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人間七七四年:
いい話だ
織田信孝は1582年に四国征伐の総司令官に任ぜられ、織田氏の宿老・丹羽長秀や従兄弟の津田信澄らを付される。
堺にて渡海の準備の最中に本能寺の変が勃発。
しかも逃亡兵が相次いだため、積極的な行動はできず、
従兄弟の津田信澄を殺害した程度である。
その後摂津国富田で「中国大返し」後の羽柴秀吉軍に合流、名目上は総大将として山崎の戦いに参戦し、仇である明智光秀を撃破した。
清洲会議では信長の弔い合戦の総大将であったにも関わらず、その存在は羽柴秀吉によって無視され、
織田氏の後継者は信孝の甥の三法師に決定し、信孝は三法師の後見役として兄・信忠の領地であった美濃国を与えられる。
その後、織田氏宿老格の柴田勝家・滝川一益らと結び、
同年12月、三法師を擁して秀吉に対して挙兵する。
しかしこの挙兵は秀吉の迅速な行動によって降伏せざるを得なくなり、降伏して人質を出し、三法師を秀吉に引き渡した。
翌、1583年、賤ヶ岳の戦いが起きると、信孝は再度挙兵する。
しかし同年4月に居城の岐阜城を包囲され、頼みの柴田勝家も北ノ庄城で自害すると開城して降伏した。
信孝は尾張国知多郡野間(愛知県美浜町)の大御堂寺(野間大坊、平安時代末に源義朝が暗殺された場所)
に送られ、迫られて自害した。享年26。命日は4月29日(西暦6月19日)と5月2日(6月21日)の二説がある。
辞世の句は「昔より 主を内海の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」(「内海」を「討つ身」とかけている。
信孝の秀吉への激しい怒りが感じられる句となっている)。
この辞世が現実のものとなるのは、それから32年後のことであった。