大友氏について語ろう2

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64人間七七四年
志賀親次
豊薩戦争の折、肥後口から豊後に侵入してきた島津義弘軍3万7千の軍を恐れ
内通しようとした父を切腹させ岡城の城主となる。
岡城に攻め入った軍(新納忠元が指揮したと言われている)は3度に渡り撃破され
しかもその内の1戦においては島津得意の釣り野伏せを模した戦法で破られるという屈辱を受けている。
岡城攻略をあきらめた島津軍は稲富新介に5千の兵を与え志賀軍に備え主力を北上さ
せるが、功を焦った稲富は独断で岡城を攻め親次に散々に打ち破られた。

志賀親次はほとんど岡城から出て戦ってたみたいだけどな。
http://www.oct-net.ne.jp/~faulen13/ktsp/oka.html

吉田一祐カワイソ
http://www2.city.usuki.oita.jp/kyouiku/mamoru/saihakken/simokita/kuriyamajousi.htm

佐伯惟定
栂牟礼城には家久の子豊久が攻めてきた
島津からの使者を切り惟定は伊東家からの客将山田匡徳と組み惟定が正将として豊久軍に正面
から当たり注意を引いたところを匡徳が奇将として奇襲をかけるという戦法(立花道雪の正と奇の
軍法を模したと思われる)で島津軍を撃破した。

耳川合戦の翌年7月、島津方与党が佐伯に侵入したのを11歳の惟定が撃退し、。
以後たびたび佐伯諸浦が襲撃されたが、惟定はよく奮戦し防御した。
 天正14年11月土持 親信、新名親秀 ら(豊久がいたかは不明)2千余人が佐伯に
出撃、惟定は千八百余の兵で堅田、鬼ケ原にて応戦、島津軍を撃退し、その戦死
者は千人を超え千人塚が建てられた。
 以後島津に寝返った柴田紹安の妻子が籠る星河城を落とし人質にとり、紹安を再度
寝返らせ、さらに土持 親信の朝日嶽城を落とした。豊後から撤退中の島津義弘、家久
が梓山を越えて日向に入ろうとしていたところを、佐伯軍が急襲し島津軍を敗走させ、
府内から奪われていた大友家の家宝を取り戻した。(着服したようだが)
 大友家改易後は藤堂高虎に仕え、慶長の役での元均との海戦や大阪の役の長宗我
部盛親との戦いに功があり、津祭りでは藤堂家の四天王として扱われている。

佐伯家は大友家が来る前に事実上豊後を支配していた緒方三郎(源義経を九州に招こう
としたので流刑にされた)の子孫と言われる家で、佐伯は豊後から半独立状態だった。
それが、10代惟治の時に因縁つけられて大友家に攻められたり、12代惟教の時に小原
鑑元の乱に連座したとして、佐伯を追われて、その都度何年後かに帰ってきてるっていう
大友家臣団でもっとも大友に含むところがある一族なのだ。
島津に敵対したのも家久が父や祖父の仇だからって印象があるし、奪った家宝の肩衝も
大友家改易後すぐに藤堂高虎に仕えて献上して、さらに高虎から徳川家康に渡ってる。
それゆえかその肩衝は「佐伯肩衝」というそうだw
佐伯惟定は祖母神大明神の末裔というだけあってか
神道に傾倒してたぽいな。
わざわざ加賀から佐伯までキクリヒメの像を取り寄せたり
してたらしい。
義統は豊薩戦争中に府内から逃げてた先でキリシタンになっていながら、
秀吉のキリシタン禁教令がでるやすぐさまキリシタンを弾圧して宣教師を
追放しだして、そのとき宣教師達を匿ったのが親次なんだよなあ。
秀吉に親次が言うことを聞かないと泣きつくと逆に秀吉から叱責される体
たらくだし、義統が秀吉から見限られてたのは確かだろう。
そもそも、朝鮮出兵時に親次が撤退を主張したっていうのも信憑性がない
し、大友改易後、親次が秀吉から日田を貰ってるとこを見ても原因は義統
の側にあると思うんだが
親次は日田1郡の領主→福島正則→小早川秀秋→細川忠興と流転
親次の娘が佐伯惟定の息子の嫁

義統が城を落ち延びる際に側室の心配ばかりするので、救い出しに行ったはいいが
そのあと女の心配ばかりして戦っている家臣を省みないので、怒って出奔した側近いるよな。
確か臼杵形部っていう義統の側近だった人。その後毛利家に仕えたそうな。