織田信長に天下統一ができるの?

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745人間七七四年
越前一向一揆制圧の際、殺されたもの以外に、生け捕りにされていったもの数知れず(『信長公記』)
諸大名が信長に報告せずに国元に連れ去ったものは2〜3万人か。
波多野一族大虐殺や萱津合戦や越前、播磨などでは信長自身が乱取りを命じている。

松平記にも、京で略奪中に三河衆と織田信包衆が喧嘩し、尾張兵が鉄砲撃ち立てた、とある。
また上京焼討ちでは、戴恩記に信長が呼び寄せた近隣の土民達の略奪の凄まじさ
が書かれている。 また庶民が火事により大井川へ飛び込み溺死膨大(東寺光明講過去帳)
「京中辺土ニテ、乱妨ノ捕物共、宝ノ山ノ如シ」
(天正元年、織田軍上洛ノコト・「永禄年代記」「続群書類従」)
また信玄の西上作戦により織田の軍費がまったく足らず下京や寺社などに焼き討ちを免れるための条件に
大金を要求しまくって、それを軍費にする目的もあったので
(加茂野の地の寺社だけで銀棒300、各43匁の重量とフロイスは書いている)
天皇の御所まで延焼するのもまったく気にせず信長は「御所に類火が及べば遷幸するように!」と命じたので
困った天皇は信長の目論見通りに将軍義昭に信長との和睦を勧めて延焼がこれ以上に広がる前に調停させた。
こういうこともあり本能寺の変後に義昭は毛利の乃美への「信長を討ち果たした」
島津義久には「織田は天命のがれがたく自滅した」と語ってる
義昭は天皇の命令で旧幕臣光秀に大逆無道の暴虐者信長殺害を命じたのだろう。

三河物語によると織田軍と少数ながら同盟軍として上洛に参加していた徳川軍(家康不在)、
彼らは京に近づくと付近の村落に猛烈な略奪を始めた。これを信長は制止出来ず、略奪の規模は拡大
しまいには略奪品の分配をめぐって、織田、徳川両軍による戦闘まで始まってしまった(しかもどうも、織田軍側が負けたらしい)
洛中に入った信長の行った、有名な『一銭斬り』
この強硬な措置は、洛中で織田軍への信頼を得るる云々以前に、
自分の軍隊の統率を取り戻すための措置であった、と考えたほうがいいようだ。
信長公記より比叡山焼き討ち  
鎮護国家の大道場は、叫喚のるつぼと化した。織田勢は僧俗・児童・智者・上人の別を問わずことごとく首をはね、
信長公の御前に差し出した。また山上では名僧・貴僧の呼び声高い高僧たちとともに美女・小童のたぐいが数をも知れず捕らえられ、
御前に引き出されてきた。かれらは口々に「悪僧を誅伐なさるにおいては是非もなし。しかしわれらは助け候え」と哀願したが、
信長公は聞き入れず、彼らはすべて首を打ち落とされた。まことに目も当てられぬありさまであった。 
焼き討ちは完遂され、信長公は胸中のしこりをとりはらった。信長公の怒りに触れた比叡山の山麓には数千の屍が散らばり、
この世のものとも思えぬ情景が広がっていた。哀れなことであった。 ※婦女子大量(数千人)虐殺・この世とも思えぬ風景
746人間七七四年:2011/04/29(金) 09:35:06.70 ID:o7hj7FD1
長島攻め
観念した一揆勢は降伏赦免を求めてきたが、信長公は断固として許さなかった。
信長公はかれら奸悪の徒を干し殺しにすることで、年来の乱妨狼藉の報いを受けさせようとしていた。
そのような状態が続く中、8月2日夜大鳥居に籠城していた一揆勢が夜間風雨に紛れて脱出を図った。
しかし織田勢はそれを見逃さず、追撃して男女一千ほどをなで斬りにした。  
長島の陣は、一揆勢の思いもよらぬ長陣となった。7月13日に貴賎数知れぬ男女が長島・屋長島・中江の三ヶ所に逃げ入ってからすでに三ヶ月が経過し、
過半はその間に餓死していた。もはや抵抗する力も尽き果てた一揆勢は、9月29日ついに降伏開城した。
降伏を許された一揆勢は、めいめい船に乗って城砦を出ようとした。しかし織田勢は彼らに鉄砲を掃射し、逃げた者は白刃をもって追い、
際限なく川へ斬り落としていった。 織田勢の違背を知った一揆勢は怒り狂って死を忘れ、
心ある者七、八百ばかりが裸体に抜身一本のみをたずさえて織田勢の中へ突入していった。
かれらは大軍の中を死兵となって荒れ狂い、陣所を切り崩し、御一門衆をはじめ数多の将兵を討死に追い込んだ。
彼らは大軍の中を切り抜けて無人の陣小屋に駈け入り、そこで支度を整え、川を越えて多芸山・北伊勢口へ散り、
そこから大坂へ逃れた。この失態をみた信長公は、残る中江・屋長島の両砦に対しては周囲に柵を幾重にも廻らして
砦の男女二万人を取り籠め、四方より火をかけて焼殺してしまった。
年来の鬱憤を晴らした信長公は、29日岐阜へ帰陣した。 ※1000人をなで斬り・降伏した20000余人も砦に押し込めて、
人間バーベキュー。信長は大量虐殺の成果に溜飲をさげる
越前一揆掃討戦  
国中の一揆勢は壊乱し、右往左往しながら取るものも取りあえず山中へ逃げ入っていった。
しかし信長公は殲滅の手をゆるめず、「押し進みつつ山林を尋ね探り、男女を問わず斬り捨てよ」と厳命したのであった。
織田勢が進撃を開始した8月15日から19日の間に諸方から捕縛され引き立てられてきた男女の数は、
記すところによれば一万二千二百五十を数えたという。そして信長公は御小姓衆に命じ、
これら搦め取った男女を余すところなく誅戮したのであった。このほか国外へ奪い去られた男女もその数を知れず、
生捕・誅殺された人々の数は合わせて三、四万にも上ると思われた。
※12250人を捕縛のうえ、合わせて3〜4万を殺す。山に逃げた人々も容赦なく探索し、残らず処刑。 生きたまま釜茹でにしたりと殺戮に趣向がプラスされた。
荒木一党惨殺
12月13日辰の刻に尼崎近くの七松という地で百二十二人が磔にかけられることとなり、 刑場へ向け人質たちが引き出されていった。
さすがに歴々の上臈衆であり、いずれも美々しき衣装を身にまとい、 すでに命叶わぬを悟って美しき姿で静かに居並んでいた。
やがて、その身を荒々しき武士たちが引き掴み、あるいは母親に抱かせて台に引き上げ突き殺し、 あるいは鉄砲をもってひしひしと撃ち殺し、
あるいは槍と長刀で刺殺して処刑していった。 百二十二人の女房衆が一度に上げる悲鳴は天にも響くばかりであり、
見る人は目もくらみ心も消えて涙を抑えきれなかった。処刑の様子を目にした者は、 二十日三十日の間はその有様が瞳に焼きついて忘れられなかったということであった。
この他にも端侍の妻子とその付々の女三百八十八人と、歴々の女房衆に付いていた若党以下の 男百二十四人の合わせて五百十余人が矢部家定検使のもとで家四軒に押し込められ、
周囲に乾き草を積んで焼き殺された。男女は風向きに従って魚の群れのように上へ下へと並び動き、 灼熱の炎にむせび、躍り上がり跳ね飛び、その悲鳴は煙とともに空へと響きわたった。
その有様は地獄の獄卒の責めもかくやと思わせるもので、みな肝魂を失い、 二目と見ようとする者がなかった。
※直臣の家族510余人を人間バーベキュー。 その惨状に誰もがふた目と見ようとはしなかった。