1 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 22:56:05 ID:XiK3N/DQ
2 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 23:27:03 ID:lC20mPYg
斯波義廉とは一体なんだったのか
そのへんの斯波氏の略系を岩波や小学館は物凄くぞんざいに扱う。
4 :
人間七七四年:2010/05/02(日) 01:17:00 ID:F97+A0Zq
朝倉えーりんは細川勝元の差し金
5 :
人間七七四年:2010/05/02(日) 11:21:48 ID:vVsQUn5Y
わかりやすい応仁の乱までの展開
足利義政「関東で足利成氏が騒ぎ起こしてるから斯波くん遠江尾張越前の兵率いて平定ヨロ。
あ、東北の連中も動員しちゃって。」
斯波義敏「はぁ?お前が種を巻いた守護代の甲斐常治との抗争で忙しいんだよこっちは!
そんなヒマ有るか!」
足利義政「うぬぬオレのパーフェクトな関東政策を邪魔するとは!
ならば奥義クラスチェンジ!渋川義鏡の息子義廉は斯波家に入嗣し
その家督を継ぐ!」
斯波義敏「助けて大内教弘〜。守護職を剥奪されたよ〜」
斯波義廉「やべえすwww関東も東北の諸侯も渋川出身の俺の言う事聞きゃしないすwww
あげくのはてに実父の渋川義鏡が関東で失脚気味っすwwwテラヤバスwwwww」
足利義政「あれー?義廉全然役に立たん、義敏の方が良かったなあ。また家督すげ替えるか?」
細川勝元「そうっすね。」
斯波義廉「やばすwwwこれ俺が管領にならないと滅亡じゃねwww
義父の山名宗全さんを頼ろう!あと畠山義就くんも味方に引き入れるぜwww
ついでに教弘が死んで反細川姿勢を鮮明にしてる跡継ぎの大内政弘も!
うは、俺の与党テラツヨスwwwww」
朝倉孝景「ボクも義廉様を助けるよ(棒読み)」
細川勝元「ああ山名さん?俺が義敏支持だって知っててやってんの?畠山家も政長支持だし。
喧嘩売ってるのなら買うよ?」
山名宗全「なんだとゴラァ、お前のところに養子にやったうちの豊久を廃嫡して勝手に出家させて
同盟関係のウチに喧嘩売ってきたのはオマエの方だろうが!カチ殺すぞ!
くらえ!文正2年正月のクーデター!」
畠山政長「おいおい管領職剥奪されちゃったよ!?しかも畠山家督まで義就に!?
ふざけるな!」
↓
上御霊社の戦い
で、なんのかんのあって応仁の乱に拡大。
6 :
人間七七四年:2010/05/02(日) 15:22:39 ID:vHrbgOAw
7 :
人間七七四年:2010/05/05(水) 17:12:05 ID:PYMH64Sp
管領、奥州探題、九州探題。
何か奇跡が起こればよかったのにね。
8 :
人間七七四年:2010/05/06(木) 12:24:32 ID:pz7dveA0
高水寺斯波氏の家系図の胡散臭さといったら…。
9 :
人間七七四年:2010/05/06(木) 12:27:36 ID:MCv4Yd31
信長が斯波宗家を継いだって話は、どうなんだろう?
10 :
人間七七四年:2010/05/06(木) 13:34:46 ID:FzFG7oIE
信長は源氏を名乗ってない、後はわかるな?
11 :
人間七七四年:2010/05/09(日) 19:22:53 ID:+J1W1/Ot
最上こそ斯波氏最高の家柄
12 :
人間七七四年:2010/05/09(日) 20:10:02 ID:2wVcS13x
柴田勝家の「柴」は、斯波氏のシバに由来するのかな?
13 :
人間七七四年:2010/05/10(月) 09:13:14 ID:OQc2WOUv
なんで江戸時代、高家にすらならなっかたんだ?
14 :
人間七七四年:2010/05/10(月) 12:15:02 ID:pBu6ITJK
>>12 柴田が斯波一族を名乗っていたのは確からしいが、柴田氏の由来は
越前柴田城から。
15 :
人間七七四年:2010/05/10(月) 15:38:27 ID:v1uOiI9b
>>13 自領を持たない泡沫なので、スルーされたんじゃね?
その点、吉良家は上手くやってるけど。
16 :
人間七七四年:2010/05/10(月) 22:22:55 ID:AojT4mvZ
家長が北畠顕家に打ち勝って、氏経が九州を制圧して、
武衛家が管領を、大野家が加賀、もしくは若狭を世襲出来れたら斯波氏の天下だったな
17 :
人間七七四年:2010/05/10(月) 23:20:19 ID:pBu6ITJK
>>16 そこまで大きくなる前に普通に義満か義教にぶっ潰されそうだがw
18 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 09:55:58 ID:F6Xv2xeC
阿曾沼・稗貫・和賀を従属させながら南部に瞬殺された高水寺斯波氏雑魚すぎwwwwwwwwwwwwwwww
19 :
人間七七四年:2010/05/28(金) 10:23:29 ID:Wod5iumH
606 :水先案名無い人[sage]:2008/03/25(火) 04:04:51 ID:Wdj+EARN0
やったぜ。 投稿者:無責任糞公方 (12月16日(水)07時14分22秒)
10年前の2月6日にいつもの山名宗全のおっさん(63歳)と前日メールくれた戦好きの畠山義就のにいちゃん
(30歳)とわし(31歳)の3人で京にある室町第で語りあったぜ。
その頃も財政があれなんで銭を酒屋と土倉で集めてから滅多に人が来ない所なんで、そこでしこた
ま酒を飲んでからやりはじめたんや。
3人で義尚を褒めあいながら後は擁立するだけになり逆らって来た畠山政長の屋敷を少しずつ取り上げようとした。
しばらくしたら、細川勝元がぴりぴりして来るし、政長が管領を辞職して勝元の側でぐるぐるしている。
宗全のおっさんに酒宴を催させながら、義就を総領と認めてたら、先に政長の兄ちゃんが上御霊社に兵をドバーっと出して来た。
それと同時に斯波義廉も朝倉孝景も兵を出したんや。もう洛中、血まみれや、東西で出した負傷者を足軽で補いな
がらお互いの領国を攻めあったり、館に火を付けあって称光天皇を狼狽させたりした。ああ〜〜た
まらねえぜ。しばらく停戦してから又合戦をしあうともう気が狂う程気持ちええんじゃ。
細川勝元のけつの穴にわしの牙旗を突うずるっ込んでやると東軍が大義と名分でしゃきしゃ
きして元気が良い。
宗全も三途の川に片足突っ込んで死期が近付いて居る。破れかぶれのおっさんは幕政をひっ掻
きまわしながら、思い切り陣没したんや。
そのあいだ、もうめちゃくちゃに大内と朝倉の戦況の変えあい、構図の塗りかえ、二回も
義視が出奔した。もう二度とやりたくないぜ。
やはり大勢で血まみれになると京も廃墟やで。こんな、無責任公方と遁世しないか。ああ〜〜早く茶ま
みれになろうぜ。
東山の銀閣であえる奴なら最高や。わしは163*90*41,富子は165*75*37、や茶まみれでやりたいや
つ、至急、メールくれや。
何一つ解決しないまま成仏して、戦国時代をまとうや。
20 :
人間七七四年:2010/06/17(木) 22:59:21 ID:OQU05KUa
今川につかまったのは義寛?義達?
21 :
人間七七四年:2010/07/21(水) 17:14:01 ID:482TaGrZ
苗字の地は陸奥国斯波郡(志和郡、紫波郡)
現在の紫波郡紫波町は「しわぐんしわちょう」と読むし
足利高経の子で初めてこの苗字を名乗ったという家長は「志和三郎」と書かれる
本来は「しわし」と読むべきか
22 :
人間七七四年:2010/08/09(月) 16:04:28 ID:ytzeP9Sv
23 :
人間七七四年:2010/11/27(土) 02:03:20 ID:PkS3DXin
太閤5の斯波義統は無能すぎ
24 :
人間七七四年:2011/01/01(土) 16:23:46 ID:PLKrOQWw
斯波義銀改め義近でいいの?
25 :
人間七七四年:2011/03/02(水) 02:40:06.32 ID:a3gS/5Fr
>>24 津川義近か。
津川ってのは、どこから取ってきたんだろ?
26 :
人間七七四年:2011/03/07(月) 23:51:35.15 ID:O3paRJr3
空華集「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠地とした
墓石群があったと思われる寺院
薬王寺
中世に岡崎市矢作にあった寺。「三河念仏相承日記」が記す建長8年(1256)10月の親鸞の弟子真仏・顕智・専信ら念仏勧進の場所として著名で、所在地をめぐる論争があった。
同時代史料では永仁3年(1295)8月の熊野山日供米碧海荘配分状(鎌倉遺文18898)に薬師寺郷の名がみえ、「滝山寺縁起」に薬師寺の名が2か所みえる。
郷名は寺があるところから付けられたと推定され、創建は相当古いとみられる。
昭和57年(1982)12月に矢作川河床内で新井幸雄が採集した鎌倉時代前半と推定される平瓦の破片に「□師寺多宝塔」「東光坊良信」などのヘラ描き文字があり、矢作近辺に薬師寺があったことを裏付ける。
東光坊は12世紀後葉の創建で15世紀中葉まで存続したと矢作町山本家文書に伝えられ、「岡崎東泉記」も矢作の古寺の跡として東光坊をあげており、薬師寺の坊舎の一つであったことは疑いない。
昭和3年刊行の『矢作町誌』は、西牧内(現大和町)字西島の郡道に沿って8間四方の寺跡があり、本尊薬師像は桑子妙源寺に納められたが、慶長8年(1603)の検地帳には「薬師前」という小字があったと記した。
それでこの地を薬師寺の所在地とするのが通説となったが、原拠史料が伝わらないので詳しい検討はできない状況である。
ヘラ描き瓦の採集地に近い矢作川の中洲から鎌倉後半〜室町時代に比定される宝篋印塔・一石五輪塔13基が一括出土するなど、所在地は確定できない。
27 :
人間七七四年:2011/03/08(火) 10:47:20.06 ID:kGFo2NJg
吉良家のほうが武衛って感じがするな。
28 :
人間七七四年:2011/03/14(月) 16:08:42.05 ID:AfR3OdTI
高水寺斯波氏、大崎氏のお膝元が…
住民の安全と町の復興を願います
29 :
人間七七四年:2011/03/14(月) 18:03:17.71 ID:qfJiSJsh
そっちは内陸部だし
むしろ打撃があるとしたら石巻方面の葛西氏だろ。
30 :
人間七七四年:2011/03/14(月) 23:06:47.78 ID:ji6z/pV8
閉伊郡を支配してた阿曽沼氏は
形式上は高水寺斯波氏に臣従してた。
31 :
人間七七四年:2011/03/20(日) 21:30:00.12 ID:53kQIJvR
細川→分家が大名
→総家は藩士
畠山→本家は高家
→分家も高家
斯波→本家分家?
32 :
人間七七四年:2011/03/22(火) 22:43:34.74 ID:HhYMVuTi
和泉細川は頼之の同母弟が祖だから嫡流との遠さなら最上とたいして変わらないぞ
33 :
人間七七四年:2011/04/11(月) 19:16:19.14 ID:FNxLyziz
永源寺
新編岡崎市史20(総集編)
中世、碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に碧海荘は斯波義持の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。
これ以降の史料がなく近世の伝承地もないので、15・16世紀頃に廃絶したとみるしかない。(2−397)
34 :
人間七七四年:2011/07/26(火) 00:51:50.73 ID:ju+xhlI0
越前の朝倉氏をうみ
尾張の織田氏をうんだ
斯波氏は最強ともいえる。
なぜならば、盛時は血臭を好む朝倉・織田の精鋭を重臣に従えていたから。
これは三好・長曽我部を従えていた細川氏にもいえることなんだけど。
35 :
人間七七四年:2011/07/26(火) 03:02:02.47 ID:lD8x2lvT
畠山も配下の遊佐とか河内でも能登でもウザすぎる
36 :
人間七七四年:2012/01/12(木) 18:32:24.51 ID:gTIdvHf7
ら
37 :
人間七七四年:2012/02/29(水) 04:19:22.77 ID:2lx6xNYK
38 :
人間七七四年:2012/04/24(火) 16:27:24.33 ID:EfDpyVmW
義継
39 :
人間七七四年:2012/12/21(金) 05:38:29.07 ID:4kGxdSyD
ゆっさゆっさ
40 :
人間七七四年:2013/02/22(金) 11:17:51.79 ID:7tHeoKuS
おっぱい
41 :
人間七七四年:2013/02/23(土) 01:34:05.53 ID:SGtcGoY2
部活の後輩にいたな>斯波
どの系統の子孫だったんだろう
42 :
人間七七四年:2014/02/03(月) 01:01:44.84 ID:AgjE2TSM
細川さんは現在でもしばしば見かける姓なのに、
斯波さんは現代では一度も見たことないな
やはり斯波は負け組なのか…
43 :
人間七七四年:2014/02/03(月) 01:18:02.44 ID:dN534R+/
紫波が斯波に転化したんだっけ
かっこいい名字だよな
44 :
人間七七四年:2014/07/04(金) 22:00:56.76 ID:Un5b2d/F
斯波の殿様が紫に輝く川面を見て紫波郡にしたんじゃなかったっけ?
45 :
人間七七四年:2014/07/04(金) 22:48:18.42 ID:fyMw0hE1
そうなのかー
46 :
人間七七四年:2014/07/23(水) 18:18:52.79 ID:3rzxZWL9
斯波って名字の人は知ってる。
斯波氏の後裔かどうかは知らんが。
47 :
人間七七四年:
関ヶ原の戦いで西軍が勝っていたら前右大臣秀頼近習の津川親行は大大名になっていた。
越前65万石クラスの国持大名になっていたはずだ。
もしかしたら足利義昭の跡を継いで征夷大将軍になっていあかもしれない。