織田信長に天下統一ができるの?

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685人間七七四年
信長が神戸氏に大敗した永禄8年に市を浅井に向かわせ協力を取り付けたおかげで
やっと近江からの軍事的圧力のおかげで翌9年に信長は中濃・西美濃の調略に成功し
10年に美濃を奪うことができたくらいの下手くそだからね。
そもそも信長公記はデタラメだらけだしね。例えば伊勢なんて簡単に平定したみたいに書かれてるけど

永禄10年(1567年)8月滝川を先鋒に4万で伊勢侵攻したが神戸氏への支援として関氏の他に
長島門徒・高田門徒・天台宗信徒・伊勢水軍・志摩水軍に呼応して美濃で氏家・安藤・稲葉が謀反。
さらに北畠氏は鳥屋尾石見を使者として信玄とも協調し徹底抗戦したから滝川を放置して信長は逃亡してるし、
永禄11年11月の伊勢攻めでは去年の屈辱からかおよそ武士とは言えない略奪暴行大虐殺をしまくって南下するも苦戦。
結局、戦闘行為で力でねじ伏せることを諦め神戸氏に人質として信孝を与えて縁戚化させるしかなかった。
なんせ12年春には安濃津城前面まで来ながら信長は逃走してる。
そして織田方になった北伊勢の者どもを利用して調略や仲間割れを煽り
長野氏やその家臣の細野氏や雲林院氏の家中を疑心暗鬼にさせて暗殺や内紛を引き起こさせ
長野具藤は長野城を放棄して実家の北畠氏へ逃げ、
細野藤敦から離反した弟達の尽力により神戸友盛の娘を娶っていた信包が入城した。
(もともと具藤は暗愚だから長野氏の養子に迎えることに細野・雲林院は大反対だった)
怒った細野藤敦が長野城を奪い取ると信長は滝川の子を信長の養子にして細野に人質として渡し味方になってもらった。
この時、関一族の関盛信は信長帰属を良しとせず六角承禎の近江日野城へ逃亡した。
永禄12年5月北畠四御所の木造氏が北畠内での序列に不満があって織田方へ走るや
信玄・伊賀・大和へ支援要請し大和三人衆の秋山・沢・芳野らも動員して北畠は木造を滅ぼそうとするや
織田も伊勢の関・神戸・長野に滝川・織田信昌を援軍に派兵し、
滝川三郎兵衛が九鬼を買収し志摩水軍を北伊勢反北畠連合側に寝返らせる。
北畠が2ヶ月に及ぶ親族同士の殺し合いをして疲弊してると見て取るや信長7万で自ら出兵し
北畠氏を踏み潰そうとやってきた信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
686人間七七四年:2011/04/24(日) 18:15:47.24 ID:3wlIL483
この後、吉野・紀州に連なる三瀬谷城に具教が隠棲し
北畠の後継者のバカ殿の国司具房が織田に騙され北畠に仇なす謀反人として
忠臣天花寺と伊賀国人たちを討伐すると言う同士討ちを開始。
このために北畠を潰したのは暗愚な具房だとされる。
そこで心ある北畠旧臣たちは具教から許可されたを名目に四五百の森に防御施設を造り始める。
しかしこれも具房が攻めてきたので無血開城して涙ながらに撤退。
これに失望した榊原や服部の一族は北畠に未来はないと三河の家康の下へ走る。
多気御所(霧山城のことか)には北畠政成(5代政郷の弟政義の曾孫)が
紀州志摩熊野の国人達と割拠して反攻を試みており
信長はこれを危険視して天正4年(1576年)正月に
年賀の挨拶として具教の名代にきた鳥屋尾石見守を信玄との使いをしてるとして暗殺。
11月に信雄に買収された北畠の臣たちが具教に挨拶にきて暗殺。
信頼していた家臣達だったために太刀を近くに置かずにいたので
自慢の剣聖塚原の一の太刀の秘剣が発揮できず、小刀で19人死傷させるも刀が折れて討ち取られた。
信雄は妻が会いたがっていると騙して具教の次男・三男を朝食に招いて惨殺。
愚兄ゆえ具房は暗殺されずに幽閉された。
霧山城では北畠政成が南北朝以来の旧臣たちを集め、伊勢・伊賀・大和・紀州から参じるものたちと決戦準備。
12/2に先鋒に北伊勢の裏切り者たちに信雄15000が襲ってきて激しい戦いが開始された。
政成の妻の壱枚御前の縁故でやってきた松永久秀の兵は50騎で信雄本陣を切り崩し
旗本28人討ち取り信雄にも傷をつけたと言う。
しかし大兵の前についに力尽き最後の突撃を見ながら政成は自刃し、
妻の他に大宮景連の妻である水谷御前(松永久秀の娘)も自害し北畠は240年の歴史と共に滅亡してしまった。
これにてやっと天正4年末に伊勢国がなんとか平定され、
天正5年(1577年)2月、信長は紀州雑賀衆攻めを開始するも失敗し妥協的和睦。
10月には松永久秀を滅ぼし丹波守護代丹波亀山城の内藤定政病死をチャンスに丹波への入口を確保するが
11月に手取川で織田軍は謙信に排除される。天正7年伊賀攻めで大敗。
そして国司を辞退していた具房も天正8年34歳で突然死したと言う・・・天正9年伊賀平定。天正10年本能寺の変。
どんだけ戦が下手くそなんだよ信長・・・
687人間七七四年:2011/04/24(日) 18:25:53.62 ID:3wlIL483
訂正
>>鳥屋尾石見守を信玄との使いをしてるとして暗殺
鳥屋尾石見守を武田との使いをしてるとして暗殺
(北畠と武田は同じ割菱の家紋で織田を挟撃する戦略をかねがね立てていた)
688人間七七四年:2011/04/24(日) 20:12:25.69 ID:X25CcdD2
>>685>>686の間が伊勢長島一揆で織田軍フルボッコ状態の期間だもんなー。
しかも北畠の武人だけでなく雑賀衆も長島に水軍で物資を運び込みまくって永久要塞状態だったし。
信玄が死ななかったら美濃尾張近江と境を接する長島に武田が合流して信玄の根拠地化することになるよな。
尾張は平地で小牧長久手で家康が籠城した小牧山くらいしか要害は無いし。
木曽川以南は一向宗の力を借りれば楽に平定できるわな。
長島が健在なら木曽川渡川しなくても北伊勢から六角氏や甲賀衆の援助を得つつ美濃に入国できるし。
689人間七七四年:2011/04/25(月) 02:14:32.20 ID:88PXLBLW
越前若狭より朝倉2万5000が浅井とともに近江にいて織田軍を牽制
六角も近江東南から長島を支援してる中で三河を下した武田2万5000が長島に着陣
飛騨&美濃東部山岳地帯には朝倉にいる斎藤と対越後兵力を移動させた武田の合流による第三戦線が構築される。
本願寺包囲・京へのルート保持に兵力を分派しているため信長は4万しか手勢は無く岐阜城にいて身動きが取れない。
こりゃあ信長はどう考えても積んでるよな。