桶狭間奇襲失敗

このエントリーをはてなブックマークに追加
1人間七七四年
今川義元は上洛出来たのか
2人間七七四年:2010/07/02(金) 05:46:06 ID:q54gQq/b
紀州を奇襲
3人間七七四年:2010/07/02(金) 11:43:48 ID:B0i/F1ki
上洛意思は無かったと言われてるけどとりあえず尾張は併呑しただろうね。
4村上浦宗:2010/07/02(金) 12:15:51 ID:qav4V38h
そのあと義龍に負ける、と。
5人間七七四年:2010/07/02(金) 12:32:51 ID:Omuvdkbr
>>1
今川焼きが全国に広がっただろうことは間違いない
6人間七七四年:2010/07/02(金) 14:29:34 ID:75icAsvD
せいぜい美濃辺りで力尽きないか?
仮に稲葉山を落としてそこを本拠地にするとかならともかく
7人間七七四年:2010/07/02(金) 16:18:55 ID:81NvqJra
>>6
奇襲失敗→信長死亡→尾張勢全面降伏ってことでしょ
ほぼ無傷で後背の心配もないんだから美濃攻略もイケる
名門今川の威光で近江も無抵抗で通過出来るだろう
8人間七七四年:2010/07/02(金) 18:13:52 ID:5RZBHGP4
もし上洛したら
全盛期の三好とぶつかる事になる

さすがに全盛期の三好には勝てないだろ

4年待てば三好兄弟みんな死ぬけどね
9人間七七四年:2010/07/02(金) 18:33:33 ID:NpuD7Q7T
>>4 >>6
京都に行くのに美濃を通る必要はない。伊勢を通ればいい。
そもそもノブヤボのような戦国ゲームと違って京都行くのに京都の道中の諸勢力を滅ぼす必要はない。

そんなこと言ってたら、二度も上洛した上杉謙信はどうなるんだ?
しかも二度目の1559年の上洛は五千の兵を引き連れての上洛だ。
謙信の場合、越後から京都の道中にちゃんと断って許可取ってから上洛したんだけどな。
謙信ですら、そういうことができたのに足利家の親戚筋の今川家の上洛を邪魔する必要などない。
ただ、織田家とは敵対してたから何とかしなきゃいけなかっただけの話し。

>>8
上杉謙信が上洛した時、三好長慶や松永久秀も謙信に挨拶にしにやってきたんだよね。
別に敵対してなければ争う必要もない。
10人間七七四年:2010/07/02(金) 19:40:26 ID:B0i/F1ki
>>9
そのとうりだな。
せいぜい将軍に拝謁して官位貰うくらいだろ。
そもそも2万5千も引き連れて京都まで行くとはとうてい思えんけど
11村上浦宗:2010/07/11(日) 21:38:23 ID:lozFw/Dq
謙信とは能力が違うから久秀に狙われんか?二万五千の兵欲しさにやりかねんぞ
12人間七七四年:2010/07/12(月) 00:06:40 ID:TnTI+nUN
貴重な麻呂武将が・・・
13人間七七四年:2010/07/12(月) 00:37:00 ID:IkljpReq
尾張平定に一年余、その間義龍は病死、将軍家に仕えてた光秀と、義元は馬が合いそうだから、仕官してくるだろう 美濃も何なく平定する間に長慶病死、ここで義元に第一関門
浅井、朝倉連合に勝てるかどうかが、京への道が決まる
14人間七七四年:2010/07/12(月) 21:43:01 ID:xmM1l1k7
1558年の終わりに、それまで京都をのがれていた足利義輝が都に復帰している。将軍への挨拶ということで上洛することは可能だろう。
今川は室町幕府の守護だから、将軍を訪ねたとしても、これは公務。それを妨げるのは公務執行妨害で、幕府への反逆になる。
伊勢の北畠、近江の佐々木などはやはり守護だから、通過を求められればそれを拒絶する理由がない。
また、この頃、義元は朝廷から三河守に任命されており、そのお礼言上も上洛の理由となる。
1560年の今川義元の行動は、上洛を目指していたと見るべきだろう。
15村上浦宗:2010/07/12(月) 22:07:02 ID:nugW/she
>14
ということは、史実で織田のやったことは公務執行妨害になるんだよね
この事件に関する織田追討令は出たのか?織田はいつ許されたのか?
これが二つともないんなら久秀なり三好なりが妨害してもいいんじゃないだろうか

それと事前に今川は幕府ないし朝廷に上洛する旨は伝えていたんだろうか?
16人間七七四年:2010/07/12(月) 22:38:06 ID:gUlMjv+o
このスレ見てて毎回思う事なんだけど
三好はまだしも松永が普通に大名扱いされてるのがありえないわ
17村上浦宗:2010/07/12(月) 23:02:36 ID:nugW/she
俺は松永を大名といったことはない
完全な独立勢力でもないけど久秀なら勝手にやりかねんと思ったから書き込んだまでの話
そもそもこの議論はここでやることじゃないんだが
18人間七七四年:2010/07/12(月) 23:12:36 ID:gUlMjv+o
>>9
上杉謙信が上洛した時、三好長慶や松永久秀も謙信に挨拶にしにやってきたんだよね。

↑そんな事実は何処にも載っていない

>>17
松永は長慶が死ぬまでは忠臣の一人
きみは松永を過大評価しすぎだ
松永を単体扱いして良いのは1568年からだ
まああんたが誤解する発言したから訂正したまでだ
19村上浦宗:2010/07/12(月) 23:32:32 ID:nugW/she
>18
う〜ん、考えてみればそのとおりでした。
私が未熟者でした、すいません。
20人間七七四年:2010/07/13(火) 12:48:50 ID:e53uo7xW
>>15 信長は尾張守護斯波氏を追放して室町秩序からは離脱していたから、守護の権威に従う必要がなかった。秩序の外側にいる者は懲罰できない。
足利義昭はのちに信長の庇護下に入るが、そのことによって信長のこの行為は不問に付された、と考えるべき。もし、義政政権が続いていれば信長との関係はありえなかっただろう。
しかし、信長の行為を許さないものもいた。近江佐々木がそれで、信長主導の義昭上洛への協力をあくまで拒否したのは、その理由による。
信長のこの行為を当事者として関わったもう一人、伊勢の北畠を信長は目の敵にし滅亡に追い込んだ。
21村上浦宗:2010/07/13(火) 13:10:11 ID:z/H+JYmw
>20
ということは、義龍が同じことをしても懲罰されないのですね
22人間七七四年:2010/07/13(火) 15:02:57 ID:WPdT+KzV
今川の尾張併合まではすんなりだろうけど、
上洛、今川政権樹立の動きを見せたら、
甲相(特に信玄)が足をひっぱりだすと思う。
23人間七七四年:2010/07/13(火) 15:28:42 ID:h9HPKRvA
>>21 室町幕府が力を保っていた時代ならば、反幕府的行為を犯した者に対して追討令を出すこともできたが、この時代、たとえそれをしても誰も従わない。幕府がそれに対する恩賞を出せないのは明らかだから。
幕府の権威が失墜し、威令が届かないから戦国時代と呼ばれる。義龍も室町秩序の外側にいたから、今川の権威などは認めなかっただろう。
ただし、伊勢の北畠、近江の佐々木は幕府の秩序のもとにあるから、積極的に協力はしないかもしれないが、少なくとも今川の意図を妨害はしなかったろう。
あまり知られていないことだが、桶狭間の戦いの直前、鳴海城の近くの海上に服部右京之介率いる2000隻からなる船の大群が接近していた。
今川軍は鳴海で乗船して、伊勢に上陸し、上洛する予定であったと推測される。上の方で誰かが言っていたが、美濃を通る必要はない。
24だぅ:2010/07/13(火) 15:44:57 ID:XA7Y6Kf2
今川家臣団のしょぼさ見たら領地切り取りできるかな?
結局は桶狭間みたいな事になってたと思うけど
25人間七七四年:2010/07/13(火) 15:55:19 ID:WPdT+KzV
>23 信長なら、桶狭間に散った信長の怨霊なら、きっと伊勢湾台風を呼び寄せられるはず。
熱田沖に散った義元と今川軍2万5千。
ん!歴史は結局清洲で留守番を命じられた家康に微笑むのか!!
26村上浦宗:2010/07/13(火) 17:05:25 ID:z/H+JYmw
伊勢を通っても伊賀か大和か北近江は通らなければならないはず。
どこを通っても絶対安全ではないよな。
27人間七七四年:2010/07/14(水) 06:48:10 ID:/KIko3ZN
そもそも、桶狭間は今川が上洛するための戦ではないのだが。
単なる織田領への軍事侵攻だ。
もっとも、それが終わったら将来的に上洛することはありえるだろうけど。
それもあくまで主家であり親戚の足利しよぅぐん家を立ててのものだしな。
28人間七七四年:2010/07/14(水) 18:50:39 ID:EQXcES4Q
>>27
何でも計画通りに進むとは限らない
ほぼ無傷で尾張平定を達成すれば伊勢、美濃への侵攻案も浮上してくる
29村上浦宗:2010/07/15(木) 00:04:39 ID:3AKBiiO4
兵を引き連れての上洛は誤解を招くだろう。
上杉なんかは下手に刃向かったら命がなくなるから邪魔はせんだろうが、
今川には妨害するやつが出かねん。
じゃあ信秀らへんがやったようにとものみ引き連れての上洛は、
そもそも桶狭間自体の必要がないと思う。
ここから考えて、あったとしたら今川の上洛は、
@道中の大名を踏み潰しての上洛
A(アホな)今川が自分の兵力を頼んで(要は過信して)、尾張より先は自分から戦を起こそうとせずに上洛
の二通り
@に関しては伊勢→大和→京のルートが最速
しかし、三好に敗れると思われる。
Aについても、三好か伊賀上忍の奇襲を受けて失敗しそうだ。
まあ、後ろが後ろなだけに尾張制圧をやっただけで駿河に戻り、
義龍が死んだら家康あたりに美濃奪取を命じる、
次は近江を、とやって家康に留守任せて自分は上洛するのが今川の構想だったのかな。
30村上浦宗:2010/07/15(木) 00:07:25 ID:3AKBiiO4
連投すまん
「とも」→「供」
「やって」と「家康」の間に「その後」がぬけた
31人間七七四年:2010/07/28(水) 22:46:29 ID:/p2g9Hr6
名古屋市の守山区への交通政策冷遇を糾弾するpart3
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/trafficpolicy/1254641566/637

637 名前:亀にゃん市民[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 22:26:00 ID:wFbEPb010
緑区大人気ですねwww
桶狭間がそんなに有名だとは知りませんでしたよ。
でもおかしいですよね、そんなに有名ならもっと観光地として賑わっていてもいいはずですが・・・

32人間七七四年:2010/08/03(火) 05:35:52 ID:OMt3pJrA
今川義元上洛→将軍に接近 国元に帰る 武田信玄に協力し上杉攻め
または北条氏康に協力して小田原防衛

三国同盟VS全盛期関東管領上杉のドリームマッチが起こるかも
33人間七七四年:2010/08/07(土) 19:31:37 ID:sQoAq2zk
  今川義元は実力のある大名であったが尾張平定の後に
京へ登ろうとするなら美濃、近江、北伊勢は押さえんと
ならないから、おそらく寿命が尽きただろうな…
34人間七七四年:2010/08/10(火) 11:27:57 ID:Rtjercfj
信長が尾張統一から10年ほどで京に上れたのだから、
尾三遠駿120万石の義元なら、寿命までに上洛、管領就任できたのではないか。
まあ、途上で死んでも我らが氏真様が、天下一蹴鞠大会を開くために三好、六角を滅ぼすだろう。
35人間七七四年:2010/09/08(水) 22:39:15 ID:3sGo0cNF
>>34
ちっ・・・義元が桶狭間で死んでなければ今頃日本はワールドカップで常勝を誇っていたと言う事か
信長めいらぬ事を・・・
36人間七七四年:2010/09/12(日) 14:40:42 ID:YcgpzFli
足利幕府がさらに力を持つだろう
上杉謙信が絶頂に達する
37人間七七四年:2010/10/06(水) 08:02:04 ID:zI0v8Q99
て事は武田は途中で放り出されて甲斐と信濃南半は今川、北信は上杉に分割?
38人間七七四年:2010/10/24(日) 14:33:05 ID:kALFEE6Y
>>32
三国同盟VS全盛期関東管領上杉のドリームマッチは面白そう。
永禄4年、河越から北上した氏康・義元・信玄3万の軍勢と
厩橋から南下した憲政・謙信3万の軍勢が深谷あたりで合戦。
39人間七七四年:2010/10/25(月) 14:38:24 ID:XnmQ+KoO
利害の薄い武田、今川に積極的に戦う意思はなく、
北条も自分が前面に出るのはできるだけ避けたい。
越後衆はいつでもサカリがついてるし、長野など上野上杉衆も血気盛ん。

そう考えると、初戦で憲政・謙信軍が先走る北条の武蔵衆を蹴散らし、
以後は川越や八王子などに分散してにらみ合い。
信玄や氏康、生きれいれば雪斎がなにか謀略をしかけるか、
義元が将軍家に働きかけて講和の使者で、
結局謙信が越後へ帰って終わるような気がする。
40人間七七四年:2010/10/25(月) 17:56:34 ID:U2iFCzVd
今川じゃ無理
41人間七七四年:2010/11/05(金) 09:19:49 ID:k95o1/A/
>>9
滅ぼさなかったら、遅くとも来年には帰らなきゃいけないわけだが。
後半は相手が違う。

>>15>>20
挨拶しに行くのは公務だが、領土を奪おうとするのは公務じゃない。

>>28
正面から戦いをするのに無傷で済むわけないだろうが。
42人間七七四年:2011/04/06(水) 13:38:29.35 ID:TD5RMyAa
>>1
そもそも信長は奇襲とかしてないのだが
http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/078f4162.0400bdaf.078f4163.d5699732/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f6777169%2f%3fscid%3daf_ich_link_mail&m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f13975643%2f

第一部 桶狭間の死闘は正面攻撃だった!
 第一章 『信長公記』が伝える戦いの実相
 第二章 信長・義元の戦いを総括する 

第二部 戦国合戦の「定説」を疑う
 第三章 戦国大名の戦いのパターン
 第四章 今川義元は天下を目指したのか?
 第五章 「簗田特務機関」は信長を勝利に導いたのか?

第三部 桶狭間をめぐる「親説」の登場
 第六章 『甲陽軍艦』を典拠とした「乱取状態急襲説」
 第七章 織田軍別働隊による「迂回奇襲説」
 第八章 “狂気の信長”が指揮した「正面奇襲説」

第四部 「迂回奇襲神話」の誕生と参謀本部
 第九章 誤った「教訓」を生み出した『日本戦史・桶狭間役』
43人間七七四年:2011/04/07(木) 21:28:50.22 ID:MLyk0JAM
>>42
藤本大先生の本に、間違いなんてありませんねw
44人間七七四年:2011/04/07(木) 21:50:38.66 ID:QnKwuO+v
奇襲で勝ったなら、信長公記に大いばりで明記しているだろ?
45人間七七四年:2011/04/08(金) 04:00:15.19 ID:I2Vsh94i
>>41
いや別に滅ぼさなくてもいいって。
大内義興の例を見ればわかる。
大内の場合は尼子すら滅ぼさずに上洛してるしな。

今川が戦わなくてはいけない例外は敵対していた織田と
畿内で足利家を圧していた三好だけ。
北畠、京極、六角など室町政権内の家と戦わなくていい。

>>13
は?
今川がなんで浅井朝倉と戦わなくてはいかんの?
朝倉は織田の上洛すら邪魔してないし、浅井がわざわざ今川の上洛を邪魔するとは思えない。
そもそも、浅井と朝倉が旧知の仲だったというのは嘘で長らく敵対してたんだが。
46人間七七四年:2011/04/10(日) 08:09:45.33 ID:ckEGZNTG
ねーよw
47人間七七四年:2011/04/11(月) 19:44:13.09 ID:PmbDyk/v
>>41
奇襲失敗が前提ですので無傷で済みます
降伏した尾張兵が先鋒になり上洛軍に加わります
48人間七七四年:2011/04/21(木) 13:48:00.16 ID:OhijrxrQ
桶狭間の戦いは、今川上洛軍を織田軍が襲って破った戦い。今川上洛を否定し、尾張三河付近の勢力争いとするのが最近の傾向だが、これは前提が誤り。
織田今川は1556年四月に和解(というより織田が今川に降伏した、と言った方が正確だが)して、戦闘状態にない。
そもそも信長が強敵、岩倉織田氏を倒して尾張国内を統一出来たのは、ひとえに今川氏との和解があったから。
岩倉織田氏はこの時、美濃と同盟関係にあった。弱小の信長が、東の今川と対立しつつ、美濃をバックとした岩倉織田を戦えるはずがないではないか。
今川が鳴海城に軍を駐屯し、美濃勢の尾張への介入を牽制したから、孤立した岩倉織田を滅亡に追い込むことが出来たのだ。
今川が織田を援助したのは、上洛を実現するため。
尾張攻略は困難である。上洛も困難である。しかし、この困難な作業を二つ組み合わせれば、両方を実現できると考えた知恵者がいて、それを実行に移した、ということだ。
その知恵者は間違いなく大原雪斎。信長もこれに乗ったのだが、今川にとっては不幸なことに雪斎が死去。
義元がそれを引き継いだのだが、義元に信頼感を持てなかった信長が、直前にその計画から下りたというのが「桶狭間の戦い」の真相である。
49人間七七四年:2011/08/14(日) 19:02:36.48 ID:ksAF1Dig
初陣が奇襲する側で、最期に奇襲されて討ち取られた武将いますか?
50人間七七四年:2012/02/24(金) 05:52:43.70 ID:ZL0zTiFC
引き分けになりそう。
それで信長の天下もないけど今川の強大化も無し、と。
51人間七七四年:2012/02/24(金) 08:11:26.03 ID:vBnpaUdx
>>48
信秀は?
十分に戦っていたと思うが・・・。
まあ、最後に今川に大敗したけども。
それはまあ置いておいたとしても、和解が持続しているのなら、実際に桶狭間が
あるわけがない。
どうも、都合の良いところしか抜粋して持論を展開しているように見えるなぁ。
52人間七七四年:2013/04/02(火) 17:25:54.57 ID:H92EIjny
>>51
鳴海城や大高城の間に付城ってか砦を築いてるのになあ。
53人間七七四年:2013/06/12(水) 20:25:52.36 ID:xIUWvF04
桶狭間の戦いは信長の捏造
54人間七七四年:2013/06/12(水) 23:04:35.09 ID:2LXUqNfB
んじゃ義元さんどうやって死んだの?
55人間七七四年:2013/06/19(水) 16:36:41.39 ID:2gKrrK4B
義元が上洛して畿内周辺を支配し1582年に本能寺の変で親子ともども討たれて、徳川家康が江戸幕府開きましたとさ
56人間七七四年:2013/06/19(水) 17:39:45.85 ID:sS7sTpEk
お願いだから氏真は死なせないで!彼には未来がある
57人間七七四年:2013/06/20(木) 00:13:58.77 ID:y9pekW5k
幼馴染の氏真君がまた遊びに来たから少し遠い品川の屋敷あげました
58人間七七四年:2013/06/29(土) 20:12:44.41 ID:KKEoAT8r
織田の兵の数は少なすぎ、今川の兵の数は多すぎ。
59人間七七四年:2013/07/01(月) NY:AN:NY.AN ID:juhp2sa0
経済力考えると同数程度だった様な気がする。
60人間七七四年:2013/07/01(月) NY:AN:NY.AN ID:RutQP2RA
経済力って言っても港湾経済を中心とするのと
農業の生産力を元にした経済が中心だと動員出来る兵数には差が出るんじゃね?
61人間七七四年:2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN ID:vnBC75jH
>>60
当然そうだろね。
当時、結構な傭兵と言うと聞こえがいいけど、飯のために戦に出た人は多い
ので、短期で考えれば兵は集められるだろう。
ただ、烏合の衆にならざるえないけど、そこをどう使っていけるかかと。
そういう意味では同数だったとしても今川の方が有利だったと思う。
今は兵を送って退路を遮断し、今川は浮足立っていたっていう説もあがって
いるけど、どうなんだろうね。
62人間七七四年:2013/07/03(水) NY:AN:NY.AN ID:BaUtdbse
本当に今川が織田の10倍の動員兵力なら勝てるわけない。しかし、赤穂浅野五万石が
改易当時、武士と言われる人間が250人とか300人と言われている。
桶狭間当時の織田家は何人ぐらいいたのだろう。
63人間七七四年:2013/11/10(日) 12:17:15.12 ID:3GTzIR7q
尾張は50万石だから動員兵力は約1万人で、寄子寄親を中心とした常備兵力
農繁期とかは動員が難しい代わりに、実力と忠誠心に関しては心配のない軍隊
これに伊勢ー津島ー吉田を結ぶ交易ルートからの運上が20万石程度あった
この経済力で動員できるのは、いわゆる銭で集める傭兵たちで、足軽が中心
傭兵たちは、基本的に臨時雇いなので、20万石分でも1万人は集められた筈
従って、織田は2万まで動員可能だったが、実際にどれだけ動員したかは不明
でも、野戦で防御を突破された時の籠城切り替えのため、全部は動員できない筈
64人間七七四年:2013/11/10(日) 13:24:32.50 ID:g7ZzPzZ5
武田軍3万とか言っても5000人くらいは兵站部隊だったわけで
今川2万と言っても実際の戦闘部隊は15000程度じゃないの?
これを分散させて本陣は5000程度
織田はかき集めた2000で突っ込んで成功しただけ
65人間七七四年:2013/11/23(土) 15:18:25.89 ID:4OHIFJiU
今川本陣は、雨が上がって織田の機動部隊が目の前に現れたとき、直ぐに逃げ支度をしている
織田の兵力は2千〜3千くらいだったから、本陣にいたのは2千以下だったのではないか?
66人間七七四年:2014/06/19(木) 04:54:24.32 ID:usaC0vLA
そもそも奇襲でも何でもないだろ? 迂回奇襲って日本軍じゃねーぞw
67人間七七四年
公記を読めば、低い地形にいた織田軍が高地に陣取っていた今川軍へよじ登り、
正面突撃して大軍を切り分けてまっすぐ、義元本陣へ向かったという
ありえない作り話っぷりしか読み取れない。
義元本陣の場所を知っていたどころか、義元はまったく逃げずにいたというアホ話。