63人間七七四年:2010/12/08(水) 10:39:15 ID:QZzSow+8
>>62
3代続けて当主が早世であるだけでなく
2代続けてよそ者当主で、
家臣は輝宗の馬揃いに参加しまくり当主に挨拶来ないし
しまいには本拠地を家臣に奪われたり、当主が家臣の謀反で暗殺されちまうし
上杉に惨敗した挙げ句にひどい飢饉になり一揆を怖れて連年に渡り徳政令を出さざるを負えない程に行き詰まり
しかも実権を持たないガキ当主を祭り上げただけの
有力国人連合葦名の空中分解瓦解自爆だからな…
64人間七七四年:2010/12/17(金) 08:40:57 ID:TfJU+1I1
島津義弘の夫人が居た

宮崎県 えびの市 の
「加久藤城跡」

の現在は

http://shogo22222.ninja-web.net/miyazaki-kourakuti/kakutoujyouato/kakutoujyouato.html




65人間七七四年:2010/12/29(水) 19:29:12 ID:90jVp0OA
>>63
葦名は国人連合が分裂瓦解して上杉や佐竹や伊達の両属家臣だらけだったから政権運営が不可能になってた。
66人間七七四年:2011/01/05(水) 17:10:50 ID:3fVuPP3e
北条が一番弱いよねw
67人間七七四年:2011/01/05(水) 23:50:04 ID:XKblcLyG
ここでもID:3fVuPP3eはスレ荒らしに勤しんでいたのかw
本物の馬鹿はやることが違うな
68人間七七四年:2011/01/08(土) 01:06:56 ID:owWx0uMk
上杉・武田・毛利・島津・伊達>>>>>今川・北条

今川が左に入る理由が見つからん
69人間七七四年:2011/01/17(月) 07:05:24 ID:99L5Bqv5

島津義弘の逸話

http://s1.shard.jp/rabbit1/0203/38/264.html

島津義弘の愛馬膝突栗毛の話にもその素晴らしさがあった。
70人間七七四年
>>68
今川は桶狭間まではブイブイ言わせてたし
北条だってあそこで逆らってなきゃ天下も十分狙える大勢力だった



一方伊達や島津にその可能性は全くない