戦国ちょっと悪い話20

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890人間七七四年
題:ヘッピリムシとミイデラゴミムシ

天台寺の総本山は二つある。山門宗の比叡山延暦寺と寺門宗の園城寺(三井寺)である。
1602年関ヶ原で大失敗した毛利輝元は三井寺の道澄の元を訪れていた。

毛利輝元「うちの領内には大内の時代に朝鮮王朝から賜予された大蔵経(一切経)があるんですよ」
道澄「いいですねェ。うちの寺にもあれば総本山として箔がつくんですがね」
毛利輝元「あげます」
道澄「なんですと!?」

こうして大内が大金を投じて手に入れた一切経はタダで三井寺に寄進された。
かつて毛利氏は尼子氏との調停など長年にわたって道澄の手を借りており、
今回も徳川との外交工作に道澄を利用しようという目論見があった。
(また、大内の頃から裕福だった防長は毛利のミスで貧困になり、領内に不満が広がり昔と比較する者が多かった。
大内の業績を否定し評判を落とすことで「大内は無闇に領民から集めた金を公家や寺社に散財した。大内よりはマシ」と吹聴した。)

翌年、工作の効果を期待した毛利輝元は江戸幕府に対して拠点を三田尻・山口・萩の何処にするか伺いを立てた。
すると帰ってきた答えは誰得の萩という回答であった。
寺門宗の道澄と対立する山門宗の高僧の影響力を毛利輝元は見抜けなかったのである。
それは徳川家康の側近にいた南光坊天海である。
かくして毛利家は長いこと逆恨みつつ、大内義隆のように公家に対して金をばらまき朝廷内で工作することになる。