1 :
人間七七四年 :
2010/03/05(金) 10:41:11 ID:lwCaM1Qj
2 :
人間七七四年 :2010/03/05(金) 13:17:14 ID:eTCugqS+
大都会 岡山市民が2getだ
人 アヒャ!!
>>3 広島県民? シャレオってどういう意味よ?(プ
ノ桃ヽ、
>>4 大阪府民? たこやきでも食って倒れてな(プ
( ゚∀゚ )
>>5 東京都民? 今年の練馬大根の収穫はどうだったよ?(プ
(ヽ、人/)
>>6 宮城県民? プロ球団誘致必死だな(プ
>>7 香川県民? 溜池の水位は大丈夫か?(プ
>>8 福岡県民? 産湯が豚骨スープってほんとかよ?(プ
>>9 奈良県民? 鹿の糞で滑って転んで死ぬなよ?(プ
>>10 静岡県民? のぞみ停めてもらえよ(プ
3 :
人間七七四年 :2010/03/05(金) 13:45:03 ID:cTiukBvA
>>2 殿一服いかかですかな?
∧ ∧
( ´・ω・)
( つ旦O
と__)__) 旦~
人形峠産ウラン
4 :
人間七七四年 :2010/03/05(金) 15:24:50 ID:uHXNxfPp
/i (~) iヽ 《 ヾ⌒ソ / . {ヽ,二,,ノ} ( ● 皿 ) がしゃーん ( ) /│ 肉 │\ がしゃーん < \____/ > ┃ ┃ = = 3ゲット政宗ロボだよ 自動で3ゲットしてくれるすごいやつだよ
5 :
匿名希望大名さん :2010/03/05(金) 15:28:19 ID:jvsu/x0X
>>1 乙
>>4 性能が悪い上に見てくれが極めて不愉快とは再生の仕様もない
捨ててまいれ
6 :
人間七七四年 :2010/03/05(金) 17:07:14 ID:Q6UznsVP
7 :
人間七七四年 :2010/03/05(金) 18:32:07 ID:3taT0bTW
8 :
人間七七四年 :2010/03/05(金) 18:37:26 ID:A8QlnBKg
旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 . ∧__,,∧ 旦 旦 旦 旦 旦 ( ´・ω・ ). 旦 旦 旦 旦 旦 . /ヽ○==○ 旦 旦 旦 旦 旦 / ||_ |_ 旦 旦 旦 旦 旦 し' ̄(_))  ̄(_))  ̄(_))  ̄(_))
9 :
人間七七四年 :2010/03/05(金) 18:55:58 ID:lPmskMMX
/llllllr''";;:::::::;;;;;;;;;;;;;;;;;`::.、 ,.'lllllllllli:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:::;;;;;;;;;;;;;;;:\ . /llllllllllll!:.:.:.:. :.:.:.:.:.:.:.::;;;;;;;::::::.:ヽ llllllllllllllll,:.:.: :.:.:.:.:.:.:.:::::::::.:.:. ゙、 . |lllllllllllllllii,.:.: ..:.:.:.:.:.:.:;;;;:::::::::. | |llllllllllllllllllllli,: :.:.:.:.:.:.:;;i;;;;;;;;;::::.:.:. | ,'"~`ヽllllllllll!' ==、:;;;/;;;;;;;;;;;;;::.:. j !.l"`,, |llllll!' :.:.:::;,,,___`ヾ、;;;;;;;;::;、rィ゙ ', ',>、|lll'' .:.::`'''゙メ`';;;:::::;;イェュ┤ ,゙、゙'- .!l' :..:..:.:.::;r'"´;;;:::..:.: :.l; :.:.:. | 新スレの祝いに握り飯などいかがかな? r'゙|::ゝ-┐ .:./:.:.:.::::::::;;..:.:.:. l;. ,' ;;l l::::. :.'. .:' :.:.:.:.:,;;∠;;;ゝ=‐'゙;.:.. / ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ;;゙、゙、:::. .:.;. ..:.:.:.'''''''''ニ,,,,,,,,__ヾツ (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) ;;;;ヽヽ:. :.:\:.:.:.::::.:.:...、,,,,,,,,,, .. / 梅干 高菜 おかか こんぶ ごはんですよ わさび漬け 焼たらこ ;;;;;;;ヽヽ:.:.::.:.:.:\:.:.:.:.:.:.::::.:.. .,.' ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ;;;;;;;;;;ヽヽ:.:::.:.:.:.:::` :、,:.:.;;;;;;;;;/;;;`;-,、 (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) ;;;;;;;;;;;;;;\\::::::::.:.:.::::`゙゙゙゙゙";;;;;;;;;;;;;;;`;-,、 鶏飯 明太子 ちりめんじゃこ ゆかり 柴漬 塩辛 とんかつ ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) 鮭 すじこ 野沢菜 天むす ツナマヨ エビマヨ 鮭マヨ 具なし ささ、遠慮などなさらずに……。
10 :
人間七七四年 :2010/03/05(金) 20:34:38 ID:rLRg9Cd3
>>2 球団誘致って何年前だよw
>>9 濃縮ウランとか分かりやすいのがなくなった分・・
一番仕込みにくそうな【具なし】いただいてみるわ
11 :
人間七七四年 :2010/03/05(金) 21:47:19 ID:AnPjCO82
12 :
人間七七四年 :2010/03/05(金) 22:15:28 ID:vZUR1baG
永禄四年(1561)のこと。 近江の浅井長政は、六角氏に奪還された米原の太尾城の回復を狙っていたが、 この頃防備が手薄なのを見て取ると、家臣の今井定清と磯野員昌に命じて夜討を架ける計画を立てた。 そこで今井は配下の武将と相談し伊賀衆を雇い入れ、彼らの手で火攻めを行わせる契約を結んだ。 伊賀衆を太尾城に密かに侵入させ、城中で火の手を上げさせ、それを合図に本丸二の丸を一度に攻め滅ぼす、 と言う作戦である。決行の日取りは7月1日と決まった。 さて同日夕刻、今井隊、磯野隊はそれぞれ配置についたが、肝心の火の手がいつまでたっても上がらない。 浅井家の者たちはしびれをきらせて伊賀衆に詰め寄るが、彼らは 「それは忍の作法を知らぬ湖北武者の言葉である」 と一蹴する。とにかく信じて待っていろ、必ず火をかけると言う。 そうこうしている内に、夜明けも近くなった。 さて、待機している今井隊であったが、配下の島若狭守が「この様子ではもはや作戦の決行は無理でしょう。 今回は諦め、後日を期して帰陣いたした方が良いのでは?」と進言、今井定清もこれに同意し撤退を始めた。 ところが腰越まで退いた時 「太尾城の方向に火の手が!」 伊賀衆、見事に仕事をこなしたのだ。 慌てたのは帰陣中の今井定清である。 「城の放火に成功したのか!?いかん!このままでは城攻めは磯野隊に先をこされるではないか! そうなっては一生の不覚である、急げ!」 今井隊はもと来た道をしゃにむに駆けた。そして深坂の中程でついに、磯野隊に追いつき、さらにこれを追い越そうとした。 夜明け近くと言えども、伊吹山中はまだ暗闇のなかである。磯野隊は後ろから突然現れた軍勢に驚き 「何者だ!?名を名乗れ!!」 と叫んだが、磯野隊を追い越すことに夢中な今井隊からは何の答えも帰ってこなかった。そこで磯野隊は 「おのれ怪しい奴ら!」とこれに攻めかかった。同じ浅井軍による、暗闇の中の同士討ちが始まったのだ。 この混乱の中、今井隊の大将今井定清は磯野隊の岸沢与一によって討たれ、他に二十数名の死傷者が出た。 そして当然のことながら、伊賀衆まで雇った太尾城攻めの作戦は完全に失敗した。 この事件の後、磯野員昌は事実を知り大変に驚き、 「天道いかなる神仏による罰でありましょうか、誠に口惜しく感じております。」 …と、涙を流して今井の遺族に謝罪した事が、今井の配下にあった島若狭守秀安の家記「島記録」に 残されている。 浅井家における、同士討ちの話である。
13 :
人間七七四年 :2010/03/05(金) 22:45:51 ID:/+tCtXSE
実際、こんなgdgdな事態っていくらでもあったろうね・・
14 :
人間七七四年 :2010/03/05(金) 23:30:54 ID:dmUSEh4G
一番ビビったのは城方かもな 朝起きたら麓で正体不明の勢力同士が戦してんだから
15 :
人間七七四年 :2010/03/05(金) 23:37:42 ID:4KsUi6sQ
浅井が磯野に命じてわざとやった可能性もあるな もともと今井氏は同僚だったし、六角と浅井を天秤にかけてる歴史があるからな ってかこの話つい先月ガイシュツ
16 :
人間七七四年 :2010/03/05(金) 23:46:52 ID:vZUR1baG
>>15 うわ、今確認した…
ま、まあ、詳細や磯野の謝罪の言葉は新しいと言うことでorz
17 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 00:28:31 ID:S+pe/or1
奥羽の大名がそれなりの時期に、織田信長に遣使していたことは諸書に見える。 天正9年、角館の戸沢盛安も安土へ使者を派遣した。 この時、盛安14歳。前年に兄から家督を継いだばかりだった。 恐らく、代替わりにあわせ、地位を固める狙いがあったのだろう。 使者の名を前田薩摩守利信。 戸沢氏配下ではあったが、自ら所領を持つ豪族だった。 利信は信長との謁見を許され、鷹を献上、しかも堀久太郎に安土城を案内してもらった。 よほど安土の賑わいに驚いたのか、帰国後も生涯の思い出として語ったとされる。 この、信長の権勢に目がくらんだのかもしれない。 なんと、利信は戸沢の名を出さず、献上品を自分からのものと偽った。 そして奥羽の独立大名と認めさせてしまったのである。 だが、悪いことはできない。 鷹商人・田中清六がこれを盛安にチクリ、利信の野心はあっさりばれた。 情勢が許さなかったのか、前田氏は特に処罰されず、関ヶ原以後も戸沢家臣として従っている。 しかし、江戸期に子孫が絶えた時、この過去を蒸し返され、家名存続を許されなかったそうだ。
18 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 04:46:06 ID:HTMJgpDy
>>2 岡山市民って名古屋にはコンプレックスもってないの?
19 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 10:56:43 ID:Y17feInD
よくもまあ夜叉と呼ばれる男相手に大それたことを。 いや、むしろ後から器量を証明したから無事仕えてくれたのかな? 江戸期まで夜叉九郎が命を保ってたら家名も保てたかも。
20 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 13:42:25 ID:+V7Pac4Z
>>17 一度独立大名と認められたモンが覆ったのか!?
お隣の南部の殿様にその交渉術を教えてやれよ。www
21 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 13:48:58 ID:+V7Pac4Z
ザビエルの後を継いでトーレスが山口で布教を行っていた時の事。 周防の王、大内義隆を滅ぼした陶晴賢の家臣で渡辺太郎左衛門という者がトー レスの許を訪れた。 彼は周防で最も勇敢な戦士であり、残虐な殺戮者であり、大言壮語する者であ り、人々にひどく恐れられていた。 しかし彼はトーレスの説教を聴くと、洗礼を受け、周防での布教の最も重要な 大黒柱となったのである。 彼は外敵に対しては獅子の威を示し、教会の中では羊のようであった。 コンスタンチノという洗礼名を授かった彼は、仏教の僧侶と討論する為に彼等 を訪ねて行ったが、僧侶は彼を恐れて誰一人として出てこようとはしなかった。 また、彼は人一倍大きな刀を帯びていたので、教会に僧侶や異教徒が押しかけ てきた時に、彼の大きな刀を教会の入り口に立てかけておけば、彼等はコンス タンチノを恐れ、教会の前から立ち去った。 ある時、コンスタンチノが主君である陶晴賢の宴席に招かれたのだが、出席者 の一人が、彼が洗礼を受けた事を知らず、キリスト教の悪口を言い立てた。 コンスタンチノは落ち着いた様子で彼を殴り飛ばしたが、コンスタンチノの仲 間が尚も危害を加えようとするのを止めて言った。 「コイツは自分が何を言ってるのか、何が正しいのかも判らないアホなんだ。 アホに相応しい罰は今、オレが与えた。これ以上は罰するべきじゃない。今後、 こいつが悔い改めずに同じ言動を繰り返すなら、そん時は遠慮なくブチ殺せば いいじゃないか」 コンスタンチノの仲間は少数だったにも係わらず、敢えて彼に立ち向かおうと いう侍はおらず、宴席はそのまま何事もなかったかのように続けられたという。 またある時、観世音菩薩に帰依した僧侶が、千手観音の功徳を説教していた。 その僧侶は何やらワケのわからない祈祷(真言の事か?)を持ち出して、 「この呪文を唱えている人を殺傷しようとしても不可能だ! 敵の刀は斬る事 が出来ず、曲がってしまう事は間違いない!」 と言ったのを聞いてコンスタンチノ、 「じゃぁオレがお前を斬る。世俗の人が唱えてもそれだけの効験があるんなら、 坊主であるお前なら、全然大丈夫な筈だよな?」 と進み出た。 「まぁ、殺しちゃうのも気の毒だから、指一本出せや。お前が正しいなら、オ レの刀が曲がるんだろ?」 僧侶は真っ青。 そりゃそうだ、こんな布教上の口上を大真面目に受け取られても困る。それで いて、キリスト教徒は 「キリストの肉と血って言ったって、俺達別にホントに人肉食ってるワケじゃ ねぇし。何マジんなっちゃってんの?常識で考えろよwww」 とか言っているのだ。 周囲の人達もまぁまぁ落ち着いて、となだめるのだが、コンスタンチノはあく まで「いや、コイツの身体で効験を確かめる!」と言って聞かない。 結局最終的には周りの人間達に懇願される形で、コンスタンチノはその場を立 ち去った。 (出典:日本史/ルイス・フロイス) まったく空気読む気がねぇコンスタンチノ渡辺さんの悪い話。
22 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 15:09:20 ID:rUnAFpOw
織田信長といえば「人間五十年〜」で有名な、『敦盛』を愛唱したことで有名で、
ドラマなどでも
http://www.youtube.com/watch?v=0I67fdId6QY&feature=related このように取り入れられています。
が、この節回しは、江戸期以降に成立したものであり、信長の歌った物とは違うのです。
では、信長が実際に歌った『敦盛』とはどのようなものか?
信長公記に、信長が歌ったのは「幸若舞の敦盛」であることが明記されています。
そして福岡県みやま市瀬高町の幸若舞保存会が、この幸若舞の敦盛の節回しを再現し、
大江天満神社奉納演舞にて復元披露されました。
それがこちら
http://www.youtube.com/watch?v=2UQPxDOwexw 一聞してわかりますが、リズムが全く違います。こちらには田楽囃子のようなテンポの良さが有り、
今の敦盛にあるような峻厳さ、悲壮感のようなものは殆ど感じません。
むしろ軽い滑稽さも含め、テンションを上げるための歌と言っていいでしょう。
たしかに桶狭間の出陣前に歌うなら、あの重苦しい敦盛よりもこちらのほうが、
士気を上げるには正しいように感じます。
後世の人間による敦盛へのある種の勘違いも、信長のと言う武将の性格を微妙に
誤解させたのではないだろうか?
なんて事をちょっと考えてしまうお話。
23 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 16:00:04 ID:3/dT73wN
>>21 最終的に周りに従ってるし空気読んでるじゃん
むしろそういうキャラだろw
24 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 19:38:39 ID:Um6imPTl
キリスト教がらみで説教一発で入信した話がよくあるけど、どういう説教したらそういう風になるんだ?
25 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 20:06:39 ID:Qf2mt/61
>>24 現代でも特に今まで宗教とかかわってない人が転んだりするからな
かつての日本テコンドー女子代表の人が今まで普通にブログ書いてたのに
ある日を境に急に書かれる内容が宗教臭くなってぞっとしたわ
26 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 20:47:05 ID:0N26YKZI
芸達者ではあるものの、武将としては無能者。 そんな織田信雄さんの逸話でも特に有名な「伊賀攻め大失敗」 彼は家臣らにそそのかされて、信長に断りもなく伊賀へ出兵。 何一つ得る事無く、敗戦。副将柘植三郎左衛門以下、多くの兵を失った。 そんな信雄に信長から送られた手紙。 信長 「上方へ出兵したら伊勢の武士・民百姓の負担になると思って、遠征を免れるために伊賀へ兵を出したのか? ぶっちゃけ言って、お前が馬鹿だから軍役を免れようとする国侍どもに乗せられたんだろ? 三郎左衛門まで討死させやがって……お前の覚悟次第では勘当するからな」 戦国史上、最もかっこ悪い父からの手紙。
27 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 20:58:53 ID:SaYVjAbH
>>24 戦国時代の人は、明日死ぬかもしれないリアルな不安の中で生きてたのだから
死後天国に行けると聞いたら喜ぶんじゃない?
それと、戦国人は意外に論理的だったから
天体の運行など、科学について詳しい知識を知りたがり
説明に納得して入信する例が多かったようだよ。
28 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 21:32:35 ID:Zo/ZJdkY
29 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 21:40:52 ID:Y17feInD
だからなおさら天上とか極楽浄土とかが逼迫した重大事だったんだろう。
30 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 22:04:35 ID:62kWGs1L
戦国時代には、「勇敢に戦えば極楽へ行ける」 とかいうデタラメな説教をする従軍僧侶がいたそうだ。 あるとき、戦場で夫を失った女が、いつまでも泣いているので、 その亭主のいた軍の従軍僧侶が、 「あなたのご亭主はきっと極楽へ行かれましたよ」と言った。 女は答えた。 「私は夫のために泣いているわけではありません。 ただ、そんな大法螺を説教される御坊さまが、 地獄へ落ちられることを哀れんで泣いているのです」
31 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 22:10:07 ID:3/dT73wN
まぁ肉食妻帯する糞坊主だらけの戦国時代ですんで
32 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 22:12:16 ID:xjMi+HA6
肉食妻帯を是とするか否かは宗派によって違うし つうか親鸞上人ディスってんのか
33 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 22:14:39 ID:SlAp9ouD
生前どうしたから死後どうなるなんてのも考え方次第だし まあ宗旨違う奴にテキトー言われたと思ったらブチ切れるのも無理ないが
34 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 22:17:52 ID:3/dT73wN
>>32 大嫌いだね
今でいう創価みたいなもんだぞあいつら
武力も政治力も持ってれっきとした戦争してんだからな
35 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 22:21:31 ID:rUnAFpOw
信長「宗論するなら負けた方根絶やしにするからな」
36 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 22:26:47 ID:62kWGs1L
「あ、俺が死んだら、多分俺の教えをゆがめて解釈する奴いっぱいでると思うから。 これは末法の世であって俺とはあんまし関係ないしそこんとこよろしくね」 と生前に予言したシッタータは本当に偉大だと思う。
37 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 22:27:23 ID:CU/3PBt+
武力も政治力も持たずに地道に清貧にやってりゃ報われるなんて奴戦国時代にはいないだろ 宗教しかり百姓しかり公家しかり
38 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 22:30:15 ID:Y17feInD
>>34 それは親鸞ではなく蓮如や顕如の責任では?
39 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 22:30:26 ID:PPO6+EaB
当時の社会情勢知らないから子供じみた感想言っちゃうんだよね
40 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 22:31:49 ID:3/dT73wN
軍隊持って戦争吹っ掛けて国盗りしてた馬鹿どもはあいつらくらいだけどな
41 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 22:38:55 ID:rUnAFpOw
ID:3/dT73wNは時代性も当時の状況も知らないので、思い込みばかりが先行している。 あの当時の一向宗を批判するのなら、最低限戦国期の一揆、宗教について 勉強するべき。例えば本願寺にしても、何で戦ったのか、何故そういう状況になったのか、 そして何故今まで生き残ったのか、そういったものをきちんと把握すべき。 そうしないとちゃんとした批判にはならない。トンチンカンな意見として鼻で笑われるだけ。
42 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 22:41:17 ID:td/AXYog
>>22 興味深い話だね。
楽曲の復元ってどうするんだろうな。昔は楽譜的なもの無かったろうし。
スケートの子孫の人がコミカルな選曲多いのはDNAの仕業かw
43 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 22:41:23 ID:3/dT73wN
じゃあ不勉強な俺に教えて 一向宗以外に武力・政治力を持って既存勢力に戦争ふっかけて 実質的な支配・徴税を行っていずれは何国も支配しようとした宗教勢力が この国の歴史上、いったい他に例があるんでしょうかね?
44 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 22:42:42 ID:rUnAFpOw
45 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 22:43:11 ID:3/dT73wN
ハァ?
46 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 22:44:22 ID:Qf2mt/61
宗教組織が侵攻する=悪って現代の価値観だよね そりゃあ今の時代にそんな事やられたら嫌だけど それぞれの土地にそれぞれのトップがいるあの時代なら トップが国人だろうが守護だろうが宗教家だろうが関係なかったんじゃね
47 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 22:44:55 ID:Qf2mt/61
あ、ダメだこいつ 触ったら危なさそう
48 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 22:46:25 ID:62kWGs1L
>>46 大六天魔王が「いや俺様に逆らう宗教は悪だから」と主張しておいでです
49 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 22:50:41 ID:3/dT73wN
人に勉強しろとか言っておいて答えは丸投げってのが意味が分からないんだけどね。
>>46 それまでの日本では一般農民が戦争に駆り出されることなんて、そこまでは無かったわけでしょ。
一向宗は一般庶民を「御題目」で戦争に駆り立てたんだよ。
それが織田の虐殺に繋がったわけで。
一方では加賀で奇麗事を言いながら重い年貢を課して農民を苦しめてる。
身分に差がない、とか浄土利益とかの詐欺文句で衆愚扇動してただけじゃん、結局。
江戸以降の武力放棄した一向宗はともかくとしてもね。
この国の歴史上で見てもあの時期の一向宗は異常だよ?普通に俯瞰すれば分かると思うけど。
50 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 22:52:14 ID:t/GeMoFA
親鸞上人関係ないじゃん……
51 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 22:53:59 ID:SlAp9ouD
防人が涙目でこちらを見ているようです
52 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 22:56:52 ID:bukHdXrx
なんかキチガイがわいてるみたいですね
53 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 22:56:54 ID:YQvqUJGS
54 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 22:58:58 ID:3/dT73wN
>>51 老若男女問わずじゃないでしょ・・。
>>50 一時期は架空の人物かと言われたほどだし後から教団が
吹きまくって聖人化したとしてもなにも驚かない。
55 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 23:00:46 ID:rUnAFpOw
56 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 23:04:59 ID:gcZYCss7
「宗論は勝っても負けても釈迦の恥」
57 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 23:20:14 ID:dEkavve1
誰か「題目」に突っ込んでやれよw
58 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 23:47:31 ID:EVRIN03n
流れぶった切って申し訳ないが、まとめの秀吉の話って秀吉がその逸話のメインじゃないのに 秀吉の話に分類されてるのが意外と多くね? 家康も同じような感じで。
59 :
人間七七四年 :2010/03/06(土) 23:54:34 ID:Y17feInD
きっとそれは主役にもタグはってあるはずだ。 有名人だからいろんな話に出てるが、そっちからでも探せるようにしているナイスな心配りだと思うよ。
60 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 00:21:11 ID:5npb21xn
>>49 >それまでの日本では一般農民が戦争に駆り出されることなんて、そこまでは無かったわけでしょ
あなたのおっしゃる日本って、どこの世界の日本のことですか?
源平合戦でも南北朝でも大寺社は普通に武力をもって土地を支配していて合戦に及んでいるというのに。
ついでに、本願寺と一向一揆は上下関係には無いし、そもそも蓮如も武力によって俗世と争うことは否定していた。
あなたが何も知らないで思い込みだけで語っていることだけはよく判った。
61 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 01:05:26 ID:HssNGHPA
62 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 01:10:21 ID:aHxWa1vS
>>61 真田信綱、昌輝<僕たちのこともー、忘れ去られてる〜 ←昌幸のお兄ちゃん
63 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 01:15:21 ID:ONlKZs3h
のぶしげ生き抜いてないから。死んだから。 生き抜いたのは小松のダンナだから。名前は忘れたけど。
64 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 01:16:49 ID:9z6k2LPR
>>61 >乱世を生き抜いた真田三代(昌幸・幸村・幸隆)
>真田幸村の居城「上田城」
うーん・・
兄ちゃんいた時「城」でなく館だったから?
65 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 01:20:20 ID:P6cwa+X0
創作キャラの幸村だからいいんです。信繁じゃないから。
66 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 01:27:31 ID:ONlKZs3h
花のようなる秀頼さまを連れてエノコロ飯とか食う日々ですね
67 :
真田信之 :2010/03/07(日) 01:50:03 ID:YTVnwKiQ
「実は私ヘタレでしてね、このご時勢に、いい年して人を殺したこと無いんですよ。 子供の頃、山へ遊びに行った時にオヤジからつけられた中間が不始末を仕出かしまして。 ええ、大したヘマでもなかったんですが、若気の至りでカッとなって、脇差で腕を半分ほど斬ったら、 大の男がすごい叫び声を出してねえ。 その声が私の胸を締め付けて、以来「ああ、なんで斬らなきゃいけないんだろう」と思うようになっちゃったんですよ。 …まあ、中間はその後、弟がわざわざ追っかけて殺しちゃったんですけどね。 あいつヒドいヤツで、殺した後「チッ!この脇差、斬れねーなー。」とか言ってましたよwww 」 (弟めハきつい奴ニて、追詰切殺したりし、其時自分が脇差ハ切れざりしと宣ひし。)
68 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 01:53:51 ID:IF2CXr9r
兄ちゃんの上田での扱いは確かにちょっとアレだけど、 松代では初代藩主として今もちゃんと語り継がれてるんで、 どうかそれで勘弁したってください…。
69 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 03:06:51 ID:+B1hJqUn
子孫は老中になったりで殆ど徳川の家来みたいなもんだからかなぁ。
70 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 04:56:03 ID:RyHvEIb/
お兄ちゃんは松代町民が支えていきますのでご安心ください。
71 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 06:05:55 ID:uXZBhOUM
天台だろうが高野だろうが、寺領の安全を守るために武装すんのも普通な時代だった んで侍の所領と境を接してなにがしかの条件が折り合わなかったら強訴したり、武力行使もすらあな。 更に商売の許認可権なんかあって叡山はえらいことになってたんだそうだが
72 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 06:08:40 ID:dzt4voYx
そして第三新東京市の守護霊
73 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 06:30:25 ID:ixBzccBN
基地外いなくなったのに蒸し返しますか。
74 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 09:00:57 ID:7q3cVVg2
空気読まずに投下 堀主水と女の幽霊の話 地味な方の加藤さんちの家臣堀主水は、ある日若松城下を歩いていた時一人の僧侶に呼び止められた 僧侶が言うには主水には死相が出ていて七日の内に死ぬ、その原因は女人の恨みにあるとの事。 心当たりあるか? と聞かれて主水は以前、小姓との密通を疑って愛妾を拷問、白状しないからと手打ちにした事を思い出した。 その愛妾を葬った墓を掘り返してみると、死んでから大分経つにも拘らず遺体はまるで生きているかのよう。 この女の祟りに間違いない、と僧侶は女の遺体を小田山の中腹にある宝積寺に運ばせ、 主水に今夜はこの女の隣で横になって夜を明かすように言い含めた。 ただし、夜の間に何があっても身動き一つしてもいけないし、声を出してもいけない、でなければその場で死んでしまうと。 夜も更け いわゆる丑三つ時になった頃合に死んだはずの女がむっくり起き上がった。 隣に主水が横たわっているのを見つけると、 「ああ悔しい 自分は無実の罪で殺されたので、何としてもこの男を取り殺して恨みを晴らしてやろうと思っていたのに、 この男は先に死んでしまったのか」そういいながら、主水の体を撫で回してくる。 主水は生きた心地もしなかったが、僧侶に言われたことを守ってじっと我慢していた。 やがて夜が明け、一番鳥の声とともに女はばったり倒れて動かなくなった。 朝になってやってきた僧侶は七日の間これを続ければ女の恨みも晴れ、無事成仏できると話した。 主水はなんとかがんばって七日持ちこたえ、なんとか命を長らえることができた。 女は宝積寺に改めて葬られたという。 あなたのお陰で助かりました、と礼を言う主水に向かって僧侶は首を振りながら 「今回はこれで済みましたが、どうもあなたには災難の相が見える この先もよくよく気をつけ、身を謹んでおく事です」と注意して去っていったという。 会津騒動が起こって加藤家改易になる数年前の話だとか。 地元の怪談を集めた本で見たきりなので申し訳ないが原典不明です。
75 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 09:05:52 ID:zDmvTscv
馬鹿息子に族滅されちゃうんだっけか主水さん
76 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 09:34:57 ID:0bXOo6OI
娘たちがバカ息子改易に追い込んで仇討つからおk
77 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 09:41:25 ID:OOUvu5nw
次世代四天王の中でも地味加藤さんとこは群を抜いてるからな
78 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 10:10:36 ID:T3L0dVxQ
鉄砲まで持ち出した堀主水のぶち切れ方は ちょっと面倒臭い三河武士っぽいと思った 生まれてくる時と場所を間違えたような
79 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 10:12:25 ID:8SOU9uXs
>>69 なんか秀吉が生きていた頃から、信之兄ちゃんの所領は関東だから徳川家臣という扱いみたいな話も聞いたような
80 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 10:17:16 ID:gjMhGE4X
嫁もあの人の娘だしねえ
81 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 10:22:10 ID:gjMhGE4X
>>78 地味加藤さんとこは元々三河武士だし、本人もああいう性格だから
息子があれだっただけな気もする
82 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 11:21:11 ID:gjMhGE4X
せっかくなので、地味加藤さんと徳川さんの話 家康が病床に伏せていよいよご臨終という時、秀忠を呼びつけて各大名の人物評を伝えたそうな その時、加藤嘉明を評して 「あいつは秀吉が取り立てたと言っても、元々律儀な三河者だから、粗略に扱っちゃいかんよ」 とか言ってるんで、豊臣恩顧の中でも家康としてはある意味で扱いやすいタイプの人間だったのかもしれない そんな加藤さんと立花さんが秀忠さんが昔話をしていた時に朝鮮になりました 立花さん (*゚▽゚)ノ「4尺(約120cm)くらいある鯉を見たよ」 秀忠さん Σ(・ω・ノ)ノ「へえ〜、大陸だったらそういうのもいるかも知れんね」 加藤さん (-_-)「ある時虎が現れてある男の兜を食い潰したので脇から鉄砲で撃ち殺したりしましたよ」 秀忠さん (^_^;)「…………」 加藤さん (-_-#)「…………」 加藤さんは家臣に命じて国許より証拠の食い潰された兜を取り寄せました 秀忠さん 「(^^; )「わざわざありがとう。疑ってごめんね!」 秀忠さんは加藤さんの律儀さをほめたたえたそうですが、 (父上の言う通り、こいつもめんどくさい系だなあ) と実感したかどうかはわかりません
83 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 12:36:55 ID:XstiidiO
育ちは三河じゃないはずなのに…めんどくさいのは育ちより氏なのか…
84 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 14:16:29 ID:7lauRvrC
ROMるばかりじゃなくてたまには自分でも書いてみようと思った。 雑賀孫一という名前はここを見ている諸兄ならご存じだと思う。 雑賀衆の頭目で、石山合戦では本願寺に助力して織田軍を苦しめたとされる人物である。 紀伊雑賀衆に関する文献が少ないこともあり、それ以外の来歴はあまりはっきりせず、 一応今では『鈴木孫一重秀』が本名とされているが、以前には重意、重元、重治など本名は いくつかの説があった。 さて、かつて雑賀孫一であろうと言われた人物に、孫一重秀の弟とも息子とも言われ 伊達家および水戸徳川家に仕えた鈴木孫三郎重朝という人物がいる。 水戸徳川家の史料である水府系纂に拠ると、彼の履歴は文禄元年の肥前名護屋城駐屯から 始まっているのでとても孫一とは言えないのだが、何故孫一候補に名前が挙がったかというと どうも水戸の鈴木家は「我が家こそ雑賀孫一の後継である」としたかったらしく、 「我が家の当主が代々雑賀孫一」と自称した上に他に孫一を名乗れるような人物を 重朝の係累として系図に取り込んでしまったのである。 例えば重朝と同時期に紀伊徳川家に仕えた鈴木孫三郎某という人物がいるのだが 彼も重朝の弟として家系図に取り込んだりしている。 両方成人した兄弟同士が同じ名前と言うことはあり得ない事であるし、水府系纂より前に 編纂された新補水城実録には彼の記述は全く無い。 古いものにある記述が新しいもので省かれることはあってもその逆は中々あり得ない事を考えると これも家系図の工作に因るものだろう。 鈴木家のちょっと外聞の悪い話し
85 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 17:14:44 ID:ItT/JJhK
>>78 彼の後半生ってのは、戦国の気骨を忘れられないロートルたちと
戦争を知らない厨二病たちが全国各地で激突しまくった悲劇の時代
会津のあれは極めつけひどいけど、似たような事件は全国諸藩であった
86 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 17:18:41 ID:dV5z+RNY
可児才蔵「まったく痛ましいよな」
87 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 17:24:52 ID:gjMhGE4X
1590年〜1610年くらいの生まれはまさにそんな感じだよね>戦争を知らない厨二病 父親や重臣は戦場で槍持ってた現役世代だからそういう教育受けてるんだけど、 まともな戦は大坂の陣(譜代や旗本衆以外はだいたい蚊帳の外)や 島原(九州大名以外は蚊帳の外)くらいしかないという
88 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 18:00:15 ID:3EOT59nd
よーし俺今日死んじゃうぞとか言っちゃってんの、もう見てらんない とかそういうノリだよな
89 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 18:22:50 ID:aHxWa1vS
厨二病というか殺伐とした気風というか、元禄時代くらいまでの武士の日記とか読むと、 武士やその下僕による殺人事件、刃傷事件がめちゃめちゃ多いのね。 忠臣蔵の事件もそりゃあ起こるべくして起こるわ、ってくらい。 徳川綱吉が生類憐れみの令を出したのもむべなるかな、ですわ。
90 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 18:26:27 ID:8SOU9uXs
>>87 鍋島勝茂(1580年生まれ)がぎりぎり、関ヶ原に参加できた世代か
91 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 18:36:40 ID:gjMhGE4X
>>90 ギリギリだと蜂須賀至鎮(1586年)くらいじゃないか?
勝茂くんは直茂パパと一緒に朝鮮に行ってるし
92 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 19:29:58 ID:jOQmecX8
なんか学生運動の闘士(笑)思い出した
93 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 23:22:35 ID:pxKsa401
某ゲームの四天王の能力 統率 武勇 知略 政治 森 長可 62 75 60 29 島津 忠恒 65 79 56 78 細川 忠興 74 77 75 86 伊達 政宗 96 86 92 93 さすがにゲームとは言え地味に優秀
94 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 23:28:45 ID:Arq3DW2J
おっ鬼武蔵が…
95 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 23:30:46 ID:uFHouZep
肥は蘭丸の方が好きです
96 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 23:31:11 ID:ml1XvRPv
能力変更するには別売りのPK買ってくださいなあのゲームか
97 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 23:37:41 ID:gjMhGE4X
まーくん高すぎで、三斎様低すぎる気がするけど、 基本的に親父がチートだと息子は割りを食うよね
98 :
人間七七四年 :2010/03/07(日) 23:43:21 ID:Arq3DW2J
何となく調べてみたら そのゲームまーくん7番目に能力高いのか
99 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 00:04:12 ID:XAv4bCuP
低いか?政治90近いし高評価だろ 鬼武蔵の武勇は90くらいあってもいいよな 家康すら評価するキチガイ武勇だし
100 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 00:41:56 ID:RyRjkx3P
ステータスに狂気とかあればおもしろいのにw ラスボスはシナリオ後半にいくにつれ…
101 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 01:14:35 ID:DBXYp6FE
個人武勇あるから太閤かな?
102 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 03:16:47 ID:HXOERq2l
天道だろ
103 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 04:13:23 ID:qf8j9LgK
このキャラゲーのシリーズ飽きて10年以上やってないが大抵 統率=防御力 武力とか何とか=攻撃力 だったような
104 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 04:37:01 ID:WNKMB8XF
105 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 11:10:04 ID:MqApcsTR
ま、僕の中でこのシリーズは烈風伝で終わってますけどね。 リアルタイムとかイラネ( ゚д゚)、ペッ 。
106 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 13:14:04 ID:1L3+TCO2
>>94 これでも上がった方だよ。
以前は能力値の呼称は違っても知略政治はカスレベル、統率武勇は2戦級どころか3戦級だったんだから。
107 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 13:16:07 ID:Il9OjbMR
いつまでゲームの話続けんだよ
108 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 13:18:55 ID:v129SF+X
次の燃料が投下されるまで
109 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 14:19:02 ID:zNnUFt3z
じゃあ、上にあった井伊直孝の出生にまつわる話 直孝には同い年の兄がいてこの直勝の母親が直政の正室の松平康勝の娘 最初は直勝が跡継ぎだったのが、病状だという理由で直孝が跡継ぎになってしまう(ところが直勝の方が結果的に長生きでした) 直孝の母親は正室の侍女だったとか、直政が立ち寄った村の娘だとか色々あるのですが、 とにかく辺鄙な村で生まれて幼少時は父に会えなかったそうな 直孝と直政の対面と引き換えに母親が死んだという話もあります 更についでをいうと、井伊直孝には家康落胤説もあって、外見や癖が似ていたとか、 直孝を藩主に指名したのが、家康だったとか、そのあたりが一応の根拠です 家康に限らず殿様のご落胤話はいろんなところにあるみたいですが、実際のところどうだったんでしょう
110 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 14:35:17 ID:pJiOy9PD
>>109 主君に取り立てられた人間が「実は主君の御落胤」って噂をたてられる話は昔から多いですな。
それこそ平清盛が後白河法皇の御落胤説とか。
111 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 14:51:14 ID:LuR5EBuu
家康の御落胤=家康と直政の間にできた子と一瞬勘違いしてしまったw
112 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 15:09:18 ID:zy65xNwj
>>109 質素な食生活、
住みやすさが一切考慮されてない住まい、
激務。
それでも69歳と結構長生きしたのが不思議だ。
113 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 15:09:37 ID:pJiOy9PD
そういえば細川藤孝には足利義輝の御落胤説があって、 さらに息子の細川忠興に織田信長の御落胤説があったな。 なんとも不思議な親子だw
114 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 15:27:40 ID:2ieyfEHA
115 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 15:42:32 ID:J38JAhGB
>>114 一瞬、幽斎が義輝の父と言ってるのかと思ったわw
116 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 15:47:12 ID:pJiOy9PD
あ、間違えてました。幽斎さんにあるのは足利義晴の御落胤説ですなw;
117 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 17:49:50 ID:pJiOy9PD
鬼小島こと、越後上杉家の小島弥太郎と言えば、指で兜をひしぎ砕くほどの大力の勇者として有名であった。 そんな彼ががある時牢人し、会津の蘆名盛氏の元に来たことがあった。 その頃丁度、蘆名家は仙道において合戦をしており、敵は取出し(前線陣地)を築きそこに軍勢を入れた。 小島の名声を知っていた盛氏は、彼に足軽100人を付け「あの取出しを蹴散らして来てもらいたい」と要請、 小島もこれに、自信満々に足軽を率いて出発したが、なんということか小島の部隊は、敵に散々に追い立てられ 逃げ帰ってきてしまった。 ここで盛氏に声をかけたのは、その頃蘆名家に帰参した会津の勇者、佐瀬源兵衛である。 「この上はどうか、私に仰せ付けていただきたい!」 源兵衛は盛氏の許可を受け、足軽を率いて出発すると言う時、小島に向かって言い捨てた。 「そなたは聞いたところによると、越後においては鬼小島と呼ばれているようだが、 この会津では”味噌小島”と名乗るが良かろう!この源兵衛の働きをいささかご覧候らえ!!」 そうして敵陣に向かうと、足軽達に向かい 「お前たち!命が惜しければ部隊の先に立て!もし後方に下ってくるような者がいたら躊躇わずに斬って捨てる!」 そして実際に遅れて後ろに下がってしまった足軽二人を斬り捨てた。 これには足軽達 「あんなキチガイ男に討たれるくらいなら、敵に向かって勝負した方がましだ!」 (いやいや彼気違男に伐たれんより、一向敵に逢ひて勝負を決せんと) そんな破れかぶれの気持になって突進した。源兵衛もこれにますますテンションを上げて下知をする。 その勢いに飲まれたか、敵はもろくも追い払われ、源兵衛は見事主命を果たして帰陣した。 盛氏は源兵衛の武功を称賛し、その場で武者所に任じたとのことである。 いやまあ、最終的にはいい話なんですけど、ねえw
118 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 17:55:20 ID:1L3+TCO2
>(いやいや彼気違男に伐たれんより、一向敵に逢ひて勝負を決せんと) こ、これ原文、なんだよな……?
119 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 17:57:36 ID:pJiOy9PD
120 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 18:03:00 ID:1L3+TCO2
原文なのかぁー……
121 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 18:40:34 ID:JvzBeNqi
会津武士と越後武士の対抗心みたいのを感じるね
122 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 20:19:01 ID:crouuRni
自分が強いからって部隊指揮がうまいとは限らんわな
123 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 20:26:18 ID:0jqgcBOc
むしろ100人率いるよりも鬼小島一人で攻めたほうがうまくいったんじゃね?
124 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 20:32:19 ID:/uca9tIc
丸目師範も戦の指揮やらせると壊滅的だったな
125 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 22:11:49 ID:2ieyfEHA
コーエーの三国志は、武将の個人武芸が強ければ、軍隊の攻撃力も高いけど
126 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 22:15:18 ID:bmxThH+g
稲富さんがログアウトしました
127 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 22:16:03 ID:1L3+TCO2
逃げんなww
128 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 22:25:01 ID:LLJxz4gJ
天翔の稲富さんは正直最強すぎて困るわ
129 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 22:28:22 ID:/uca9tIc
>>126 忠興「絶対に許さない、顔も見たくない」
130 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 22:30:18 ID:zy65xNwj
>>117 味噌小島ってひょっとして
「ウ〇コ小島」って意味?
131 :
人間七七四年 :2010/03/08(月) 22:38:03 ID:Jq3K3sV3
132 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 03:19:53 ID:Hon2NQGg
そんなの作業でやられたらたまったもんじゃねぇw
133 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 10:21:17 ID:Npc+im7p
逆に、個人的武勇はヘボだったけど戦闘指揮はダントツだったというと誰になるかね ベッキーなんか下半身不随だから自分ひとりじゃまともに戦えなかったんじゃね
134 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 10:22:47 ID:cOeKzYUI
むくつけき表現は細川家にそぐわない。 さあ歌仙を三十六から四十八まで増やす作業に戻るんだ
135 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 10:35:15 ID:G6b1NKqh
>>133 半兵衛とか官兵衛とか、いわゆる軍師役がそうなんじゃ?
まあ、実際には戦略指南とか相談役、調略なんかが主で、前線で戦闘指揮どんだけやったか知らないけど。
136 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 10:43:10 ID:AiukFgPs
>>133 三国志でいう杜預みたいなやつか。
ベッキーは輿に乗って鉄砲撃ちまくってたっていうのをなんかで目にしたな。
といってもそもそも半身不随かどうかも実はよく分からんらしいけど。
137 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 11:17:44 ID:qzL9/WH3
>>134 半兵衛も官兵衛も、最初は豪族からスタートしているから、
実戦指揮したことないなんてないと思うが。
138 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 11:20:04 ID:qzL9/WH3
あと武勇と指揮能力に関しては、武田信玄がそうだった気がする。 この人、若い頃から病弱で、成人してからもたびたび病臥するほどで、 武勇に関する話題がほとんど無い。
139 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 11:47:23 ID:HuUNtphv
信玄は具体的事例がないのに剛勇とか武勇に優れとか言われてるんだよな
140 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 12:08:24 ID:nHDxgwsg
ライバルのDQN武勇伝の影響なんだろうな。
141 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 12:08:40 ID:08SWcPaB
>>135 官兵衛の経歴調べろ。
実戦指揮経験も豊富だよ。
142 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 12:10:52 ID:HuUNtphv
官兵衛は戦場で前に出過ぎちゃって半兵衛に直接怒られてるよな そういうのは匹夫の勇だみたいな感じで
143 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 12:20:11 ID:PuiWepQ+
>>139 やっぱ名前の字面もあると思う
「武田信玄」って頭に「武」がつくし、濁音も多いし、法名で音読みだから音のキレもいい。
144 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 12:32:18 ID:SmfJ7ABA
>>142 ほぼ同い年だけど、半兵衛が先生で官兵衛が生徒みたいだなw
半兵衛は官兵衛の息子も救ったし、終始半兵衛に頭があがらなそうなイメージ
145 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 12:35:23 ID:CvWm2stB
>>133 太原雪斎は武芸を磨いてた印象がないけどどうだろうね?
比叡山に留学してるし義元との付き合い上、鍛錬したかもしれないが。
146 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 12:37:43 ID:HuUNtphv
学僧だと体術は習わないんじゃないかなぁ
147 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 16:12:55 ID:4nI+tBEE
雪斎は臨済宗(禅宗)だから武芸者とかと親交あったかも 臨済宗(建仁寺派)自体政治権力と近しいし・・・
148 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 16:34:56 ID:2FRun1PX
誰が何と言おうと自分の中ではまーくんは福島正則
149 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 16:35:17 ID:2FRun1PX
誤爆やで!
150 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 16:42:24 ID:Hph7pHV1
誤爆ならば 細川殿に6ヶ月近侍するか 島津殿に武芸の腕を見せ付けるか 森殿に4ヶ月近侍するか 富田殿に3ヶ月近侍するか 選びたまえ
151 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 17:02:01 ID:crCk++yG
152 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 17:52:58 ID:FGbmyv6v
>>150 なにその全段装填済のロシアンルーレットw
153 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 18:01:42 ID:qzL9/WH3
森殿は身内だと認められれば実は怖くない 細川殿はスイッチにさえ気をつければいい ……富田殿はマジカンベン。 てかあの人3ヶ月も生きていられるの?
154 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 18:04:57 ID:V6l8QR5d
長可は暴れん坊のガキの最狂進化形態みたいなもんだしね。
155 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 18:05:30 ID:HuUNtphv
家臣や雑兵が馬鹿みたいに怖がった大将つうと景勝なんだが このスレだとあんまりそういうイメージで語られないよね いきなりぶち殺したりとかの狂気の部分が無いからかな
156 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 18:20:11 ID:EziRHQmd
157 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 18:21:34 ID:zz0hgMtj
>>153 奥方以外でも時折スイッチが入るから命がけなんすよ・・・
158 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 18:36:54 ID:3idrpePj
その4人なら迷わず森さんだな 一緒にヒャッハーしてれば問題ない
159 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 18:48:32 ID:zbY+YiRA
富田さんは後ろから撃ち殺されるまで暴走を止めてくれないから困る
160 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 20:20:21 ID:/uMwPcHR
>>159 相手が7万でも20万でも選択肢は「本陣突撃」一択ですから ヒャッハー
161 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 20:26:10 ID:MUxK3KAt
森家なら良心とか忘れて屋根越しに鉄砲ぶち込みまくればおk 島津は…死ぬまで無理やり武芸者嗾けてきそうだしなぁ…
162 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 20:26:42 ID:/uMwPcHR
163 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 21:31:00 ID:sd48GHx1
>>162 メシは街道筋で旅人から調達ってことで。
164 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 21:37:44 ID:z8Bgye6z
いや、直家は譜代の家臣は結構大事にするじゃないか。 さあ直家の娘を嫁に貰って暮らすがいい
165 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 22:45:48 ID:Y2Ljk8qb
166 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 22:51:54 ID:Hon2NQGg
帰れw
167 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 23:00:01 ID:y4QjEe67
おいwww
168 :
人間七七四年 :2010/03/09(火) 23:07:26 ID:CGOpwSwC
天正14年(1586)、斯波詮直の有力重臣であった高田吉兵衛が、南部信直のもとに出奔したことは、 奥州において「斯波御所」「奥の斯波殿」と尊称された高水寺斯波氏の衰退を決定付ける事件であったが、 その理由はこんな事であったそうだ。 そのころ高田吉兵衛は斯波詮直より橋の普請を申し付けられ、高田は早速普請場の周りに幕をかけていた。 そこに詮直の中間である源蔵と言う者が現れた。この源蔵、詮直に大変気に入られていたため図に乗り、 家中の者たちに対してもいつも慮外のことをして怒りを買っていたが、なにぶん主君詮直のお気に入りであり、 直接に文句をいうものは誰も無かった。 そんなふうであったのでこの時も源蔵、この普請場において何の挨拶も無く乗打した。 この無礼に怒ったのが高田の中間である才太郎と言う者である。この男も源蔵におとらぬ曲者で、 刀の鞘を外し 「誰もが知っている、高田様が承るこの普請場を乗打している者は、いかに御所様の中間とは言え 作法も知らぬようなあぶれ者をこのまま無事に通してなるものか!」 と、源蔵に打ってかかった。源蔵も「心得たり!」と馬より飛び降り太刀を持って暫く戦ったが、 源蔵、ふとした時に才太郎の刀を受けそこね、左肩から胸板まで一気に斬り込まれて、どうと倒れ死んだ。 さて、これを聞いて怒り心頭なのが源蔵の主人、斯波詮直である。 「乗打の咎は当然ある。が、わしの召使いを問答無用に撃ち殺すとは、甚だ以て心得難いことである。 源蔵を殺した相手を、早々に討ち果たせ!」 高田に対しこのような使いを頻繁に使いを出した。これに高田の家中の者たち 「作法礼儀を破った曲者を討ち果たしたこと、これは手柄であってご褒美を頂くべきことなのに、 いかに御所様の仰せと言っても、才太郎を討って出すようなことをすれば、これは当家の名折れとなります。 御所様の要求は、断じて受け入れられません!」 高田もこれを尤もと思い、詮直に書状を出した。 『源蔵を討ち果たした件についてのお叱りは、理由の無いことだと考えます。 私はかねてより家来たちに、ここは私の普請場ではなく御所様の御普請場であるので、当然 騎馬にて通ろうとする慮外者などあれば下馬させるようにと申し付けておきました。 それ故に源蔵のことを咎め、このような事態になったのです。 すなわち元をたどれば私が言ったことを守ったために起こった事態であり、 もしこれで、どうしても殺した相手を出せと言うのなら、私の一命を参らすより仕方がありません。』 詮直はこの書状にも甚だしく怒り、それから高田と不和になり、さもすれば高田を陥れる密謀を廻らそうとしている、 と言った噂も流れ、これに高田はいたたまれず、南部の元へ出奔したと言う。 高水寺斯波氏が南部信直の侵攻により滅びるのは、この2年後の事だ。 かつて北奥州を差配した名家の、その最後の頃の姿である。
169 :
人間七七四年 :2010/03/10(水) 10:33:31 ID:SIxBzez+
ごめん 乗打ちって何?
170 :
人間七七四年 :2010/03/10(水) 10:44:51 ID:+fs0BLaT
171 :
人間七七四年 :2010/03/10(水) 11:20:44 ID:Y35P95PK
172 :
人間七七四年 :2010/03/10(水) 22:17:25 ID:9hZ3NfoB
ガイシュツのような気もするが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1559.htmlでパペットマスター 、お人形遊びの実季ちゃんと
思いっきりキャラの立った秋田秋田城介実季(ややこしい)。しかし、この話は別バージョンもあって、
伊勢朝熊に配流となった実季は、「自分の木像を作っておきたい。」と言い出した。
「では、ここより程近い奈良から仏師を呼びましょうか?」
「いや、仏師などに作らせれば釈迦・地蔵・達磨に似た姿になろう。わしは、そんな偉い者ではない。」
そこで、わざわざ鎌倉から新六なる人形職人を呼び寄せ、新六が木像を刻む横で我が身を鏡で見つつ
作り方に注文をつけていった。
木像が完成すると、その背に『 秋田凍蚓、みずから奉行して之を作らしむ 』と書き付け、
善悪も 知らぬ翁に 刻みなす 吾が顔見てぞ 吾も知りける
と、歌を詠んで木像と向かい合い、これまでの人生を自問自答する晩年を送った。
・・・そうなのだが、この話でも実季ちゃんの遺言は、「凍蚓に茶を出してあげて・・・」
だったりするのでニンともカンとも(´・ω・`)
細川家史料見てたら三斎さんが忠利くんに
「実季ちゃんがキレて幕府に無断で出家したよ!息子の俊季くんがあちこちに謝ったおかげで
死罪は免れたよ!」って手紙出してて軽くショックだった記念。
173 :
人間七七四年 :2010/03/10(水) 22:36:09 ID:rhT+UKEL
なんというか言葉に詰まる遺言だ・・・ こんなん言われたら一体どうしたらいいんだか
174 :
人間七七四年 :2010/03/10(水) 22:41:37 ID:trcItm3l
つまりは 死後もお人形を大事にしてあげてねと言うことか
175 :
人間七七四年 :2010/03/10(水) 22:46:02 ID:UFf8oxGQ
宇喜多直家「遺言しかと承知仕った」
176 :
人間七七四年 :2010/03/10(水) 22:50:20 ID:CRtaOmN8
>>172 実季の死後、結局お人形さんはどうなったんだろ…
>>175 おまえは弾正と仲良くお茶会でもやってろw
177 :
人間七七四年 :2010/03/11(木) 11:07:10 ID:WwONB+f/
えらくリアルさにこだわったんだな 家系図の編纂といい、なんか自分の存在を後世に残したかったのかもしれんね
178 :
人間七七四年 :2010/03/11(木) 12:03:00 ID:5UmBEYqb
179 :
人間七七四年 :2010/03/11(木) 17:38:03 ID:1cnpPoJJ
>>175 そういや直家も木像がかつてあったんだよね
燃えちゃったらしいけど
180 :
人間七七四年 :2010/03/11(木) 17:40:42 ID:ic01yVVJ
初期の某SLGの直家は木造の姿を元に絵に起こしてたはず いまはしらね
181 :
人間七七四年 :2010/03/11(木) 18:44:33 ID:TGIP7fwQ
木造を「こづくり」と読んでしまうのは俺だけじゃないはず
182 :
人間七七四年 :2010/03/11(木) 18:57:05 ID:wTgso2Px
え、こづくりじゃないの!? 木像って書いてないからてっきりこづくりと読んでしまったw
183 :
人間七七四年 :2010/03/11(木) 19:13:57 ID:r7gsBswp
木造住宅
184 :
人間七七四年 :2010/03/11(木) 19:25:09 ID:BGvawDjj
"もくぞう"を"こづくり"と読んでしまうという事だろう
185 :
人間七七四年 :2010/03/11(木) 19:27:31 ID:5K9XAPPc
豊臣秀吉、怒る 朝鮮の役、文禄二年一月(1593)、明軍は攻勢をかけ4万3千の大軍で小西行長らが守備する 平壌を包囲した。 この時、小西行長から救援要請を受けた大友義統は、行長が戦死したという虚報を信じて撤退し、 鳳山城を放棄した。 この報を受け豊臣秀吉は激怒、すぐに義統を名護屋に召喚した。 「義統!今回お前を渡海させたのは何のためか!? 大名でもあり朝鮮の地理にも詳しい、それ故に諸将が危機にあったときにこれを救う 遊軍としての役割を期待して、朝鮮に渡らせたのだ!それがどういう事だ!? 明の大軍を恐れ小西を救わず、それだけではなく急の出陣に度を失い慌て騒いで 逃げ出したこと、前代未聞の怯懦臆病である!! この秀吉は卑賤の昔からこの年まで、未だ敗北と言う屈辱を蒙ったことが無かった! それなのにお前が、この戦役でも初めて明軍のために敗走し恥を晒した。 これはお前一人の恥ではなく我々全体の恥であり、日本国の瑕瑾である! お前が昔島津と戦ってわしに援軍を頼んだとき、わしにはお前を助ける言われは無かった。 にもかかわらず援軍を出したのは、助けを乞われてこれを捨ておくことは武将として恥辱であると、 そう考えたからだ! そうして援軍を派遣した時も、お前は島津の少勢に破られ、本城に入ることすら出来ず、 妙見龍王あたりまで逃走していた。これは浅知と呼ぶべきか臆病と呼ぶべきか、 少なくとも武士の列に入るものではない! それでも我が兵は島津を追い払い、お前を本城に返してやった。 それから、以前の諸侯昇殿の時、お前はしきりに羽柴の姓を欲しがった。 大友といえば頼朝以来の名家である。それ故にその氏が改まらないようにと、わしは わざと我が姓を与えなかったのに、お前はわしの深い考えを悟ること無くしきりに所望した。 それで仕方なく羽柴姓を許した。 これもお前が愚かな故であるが、わしにもお前の願いは聞いてやりたいとの心があったためだ。 そうであるから天意を伺い、お前に官位も頂いてやった。 が、お前は何だ!?その様なわしの心を気にもせず、不義臆病な振る舞いをし、 秀吉に恥辱を与えるとは! この上はおまえの首を跳ね諸人の見せしめにもするべきであろう! …だが!」 大友は頼朝以来の名家あるため、その故を持って、義統は死罪だけは免じられ、所領は没収。 義統は他家お預けとなったとのこと。 大友義統、これでもかと言うほど罵倒される。と言うお話。
186 :
人間七七四年 :2010/03/11(木) 19:41:56 ID:RXDaSmjk
こてんぱんだなw まぁその通りだから仕方がない
187 :
人間七七四年 :2010/03/11(木) 20:47:11 ID:BLmAzePF
『処刑人 鍋島勝茂』 初代佐賀藩主である鍋島勝茂は、大名であるにもかかわらず、剣術が達者だった。 柳生宗矩に弟子入りして柳生新影流の免許も取得している。 勝茂が戦国時代に生きた人らしい話がある。 ちょっとグロありゆえ、気持ちを強くして読んでもらいたい。 勝茂は、父親である鍋島直茂より、幼いころから斬り慣れるために、罪人を使って試し切りをさせていた。 ある日、勝茂は処刑される罪人を10人連れてこさせて一列に並ばせた。 勝茂「その者たちの縄を解け」 家臣は言われたとおりにした。 「お前たちはその罪によって処刑が決まっているものたちである。 だが、生きのびる機会を与えてやろう。 もし、それがしから逃げられるのであれば、助けてやろう」 罪人たちは、わっと喜び、勝茂公から逃げ出した。 ザン!ズバッ!ドッ!ザクッ!ザッザッザッ! 10人のうち、たちまち9人が勝茂によって斬られてしまった。 残った一人は若者だった。 勝茂「もはや斬り飽きた。 そいつは助けてやれ」 なんともコメントに困るような、勝茂の色々と悪い話である。
188 :
人間七七四年 :2010/03/11(木) 20:57:55 ID:gDIZNRqH
何とも後味の悪い話だな・・・
189 :
人間七七四年 :2010/03/11(木) 21:02:46 ID:1cnpPoJJ
一瞬、キン肉マンの ウォーズマンが一人の囚人を助ける話を思い出した
190 :
人間七七四年 :2010/03/11(木) 21:15:54 ID:ZLe+YWJN
勝茂 「おれは毎日修行を重ねている 家畜の分際でおれの体にさわりやがったな〜」
191 :
人間七七四年 :2010/03/11(木) 21:32:41 ID:Z4Q+oPJY
最後の一人の若者は勝茂好みの美男だったのでは
192 :
人間七七四年 :2010/03/11(木) 21:36:35 ID:Fx2h98Cy
>>191 ローラか・・・と徳川三代で勝茂役をやった人つながりで連想してしまう・・・
193 :
人間七七四年 :2010/03/11(木) 21:46:55 ID:1cnpPoJJ
鍋島直茂「どうだ勝茂の剣術は!!」 家臣「い…いや、まだ一人残っていました」 鍋島直茂「しくじったな!!勝茂」 彦鶴「しくじったんじゃないわ…勝茂は」
194 :
人間七七四年 :2010/03/11(木) 22:03:00 ID:Z4ZhBBSm
第21回超人オリンピックktkr!
195 :
人間七七四年 :2010/03/11(木) 22:42:14 ID:+4aMEuo2
生かして帰すことによって 「鍋島家、そして勝茂畏るべし」の風評でもばら撒くのか? どこのシグルイだw そういや佐賀はシグルイの本拠地だったけっか
196 :
人間七七四年 :2010/03/11(木) 23:40:20 ID:DayNg+E2
ここんとこ真田の話が多いついでに怪異シリーズ 「 I can fry その後 」
信州真田家で葬儀があったが、野辺送りの際、にわかに辺りが暗くなって雷光が走り、棺が宙に浮いた。
なおも上昇する棺に、栃原武助という侍があわてて飛びついて止めたが、棺の上に立つ男がいた。
「何者じゃ!?」
「武助か、わしじゃ、嘉兵衛じゃ!」
「おお、嘉兵衛か!われら両人がおれば、もはや怖いものは無いわ!」
そう、真田が誇るアイキャンフライ侍・赤沢嘉兵衛(
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1280.html )
が葬儀に参列しており、いち早く怪異に対応、棺の上にアイキャンフライして押さえ込んでいたのだ。
嘉兵衛が懸命に棺を踏みつけ、武助が必死に棺を引っ張っていると、やがて元のように晴天となり、
怪異は収まった。
逃げ散っていた葬儀の参列者もやがて戻って来て、野辺送りの再開を申し出たが、
「他人にも見られていただろうから、このまま埋葬すれば、「遺体を取られた」と噂されよう。
いったん戻って、あえて遺体を人々に見せ、改めて埋葬しよう。」
と言う嘉兵衛と武助の言葉に従った。
真田家中の岩崎家には、この時に嘉兵衛が妖怪「火車」を突いたとされる手槍が伝わっていたという。
197 :
人間七七四年 :2010/03/11(木) 23:58:10 ID:8JqC9HVJ
じゃあ俺は最近多い九州の話を。
対馬宗氏の来援を受け念願の大宰府回復に成功した少弐政資は宿敵大内氏を周防灘の向こうに追い落とすために、
周辺の豪族たちに過剰な軍役や貢納を課し始めた。
さてこのころ、宗像大宮司の宗像氏佐のもとには家宝として金の猫の像があった。
政資は親大内路線の宗像氏に含むものがあったのか、この家宝を強硬に所望し、氏佐はとうとう拒めず献上した。
ところが政資は、氏佐に感謝するどころか
「猫の金像は一対あると聞いた。物惜しみなどせず、いまひとつも献上せよ」と言いがかりをつけたのである。
これを聞いた氏佐は激怒し
「猫の像は1つしかない。あるものはもうすでに渡した。
ないものを請い、古代より続く宗像の名を辱めるとは無礼千万。
この恨みは、少弐を七代のうちに滅亡させることで必ず晴らして見せよう。」
と叫ぶと、小指を噛み切り、滴る血で壁に少弐への恨みを書き綴り切腹して果てた。
しかし話はここで終わらない。
氏佐の後を継いだ興氏は政資に逆らうこともならず日を送っていたが、
やがて政資が有智山城へ出陣する動きを察知した。
恨みを晴らすはこの時とばかりに興氏は山口の大内氏に通報、
大内氏は筑前の杉興政へ出陣指示を与えるとともに周防からも増援を派遣する。
一方、腹背に敵を受けることになった小弐資元はまず杉興政を撃破することで事態の打開を図る。
資元は杉軍が炊飯中に奇襲を敢行し、見事成功。少弐家は危機を乗り切るかに見えた。
しかし勝ち誇り杉軍を追撃する少弐軍は頑強に抵抗する一隊により足止めされ、
体勢を立て直した杉軍に反撃されついには打ち破られてしまう。
そして、この反撃のきっかけになった部隊こそ、猫の像を奪われたうえに当主まで殺された恨みに燃える宗像軍であった。
政資は肥前に逃げるも竜造寺など有力な豪族の離反を受けついには自刃。
少弐氏自体もこの痛手から立ち直れず政資の孫の少弐冬尚を最後に滅亡する。
こうして氏佐の恨みを晴らした宗像氏も、人を恨めば穴二つの言葉通り、やがて怨霊騒ぎの中で滅亡する。
この辺りは既出なのでまとめブログ(
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2383.html )でお楽しみください。
あと猫の像が宗像家に戻ったかどうかは記録にない。
198 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 00:23:39 ID:Q6r3NCpv
怨霊話見たけど、なんだか血縁関係がわかりづらいなあ 正氏と氏続が兄弟で、 氏続の子が先代当主の氏男、 氏男の妻が菊姫(正氏の娘)、 んで正氏の正妻が山田の局で菊姫の母、 側室(氏貞の母・事件の犯人)の子が氏貞とお色 でいいんだよね?
199 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 01:19:27 ID:3k0adpfb
九州わりと化物とか怨念話多いな。 あくまでイメージだけど、南国ってカラっとしてそうなんで意外。 逆にドロドロしてそうな東北なんかはせいぜい狐とか河童とか・・ 自分は地元東北だが、怪奇好きなんでちょっと無念w
200 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 01:20:38 ID:ZqQUBa0Y
まぁ別にそこまで気候とか劇的に変わるわけでもないしね
201 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 01:33:16 ID:QUI2XwMv
九州も北の方は東海地方あたりとあまり変わらないし 大陸との関係で元になった話が入りやすいんじゃない?
202 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 01:36:28 ID:Z1tQNtci
鹿児島までいくとはっきり南国テイストだけどね
203 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 01:40:02 ID:Dkv8uoiT
東北は大飢饉による餓死で、村と一緒に滅んだ伝承も多いのではなかろうか。 合掌……
204 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 04:54:19 ID:GDORJT1i
>>196 fry(自)@いため[揚げ]られる A≪略式≫猛烈に暑い;ひどく日焼けする B≪俗≫電気椅子で処刑される
揚げ足とる気は無いんだけどBにびっくりしたのでつい
手槍はある(あった?)のに話の方には火車をぶっ刺すくだりは無いんだね、残念
戦国って火車に遭遇した話が割と多い気がするけど猫飼うのが流行ったとかあったんかな
205 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 05:24:54 ID:I0W/0C/a
>169 後学のため一度、可児才蔵さんにしばかれておいで。 (火急の用などの)理由もなく、あるいは相手方の許しも得ず、 人サマの陣所や行列前を乗馬したまま通ろうとしたら、無礼討ちにされても文句はいえんのよ…… 神社やお寺さんとか、格の高い場所もそう。
206 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 05:48:09 ID:mmCqwCbx
>>187 はは〜ん
勝茂が独自に調べた結果その若者は冤罪だったんだが、父公の裁きに異を唱えることは出来ないので
理由をつけて逃がしてやったいい話だな。
207 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 09:14:15 ID:owgcJ/qP
>>199 確かに九州は怨念話が多いね。
ほかにも鍋島の猫騒動とかもあるし。
東国だと動物が出てくるいい話が多いのに。
208 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 09:34:35 ID:nZh5x9ds
九州にはな…おんねん
209 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 10:51:53 ID:aHf0lKSt
【審議中】 |∧∧| (( ) ) (( ) ) ((⌒ ) __(;゚Д゚)___ (( ) ) (( ⌒ ) (( ) ) | ⊂l l⊃| ノ火.,、 ノ人., 、 ノ人.,、  ̄ ̄|.|. .|| ̄ ̄ γノ)::) γノ)::) γノ)::) |.|=.=.|| ゝ人ノ ゝ火ノ ゝ人ノ |∪∪| ||∧,,∧ ||∧,,∧ || ボォオ | | ∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧ | | ( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` ) ~~~~~~~~ | U ( ´・) (・` ). .と ノ u-u ( ) ( ノ u-u `u-u'. `u-u'
210 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 13:02:50 ID:r5IgZHl1
そういえば細川忠利は、 心優しい忠興とガラシャの間の子ではなく、 忠興がガラシャの小侍従に産ませた子だという話を どっかで聞いたんだが、あれどうなんだろう。
211 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 13:44:19 ID:H3YDNYUa
>>210 全く根拠の無い噂話だろう。
なぜならそれを見聞きした者は全て三
connection lost
212 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 13:44:27 ID:nTyYy7FT
しかし東北は怨念だの怪異だのではなく、リアルに人間同士のドロドロの暗殺合戦とかが超怖いイメージ 蠣崎さんちなんか兄弟はおろか姉妹までが入り乱れて殺しあってるし
213 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 14:01:20 ID:MpxjtL2F
>>210 「霜女覚書」は光尚(忠利の子)がガラシャの最期の様子を聞きたいといって、
侍女に書かせたものだし、ガラシャの周囲の人間関係を見るかぎりでは、忠隆、
興秋、忠利の母親はガラシャとみるのが自然だと思うんだが。
忠興の娘のうち、烏丸光賢に嫁いだ娘はガラシャの子じゃないってのは知られてる話だけど、
忠利がってのは俺の記憶のなかでは八切止夫が言ってるくらいのもんだったはずだが。
214 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 14:04:27 ID:r5IgZHl1
いやすまん、どこで聞いたかも忘れたぐらい前の話で、 「へー」とか聞いてそのままだったんで何とも。 まあ与太か。
215 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 18:22:14 ID:IvZ7/+J4
加藤順盛という武士がいた。熱田の豪商、加藤景繁の子で織田信秀、信長親子に仕え、 また織田家に捕えられた幼き日の竹千代こと、徳川家康を、信秀の命で預け受け 育てたことでも知られている。 さて桶狭間、加藤順盛は熱田で信長を出迎え、熱田神宮での戦勝祈願に立ち会い、 熱田神に祈った信長に酒を差し上げる役を仰せつかった。 信長、この酒を飲もうとした時、大敵との決戦を前に、緊張した面持ちで神宮前に居並ぶ 織田家諸将に向かって声を掛ける 「皆の者、よく聞け!!」 そしてこう言い放った! 「今日の戦、勝とう!加藤の酌だけに!!」 勝とう…加藤…勝とう… しわぶき一つない厳粛たる熱田神宮の境内に、信長渾身のギャグが響く。 これにより織田軍は緊張から解き放たれ勇んで今川軍に立ち向かった。か、どうかは定かではない。
216 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 18:39:58 ID:t/3aHbB0
親父ギャグかw
217 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 18:40:01 ID:uJkfZ5Re
殿いつの秀吉なら爆笑して転げまわるところなんだが・・
218 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 18:41:44 ID:t/3aHbB0
219 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 18:48:53 ID:nTyYy7FT
信長、やっぱり結構テンパってたんだな… まあほんと乾坤一擲の勝負だしねえ
220 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 19:35:13 ID:HB7tAhFl
みんながリアクションに困ってる様が目に浮かぶww
221 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 19:37:48 ID:7eE2cg/c
たぶん、笑いは起こらなかったと思う。 なんとなく
222 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 20:00:50 ID:bpoGFCQT
うちあわび、かちぐり、こんぶの出陣の儀式で、「敵にうち勝ってよろコブべし」という世界ですし・・・親父ギャグもOKじゃ?
223 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 20:03:25 ID:KaJ7EOgh
和歌でも掛け言葉とかがあるし 立派な教養や文才の一つなんじゃないか今でいう親父ギャグも
224 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 20:37:22 ID:WtHcF13t
>>222 みたいなのはただの言葉遊びじゃなく言魂によよる祈念
多分に呪術的な要素が強いから親父ギャグとは次元が違うとおもうけどね
そもそも大和言葉は、複数の異なる物や事象について同じ性質を持つなど
共通点が見出だされるものを同じ音(言葉)で表してきた言語
そうした言葉の大元の意味を知っていた時代の懸詞と単なる思いつき親父ギャグを一緒にしたら
歴代の文化人がかわいそすぎる
225 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 20:48:20 ID:bpoGFCQT
加藤だから、勝とうも、呪術的な意味合いがあるような 義経が四国に上陸した地点も、「勝浦だと?これで勝ったぞ」という話しもあった気がするし
226 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 20:56:59 ID:QUI2XwMv
227 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 21:25:13 ID:mHf2SqEL
>>220-221 KYな秀吉と小六が笑い転げていて
信長に至近距離から矢を射たれる姿を想像してしまいました
228 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 21:36:57 ID:aHf0lKSt
秀吉はともかく桶狭間に小六はおらんだろJK
229 :
人間七七四年 :2010/03/12(金) 23:17:21 ID:+OqLWNyH
>>210-211 >>213-214 ふと思い出したけど、黒田騒動に出てくる梶原景尚は森鴎外の「栗山大膳」なんかでは、
官兵衛の隠し子になってるけど、実は長政の隠し子らしいね
何でも長政14歳の時に従姉妹に手をつけて産ませた子供らしいので庶子とはいえ長子になるから、
官兵衛の子供ってことにしたのかな?
230 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 01:07:00 ID:ms21nn16
>>229 そこは単純に、鴎外が小説にする時、腹違いの兄なんか出すと無駄にややこしくなるから
とりあえず叔父って事にしただけじゃないかなあ
231 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 01:25:40 ID:SK8xeqGk
疱瘡神と簓三八(ささらさんぱち)の宿 疫病、難病の魔除けに佐々良三八の宿だったり住処と 書いてまじないにする風習が元禄頃から全国各地に広がった。 佐々良三八は戦国の武士で名護屋九右衛門の家来の一人で 福岡に赴いた時、犬に囲まれて困っている男を助けたら助けた男が 疱瘡神(天然痘や水疱瘡の神様)で、犬から助けて下さったお礼に あなたの家には二度と出入りしませんといった事から 各地で「佐々良三八の宿」や「三八の家」と紙や木に彫り吊り下げるんだと云う 三八は疱瘡除け伝説になるほどの美肌の持ち主で在ったと伝わるが この時代、風土病や流行病がすぐに治療できないので年齢性別問わず 流行病の痕で多少アバタ顔であった。 大名家の娘ともなると嫁ぎ先に支障をきたすので大名家では特に娘の肌に気を使った。 この三八の噂を聞きつけた森忠政が娘(九右衛門の娘とも)のために 佐々良三八の家の看板を譲ってほしいと三八を家に招いた。 三八は家宝にしていた家の札をなぜか譲ってしまい祟りで人前では出歩けないほど 酷い荒れ肌になってしまったという その後、忠政の娘はとても肌がきれいな女に育ったそうだ。 伝説の類だが戦国後期で妖怪、怪談話で割合と有名なまじない伝説 (1156年、保元の乱で敗れた源為朝も流された先の八丈島では 疱瘡が全く流行らなかったので源為朝が疱瘡神を倒したとして三八同様、 この時代疱瘡除けの札として人気があった。 一部地域では可児才蔵も疱瘡神殺しで効果があるとか)
232 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 01:29:34 ID:bk22E319
233 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 02:31:08 ID:UNKRLSjy
>>231 森家は意図するしないにかかわらず人を不幸にするなあ。
男が人前に出れなくなるような荒れ肌っていうのは想像できんが。
あと源為朝が流されたのは伊豆大島では?
234 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 02:38:29 ID:rnwwltn4
歌舞伎でこいつが主役の話が結構あった気がする 美男だったのに呪いで醜悪な身体になって妖怪になっちゃった的な しかし森家は歌舞伎といろいろ深い関係にあるなw
235 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 04:15:19 ID:WbYfek5g
>>233 その後八丈島と八丈小島にも行ったんだよね
236 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 10:59:40 ID:QuR/9ctF
戦国時代、八丈島は延徳年間(15世紀末)に伊豆国賀茂の地頭、朝比奈知明が訪れ、 「この島は末代まで伊豆の領域である」と宣言して、北条氏の支配下に置かれた。 知明はこの功により、伊勢宗瑞から下田港を知行として授かったが、この下田出身の板部岡紅雪が 北条氏政の命で伊豆七島等の差配を任され、八丈島に向かい、その風俗を報告した。 『離島のことであるから万事気にかけず、島民もさぞ卑しかろうと思っていましたが、そんな事はなく、 ことに女性は色白で黒髪を長く伸ばし、その艶やかさはたぐいまれでありました。 気立ても優しく、上等な絹織物を重ね着して着こなし、立ち居振る舞いも落ち着いておりました。 普通の女性は化粧を為し、まゆずみを施して男に媚びますが、八丈島の女は習慣で化粧をしません。 女性は絹を織ることを家業としており、一日中忙しく働いています。 本土からの土産として草紙などくれてやると、何よりもこれを大切にしていました。』(小田原北条記) 「北条五代記」によると、島民に招かれた紅雪が、島で初めて能の舞を披露して大ウケしたり、同行した 紅雪の家臣が現地の娘さんとデキちゃって、帰国の時泣きつかれたりと、わりと大変だったようです。 しかし、真言坊主のはずの紅雪が、なぜ女の子の話題ばかり記録してるのか・・・
237 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 11:46:51 ID:Yr/bjgrv
槍の話 皆朱の槍 「花の慶次」で有名になった話ですが、まだ出てなかったようですので一応。 前田慶次が上杉家に仕官した時、朱柄の槍を携えていた。しかも、「先祖代々の持ち物だから、仕方ないよね☆」と、しれっと言うのである。 ここで水野藤兵衛、韮塚理右衛門、宇佐美弥五右エ門、藤田森右衛門が猛抗議をした。 「長年頑張ってきたのに朱柄の槍は許されてません。絶対納得いかない、あいつに許すんなら我々にも許していただきたい!」と兼続に 訴えたので、仕方なく全員に許すこととなった。 朱柄の槍がこんなに何本もあるのは、実に前代未聞なのである。 「花の慶次」では、彼らも慶次より武勇を示さねばいかなくなり、結果的に死を恐れぬ勇士をそろえることができた、となってるわけですが・・・ ここまでが前振り 家康が諸大名に命じて駿府城の修築を行っている時、細川忠興の配下に朱槍を持っているものがいた。 名を聞かせたところ、沢村大学という者であった。大学は長久手の戦で殊勲を立てていたことを、家康も知っており、あの大学ならば 仔細無い、と許したという。 こういうわけで、天下人になった家康でさえも注文をつけるほどに、朱柄の槍は格式が高く、武勇の者でなければ許されないのであった。 慶次の行いがいかなるものだったかがわかります。 ちなみに徳川家で皆朱の槍を許されたのは、長坂信政(血槍九郎)。簡単に言えば、松平家時代の最強戦士です。 清康、広忠、家康三代に仕え、毎戦、槍が血で真っ赤になるまで奮戦したという人。おかげで子孫も代々血槍九郎と名乗るように 命令されました。 寛政年間の幕府文書では大名行列で朱槍を用いられる家は決まっていて、家来にもこっそり許可しちゃだめ、と書かれています。 許可が出てたのは、酒井雅楽頭家、土井大炊頭家、松平伊賀守家。
238 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 12:14:06 ID:/E+VQdig
239 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 12:21:55 ID:2jGU1g46
日本号て朱槍?
240 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 12:58:27 ID:Yr/bjgrv
241 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 15:44:36 ID:2C7Owdfu
だろうねー 戦国時代の人間ってシビアで実力主義だから見かけが派手なだけだと ただの馬鹿扱いでそっこう闇夜にはぎとられるのが落ちだしなw
242 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 15:58:04 ID:dq4bi84o
紅いのは通常の数倍働かないと駄目なのはこのころからの習いか そして第一次世界大戦のドイツとか 宇宙世紀の某少佐とかに遺伝するわけだ
243 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 19:32:22 ID:43UpAYnD
冨野は知ってたのかな 赤備えを
244 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 19:37:37 ID:T2HsDl0k
ピンクの絵の具が沢山余ってたので……
245 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 19:59:11 ID:oOL6pH14
P E A ならシャアに限らず本格的に赤備えにすれば良かったのに。
246 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 20:08:26 ID:T2HsDl0k
爆煙の色をピンクにすることで減らしました
247 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 20:31:01 ID:WHfxvjjg
赤備えの後継者はレッドショルダーだろ
248 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 20:32:32 ID:PNdUuuVa
いいわねっ!?いくわよっ!!
249 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 20:34:07 ID:43UpAYnD
ルナマリア乙w
250 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 20:36:07 ID:PNdUuuVa
いや…モモレンジャー…orz
251 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 22:12:20 ID:U2PnmOCj
>>241 派手な出で立ちとかかぶいた旗とか名前とかだと喧嘩とか因縁吹っかけられるしな
無理ノ助さんみたくw
252 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 22:57:03 ID:bk22E319
長束正家の最後
関が原の合戦で西軍は崩壊した。この時奉行衆の一人、長束正家は退却の途中、東軍である山岡景友の軍に遭遇し
小勢の山岡に散々に打ち払われるなどの醜態を見せたが、
家臣の松田秀宣(
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-671.htmlの二 )に助けられ、どうにか居城である
水口城に逃げ帰ることが出来た。しかし当然ここにも東軍の追っ手が迫る。
この水口城を担当したのは、池田輝政、長吉兄弟らであった。
池田たちは水口城を攻め立てたが、この城守りの固い要害で、兵も兵糧、武器も豊富であり、
なかなか簡単には落ちそうも無い。そこで輝政は一案を思いつき弟長吉を水口城に派遣した。
長吉は正家に対面すると、言う
「正家殿、あなたと我が兄輝政はお互い幼い時より友達づきあいをしていた、まさに竹馬の友ではあります。
それ故に輝政はあなたと争うことを嫌い、私をここに遣わしました。
率直にお聞きいたします。あなたは今、誰を頼みとして籠城なさっているのでしょうか?
もはや西軍は崩壊いたしました。願わくば速やかにこの城を、我らにお引渡しして頂き、
徳川殿に降参して頂きたいのです。
その折には我ら兄弟が揃って徳川殿に取り繕い、あなたの罪を許してもらい、所領安堵もして頂けるよう
働きかけましょう。
ですが、この事を承諾していただけないと言うのならしかたありません。我らは城に押し寄せ
貴方がたと一戦に及びましょう。」
これに正家も長束家の家中も、先に山岡軍に打ち負けたことも有り気弱になっており、また
先の展望も無いまま籠城するのはやはり無謀であるとも思い、長吉の言葉に従い開城することにした。
すべて罠であったにもかかわらず。
正家が長吉に連れられ輝政の元に到着すると、その場でたちまち捕縛された。
同時刻、城に入った池田の兵により、長束家の重臣である嶺三郎兵衛、家所帯刀、伏兎彦之丞以下6人も
ことごとく召し捕られた。正家はほぞを噛んだが、もはや後の祭りである。
『竹馬の友』
池田輝政は、そう表現した長束正家およびその重臣を、近江日野にて速やかに切腹させ、
その首を京に送った。ちなみに水口城に残された豊富な物資などの財産はすべて、池田長吉が
奪い取ったそうである。
小田原の役、朝鮮の役などで兵站を担当し、天才と呼ばれた男の、その最後である。
253 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 23:24:38 ID:PVo7wvRz
元々の『竹馬の友』って言葉の出典も確か中国で 桓温って奴が自分の幼馴染を讒言で蹴落とした後に酒の席で 「あいつとは昔は一緒に竹馬で遊ぶ中だったけど、あいつはいつも俺が遊び終わって 捨てた竹馬を後から拾って遊んでた。その程度の男だった。」とか言ったのが元なんだよな 友とか親友なんて軽々しく使う奴はあてにならんのは万国共通か
254 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 23:30:44 ID:ACATTsPi
まぁ完全な讒言ってわけでもないけどな。 殷浩失敗したのは確かだし。 こっちは…完全な虚言だな。 姫路宰相でかいのは一物だけか。
255 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 23:33:56 ID:m2JSWHKp
純粋にワルイハナシダナ-
256 :
人間七七四年 :2010/03/13(土) 23:53:01 ID:2C7Owdfu
池田輝政っていい話なんもねーようなw 政治家としては有能だと思うけどすげぇ嫌な奴だよな
257 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 00:00:41 ID:GgW+5uru
織田の関係者ですから謀略大好きなんでしょw
258 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 00:06:57 ID:8iV1vwF+
池田輝政は周りに烈女が揃いすぎてるイメージくらいしかない
259 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 00:47:33 ID:OHxoJG/R
いい話スレで治水の話が出てきているので悪い話でも治水の話を。 久留米藩首脳部は苦悩していた。筑後川の氾濫が増加し続けているのである。 理由は明白だった。 成富茂安が筑後川の肥前側に千栗堤防を築造した結果、 洪水は筑後側に押し付けられてしまったのである。 とりあえず、千栗堤防の対岸の堤防を改修してみたものの、これは強度不足であっさりと押し流されてしまった。 成富兵庫の築堤術、恐るべし。 ここに至って久留米藩は堤防を本格的に新設することを決定し、 上方仕込みの土木の専門家、丹羽頼母重次を投入することにした。 明らかに咬ませ犬のポジションに立たされた丹羽重次だが、 この人、のちに日光廟修築や高良大社の造営を手掛けたり、 筑後平野に灌漑を整備し生産性を爆発的に向上させたりする有能な人物である。 さて丹羽重次は現地視察に乗り出し対岸から千栗堤防を眺めた。 そしてすぐに悟った。 まともに堤防を作ったら必ず負ける。 築堤に力をかければかけるほど、資材を多くかければかけるほど、 洪水で堤防が崩れた時には堤防の建築資材の土石が筑後側の田畑に流れ込み被害は拡大する、と。 しかし、すでに治水を命じられてしまっている以上できませんでは済まない。 そこでひとつ奇策をひねり出した。 対岸の堤防が強いのなら、それに流れをぶつけて水流を弱めればいいじゃない。 早速対岸に向けて荒籠と称する突堤を築いていく。 突堤を築くことで水流の大半を対岸に向かわせ洪水の危険を低めるのである。 もちろん水流が向かってくることにより堤防を削られる佐賀藩は抗議する。 しかし佐賀藩がなんと言おうと筑後川東岸は久留米藩領なので気にしないことにした。 こうして見事に丹羽重次謹製安武堤防が完成し、佐賀、久留米藩は洪水の被害を折半することになりました。 この後、両藩が荒籠を乱造し洪水の被害を拡大し続けたのは言うまでもない。 筑後川治水問題の解決は明治以降まで待たなければならない。
260 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 01:00:48 ID:3uTD52Uy
縦割り行政の弊害ワロス いや現地の人には笑い事じゃないだろうが
261 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 01:10:30 ID:og9vOrn3
お互いにやり続けると損をするのは分かっているのに 自分だけ止めると被害を全部引き受けるはめになるから止められないって 藩同士でチキンレースをずっとやってたんだな
262 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 01:11:37 ID:gIaXg5e+
高度の地方分権とはすなわちこういう事でもあるのである。
263 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 01:17:33 ID:Wgos2T4U
三大暴れ川だからなあ・・・ しかし、筑後川の筑後側・・・紛らわしい・・・
264 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 01:27:17 ID:6ma/p74f
丹羽姓で土木のスペシャリストというと某五郎左を連想してしまう
265 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 01:30:09 ID:OHxoJG/R
筑後川自体が治水をするのは極めて難しい立地だからね。 最上流は天領(日田)、東岸だと上流に久留米藩、下流に柳川藩と三池藩、 西岸だと上流に福岡藩、中流に対馬藩の飛び地、下流に佐賀藩。 さらに、川が注ぐ海は有明海。 増水を海に逃がそうにも河口付近が泥地なもんで水が淀んでなかなか流れない。 一体どうしろと。
266 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 02:10:23 ID:y7TxKgBd
もう成富兵庫がぜんぶやっちゃえばいいのに、ってのは駄目なのよね 面倒だなあ
267 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 08:12:34 ID:2KAU5EjE
池田輝政の話ってスカッとする話が何もねーなw 唯一スカッとするとすれば輝政死後に姫路城が徳川家に分捕られたぐらいか
268 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 08:42:24 ID:g0qv+SD0
>>252 秀吉から、陪臣から大名に取りたてられた者はほとんど消えたね。
残ったのは、立花宗茂くらい。
269 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 08:54:11 ID:0Wd8rZV0
270 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 09:01:27 ID:R75MZSMU
鍋島直茂
271 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 10:19:53 ID:Wgos2T4U
おっと黒田家を忘れてもらっては困る。
272 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 11:42:26 ID:+dGNWGBE
溝口氏も丹羽旧臣だったよな
273 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 11:51:23 ID:str7mi4u
秀長、秀次系の陪臣だったやつ入れたら結構いるぞ 田中吉政、桑山重晴、小堀正次、有馬豊氏、溝口秀勝、村上義明など
274 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 19:35:12 ID:g0qv+SD0
275 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 19:58:35 ID:b0y9jcNS
>>274 まぁおかげで立花宗茂は柳川に帰ってこれたわけだからいいことしたよな
276 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 20:27:24 ID:KrG/XTc4
久しぶりにまとめ管理人氏…じゃねぇ、天庵様いってみるか
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3198.htmlの三の通り 、小田氏治は謀臣・天羽源鉄斎の
遺言をブッチして佐竹軍との野戦に臨んだ。当然、重臣の江戸山城守が必死に止めた。
「なりませんぞ、お屋形様!」
「なぜだ?佐竹の戦法なんぞ、さんざん戦って見切ったわ。恐れるに足りん!」
「敵は多勢、味方は無勢。それを平地で討とうなどと、源鉄斎殿の遺言を思い出して下さい!」
「耳にタコだわい。篭城戦ばかりでは負けも無いが、勝ちも無い。それに、今回はあの三楽斎の息子が
佐竹軍にいるとか。今こそ運を天に任せ一戦し、先の恨みを晴らす時ぞ!」
「で…ですが、わざわざ負けと決まったような戦を……」
「くどい、それでも武士か!?勝敗は時の運、敗れるとも恥辱に非ず。不満なら、お前は一人で
篭城しておれ。わしは出るぞ!!」氏治は一千の兵を率い、出陣した。
同じく佐竹軍一千の大将は、梶原政景・太田資武兄弟であった。
「兄者、我らが陣形はいかが致そう。」「まず我ら兄弟が二百を率い、敵をおびき出す。」
「それは、“我ら”を“主力”と思わせる、という事か?」
「その通り。我らを小勢と侮らせ、“残り”は伏せて置く。」「ふっ、我ら二百は苦戦せねばなるまいの。」
政景の思惑通り、小田軍六百ほどが二百の兵に殺到して来た。政景は寡兵を縦横無尽に操り
応戦したが、やがて限界が訪れようとした。「それっ!梶原討たすな!」
待機していた佐竹軍八百が駆けつけ、さらに混戦となったが、
「今こそ総掛かりの時!根切りにせよ!!」
氏治の号令のもと、小田全軍が総攻撃を開始した。日頃の恨みを晴らすべく小田衆は奮戦し、梶原を
追い詰めるかに見えたその時、
「 三 楽 参 上 。 」
佐竹の“残り”の“主力”二千が現れ、形勢は一気に逆転した。
「…え?なに?どういうことなの……」
「どういう事も何もありません。佐竹軍が一千だけなハズないでしょ。とっとと逃げて下さい。」
氏治は重臣の江戸山城と大藤小太郎が討ち死にという多大な犠牲を払い、やっと居城に逃げ込んだ。
277 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 20:36:32 ID:oeIWhWdE
さすが小田さんだなw
278 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 20:52:32 ID:6ma/p74f
気持ちのいいぐらいの負けっぷり、さすがです
279 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 20:56:20 ID:3LuqiqZk
惜しいな・・ 天庵様が軍師であれば、献策をすべて逆に実行するだけで常勝なのに
280 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 20:58:15 ID:4GhVcNrq
つーか止めた江戸山城が殿務めたんだろうけど死んでるじゃねーか!
281 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 21:04:26 ID:lRBMqJUJ
>.276 これの二の時も先鋒を命じた家臣に切々と諌められるのを振り切って出撃したんだよな。 そして先鋒の将が予測した通り、苦戦&これも予測通りの別働隊の小田城攻め。 結局先鋒の将が退き口で力尽きるまで奮戦してる間に逃げ延びたんだよなw そんなのがあっても同じ事する小田さんさすがですw
282 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 21:34:09 ID:E3OFFdzf
実は蜂須賀家の血筋は・・・・・・・・ 時は明治時代、明治維新も終わり日本が富国強兵にばく進していた頃、 蜂須賀家14代目当主の蜂須賀茂韶侯爵は、歴史学者を呼びつけた。 蜂須賀侯爵「じつは、蜂須賀家が『夜盗ではない』と言うことを証明して欲しいのだ。」 歴史学者喜田貞吉「侯爵家の先祖は『たしかに夜盗』であった。しかし夜盗というものは、 その時代には決して恥ずべき職業ではなかった、ということなら、 歴史的に証明してみせます」 蜂須賀侯爵「カエレ!次!」 歴史学者渡辺世祐「証明しましょう。」 蜂須賀侯爵「よし!よろしく!」 ちなみに、蜂須賀茂韶侯爵はどんな人かというと、 学歴:オックスフォード大学卒業 経歴:第11代東京府知事(1890年 - 1891年)、第2代貴族院議長(1891年 - 1896年)、文部大臣と侍従経験 と、【ビックリする経歴】である。ちなみに俺もたまげた。 事の起こりは侯爵が明治天皇から「ちょっと来い。」なのか、「聞きたいことがある。」 なのか、詳しい事情は不明だがお呼ばれしてしまったので参内した時のことである。 蜂須賀侯爵「はて、陛下からのお呼ばれとは何だろうか?ん?」 侯爵は応接室で明治天皇の参上を待っていたところ目の前に タバコがあるのが目に付いた。もちろんお客用でおいてあるもので、たくさんは言っている。 しかも菊の御紋章つきである。 蜂須賀侯爵「ほう。恩賜のタバコか。お客用なら・・・一つ頂こうかな。」 ガラ!←入り口の開く音 明治天皇「蜂須賀侯爵、またせたな。ん?」 侯爵が手を出したその時に、タイミングよく天皇が参上!見事に手を出しているところを見られてしまったのだ! 間が悪いと言ったら間が悪いが、見事に見られてしまったのだ。 天皇は笑いながら言った。 明治天皇「先祖の血は争えんな。はっはっは!」 蜂須賀侯爵「スミマセン(チクショウチクショウウチハヤトウナンカジャナイ!)」 そう、明治天皇は『太閤記』の蜂須賀正勝の記述を引き出して、 侯爵をからかったのだが、もちろん侯爵は頭に来た。 明治天皇をぶん殴りたい気分だったろうがそんなことはできはしない。 そこで歴史学者を呼んで、『蜂須賀家はと言うより蜂須賀小六は夜盗ではない』 と証明してもらうことを思いついたのだ。 だが・・・・よく考えて欲しい。蜂須賀小六正勝は夜盗ではない。あたりまえだ、 だったら、『川並衆』なんて名乗れませんよ。本職は国人という武士だもの。 でも、家系を調べたらそんなことが吹っ飛ぶような事実があるんですよ。 蜂須賀茂韶侯爵(被害者):徳川家斉の孫 明治天皇(加害者) 蜂須賀正勝━家政━至鎮━三保姫(池田光仲母)━ 池田光仲━仲澄━仲央━仲庸━数計子━勧修寺婧子(仁孝天皇母)━ 仁孝天皇━孝明天皇━明治天皇←注目! あれ?『夜盗』の子孫は・・・・・・・今の天皇に続くと言うことですか?コレは・・・・
283 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 21:37:17 ID:0Wd8rZV0
小田は何度も同じ失敗を繰り返しているが、 何度も復活している、ということは、 敵も同じ失敗を何度も繰り返しているということだな。
284 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 21:45:21 ID:gIaXg5e+
>>283 ほらアレだ。ゴジラやエイリアンは何度ぶっ殺しても復活してくるじゃん。
285 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 22:39:09 ID:RwUJivSN
「あの小田氏治が最後の一人とは思えない…」
286 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 22:47:57 ID:X/wsM+Aj
小田氏治を一匹見たら(ry
287 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 23:09:32 ID:b0y9jcNS
小田さんはGなのかよwww
288 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 23:31:38 ID:vBlF9reM
「小田氏治は滅びんよ! 何度でも(ry
289 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 23:54:44 ID:6ma/p74f
佐竹から見ればそりゃ潰しても潰しても部屋の影から出くるGのようなもんよ
290 :
人間七七四年 :2010/03/14(日) 23:59:38 ID:L0JH+5dC
毎回毎回ホイホイに引っかかってるハズなのに死なないのはどういうわけだ…
291 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 00:12:22 ID:BIdQ1baA
Gは死ぬときに卵をばらまくらしい
292 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 00:14:25 ID:v8suGHnw
戦国期、キリスト教の重大な教義、『霊魂の不滅』を真っ向から否定したのが禅宗であった。 禅宗このようなの考えは当時の日本に広く受け入れられており、信長も 「若干の点”禅宗の見解に従い”、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないとした」と、 フロイスですら認めていた。 そんな禅宗の僧たちは、こんな疑問をキリスト教宣教師たちに発した 「あなたがた宣教師が言うように、唯一神デウスの存在が真実であるのなら、何故日本人に対し こんなにも遅れて伝わり、どうしてその善良さなるものが今まで隠されてきたのか?」 人類すべてを救うはずの唯一絶対の神が日本人だけを現在までほおっておいたと言うのは 矛盾に満ちているではないか? 「あなたがた宣教師は人間には不滅の霊魂が有ると言う。しかし人間が死ぬとき、他の動物が死ぬ場合と 何ら違いはない。霊魂の兆しすらどこにも、誰にも見ることが出来ない。 ならばどうしてあなたがたは、霊魂が肉体の外に分離して存在し、それが生きたままでいることを 人々に証明出来るのか?」 「あなた達キリスト教徒は、人間の理解力、自由な意志、記憶力などを、永遠の存在である霊魂に宿る属性であると 言っている。しかしそれらは自然が、生物である人間に、存在と感覚の他に見解、意見を与えて 多少高尚にしたもの以上では無く、これらの資質はどれも不滅の兆候でないばかりか、むしろ肉体と綿密に 関連するもののように見えるが?」 人間の理解力、意思、記憶力などは、肉体が衰えれば同じく衰えるではないか。だとすればこれらは 魂の属性ではなく肉体の属性である。 これらの疑問に宣教師たちがどのように答えたのか、記録には残っていない。 それどころかこの問答は、書簡をまとめヨーロッパに置いて『日本通信』と言う形で出版される際、みな 削除されたのだ。 イエズス会はこのような疑問を発する禅僧たちを、宣教師からの書簡には存在しない 「禅宗の徒、すなわち獣のように生活をしている僧侶」 と言う表現で、『日本通信』の中で悪意を込めて記述した。 おそらく宣教師たちはこのような禅宗側からの疑問に、満足に答えることは出来なかったのであろう。 当時のキリスト教にとって、思想的、教義的に都合の悪い疑問とはなにか、と言う事についての記録でもある。
293 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 00:26:30 ID:YrkqNX1N
興味深いな こういう話はどこに載ってるの?
294 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 00:33:49 ID:kX3w2/ir
単に異国の宗教だから受け入れないってわけじゃないのなこういうのって
295 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 00:44:10 ID:v8suGHnw
>>293 フロイスたち宣教師がイエズス会に送った書簡
296 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 03:52:07 ID:1V3V5t5C
上の方に槍の話があったので投下。 「小松明」という槍をご存知だろうか?この槍の持ち主は武田信玄に仕え、「攻め弾正」 の異名で知られる真田幸隆の次男、矢沢頼綱である。さてこの頼綱さん、兄の昌幸と同じぐらい チートな方なのだが、この槍もまたチートな槍なのだ。 曰く、「この槍を頼綱が天にかざすと本物の松明のように光り輝き、空間を切り裂きながら眩い焔を生み出し、 さらにこの焔の中に入れば頼綱の姿は相手からは見えなくなる」(加沢記)という凄まじい力を持っていた。 ジョジョのスタンドで例えるならこの槍一本でマジシャンズレッド(炎)、クリーム(空間操作)、アクトン・ベイビー(透明化)の能力を同時に 使う事が出来るのだ。チートにチートが合わされば無敵なのだろうが、そんな奴の相手をさせられる北条もたまったものではないだろう。 頼綱は寡兵で数千、時には数万の北条相手に勝利を収める訳だが、それはこの槍があったからなのかも知れない。 以上、チートな槍のお話でした。
297 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 05:11:57 ID:txdQ64JA
カッコ良すぎだろそのラノベ槍w なんか北欧神話に出て来そうなスペックだな この下り書いてるときの出典筆者の率直な意見というか心境が是非知りたいw
298 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 06:24:21 ID:S5kddOWI
ゲイボルグだな
299 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 08:22:21 ID:ET4pfeAj
矢沢頼綱は幸隆の弟じゃないの? 次男は某SLGでも登場させてもらえない真田昌輝……
300 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 08:35:49 ID:MGgL5vfs
>299 最新作では出ていたような 諸勢力の親玉だか配下として
301 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 08:50:51 ID:F85gtrPR
302 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 09:10:21 ID:7irJ035d
>>296 信綱、昌輝がいなかったことにされた悪い話ですね、分かります
303 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 10:51:53 ID:/PdTxXMU
304 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 11:00:32 ID:/PdTxXMU
>>265 乙亀
仮に水はけをよくしたくても河口の干潟を浚渫しちゃうと、
有明海の漁民に悪影響甚大でしょうしねえ。。
(ははあ、現代の島原じゃもっと程度の低いことやってらあwって笑い話にするのも気の毒なんだがね)
305 :
296 :2010/03/15(月) 13:57:28 ID:k7NE27Qa
すみません。改めて調べなおしたら確かに頼綱さんは幸隆の弟でしたね。 ですので、まとめスレに書く際には 誤、真田幸隆の次男、矢沢頼綱である。さてこの頼綱さん、兄の昌幸と同じくらい 正、真田幸隆の弟、矢沢頼綱である。さてこの頼綱さん、甥の昌幸と同じくらい この様に修正して下さい。申し訳ありません。
306 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 15:54:54 ID:BmyniogW
制外の家 結城秀康が参勤のため江戸に向かっていたところ、行列が碓氷峠の関所に到着した。 関守「騎馬に徒士の家臣、足軽に弓槍鉄砲、ん?鉄砲ですか?」 結城家家臣「いかにも、鉄砲がござる。参勤のため軍役のために必要でござろう。」 関守「いけませぬ!箱根と同じく碓氷峠の関所は『入り鉄砲に出女』は禁止事項です。 将軍家の決められた法度を破るわけには参りません。ここを通過させるわけには参りません。」 結城家家臣「なぜ?当家は『制外の家』ましてや将軍家一門にござるぞ!通しなされ!」 関守「制外の家なんて知りません!だめ!鉄砲はおいてきてください!」 結城家家臣「なんだこの面倒くささは!通せ!それともお前、三河者か!??」 こうして、内容が結城秀康の耳に届いた瞬間、秀康にスイッチが入った。 秀康「成敗!」 関守はおそれた。なんと言っても自分を斬るために万余の軍勢が今まさに前進しようと いうのだから。そこで、江戸にお伺いを立てた。 結果は鉄砲付きで通してよいというものだったと思うが、詳しくはわからない。 ただ、事態収拾に成功したと共に徳川秀忠がこの事に関してのコメントがわかっている。 徳川秀忠「関守は・・・兄上(秀康)に殺されなかっただけでも幸いであった。」
307 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 16:48:18 ID:CSoXGzu/
その関守は三河者では無い事確実だな。 三河者だったら攻撃されそうになる前に、 自分から相手の軍勢に切り込むはず。
308 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 18:34:47 ID:GgibeMuK
309 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 18:51:53 ID:OJs4obV1
>結城家家臣「なんだこの面倒くささは!通せ!それともお前、三河者か!??」 どんなつっこみだよw
310 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 19:45:42 ID:Oh8TdMn0
鬼武蔵なら江戸にお伺いを立てる時間も与えず殺ってるだろうな
311 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 20:07:21 ID:KV+WWKmE
312 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 20:10:44 ID:v8suGHnw
永禄11年(1568)、信長の上洛戦の時のこと。 近江箕作城を攻略した織田軍は、ついに京の有る山城に入る。そこで織田軍は略奪を始めた。 この時織田信包の部隊の者の一人と、三河の家康より援軍として派遣された部隊の者の一人が 古烏帽子の一つをめぐって争いとなり、信包の手のものを三河の者がしたたかに殴りつけた。 そこで双方に加勢が付き大喧嘩となり、信包方には尾張、美濃の者たちが一つになって味方し 徳川の援軍部隊の大将である松平信一の陣所に押しかけた。 しかし三河の者たちも弓、鉄砲、槍を持って待ち構え、美濃尾張勢に立ち向かったので、 彼らはなかなか近くに寄せることも出来ず、困り果て、ついに信長に力を貸してもらおうと報告をした。 信長これを聞くと 「アホかおのれらは!!わざわざ家康に頼んで出してもらった援軍を、自分で殺すバカが どこの世界にいるものか!!」 と、激怒したそうである。そりゃそうであろう。 このため松平陣に押しかけていた勢も、散り散りになったのだとか。 これは三河物語の中にある話だが、信長が京に入って一銭切りなど強硬な軍規粛正策を打ち出したのは この事があったからではないか、と思わせる話である。
313 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 20:19:23 ID:GgibeMuK
へー、京での軍規粛清は有名だけどこんな出来事の影響かも知れないのか しかし、まあそら切れるわなw
314 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 20:22:45 ID:BmyniogW
>>311 ある意味見てみたい。
結城秀康VS森ヒャッハー鬼武蔵長可
の碓氷峠関所の戦い。
315 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 20:24:34 ID:2C8Pe3zK
見たらそのあと一週間は魘されそうだなあw
316 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 20:45:34 ID:dBysh5fY
>>311 いや、違うだろ。
鬼武蔵長可なら関守を間髪入れずにたたき切ってるってことでしょ。
実際、関所破って皆殺しにしてなかったっけ>鬼武蔵長可
317 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 20:58:38 ID:v8suGHnw
318 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 21:06:30 ID:rHTtFp6S
味方殺しは男のロマン
319 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 21:08:17 ID:I3QMmmTP
「アホかおのれらは!!わざわざ家康に頼んで出してもらった援軍を、自分で殺すバカが どこの世界にいるものか!!」 信は嫌いだけどこれには禿同せざるをえない グッジョブw
320 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 22:07:10 ID:kytjmE0p
中世の関所と、江戸時代のそれも碓氷峠の関所は規模が全然違う。 鬼武蔵独りで碓氷峠を突破なんてムリだよ。 ・・・って無粋な書き込みスマソ
321 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 22:15:42 ID:489IWxo5
>>319 あまりに道理すぎて異論の挟みようがないって奴だなw
322 :
人間七七四年 :2010/03/15(月) 23:00:02 ID:CSoXGzu/
>>321 確かに。
殺っちゃうと越前の富田某さんと同じになってしまうしな。
323 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 01:10:04 ID:O1oku6FB
三河者は面倒くさい。それは空気を呼吸するのとおなじくらい自然なことだ。 三河松平氏を戦国大名として発展させ、周辺にも大きな影響力をおよばせた松平清康が、家督を継いで 間もなくの頃の事である。 ある時、岡崎において能の興行があった。清康は縁の上から、松平一門は白洲に畳を敷いてこれを見物した。 ところが清康の家来のある者が、清康の叔父で松平一門の有力者である松平信定の畳のへりに、 信定がまだ来ていない折についつい腰をかけてしまった。 間の悪いことにそれを遠くにいた信定が見てしまい、「わしの桟敷に腰をかけている奴は何者か!? あいつを降ろしてこい!」と使いの者を行かせた。 「内膳(信定)様が畳から降りるようにとおっしゃってます、急いで降りてください。」 「ああ、ここは内膳様の畳だったのですか、そのような事は知らず、つい考えも無く腰を降ろしてしまいました。 しかしお言葉が無くてもお姿を見かけたらここを降りるつもりです。良くわかっています。」 使いの者はこれを報告したが、信定は怒って 「わしが行こうが行くまいがすぐに降りれといっているのだ!降りないようなら無理にでも降ろしてこい!」 なんだか電車の優先席に座っているのを、注意された若者と注意した人との言い合いのようである。 とにかくまたまた家臣に使者が行く。しかし家臣、今度は頭に来た 「重ね重ねのお使いは迷惑だ!降りないと言ったのならともかく、『わかりました見かけたら降ります』と言っているのに この様にされるとは!ここはご主君の目もあり同僚たちもこれを見ている!侍たるものがかように何度も使いを出されて 一人でこの場を去るようなことをすれば、あとあとどのように評判されることか、考えただけで赤面する思いだ! もし強いてここから去らせたいと言うのなら、恐れ多いことだとはわかっているが、私の立場もお考えになって 内膳殿もこの場をお立ちください。私はそのお供をして去りましょう。 例え首を撥ねられても、断じて私一人だけではこの場を降りません!!」 こう言い放って、能が終わるまでとうとうその場を立たなかった。 まあこの人この後清康に呼び出されて、叱られると思ったら「お前の方が正しい」とかなんとか言われて 三河衆が感動して「俺たちの面倒くささを清康様は解ってくれた!俺たちは一生清康様に付いていくぜ!」って いい話になるんだけど、ここまでなのでこっちにw
324 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 01:17:48 ID:HGrQINti
んな事やってるから信定に暗殺されるんだよ清康
325 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 01:41:09 ID:MvwUEAYK
清康さんかっけーw
326 :
1/2 :2010/03/16(火) 07:23:25 ID:JGImTILm
>>296 ラノベ槍、その効果
天正10年(1582)10月、北条氏の重臣・猪俣能登守は、天正壬午の乱のドサクサで奪われた沼田領を
奪還すべく、二千の兵をもって矢沢頼綱率いる五百の兵と沼須ヶ原で対峙した。
>よりつな は こたいまつ を つかった!
大将みずから先陣を切る頼綱隊は三百の首を挙げて猪俣を敗走させ、頼綱自身も十七の首を獲った。
その後、猪俣は頼綱配下の油断を突いて阿曽城を奪い、ここを拠点に五千の兵を集めて沼田を攻める
が、三日かけても沼田城を落とせず、体勢を整えるべく阿曽城に引き上げた。
>よりつな は こたいまつ を つかった!
逆に頼綱は七百を率いて阿曽城に夜襲をかけ、北条軍に大打撃を与えた。その間に、真田昌幸に
補給線を絶たれた猪俣は、本国へ撤退した。
天正13年(1585)9月、北条氏は上田合戦のスキを突いて当主・氏直が三万を率いて、沼田を攻めた。
これに対し、頼綱はなぜか一千の兵で沼田を出陣した。「矢沢来る」の報に、北条軍は猪俣能登守が
三千の兵で立ち向かったが、頼綱の伏兵により挟撃を受け、二百人を討ち取られた。
業を煮やした氏直は、兵を本隊二万と叔父・氏照の分隊一万に分け、本隊で沼田城を、分隊で支城を
攻め、一気に沼田勢を殲滅せんとした。
>よりつな は こたいまつ を つかった!
北条本隊が沼田城の門を潜ったとたん、真っ赤に焼けた炭が降ってきた。城門にも引火して、動揺する
ところに、頼綱が愛槍を振りかざし、襲って来た。二万の軍は潰走した。
327 :
2/2 :2010/03/16(火) 07:24:37 ID:JGImTILm
天正14年(1586)4月、北条氏直は満を持して七万の兵を沼田に送り込んだ。が、途中の片品川で豪雨に より橋が全て流されてしまい、泳いで渡河するも、沼田に着いた時は5月になっていた。 疲労し、士気落ちる北条軍に、矢沢頼綱から矢文が送られてきた。 「(前略)貴方御案内の為、此の山中に御出張、誠に以って御苦労の至りに候。 数年御心掛の処、我等命存へ今年に至り対陣を遂げ、大なる悦び之に過ぎるべからず候。 此表、不肖の族に候へども、早々の御出馬待ち居る処に候。此の旨、宜しく仰せ被る所に候。」 (意訳:遠い所、ご苦労さん。…なんて言うと思った?遅せーよ。早くかかって来いやオラァ!) 「くっ、山猿ふぜいが……!」氏直の叔父、北条氏邦が矢文を返した。 「(前略)書状の趣、大途に御披露に及び候処に神妙の至りに思し召し候。山中珍しく覚ゆるに付き、 一両日鷹狩り等仰せ付け被り候条、静かに寄り鬱憤蒙り候。 (中略)降参せしむは所領望みに任せ、一族並びに籠城衆、安堵なるべく候。猶一戦の節、期して候。」 (意訳:うるせーな、ド田舎が珍しいから遊びながら来たんだよ。さっさと降参すれば許してやんよ。) 5月25日、北条軍の先鋒が沼田城に攻撃を開始した。 >よりつな は こたいまつ を つかった! 突然、城門の前にかかる橋が落ちた。いや、頼綱の手の者に落とされた。すでに城内に入っていた隊は 頼綱に殲滅され、後の隊も押されて片品川に落ちて溺死する者が続出した。 緒戦で痛手を受けた北条軍は、またしても益なくして沼田を去った。時に頼綱、69歳であったという。 このおっかないじーさんの子孫は、今もまだ松代にいるのです……
328 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 09:00:55 ID:joOsK0wO
李さん一家乙 しかしこれをみると上田城防衛戦がかわいらしく見えてくるな。
329 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 09:58:58 ID:1Yo3GTIS
悪い話しでもないような
330 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 10:24:27 ID:9qs30P2U
北条にとっては、悪い話でしょ やる夫で見たけど、ほんとに笑える
331 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 12:20:49 ID:I61suJjA
そういうスレだっけ?いい話の方でいいんじゃね? 誰かが良い勝ちっぷりのときは敵は負けているわけだし こっちは理不尽だったり後味の悪い意味での「悪いスレ」だと解していたが おもしろかったけどさ
332 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 12:45:00 ID:8+c9iWXk
333 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 12:48:33 ID:mn4yQ9TY
>>331 ちょっと所でない悪い話を書いてる人もいるんだし
まあそこら辺はなんとなくだろ
334 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 13:57:25 ID:bv6Bf7KL
>>332 間接的に関東と周辺の武者を貶めるんじゃねぇ
335 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 16:00:18 ID:ol80zhhw
336 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 16:05:04 ID:EhAe9dTe
帰るまでガタガタブルブル閉じこもって震えてただけだろ?
337 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 16:05:27 ID:1d8MY/3Z
>>332 いい悪いスレで北条氏を無能という奴が居ろうとは・・・
気に入った河越攻めの先陣を務めよ
まあ我等は大軍じゃ北条が攻めてくることもなかろう
338 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 16:18:22 ID:jCGQnU8m
うG治「関東武士は猛者ぞろいじゃ」
339 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 16:22:51 ID:+Vec/+wd
忠興「板東武者は、京の繊細さに欠けるから……」
340 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 17:11:11 ID:1d8MY/3Z
>>339 奥方様の御顔を見ただけで手討ちにされるのは
流石に繊細すぎると思うのですが・・・
341 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 17:28:38 ID:QhEjSv40
関東は棒で人間をホームランする様な野郎が居るんだろう? ストライクゾーン入っちまいそうで怖くて戦場をうかうか歩けねえよ。
342 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 18:52:24 ID:gbL8yev0
長泰打擲事件が無かったので投下 長尾景虎は上杉憲政の頼みで北条攻めに取り掛かった。 関東の諸将・国人達は「まぁ管領の仰せだし、北条うざかったし」と次々と長尾勢に加わる。 その中には北条の援助もあった成田氏もいた。 この恩知らずめ!>ヽ(`Д´)ノ←氏康 成田長泰は武州之衆を率いて参陣 佐竹・宇都宮・里見・太田・小山・小田・那須や多くの国人らも集まり、武将が約200人、総勢11万5千に昇ったという。 この大軍勢に北条の支城は次々と落とされ、遂に北条の拠点 小田原城の攻撃に差し掛かった。 しかし、1ヶ月に渡る包囲であっても小田原城は落城せず、長尾勢は一度鎌倉へ引く事にした。 この時、景虎は憲政の関東管領の譲渡を承認し、鶴岡八幡宮で就任式を行った。 関東の数々の諸将が景虎に下馬して挨拶する中、一人だけ乗馬したまま挨拶をしていた者がいた。 成田長泰である。 _∧ ▲←烏帽子 (_・ ミ(・∀・)<やぁ! | 丶( ソ づ ( ~ ̄∪´ )^ミ ||`|| ̄( ( | '~ ~ '~ '~ これを見た景虎は・・・ ( ゚д゚)・・・ (#゚д゚)イラッ (#゚Д゚)「無礼者、馬から下りろ、礼を知らぬのか!!」 と長泰を馬から引きずり出し・・・ _, ,_ スパコーン ( #゚д゚) ピュー ⊂彡☆))Д´) ≡▲←烏帽子 ↑長泰 と扇子で頭を叩き、烏帽子をはたき落としたのだ。 この事に長泰は (´・ω・`)「衆人の見ている前で恥を加えられたことは、かえすがえす無念である」 と兵を率いて帰城し、北条に寝返ったのであった・・・ えっ?>(´∀`;)←氏康
343 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 18:54:55 ID:gbL8yev0
とここまでは長泰の自業自得に見えるの話だが 成田氏は藤原北家本流の血を引き、古くから武蔵に住む名家であり 源氏の中興の祖、八幡太郎義家に対しても下馬せずの挨拶を認められた家柄である。 その事は関東の武将らも承知の事であり この景虎の行動を見た諸侯達は・・・ _, ,_ スパコーン ( #゚д゚) ⊂彡☆))Д´) ≡▲ (,,゚Д゚)゚Д゚)!! ←諸侯ら (#゚Д゚)「何だよ!あの非常識野郎は!?」 ヽ(`Д´)ノ「関東管領がDQNかよ!? 」 と景虎に不快を示し 多くの者が兵を引いて国に帰ってしまったのだ。 当然、上杉(長尾)勢の北条攻めは困難を極める事になる。 また武田の動きもあって景虎は本国に引き上げるのだった・・・ だが、この事件を書いた「小田原記」は北条側の記録であり 成田氏も古くから続く氏族だが「名家」という明確な証拠は無く かつ、馬上の礼が許されたという記録も無い。 つまり、この事件は創作の可能性があるのだ。 しかし、再度 景虎は出兵するのだが 前の出兵で賛同していた多くの諸将・国人が離反し北条側で戦っいる。 唐沢城主 佐野昌綱、新田金山城主 由良成繁 小山城主 小山秀綱、小金城主 高城胤吉など また、佐竹氏との仲も悪くなっており、景虎に対する不満は事実だったようだ・・・ そんな分かり難い関東の話で、軍神のちょっと不手際な話
344 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 20:37:11 ID:EhAe9dTe
そんな十年近い年月を短い間みたいに言うなよw 話としては面白いけど打擲事件自体は眉唾だよな 元々成田氏が腰が定まらない感じだから、あっち付いたりこっち付いたりするのは普通 小田原攻め自体は関東諸将がどうも乗り気じゃなかったと言われてるし そうこうするウチに信玄が動き出して戦線を維持する雰囲気じゃ無くなって結局解散 関東諸将も一部を除いて風見鶏的性格が強いしな 謙信自体も呼べば大暴れするけど、武田が動き出すと越後まで帰っちゃうし、仕方ない点もあるんだが その辺に嫌気が差して北条と同盟結んじゃったりして佐竹とぎくしゃくしちゃう時期も確かにある それが元でほぼ完全に北条が関東を支配下に置いちゃうしな
345 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 20:42:40 ID:O1oku6FB
関東の戦国を書いた軍記物にはまるで揃えたかのように、謙信に対して関東の武士が 「あんな怖い大将にはついていけない…」 って感じの事を言っているのが、妙に面白い。 永享の乱からこのかたずっと合戦し続けてるような関東の武士でも、謙信は怖いのかとw
346 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 20:47:10 ID:EhAe9dTe
謙信たらんとした養子がやたらと恐れられた位なんだから 無茶苦茶怖かったんだろうなとは思うなw
347 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 20:50:50 ID:I61suJjA
怖がられ方がアレじゃないかな 「理解できない」って方向
348 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 20:51:20 ID:U3GxlX54
ただし、手紙からはオカンの匂いがするがなw あ、いや、オカンは怖いものだよな、うん
349 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 20:53:28 ID:EhAe9dTe
真偽の程は兎も角、 ムカついたから、ちょっと寄り道して砦落としてくるわ もちろん皆殺しなw って感じだからなぁ そりゃ怖いと思うw
350 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 21:04:24 ID:RGQYl48K
足利義教や細川政元も、謙信同様に恐れられてたんだろうか。魔王という先入観があると、以外と信長はまともに思えるが
351 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 21:24:28 ID:B6/kmIOv
>>345 謙信は、戦国最強の男であると同時に戦国最恐の男でもあったわけかw
同時代を生きた信長と謙信、どっちのが本当に恐ろしいんだろうな
魔王と軍神の直接対決が見たかったねえ
352 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 21:29:05 ID:Xu4TDT1e
成田ってそもそも藤原北家どころか小野氏って説もあるしな
353 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 21:33:25 ID:jzHusaGw
総社長尾から成田へ養子に行ったような
354 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 22:06:39 ID:gHSmM77z
攻めて成田氏 殿様に
355 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 22:10:52 ID:EhAe9dTe
356 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 22:13:51 ID:O1oku6FB
357 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 22:49:05 ID:G7hDYw+O
358 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 22:53:18 ID:e4CZnDNT
ホンマや
359 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 22:55:42 ID:2p0VkSHh
うまくまとまりましたようで
360 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 23:18:16 ID:SJc+jaRZ
こんな隣人は嫌杉だろ 行動原理を理解できない しかも金持ちでフットワークが良い
361 :
人間七七四年 :2010/03/16(火) 23:24:43 ID:jnN4Dryv
格闘家ばりの身体能力をもち、性格は謙虚で爽やか。 少々こどもっぽい家出癖もあるが許容範囲内。 だが時折突然何が気に障るのか、目があった相手を 笑顔のまま無言で徹底的にボコる。 警官が止めようとしても警官ごとボコる。笑顔のまま。 ボコった理由を聞いても「貴奴の中の阿修羅がそれがしに襲い掛かってきたので」 とか意味がわからない。 その手の人が隣人にいたら、そらいやだわ。
362 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 00:05:34 ID:Q0u2bmS/
「太陽が眩しかったから」とか言い出しそうですね
363 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 00:06:20 ID:FffhEdmK
謙信って当時の人としても小柄だったのでは? しかも体型も全然マッチョではなかったはずだが。
364 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 00:12:28 ID:SV+HBEPb
ただ、関東の軍記物は自分たちが風見鳥した理由を 謙信に押しつけてるような気もしなくもないw 謙信の方にしてみれば「あいつらは何故わからんのかー!」って 感じだったみたいだしな。 北条と越相同盟組んだのは、取り返した関宿が北条の手に落ちたら 関東衆は窮地に落ちるからむしろ助けるための同盟だったつもり、 関宿城を攻める北条に慌てて救援に行くも、利根川が増水してて渡れない。 しかも当の佐竹宇都宮が謙信に不審を抱いて動かない、 「ちょっと!早く動け!このままだと関宿落ちちゃうよ!?」 と言ってるのに無視されてついに 「もう助けてやらん!ふざけるな!」と激怒して その後関東衆の救援要請無視するようになったんだし。 義重本人は謙信の意見を受け入れたみたいなんだが…。
365 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 00:12:43 ID:gkyF7Shr
真面目に学校制圧狙ってる生徒会長の信玄君と体力チートで超金持ちで礼儀正しいけど キレると何するか分からない謙信君
366 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 00:12:57 ID:mBGPR96J
逸話みると幼少のころからそんな性格だったみたいね そら兄貴も警戒するわ
367 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 00:13:40 ID:wyVqz0Gk
小柄つうか平均身長位 小柄なのは景勝
368 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 00:15:56 ID:UxU4nkXu
天文四年(1535)、松平清康の陣中における突然の落命、いわゆる「森山崩れ」は、西三河に大きな動揺を巻き起こした。 清康のあとを嫡男広忠が継いだものの、大叔父にあたる一門の有力者松平信定はそれを認めず自らが松平家総領を名乗り 広忠を三河より追放。広忠は少数の家臣と共に伊勢に落ち延びた。 しかし三河に残った松平家臣団の中にも、広忠の三河復帰を画策する者たちが少なくなかった。 その活動の中心となったのが、大久保一族の惣領、大久保新八郎忠俊であった。 そんな大久保忠俊を信定は強く警戒する 「もし広忠を岡崎城に入れるものが有るとすれば、それは他の誰でもない、大久保だ!」 そのように考え、信定は忠俊をわざわざ伊賀の八幡に呼び、八幡神の前で 『私は決して広忠を岡崎に戻さない』 と七枚起請を書かせた。この七枚起請とは、熊野牛王の誓紙7枚を継ぎ合わせて書いた起請文で、 誓紙の中でも最も厳重な形式のものである。 大久保忠俊は誓紙を書いて自宅に戻ると、弟の甚四郎忠員、弥三郎忠久を呼んで言った 「お前達もう聞いたか?信定というのは全く馬鹿げたことをやる奴だ。 あいつは私に伊賀の八幡の御前で「広忠を岡崎に戻さない」と七枚起請を書かせた。馬鹿者にもほどが有る!」 これを聞いた弟たち、笑って、 「我らは主君広忠様を迎え入れ家督を継いで頂くために、この岡崎にとどまりました。 起請を破れば死後罰を受けて地獄に堕ちるそうですが、起請の通りにすれば、こっちは主に背いたということで 七逆罪となります。 どっちみち罰を受けるのなら、主君を世に出し思い残すこと無く罰を受けましょうよ。 なあに、兄上一人の罰ではない。起請で信定が油断するのなら、兄弟三人地獄に堕ちるまで、百枚でも千枚でも 起請を書きましょう。そうしてなんとしても、広忠様を岡崎にお入りになって頂きましょう!」 百枚でも千枚でもと言ったが、信定はまだ不安で、その四、五日後本当に 『一度の起請では心もとないのでまた伊賀の八幡の前で起請を書け』 と言ってきたのだ。更にその四,五日後にも。忠俊は計3回、七枚起請を書かされるはめになった。 天文11年(1542)5月31日、大久保忠俊たちは松平広忠の岡崎帰還を実現させる。この時信定 「広忠を引き立てたのは他の者ではありえない!大久保の仕業であろう! 腹を斬らせておくべきだったのに、伊賀の八幡の御前で七枚起請を三度も書かせたので 油断をしてしまった!残念至極だ!!」 と、地団駄を踏んで悔しがったそうである。 しかし信定が私の野望のために神を使った罰が当たったのではないだろうか、そんな事も 思わせるお話である。
369 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 00:25:44 ID:X3ucd6hW
いい話でも悪い話でも議論に熱心な春厨uzeee 真偽だとか議論は隔離スレの方でやってろ あ、具体的にはID:EhAe9dTeの事な
370 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 00:37:11 ID:wyVqz0Gk
論破されたからって顔真っ赤にするなよw
371 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 00:41:21 ID:3m+GlTY2
>>368 神も家臣も信じられず何枚も書かせるからごらんの有り様だよwww
372 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 00:41:55 ID:c5Lg46wm
鬼武蔵VS謙信とか見てみたい気がするが 戦場になった地域が悲惨なことになりそうだw
373 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 01:09:35 ID:ft60cmvA
>>372 謙信がもう少し長生きしてればor織田家の武田攻略がもう少し早ければ……。
北信濃から上越にかけてそりゃもう大変なことに……。
374 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 01:23:40 ID:XrhlPvOn
信濃川流域が祭会場になったわけですね 残念
375 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 03:31:45 ID:ra6k1jj/
神仏に誓ったのであなたとの約束は守ります! なんてことになると思ってたのだろうか…
376 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 06:49:51 ID:7CKW+Ie3
377 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 09:57:38 ID:0NBEaVlm
おいちょっと待て、人の地元を勝手に祭会場にすんな 鬼武蔵の事だから、善光寺に火を放ちそうで怖いです
378 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 15:34:03 ID:6uYTAJY2
379 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 18:05:47 ID:n1ej1nKa
花粉症の武将って居なかったのかな?
380 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 18:21:13 ID:ESH/7cTI
花粉症自体が現代病だしなあ
381 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 18:31:22 ID:Wdwlp/vZ
382 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 18:48:56 ID:1wPmTQ3a
花粉が原因だと判ったのが現代の話ってだけでそれ以前にも花粉症はあっただろ 古代中国の文献にも春先になるとくしゃみをする奴が多くなるとか合った気がする
383 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 18:54:23 ID:gYTqKwTB
化学薬品や衛生に気を使いすぎの弊害で増えたんだっけ>花粉症やアレルギー 畜産業の近くとか、馬糞とかに近い環境で三歳までを過ごす環境だと急激に減るって聞いたな。
384 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 18:59:16 ID:TdFlc3pm
畜産業の近くだと日本脳炎のリスクが高まる罠
385 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 19:17:39 ID:ji9e/rtg
今時の日本脳炎のリスクってどれくらいのもんよ
386 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 19:47:30 ID:6uYTAJY2
単純に杉を植林しまくったからでしょ 日本での主な原因が杉アレルギーで、植林の影響で花粉の絶対量が増えたから
387 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 19:53:35 ID:XrhlPvOn
植杉が悪い
388 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 20:00:27 ID:97ONrmN6
389 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 20:07:51 ID:BFB22ALr
コンクリートで街を覆っちゃったしね
>>381 それは、比叡山の上にいると朝夕に冷えるから、という解釈のほうがいいんじゃないかと思う
390 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 20:14:30 ID:0P0l8Ya/
昔の鼻ぐすぐすや目ショボショボは季節性鼻炎の可能性が高いと思う 症状は花粉症と一緒で発症の原因が違うだけだから昔の文献から鼻炎か花粉症かの区別はつかない 子供の頃の環境で免疫システムが花粉をアレルゲンと誤認するスイッチが入るかどうかが決まるから、 寄生虫が当たり前で、畜産や農業に従事し微生物や細菌と触れまくりな昔の人間が花粉症になることはまずない もちろん、遺伝子上の不具合や機能不全で花粉症になる場合もないとは言えないけどね
391 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 20:18:49 ID:7nZ4dSnS
間伐しないと杉がなんか「俺ヤベェ」スイッチ入って フルスロットルで花粉を飛ばし出すって聞いたが つい100年前までは薪の有無って死活問題だろうし 里に近い山はきっちり手入れされてたんだろうなあ
392 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 20:21:26 ID:1wPmTQ3a
戦国時代末期から既に森林資源の枯渇が始まったらしいし 今と違ってはげ山ばっかだったみたいよ
393 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 20:30:41 ID:0P0l8Ya/
>>391 杉やその他の植物が頑張って花粉飛ばしても昔の人の体は花粉を体外排除しないからへっちゃら
(花粉が目や鼻に入って物理的にゴミゴミするってのはあるだろうけど)
394 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 21:50:03 ID:xfSIA8jW
>>392 江戸時代初めくらいに植林しまくったんだっけ
その頃既に杉を主に植えてたりしたんだろうか
395 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 21:55:45 ID:UxU4nkXu
>>394 植林は戦国期にもかなり行われていたらしい。ただ植える側から引っこ抜くような状況でも
あったらしいけど。
江戸期に植林がされまくったのは、戦国期に山を伐採しすぎて自然破壊を起こしまくった
反省もあったと思う。
396 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 21:58:16 ID:fOEEhB6Z
江戸時代は落ち葉や枯れ枝が多い落葉樹も好まれたんじゃなかった? もちろん材木の産地じゃ杉や檜を植えるんだろうけど。 戦国時代は刈り敷きとか言って草を肥料にするから その採草地を確保するために意図的に森林を伐採して立って話もある。 新田次郎は肥料用と耕牛の餌用で耕地の4倍程度は必要って言ってた。 根拠は知らんが元気象学者だし、全く的外れな推測じゃないと思う。
397 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 22:04:54 ID:UxU4nkXu
「軍需物資から見た戦国合戦」によると、戦国大名は森林を厳重に管理し 勝手な伐採を厳しく禁止していたようなので、採草のためもあっただろうけど、やはり大きいのは 築城や合戦に使うための伐採だろうね。
398 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 22:13:17 ID:ytky+Ipz
鬼武蔵が信濃入りしたあとに一部地域に「草木の伐採禁止」というお触れを出したそうな。
399 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 22:19:10 ID:wJL2XN5U
人間は?
400 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 22:21:19 ID:QCwosOMy
切り取り自由じゃ
401 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 22:22:37 ID:fOEEhB6Z
>>397 レスありがとう
とりあえずその本買ってくるわ。
402 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 23:14:46 ID:iA+HclS4
403 :
人間七七四年 :2010/03/17(水) 23:21:20 ID:UxU4nkXu
>>368 の関連で
三河において大久保新八郎忠俊が追放された主君忠広の期間に向けて活動していた頃のこと。
ある時忠俊が二人の弟、甚四郎忠員、弥三郎忠久を呼んで言った
「最近は我々にとって状況も良くなってきたが、決して油断はしてはならんぞ?
特に弥三郎は昼間話したことを残らず寝言で言う様な人間だから、そういう事も心せよ。」
弥三郎、寝言癖があったらしい
「その寝言も我々が聞く分にはいいが、女房に聞かれると大変だ。
女房と言うのは夫のことを悪く言うものではないが、寝言は誰にでも面白いことであるから
大事のことだとは知らないで人に語ったりもするであろう。
そうでないにしてもこういう事は女房にはきかせられないものだ。恐ろしいことだと思い
顔色を変えてぐっとこらえて、返って人に不審に思われたりする。
この事、もししそこなえば妻子一族まで残らず死ぬこととなる。一生に一度の大事だ、心せよ。」
この言葉に甚四郎が
「まあそれはそうとして、弥三郎の寝言ってほんとに面白いよね。」
「こら甚兄、お主までそのような!」
「おいおい、甚四郎も弥三郎も真面目にしろ!まったく、笑い事じゃないんだぞ?」
などと言いながら、三人してどっと笑った。
翌朝
寝言を指摘された弥三郎が、変なことになっていた。
弥三郎「フガフガフガ」
新八郎「ど、どうしたのだ一体!?」
弥三郎「フガフガガ」
甚四郎「ふむ…なになに?昨日寝言に注意しろと言われたので…、寝言を言わないよう顎をくくりつけようと、
帯を顎の下に通し頭の上できつく結んで寝た…」
弥三郎「フガガ」
甚四郎「それで朝起きてみると、顎がきかなくなっていた!?」
弥三郎「フガ」
弥三郎・甚四郎「…」
ぷ
早朝の大久保家、にわかの大笑につつまれた。松平忠広の岡崎帰還が決行されるのは、この三日後のことであった。
そして関係ないがこんなどうでもいいことをわざわざ記録した大久保彦左衛門の文才は本物だと思った。
404 :
人間七七四年 :2010/03/18(木) 07:50:36 ID:HivtgOkh
彼にはエッセイストの才能があるなw
405 :
人間七七四年 :2010/03/18(木) 08:06:36 ID:QTTdS4zE
亭主が帯で顎縛って寝てる時点で嫁さんのネタにされるだろw
406 :
人間七七四年 :2010/03/18(木) 09:49:08 ID:JIBDs9Ur
人づての話だから根拠は分かんないんだけど 鬼武蔵が木曾の山を保護する>徳川が天領にする>明治政府がそのまま保護する んで現代まで政府が保護してて、仏閣なんかの補修に使われる山ってのがあるらしい そこから出る木って、めちゃめちゃデカくて太くかった、値段もお高いらしい ソースは木曾で木工してるうちのじい様
407 :
人間七七四年 :2010/03/18(木) 11:50:07 ID:9du6LPf4
それを国有林という。もうあそこら辺にはデカくて太い木なんてないだろ。
408 :
人間七七四年 :2010/03/18(木) 12:48:33 ID:pp9yoI1Y
>>405 「うちの旦那ったら、何を考えてんだか紐で顎縛って寝てんですよw」
ってのと、
「うちの旦那ったら、寝言でご主君の帰参も間近って言ってるんですよ。ご主君はきちんといらっしゃるのにねぇw」
だったら、前者は単なる笑い話だけど、後者は機密情報漏洩だから、ヤバさが格段に違う。
409 :
人間七七四年 :2010/03/18(木) 13:32:19 ID:uM/IXCNe
宮城の白石城を復元する時に、 完全木造で再現するってなったけど、 もうそれに使えるだけの巨木がなかなかなくて、 日本各地に手配してなんとかしたって聞いたな。 柱は吉野、梁は鳥取、床とか土台は青森・・・みたいな
410 :
人間七七四年 :2010/03/18(木) 14:06:22 ID:U2wwgJ9J
>>409 姉歯か小嶋に頼めばプラスチックで木造のそっくりさんをつくってくれるんじゃないか?
411 :
人間七七四年 :2010/03/18(木) 14:18:04 ID:Yx38dqlM
日本のお菓子職人に和菓子の城作ってもらおうぜ!
412 :
人間七七四年 :2010/03/18(木) 15:33:57 ID:b/fTbQUJ
413 :
人間七七四年 :2010/03/18(木) 18:15:15 ID:I8D1tVpr
お菓子大好きとか、おやつを欠かさない武将はいたんだろうか? ヒゲむさいおっさんにそんな逸話があったら格好悪いよね。
414 :
人間七七四年 :2010/03/18(木) 18:31:38 ID:CTxxQnoi
信長がそうだろね あま〜いお菓子大好きッ子 果物も大好き
415 :
人間七七四年 :2010/03/18(木) 18:38:49 ID:g6cxpjUm
416 :
人間七七四年 :2010/03/18(木) 19:19:43 ID:YUN1OBfO
417 :
人間七七四年 :2010/03/18(木) 19:23:22 ID:BK39uhpr
>>414 宣教師に金平糖せがんでたんだっけw
あと干し柿も大好きだったような。
418 :
人間七七四年 :2010/03/18(木) 19:29:29 ID:CTxxQnoi
最近だと信長は下戸だったとも言われてるな 酒飲めなくて、お菓子ばっかり喰ってたとか
419 :
人間七七四年 :2010/03/18(木) 20:04:05 ID:3hvMDSot
420 :
人間七七四年 :2010/03/18(木) 20:58:28 ID:5nvFSW5i
どんなえらい王子でも、昔はとても食べられないアイスクリーム なんて歌あるけど 当時の人にとっちゃ西洋のお菓子なんて夢のような食べ物だったんだろうな
421 :
人間七七四年 :2010/03/18(木) 21:07:30 ID:pO25p/sS
お菓子好きが講じて犬山にお菓子の城を建てたぐらいだから相当なもんだろう>信長
422 :
人間七七四年 :2010/03/18(木) 21:31:13 ID:JIBDs9Ur
そもそも戦後まで砂糖って結構な貴重品じゃなかったっけ? 今でもうちのバーサマは砂糖菓子(葬式に出てくるようなアレ)を有難がるしなぁ 信長にねるねるねるね献上したら、喜んでくれるだろうか・・・
423 :
人間七七四年 :2010/03/18(木) 21:36:20 ID:BK39uhpr
>>421 キューピットが矢を射るお城ですね、分かります。
424 :
人間七七四年 :2010/03/18(木) 22:14:07 ID:pVrMnZ9t
荒木に謁見したときも饅頭が用意してあったよな 絶対自分用だろw
425 :
人間七七四年 :2010/03/19(金) 00:13:58 ID:Prhpj0nh
「さてさて雑兵の皆さん?私たち雑兵が戦場に到着したとき、先ず最初にやっておくべきものは何でしょうか? 戦場の確認?そんなものは物見の将校のやることです。野戦陣地の設営?使役で連れてこられた連中が なんのためにいると思っているのですか? われわれ雑兵が先ず最初にやること、それはもちろん、戦場周辺の村からの、家財の掠奪です! いちはやく掠奪に向かわないと、価値のある物は他の連中にとられてしまいますものネ!当然です。 しかしちょっと待て下さい。いくら早く村についてもそれだけじゃ掠奪は出来ません。 百姓達もさるもの。あいつら近くで合戦があると知ると、財産を土の中に埋めて隠すんです。 この事をちゃんと頭に入れておかないと、せっかく略奪しに行ったのに手ぶらで帰陣、なんて悲しい思いを することになっちゃいますよ! でも埋めた物なんてどうすれば見つかるんだろう…?雑兵初心者のキミはそんな心配してるんじゃないかな? 大丈夫!百姓どもの隠し方には、ある一定のパターンが有るんだ! 百姓たちは米屋衣類を隠す場合は、だいたい家の中の、床下や縁の下に埋めている。 だから掠奪に行ったときは、先ず最初にそこをよく探すんだ! ところがたまに小賢しいのがいて、家の外に隠す奴がいる。そういう連中は鍋や釜に家財を詰め込んで 穴を掘って埋めるんだ。これは非常に見つけにくい。が、それにも方法がある! 冬の合戦の時、略奪したい村に朝早く行ってみよう!土をよくよく観察すると、掘ったばかりの土は凍らないので、 そこだけ霜が降りないんだ。そう、そこに家財が隠されている! だけど埋めてから日数がたった場所の土は、他と同じように凍ってしまうのでこの手は通用しない。気をつけて! こういったポイントに注意して、キミも雑兵として今日から掠奪を楽しもう!戦場でどれだけ儲けられるかは、君次第だ!」 『雑兵物語』より、雑兵のための掠奪ワンポイント講座でした。
426 :
人間七七四年 :2010/03/19(金) 08:13:07 ID:C7n2IaLP
駿府城に肉人が現れてそれを追っ払ったあと識者に相談したら、 「勿体無い。捕まえて肉を喰らわば武勇に恵まれたものを。」 って言われたらしいけど、肉人って何だったんだろう? 初めて食った人も大概だよな。w
427 :
人間七七四年 :2010/03/19(金) 09:06:18 ID:gT06InaB
428 :
人間七七四年 :2010/03/19(金) 09:20:51 ID:wooWFCgI
429 :
人間七七四年 :2010/03/19(金) 09:49:30 ID:j4vMRSV2
>>426 肉人は中国の白沢って妖怪が色々な妖怪について教えてくれたのを書物にした
妖怪辞典『白沢図』ってのに載ってる「封」という妖怪のことで
でっかい肉の塊に手足がついたような容姿で腐った肉の臭いをまき散らしながら
夜中に徘徊している妖怪だ
その肉を食べたものはあらゆる才能に恵まれるとか
430 :
人間七七四年 :2010/03/19(金) 10:48:46 ID:o5MRlCOo
>>425 土佐兵「ふむふむ。成る程。じゃ大将、行きやしょう!」
431 :
人間七七四年 :2010/03/19(金) 12:53:56 ID:GHk7/0Bw
>>425 うちの田舎の方じゃ「餓死囲い」といって天井裏に救荒食を溜め込んでたな
足下だけ探してたらカラ手で帰ることになってたかも
432 :
人間七七四年 :2010/03/19(金) 18:13:26 ID:YuIwbM3d
433 :
人間七七四年 :2010/03/19(金) 20:37:03 ID:beiX7B2R
434 :
人間七七四年 :2010/03/19(金) 20:40:40 ID:YuIwbM3d
435 :
人間七七四年 :2010/03/19(金) 22:07:46 ID:Y12Jd3yj
『信玄焼き』 「侵し掠めること火の如く」 1569年七月、武田信玄は秩父に侵攻するが、 諏訪定勝、多比羅将監や秩父の国人の活躍により失敗に終わる。 翌年1570年二月、信玄は再度、秩父へ侵攻した。 秩父勢も死に物狂いで防戦をするのだが、武田勢に打ち敗れてしまう。 この侵攻により秩父神社、椋神社などの多くの神社仏閣が焼き払われ 村、人も兵火の犠牲になったという。 この乱行に秩父の民衆は恐怖を抱き、以来「信玄焼き」として今にも言い継がれている。 因みに甲府エクランにあるお好み焼きチェーン店『ぼてぢゅう』では 「信玄焼き」というメニューがある。
436 :
人間七七四年 :2010/03/19(金) 22:55:20 ID:u6tO+rkI
437 :
人間七七四年 :2010/03/20(土) 08:31:53 ID:X3Vgm+R9
438 :
人間七七四年 :2010/03/20(土) 11:23:32 ID:j/90nYFH
>>435 >「信玄焼き」というメニューがある
うわあ〜、趣味が悪いという話だな。
439 :
人間七七四年 :2010/03/20(土) 11:40:10 ID:pWPGXn3Z
いやそれ、お好み焼き店の人はその逸話知っていて メニューの名前にしたんじゃないだろ まあ信玄なんて名前付ける自体が悪趣味だっていうことだろうけど
440 :
人間七七四年 :2010/03/20(土) 12:02:03 ID:WKVhMLME
長可刺し 忠興ソテー 信玄焼き 政宗鍋 直家茶 こんなメニューで行くか
441 :
人間七七四年 :2010/03/20(土) 12:38:59 ID:QBUDVwkI
長可刺し→蛇刺し 忠興ソテー→庭師のソテー 信玄焼き→いもむし焼き 政宗鍋→ねずみ入り 直家茶→毒入り こうですね、分かります。
442 :
人間七七四年 :2010/03/20(土) 13:16:09 ID:RlqNJqu2
ゲテモノ料理勢ぞろい! 食いたくねえwwww
443 :
人間七七四年 :2010/03/20(土) 13:16:38 ID:OxAfYk6E
最近、このスレを覗くようになってから、旅行先で寺や神社の縁起を見るのが楽しみ になってる。意外な武将の名前が出てきたりして結構面白いんだよね。 元々乗り鉄だから18切符の季節はあちこち放浪して小ネタを仕入れてます(笑) それでは小ネタ1発目。 現在の愛知県扶桑町。 かつて戦乱の時代、一人の僧兵がこの辺りの村に迷い込んだ。 まだ若い僧兵は、戦によって頭に深い傷を負い、瀕死の様子で一歩も動けなくなる。 村の者たちは彼を見つけ、敵味方も判らぬ流れ者であるにも係わらず、若者を匿い、 手厚い看護をする。 しかしその看護のかいもなく、若い僧兵は命を落とすのだが、臨終の間際、最後の力 を振り絞って村人達に伝えた。 「残念ながら私は頭の傷にて倒れ、貴方方の厚意にも係わらず今、死に至ります。し かし私の死して後、この村で頭の傷が元で死ぬ者が居らぬよう、私が全霊の力でお守 りしましょうぞ!」 村人達は彼の遺体を葬った場所に祠を建てて「首塚」と呼んだ。 この首塚に詣でると、目、鼻、耳等、首から上の怪我や病気がたちどころに治癒する と伝えられる。 現在の葉森神社の首塚に伝わる縁起である。 しかし何だ、葉森神社の看板に「諸病平癒」「交通安全」とあるのは良いとしよう。 頭の怪我は交通事故によるものが多いという事で交通安全が加わったらしいし。 ……だがな「学業成就」って何!? 「頭が悪いの治るよっ!」ってコト!? ヤダよ、そんなぶっちゃけ神社!!
444 :
人間七七四年 :2010/03/20(土) 15:05:05 ID:OxnWj6Uo
445 :
人間七七四年 :2010/03/20(土) 15:38:39 ID:VOCzsFLY
扶桑町の有名な建造物・・・ジャスコ扶桑店
446 :
人間七七四年 :2010/03/20(土) 17:54:43 ID:X3Vgm+R9
>445
そこに何かの怪異が……ゴクリ
>>443 頭が治るとは、すごいね現世利益を重んじた戦国時代の人々もびっくりだねw
447 :
人間七七四年 :2010/03/20(土) 18:44:52 ID:GopwGXGs
右衛門塚 永禄十一年(1568)、今川氏真は武田信玄によって駿府を追われた。 今川家譜代の重臣たちもことごとく寝返り、氏真が向かう先は、今もまだ氏真を支える姿勢を明確にしている 朝比奈泰朝が守る掛川城しかなかった。 掛川城に氏真が入った。これを聞いて急ぎ掛川に向かったのが、氏真の寵臣、三浦右衛門佐義鎮である。 義鎮は今川義元の時に見出され、氏真の代になって重用された一代取り立ての臣であった。 その恩故であろうか、彼は最後まで氏真と運命を共にしようと一族郎党70人余りを引き連れ掛川城へとはせ参じた。 ところが、である 掛川城主朝比奈泰朝は、義鎮の入城を拒否した。 朝比奈泰朝と義鎮はかねてから仲が悪く、駿府においてであっても、面をそむけて擦れ違うほどであったと言う。 それだけではなく譜代重臣の家柄である泰朝としては、義鎮のような取り立ての氏真側近が今川家を誤らせ 今のような事態に陥れた、と言う気持ちが強かったのであろう。 主君氏真が間近にいながらどうにも出来ない義鎮は、肩を落とし仕方なく、妻菊鶴の兄で今川家臣、小笠原信興に仕える 四ノ宮右近の元に向かった。 とりあえず小笠原家の元に身を落ち着けよう、と言うことであった。が、 四ノ宮右近は暖かく義鎮を迎えたと言う。ところがその主小笠原信興は義鎮がいることを知るや、すぐに追っ手を差し向けた。 信興はこの時既に、徳川家康に通じていたのだ。 「もはやこれまで」 義鎮は追っ手が迫っていることを知ると、妻とともに自害して果てた。 彼の連れてきた一族郎党70余人も、あとを追って皆ことごとく自害したそうだ。 三浦義鎮とその一党七十余人の遺骸は付近の村人によって沓掛原に運ばれ、そこに埋葬された。 その場所は今も、右衛門塚と呼ばれる。 最末期の今川家の政務を一手に担ったといわれ、奸臣とも呼ばれた三浦義鎮の、その最後である。
448 :
人間七七四年 :2010/03/20(土) 19:28:57 ID:UVuR1iCX
>>447 可哀そうな最期だな
氏真様もちょっと口添えしとけばよかったのに…
逆効果かもしれないが
449 :
人間七七四年 :2010/03/20(土) 19:35:25 ID:Yliw6vLD
氏真さん何してたんだろ? リフティング練習?
450 :
人間七七四年 :2010/03/20(土) 19:46:11 ID:lCGJmAmu
朝鮮まで行って延々とリフティングして人じゃあるまいし
451 :
人間七七四年 :2010/03/20(土) 19:49:03 ID:p7bC8CVb
この人、武田の長坂長閑斎と被るんだよね。 奸臣扱いされたり最後まで忠節尽くしたのにそのことを忘れられたりと。
452 :
人間七七四年 :2010/03/20(土) 19:54:53 ID:iyzWtRb+
忠誠尽くして死ぬのも奸臣の務めだろ
453 :
人間七七四年 :2010/03/20(土) 22:04:43 ID:YN3BMIOM
久武親直「そうだよね〜」
454 :
人間七七四年 :2010/03/20(土) 22:12:26 ID:GopwGXGs
ルイス・フロイス「日本史」より 革島ジョアンと言うキリシタンの武士がいた。 彼は宗教について攻撃的で、いつも他の宗教、宗派の欺瞞を言い、争っていたのだと言う。 さて、このジョアンがある時同僚たちと共に、異教徒の崇敬を集める「西宮」という寺院に参拝した。 これはおそらく「西宮えびす」として有名な、西宮神社のことであろう。 参拝者で賑わう神社に入ると、ジョアンが普段から他宗教に対する敵愾心をあらわにしていたせいであろう、 同僚たちが彼のことをからかい始めた、 「革島、お主はキリスト教と言う邪悪な信仰に帰依して、神に対していつも罰当たりな言動をしているから、 こういう場所に来ればその罰を受けずにはいられないだろう。」 するとジョアン、たちまち怒り出し 「死人や、木石に過ぎない彫像のどこが恐ろしいものか!悪魔を表わした彫像を崇拝することが いかに馬鹿げたものか、今ここでわしが教えてやる!わしの崇敬の仕方を見るが良い!」 そう言うとその神社の「偶像」の頭まで上り、その上から小便をした。 この行為は参拝の人々の憤激を買ったと言う。 今でもこんなことしたら、その場で袋叩きにあっても文句は言えないだろう。しかし、いくら信仰と言っても その信仰心をこういう攻撃的で下品な形で表す人を讃えているあたりに、フロイスや当時の(あくまでこの当時の、である) キリスト教の排他性、排撃姓を良く現している、と言える逸話である。
455 :
人間七七四年 :2010/03/20(土) 23:03:33 ID:nQHLRS9H
彫像がただの木石にすぎないっていうのはまあ事実だけどさ。 極端に走ると嫌われるよなあ。
456 :
人間七七四年 :2010/03/20(土) 23:10:26 ID:7SaI/Wgi
タリバンと同じ理屈だよ…
457 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 00:32:01 ID:kECtVLfd
458 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 00:33:38 ID:DDrp+2ps
459 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 02:47:46 ID:OiQSv9rw
馬鹿にされたままじゃ帰れない武士の意地もあったのかもしれんが こういう挑発にすぐ乗るような奴は長生きできないぞ
460 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 03:23:38 ID:wJumneez
主君(勝頼)に忠誠を尽したことで主家(武田家)が潰れたとなると 奸臣の謗りは免れないな>長坂さん この人の場合甲陽軍鑑(笑)で色々書かれたせいもあるけど
461 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 05:09:47 ID:ZL5cEUGi
>>452 越後の毘沙門天様(おにゃのこ)の前で同じことをやってこそ漢
462 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 11:47:34 ID:dIZgSooI
偶像崇拝はダメという事はジョアンは正教徒だったんだな。
463 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 12:33:24 ID:3Q5+dCrb
>>460 その定義だと、山縣とか馬場とか長篠の戦死組も奸臣になるのかね
464 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 13:06:52 ID:DSZ88rLC
その理屈でいくと戦場で名誉の戦死をしたすべての武将は奸臣なのかね?
465 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 13:24:35 ID:V1GNGC5W
本人主観では忠誠尽くしてるのに結果として奸臣扱いってタイプは視野狭くて余計なことしたとかそういう感じじゃね。
466 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 13:40:30 ID:bgJ/Xen8
生き残ったやつに嫌われてると奸臣にされたりもする
467 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 13:42:48 ID:40GRWWg0
この時代よりちょっと前に、ヨーロッパで宗教改革が起き、プロテスタントが 興こっている。 新教からの腐敗している、堕落している、という非難に対し、カトリック内部 からも自浄作用というか、改革運動が起こる。 この改革運動、腐敗や堕落を一掃する為のモノだから、妙に潔癖症で過激な教 団も多かったらしい。 ……で、そーゆー過激派の中でも一番有名なのがイエズス会。(^^: タリバンに例えた方がいたが、「原理主義過激派」という点ではまさしくイエ ズス会はタリバンと同じ。 「この時代のキリスト教」というイメージだけではなく「日本に来たのは原理 主義グループ」という視点を持っておいた方がいいかも。
468 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 13:48:02 ID:bcAe7+ub
>>462 正教徒は「イコン禁止だとふざけんなコラ」と喧嘩吹っかけた側じゃ
なかったっけ
ほんとにモノの崇拝が良くないと思ってたんなら、日本人がマリア像を
踏めずに殺されまくってる時に法難ktkrとか陶酔してないで
「いや別に踏んでもいいんだぜお前等、それ只の板」と言ってやれと
469 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 13:48:27 ID:Ygl7hMsV
>>466 基本そこっぽいなあ。 あと影響力のある小説家に嫌われたとかw
470 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 14:04:52 ID:w89dRGg8
私心なく仕え、主の信頼を保ち、視野を広く持てば悪評などなんということはない とサドさんが言ってた
471 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 14:18:20 ID:DSZ88rLC
三浦義鎮が滅亡したのは朝比奈に奸臣だと嫌わたのが原因か まあ氏真は忠臣だか奸臣だかの三浦義鎮を打ち捨てて逃げ回ってるからしかたねぇ罠
472 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 14:21:44 ID:z1G23UiB
>>470 久秀「さすが俺の見込んだ男、いいこと言うな。」
473 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 16:07:37 ID:CulWMbHH
イギリスの使節ジョン=セーリスは徳川家康に国王ジェームズの新書を 渡した後、家康の勧めもあって江戸に行く事にした。 その道中でセーリス一行は鎌倉に立ち寄り、鎌倉大仏を目撃している。 「…それは人間の姿をして、素晴らしく大きな腕に均整な身体だった。 …数人が像の中に入って飛び跳ねたり、大声を出していた。とてもうるさかった。 …その像には旅客がつけたたくさんの文字や印があった。私の従者はそれを真似て 像に自分の名を刻んだ。」 昔からテンション上がってやらかす観光客がいたという悪い話でした。
474 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 18:01:22 ID:BI837eX/
>>473 ヨーロッパで一番嫌われる観光客がイギリス人、と言うのを思い出したw
475 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 19:02:03 ID:8A45T8Aa
何食っても「ウマイ!」って言ってくれそうだけどなw
476 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 19:05:47 ID:Osfi1qBx
ピラミッドの中が英語の落書きだらけだったのをはじめて見た時はショックだったなぁ
477 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 20:07:32 ID:mdPf0mB7
落書きどころか根こそぎ大英博物館に持ってく連中だぞ
478 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 20:15:00 ID:J2A2JdLm
アンコールワットが発見された時、遺跡の中から 加藤清正の家臣の落書きが発見されて、嘗て日本人が来ていたことが判明した。
479 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 20:23:44 ID:nJ4uenPj
昔の日本人が寺院などに名前を書いてくるのは 遠くから参拝に来こなければならない人が、 自分の代わりに神様の側に名前を置いていく意味があり 後に千社札に発展した当時の風習なので、ただの落書きとは違う
480 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 22:18:09 ID:5RVd4+cT
工場長は、秀吉がいなかったら、天下を取るのは誰だという雑談で、多くの人が家康だろうといっていたとき、 「あんなけちでは天下は取れん。天下を取るのはこいつ(同席していた前田利長)の親父殿よ。」 といったという。有名な逸話である。 だが、過去スレを見ると、家康は確かに金にせこく、日常生活での倹約話はやまほどあるが、 兵雇うのも倹約して金をため、肝心のときに兵がいなくて、「銭もって戦争に行け」とカミさんに城を追い出されるキング・オブ守銭奴の利家ほどひどくはない。 工場長は、家康のけちぶりは知っていても、同僚だった利家のけちぶりは知らなかったのであろうか。 有名作家にいろいろ引用されるおかげで、家康にとって悪い話。
481 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 22:24:37 ID:UkNQVdEE
結果的にあらゆる意味で的外れだから氏郷の悪い話かもね
482 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 22:29:58 ID:nzvuIBNS
家康をかばったいい話なんじゃないか? 衆議一決で家康になったら、さすがに不穏すぎるだろ
483 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 22:30:14 ID:BI837eX/
つーか友達の利長の面子を考えて持ち上げた話だからねえ。あまり真面目に語った物じゃ無いわなw
484 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 22:32:40 ID:tk6F0TL3
この話のせいで、某ゲームで関ヶ原やってると西軍にレオンさんがいるのがすごく違和感 関ヶ原まで生きてても、東軍だったと思うけどねえ
485 :
月孔雀 :2010/03/21(日) 22:59:57 ID:UpDm/lQk
関が原は、いいからさー、大阪の陣の話しようよ。
486 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 23:07:05 ID:wZWwfrD+
レオンって誰ぞね?
487 :
人間七七四年 :2010/03/21(日) 23:08:45 ID:xXwwoaPI
寺泉憲だなw
488 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 00:19:09 ID:dB+DUQm3
これはきっと悪い話
> 「北条イラストコンテスト」 優秀作品読者投票
>
> 神奈川新聞社では、120周年という節目の年に「戦国時代は北条氏に始まり北条氏に終わる」をテーマに、
> 「北条イラストコンテスト」を開催、北条氏一族および北条氏一族にまつわる人物の中から好きな武将を
> 一人選んで頂き、その武将のイラストを募集致しました。たくさんのご応募ありがとうございました。
>
> 厳選な審査の結果、ここに優秀作品を掲載するとともに、読者による人気投票を実施致します。
> 掲載されているイラストの中から、一番優秀だと思われる作品に対し、下記の応募フォームから
> 投票して下さい。
https://www.kanaloco.jp/contact/entry/ho_jo20100316.html あれ…?早雲と氏康、…だけ?
氏綱公…
489 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 00:53:14 ID:tTYjgaQD
まぁ人気投票で票を取れるとも思えないしw ソレは兎も角、氏綱は外向的失政が多い、それを挽回したのは氏康だって意見も多いよな
490 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 01:28:14 ID:9+qTVOY+
>>489 実質藩祖なのに毎度スルーされるどこぞの兄さんに比べたら…
491 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 06:17:05 ID:J+of4riC
>>489 せっかく鶴岡八幡宮を再建したのに……(´・ω・`)
492 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 08:36:08 ID:Cda6Fisu
全国的な知名度で氏綱が早雲や氏康に劣るのは分からんでもないが、 地元での氏綱の知名度ってどうなんだろう。
493 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 08:54:51 ID:UjefJ/cf
そもそも北条自体がマイナー
494 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 09:01:45 ID:OszQRzQ6
名前自体パクリだもんな
495 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 09:15:36 ID:tTYjgaQD
パクリつうか仮冒つうか
496 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 09:37:06 ID:V7sqgGgg
>>484 氏郷が長生きしていたら、三成ー大谷ー上杉ー蒲生ー佐竹で、徳川の脅威になったかも知れない
497 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 10:01:54 ID:s+T15hyj
でも大谷さんて元々親徳川じゃね?
498 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 10:58:14 ID:zlUT0HlY
国替えされてなかったら、景勝が領地経営のために帰る必要性がなくなるから、会津征伐が発生しなくならない?
499 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 11:54:07 ID:mSLHOZhP
>>496 宇喜多騒動のあたりから関係が悪化したというけどね。それを言ったら
上杉とかだって、決して徳川と終始険悪というような関係じゃなかったわけだし、
なんとも言えないな。
500 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 12:41:09 ID:5/qN0t0J
「市井雑談集」下巻より あるとき、宇喜多秀家の娘に狐が憑いた。秀家はあるゆる手をつくした が、娘からは狐はまったく落ちず、秀家もまた心配のあまり出仕すらま まならない有様であった。 それを聞いた我らがラスボス、秀家のことを案じ、すぐさま彼の娘を城 に召し出した。 召しだされた娘と対面したラスボス。ただ一言、狐に命じた。 「すみやかに、退くべし」 この一言のもとたちまち狐は退散し、娘は全快した。翌日秀家は登城し 感謝と御礼の言葉を奉告した。ラスボスは笑顔で頷き微笑したという。 さて、秀家があらゆる手を尽くしても落ちなかったこの狐。何故ラスボ スの一言のみで退散したのか? この狐は退散するとき、泣きながらこう口走ったそうだ。 「我はたとえ車裂きの罪にあったとしても退くつもりはなかった。しかし 太閤の命に背けば、西国四国の全ての狐が狩り上げられてしまうでであろ う。我のせいで多くの狐の命を滅ぼすわけにはいかぬ」 秀家の娘の狐を祓ってあげたいい話とも思ったが、狐にまでも恐怖されて いたラスボスの悪い話としてここに投下。 …にしてもこの狐、車裂きにされても娘から離れるつもりはなかったって、 いったいどんな恨みがあったのだろうか?
501 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 12:57:49 ID:aBY+tRqI
前田利家の娘の狐憑きを治したり、浅野長政に狐憑き呼ばわりされたり 秀吉と狐も妙に縁があるな。
502 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 13:03:19 ID:GMKaSv7c
ご無体を・・・・。 秀家の娘て、ラスボスは炉里なのか? 前田の娘はよく北台所は承知したなと 思うけどお松の娘?
503 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 13:05:30 ID:yiExpJrQ
>>492 うちの親父(67歳)は前北条と後北条との区別がつかなかった。
鎌倉幕府が潰れたのに、なんで秀吉攻めてきたの?とか
504 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 13:56:16 ID:b3XlViDi
慶長18年春、江戸に急ぐ女駕籠があった。徳川家康の次女、督姫である。 1月に夫、池田輝政が急死し、その相続について幕府から問い合わせがあったためである。 夫、輝政には11人の男子がいたが、そのうち6人が正室との間にできた子だった。そして、そのうち長男の利隆だけが督姫との子ではなかったのである。 一方、輝政は52万石の所領があったが、もともとは吉田15万石であったところを、督姫の婿ということもあって大幅加増された背景もあり、相続には微妙な問題があった。 さらに、当時は長男が相続するという制度も確立しておらず、細川家、最上家、仙石家などでは、年長の子が廃嫡され、徳川家と縁の深い弟が跡取りとなっている。 しかしながら、督姫を交えて協議した結果、幕府は52万石のうちの42万石と家督を利隆に譲るという決定を下す。(残り10万石は督姫の子である次男忠継に譲られた。) この決定には、督姫から伝えられた輝政の遺言の影響が大きかったといわれる。 自分の子への愛よりも、夫の遺言を尊重した、督姫のいい話・・・・・・・・・・・・で終わればスレ違いなのだが、この話には後日談がある。 その後、池田家は2家(利隆の家系と督姫の子の家系)に分かれたが、督姫の子の家系のほうが官位が上であった。これに不満を持った利隆の子孫は、毒饅頭事件 (督姫は実子・忠継を世継ぎにすべく、継子・利隆に毒を仕込んだ饅頭を馳走して毒殺を企てたが、利隆は女中の密告によって計画を把握しており、饅頭を食わなかった。 ところが、母の計画を知った忠継が兄をかばって毒饅頭を食べて死んでしまい、さらに悲観した督姫も毒をあおって後追い自殺した、というお話)をでっちあげ、督姫を悪女に仕立て上げてしまう。 実子を跡継ぎにしたいなら、どうして相続のときに訴えなかったとか、 後追い自殺も何も督姫のほうが半月以上早く忠継より死んでるんですがとか、 毒饅頭事件のとき、すでに利隆には将軍へのお目見えも済ませた跡取り長男、光政がいたので、忠継を一足飛びに世継ぎにはできないとか、 いろいろ突っ込みどころ満載のお話であるが、話として面白いので、今日、あちこちで実話として伝わっている。 せっかく相続に尽力した継子の子孫から悪女のレッテルを貼られてしまう、督姫の悪い話
505 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 13:57:08 ID:2CkkCfZw
506 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 14:35:26 ID:WP0Qj2FX
>>500 恨みで憑いたのかな
娘さんに惚れちゃったというパターンとか
507 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 16:59:54 ID:4i2Ev0xf
>>500 残った娘さんはラスボスがおいしくいただきました、と続くのかと思ったわ。
508 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 18:30:04 ID:9Uh/C2VN
さすがに息子のように可愛がってる秀家の娘をおいしくいただくのは秀吉さんでもちょっとw
509 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 18:32:47 ID:xelb4T/j
510 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 19:49:50 ID:Xm0zIFCZ
秀吉存命中の秀家の娘なんていくつだよw MAXでも11歳ぐらいだぞ
512 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 20:23:04 ID:okBtoZ/j
>>510 ウィキペディアで調べてみたら
女子版元服「裳着」は概ね12-16歳(但し戦国時代では政略結婚に備えて8〜10歳)
つまり十分範囲内
513 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 20:38:52 ID:QdnZGGsM
そもそも秀家の嫁(豪姫)自身が秀吉が実の娘のように育てた姫なわけで いくらなんでも孫みたいなもんだろ
514 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 21:24:30 ID:dkjsbk8a
投下時(基本2カ月おき)以外自スレにすら顔出さない真田作者が、こんなとこに自分のネタ投下するわけねえべさ。 普通に考えて真田スレの読者だろ。
515 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 22:26:17 ID:dB+DUQm3
信州真田家では、御未頭と言う役職の者が殿様の食べる米を研ぐことになっていたのだが、 この役職、非常に人気があった。しかしいくら殿のためのものとは言え雑務であるのに、何故だろうか? それにはこういう理由がある。米を研ぐとき先ず、水の入った桶の中に米を入れる。ここまでは別に 普通である。 これをかき混ぜて米を研ぐが、御未頭はこの時桶の中を盛大にかき回すのだ。 激しくかき回されれば当然中の米も多く飛び散る。これにより桶に入れた一升の米が 五合ほどになったと言う。半分こぼしたのである 桶に残った米は殿様のために炊かれたが、こぼれた米はすべて御未頭のものとなった。 これが毎日三度三度あるので、御未頭の得る米は相当の量になったのだと言う。 仮に一回五合、1日で1升半を得て、これが毎日あったと計算すると、1年で約5.5石である。 優に下級武士の年棒に匹敵する。 ただ、かき混ぜながら米をこぼすのもテクニックがあり、慣れないうちはあまり米を得ることが 出来なかったりもしたそうだ。そんな時に真田の殿様は「おや、今日は飯の量が多いな」などと 思ったりしたのだろうか? そんな、真田家のある役職にまつわる役得のお話。
516 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 22:29:02 ID:Y671EHOe
貧乏はつらいぬ
517 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 22:31:11 ID:QEnYl/yb
交通費を着服してるみたいだ。
518 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 22:50:56 ID:tTYjgaQD
なんだろうね 元々無能だけどお気に入りとか、腕は立つけど政務はからっきしって家臣の為の役職なのかもね
519 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 22:54:06 ID:JQkWTiyR
米研ぎっていったら台所番でも下の役目だろうし、相当安く使われてた人じゃないのかな せめてもの役得だったんじゃないかね
520 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 22:59:24 ID:HrK+CXXz
そんな茶番な事するぐらいなら、 初めから半分を着服しといて残り半分は丁寧にといだほうがいいんじゃねw
521 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 23:01:30 ID:okBtoZ/j
何時の頃か分からんが鬼嫁がそれを許すもんかねぇ。。。
522 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 23:14:42 ID:yj5Y6p1s
台所なら嫁の領分なんじゃねえの むしろ積極的に許した(目こぼしした)とか
523 :
人間七七四年 :2010/03/22(月) 23:59:24 ID:Y41OAUEK
>>515 これが後の帝国陸軍に引き継がれて
炊事軍曹三年やれば立派な蔵が建つ
と言われるようになるのであった(ヾノ・ω・`)ナイナイ
524 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 00:32:27 ID:zfNKDty9
でも江戸期ってこういう役得が凄い役職ってのが結構あるよな 今で言う天下りみたいなもんがないから現職中に甘い汁を吸うっていう
525 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 00:39:14 ID:1iMOGhy9
そりゃ経理委員の中佐殿の話しだろ。
526 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 00:48:07 ID:sUpmCRPf
>>524 幕府だと長崎奉行とかかなり美味しかったらしいね。一財産築けたとか。
ただ、エリート中のエリートである勘定方と、役人を監視する目付は
汚職はもちろん役得とも一切無縁だったとか。
527 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 00:55:43 ID:6VT24wl2
今はどうだかしらんが、刑務所で人気があるのも給食係だったというな。 もっとも囚人が給仕をしていた時代だが。
528 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 09:52:29 ID:uzmt//kK
>>524 尾張の御畳奉行とかなんでわざわざ役職が設けてあるのかわからんレベルだしな
529 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 12:57:16 ID:shYPwXOT
えー、何やら最近、アンチキリスト的な感じでキリスト教の悪い話が目立つような気 がしますが……すんません、半分以上私の投稿です。(−_−; だってフロイスの『日本史』神保町で買っちゃったんだモン!良い話が載ってないん だモン!(笑) っつーコトで、キリシタンが仏教に喧嘩をふっかける話以外で、今回はお送りしたい と思いますっ! 大阪天王寺の地名ともなった四天王寺。 聖徳太子の建立とされ、日本最古の寺院ともされる古刹である。 天正四年。織田信長の石山本願寺攻撃の際、四天王寺は兵火に遭い消失。 その際のエピソート。 信長が四天王寺の僧坊に火を放たせた時の事、その地方で最も善良で勇敢、甚だ貧し かった一人のキリシタン兵士がいた。 彼は寺が火に包まれる前に、脇差を手に祭壇に登り、金箔で覆ってあったという仏像 の上に立った。 そして手にした脇差で仏像の頭を割り、この寺の建立当時から伝わる古文書と、仏舎 利の入った黄金の小箱を取り出した。 どうやらこの男、本尊の中にこのテのお宝が隠されているコトを知っていたようであ る。 男はこれらの品を宣教師の許へ持ち込み、焼き捨てて欲しいと頼み込んだ。 そして宣教師は男の頼み通り、飛鳥時代から伝わると思しきそれら重要文化財を容赦 なく火の中に投じたのである。 しかしただ一つ、仏舎利の入っていた黄金の小箱のみは男は宣教師には渡さなかった。 ……何故? 仏陀の遺骨が入っていた箱は流石に恐れ多かったから? いや、違う。 『黄金は金になる』からである。 男はその小箱を売り払って馬やその他、自分が欲しかったモノを購入する資金にした という。 彼は曰く。 「オレは仏とやらになんの恩義もない。今回のコトだって、ちょっとばかりの金を工 面してもらうだけのコトなのに、ワザワザ脇差で頭をかち割るなんて面倒なマネをさ せられたんだから」 などとブツクサ文句を言っていたという。 ……………………………え〜〜〜っと、信長が仏教に喧嘩をふっかけ、それに乗じて 火事場泥棒をしたキリシタンの話? あっ、ちょっと待って、石、投げないでっ、マジ、痛いからっ………!!
530 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 14:14:07 ID:OKz5eevo
こういう話を聞いて怖いと思うのは宗教よりもむしろ戦国時代の気風だな
531 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 14:17:33 ID:UtXb/UHv
橋本聖子・・・
532 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 16:32:00 ID:yvUoGU3f
フロイスがいい話をしていたらむしろ怖い
533 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 17:11:30 ID:wiKC3QBY
まあ、中南米でスペイン人がやった事を考えると 大人しい方なんだろうけど。
534 :
1/2 :2010/03/23(火) 18:28:34 ID:ywsNd1wp
しょせん悪いのは宗教自体じゃなく、信じる(利用する)人間にゴザルよ 大友宗麟はキリスト教に傾倒し、「世を乱す寺社の祭礼を信仰してはならん。永久に止めさせよ。」 とまで言い出した。当然、多くの家臣が反対した。 「古来、豊作の年も凶作の年も絶えず続けて来た祭祀を捨てれば、神仏は何と思し召すでしょう?」 家臣たちの言葉に、かえって宗麟は激怒した。 「神仏など、キリシタンにとっては悪魔である。そういうことなら巨刹大社、全て潰せ!」 と言って、嫡男の義統に領国の主だった神社仏閣の破却を命じた。 まず、山森紹庵が豊後住吉神社に向かった。綿津見三神と並ぶ海の大神が宿る御社に対し、 紹庵は社殿・御神体まで、ことごとく打ち崩した。三日後、紹庵は変死した。 現在、大分市住吉にある神社は、寛永年間に日根野吉明(弘就の孫)が再建したものという。 臨済宗万寿寺には、橋本正竹が向かった。大友五代・昌親が中興した大友氏自身の菩提寺に、 正竹は山門から火をかけた。折からの風にあおられて火はあっという間に寺内に燃え広がり、 二百八十年の伝統を誇る大伽藍は灰と化し、多くの学僧が行方不明となった。 仕事を終えた正竹は高熱に冒され、折からの風も熱風の如く感じ、帰宅して薬と水を求めたが、 その水さえも湯の如く感じる。医師を呼ぶも、正竹の体から出る熱のせいで、辺り四、五間は 猛火のように熱く、近づく事も出来ない。五日後、正竹は熱に悶え苦しみ抜いて、死んだ。
535 :
2/2 :2010/03/23(火) 18:29:15 ID:ywsNd1wp
「国中の神仏を薪にせよ」と命じられた吉弘内蔵助は、毎日荷車に五〜十台もの仏像・御神体を 集めては、薪として焼き捨てた。ある日内蔵助が下人に命じ、仏像を焼いて湯を沸かしていると、 湯釜から鉄砲で撃たれたような音がした。「ひいっ!旦那様、御仏が怒っておられますぞ!」 「落ち着け。それは仏像の継ぎ目の膠が、焼けて弾けているだけよ。」 少しもあわてぬ内蔵助に、下人はそのまま仏像を焼き続けた。が、今度は落雷のような音がして 仏像の燃えさしが内蔵助邸の屋根まで飛ぶと、一気に火の手が回り、内蔵助は焼け死んだ。 その断末魔の叫びは、責め苦に会う地獄の罪人もかくや、というほどのものだった。 熊野・羽黒山とともに三大修験山に数えられる英彦山の彦山権現は、最盛期数千人と言われる 僧兵をもって頑強に抵抗したが、焼き討ちの大将、清田鎮忠は三千の兵を率いて激しく弓鉄砲を 撃ちかけ、山頂の大講堂まで攻め上った。 堂宇全てに火を放った大友軍の前に、二人の山伏が現れた。二人は大音声を上げて 「大友に七代までも祟りを為さん!!」と呪詛を述べ、立ったまま腹を掻き切り業火の中に消えた。 その言葉通り、大友嫡流は義統の孫の代で、七代を待たずして断絶した。 「大友記」に書かれた、宗麟の家臣を襲った怪異の数々。 しょせん逸話ですが、当時宗麟親子の行動がどう見られたか、良く分かる話ということで・・・
536 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 18:37:41 ID:sUpmCRPf
>>534-535 興味深い話を乙です。九州にはこういった、キリシタンによって「弾圧された」記憶が
色濃く残っていて、それが島原の乱の時、反乱が広がらず孤立化した原因になったんだとか。
537 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 18:43:21 ID:bLIKAZjt
あやしいカルト宗教にはまった領主が先祖代々信奉してる有難い寺社仏閣を破壊したら、そりゃ恨まれるでしょうよ。 「うちの殿様はきちがいだ。末代まで呪われろ」と思われてもしかたがない。
538 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 18:49:06 ID:I6tE4xY6
539 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 18:49:28 ID:nDC7j7ou
カルトの定義から言えば日本仏教も該当しちゃうんだけどな 全員が全員どうしようもないわけじゃないんだから 異教徒くらいの穏やかな表現にしておいた方が良いんじゃねーの 日本じゃ大して多くはないがキリスト教徒だって居るだろうし
540 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 18:53:16 ID:OKz5eevo
>>534 こういう行為でも後世の何でもかんでも深い意図があった行為かのように言い出す学者だと
「当時の寺社勢力に対抗するための政策だった」とか言うんだろうなw
541 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 18:55:25 ID:sUpmCRPf
カルト云々じゃなくて、この時期「他の宗教を排除しろ」って思想があったのは日本では キリスト教くらいのもの。仏教諸派は自分の領地に住む領民ですら、自己の宗教への入信を 強制することは無かったし、門前町、寺内町には多様な宗派の人間が住んでいた。
542 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 19:09:17 ID:nDC7j7ou
>>541 いやいやいや
俺が言いたいのはそこじゃないw
もうちょっと人の目を気にしようぜと言うこと
まぁ、ココなんて便所の落書きでしかないけどさ
543 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 19:15:41 ID:sUpmCRPf
>>542 まあ少なくともこのスレに来るような人は、このころ日本に来たイエズス会やフランシスコ会と言った
人々の広めた「キリスト教」は、当時のヨーロッパですら人々を辟易とさせたカトリック最強硬派の
教えだった。現在の日本にあるようなキリスト教とは非なるものだ。
ってことは理解してると思うよ?
544 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 19:36:16 ID:vFtjseIY
545 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 19:43:28 ID:K4RWDF2J
浄土真宗とか日蓮宗はカルト教団だが、禅宗は違うと思う
546 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 19:47:57 ID:sUpmCRPf
547 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 19:51:03 ID:Gq1fpj38
今の価値観で昔のことを評価するのも何だかなあ まあ当時の価値観でさえ外道の極みであったことも事実だけど
548 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 20:37:29 ID:OKz5eevo
戦国時代と関係はないけどなんとなく思い出したので一つ 最近色々と問題になっている、家柄のいい人がよく通うことで有名な某学校の初等科。 そこに通っていた自分の婆さんのいとこの話では、昔から色々と先生も大変だったそうだ。 特に一番大変だったのは何かと言えば歴史の授業、なぜなら通っている子供の御先祖様は 大抵の場合は歴史の登場人物なのだから、教え方に少々気をつかわなければならない。 そんな中でそのいとこの同級生の中で、先生が一番扱いに困っただろう生徒はA君だ。 なにを隠そうこのA君は足利尊氏の子孫である。足利尊氏と言えば当時の日本では逆賊の代名詞であり そのため先生も一苦労である。 ある授業では 先「えー、というわけで足利尊氏は朝廷に逆らってー」 B「足利って悪い奴だな」 C「A君の先祖って悪い人だねー」 A「…」 先「いえ、足利尊氏は悪い人ですが子孫には罪はないですよ」 A「…」 こんな有様だったようだ。 そんなある日のこと、生徒に出た宿題が「自分の御先祖様の紹介」である。 その宿題の発表でみんな発表していきA君の番になった。 先「A君が調べてきたご先祖様は誰でしょうか?」 D「どうせ逆賊の尊氏さまだろw」 E「それとも金閣寺の人の自慢でもするのかしらw」 A「足利義昭です」 先生&周囲「え、義昭!?」 周囲が驚くのも無理はない、なんで歴代足利氏の偉人の中で義昭などを選んだのだろうか。 先「静かにして下さい、なんで足利義昭を選んだんでしょうかA君は?」 A「足利義昭は滅びゆく運命の中で周囲の中傷や時代の流れと必死に最後まで戦い続けて、 足利氏の誇りと意地を後世に残した英雄です。 自分も足利義昭のように時代に負けないで強く生きていきたいです。」 婆さんのいとこを含めた周囲がそれを聞いてた反応は F「足利氏は悪人だし義昭は何もできなかった負け犬だろ?」 G「教科書にそう書いてあるし歴史の常識だよねw」 昔からイジメなんてあったという悪い話。
549 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 20:42:08 ID:ZhYh0NSz
中国でもある話だからなぁ お前だれそれの子孫なんだってな、pgr いえいえ、あなたは何がしの子孫なんでしょう?って
550 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 20:46:25 ID:yvUoGU3f
中国の場合は偽者が多すぎて本物があるかすらも分からない状態だけどな 諸葛孔明の書(っぽい)を便所紙にしてた子孫がいるらしいしw
551 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 20:54:47 ID:bLIKAZjt
>>542 俺に言われてるみたいなんで一応レスをば。
なんか悪意のある書き込みをしたかのように思われてるが、過剰反応じゃない?
知ってるとは思うが、イスラムだって最初はほとんどカルト扱いだったんだし。
552 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 21:08:03 ID:xlCkylMQ
宗教論議はよそでやれ
553 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 21:11:43 ID:yHNLD/Nh
足利義教と言っとけばいいのに
554 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 21:26:41 ID:rZK249wz
>>534 義統がキリシタンになったのって宗麟死んでからじゃなかったっけ?
むしろ義統はキリシタンが嫌いで宗麟と喧嘩してたような。
555 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 21:29:29 ID:K4RWDF2J
源義家にでもしておけば問題無いだろう
556 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 21:32:20 ID:FNNgU+QO
>>548 みんな感心するかと思ったら、そういう落ちか。
いっそのこと清和天皇でも題材にしとけば、文句も出ないだろうか。
>>553 それも駄目だろ。
557 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 21:56:35 ID:4wkntG0T
>「教科書にそう書いてあるし歴史の常識だよねw」 「○○(=学者先生wの著書)にそう書いてあるし歴史の常識だよねw」 「△△(=江戸時代以降に出た本)にそう書いてあるし歴史の常識だよねw」 「××(=勝者の歴史)でそう言われているし歴史の常識だよねw」 いろいろ怖いな
558 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 21:57:47 ID:K4RWDF2J
なんか韓国が教科書を問題にしてるらしいが、 むしろそちらの方が怖い。
559 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 22:00:58 ID:Gq1fpj38
まあ小学生に教科書を疑えというのも世知辛すぎるが 剣豪将軍を挙げられるご時世じゃなかったのはつらいな
560 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 22:05:22 ID:61wBNwbK
>>535 英彦山って秀吉にも焼き討ちされたらしいけどマイナーだよね。
あと全国八幡宮の頂点、宇佐八幡宮も当然のように焼き討ちされてる
561 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 22:14:54 ID:rWTIB8Yr
>>548 でも足利氏の嫡流は江戸時代以降
本来傍流である鎌倉公方のさらに傍流小弓公方の喜連川家
じゃないの?
義秋の子孫って存続したの?
562 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 22:57:46 ID:Gq1fpj38
wiki見てたらA君はよりによって昭和帝と同級生だった模様 本人に罪は全くないA君のちょっとタイミングが悪かった話、か
563 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 23:05:11 ID:aEYrLL4U
>>559 剣豪将軍を持ってきても
F「畳に刀を刺し過ぎて身動き取れなくなったんだろw」
G「それで殺られるなんて間抜けすぎwwww」
って言われてたと思うぞ
564 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 23:07:46 ID:Kd5B0Tbs
まあ室町将軍の時代は荒れてるときが多かったから 尊氏義満でだめならもう誰だしてもだめな気がする
565 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 23:09:42 ID:61kbd/Id
A君もいまは先生になってるなw
566 :
人間七七四年 :2010/03/23(火) 23:32:05 ID:JpPyM3Rx
wiki見ると、A君て血筋的には水戸徳川家なのね
567 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 04:33:06 ID:byAb1xM6
足利義昭なんて完全に他人だろ。 足利義明の間違いだよな
568 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 06:39:02 ID:oPQ5s89w
人身売買
外国人労働者の人身売買
日本における日本人以外の人身売買も国内外から問題視されており、米財務省が2004年6月14日に発表した「人身売買報告書2004年度版」[3]では日本を「監視対象国」として挙げている。
警察庁が2000年から行なっている人身売買事例に関する統計では、2003年までに検挙されただけでも81件・逮捕者164名で2003年度は前年度比+4件と増加の一途を辿っていたという。
同統計に関しては被害者の内173名がタイ、コロンビア53人、台湾25名などアジア・中南米が中心となっているが、ロシアからも12名が被害にあったと言う。
これらでは、現地で「日本で働いて稼ごう」という募集に乗って応募したところ、渡航費や入国手続き・住む場所や職場の斡旋手数料などとして莫大な借金を負わせ、この完済に使役する・旅券などを取り上げ逃げ出さないよう行動を制限するというパターンが多いと言う
(→外国人労働者#人身売買・犯罪組織の被害者)。
このような対応の転換にもともない、2009年現在では日本は「監視対象国」から「人身売買被害者保護を十分には満たしていないが努力している国」に引き上げられているものの、依然として未解決の問題が存在していることも指摘されている[6]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E8%BA%AB%E5%A3%B2%E8%B2%B7#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.AE.E4.BA.BA.E8.BA.AB.E5.A3.B2.E8.B2.B7 南蛮って、蛮族はお前たちだって
世界各国の目があってこの程度の野蛮人が
569 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 07:20:28 ID:y0PBMvAU
これが叩き上げの戦国武将だと実季ちゃんの安東氏みたいに「ウチは安倍頼時の子孫です!」とか 肥前の有馬さんみたく「ウチの先祖は藤原純友じゃい」ってたくましい人たちもいるんだけどねぇ という訳でご先祖様について↓ ある日、鍋島勝茂は江戸城中で林羅山に声をかけられた。「失礼、鍋島殿のご先祖はどなたかな?」 「へ?えー、あー、と、当家の先祖は少弐氏です!」 「すると藤原北家の秀郷流ですか、それは良きお家柄。実は今度、上様の命により各大名家の 系図を編纂することになりましてな。追っ付け正式に仰せありましょうが、系図をご用意下され。」 とっさに口からでまかせを言っただけの勝茂は、あわてて屋敷に戻ると八方手を尽くし、 ついに家臣の平原善左衛門が少弐の家系であることを突き止めると、彼から系図を買い取り、 何食わぬ顔で鍋島の家系を偽造して提出した。 …が、あとで良く調べてみると、鍋島家祖の経秀という人は佐々木源氏を名乗り、 「高綱宇治川先陣の時の太刀」と称するものが、ある時期まで残っていたことまで判明したそうな。
570 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 07:21:23 ID:y0PBMvAU
ご先祖様でもう一丁いくか 同じころ、脇坂安治の子、安元も悩んでいた。 「ダメです殿、全然それらしい史料がみつかりません!」「うーん……」 悩んだあげく、安元は↓のような系図を提出した。 藤原氏 ―――― 脇坂安明 ―― 安治 ―― 安元 「なんじゃこれは…ウソつくにしても、もう少しマジメにやれよ……」 将軍家光は不快を示したが、良く見ると系図には安元自筆の和歌が添えてあった。 北南 それとも知らず この糸の ゆかりばかりの 末の藤原 (槍一本でのしあがった当家は、藤原の子孫とか聞いてるだけで、北家だの南家だの難しいことは わかりませーん!) その後おとがめのない所をみると、安元の開き直りは幕閣に好感をもって受け入れられたようである。
571 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 07:21:54 ID:CefimmKt
572 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 07:42:24 ID:WTBHJbxq
>>569 岡山の池田が他の大名から家系を聞かれた時
「今、林大学に作ってもらっているところです」と答えたらしい。
ということは林羅山は多くの大名に声をかけて偽系図作成の裏稼業をしていたのだろう。
鍋島の、空気読まず林羅山のセールスを断ってしまった悪い話?
573 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 07:56:12 ID:/p5RgKLP
戦国時代は下剋上だの実力主義だの言ったところで、その戦乱の世が収まってしまえば やっぱり家系の重要性が復活しちゃうというのも悲しいもんだな
574 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 08:21:41 ID:kcm7rEGd
林羅山と太田資宗が編纂した「寛永諸家系図伝」の内容は、編纂奉行の太田さん自身の系図が すでにデタラメという体たらく。 江戸時代には武家を中心に「系図買い」なる商売が繁盛し、「 大名も 前は野に伏し 山に伏し 」 と川柳で揶揄されているな。
575 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 08:47:40 ID:UDcmUYMO
576 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 09:43:38 ID:Z0QzlrOx
>>548 昭和天皇「俺が天皇なのは足利尊氏のおかげなんだけど・・・・」
577 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 11:54:58 ID:IUK5TR+t
>>548 みたいな話で誰も現皇統が北朝系だと気づかんのかね?子供はともかく教師しっかりしろよと
明治以降庶民&政府的に南朝びいきの風潮があるからって
歴史を教える教師がそもそもの系譜を理解してないと思われても仕方ない態度だよなぁ
578 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 12:00:19 ID:wMJV9ME3
幕末の勤皇志士達も天皇が北朝系で逆賊尊氏に擁立されてたのをを知ってたのは一部だけです。
579 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 12:07:01 ID:sGuRgWYh
田峯城の惨劇 天正三年(1575)長篠の戦いに敗れた武田勝頼の一行に信濃までの道を案内するのは、奥三河田峯城城主、 菅沼定忠とその家老城所道寿であった。遠征をする場合、攻め込むときも撤退するときも地元の武将が道案内をする。 この時は定忠が、その役割を引き受けた。 やがて自城田峯城にたどりつくと、定忠は勝頼一行に休息をとってもらおうとした。 ところが、である。留守居の菅沼定直と今泉道善は、城主定忠らの入城を拒絶したのだ。 これには、このような経緯がある。 弘治元年(1555)、まだ今川義元の時代、定忠の父定継は今川から寝返り尾張の織田に通じた。 このため義元の討伐を受け敗北、定次は自刃して果てた。 田峯菅沼宗家はこれで滅亡かと思われたが、この時、三才であった定継の一子小法師丸(定忠)は、叔父である 菅沼定直に助けられ、やがて定直らの努力により、新たに三河の支配者となった徳川家康によって 田峯菅沼宗家の家督と所領安堵を認められた。 しかし定忠と家老城所道寿は、武田の調略に乗り家康を裏切り武田に通じた。家督のことで徳川に恩義を感じていた 菅沼定直らはかねてからこれに批判的であったが、長篠における武田の大敗という事態を受け、ついに 城主拒絶という挙に出たのだ。 菅沼定忠と城所道寿は激怒したが、敗走の最中にここでもたもたしているわけにも行かず、致し方なく田峰城を離れ 更に奥の武節城まで勝頼一行を案内し、そこで休憩をとってもらい信州へと入った。 さて、定忠は勝頼に許しをもらうと、早速田峯城の者たちへの復讐を計画した。 しかし田峯城は堅城であり、まともに攻めても攻め落とせないだろう。そこで定忠と城所道寿はまず、 自分達が絶望のあまり自刃して死んだ、と言う噂を流した。遺髪を田峯の菩提寺に届け、念の行ったことに 埋葬した証拠として土を盛りそこに卒塔婆まで立てた。 田峯城の定直らは終にこれを信じた。 天正四年7月。盆の時期であるこの期間、田峯の城兵は交代して帰宅する習わしがあった。 つまり、城の警備が手薄になるのだ。 定忠と城所道寿は密かに武節城に兵を集結させ、十四日の未明、まだ寝静まっている田峯城に斬り込んだ。 襲撃側も元は田峯の者たちであり、勝手知ったる城である。それらに寝込みを襲われた城方は何の応戦も出来なかった。 定忠達は菅沼定直をはじめ、女子供の区別なく城方のものを皆殺しとした。その数九十六人という。今泉道善は捕縛され、 今回の首謀者として鋸挽きにされた。 定忠と城所道寿は復讐を遂げると、再び信州の伊那に引き上げた。 更に時は過ぎ天正十年(1582)、織田信長による武田征伐により武田家は滅亡する。 五月、信州伊那に進出してきた徳川軍に、菅沼定忠と城所道寿は帰参を願い出た。いまさら、であろう。 当然認められることは無く、彼らは誅殺された。菅沼定直らによって救われた田峯菅沼宗家は、この時滅びた。 やがて家康は田峰城に、終始徳川方として行動していた道目記城主、菅沼定利を入れた。 この定利は、定忠に殺された菅沼定直の嫡子であった。 奥三河のとある城をめぐる、物語である。
580 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 12:42:07 ID:2SWi0bEz
戦国時代において、家を保つのがどれほど難しいかよく分かる話だな。
581 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 13:00:51 ID:wMJV9ME3
奥平家とは対称的
582 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 14:03:49 ID:XeCGHHrn
大勢力の狭間にならざるをえない家だものな、菅沼や奥平は
583 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 14:10:01 ID:FhgeL+uV
>>548 の話の宿題ってもしかしたらご先祖様でなく尊敬する人物なんじゃないか?
A君の同級生の有名人がその宿題で明治大帝でなく源頼朝と答えて
周囲を驚かせたって逸話を聞いたことがある
584 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 14:11:44 ID:hhhDLIdB
>>579 菅沼定盈は、終始徳川の味方だから、江戸時代に子孫は、分家だけどもっとも栄えた。
585 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 16:47:23 ID:6ddly/MM
>>577 それ以前の問題なんだと思うよ
尊氏が従順に後醍醐帝の下僕になっていさえすれば
そもそも朝廷が割れることもなかったという無茶理論
>>579 死んだフリで卒塔婆まで立てる本気度が怖い
そこまで用心深くても生き抜けないご時世がもっと怖い
586 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 16:57:51 ID:sGuRgWYh
足利尊氏の悪評は、今もそうだけと当時も、足利尊氏という人間が何をしたいのかよく解らん、 って部分から来ているのも大きいからなあ。 彼に何らかの一貫した主義主張、政策があれば後世の評価もまた違ったんだろうけど、 概観すると結局「征夷大将軍になりたかっただけ」って感じは確かにする。 いろんなところで「後醍醐帝のため」「弟のため」とか言ってはいるんだけど、それ以上に 権力亡者の臭いが強い。そういう生臭さが、尊氏が現在にいたってすらヒーローになれない原因だと思う。
587 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 17:26:19 ID:jnGaABC6
南北朝ちょっと悪い話スレでやれ・・・と言いたい所だけど、 南北朝辺りの記録って逸話レベルでもそんなに残ってないよね。だからよくわからない そう考えると、ここでDQNだのラスボスだの言える程戦国時代の記録が残っている事は 実は結構幸せな事なのかもしれない
588 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 17:39:09 ID:FhgeL+uV
というかこのスレの奴らどんだけ足利さん好きが多いんだよw
589 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 17:39:26 ID:25KWEZ8G
室町から戦国辺りで平安以来の知識人階級(貴族や僧侶)が没落 安土桃山から江戸時代になって武士がその位置に落ち着いた。 結果戦国以前は記録があまり残っていないとか。
590 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 17:51:03 ID:mocuW55q
英語版Wikipediaから「Ōtomo clan」の記事をどうぞ。ここまで偽史倭人伝だと逆に天晴れだと思うんだ。
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オオトモ氏 (大伴氏) はヤマト時代からセンゴク時代にかけて1100年間以上にわたり、キュウシュウにおいて威勢を誇った氏族でございます。
元来、オオトモ (「大層な御付き」という意味) はヤマト時代の主要氏族のひとつで、ニニギ・ノ・ミコトの日本鎮圧を手引きしたカミの子孫を称した軍事氏族でした。
ヤマト、ナラ、ヘイアン時代を通し、オオトモは親衛隊長のような朝廷の軍事高官の座にありました。
カマクラ幕府の創立後には、オオトモのメンバーズはキュウシュウのブンゴ・ブゼン両州の保安官 (シュゴ) 職を授けられました。
キュウシュウの主要氏族であるオオトモとショウニ、シマズは1274年と1281年の蒙古襲来時に中心的な役割を担いました。
彼らはまた、1330年代のアシカガ幕府創立時も重要な役目を果たしました。
オオトモ戦士たちはアシカガ・タカウジとともに戦い、サノヤマ合戦をはじめとする多くの重要な戦を勝利へと導いたのでございます。
この結果、彼らは新幕府において強大な実権を手にすることとなりました。
センゴク時代 (1467-1603年) を通して強力な氏族であり続けたオオトモは、欧州人と接触して交易関係を築いた最初の氏族のひとつとして特筆に値します。
1542年ごろ、3人のポルトガル人 (そうですフェルナン・メンデス・ピントですよ) が台風によって九州のそばのタネガシマ島に送り込まれました。
それから10年も経たないうちに、ポルトガル人との交易はキュウシュウにおいてはごくごく一般化していました。
イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは1549年に来日するとすぐにオオトモ・ソーリン――
後にザビエルが「キング」と呼ぶことになるブンゴ・ブゼン両州のシュゴ――と会見しました。
オオトモは技術獲得や交易利潤の拡大 (多分こちらが本音でしょう) のため、ポルトガル人とのさらなる関係強化を熱望していたのです。
1552年、オオトモ氏の特使がザビエルとともにゴア旅行へと旅立ち、インドのポルトガル人知事に会いに行きました。
ザビエルらイエズス会宣教師たちがキュウシュウに戻って折伏の旅をしていても、オオトモは常に彼らを温かく迎えてくれました。
結果的に、彼らはブンゴにおいて多数の日本人を改宗させることに成功したのです。
16世紀末期には巧みな船乗りどもであるモウリ氏を相手取り、オオトモはシマズ氏と共に闘いました。
トクガワ・イエヤスのセンゴク時代撲滅作戦ではさしたる働きはしなかったものの、
彼らの藩は取り潰されることなく、江戸時代へと続いていったのです。
それでは、そのメンバーズを少しだけご紹介しましょう:
* オオトモ・クロヌシ - いにしえの詩人
* オオトモ・ノ・ヤカモチ (718 - 785)
* オオトモ・ノ・タビト - ヤカモチの父
* オオトモ・ノ・サカノエ・ノイラツメ - ヘイアン時代の女流詩人
* オオトモ・ソーリン (1530-1587), ブンゴ・ブゼン両州の保安官
== こちらもどうぞ ==
* シマズ家
* ショウニ氏
== 参考文献 ==
* Sansom, George (1961). "日本史: 1334-1615." Stanford, California: Stanford University Press.
* Turnbull, Stephen (1998). 'ザ・サムライ・ソースブック'. London: Cassell & Co.
この日本氏族の記事は書きかけです。あなたの力でもっと話を膨らませましょう。
この名字関連の記事は書きかけです。あなたの力でもっと話を膨らませましょう。
This page was last modified on 31 August 2009 at 20:10.
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From Wikipedia, the free encyclopedia
http://en.wikipedia.org/wiki/%C5%8Ctomo_clan
591 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 17:52:02 ID:sGuRgWYh
>>587 しかし太平記をちょっと読んだだけでも、DQN四天王も真っ青な話がわらわらあるのが
南北朝時代w
592 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 18:01:42 ID:6ddly/MM
>>590 どうしてこうなったw
フランス語版と比べると実にシュール
593 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 18:02:04 ID:FhgeL+uV
594 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 18:14:10 ID:fW8d/c6i
>>590 >== 参考文献 ==
>* Sansom, George (1961). "日本史: 1334-1615." Stanford, California: Stanford University Press.
>* Turnbull, Stephen (1998). 'ザ・サムライ・ソースブック'. London: Cassell & Co.
とんちきな事を書きやがってw
595 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 18:14:36 ID:UPXJBA4x
596 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 18:30:59 ID:/UNqlYQU
597 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 18:33:04 ID:nIfcRh6B
>>590 台風によって送られましたって和訳なんとかしろwwww
598 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 18:41:08 ID:sGuRgWYh
>>595 ちょっと気になるのはこのまとめをした人、ステージ倒壊事件は
能と田楽を間違えてるな。別ページのステージ倒壊事件もそうだが
ステージ倒壊事件があったのは田楽の興業でのことで能ではない。
能は義満の頃の新興芸能で全盛を迎えるのはもう少し後。
どうも勉強がたりてないのと、思い込みの非常に強いまとめだとは思う。
あまり信用しない方が良さそう。
599 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 18:55:40 ID:dNmQaMCV
>>590 そういや伊達政宗の頁も英語版のwikipediaに
「秀吉は10万の兵を奥州に送り込み政宗を屈服させた」
とか書いてあって吹いた覚えがあるw
とりあえずつたない英語で直しときましたよ
600 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 19:15:03 ID:WTBHJbxq
大友、島津、竜造寺、細川、黒田 九州はDQN人材豊富だな
601 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 19:20:44 ID:AdRTtt5p
>>586 南北朝時代はあまりにも複雑なので、その時代の小説を
手がけようとすると消耗して命を落としてしまう、
って誰か書いていたような。
俺もあの辺の小説読むとかなり混乱してしまう。
602 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 19:31:42 ID:WFOVS7ur
>>601 吉川英治の私本太平記の後書きじゃなかった?
603 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 19:33:20 ID:sGuRgWYh
604 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 19:34:42 ID:6ddly/MM
たぶん今の日本人が普通に共感できるのって 戦国時代くらいまでの人物じゃないかと思う 南北朝とか応仁の乱前後とか皆フリーダムすぎて怖い あのへんをネタに何本も書いてる北方謙三スゲー
605 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 19:43:26 ID:MB8cXToN
>>600 そのメンツはどっちかというと「こいつらめんどくさいから僻地にでも送っとくか」ってパターンじゃなかろうか。
九州土着の社家や大蔵党あたりはあんまりヒャッハーしてる印象ない気がする。
606 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 19:49:36 ID:Q0io7sXA
>>586 (;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;::::::\
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ぅ |. |_
( ),ー-ーヽ( )/|:\_
ヽ ー-- //:::::::::::::
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607 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 19:50:58 ID:1ETMguF1
>>590 の原文、大友も大伴もOtomoだから混同したってのはわかるとして、
16世紀末期には巧みな船乗りどもであるモウリ氏を相手取り、オオトモはシマズ氏と共に闘いました。
トクガワ・イエヤスのセンゴク時代撲滅作戦ではさしたる働きはしなかったものの、
彼らの藩は取り潰されることなく、江戸時代へと続いていったのです。
このへんはどこをどうしてこうなったんだろう?
608 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 19:53:46 ID:sayhkuLn
>>595 かなり恣意的だな
最初から悪意ありでまとめたのなら単なるネがキャン
609 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 20:02:54 ID:AGYem5MG
>>603 でもほら、郷士って平時はほぼ農民みたいなものだから…
610 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 20:13:14 ID:UZsJkize
お前は柴田兵か? って聞かれた時、 はいそうです。と答えると、見逃してくれる柴田の亡霊の話ってブログになかったっけ? 幽霊と亡霊の二通りで検索したが、駄目だったから知ってたから教えて下さい。
611 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 20:14:28 ID:WTBHJbxq
茨城を中心とした旧利根川東岸地区は他と違って 戦国時代が早く始まって、他の地域が戦国時代終わっても まだやっていて、半世紀ほど戦国時代が長い気がする。 よく、武士の台頭は藤原道長による摂関政治の全盛期以降とされているが、 やはりその地域だけ、平将門の乱などで、戦乱が始まるのが早い。 また幕末の動乱も水戸藩が暴走して早く始まり、戦いを好む気質の人が 多かったのかな、と思う。
612 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 20:27:10 ID:5YEEge/7
あの辺は戦国つうより鎌倉時代がずっと続いてるような感じだと思うが
613 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 21:02:49 ID:nQn+aWfY
>>566 明治天皇に何か言われたときの蜂須賀さんみたいに答えれば、良かったのかしら
614 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 21:43:48 ID:X8C8cGYK
615 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 21:52:58 ID:xeHsOn3h
細川さんは元々京都近くのみやびで繊細なお人ですよ?
616 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 22:05:48 ID:GuEXwwfI
>>601 司馬遼太郎でさえ投げ出したぐらいだからな
本人も本をたくさん読んで調べたみたいだけど、知れば知るほどややこしさに書く気が失せたとか
617 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 22:16:11 ID:OLTKMDp0
北方くらい自分の好きなとこ取りして書く人ならおk、かw
618 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 22:24:33 ID:fm91XUcd
>>605 細川黒田以外は少なくとも戦国初期の段階で九州にいた人たちじゃないか?
619 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 22:24:58 ID:xO1lrzom
要するにわけのわからん情実人事や意味のわからないやる気のない決着とかが 多すぎるんだよな 足利家にしても天皇家にしても天下人としては軍事力、内政力ともに全く足りてないし 自らの軍事力はそこらの土豪程度の足利義秋が手紙攻勢しただけで一時期乱れに乱れた のを100倍にしたようなもんというかw
620 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 22:34:25 ID:YjW2COa5
>>568 南蛮って中国由来の言葉じゃなかったっけ
621 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 22:38:40 ID:WTBHJbxq
>>620 ビルマ系の人が多く住んでいた大理国あたりを指した言葉だよな。
622 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 22:40:56 ID:tGbRboEr
山田風太郎の室町ものはガチで気が狂っていてクソワロタw 日本昔話というか童話口調のほのぼのオープニングだったのに、 一転してDQNヒャッハー祭りになったりしてw
623 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 22:58:33 ID:OLTKMDp0
上皇?ヒャッハーいい的だぜ!
624 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 23:09:49 ID:93cQw3E6
>>620 東夷・南蛮・西戒・北狄ですね。
四方が野蛮人で中心が文明人、中国だと。
625 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 23:13:03 ID:AdRTtt5p
>>623 南北朝時代だけど、なんであんなことしたんだろうな?
考えなしに暴れまくるDQN中高生みたいだ。
626 :
人間七七四年 :2010/03/24(水) 23:15:53 ID:sGuRgWYh
627 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 00:26:38 ID:/wixmgiG
石川城襲撃前の軍事演習とは違う話? 家臣には内緒で「協力してくれたら新しい家屋建てるよ!」と住民に約束し 当日は隣りの集落に移動させたとか
628 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 00:31:59 ID:IozcQELl
>>601 天皇家が絡んでくるから、そっち方面の圧力が云々とも謂われるよね
>>626 夫を攻め殺して、俺の嫁になれってしつこく女性に迫った話もあるじゃない
結局振られて逆上しその館を攻め囲んで殺したそうだけど
629 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 00:47:26 ID:E5QHiF8R
途中で滅亡して好き勝手なことを書かれたわけでもなく自前で歴史編纂もできたような家で 歴代の方々がどうしようもないことばかり書かれてると この一族は大丈夫なのかと思ってしまう
630 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 00:52:37 ID:W51v54v8
でも地元では南部の圧制から解放してくれた名君です
631 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 00:59:34 ID:mSYOdK4q
>>629 盛岡南部藩のことか?
悪政の代表としてよくネタにされるし、すぐ改易された
松倉家とかと違い最後まで持ったので、かえって
悪いエピソードに事欠かないことに。
ちなみに南部藩歴代君主を解説した本を読んだことがあるが、
こんな本だから当然南部氏寄りになるはずなのに、
「名君と暗君が一代ごとに出現すると言われた」
と書かれていた。
(それでもフォローは盛りだくさん。暗君と言われた人でも、
初期の治世はいいものがあったといえる、とか)
でも一代ごとに暗君出現はキツイわな。
632 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 01:01:58 ID:JAdl3r8U
中傷合戦してっからな
633 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 01:37:46 ID:BJ7dOdiA
>>548 ブログから見て。
家臣想いだったし城いっぱい建てたのに肥にギリ1扱いされている俺の先祖涙目。
634 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 02:57:02 ID:QlpBUIn3
ま、まままっまさか、あの宮部長房の……!?
635 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 09:49:17 ID:BJ7dOdiA
なん、だと……。
636 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 11:39:29 ID:kjTttiJg
イエズス会w 人格者として残るジュストやレオンも少し割り引いて考えたほうがいいかな。 ネストリウス派が鎌倉時代には到達していたはずだけど 追放、追放の歴史の中で布教するほどの力をなくしていたのか 中国ですっかり東洋向けの教義になって吸収されたか
637 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 12:45:44 ID:11JlBQij
>>636 今でもこんなだぞ?
http://www.japanmission.org/fr/fr_nij.htm SOCIAL PRESSURES
Obligation to satisfy the demands of employers in a culture where conformity is a moral obligation makes it hard for polite,
hard-working Japanese to openly accept the responsibilities that they feel would be placed on them by following the teachings
of the Gospel. Please pray that the Holy Spirit will open their eyes to the Truth and bring a strong conviction of sin.
The youth are turning away from the values and work ethic of their parents, and are embracing materialistic pleasures rather
than the true and living God. Please pray that economic instability and fears of the future will shake many out of their complacency.
Demonic forces associated with idolatry in temples and ancestor worship in homes have never been decisively challenged.
The social pressure to compromise and commit idolatry is very strong. Please pray that the church will recognize this evil
and teach more effectively against it, and that the believers will have the courage not to compromise.
和訳
世間の目
調和こそがモラルとなっている文化では、経営者の意にそわなければならないので、
礼儀正しく勤勉な日本人は(キリスト教の)福音に従うことで生じると彼らが考えている
責務を公に背負い込むことを嫌います。聖霊は常に真実に目を向けており、強い原罪の信念を持っていることを彼らに祈ってください。
日本の若者は親の世代の価値から離れていっており、現世の物欲にばかり目を向け、真実の神には目を向けようとしません。
将来の経済不安などにより、彼がをこういった現状に甘んじる状態からぬけだせるように祈ってください。
寺社での偶像崇拝や先祖崇拝といった世間の圧力が、はっきりと批判を受けたことは今まであありません。
現状に甘んじさせたり、偶像崇拝を犯させようとする世間の圧力はとても大きなものがあります。
教会はこういった邪悪な現状を認識して、もっとしっかりと邪教に立ち向かい、信者は世間の目に屈して
妥協しない勇気を持つように祈ってください。
638 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 12:50:31 ID:AecHC6Cg
正直宗教関係はもう食傷気味なんだが
639 :
637 :2010/03/25(木) 13:01:52 ID:11JlBQij
さすがにスレチすぎたか。ごめん。
640 :
636 :2010/03/25(木) 13:35:11 ID:kjTttiJg
>>637 宗教だって以外何のページかわからん。
「今でも」がかかっているのはネストリウス派?
それなら認識が足りんかった。
イエズス会なら変化を話題にはしてないので見当違い。
641 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 13:45:10 ID:GUUyZXEy
三方原で徳川家康を撃破した武田信玄は、三河、野田城を取り囲んだ。 しかし野田城の守りは固く、攻めあぐんだ信玄は甲州の金堀人足を使い、水脈を掘り抜いて 城の水の手を絶った。水がなくては戦うことも出来ない。野田城は窮地に陥った。 さてそんな時、野田城の城兵が武田軍にむかって叫んだ 「武田信玄公は仁義の名将だと聞いていた!だが、こんな小城を落とすのに水を断って降参させようとしている。 これは愚将の所業であり、武田家松代までの傷となるであろう! どうして槍をあわせて勝負を決しようとしないのか!?」 すると武田方が、こんな事を言ってきた。 「では水を送ってやろう!籠城の人数は?」 籠城の人数はわずか数百人ほどだったが、城兵はこれは武田が城内の様子を知るための言葉だと思い あえて大きく言った 「さ、三千人じゃ!」 「わかった。」 「は?」 次の日から毎日、武田の陣から野田城に、茶碗六千杯分の水が送られた。 しかも椀を返すときそこに銭を入れておくと、次の日から水の量が増したのだと言う。 まあこの通りの事が有ったとは思えないが、どうも武田軍の中に、水の手を切られた野田城の籠城衆に対し、 水を売って利益を得ていた連中がいて、それがこういった伝承になったのではないだろうか? そんな事を思わせる、武田軍にとって悪い話。
642 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 13:51:19 ID:bS7W5K/h
それで時間切れになって撤退してりゃ、世話ないぜ・・・
643 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 13:58:26 ID:E5QHiF8R
正に宋襄の仁
644 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 14:05:55 ID:6gAWqjLS
いやあ、信玄公の度量の広さに感服させる作戦だったんだよ たぶんな
645 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 14:06:51 ID:dzxEaUp8
全部酒だと対応面白そうなんだけど
646 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 14:11:43 ID:j1k9TuoX
あえて包囲を長引かせることで織田の主力を呼び寄せ野戦にもちこうとしたとか。
647 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 14:58:33 ID:CCf4rWHw
武田軍の優しさに篭城衆も完敗もとい乾杯だ
648 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 15:44:52 ID:wa2OAML7
>>645 土佐の戦ならありえるから、元親は禁酒令を出した
649 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 16:28:46 ID:DO05ajZm
キリシタンといや戦国時代からずれてるからスレチだけど 米沢はキリシタン殉教者を多く出した国だけど 実は景勝〜定勝がキリシタン弾圧をしなかったので 国全体でキリシタンへの偏見が少なく、 「キリシタンは処罰しろ」と幕府から命令されると 藩の上層部でも助命運動が起きるは 処罰が決定したけど誰一人として牢屋に入れられることもなく 使者が家にやってくるとみんな自分で処刑場まで歩いていって 粛々と首切られました。みんな素晴らしいですね。 って美談の本になってた。 藩主自身は宣教師から「異教徒中の異教徒」呼ばわりされてるけど。
650 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 16:30:47 ID:hhX1+ATP
あれ、定勝は結構やっちゃったんじゃなかったっけ?
651 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 18:15:11 ID:S0Pka7tr
>>642 あの段階では少しぐらい早く城を落としても役に立たない。
撤退は避けられない状況だろ。
652 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 18:34:27 ID:jJyLSrNS
>>641 最初に茶碗に銭を入れた奴は誰なんだろうかw
653 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 18:43:00 ID:Ct4R401L
三方ヶ原というと、この前浜松城に行った時に銭取という 地名の由来が書いてあったな。 なんでも三方ヶ原でコテンパンにやられた家康が逃げてる 途中に、喉が渇いたか小腹が空いたかで立ち寄った茶店で一服 してるとそこに武田の追っ手が! たまげた家康は代金も払うのを忘れて馬に乗って逃げ出すと、 茶店のバァさんは食い逃げされたんじゃたまらんとこれを追いかけ、 件の銭取と言われる様になった地域で遂に追い付き、無事に 代金を払わせたという。 馬並みの脚力のバァさんが悪い話なのか、命が掛かった 逃亡劇の最中に一服する家康が悪い話なのか、律儀に代金払う悪い話なのか解釈に迷うお話し。 もしかすると、有名なしかみ図は食い逃げそびれた悔しさを 写し取った物なのかもしれない…。
654 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 18:50:00 ID:/vZwEg0x
婆さんも空気読めないよな 見てりゃ命懸けで逃げてるのわかるだろうにw ひょっとして雑兵のふりして逃げてたから家康だとわからなかったのかもね
655 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 18:54:33 ID:iWWTDYvn
こんなハイスペックな婆さんなら家康を討ち取れば武田からたんまり褒美もらえたのに・・
656 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 18:57:27 ID:nxXClPMY
そのエピソードは、私も知ってるぜ♪ここで重要な点は、婆さんの店が戦の最中に「営業中」だった点だと思う。
657 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 19:09:28 ID:RjuBmi+t
見物客が食べに来るんで書き入れ時なんじゃない?
658 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 19:15:02 ID:GUUyZXEy
>>657 戦見物ってものすごい特殊な状況でのみ発生したもので(特殊だからこそ記録された)、
普通はみんな避難する。じゃないと雑兵の掠奪の対象になるから。
659 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 19:20:03 ID:Lp3clBqm
>>653 色々とツッコミどころが多すぎて少々頭が痛くなるような、有名な逸話ですなw
件の茶屋があった場所が、現在の『小豆餅』とされてますけど、Wikiによれば、三方ヶ原での戦死者
を供養するために餅を供えた事が地名の由来だそうです。
>>657 そもそも当時の三方ヶ原台地には、人家も何も無かった可能性が高いようですがねw
660 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 19:23:13 ID:1ssvrANT
茶店のババアの出現率は異常
661 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 20:04:26 ID:DO05ajZm
>>650 定勝も当初は親父の方針を継いで黙殺してたけど
そしたらキリシタンの家臣も調子に乗って布教しまくり
米沢は弾圧してないという話で周辺国のキリシタンも寄ってきて
結局領内のキリシタンの数が一気に膨らんで無視しきれなくなったとか。
景勝時代は当人が熱心な仏教徒(というか国全体が謙信教というか)で
宣教師とも接触しなかったから領内のキリシタンは割と少なかったらしいんだが
景勝が死んでから定勝の弾圧までの間に数千人に膨らんだらしくてな。
そう思うと大弾圧に繋がった悪い話かも知れない。
662 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 20:09:49 ID:z0qmEUL0
>>661 たしか、島原の乱の時に会津でキリシタンが呼応して蜂起する、さらにポルトガルの援軍もくる!だから勝ち目のない籠城じゃないんだ!
って反乱軍側が言ってた、って記録があった気がする。
663 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 20:11:01 ID:pK9JVQGX
>>662 オランダ(新教側)船が通りかかったときも、やっぱ喜んだのかしらね?「これで勝った」と
664 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 20:30:15 ID:GUUyZXEy
オランダといえば、島原の乱当時当時オランダ商館は形式上徳川将軍の「家臣」と言う立場で 貿易を認められていて、一揆への砲撃も国が国に要請したのではなく、「封建家臣による軍役」 と言うことだったらしい。
665 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 20:43:57 ID:z0qmEUL0
>>663 確か知恵伊豆はオランダの砲撃を上のような一揆側の期待を打ち砕くために依頼したらしい。
おまえらが期待していた南蛮だってこっちの味方だぞ、という示威行為が優先で実際の破壊力は
さほど重要視してなかったとか。
666 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 21:37:43 ID:2mNMB0OJ
オランダは新教徒の国だからカトリックの一揆衆は打倒すべき敵だったのだが、 当時はそんなこと分らなかったんだろうな。 オレ自身影武者徳川家康読むまで疑問だったんだが。
667 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 21:39:47 ID:t5zNAyeL
禁中並公家諸法度はその性格上、古典旧籍を多く参照して作成されたがその参考書籍は 当の規制相手である公家に多く収蔵されていた その為、幕府は公家に旧書の提出を求めたが当然ながら従わない そんな訳であっさりと脅しに入る幕府 「提出が終わった後に、そうでない書物が見つかったら没収ね」 そうして集まった書籍は禅宗の僧侶をカンヅメにして筆写させ、お陰で禁中並公家諸法度は 滞りなく、制定されましたとさ しかし公家にとってむしろ痛いのは筆写の方であった それらは幕府の物になったが、文教に熱心な彼らは容易にそれを世間に広めたのである 結果として公家の連中は貴重な収入源であったそれらの講義・伝授指南料を失うことになった のであった
668 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 22:19:11 ID:bS7W5K/h
>>666 少なくとも徳川幕府は旧教国・新教国の区別はつけてる。
スペイン・ポルトガルを排除してイギリス・オランダと通商したのはそういう理由だし、
ヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムスなどから西洋の事情を得ている訳だからな。
原城の連中がそこまで知っているかどうかといえば、まさにその通り区別がつかないだろうな。
669 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 22:59:12 ID:gCh9dNnG
>>662 会津に切支丹が多かったのはレオンさんのせいだったような。
結構マリア仏とか会津には多いんだよね。
670 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 23:00:52 ID:k5Tcao1f
>>667 従っても従わなくても飯の種が奪われることとなるとは泣ける話ですな
公家って戦国には荘園領地失ってジリ貧になって古今伝授で食いつないだんだったら
それすら専売じゃなくなった
>>667 以降ってどうやって生計たてたんだろ
671 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 23:07:03 ID:8ORVqjkg
>>667 たしか徒然草あたりも公家の古文書を調べたなかから出てきて、世間に広まったんだよね。
>>670 公家の領地は幕府が保護したので、少なくとも江戸中期くらいまではそこそこの生活が出来たはず。
ただ、これは武士も一緒なんだけど、時代が下るにつれだんだん世の中が豊かになると、
支出は増えるのに収入はずっと変わらないので、どんどん生活が苦しくなっていったらしい。
673 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 23:14:35 ID:j1k9TuoX
>>668 南蛮人・紅毛人の区別ですな。
>>671 ついでに全国で開墾が進んだ結果米は増産に次ぐ増産
値段は江戸時代を通じて下がりっぱなしで、石高が変わらなくとも収入は減という。
公家って武士と違って軍役がないから支出はそこまでではない?のかな。
674 :
人間七七四年 :2010/03/25(木) 23:58:07 ID:z0qmEUL0
>>673 その分、宮廷行事、交際、教養関係での出費が・・・
高家扱いで景気に左右されそうではあるね。
676 :
人間七七四年 :2010/03/26(金) 01:54:59 ID:qEtDpl94
天文十三年のこと。 スペイン人商人のペロ・ディエスは日本の港に到着した。 彼は東南アジアで中国人所有のジャンクに乗り込み、各地で取引をしながら日本まできたのだ。 港内には、同様にポルトガル人商人達が乗る中国ジャンクが数隻泊まっていた。 そこへ近づく別の中国ジャンク一団。 船荷狙いかショバ争いか、一団は突如、ディエスの目の前でポルトガル商人らに襲いかかった。 ディエスによればその数、百隻以上! 予期するところでもあったか、 ポルトガル商人は手際よく火砲をぶっぱなし、小船を繰り出し、小銃を乱射。 襲撃者を多数殺傷すると、撃退に成功した。 さて、もう一人、この事件を目撃したらしい人がいる。 不幸な形で。 池端重尚という、大隅の領主・禰寝氏庶家の当主である。 重尚は小祢寝港にて唐人と南蛮人の戦に遭遇、手火矢にあたって戦死してしまっている。 日本で外国人同士が大暴れした挙句、地元領主を射殺。 乱世といえど、ちょっと治安が悪い話。
677 :
人間七七四年 :2010/03/26(金) 13:45:42 ID:3pn5zINd
>>676 まあ日本も、大内と細川の喧嘩のとばっちりで中国の貿易港一つ焦土にしたからなw
そういう時代だったんだろう。
678 :
人間七七四年 :2010/03/26(金) 16:17:56 ID:hVm8Mgbm
>>657 織豊時代の医師・板坂卜斎の覚書には、関ヶ原の前哨戦である大津城攻防戦において、
「京の町人共重箱を堤げ、水筒を持たせ、三井寺観音堂にて、恐ろしげもなく見物を申し候」
と、戦争を見ながら弁当に舌鼓を打つ庶民の姿が描かれている。
また他の日記にも、「出陣のあいだ、見物のため寺家衆を率いて遊覧」とか、「諸勢の陣替えを
見物に遊覧」とある。
679 :
人間七七四年 :2010/03/26(金) 16:33:01 ID:m2vNqE+P
「右手に見えますのは、○○の陣でございます、そして左手にみえますのは(ry」なんて事をやってたのだろうか。
680 :
人間七七四年 :2010/03/26(金) 18:11:17 ID:PpyH1sZu
京の連中の戦慣れ度は異常
681 :
人間七七四年 :2010/03/26(金) 18:14:16 ID:TEOUVpLd
682 :
人間七七四年 :2010/03/26(金) 18:29:55 ID:O4ujadcx
>>676 葡萄牙船を沈めて家康に褒められた大名もいたような。
「南蛮人風情になめられちゃいかん」とかなんとか。
683 :
人間七七四年 :2010/03/26(金) 19:11:20 ID:3pn5zINd
文禄ニ年(1593)朝鮮より、伊達政宗から岩出城留守居、富塚宗綱への手紙 『今月十九日、桑折摂津守(政長)が釜山で病死しました。 私はひどく落胆し、また今までの桑折の忠義を思い出すにつけ、言葉もない有様です。 本来なら桑折の父、点了斎に直接手紙を書いてこの事を知らせたいのですが、老いた彼がどれほど嘆き悲しむかと思うと、 辛くてとても書くことが出来ません。 幸い、桑折には娘がいると聞き及んでいます。桑折の名跡の事は点了斎と相談して決めるので、どうか心配しないようにと 伝えて下さい。この手紙を点了斎に見せてやって下さい。 返す返すも嘆かわしい、どうしようもない事です。私は桑折に特に念を入れて養生するよう申し付けたのですが、 大体においてこの朝鮮では、腫気を患うと十人に九人は死んでしまいます。本当に、どうしようもない事です。 謹言 追伸 原田左馬助(宗時)も患ったので、しきりに意見を言って対馬まで船で帰るよう申し付けたのですが、 そうならずに今彼が乗っている船は釜山港近くの島に停泊しているようです。大変心もとない事です。 しかし近いうちに帰国するでしょう。 何か変わったことがあれば、使いを出して知らせます。 さてさて、はるばると長い留守で心をすり減らしています。どうか察して下さい。 内蔵人頭、小平次(いずれも冨塚肉親)は大変元気で、いつも油断なく奉公をしてくれ、とても頼もしいことです。 かしこ 七月二十一日 政宗』 信頼する家臣の死に衝撃を受け、落胆している様子が非常によく出ている、政宗にしては珍しい 気弱な書面である。朝鮮役での非常な苦しさを、今に伝える史料でもあるだろう。
684 :
人間七七四年 :2010/03/26(金) 21:38:36 ID:hVm8Mgbm
昔は広門 天正14年、カメレオン大名こと筑紫広門は、九州制覇を目指し北上する島津軍を岩屋城に迎え撃つこととなった。 かの有名な岩屋城合戦の前哨戦である。 岩屋城の前衛を守備する広門は、島津の岩屋城攻撃を少しでも遅らせるために、出城にいる弟の晴門に島津軍の 背後を襲わせ、挟み撃ちにする計略をたてたのだ。 しかし、この策はあっさりと島津軍に見破られて晴門は討死。広門自身は、島津軍に降伏し大善寺に幽閉の身となっ てしまった。 広門は再起を図らんと大善寺で、「忍ぶれば いつか世に出ん折やある 奥まで照らせ 山のはの月」という和歌を 詠んだというが、これを聞いた人達は、「 昔は広門、今は狭門 」と嘲笑したという。
685 :
人間七七四年 :2010/03/26(金) 22:34:46 ID:4bu8LRub
病に倒れた武田信玄は語った。 「わしの望みは天下を握る事であったが、こうして死ぬのは都で政治をして 死ぬよりもずっとよいであろう。人々はわしが生きていれば上洛を果たして 天下を治めたに違いないと言うであろうからじゃ。 しかし、わしも信長と家康という強い者達と戦って命を縮めてしまったわい。 わしの武力が彼らと対等なら命を縮める事もなかったな。 彼奴らはわしには到底及ばないので、天がわしの命を縮めたのじゃ。 それは輝虎にも当てはまろう。奴は3年のうちに病死する。 信長を降せる者は、わしの次には奴しかおらぬからのう・・・。」 悪くもないかもしれないが、すごい自信だと思ったのでコッチにした。
686 :
人間七七四年 :2010/03/26(金) 23:02:43 ID:AeUsoPYn
こーいうのって後者の物書きが書いてるわけだけど、よくよく考えたら 江戸期の妄想軍記物って今で言う歴史小説みたいなもんだったのかもなw
687 :
人間七七四年 :2010/03/27(土) 01:32:30 ID:mi0o+4wq
>>683 特に悪い話でもないような
しかし戦死ならまだしも病死じゃなあ
688 :
人間七七四年 :2010/03/27(土) 03:45:58 ID:0rWSI+aU
10人中9人が死んじゃう朝鮮の気候風土、衛生環境が悪い話?とかw
政宗は身近な家臣が死んだときはよく落ち込むよね。
文中出てくる原田が死んだときも和歌を詠んで死を悼んでるが、
(
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-833.html )
まるで恋人が死んだかのような反応をしてると
手紙研究してる人が評してた(と思う、本が出てこないので誰だったかうろ覚え)
後年
「惜しき者の次第に失せるは、我命ひとつづつとりのくるに同じ。
金の鎖にてもならば、つなぎ留めたきは良き武者の命なり。」
と語ったそうなので、やっぱり家臣大好き殿様だったのかなぁと思う。
689 :
人間七七四年 :2010/03/27(土) 13:03:15 ID:tJYTm6p2
>>688 腫気ってことは傷の化膿とかかな
栄養状態ときれいな水の調達が相当に苦しかったんじゃないかと思う
690 :
人間七七四年 :2010/03/27(土) 13:32:50 ID:IQP8w2YX
>>688 家臣を大事にする思いが現れてる(;∀;)イイハナシダナー、と普通ならなるところだが政宗の場合、
普段は威勢がいいが実はすんげー寂しがりやなため
仲間が欠けると目茶苦茶凹むヘタレヤンキーヘッド
にしか見えないのは何故なんだw
同じ話でも主語が立花さんとかならもっとこう、さすがカリスマ武将!って印象になるんだけどなぁ
691 :
人間七七四年 :2010/03/27(土) 15:01:32 ID:TR/bCxmh
黒田さんだと家臣団に馬鹿にされます
692 :
人間七七四年 :2010/03/27(土) 17:02:11 ID:RcxccBkm
忠臣かもしれんがちょっと考え物の武将の結末 立花宗茂の家臣に世戸口十兵衛という武将がいた。 弓術と水練の達人で実直な人柄を買われ、宗茂が立花家に養子入りする際の供につけられた人物である。 物事にあまり動じない印象がある宗茂も、さすがに嫡子をはずされて他家に養子入りというのは けっこうショックだったようで、十兵衛はそんな若い主の支えになるように勤めてきたのであった。 1600年に関が原の戦いが勃発し、立花勢は大津城を攻めた。 その中で、宗茂直筆の降伏を促す矢文を京極家の馬印に命中させるという手柄を立てたものの、 西軍が負けたという報せを受け立花勢も柳川に引き上げることになった。 船で帰国の途中に悲劇が起こった。 十兵衛のあずかる小船が突然の嵐にあい転覆してしまったのだ。 なんとか近くの海岸にたどり着いたものの、助かったのは十兵衛本人と従者ただ一人だった。 そんな惨状を前に十兵衛は、 「殿の頼みとする屈強な兵を死なせてしまった上、自分一人帰っては面目が立たない。 よって腹を斬ってお詫びをする」 生き残った従者にこのことを伝えるように言い残し、そのまま切腹して死んでしまった。 股肱の臣ともいうべき十兵衛の死を聞いた宗茂は深い悲しみに沈んだという。 自分の中だけで話を完結させてしまって、主がどう思うか考えなかったのかね? これからが立花家にとって正念場だと言うのに…
693 :
人間七七四年 :2010/03/27(土) 17:38:14 ID:E7k25Rqj
なんてこったしくじった! 失敗した以上どの面下げて帰れってんだ。顔向け出来ん、死ぬ! って事なのかねぇ まぁこの時代色々極端だから…
694 :
人間七七四年 :2010/03/27(土) 19:54:01 ID:as9Zp2FQ
>>678-680 信長はこの庶民の戦見物を決して許さず、「見つけ次第なで斬りにせよ」と配下に命令している。
695 :
人間七七四年 :2010/03/27(土) 19:56:15 ID:XeNnWrW0
撫で斬り好きやなー
696 :
人間七七四年 :2010/03/27(土) 20:37:24 ID:dVAHpyGh
天文15年(1546)、龍造寺家兼(93歳)が息子の家純と孫の周家を馬場頼周に殺され、復讐を遂げた後、 ひ孫の隆信を後継に指名したことは有名だが、実は隆信が継いだ水ヶ江龍造寺家は分家であり、 村中龍造寺家というれっきとした本家が存在していた。 ところが天文17年(1548)、村中家の当主・胤栄が25歳の若さで亡くなり、一族の多くを病や兵乱で 失った龍造寺家は、隆信に胤栄の未亡人を娶わせて龍造寺家を統一し、お家の存続を図ることにした。 しかし、夫人はすでに胤栄との間に娘を産んでおり、この娘を可愛がって前夫を忘れようとしなかった。 重臣の小河信安はこれを憂い、夫人と面会した。 「近ごろ豊後の大友屋形の威光強く、ご当家にも調略の手が延びております。どうか家中安寧のため、 隆信さまにお親しみ下さい!」 「何と言われようと、この娘のある限り、胤栄さまを忘れることなど出来ませぬ。」 「どれ、それがしにもお嬢様を抱かせて下され・・・おお、よしよし・・・ ・・・今は家兼公の遺言に従い、隆信さまを嫡家と仰ぎ、家中一和すべきです。しかるに、ご夫人が お親しみにならないため、お家は二つに割れております。 今、大友が当家を攻めれば、我らはことごとく捕らえられ、このお嬢様も豊後に屍をさらすことに なりましょう。それがし、それを思うと耐えられません。ならば、いっそ今この手で・・・ケケケケケ」 「わ、私の娘がァ―――――!!!」 こうして夫人は小河の説得に応じ、龍造寺家は統一をみることになる。
697 :
人間七七四年 :2010/03/27(土) 20:41:31 ID:9N2QDJLl
>>692 衰弱しちゃって、落ち武者狩りを撃退しつつ帰国する体力がなくなったのかもしれんね…
悲劇だ
698 :
人間七七四年 :2010/03/27(土) 20:41:57 ID:as9Zp2FQ
699 :
人間七七四年 :2010/03/27(土) 21:09:36 ID:TT5GTJMh
>>696 このあと熊さんは大内義隆にケツを差し出すわけか・・・・
700 :
人間七七四年 :2010/03/27(土) 22:11:49 ID:CPoL+8yh
島原の乱のときのオランダは 利のあるほうに転んだだけよ
701 :
人間七七四年 :2010/03/27(土) 22:26:29 ID:pK8xqMf9
703 :
人間七七四年 :2010/03/27(土) 23:26:28 ID:Oqtd1R+Q
>>696 誰の悪い話なのかよくわからなかった
胤栄さん的に悪い話?
704 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 00:29:19 ID:uEsIAvnv
小河さんのちょっと悪ふざけが過ぎた話じゃね?
705 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 01:15:01 ID:p5J4WyaE
このスレで謀略とか暗殺と言うと宇喜多とか松永とかイメージだが 龍造寺隆信ってやった事すんげぇ怖いよね
706 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 01:17:09 ID:Jg0QSE/g
>>705 軍談講談に出てくる織田信長と豊臣秀吉と徳川家康の悪いところを全部足して
リアルにした感じ>龍造寺隆信
707 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 02:24:02 ID:H7TWCK+4
上の方で立花家の話と伊達家の話が丁度並んでたんで思い出した話。
つっても、最近出た本に載ってたやつなんで既に読んだ人多かったらゴメン。
寛永20年。伊達忠宗・・例のDQNの人の息子であり、このスレ的には「親父の借金を
果敢に踏み倒した人」であり、父に比べるとどうしても今ひとつ地味な普通人という
印象になってしまう彼の元に、将軍家光のお声掛かりで縁談が舞い込んだ。
「立花さんとこと、縁組みしない?」
宗茂の後を継いで柳河藩2代藩主となった立花忠茂に、忠宗の娘・鍋姫をめあわせようとの話である。
ナイスガイ宗茂には、政宗存命の頃に(政宗が)先の将軍秀忠を自ら供応した折に、毒味を
する・しないで内藤外記と大ゲンカになったのをとりなしてもらったなどという出来事もあり、
(政宗が)世話になったと言えなくもないが、しかし、忠宗はこの縁談が気に入らなかった。
(あ゛? 62万石の我が伊達家が、11万石とかそこらの立花家と縁組み? あ゛?
つーか、なんでウチの可愛い鍋ちゃんを、三十路男の後妻にくれてやらなきゃいかんの、あ゛?)
大藩と小藩の格差、それに加えて愛娘を後添えとして嫁がせるということが、忠宗には我慢ならなかった。
だが、何といっても将軍御自ら推薦の縁談である。忠宗の意向がどうであれ断るという選択肢はない。
忠宗はぐっと不満をこらえ、承諾した。しかし押さえ込まれた不満は心の奥底で燻り、ついに
彼の身体に眠るDQNの魂に引火した(多分)。何かに覚醒してしまう忠宗。
「フーン!! おだづなよオメー! もーごしゃいだがらなー!?
嫁入り道具に長持を300棹用意せよ! 中身は何でもいい! 1棹に1コづつ入れて
とにかく300棹の花嫁道具を仕立てろ! 立花の小っせー屋敷を長持で埋めつくしてやれ!
きっと入りきれなくて恥かくぞあいつらザマー見ろ!!! 」
「ラジャー!! 」
そして一丸となって立花家に嫌がらせをすべく着々と準備を進めてしまう伊達家家来衆。
*
さて婚礼も近づき、花嫁の支度などを嫁ぎ先に搬入する日が来た。
立花家上屋敷でこの行事を全て取り仕切っていた小田部土佐の元に、大慌ての家来の報告が届く。
「大変です! 花嫁道具の行列の物量が半端ないです!! 行列の人数をざっと数えただけでも、
侍20人、人足500〜600人はいます! 」
この時の行列の先頭から最後尾まで1,74kmあったという。
しかし小田部土佐、流石は立花家に仕える男。動じない。
「うむ・・500人から600人とあれば、長持が300ほどはある計算か。伊達め、この手狭な屋敷に
入りきらないことを見越して、恥をかかせようという魂胆だな。しかしそうはさせん。
急ぎ人足を集めよ! 城下の商人衆でもよい、とにかく力の強い者を呼び集めるのだ!! 」
行列が屋敷に達すると、小田部土佐の元、花嫁道具の流れるような開封作業が始まった。
つまり、長持が届く端から中身を取り出して広縁に並べ、長持はの方はそのまま
招集した人足に担がせて広い下屋敷の方へと運び出してしまうのだ。
こうして、立花家はつつがなく花嫁道具の受け入れを完了し、忠宗の嫌がらせ作戦は水泡に帰した。
なお、婚姻の主役である忠茂と鍋姫の2人は、結婚当時の周囲の思惑とは無関係に
仲睦まじい夫婦になったようで、多くの子を成して天寿を全うした。
ちなみに立花家の方もこの縁談、当初気乗り薄だった模様 →
ttp://www.muneshige.com/column/04.html
708 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 02:36:16 ID:CuotIvt1
>>707 さすがにDQNの血は隠せなかったか…
しかし伊達と親戚になったばっかりに騒動にも巻き込まれるなんてついてないよな
709 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 02:58:58 ID:SZNNhWWz
鍋姫は忠宗唯一の娘で母親は池田輝政の娘、つまり家康の孫だから、 最低でも松平一門には嫁がせたかったんじゃないかね
710 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 03:04:41 ID:XFJJ1Lmc
>>684 この話はこの話で、広門さんはなんだかんだで旧領奪回してるよな。
まあ、関ヶ原で改易喰らって加藤清正に仕えてるから云々。
711 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 07:06:34 ID:4rM1S67q
家光は「宗茂の爺さんの甥っ子と政宗の爺さんの孫娘掛け合わせたらテラヤバスwww」ぐらいの気持ちでやってそうだから困る
712 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 09:09:53 ID:jwAipzf0
大名で遊ぶなw
713 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 09:47:47 ID:SZNNhWWz
家光自身が、家康の息子と信長の姪っ子かけ合わせたらテラヤバスな存在だからな
714 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 10:52:25 ID:u8tBh6o2
>>696 小河信安といえば、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-771.htmlの逸話があるが 、
その中に登場する神代勝利の逸話である。
龍の夢
勝利は父の代に没落していたが、あるとき「 足に水を浸していると龍になった 」という夢を買い取った。
神代家の家運はそこから隆盛を迎え、居城を回復し少弐家の重臣として活躍した。
しかし、同じ少弐家中の龍造寺氏の台頭は目覚ましく、馬場頼周と勝利は龍造寺排斥を企ていったんは
成功するも、龍造寺隆信の登場により主家滅亡の憂き目にあう結果となった。
勝利にとっては隆信は主君の敵、隆信にとっては勝利は一族の敵であり、両者は不倶戴天の仇敵となった。
勝利は少弐家滅亡後も隆信と互角の戦いを続け、1555年に一旦和睦することとなった。
勝利を排除したい隆信は和睦の宴席で彼を毒殺することにしたが、未然にその陰謀を察知した勝利は巧みに
毒物を避けつつたらふく馳走を受け、呆然とする隆信を尻目に彼の愛馬を奪って悠然と引き返したという。
以降両軍は何度も干戈を交え、神出鬼没の勝利にほとほと手を焼いた隆信は縁組を交わして和睦するこ
ととなった。
和睦後は息子の長良に家督をゆずり隠居したが、嘉瀬川ダム発掘調査によると勝利の隠居所の規模は
かなり広壮だったと推測され、隠居所で見果てぬ龍の夢を追い求めていたのかも知れない。
715 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 11:24:12 ID:9UbQpMoP
ダビスタの配合理論みたいだなw
716 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 11:40:53 ID:oVOies6i
肥前のクマーとクマー代勝利がライバルだったわけだ
717 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 12:34:50 ID:CSTZkbJC
>>707 なんか立花って家中総出で伊達キラーなんだなって思った
718 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 13:00:05 ID:CuotIvt1
>>717 っていうか小藩だからって舐めてんじゃねえよって気概があったってことでは
719 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 13:03:27 ID:aHvwDqWg
夢を買うって… なんかそんな話がまんが日本昔ばなしであったな
720 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 13:12:51 ID:hea7/9h4
>707
>>712-713 公方さまの〜あんまし〜空気が読めない話、かね。
小田部さんの機転もあり、滞り無く輿入れできてようござったw
721 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 13:21:07 ID:BhOwVY3W
>>707 私の記憶が正しければ、後の伊達騒動の時立花さんちは「だって親戚だし」という理由で
めちゃくちゃ苦労させられてたような…
722 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 13:30:17 ID:kYxkrcoo
まとめサイトのコメ欄でちょろっと紹介されていたが、確か独立したエピとしては未だ出ていなかったと思うので…… ラスボス秀吉の関東仕置き。 北条氏側では支城は捨て、小田原防衛のみに専心するという戦略を立て、各地の城主達を小田原に呼び寄せ、篭城させていた。 そのせいで関東各地の城は面白いホド良く落ちたが、小田原は流石に落ちない。 しかしもう一つ、落ちない城があった。 武蔵国忍城である。忍城攻めの主将、石田三成からの経過報告を受けた秀吉、ちょっとゆさぶりをかけてみる。 「山中ぁ、お主、確か忍城の成田とは知り合いだったな? 寝返らせろ」 忍城主の成田氏長は元々上方とのパイプを何本も持っており、秀吉の書記官、山中山城守長俊との友誼もそういったパイプの一つであった。 しかしまぁ、主君と共に篭城中の武将をお手紙一本で寝返らそうとは何と安直な。 そしてホントに寝返ってしまう氏長サンはまた、それ以上に安直な男である。w そして氏長からの寝返り了解のお返事が山中を通じて秀吉の許に届く。 「あ、この手紙な、小田原城に届けろ」 「……は?」 「小田原城の北条父子に使者を送り、この手紙を届けろ」 「い、いや、それでは折角寝返らせた者が……」 「いーから早よせいっ!」 と、言うわけで小田原城内騒然となりまして候。 問答無用で成田討つべし、と主張する者。 秀吉の計略に違いないから黙殺した方が良いだろ、と言う者。 いや、でもあの成田だしなぁ……と頭を抱える者。 こんなトコでも相変わらずの小田原評定。 とりあえず成田が守備する陣地に使者を送り、本丸に来て申し開きをせよ、と伝えると。 「いや、今ちょっと病気を患ってましてな、HAHAHA!」 との返事。 んじゃ医者をつけてやるわい、と再びの使者+お医者様。 重ねての使者に、氏長も観念したのか、本丸に出頭するのは拒否したモノの、使者には面会した。 「成田殿が裏切ったという風説が流れていますが、ホントなのですか? この通り、裏切りの書状まであるのですが……」 「うん、ホント」 あっさり認めた。 「だって、忍城攻められちゃってるし。別に北条が憎いワケじゃないんだケドね。オレらのコトが憎いって言うなら、首を刎ねに来いや」 こう強気に出られると腰が引ける小田原勢。兵をそろえたモノの成田の陣を遠巻きにして包囲するに留めた。 上方勢の包囲する中、篭城している小田原勢。 小田原勢の包囲する中、さらに篭城している成田勢。 なんとも不思議な構図である。 あ、ちなみにそもそもの発端となった忍城。 「氏長が内応したから開城するべし」 という使者に対して、 「あ? バカじゃね? だったら氏長の開城命令書でも持って来いよ。手ぶらで来てそんなコト言われて、ハイそーですかなんて言うと思ってんの?」 一蹴されたようですwwww 結局小田原開城後、ホントに氏長の開城命令が伝えられるまで粘りきったのは有名な話。
723 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 13:38:03 ID:DpZukUDh
時系列うろ覚えだけど忠宗は後西天皇の義理の伯父にあたるんだよね 娘まで厄介なとこへ嫁がせてたまるかという幕府側の先手打った話?
724 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 14:20:43 ID:CuotIvt1
>>721 伊達さんは次代になっても他所の人間に迷惑をかける人たちなんだなぁ・・・
725 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 14:32:31 ID:k8yfm8Sw
親から聞いた話だから間違ってたらスマン
>>707 の鍋姫様、大藩伊達家の申し分ない姫君だったのだが体中のいぼに悩んでいたという
政略結婚には重大な問題で、忠宗が特に豪華な嫁入道具を用意したのも姫が疎まれないよう気を遣ったためだとも
幸い姫は立花家で大事にされ、藩主の母にもなったがいぼには生涯悩まされた
そして自分のように悩む女性を救いたいと願いつつ亡くなった姫の墓からは水が染み出すようになる
(ぐぐったら墓前に供えられた水とあるがよくわからん)
この水を付けるといぼが取れると評判になり、現代でも実際に親戚がこれでいぼ取れたらしいです
故郷の仙台を向いた墓石の下で眠る鍋姫は、いぼ観音と親しまれて今も女性たちを救っているという話
726 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 15:32:40 ID:Omu6oKV7
>>724 次代だけで済んでりゃよかったんだけどな・・・
727 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 15:37:25 ID:DpZukUDh
>>725 切ねええええ
藩主の母になったとはいえ結局は遠ざけられてたみたいだし
イボは今でも基本的に液体窒素で焼くしかないんだっけ
ウィルス感染だから旦那も藩主として接触を避けるのは
仕方ない面もありはするけどなあ・・・
728 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 15:41:40 ID:RBnslmzN
イボコロリが効くならそっちが痛くなくていいんだぜ。
729 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 16:05:06 ID:DpZukUDh
>>728 あれはサリチル酸だから顔には使用厳禁だったような (´・ω・)
730 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 16:07:29 ID:rwSDdJeL
イボはまともな外科技術なく切除すると後が大変 俺は子供のころ、イボ(水疱瘡?)が腕と顔に出来て地元(田舎)の薮んとこ連れてかれた 母親とばーちゃんに両手両足押さえ付けられて泣き叫ぶ俺を尻目に巨大爪切りのようなピンセットでブチ切られた あげく傷が化膿して高熱出して街の夜間救急に駆け込んだらかーちゃんが思っくそ医者に叱られてた 顔のは父親がさんざ抵抗したから腕のだけとられたんだが それでも化膿するは切ったところから他に伝染るはでえらい目に 現代でもこんなだから昔なんて切除や事後療養も含めて大変だったろうな
731 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 16:13:48 ID:EGPue39Y
当時はできものの切除ができるってだけで医者になれたからな
732 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 16:52:09 ID:r4/ZRv3m
できものを無理やり自分で除去しようとして死にかけた大名がいたくらいだからな。 松平元信とか徳川家康とか東照大権現とか。
733 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 17:33:06 ID:9v0MwB6I
>>732 阿茶「大事なひとなので三回いいました」
734 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 17:58:52 ID:1paISA5J
世良田二郎三郎は無事だったのか。 何代目だっけ?
735 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 18:06:29 ID:u+dOP+Qv
>>731 いまなら抗生物質で治るのに、と思ってぐぐったら
面疔って脳炎や髄膜炎を起こすのね…黄色ブドウ球菌こええ。
>>732 尻にできたを風呂で突く→思いっきり、あげく病死って公家だったかいたような…
736 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 18:08:00 ID:mT0I4khj
>>715 氏康と信玄の血を引き家康の娘を嫁にもらった氏直とか面白いのはいろいろいるよな
737 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 18:17:40 ID:zCjPxtxu
>>736 おじいちゃんと気軽に声をかけられないな。
738 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 18:20:49 ID:iHzOKhen
毛利は、宇喜多と同盟する時に、反対した三村を潰したけど、結局宇喜多にも裏切られて悪い話だね。
739 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 18:24:24 ID:/4CuYw1F
>>736 足利義持か?
以下Wikipedia足利義持より
>浴室で尻の傷を掻きむしって感染症にかかり、重態に陥った
細菌という存在が知られるようになるのはずっと後の時代だからなぁ
740 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 19:41:18 ID:CSTZkbJC
>>725 忠茂「女性は容姿容貌よりも気立て、器量を大事とすべきに存じます。」
紹運「うむ、わしも容姿に拘らず奥を迎えたらよき息子らに恵まれ申した。」
宗茂「……」
741 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 19:49:33 ID:iuc+Orm5
>>739 医学の歴史は調べれば調べるほど、抗生物質の発明がいかに画期的なものであったかよく分かる恐ろしいエピソードばっかりだからなあ。
742 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 19:57:13 ID:CuotIvt1
>>740 「うるせーあんたが婿入りさせたんじゃねーか・・・」という心の叫びが聞こえる
743 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 20:11:15 ID:uxuLJXzk
>>740 容姿で室を選び、見目麗しい姫御を得て
それを以て有能な婿を惹き寄せ迎えるのも妙手と存ずる
744 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 20:12:09 ID:BhOwVY3W
>>741 ああ、昔読んだ獣医さんのエッセイ風小説で、何度も何度も
「この頃はペニシリンがなかった」「当時ペニシリンがあったら」「抗生物質という魔法の薬」
みたいに出てきたなあ
745 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 20:15:21 ID:EGPue39Y
あとは日本伝統の「脚気」の対症法ビタミンDの摂取とかね 「脚気」と「壊血病」は知識さえあればまずかからない病気だからなぁ
746 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 20:53:00 ID:/9R7JIt1
>>744 漫画の仁だとペニシリンが魔法の万能薬みたいに大活躍してるしな
747 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 21:03:38 ID:CuotIvt1
748 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 21:29:39 ID:QDRb2/iA
病気関連で一つ投稿。 こういう説もあるらしい。 武田家にて重きをなした穴山梅雪は、若い頃から「痔」主であった。 外痔核、すなわち「イボ痔」で、しかもかなりの重症であったらしい。 周知のとおり、武田勝頼との意見が合わず遂には裏切って武田家を滅ぼした 梅雪は、武田討伐後、家康とともに信長から安土城へ招待を受ける。 信長から大いに饗応されたが、それがいけなかった。 大量の飲酒により痔が悪化したのである。 更に堺見物に出掛け、そこでも堺の商人たちから饗応を受け(当然飲んだ)、 ますます悪化させてしまった。 主家を滅ぼしたという疾しさから相当なストレスも感じていたのだろうか、 ストレス→飲酒で発散→酔いが醒める→ストレス→飲酒で(略) という循環に陥ってしまっていたか? 間の悪いときに本能寺の変勃発。 当初は家康とともに脱出をはかったが、既に歩行も満足にできない状態に陥っていた 梅雪は、枚方で脱落。思うように先へ進めないうちに土民の襲撃にあい落命。 穴(肛門)にできた山(イボ痔)が命取りになった梅雪さんのかわいそうなお話。
749 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 21:40:30 ID:hOxsLVuk
いい話の続き。 深町埋忠のおかげで命拾いした隆信だったが、行くあてがあるわけではない。 とりあえず筑後川に行くと、川の向こう岸から舟がやって来た。 「私は蒲池鑑盛の使者でございます。どうぞ当地へおこし下さい。」 隆信を迎えた鑑盛は衣食や屋敷を提供し、隆信を保護した。 屋敷はかつて落ち延びた隆信の曽祖父、家兼の匿われた一木にあったという。 2度も龍造寺一族を匿った鑑盛であったが、まさかこの隆信が自分の一族を 滅ぼすだろうとは夢にも思わなかったのではないか。
750 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 21:56:29 ID:9bY3QrRs
>727 ハトムギ茶が一応薬効あり、ということで 濃縮エキス錠剤が処方される事もある だが俺みたいにそんなの効きゃあしないとなると やっぱり液化窒素で焼いた方が手っ取り早い
751 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 22:12:05 ID:WxGt4ElM
752 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 22:29:39 ID:lgw+/6O2
>>707 muneshige.com!
.jpも,orgも空いてるのになんでcommercialを…。
753 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 22:34:27 ID:0fhI/PCb
あるいはグルジアの.geでmuneshi.geとか
754 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 23:53:03 ID:YSdzqgkb
>>722 のぼう読んだ直後だけに、その逸話有難いわぁ
しかし、読んでて思ったんだが、宗主(最高司令官)と切り離された城って凄い脆いよね
そんななか、忍城が何で耐えたかも分からんのだが
お前の主君裏切ったぜ?って言われた時、家臣らはあんなに踏ん張れるものなのかね?
755 :
人間七七四年 :2010/03/28(日) 23:55:18 ID:3D7bG7u0
>>753 ジョージアって呼んであげてください。
缶コーヒーイメージ付きすぎだけどね、この名前w
756 :
人間七七四年 :2010/03/29(月) 00:20:04 ID:pYMKijw0
>>754 ちゃんとした家臣ならそうする
関ケ原の時も増田長盛の居城、大和郡山で留守番してた渡辺勘兵衛は主君の手紙持ってこいって言ってたし
謀略で城を盗られることが日常的にあった時代だから、用心するのは当然
757 :
人間七七四年 :2010/03/29(月) 00:25:35 ID:zRv69NSX
なんという小野田少尉
758 :
人間七七四年 :2010/03/29(月) 00:39:37 ID:IZqB6dxJ
>>749 ガチでいい話なんだよね。
クマー隆信はなぜ蒲池鎮並を族滅しようとか思っちゃったんだろ…
>755
わがこころのグルジア〜
759 :
人間七七四年 :2010/03/29(月) 00:40:46 ID:xEBAMTq5
素敵すぎるw 家臣にしたいし嫁さんにも最適
760 :
人間七七四年 :2010/03/29(月) 01:38:06 ID:izHZ/KWa
>>157 √ ̄ヽ--ヘ
/ ☆ ヽ
0く━=ニニ二>
// ●ヽ/● |
/ ヘ ( _●_) ミ 恥ずかしながら、帰ってきたクマ
/ヽノ彡,,.. .|∪| ノ
/ 丿,, /\ヽノ/ゝ 丶
(  ̄jヽ,/_l ヽ
\ ____ ̄{。 _____
761 :
人間七七四年 :2010/03/29(月) 01:43:44 ID:CN+UhURt
>>758 レイ・チャールズ?いや、彼は普通にわがこころのジョージアか。
762 :
人間七七四年 :2010/03/29(月) 11:04:22 ID:GQMwSr7y
浅野長政から伏見城の普請奉行の一人、野々口五兵衛あて書状 「最近連絡できなくて申し訳ない。太閤殿下が近日中に様子を見に行くそうなので、そちらの普請等、 油断なく申し付けられたい。 (中略) ・・・ところで、殿下ご寵愛の猫が大坂城から行方不明となり、捜しているが、なかなか見つからない。 あなたは、黒猫一匹、虎毛が二匹飼っていると聞いた。 ぜひ、虎毛のうち毛並みの良い方をしばらく貸していただけないだろうか?その間に当方で元の猫を 捜し出した後、お返ししたい。 文禄二年十月十九日 野々口五兵衛どのへ 浅野弾正」 要するに秀吉の寵愛の虎猫を見失ってしまい、野々口の猫で代用してごまかそう、という事らしい。 その後、長政が猫を発見できたか定かではないが、文禄四年、彼は一時期嫡男・幸長とともに 能登へ配流となった。 ・・・が、それとぬことは関係ない、と思われる。
763 :
人間七七四年 :2010/03/29(月) 11:09:35 ID:Hv9Ahrww
ムツゴロウ「模様が同じなら、主役級のヤツでも案外バレないもんですよ」 観客「違うよ! チャトランの顔も模様も全然違うよ!」
764 :
人間七七四年 :2010/03/29(月) 11:24:40 ID:gENPrNbS
何故そんなエピソードが残ってしまったのか
765 :
人間七七四年 :2010/03/29(月) 11:28:01 ID:X2EbKdJx
書状 が残ってたんじゃ。
766 :
人間七七四年 :2010/03/29(月) 14:04:37 ID:u7Sou4R1
マジで寵愛してたら一発で見破るだろ。 怒りに火注ぐぞ、その小細工はw 模様で見分けにくい黒猫同士でもしばらく様子見れば自分の猫かどうかわかるもんよ。
767 :
人間七七四年 :2010/03/29(月) 16:06:40 ID:y2dz2ugO
>>707 娘1人だけみたいだし手放したくなっかったんだろw
親ばかの話だなw
そーいや別のスレでしったがマーくん、立花宗茂、真田信繁(幸村)
て同い年なんだな、妙に繋がりのある三家だな。
768 :
人間七七四年 :2010/03/29(月) 16:47:53 ID:uKygsLAI
へえ〜他の二人がデビュー早くて独立してるから幸村がわりと若いイメージだったわ
769 :
人間七七四年 :2010/03/29(月) 17:31:05 ID:IRhM4vyl
1567年生まれの3人か 他に小早川秀包も同い年だよね
770 :
人間七七四年 :2010/03/29(月) 20:21:22 ID:7mriKN6E
武田信勝、成瀬正成、塙団右衛門、有馬晴信、森力丸なんかも同い年 みんなイメージ違うわあ… 有馬晴信なんか結構古株のイメージあったんだけど
771 :
人間七七四年 :2010/03/29(月) 20:43:24 ID:MPCDOpTu
天正16年、留守政景率いる伊達軍は大崎氏との合戦に大敗を喫した。 この際、捕虜とされたのが、泉田重光と長江月鑑斎である。 重光は政景と並ぶ本作戦の大将、月鑑斎も桃生郡に大きな兵権を持つ重臣だった。 二人は蟻ケ袋城というところに幽閉されることとなる。 さて、しばらくして、蟻ケ袋を訪れた男がいる。最上義光の重臣、延沢能登守である。 最上家は大崎方として、和議の仲介などを行っていた。 延沢は個別に月鑑斎と会い、何やら相談した。 それから間もなく、重光は驚愕する。 月鑑斎の帰国がかなったのである。しかも多数の護衛までつけてもらった上で。 伊達や大崎で何か交渉の進展があったのか?自分達はどうなるのか? 重光主従には外の様子は分からず、不安になるばかりだった。 やがて、延沢は重光にも面会し、「以後は最上・大崎方に与してはどうか?」と諭した。 重光はきっぱりと拒否。 すると、場所を移されながら幽閉が続くことになってしまった。 (そうか…月鑑斎の野郎、最上に寝返りおったな!) 確信した重光は何とか手を尽くし、主君に長江裏切りを伝えた。 知らせを受けた伊達政宗は激怒。 月鑑斎を秋保において自害させ、長江家を滅ぼしてしまったいう。 なんか、誰かが「計画通り」とか言った気がする。たぶん気のせい。
772 :
人間七七四年 :2010/03/29(月) 20:54:18 ID:TDQS3B5F
| ヽ | / | . l \ | / | |___ | _,、 -| |___  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ._,,」 !;;;;;;;;;;`7:''''''''''''''''''''''''''''''''''''''´ ̄:::l;;;| !;;;;;;;;;;/::::::::::::.:.: .:::::!;;| |;;;;;;;;i゙::::::::'"`'=t、,__.. ; .:; _,,,、ィ'"`.l;;| ,r゙-、;;;l:::::::::::''=‐ェ::ュ、`''''.=::'"z.ェェラ レ、 | 〉'‐|;;|:::::::::::: ..:::::::: ::. !ノ! l { ( l;;;!::::::::::::.... ..::::::::::::: ::::. |' | ヽ`'‐V:::::::::::::::::....::::::;、-:::.. :ヽ::. |./ ヽ、,,`:::::::::::::::::;;;;;;;;;`ニ - ニ,,,,,_. ! < 気のせい気のせい '、:::::::`''''''"ニニ----ニ``''' l l;:::::::::::::::::::::.....:----::::. / ,rァ|ヽ;::::::::::::::::::.. ,.'iヽ , ' 〃!、 `''ー、;;;;;:::::::::::::::::;、rソ .ハヽ\ _/ .,','::ヽヽ `ヾリル从リiン′,' l::゙,ヽ ヽ、 ''"/ i i:::::::ヽ \ `マハソ′.,:' /:::::', ',. ヽ`' . / .l l:::::::::::::\ \ `′/ /:::::::::::', ', ヽ
773 :
人間七七四年 :2010/03/29(月) 22:23:00 ID:pCmjMhyh
やっぱりフェイトちゃんが人気なのは当然として 金髪ってのは日本人が大好きだと思う そもそも日本人は昔から金が好きだから 要するに何が言いたいかと言うとフェイトちゃんは可愛い
774 :
人間七七四年 :2010/03/29(月) 22:24:06 ID:pCmjMhyh
申し訳ない
775 :
人間七七四年 :2010/03/29(月) 22:34:13 ID:jfdrYXFc
福島の家中もそうだな。 おかげで広島城に籠城した連中は 尾張、紀州、水戸をはじめ御家門、譜代大名家に 仕官出来たというし・・。
776 :
人間七七四年 :2010/03/29(月) 22:36:58 ID:NSeR/kNi
>>771 こんな奴なのに妹に「甥っ子と喧嘩しちゃだめじゃない!?」と言われると、涙目で合戦やめちゃうんだよなあw
777 :
人間七七四年 :2010/03/29(月) 22:39:58 ID:09+MuS2B
>>770 政宗の側室に団右衛門の娘がいるのだが、どういう繋がりなのか不思議で仕方がない
778 :
人間七七四年 :2010/03/29(月) 22:46:30 ID:eXiePoaF
よしわかった。金についての話だな 戦国期の金といえば有名なのが、武田信玄の甲州金だが、これは当時から全国的にも名高く、 武田家滅亡の後多くの「埋蔵金伝説」が生まれた。 「諏訪湖の湖底に大量の甲州金を隠した」「軍用道路である棒道に埋蔵金が埋められている」 と言ったものは有名だが、これに加え 『信玄は生前、穴山梅雪に命じて大量の甲州金を隠させた』 と言うものがある。この伝説によると、本能寺の後、伊賀越をする家康と別れた 穴山梅雪が盗賊によって殺された際、この盗賊が梅雪の遺品のなかから書付を見つけ、 それを頼りに埋蔵金の「三分の一を見つけた、というのだ。 では残りの三分の二は未だ…? ちなみに1971年、山梨県勝沼市のぶどう園でゴミ捨て用の穴を掘っていたとき、 その穴から「ひるも金」と呼ばれる室町幕府時代の金貨2枚と、甲州金18個が発見された事があった。 これは武田氏家臣、勝沼氏の隠し財産であった、といわれる。 甲州金の本場、山梨。そこには未だ多くの甲州金が、人目に触れず隠れているのかも知れない。
いい話だ。
780 :
人間七七四年 :2010/03/29(月) 23:23:24 ID:7mriKN6E
ロマンはあるけど信玄は埋めてないだろうな あったら勝頼が使ってる
781 :
人間七七四年 :2010/03/29(月) 23:28:14 ID:xZh4FNfv
金だけあっても戦はできぬ
782 :
人間七七四年 :2010/03/29(月) 23:54:06 ID:EjPNY3Gg
783 :
人間七七四年 :2010/03/30(火) 00:44:32 ID:5Uyv65Ik
信玄公がブドウ畑に隠したと伝えられる温泉を掘り当てた農民は 石和温泉が日本有数の温泉地に成長し、観光でたんまり金が入りました めでたし、めでたし。
784 :
人間七七四年 :2010/03/30(火) 01:15:48 ID:O27qgtf/
永禄五年(1562)、織田信長と徳川家康の間で同盟が結ばれる。世にいう『清洲同盟』である。 この事を知った駿府の今川氏真は、家臣の篠束城主、西郷内蔵助俊雄を家康の元に派遣した。 西郷俊雄は家康を難詰する 「あなたが今あるのは誰のおかげか!?今川の恩を忘れられたか!?」 しかしこのような西郷の言葉に、家康が動じることは無かった。 同年、九月 西郷俊雄は再び家康の前に出た 「今川家を見限り申した。どうか幕下にお加え下さい!」 西郷が家康の変節を罵倒したのは、ほんの僅か前のことであった。 滑稽と言うにはあまりに残酷な、戦国という時代の一面である。
785 :
人間七七四年 :2010/03/30(火) 06:57:05 ID:BZZ7EgrN
>>778 よし、8時間15分¥44,510也をかけて山梨へ行くぞ
786 :
人間七七四年 :2010/03/30(火) 11:54:32 ID:TQFb7vri
>784 一番嫌われるtypeじゃないか?w
787 :
人間七七四年 :2010/03/30(火) 13:37:07 ID:tCw7GhWn
信長だったら生かしてもらえないだろうな
788 :
人間七七四年 :2010/03/30(火) 13:47:33 ID:FJTmIQa9
武州忍城、成田長泰には4人の弟が居たとされる。 それぞれが各地の城代として派遣されていたり、長泰&氏長の名代として成田軍を率いて活躍したりと、中々の器量人揃いであった。 中でも一門の長老として重きを成していたのは成田肥前守泰季と成田近江守泰徳の二人。 肥前守泰季はとある戦の際、近習が旗を奪われたのを知り、夕闇にまぎれて敵陣に単騎潜入。自分の旗を持っていた敵兵を探し出し、切り捨てた挙句に旗を取り戻し、帰陣するというムチャをやらかしたホドの武勇の主……兄貴には軽率だと叱られたケド。 近江守泰徳は兄弟の末弟で、御館の乱の際、成田軍を率いて厩橋城まで進軍したと言う記録が残っている。 越後に援軍を出した北条氏邦の第2陣としての行動だったのか、氏邦の留守を預かる守備隊だったのかは不明であるが、一軍の将として信頼は受けていたのである。 そして時代は流れ長泰の死後。ラスボス様の関東仕置きが始まる。 当主氏長は小田原城に篭城する事になり、残された忍城の城代として泰季が、その副将として泰徳が指名された。 城内は肥前守泰季が抗戦派。近江守泰徳は和睦派であった。 しかしいざ、石田三成の忍城攻めが始まると、緒戦は兵力差にも係わらずほぼ互角。 あっという間に膠着状態になってしまう。 そして、膠着状態の打破を目指して行われたのが、あの有名な「水攻め」だった。 関東ローム層の土質は脆く、突貫工事の堤防には不向きだった。 城の中から忍者が放たれ堤防を破壊した。 付近の農民がわざと手抜き工事をした。 等々、様々なコトが言われているが、とりあえず水攻めは失敗。それどころか決壊した堤防から溢れた水は、石田軍の陣に押し寄せ、多大な被害をもたらしたと言う。 しかし、たった一つ。この水攻めで挙げた成果がある。しかもかなり大きな戦果。 長期間の篭城。しかも水攻めで床の上まで水が溢れる悪環境に晒された為、守備側の総大将、肥前守泰季が病にかかり、急死してしまったのだ。享年75歳。 2万を超える大軍に包囲され、援軍は続々と到着予定。城中は農民町民女子供を含めて5千。 その上武勇で鳴らす指揮官まで失った。 フツーならココでギブアップする。実際、現実が見えてたらやってらんないよね。 が、泰季、死の間際に遺言を残す。 「ワシの後を継いで戦の指揮を執るのはワシの息子、長親とする」 「泰徳は知恵はあるが勇に乏しい。大将とすべきは長親である」 激怒したのは近江守泰徳。 だって、現実を見ろよ!ムリじゃん!成田の家を残すなら降伏だって、絶対! 脳筋の兄からは腰抜け扱いされた挙句、副将である自分は無視で、いつの間にやら甥っ子が大将とされていたのである。 しかもその長親、今までは父の影に隠れて無能扱いされていたと言うのに、あっと言う間に城内の意見を抗戦で纏め上げてしまった。 誰よりも成田家の為を思っているハズの自分が無視され、蔑まれ……思い余った泰徳は浅野長政に寝返りを申し入れる。 何なら氏長や長親の系統が断絶しても、自分の系統さえ残れば成田家は安泰、という思いがあったのかもしれない。 が、その企てさえも上手く行かない。 後は浅野からの合図を待てば良い、という所まで話は進んでいたのに……何があったのかは記録にはない。ただ、手違いで合図が上手く行かなかった、とだけ書かれている。 結局、徹頭徹尾戦に反対し続け、徹頭徹尾思うように行かなかった成田家の宿老。 小田原城で「だって家の存続の方が大事だし」とか言ってラスボス様に寝返ったもう一人の甥、氏長の話を聞いた時、どんな思いを抱いたのだろう? 「だったら何で最初っから戦なんか始めるんだよっ!!」 「小田原に籠もるのを拒否れば済んだコトじゃねぇか!!」 関東仕置き後の近江守泰徳の消息を伝えるモノはない。
789 :
人間七七四年 :2010/03/30(火) 14:08:01 ID:ltZQe3C8
>>707 これがきっかけでうちの先祖様は仙台から柳川移り住んだんだよな
忠宗が見栄ははらなかったら俺はここにいないかもなw
>>725 親父からその話聞いたから間違いないと思う
俺もその水でいぼ治ったしw
790 :
人間七七四年 :2010/03/30(火) 17:44:34 ID:miGjFPzi
>>786-787 主命である「家康を難詰する」を全うしただけだよ。
で、きちんと仕事をして、役目を果たしたから心置きなく裏切ったんだよ、律儀な良い話じゃないかwww
791 :
人間七七四年 :2010/03/30(火) 20:47:21 ID:haTZeeyI
>今の浮世は結構づくし 森の武蔵に池田が無くば 諸国諸大名は長袴 この池田ってのは恒興のことですよね? 鬼武蔵と並び称されるのだけの伝説があるのでしょうか?
792 :
人間七七四年 :2010/03/30(火) 21:26:14 ID:O27qgtf/
>>791 池田恒興と森長可のコンビは、信長に露骨に贔屓されてる乳兄弟(地位)と
信長に露骨に贔屓されてる若手武闘派(暴力)の婿舅って言う、
例えて言えば悪い正太郎少年と鉄人、って感じのもの。
池田恒興のエピソードって言えば、本人ではないが家臣が、恒興が信長の乳兄弟なのを良い事に
裁判とかでも自分達のいいようにねじ曲げようとしたところ、信長が偶然通りかかって
これをやめさせた
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-269.html と言う話がある。
能力はともかく、そういう家臣をのさばらせているような池田恒興と言う武将の人間性は
押して知るべきかと。
793 :
人間七七四年 :2010/03/30(火) 21:30:55 ID:vq2a1H5/
ってか池田の娘と森武蔵が結婚してるし
794 :
人間七七四年 :2010/03/30(火) 22:01:58 ID:QjogELsM
筑前か信雄様か… 筑前は2国くれるだと!? ヒュー、旧主とか関係ないぜ!今すぐ犬山城攻め取っちゃる!! とかやる方ですな。
795 :
人間七七四年 :2010/03/30(火) 22:09:00 ID:+pNLQil1
796 :
人間七七四年 :2010/03/30(火) 22:13:37 ID:g6bgyz5u
現実が見えてる分強硬派と上手くいかずに割り食うってよくある話だけど そういう人は立場難しいよねぇ。
797 :
人間七七四年 :2010/03/30(火) 22:33:28 ID:HbLO2cFL
>>792 その二人は織田が天下をとっていた場合
重臣中の重臣として政権の中心になる人たちだよね。
798 :
人間七七四年 :2010/03/30(火) 23:20:18 ID:bGda1QTQ
池田さんちはとにかく「女が強い」っていうイメージがあるな 元々信長の乳母兼信秀の側室っていう立場から成り上がって感じがあるし、 恒興の娘も鉄砲隊率いただの妖怪退治をしただの物騒な逸話のある女性ばっかだし
そんな家に娘を嫁がせる感覚は畏敬すべきなんだろうか。
800 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 00:52:24 ID:7p/ZueQN
せっかくなので、池田家の猛女の話をひとつ
池田恒興の娘は、あの森長可の嫁でスナイパーな長女、殺生関白の嫁の次女、
浅野幸長の嫁で名古屋婚元祖の春姫の母な四女と男どもよりも目立つ人材揃いですが、
特に個性的なのが次女の天球院
女ながらに怪力で妖怪退治の逸話も残っている戦国最強女丈夫の呼び声も高い鬼嫁です
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-537.html 彼女は山崎家盛のもとに嫁いでいたのですが、何せこんなとんでもない嫁だったので夫婦仲もあまり宜しいとは言えず、
家盛は側室を作って正妻ほったらかしで殆ど家に戻ろうともしなかったとか
それでも何だかんだで夫婦を続けていたのですが、慶長五年ある事件が起こります
そうです、会津征伐のために徳川家康及び諸将が上方を離れたすきに石田三成が挙兵したのです
三成は夫不在の大坂屋敷を守る夫人たちに人質になることを要求します
会津征伐に下向した諸将の屋敷はどこもかしこも大騒ぎです
そして、三成としても特に人質として大坂城に押さえておきたい奥方がおりました
そうです、徳川家康二女にして、池田輝政の内室、督姫とその子供たち(つまり家康の孫)です
領地の都合もあって西軍につかざるを得ない家盛ですが、嫁の兄は家康の娘婿ですし、
死んだ妹は西軍と決裂した加藤清正の先妻であり、弟が養子になってたりもしています
家盛は督姫を自宅に匿った上で、長束正家と交渉して輝政の妻子の安全を確保した上で
こっそり督姫たちを三田に逃がすことに成功しました
その後、田辺城攻めに参加しているわけですが、殆ど気持ちは東軍なので出来レースです
山崎家盛は督姫及びその子供たちの安全を確保した功績により、因幡国若桜城に加増転封となります
ところが、その直後、家盛の正室であるはずの天球院は鳥取城主となった池田長吉の元を訪れます
そばに連れている女中は長刀など持っています
長吉「姉上いかがなされた?」
天球院「どうしたもこうしたもないわよ!? あの人ったら、義姉さまを逃がすことに躍起になって、
妻である私のことすっかり忘れてたのよ!」
長吉「そう言えば、姉上は確か大坂城に」
天球院「私の妻として大坂城で人質になってくれ、だなんて。冗談じゃないわ!
今まで私のことほったらかして、他の女とよろしくやってるくせに、こんなときだけ妻だなんてホント馬鹿にしてる!」
長吉「はあ、それで姉上は山崎の家を出て来たと……」
天球院「ええ、だから、これからは長吉、あなたのところに世話になるわ! よろしくね!」
そんなことがあって、池田長吉は長束正家からせしめた財産で鬼嫁改め鬼姉を養うことになったのでした
801 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 01:19:58 ID:7p/ZueQN
訂正 天球院様は三女です
802 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 03:57:05 ID:PTcWoImS
うわあ、出戻りの鬼小姑。最凶!
803 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 10:49:30 ID:7FMcw/JK
>>797 だがしかし、天はめんどくさい者をお選びになるのですた
804 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 10:53:44 ID:BdiXVpay
「人生とは無情だ!天はこの長可を地上に生まれさせながら何故家康まで生まれさせたのだ!」
805 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 12:01:24 ID:1QHFXp5Z
御遣い殺す奴なんとかさせるために神々が仕組んだに決まってるだろう、jk
806 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 12:41:51 ID:9VxrcqlV
系図をよこせ 北条氏を滅ぼして関東の大大名となった徳川家康は、桐生にいた北条旧臣のある男を呼び出した。 その男は新田氏嫡流の岩松守純で、新田氏といえば偶然にも(!)家康の同じ血流である。 岩松家は家臣の由良氏に家を横領されすっかり落魄していたが、名家の子孫を優遇する家康 に仕官することで御家再興ができるとwktkしていた。しかも、守純は家康と同じ新田氏であり、 家康にとってこれ以上の血統はあるまい。 しかし、仕官の見返りに家康は新田氏の系図を要求し、守純は頑なにそれを拒否した。 家康は守純を旗本としては家格の高い交代寄合に取り立ててやったが、石高はなんと20石。 さらに、岩松家が新田の名字を名乗ることを禁止した。 要するに、「新田系図を譲渡しなかったこと」に対する家康の仕返しであった。 岩松家が新田氏に復し、華族に列するのは明治4年のことになる。
807 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 13:33:33 ID:FmgRQBX1
奪った系図を使って自分の系図を改造しようとしてたんだろうなw
808 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 13:36:04 ID:Jfl2br8H
この時代だとそう珍しくない事というのがというのがなんとも>系図をよこせ
809 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 13:37:15 ID:7v0MaAae
20石とかひでぇw
810 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 13:40:52 ID:Fb3NexVR
交代寄合ならそんなもんじゃね?>20石 この手のは明治後に作られた話がほとんどだと思う。
811 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 16:16:24 ID:UqxqEnCz
ざっとググってみたけど、 岩松家は二十石じゃなくて百二十石じゃね?
812 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 16:23:48 ID:jls8GAzy
孫の代に100石の加増でそのまま120石で推移
813 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 17:58:01 ID:IUbcJIqA
官位を得るために新田氏を仮冒したと言われてるけど 賀茂じゃなんで駄目なんだい?
814 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 18:09:35 ID:Fb3NexVR
松平宗家が新田源氏を名乗ったのは家康の祖父の清康の時代から。 家康は生まれた時から世間的には新田源氏。
815 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 18:18:58 ID:iJcozww4
そういや葵紋も本多家から貰ったんじゃなかったっけ? んで本多家に葵紋を使うなって言ったら 『この家紋は元々当家の家紋です』って言われて渋々使用okした話なかったっけ?
816 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 18:20:43 ID:IUbcJIqA
うん? 家康って若い頃は藤原を名乗ってたんじゃなかったっけ?
817 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 18:32:22 ID:/41Uw7nh
818 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 18:36:52 ID:Fb3NexVR
>>816 それは三河守就任の時に朝廷から「得川氏が三河守に就任した例はない」って言われて、
家康と朝廷の間を斡旋していた近衛前久が「それならうちの家の子扱いにして叙任させよう」
って事になって、それで藤原姓を名乗った。
家康の立場から言えば藤原姓を名乗ったことの方が仮冒。
あとこれは、家康が新田源氏を名乗る事は、世間的にステイタスのある事ではなかった、
と言うことも表している。
家康が新田源氏を名乗ったのは、祖父からの引継ぎに過ぎない。
819 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 18:37:32 ID:IUbcJIqA
藤原姓名乗ってたから、新田とのつながりを作るために無理矢理に得川引っ張り出してきたんじゃないの?
820 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 18:38:28 ID:IUbcJIqA
あ、藤原が家康の仮冒ってのは解るよ
821 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 18:40:20 ID:Fb3NexVR
>>819 違うよ。家康のやることは何でもかんでも裏があると思いなさんな。
822 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 18:55:22 ID:IUbcJIqA
裏があるとかじゃなくて そもそも賀茂氏だった家康が三河守就任のために近衛前久の猶子で藤原ってことにして 理由は諸説有るけど家康は源氏名乗りたくて、得川の一流が藤原姓を名乗った事を理由に源姓に結びつけたんじゃないの?
823 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 18:58:43 ID:IUbcJIqA
あれ、なんか自分で書いてて何書いてるか解らなくなってきたなw そもそも家康が藤原を名乗ったのは何時なんだい? 三河統一前?それとも三河統一後?
824 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 19:07:52 ID:LQ9eWIzk
少しは自分で調べろw
825 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 19:14:51 ID:h1WAjzjR
結構解ってる人だと思うがな 少なくとも一行で済ます様なヤツよりはよく識ってる人だと思うぞw
826 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 19:16:13 ID:FmgRQBX1
別に物知り博士でも誰でもいいから あんまその話題で盛り上がるんなら相応のスレでやってくれ
827 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 19:26:34 ID:IUbcJIqA
ごめんね 偶々家康のルーツの話題がココで出てたから聞いてみただけなんだ
828 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 20:31:55 ID:/41Uw7nh
ルーツなんてどこまで判ってるかってのもねえ 例えば織田氏なんかは今では忌部氏と言われているけど、 尾張守護代として記録に出てきた室町中期の時点ですでに 藤原を名乗っている。
829 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 20:57:27 ID:hoVXzuPa
氏姓が形骸化して久しいし、本姓ってのもどれだけ実態があったのか・・ 名乗りで用いてるわけだから、まるで意味のないものじゃなかったろうが
830 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 21:57:27 ID:H+Jf+k8W
本姓だか名字だかよくわかんない使い方してる人とかいるし、当時ももうぐだぐだだったのかもわからんね。
831 :
人間七七四年 :2010/03/31(水) 22:08:19 ID:E8zFrp0P
江川英龍はなぜか山川の教科書に江川太郎左衛門坦庵と書かれていた
832 :
人間七七四年 :2010/04/01(木) 00:25:54 ID:O9OK9c5J
>>810 そんなもんな訳ない。
交代寄合は数千石クラスの旗本がほとんど。
普通の旗本と違って江戸定府じゃなく参勤交代しないといけないわけで、
そんな少知じゃ家計も困窮する罠。
家格は高いけど石高は低い岩松さん家みたいなのも何家かあるっちゃあるけど。
天正10年(1582)、小笠原貞慶は徳川家康の後援を受け、信州深志に入った。父が天文19年(1550)に
居城を武田信玄に奪われて以来、実に32年目にして信濃守護家が、本貫の地に復帰したのだ。
貞慶のもとには溝口氏・二木氏・赤沢氏ら旧臣が続々と帰参し、涙ながらに祝いの言を述べた。
「若様…いえ、殿…よくぞ……」「“待つ”こと…待つこと久しくして“本”懐を遂げたり……!」
この思いから、貞慶は「深志」の地名を「松本(待つ・本)」と改めた。
翌天正11年、貞慶は会津に亡命中の長時を松本に呼び寄せたが、「暗殺された、だと…!?」
喜んで会津を発つ支度をしていた長時は、恨みを抱く従者に斬り殺された。
(
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3668.html )
悲しみに浸る間もなく、家康から人質の提出と上杉攻略を命じられた貞慶は、嫡男・秀政を差し出し、
上杉に逆に松本まで攻められたりと、苦労しながらも淡々と仕事をこなした。
ところが天正13年、秀政を預かっていた石川数正が徳川家を出奔、秀吉のもとへ。あわてて自分も
秀吉の傘下についた貞慶だが、徳川方の高遠城攻略に失敗する等、上手く行かない。
天正14年、秀吉と家康の間に和睦が成立すると、思い切って貞慶は秀政を家康のもとに出仕させた。
この賭けは当たり、秀政は家康の孫を妻に迎える等、なかなかの厚遇を受けた。
だが貞慶自身は天正18年、追放された尾藤知宣をかばって秀吉の怒りを買い、改易されてしまった。
故郷を回復し、再び失った男は、家康から下総古河三万石を授かっていた秀政のもとに転がり込み、
文禄4年(1595)、異郷の地で世を去った。
834 :
人間七七四年 :2010/04/01(木) 00:48:39 ID:5Pab3gPQ
120石だと御家人扱いにならないんですかね?
835 :
人間七七四年 :2010/04/01(木) 00:49:10 ID:0gwEpzcR
「うう、父上っ…父上の無念は、この私が必ず……」父・貞慶の位牌を前に、小笠原秀政は誓った。 腹立たしい事に貞慶が改易された後の松本に入ったのは、一時期徳川を離れる原因になった石川家。 「何としても、再び旧領を回復するのだ!!」 あちこちに働きかけた秀政は、関ヶ原の戦いの際は宇都宮城の守備などという地味な仕事だった にもかかわらず、信州飯田五万石に栄転した。「よし、あと少し!」 慶長18年(1613)、待ちに待った機会が訪れた。石川数正の子・康長が、大久保長安事件に連座して 改易となり、後には秀政が八万石で入る事になったのだ。 「しかし、これだけで満足せんぞ。旧守護大名としてさらに一族の力を結集し、信濃一国をわが手に!」 元和元年(1615)、大坂夏の陣に参戦した秀政は、次男・忠真と、留守を命じられた長男・忠脩も動員して 賭けに出た。しかし、留守居の勝手な出動は家康の不興を買い、さらに軍監の藤田信吉の言に従って 戦機を逃し、秀忠の怒りをも買ってしまった。「これはいかん。相当の働きを見せねば!」 覚悟を決めた秀政は、本多忠朝隊とともに毛利勝永隊に突撃。長男・忠脩は槍ぶすまを受けて即死、 次男・忠真は全身七ヶ所に傷を負い、秀政自身も重傷、自陣に戻るも夕方になって息を引き取った。 その最後の言葉は「信濃は……」だったという。 唯一生き残った忠真に、ようやく将軍秀忠から沙汰が下ったのは、元和3年のことである。 「大坂の陣での働き、まことに大儀であった。」「ははーっ、有り難きお言葉!」 「その功績を称え、二万石を加増し…」「………♪」 「…播州明石十万石に転封とする。」「は?明石?!あのー私、西国に縁もゆかりも無いんですが…」 「だって、となりの本多忠政はキミのお舅さんでしょ?縁戚同士、仲良くやんなさい。」「………」 めげずに父同様あちこちに働きかけた忠真に、寛永9年(1632)新たな沙汰が下った。 「積年の働き、まことに大儀である。」「ははーっ、有り難きお言葉!」 「その功績を称え、五万石を加増し…」「………♪」 「…豊前小倉十五万石に転封とする。」「は?小倉?!あのー信濃から、さらに遠くなってるんですが…」 「だって、前小倉藩主の細川忠利はキミの婿でしょ?縁戚同士、仲良くやんなさい。」「………」 以後、小笠原家は信州に帰ることなく、明治維新を迎えることになる。
836 :
人間七七四年 :2010/04/01(木) 00:51:22 ID:55CHa8mS
>>833 いろいろあったけど息子がそこそこ出世してたんだしいい話とも言えるな
なんだかんだいって運ががいいというか・・
つーかなんで徳川裏切ったんだろう。裏切ったのに息子は厚遇されたんだろう
837 :
人間七七四年 :2010/04/01(木) 00:59:06 ID:F5EALxFc
秀政預かってた石川数正が豊臣に付いたからっしょ?
838 :
人間七七四年 :2010/04/01(木) 01:06:29 ID:Wa/QUKhM
岩松余話 完全な余談になるが、江戸時代の歴代岩松当主はぬこの絵が得意で「猫絵の殿様」と呼ばれた。 殿様の書いた「新田猫絵」は多くの人に所望された。なかでも上州・信州の養蚕農家には蚕の天敵 であるネズミ退治のために効果があるとされ、殿様にさかんにぬこの絵をリクエストしたという。 その名残から、明治以降蚕種を海外に輸出する際にはぬこの絵もセットで輸出され、ぬこの絵は男爵 岩松家にちなみ「バロン・キャット」と呼ばれたという。
839 :
人間七七四年 :2010/04/01(木) 01:14:42 ID:l23SNEkL
840 :
人間七七四年 :2010/04/01(木) 02:01:58 ID:iInPit4l
>>835 山国の信州より明石10万石とかのほうが実入りも多そうだが、やっぱ父祖伝来の地は格別なのかね・・・・
841 :
人間七七四年 :2010/04/01(木) 02:06:19 ID:VA1uRniy
バロン・キャットw ネーミングセンスとしては鮭様みたいなもんな気が…
842 :
人間七七四年 :2010/04/01(木) 02:43:51 ID:wkvDW6/b
843 :
人間七七四年 :2010/04/01(木) 09:10:18 ID:UF1J3OmI
>>835 これだけ厚遇されておきながら分家の唐津小笠原と本家の小笠原が
揃って長州征伐で致命的失態を犯して幕府を潰してしまうんだからなあ
844 :
人間七七四年 :2010/04/01(木) 09:28:04 ID:INUuxaqx
>>833 >>835 この小笠原にしろ小田さんにしろ、
先祖伝来の土地に対する執着心は相当なもんだねえ。
845 :
人間七七四年 :2010/04/01(木) 09:31:51 ID:cs93tdhe
>>843 彦根藩「大恩ある徳川に泥を塗りおって」
846 :
人間七七四年 :2010/04/01(木) 13:04:05 ID:R1McdF3F
847 :
人間七七四年 :2010/04/01(木) 13:26:56 ID:ldqGLldC
848 :
人間七七四年 :2010/04/01(木) 13:44:10 ID:CFHtGPY7
>>844 一所懸命 とか言うと、いい話スレ的なイメージに変貌
849 :
人間七七四年 :2010/04/01(木) 15:05:47 ID:Ezs66yis
兄ちゃんの親父「比興者と呼ばれようが、自分の才覚で切り取った土地はどんな手を使ってでも守らねばならない」
850 :
人間七七四年 :2010/04/01(木) 15:34:54 ID:N5KBLkg/
>>849 信雄「先祖代々の城地から勝手に土地変えとか許せるかってんだよな」
851 :
人間七七四年 :2010/04/01(木) 15:39:02 ID:+4NMM7qM
細川藩士「その点、ウチの殿はえら……えら…… 素直に褒められないのはなzぎゃー
852 :
人間七七四年 :2010/04/02(金) 07:14:51 ID:ZruSZdxH
強風とかの悪天候に関する話し無い?
853 :
人間七七四年 :2010/04/02(金) 09:14:23 ID:Y/jHQw1O
854 :
人間七七四年 :2010/04/02(金) 12:12:02 ID:we2iwgU3
>>852 いい話スレに出てた苗木城の話で
赤壁城
美濃の苗木城が完成したときは、白壁の非常に美しい城であった。
時の城主もこれが自慢であったが、その完成の夜、わかに嵐が起こった。
さて、夜が明けてみると城の白壁はすべて剥げ落ち、土台の赤土がむき出しとなっていた。
壁には爪でひっかいたような跡があったと言う。
城主はこれに大変驚いたが、多くの左官を集め再び白壁を塗りなおした。
ところがこれが完成すると、その夜又も嵐がおき、夜が明けるとやはり白壁は
無残に掻き剥がされていた。
以降白壁を何度補修しても、そのたびに嵐がおき、赤土の壁にと戻された。
一体何が起こっているのか?城主は何度目かの白壁を補修した夜、天守に籠り夜を徹して
白壁を見張った。
夜になり、風が強くなり嵐となった。するとその嵐と共に一匹の龍が現れ、苗木城の白壁を掻き落とし、
それを終えると嵐とともに木曽川の方へと帰っていった。
「これは白の色を嫌う、木曽川に棲む龍の仕業であったのか。」
それ以後城主は白壁を諦め苗木城の壁は地の赤土のままとし、世の人から「赤壁上」と呼ばれた、とのことである。
苗木に伝わる、赤壁上の伝説。
855 :
人間七七四年 :2010/04/02(金) 12:13:43 ID:we2iwgU3
うわやっちまった 下の2行×赤壁上 ○赤壁城 ね。
856 :
人間七七四年 :2010/04/02(金) 12:42:32 ID:GgXh/CLW
上から二行目も「にわかに」が「わかに」なってるけどね。 まあ、どんまい。
857 :
人間七七四年 :2010/04/02(金) 15:36:39 ID:uFv5wDlP
苗木城にちょっと興味を持ったのでウィキペディアを覗いたら
>>854 とほぼ同じ伝説が載っていて、更にオチまでついてた。
>実際には、苗木藩が経済的に弱体で漆喰を塗る経費が捻出できなかった、というのが真相である。
まあ、真実とはそんなモンでしょうねw
858 :
人間七七四年 :2010/04/02(金) 18:16:28 ID:T5K8ckH1
身も蓋もないけど、やっぱりそんなもんだよね。w
859 :
人間七七四年 :2010/04/02(金) 18:41:59 ID:j98h8f7M
>>857 なんというオチ
しかし藩の面子を守るための伝説だとしても
考えた人はなかなか夢があると思う
話は変わって 大内義隆と祈祷
信心深い大内義隆は東大寺に破格の金額を献金しとある祈祷を頼んだ
その祈祷の内容は「大内家の武運の上昇」と「陶隆房の怒りが静まるように」というもので
この時既に義隆と隆房の不仲は決定的であったため、神仏に頼って状況を改善しようと考えていたのだ
しかしこの祈祷で隆房の怒りが静まったかといえばそうではなく…
隆房は怒りを静める為の祈祷を自身に向けられた調伏と勘違いしてしまったのだ
この時の反応は書かれている本によってまちまちなのだが、主に
・未だにそんなものに頼る義隆に呆れる
・調伏を恐れて殺られる前に殺ろうと考える
の二つで、どちらにせよ謀叛を決行するための後押しになってしまっていた
そもそも隆房の謀叛に至る原因の一つに「陶氏の所領には東大寺から横領した地があるので一部東大寺に返還せよ」
という相良武任の意見を義隆が聞き入れた事にある
たとえ隆房が勘違いしていなくても、
その東大寺に自身の怒りを静める祈祷などされるのは決して気分のいいものではないだろう
祈祷で怒りを静めるどころか、どう転んでも火に油を注ぐ結果になる義隆の悪い話
860 :
人間七七四年 :2010/04/02(金) 22:39:35 ID:LBjh1sA2
貧すれば鈍する、というけど、末期の大内ってまさにそんな感じがするんだよな…
861 :
人間七七四年 :2010/04/03(土) 01:08:29 ID:+7dPUQrR
862 :
人間七七四年 :2010/04/03(土) 01:14:06 ID:6eqdpyjV
戦国ランスとか戦極姫とかが成立しなくなるような発言は慎め
863 :
人間七七四年 :2010/04/03(土) 01:30:04 ID:J0PovJ+Q
三国志とか戦国時代とか人気もあって 特徴的な色んな人物、エピソードもあるからそれらを利用して 話作るのは楽だし、全くのオリジナル作品作るより売りあげが見込めるんだろうな
864 :
人間七七四年 :2010/04/03(土) 01:31:24 ID:PROiMA5E
三国志モノの場合は中国、台湾での市場を見込めるというのが大きい 明日から始まる三国志ガンダムなんかもソレだし
865 :
人間七七四年 :2010/04/03(土) 01:48:50 ID:YzX8vNpU
昔の人だって京劇やら講談とかでその時代の価値観や需要にあった英雄や悪党に作り変えられて 史実とは完全に別人みたいになってる人もいるし その延長線といえばそうなんじゃないか
866 :
人間七七四年 :2010/04/03(土) 02:24:58 ID:+7dPUQrR
>>862 うむ、すまん
その例えを出されるとなぜだか素直に謝れるし
>>861 を認めてもいい気がしてきた
だがしかし、ランスの独眼流政宗の方が861のより男前であることは絶対譲らん
867 :
人間七七四年 :2010/04/03(土) 03:34:16 ID:Ko23iSAE
組屋地蔵 慶長五年(1600)、京極高次は関ヶ原の戦功により若狭小浜八万五千石に封じられた。 新領主となった高次は、美しい小浜の砂浜に、新たな城を築くことを考えた。 海と陸を繋ぐ要衝に城を作るのは、確かに理想的であった。が、その工事は難航を極めた。 何しろ土台として軟弱な砂浜に城を建てるのだ。その基礎を築くだけでも長い年月と、領民の莫大な負担を 必要とした。その領民の負担は、金銭や労力に留まらない、 慶長六年、城壁の建設に際しその安全護持のため、人柱を立てることになった。 人柱の提出は築城工事にも関わっていた地元の豪商、組屋六郎左衛門の責とされ、 組屋は泣く泣く、自分の愛娘を人柱として差し出した。 娘は無残にも、築城のためその生命を散らした。 しかし人柱を立てたものの築城工事ははかどらず、領民の負担ばかりが増えていった。 慶長十四年(1609)、城の完成を見ぬまま京極高次は死に、息子の忠高の代となった。 寛永十一年(1634)、京極家は出雲松江二十三万五千石に転封されることになったが、その時もなお工事は続いており、 なんと天守すら完成していなかった。 新たに小浜に入った譜代大名酒井忠勝は、この未完成の城を引き継いだ。 酒井家が小浜に入って早々、不思議な噂が流れた。 蜘蛛手櫓の近くから、毎夜毎夜、女の忍び泣く声がするというのだ。 これを聞いた城代家老、三浦帯刀が調査をすると、その泣く声がする蜘蛛手櫓は、かつて組屋の娘が 人柱にされた場所だとわかった。 三浦は娘を憐れみ一体の地蔵尊を造り、彼女の魂を供養した。その地蔵は「組屋地蔵」と号され、 本丸守護の守りとされた。 寛永十九年(1642)、多くの領民の負担と犠牲のもと、小浜城はようやく完成をした。 築城開始から42年という、城の建設としては異様な長さであった。 さて、「組屋地蔵」であるが、寛文二年(1662)五月の大地震で城の石垣が崩れ、その混乱の中行方不明となり、 そのまま忘れ去られた。 ところが、それから300年ほどの時が過ぎた、昭和三十四年(1959)の事である。 水害により崩れた石垣の修復作業中、南隅玉垣の諸石の中から、この地蔵尊が発見されたのだ! 江戸期の記録から、これが「組屋地蔵」であることが確認された。伝説だと思われていた組屋地蔵の、実在が確認されたのだ。 地蔵はは300年間、石垣の中にまぎれて、小浜城を守っていた。 今、組屋地蔵は小浜城跡に作られた小浜神社の入口脇に祀られ、石垣だけとなった小浜城を 静かに見守っている。
868 :
人間七七四年 :2010/04/03(土) 11:13:06 ID:V8kTHomS
人気者で英雄扱いされる信玄謙信は圧政で 人気の無い北条の方が当時の民衆からしてみれば善政を敷いている。 だから現在の物語では大抵北条は敵役の悪者なんだよな
869 :
人間七七四年 :2010/04/03(土) 13:30:28 ID:BdSHbPb8
870 :
人間七七四年 :2010/04/03(土) 13:53:40 ID:5Sc1c9z9
ラスボス秀吉の関東仕置きの際、武州忍城攻防戦での一幕。 圧倒的兵力で忍城を囲んだ石田三成の率いる上方勢。 時を移さず攻撃に入るが、堀と沼と田んぼに囲まれ、「登城するのに船を使う」といわれた忍城に、 中々効果的な攻撃が出来ずに苦しんでいた。 一方の攻め口を受け持っていた長束正家、先鋒の速水時之に厳しい言葉の使者を送る。 「他の攻め口からは鬨の声が厳しく聞こえて来るのに、ウチの陣だけは、ただ悪戯に日を費やすの みだ。いくら難所とはいえ、宇治や瀬田の橋と比べるようなモノではないだろう? 過去の歴史に残 るような武士がおらずとも、この程度の堀を踏み越える者はおらんのか!?」 速水はこの使者の口上を聞き、 「我等の攻めがぬるいと大将よりお叱りを受け、この時之、面目を失った! 各々、命を要らぬと思 う者のみ我に続け! 命の惜しい者は後陣へ退くが良い!」 と配下の軍勢に声をかけると、一目散に敵陣へと駆け込んだ。 が、いくら気合が入っていようと堅い城は堅い城。 あぜ道を一列にならないと進めないような場所で、まともに攻撃など出来はしない。 城からは先頭を突き進む速水時之目掛けて狙撃が繰り広げられる。 その内の一発が、時之をかすめ、彼のすぐ後ろにいた小栗某の胸を直撃した。 小栗は落馬し、助け起こされた時には息を引き取っていた。 時之の側仕え、真下藤兵衛はこれを見てヤバい、力攻めはムリだ、と思ったのか、時之の乗馬の轡 を取り、無理矢理引き返させる。 時之は「おのれ真下! 主命に逆らうとは何たる曲者! 離さぬと討ちすてるぞ!」と怒り狂うが、 それでも真下は怯まず、 「主を犬死にさせぬためなら、手討ちにされるのはむしろ本望である」 と真っ向から言い返した。 一方、叱責の使者に対する速水時之の返答を聞いた長束正家、少々狼狽していた。 「え、えっと……さっきの使者なんだけどね、キミらを励ます為にちょっとキツいコト言ったんだ ケド、別に責めるつもりはなかったんだ、いや、ホント。だから早まらないで、お願いっ!!」 その、宥めるための使者が速水の陣についた時も、まだ真下と時之の揉み合いは続いていた。 「離せ!」「離さぬ!」 押し問答を繰り広げる、頭に血の上った主従二人。 そんな所に「真面目に攻めろよ!」と言った本人から「さっきの無しね? 命を大事にね? 早まっ ちゃダメよ?」なんて伝言が届いたのである。 時之、火に油。 「ざけんなぁっ! 他の陣と比べて攻撃が緩いっつったのは誰だ! それは先陣たるオレらの責任だ ろ! オレらが命を惜しんで攻撃の手を緩めてると思われるのは我慢ならない! オレはここで死ぬ から、ラスボス様によろしく言っとけ!」 そう言うと、馬の轡を握ったままの真下を切り捨てる為に刀を抜く時之。 慌てて周囲の者がその手を押さえ、真下と共に時之を拘束にかかる。 暴れる時之を皆で宥めている所に、長束正家の帰依が厚い僧が、使僧としてやって来た。 「何たる勇将! 何たる忠士!」 涙を流して速水主従を褒め称え、長束の軽率を謝罪し、今無駄死にするより、後の決戦で励むのが 忠義であると切々と訴えた。 この僧の説得に、ようやく速見時之は刀を収め、真下藤兵衛を許したと言う。 っつーかその時にはもう夕方で、辺りは暗くて皆引き上げていたとか。
871 :
人間七七四年 :2010/04/03(土) 13:55:09 ID:5Sc1c9z9
こちらもラスボス秀吉の関東仕置きの際、武州忍城攻防戦での一幕。 石田三成率いる上方勢が忍城を包囲した当初、上方勢は兵力差にモノを言わせ、力攻めで決着をつ けようと考えていた。 処々の攻め口で攻撃がなされていたが、三成の受け持つ陣でも、忍城への総攻撃が行われていた。 三成勢は兵を三つに分け、その一つを難波田某、もう一つを川瀬左衛門、そして三成自身が率いて 攻撃を仕掛けた。 忍城からの迎撃に出たのは酒巻次郎、矢沢玄蕃允ら成田配下でも勇者と名高い者共。それに遊軍と して老将本庄越前守がサポートしていた。 兵力に差があったモノの、地の利を巧みに使う城方は有利に戦を進め、特に矢沢は三成本陣へと切 り込む活躍を見せた。 矢沢は自ら槍を持ち、三成まであとわずか、という所までせまったのだが、曽根部某という三成の 小姓が矢沢の前に立ちはだかる。 矢沢が曽根部を馬から突き落とす間に、辛うじて三成は逃げ延びたという。 更に三成を追撃しようと矢沢が兵をまとめていると、川瀬勢を迎撃していた一手が苦戦していると 本庄越前からの使者が来た為、急遽川瀬勢撃退の為に矛先を変えざるを得なかった。 この為に三成は命拾いしたのである。
872 :
人間七七四年 :2010/04/03(土) 13:59:24 ID:5Sc1c9z9
ラスボス秀吉の関東仕置きの際、武州忍城攻防戦での一幕三連投。
上方勢は忍城を包囲するモノの、兵力差を活かせず、力攻めでは決着がつかない。
一体どうしたモノかと城を遠巻きにしていた。
この後、三成の大筒攻め>>水攻め>>援軍を交えてのやっぱり力攻め、と展開していくワケだが、
城方は城方でイロイロとイベントを用意していた。
前日の総攻撃を何とか退けた忍城。しかし、その中で攻撃が薄く、暇だった一手があった。
「……なぁ、今日、オレらなんもしてなくね?」
「ヒマだったよね」
そりゃまぁ、キミらを攻撃する筈の人、日が暮れるまで部下と喧嘩してたんだモノ。
>>870 「でさ、ヒマ潰しに夜襲行ってみねぇ?」
「あ、それいいね。行こう行こう!」
折りしも季節外れの強風の夜。
正木丹波、長谷部隼人を筆頭に150人で夜襲を仕掛ける。
「○○の勢は表へかかれ! ××は裏から!」
「前々からの約束を果たす時だぞ! 長束の首はお前たちが取れ!」
わざと大勢に見せかけるよう、または内通者がいるかのように派手に声をかけて攻めかかる。夜襲
を受けた長束、中島の勢は慌てふためき、同士討ちする者、方々に逃げて行く者が大勢いた。
勢いに乗った夜襲勢、次は宇都宮氏の名代轟丹波(佐竹の配下、車丹波の間違い?)の陣に討ち入
ると、何の備えもしていなかった轟丹波、城方が深追いしているワケでもないのに利根川の河原ま
で逃げて行く見苦しさだった。
夜襲の城方はその後、調子に乗って速水甲斐(時之?)の陣に攻め込み、反撃を受けるも、上手く
撤退。
結局城方の討死は7名。負傷者20名余りだったという。それに対して上方勢の討死は120名余。
兵力差を考えても上々の戦果だったといえるだろう。
っつか、奇襲をしかけといて「次はあの陣!」なんて、深追いしすぎだろ。
以上三連投は「成田記」が出典なんだが、三成配下では川瀬左衛門、長束配下では速水時之が妙に
贔屓されてるんだよな。
何だろな、江戸期に子孫が成田家と関係してたのかな? 速水は大阪の陣で豊臣に付いて死んでるみ
たいだケド。
873 :
人間七七四年 :2010/04/03(土) 16:02:13 ID:JbqY1XkF
>>867 京極さん治世の悪い話だね
政宗公と相撲とらされた酒井さんのイエスウィキャンオバマ藩ね……
城の由来には随分重い話が残ってるんだなあ。
874 :
人間七七四年 :2010/04/03(土) 16:25:22 ID:5blC7lKA
忠直の弟が、ペテンで幽霊から城を奪い取る話とかかな
875 :
人間七七四年 :2010/04/03(土) 22:39:45 ID:Ko23iSAE
依田康勝と言えば、家康配下で藤岡三万石を与えられていた大名であった。 さて、慶長五年(1600)といえば関ヶ原の年だが、1月、この時は未だそれは起こっておらず 世は平穏であった。 そんな時依田康勝は、大阪の旅館において小栗三助という徳川家の旗本と碁を打っていた。 その勝負は依田康勝が勝ったのだが、よほどの熱戦だったらしく対局が終わっても 小栗三助は依田康勝に対し文句を言いまくった 「今の負けは納得出来ぬ!」 「何を言うか、お主が弱いから負けたのだ!」 「いいや納得出来ぬ!どこかでインチキでもしたのではないか!?」 「何を!?」 頭に来た依田康勝、おもむろに刀を抜くと、なんと小栗三助をその場で斬り殺した! 斬ってから気がついた。 「大変なことをしてしまった…」 徳川家の同僚を私闘によって斬ったのだ。当然大罪である。 康勝はすぐさま大坂を出奔し、高野山に上り反省の意を示して沙汰を待った。 結果、一命は助けられたものの藤岡三万石は改易。康勝は牢人となった。 依田康国より三代続いた大名家依田氏は、囲碁の喧嘩で滅びてしまったのだ。 その後しばらくして、康勝は結城秀康より食禄五千石で抱えられた。 しかし康真は刃傷事件を起こしたと言うことで、依田姓をはばかり母方の加藤姓を名乗ったと言う。 さらに子孫はのちに、蘆田姓に改めた、とのこと。 囲碁で家を滅ぼした、大名のお話。
876 :
人間七七四年 :2010/04/04(日) 18:41:21 ID:8aYvnEop
ほんとに悪い話はコメントしづらいw
877 :
人間七七四年 :2010/04/04(日) 18:50:39 ID:zcZNxdbO
まぁ悪いことしたら素直に出奔ってことでいいんではないでしょうか
878 :
人間七七四年 :2010/04/05(月) 06:09:28 ID:Odk9P7+b
雑兵物語より、馬取、藤六の証言 「わしの曾祖父さんが言っていたのだが、昔戦の時陣中でハツカネズミを捕まえて 首に紐をくくりつけつないでおいた。 ところがそのネズミが逃げ出した。そっちに逃げたこっちに来たと2,3人で騒いでいるうちは 良かったのだが、その陣が先備(先頭部隊)だったので、その騒ぎを聞いた後方の部隊は 敵が攻めてきたので騒ぎが起きたと勘違いし、次々と後ろの部隊が逃げ出した。 もっと後方の陣では踏みとどまって守りを固めようとはしたのだが、 前の陣の崩れに巻き込まれてどんどん崩れて行く。 先頭の部隊は少人数で、部隊全体から言えば小人のようなものだ。 それに対して大人数の後方の部隊は大仏様のようだが、前のほうがおじけづいて 逃げてくると、後ろの部隊もその恐怖が伝染して悲鳴を上げて逃げ出す。 その時は5,6万もいた大軍が10日がかりで攻め込んだ道のりを逃げ帰ってしまったのだと、 曾祖父さんの彦惣は言っていた。 ハツカネズミが1匹逃げ出しただけでも大軍が10日分の道のりを逃げ戻ってしまったのだから ネズミの4、500倍も大きい馬が逃げ出したら大変だぞ。5,6万の大軍千日分の道のりを 逃げ帰らないといけない。西国の端から蝦夷間で逃げても道のりが足りないわい。 そういう事だから、馬の管理は特に念入りにしないといけないわけだ。」 水鳥の羽音で軍が崩れたといえば平家物語富士川の戦いだが、戦国時代には ハツカネズミ1匹で大軍が崩れたことがあったらしい。
879 :
人間七七四年 :2010/04/05(月) 06:15:07 ID:6qh26/Ss
5、6万の大軍が動員された合戦なんて関が原とか、大阪の陣くらいだろ、沖田畷は人数嘘っぽいし しかしハツカネズミを捕まえて何がしたかったんだ?
880 :
人間七七四年 :2010/04/05(月) 08:55:49 ID:iGrWwVwX
ゴンベさんもあの逃走っぷりはタヌキでも逃がしたのかもね。
881 :
人間七七四年 :2010/04/05(月) 11:10:43 ID:XVsTA12p
>>879 後期の信長、北条、秀吉とかが5万くらい動員してない?
秀吉は小田原とか九州とか10万単位だけど
882 :
人間七七四年 :2010/04/05(月) 11:46:54 ID:snN+1S+V
史料の数字でよければ、元亀の頃に信長は七万とか九万の軍勢を動員している 伊勢北畠攻めで史料により七万から十万。 江北浅井攻め&信忠初陣で五万。 長島攻撃でも五万から七万。 槇嶋で将軍義昭追放戦で七万。 話半分としても四万〜は動かしていることになるね。あくまで史料の数字は。
883 :
人間七七四年 :2010/04/05(月) 12:12:32 ID:kQ3RJYcx
動員可能人数よりも買い付け可能な兵糧の量に左右される感じかね>最大動員数 小田原の陣の豊臣方でも「飯足りねー。疫病大量発生」とか誰かの日記に残ってた記憶が。
884 :
人間七七四年 :2010/04/05(月) 12:15:42 ID:SbUlZqYp
頼朝の奥州征伐とか
885 :
人間七七四年 :2010/04/05(月) 13:01:11 ID:DdSYBUiC
太平記の動員兵数は基本信用できないが30万とか普通w
886 :
人間七七四年 :2010/04/05(月) 17:32:11 ID:XVsTA12p
鎌倉方28万騎vs奥州藤原17万騎 まあ、幾ら全国動員としても時代的に実際は10分の1位かねえ 従者とか含めればもうちょっと行くかもしれんけど
887 :
人間七七四年 :2010/04/05(月) 18:31:43 ID:Odk9P7+b
雑兵物語より、我慢をする話。 昨日、よその部隊の挟箱持ちが挟箱を運んでいると、柄の長い箱だったので 人ごみに引っかかったとき、柄が人に当たってその場でぐるぐる廻っていた挙句、 箱を投げ飛ばしてしまい、箱の中の品物や道具をぶちまけてしまった。 そのため中の物はみんなに拾われ盗まれてしまい、その上慌てたものだから 滑って転んで、集まった連中に踏みつけられ蜘蛛のようにぺちゃんこになってしまった。 その男、しばらくしてようやく気を取り直したが、腹がたってしょうがない。 「酷い事をしやがって!こうなったら誰でもいいから一匹喧嘩相手を選んで、 そいつをぶち殺して気を晴らしてやる!」 そんなふうに思ったものの、その部隊では味方同士の喧嘩や争いは固く禁ずるという 命令が出ていたことを思い出し、仕方なく平気な顔をして我慢したのだそうだ。 この部隊に限らず、どこでも戦の時の喧嘩はもちろん禁止されているが、 戦場だけでなく、行軍している時や宿営する時も、仲間同士の喧嘩や言い争いすら 固く禁止されているんだ。 ところで、そうしてそんなに厳しく止められていると思う? お前がもし、敵にも出会わず死ぬことも無く、戦が終わって生きて国に帰れたら、 帰ってから、思いっきり仕返しをしてぶち殺してもかまわないんだってよ! 『それまで待て』って言うことなのさ!HAHAHAHAHA!!! 雑兵はこうやって喧嘩を我慢したのだ。
888 :
人間七七四年 :2010/04/05(月) 20:38:52 ID:U9Jbqu7d
よく
>>885 のように動員数ありえねーというのを見るけど、
それって当時の人口とか食べ物の生産量とかから考えてありえないってことなん?
>>882 に出てるように史料に記載されている情報のうち
どこまでが妥当でどこからが嘘・誇張か?
の見極めってどうやってんだろ(複数の史料付き合わせで整合が必須?)
現代からみると荒唐無稽だけど史料に書かれた数字が実は本当だった、
て可能性てほぼ皆無なんかな?
白髪が三千丈となると物理的にありえねーべと言えるけど882の動員数ぐらいならそのままでも通用しそうだけどなぁ
物語はともかく報告なんかの記録に関しては嘘つくメリットないし基本信じちゃだめなんかな
(謀略で偽報告流す場合やカウントミスの場合もあるだろうけど)
889 :
人間七七四年 :2010/04/05(月) 20:42:33 ID:Odk9P7+b
890 :
人間七七四年 :2010/04/05(月) 23:34:21 ID:snN+1S+V
>>888 動員するだけなら国力の問題だけど、運用するにはさまざまな制限がつく
特に自然限界というものがありましてね。
例えば糞尿処理。これまで兵站といえば口に入れる方は注目されてきたけど、
出すほうに関しては触れられることは少なかった。
しかし何万という人が一箇所に集まり、食べるもの食べていれば出すものも
相応の量になるわけでしてね。きちんと処理しなければ、当然疫病など様々な
問題を生じます。
こういった様々な事情を勘案すると、だいたい一つの軍集団としてまとまれるのが
最大で三万前後。一つの戦場に投入できるのは敵味方併せて二十万くらい、
というのが一説になってます。
>882で出た例をひくと、元亀の頃の信長は軍を大量動員するときには、たいてい
信長・柴田・佐久間の三軍に分割して軍行動をとってますね。
891 :
人間七七四年 :2010/04/05(月) 23:42:46 ID:BdWfH7tb
江戸幕府は長州征伐で10万人以上を動員しましたが財政を大きく圧迫させました。 万単位を動員するには相当な金が必要なようですね
892 :
人間七七四年 :2010/04/06(火) 06:08:42 ID:Mv6e5Q5x
>>888 太平記だと当時の人口的にありえないって解釈もあったような
893 :
人間七七四年 :2010/04/06(火) 06:20:35 ID:y2DpK2pT
太平記には楠木正成が籠る千早城を100万の幕府軍が包囲したとか記載されてるので論外
894 :
人間七七四年 :2010/04/06(火) 08:27:52 ID:OuBL7Qiy
それでも太平記に頼らないと南北朝時代の研究は進まないっていうジレンマ まあ社会が流動している時代だから 鎌倉時代の武士と家人だけの動員数とかに比べると一気に人数増加してそうではある 当時の人からみて100万とも言いたくなるぐらい、戦争にでる人数が変わったのかも
895 :
人間七七四年 :2010/04/06(火) 11:26:35 ID:Iy5STOj8
>>888 他の人もいってるけど、みんなが疑って掛かってるのは太平記とか東鏡の記述だと思うよ
>>882 くらいなら多少の誇張はあるかも知れんけど、まあ戦国時代なら実数との乖離はそこまででかくないと思ってるんじゃないかな
でも鎌倉とか室町初期で50万だか100万だかは多すぎると
それぞれ100年位づつずれるけど、鎌倉だと元寇時の元側の資料で日本軍が3万だか4万だったはず
従者まぜてこの位が限度なんじゃねえかな
まあ、この数字だって確証はないけどね
896 :
人間七七四年 :2010/04/06(火) 12:17:48 ID:KqwiE4XS
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで長可はこれまで功のあった家臣を殆ど美濃に残して出撃し、 各務元正もまた岩村城守備の命を受けた事から参陣はしなかった。 同僚から城を奪って恨みを買ってるから、心配で主力を領土守備として残したことが命取りになったね。 自業自得w
897 :
1/2 :2010/04/06(火) 15:04:47 ID:n+iQ+q4M
いい話といえばそうなのだが悪い話から始まってるのでこっちに 富田高定と言えば、関白豊臣秀次の重臣であった。が、 文禄4年(1595)7月15日、いわゆる秀次事件により関白秀次、切腹。 この時、高定も殉死をすべしと京に赴き、洛中洛外に、『何日、千本通の松原にでで富田高定が殉死いたす』と記した 札を立てた。 これを見た京の人々、貴賎問わずに遠近より見物に群集し、千本通に桟敷を構え幕を張って切腹を待った。 その人々の集まっているところに、高定出る。その装束は白帷子の二つ着、上には芭蕉布の陣羽織を着て 白練の長袴を着け、頭は髪を剃り上げ白布で鉢巻をし、一尺二寸(およそ36センチ)の小脇差の、柄を紙で包んだものを 帯びていた。 松原には四幅の白幕が四方に張られ、その中に四間(約7メートル)四方の床が置かれてあり、高定はその上に座した。 さてその場では、殉死すると聞いた大小名の内の友人や親しんでいる人達が、あるいは暇乞いの使者や書状を送り、 あるいは自ら訪ね来て、別れの杯を交わした。また高定の親類縁者も次々と来ては盃を交わし別れを惜しんだ。 高定、或いは元来酒に弱かったのであろうか、そんな風に何度も盃を交わしたため酩酊し、終に高鼾をかいて 寝てしまった。 数万にも膨れ上がった見物人達、いつ殉死するかと固唾を呑んで待っていたのに、この有様を見て大いに呆れ 退屈し、そのうち罵りや嘲りの声を上げ、なかには桟敷を仕舞って帰るものまでいた。 しかし一部には、この人は勇士であり、義を守って殉死されると言うのは痛わしい事だ、などと囁く者もあった。 ところが、こんな所に上使が駆けつけ、大声を上げた 「秀次のための殉死は固く禁じられておる!しかるに、今日富田が殉死するとのこと上聞に達し、 甚だお怒りになっておられる! もしこの禁止に違反すれば、その罪一族に及ぶと心得よ!」 これに高定たちまち「謹んで畏まり奉る」と、すぐに輿に乗ってその場を立ち退いてしまった。 これには見物の者たち呆れ返り、一度にどっと笑って「誠に、武士の癖に匹夫土民の心にも劣る奴だ」と誹謗し、 皆興を冷まして家に帰り、物笑いの種とした。 高定の方は殉死をやめ命を伸ばしたことを恥じ、人に会うことを避け京の西山の自宅に幽居して日々を送った。
898 :
2/2 :2010/04/06(火) 15:06:18 ID:n+iQ+q4M
さて、前田利長はこれを聞き不審に思った。 富田高定ほどの武勇の者が、何故殉死を仕損ない世の笑いの種となっているのか。 彼を自分が扶持しよう。そう思い立ち使者を遣わした 「殿は1万石であなたを招きたいと言っておられる。」 しかし高定はこの使者に 「利長様の御心底、大変ありがたいことです。 私は主君のため殉死をいたすところに、それを禁止する上使が現れました。私は命を惜しんだのでは 全くありません。ただ、公命の重いことを恐れてこれを止めたのです。 ですが、世の人々にはそれを理解してもらえず、こうして笑いものになっています。それ故私は 再び人前に顔をだすことはしないと誓を立て、このように蟄居しております。 その他いろいろと考えることもありますので、この事はお断りいたします。」 しかし利長は諦めず、高定の元に何度も使者を出した。 前田家の重臣たちは「あのような世の笑い者を、1万石出してまで熱心に招くことはないでしょう。 殿まで笑いものにされてしまいます。」と諫言したが、 これに利長は 「私は昔から、富田高定の武勇を知っている。もし次に合戦があれば、彼は今度の恥辱を雪ごうと 必ず勇奮して働くであろう。彼は腹を切るのは下手かもしれないが槍を使うことは名人である! 彼に1万石は全く惜しくない。世の人間はこの利長を、何とでも言うが良いさ!」 そして最後には、利長は近臣を引き連れ自ら西山の高定の自宅に赴き、説得した。 これには高定も深く感じ入り、利長の臣となった。 慶長五年(1600)、関ヶ原が起こる。 富田高定は西軍、山口宗永の守る大聖寺城攻めにおいて、200の小勢で敵の大軍を打ち破り、途中、膝を 鉄砲で打ち抜かれても槍を杖にし城門まで進み、山口方の名のある勇者、飯田又六を倒し、成田喜三郎、松井宗助を 城の中に逃げ帰らせた。その上でもはやこれまでと、心静かに念仏を唱え、太刀を逆手に持って自ら首刎ねて果てた、 との事である。 富田高定の壮絶な最後に、敵味方の区別なく、感じ行ったと言う。 大聖寺城の陥落後、利長は家臣たちにこう言った 「先年、私はお前達が止めろと諫言するのも聞かず、富田高定を1万石で扶持したが、その後も 私の判断に色々と誹謗があったものだ。 さて、今度の富田の働き、忠死。私が富田を抱えたことは、間違っていただろうか?」 重臣たちはこれに、一言も発せられなかったそうである。 殉死をしそこねた、富田高定のお話。
899 :
人間七七四年 :2010/04/06(火) 15:15:46 ID:QXo5yzgd
福島「お酒って怖いヨネー」
900 :
人間七七四年 :2010/04/06(火) 16:16:52 ID:8HUOt3Lw
>>898 きっと勇戦して汚名返上してから討ち死にするんだろうな、とは予想してたけど
それにしても鬼神の様な最後だな・・・
901 :
人間七七四年 :2010/04/06(火) 17:52:31 ID:mZnGdP4T
最後にチクリと言ってしまう利長のちょっと(性格が)悪い話ですね
902 :
人間七七四年 :2010/04/06(火) 20:01:50 ID:+pcusfxy
姉小路秀綱の呪い 姉小路氏は柴田勝家、佐々成政と手を結んで羽柴秀吉と対立したため 1583年羽柴方の金森長近の攻撃を受ける。 姉小路頼綱は早々に降伏したが、その息子である秀綱は居城松倉城に篭城し 金森軍と激闘を繰り広げた。 しかし城方に内通者が出たため城は落城、秀綱は妻等を連れて信州方面へ落ち延びた。 その途中金品目当ての土民達の襲撃を受け、一行は秀綱を除き皆殺しにされ 秀綱も瀕死の重傷を負ってしまう。 土民達が金品を取り上げようとする前に秀綱は最後の力を振り絞り 呪詛の言葉を唱え、金品が入った袋を川に投げ入れると力尽きた。 土民達は金品を回収しようと川を捜したが、結局見つけることは出来なかった。 そして数日後 襲撃に参加した土民達は口々にあらぬことを口走るようになり、ついには狂い死にしてしまった。 このような事がたびたび続いたためこれは人々は秀綱の怨霊の仕業であるとして 秀綱の霊を慰めるため秀綱神社を建立したという。
903 :
人間七七四年 :2010/04/06(火) 21:59:33 ID:WYgum1Dj
こういう呪いの神社系は地域ごとに結構あるもんだな 金田一探偵が活躍できたわけだ
904 :
人間七七四年 :2010/04/06(火) 23:57:28 ID:kwoAjwXm
905 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 00:22:50 ID:oNbgEpZy
906 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 00:24:30 ID:oNbgEpZy
これだけでもあれなんで、小ネタを一つ。今度はウロ覚えでなく書籍ベースで。
>>707 で触れられている政宗の毒味話、wikiにも載ってるメジャーな逸話だが、まとめで
既出じゃないらしいのと、wikiでは立花さんの出番が削られてるのでその辺足して投下。
寛永5年、伊達政宗は先の将軍・秀忠を屋敷へと招待し饗応した。
政宗自ら膳を掲げて御前へと向かっていると、秀忠の側近・内藤外記がばたばたと慌てて追ってくる。
「ちょ、ど、毒味! 毒味して下さいよ〜」
右手にお箸、左手に小皿を構え、政宗を引き留めようとする外記。まあ彼としては、当然の仕事ではある。
対して政宗、一瞬にして大激怒。大声で外記を怒鳴りつけた。
「あ゛!? 何言ってんの? ってか、誰に向かって言ってんの? 俺だよ、俺、俺、政宗だよ?
俺ほどの人間が、自らお膳を差し上げようってのに毒味はないでしょおー!?
そりゃね、これが10年も前なら俺だって正直ホラ、・・じゃなくてなんだ、とにかく流石に今それはないし、
だいたい10年前でも俺が将軍に毒なんて盛るわけないから!! もし俺が将軍をどうにかするなら、毒なんて
絶っっ対使わないで、正々堂々江戸城門に馬乗りつけて槍でガチ勝負だから!! 分かったかコラ、あ゛あ゛!? 」
さあ殺伐としてまいりました。楽しいお食事のはずが、一転して殺るとか殺らないとかの物騒なお話に。
しかもそれが、聞こえてしまっている。
政宗が騒ぐもんだから、ご馳走が出て来るのを待っていた秀忠の耳にも、10年くらい前にはチョロッと
将軍殺っちゃおうと思ってました的な政宗の言葉もバッチリ聞こえてしまっているのだ。その場の気まずさというのは
想像に難くない。しかし。
「いや、何ともあのお人らしいご挨拶でよいではないですか、秀忠様もそうお思いでしょう?
さあさあ、すっかり食事が遅くなってしまいましたよ、早くお膳をいただけませんか 」
そのメシマズな空気を淡々とうち破る救い手があった。
立花宗茂である。
決して動じない男、常に正解を出す男。西のミスターパーフェクト・宗茂がこの時お相伴で同席していた。
その場の空気に左右されない彼だけに、ひょっとしたら本当に『遅いなー何でもいいから早くご飯来ないかな』とか
思っていたのかもしれないが、ともかく彼の言葉により何となくその場の収拾がつき、大事にも至らず饗応は進められた。
そしてその宗茂のセリフを聞きながら秀忠は、はらはらと感涙を零したのであった・・・・・・と本に書いてあったのだが
よく分からん。ここ泣くとこか秀忠? 宗茂のフォローまでよっぽどいたたまれない思いをしていたのか?
ついでに余談、↑で政宗の連呼する「10年前」について。
この言葉には根拠があって、家康の死期も近づいた元和2年頃、「伊達政宗が幕府に叛旗を翻す」という
噂がまことしやかに人々の口の端にのぼった時期があった。
実際には噂は噂のままで終わったわけだが、この噂、当時はかなりの信憑性があると思われていたらしい。
どのくらいリアリティがあったかというと、以下のような手紙を早便で国元に送った大名も居たレベル。
『・・・っていう噂を最近こっちでは頻繁に聞くんだけど、奴のことだから絶対にやるね、叛乱。
まず十中八九間違いないから、戦支度とかしておいて。
忠興より 』
907 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 00:26:24 ID:tjrFaSEU
宗茂のいい話?
908 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 00:31:41 ID:P721CWm0
>>905 「昔伊達の殿様がこんなことやらかしたらしいよ」
「DQNやべーwwところでそれ誰?」
「たぶんDQNで有名な政宗公じゃね?」
とかで政宗に統合された逸話はありそうな気がする
もっとアバウトに
「昔どっかの殿様が〜」「ところで(ry」「こんなんやらかすの政宗じゃね」
とかで別人の逸話がごっちゃに伝わったのもありそう
そういうイメージ優先な虚々実々さも逸話の楽しみだと思うんだが
909 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 00:48:37 ID:zEiSc4ri
>決して動じない男、常に正解を出す男。西のミスターパーフェクト・宗茂 ワラタw しかし政宗はいい年こいても子供だなw
910 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 00:56:31 ID:syE6tFmG
やっと規制解除か。遅レスだが動員兵力に関する逸話を投下。 信玄のサバ読み 武田信玄の名代として秋山信友が織田信長と会見したとき、信長は秋山にいろいろなことを聞いた。 ノブ「武田家の動員兵力はいかほどの数じゃ?」 秋山「およそ6万人でこざいます。」 ノブ「なるほど。では、甲州から駿府に行軍した場合は、いかほどの日にちがかかるのか?」 秋山「3日ほどです。」 ノブ「それは岩殿経由の日数か、それとも富士経由か?」 秋山「富士山麓経由でございます。」 そして、会見が終了し秋山は帰国の途についた。 ノブ「秋山の奴は兵力を2倍水増しして話していたなwww」 家来「いかなる理由でそうお考えですか?」 ノブ「富士山麓経由で3日で行軍するとすれば、せいぜい3万人といったところじゃ。6万人であれば その2倍はかかるわ。 さらに、荷駄隊が5千人とすると、武田家の動員兵力は2万5千といったところだろうな。」
911 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 01:04:27 ID:VDNtGMwu
池田兄弟シリーズ!
さて、長束正家の最後
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3830.html で長束正家を
だまくらかして城と財産と命を奪った池田輝政、長吉兄弟。
他にもやってました、関ヶ原で!しかも長束に続いて連続で!
岡本宗憲と言えば、関ヶ原の時は伊勢亀山城主であり、西軍に属してこれを固く守った。
ところが関ヶ原の決戦で西軍敗れる、との報が入る。
家来たちは
「お味方が敗れた以上、もはや籠城してもしょうがないのではありませんか?」
と言うが、岡本は
「何を言うか!未だ大阪城も佐和山城も堅固にあるではないか!ここに留まってこそ運が開けるのだ!」
そう士卒を励まし籠城の体制を整えた。
と、
そこに軍勢を率いてやってきたのが、輝政、長吉のスーパー池田ブラザーズである。
彼らは城に軍使を出し岡本を説得させた。曰く
『岡本殿、既に石田、小西、大谷と言った者たちは尽く討死し、西軍のある者は捕虜となり、ある者は降伏するといった
状況です。あなたは一体、何を頼みに籠城をするのでしょうか?
あなたが速やかにこの城を引渡し、我々の陣中に参って下さるのなら、我々は必ずあなたが本領安堵出来るよう
内府公に取り成しをいたします!どうか我々を信じてくだされ!!』
誠心誠意を絵に書いたような説得である。誰が見ても出来すぎている。
が、岡本宗憲はこれを信じた。信じてしまったのだ。貧すれば鈍するとはこの事だろうか。
彼は軍使に付いて池田家の陣に向かい、到着した、その時、
入れ違いに亀山城に入った池田の兵が、亀山家の家来たちに一斉に銃撃を始めたのだ!
「これは!?」
騙された!と思った時はもう遅かったのだ。
亀山家の家来たちは散り散りに逃げ、岡本宗憲は切腹を命ぜられ、桑名で自刃した。
さらに嫡男の主税助重義も、近江水口で自刃させられた。
岡本家はあっさりと滅びた。
世の人、池田兄弟の卑怯なやり方を非難した…、かと言うとそうではない。
この事に世の人々は
『池田輝政はそのつい先日、長束正家の水口城を全くおなじ計略で騙していたのに、
岡本の亀山城は水口城のすぐ近くにあり、しかも味方であったのにその情報を知らなかった。
まったく岡本宗憲と言う人は不覚の闇将と言うべきである。』
と、岡本を大いに嘲笑したのだと言う。
スーパー池田ブラザーズ亀山城も奪う、のお話。
912 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 01:12:08 ID:BK8ZI1xC
池田家って勝入斎さんもそうだけどほんと腹立つ奴らだな
913 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 01:22:33 ID:VDNtGMwu
>>911 あああ下から10行目と13行目、 ×亀山家 ○岡本家。
ちょっと切腹してくる(;´Д`)
914 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 01:57:17 ID:746/PEzx
いい話でも悪い話でもないかもだけどなんとなくこっちに。 これまだ出てないよな。 上杉定勝(景勝の息子)と蒲生忠郷(蒲生氏郷の孫)は仲良しで、 義兄弟の誓いを交わしていたそうだ。 ふたりの申し合わせで国境での争いもなく、 両国は睦まじく交流していた。 ちなみに南部利直も蒲生忠郷とは仲が良かった。 (年齢的には、利直ではなく次代の重直の可能性あり) 一方でこの定勝・忠郷・利直の三人、伊達政宗とは仲が悪かった。 そこで、 「蒲生、上杉、南部三家言合せ、政宗を立挟みて打果すべしと密々に堅く言合せ」 (北越耆談) ていたとか。 政宗…!
915 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 04:10:45 ID:uXAvKYJy
マサちゃんったら…
916 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 04:17:06 ID:HZa1fIiL
917 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 09:42:36 ID:BG8HmOji
>>910 その秋山に岩村攻められ女城主ちゃんは寝取られるわ息子は売り払われるわ
さんざんだな
918 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 10:02:24 ID:6RwgJFAr
>>917 騙し+皆殺しできっちりツケを払わせているので
919 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 10:08:08 ID:BG8HmOji
そんなことすっからあっけない死に方するんだよ ノブは
920 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 10:14:55 ID:syE6tFmG
921 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 10:16:50 ID:BG8HmOji
城も開城 女も開城 ノブのケツ穴も開城脱糞
922 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 10:27:23 ID:syE6tFmG
. ,、r‐''''''''''''''''ー 、 ,r' `' 、 / ヽ . / , ヽ ,,' ; ,、、,_ ニニ ,、」、 l. :;;;i ´ .._`ー ‐''"....| l:,;'"`'、, . ,;ィェ、.. ,rェ;〈 . ';i l :::i;;,, ::' "......::'''ン .., .:::'''"゙, モン カイ l;゙、',.::l;;;i r ヽ. l, 門 壊 ! l;;;;`‐;;;;;ヽ . './'ー'''ー‐' ', l;;;,, . ,、rイ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ ,r";;二二二,ヽ, !;;;;:' '.:.:.l ll ;;;;;;;;;;;;;;;;;' ,rニン"  ̄二´ `ノ;;;;;`-、 :.:.:.| l.l '';;;;;;;;;;;;;;' ,イ l''' l ` :.:.:.:| ','、 ''''''''' , ‐---,ェr'".l.| | | :.:.:.:| ゙、゙、 `''''''''"",ノ l l .| | :.:.:.:.| ヽヽ `'---‐'" .// ! |
923 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 10:32:26 ID:xDKH4oab
おやおや畠山さん どうしました?
924 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 10:36:50 ID:1futw3ug
晴信「降伏すれば助かるとか、頭おかしいだろ」 信長「ですよねー」
925 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 10:38:12 ID:xDKH4oab
ノブがパシリに見えるなw
926 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 10:45:14 ID:ehHCZXFX
家康「仲直りすれば全て元通りなんて信じる方が馬鹿ですよねー」
927 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 10:47:28 ID:xDKH4oab
堀埋め立てた人ですね
928 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 11:44:04 ID:Cw+v9GTE
既出だったらスルーしてくれ
伊達晴宗の娘・彦姫の生涯
彦姫は晴宗の娘として、蘆名盛興の元に嫁いだ。
…のはよかったのだが、子供がいないまま夫・盛興は死去。
他に蘆名を継ぐべき男子は居らず、当主の座は宙に浮くことになる。
仕方がないので二階堂家から養子をもらって、
彦姫を盛興の父・盛氏の養女ということにして娶わせ、蘆名家を継がしめた。
彦姫の夫となったのは蘆名(二階堂)盛隆であるが、彼の母親もまた伊達晴宗の娘、阿南姫。
つまり彦姫は甥っ子と結婚することになってしまった。しかも10歳近く年下の甥である。
しかし彦姫は盛隆との間に数人の子供をもうけ、今度こそ幸せになったかと思われた。
が、不幸というものは続くもので、盛隆が衆道のもつれから
家臣の大庭三左衛門に殺されてしまう。23歳の若さだった。
(いきさつはこちら
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2418.html )
義父・盛氏ももう亡くなっている。
蘆名家はまだ赤ん坊の亀王丸(亀若丸)が継ぐことになった。
赤ん坊が当主となるという緊急事態に、彦姫の兄弟・伊達輝宗がすかさず介入し、
輝宗は亀王丸の後見となることに決まる。
929 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 11:45:07 ID:Cw+v9GTE
同年、輝宗は嫡男政宗に家督を譲って隠居すると、 輝宗が亀王丸の後見になると言ったばかりなのに、 政宗は突如蘆名家に攻め入る。 彦姫は気丈に蘆名家臣をまとめ、頑強に政宗に抵抗。政宗に敗戦を喫させた。 しかし不幸はさらに続き、わが子であり、頼みの綱であった亀王丸が3歳にて病死。 再び宙に浮いた蘆名の当主の座。 待ってましたとばかりにこの跡継ぎ問題に伊達と佐竹が介入し、 誰が跡を継ぐかで再び紛糾することになる。 結局、佐竹家から養子をもらうことになり、義広が蘆名当主となった。 ちなみに義広も彦姫の姉妹の子供なので、彦姫にとっては甥に当たるが、 この義広と自分の娘(亀王丸の姉妹)を娶わせることになった。 その後も伊達と蘆名・佐竹の争いは続き、 彦姫は血族に翻弄され続けた。 彼女は蘆名に留まったまま1588年に病死。まだ30代の若さだった。 政宗はこれを弔し喪に服したと言うが、彦姫は政宗を恨んでいたので 政宗に喪に服されたくはないと思ったかもしれない。 その後、義広は家中の心を掴むことに失敗し 坂道を転がり落ちるように蘆名家は没落していく事になる。 蘆名家没落の中心にいた彦姫の、家族運の悪い話。
930 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 12:31:57 ID:UKR43dUf
素直に小次郎を養子にすれば良かったのに・・・
931 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 12:51:51 ID:tGA5K2DX
有力家臣団による主導だからどうにもならん
932 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 13:33:33 ID:ce3m4che
佐竹も介入ぶりは伊達と変わらなかったしな。 彦姫は可哀想なのは確かなのだが、盛興が死んで、盛氏が死んで、盛隆が死んで、 さらに亀王丸が時点で蘆名氏は詰んで居たとしか思えぬ。 宗家が断絶して猪苗代とか針生とか支流が健在でありながら蔑ろにされがちになった のもまずいし。
933 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 15:34:22 ID:tGA5K2DX
つうか、甲斐武田と同じで盛氏の頃で滅亡は決定づけられてたと言っても過言では無いかも知れない 信長が生きていれば滅びなかったかも知れないけど
934 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 16:35:07 ID:FJ/vowhz
主君、斉藤龍興の暗君ぶりを諌めるため、城内に潜ませた手勢わずか十数名で美濃稲葉 山城を乗っ取ったと言われる竹中半兵衛。 織田信長に城を渡すよう打診されるもコレを拒否。 龍興に反省の色が見えると速やかに城を返却。主君に弓を引いた責任を取って隠居して しまうという鮮やかな進退。 ……通常語られる「半兵衛の稲葉山城乗っ取り」と言えばこんな所だろう。 しかし、ある人物の手紙によると少々話が変わってくる。 「金華山城(稲葉山城)は竹中遠州の子、半兵衛が二月六日の白昼に奪い取り、安藤伊 賀守と二人で美濃一国を領有した。太守(龍興)らは一戦した後退散し、鵜飼、揖斐の 辺りに城を構え、にらみ合いを続けている。美濃の中で義理も恥も知らない連中は皆、 竹中の下へと馳せ参じた」 厳しい口調で半兵衛を非難するこの手紙の送り主は美濃崇福寺の住職、あの快川紹喜で ある。 半兵衛が奇策を使って一戦もせずに城を乗っ取ったのではない事、美濃の諸将が彼の許 に降り、龍興に十分対抗出来る勢力を築き上げていた事がわかる。 安藤、竹中両名による町や寺社への禁制はいくつかだされているが、その内の一つは七 月二十九日付けである。 半年近くも占領が続いていたのである。 そんな中、快川は以前住職を務めた甲斐国恵林寺の住職にもう一度ついてくれないか、 という武田信玄からの打診を受ける。 反竹中の立場に立っていた快川はこれを好機と、自らが仲介となって龍興と信玄の同盟 を纏め上げる。 手紙には美濃からの使僧が寒い中に甲斐の快川を訪ねたとあるので、同盟成立は同年の 冬の様だ。 半兵衛の反乱が冬まで続いていたのかは不明であるが、龍興のバックに信玄がつくかも、 という噂だけでも、美濃のパワーバランスを崩すのに十分だったのだろう。 竹中半兵衛は近江に逃げ、反乱は終息。しかしそれから幾許もしない内に、織田信長に より安藤伊賀守を筆頭にする西美濃衆の反乱を招き、斉藤義興は美濃を追われるコトと なる。 しかしこれなら信長も楽だったろうね。 この時半兵衛についた連中を中心に調略を仕掛けりゃよかったんだもん。 つか、快川の修行時代、同じ寺で修行していた一鉄さんはどっちについたんだろう? 語られてるより生々しく現実的な半兵衛の稲葉山城乗っ取りの実態。 竹中半兵衛の悪い話なのか、それを阻止した快川の良い話なのか。
935 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 16:50:18 ID:VDNtGMwu
実際半兵衛って相当の食わせ物だよねえ。 まあ西美濃の国人で食わせ物じゃない方が少ないんだがw、その中でも相当の玉。 それが何がどうなってああいう軍師キャラになったのやらw
936 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 16:55:27 ID:KvhuCLJM
むしろ食わせ物だからこそ軍師っぽいこと得意なんじゃないのw
937 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 18:02:22 ID:rI2KnW2Y
軍師は軍師でもキレイな軍師になりすぎているきらいはある 清廉潔白というか
938 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 18:15:46 ID:aKSPZAhk
黒田さんは黒い軍師だけど 竹中は綺麗な軍師なイメージだなぁ 本能寺前に死んだことも影響してるんだろうか
939 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 18:22:08 ID:KvhuCLJM
黒田さんとの対比、病弱短命 そこらへんから来てるイメージだろうね
940 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 18:24:58 ID:Sg3s3SyB
孔明の影響もあるのかも?
941 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 18:27:19 ID:R0MI9rry
孔明はダメ皇帝にも最後まで忠誠を尽くしたが・・・。
942 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 18:30:27 ID:Sg3s3SyB
三雇の礼で今孔明の称号が付与されちゃったのかね?
943 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 18:31:13 ID:VvAXLdH+
出世欲がない分、権謀術数を楽しみすぎているきらいはあるね ま、血で血を洗う戦国時代に「清廉潔白」なんてありえないし
944 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 22:15:24 ID:Rtjb2gLt
稲葉山を主君に返したとか嘘だったのねw 支えきれずに逃げ出したと
945 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 22:17:56 ID:BnlfNMmg
本願寺の憂うつ ★元亀三年(1572年)五月十日 下間正秀から北近江十ヶ寺へ宛てた手紙 「(三月に織田勢が江北へ攻め込んできたが)越前の朝倉の動きが鈍くて、あちこちで手筈が狂い 敵方が難なく討ち入ってきてしまい、各々が無念の思いをしたのは誠にもっとも!なことである。 越前衆の動きが鈍かったばかりに、彼等と一緒になって織田勢と戦おうと意気込んでいた国侍の面々も、 みんな気勢を殺がれて寝返ろうかとか言い始めているとか ('A`) 越前衆の坂本出陣についていろいろ調整してきたが、いまだ何の音沙汰もない。徒に日ばかりが過ぎて こちらからそちらへの返事もこんなにも遅くなっちまった。 『笑 止 の 第 一 候』(せめて小谷まで来やがれ) 浅井は浅井で、我ら坊主ばかりに魁(先駆け)を要求してくる。はなはだ迷惑なことだ ('A`) 先日、長政には使いを遣ってこのことよぉーく抗議しておいたから。 あーっと、懸案の兵糧米についても越前から運んでくるよう頼んでおきましたからね!」 ★元亀三年十二月三日 朝倉軍、半年にわたる小谷在陣を終えて帰国 ★武田信玄から朝倉義景へ 「御手の衆、過半帰国の由、驚き入り候。おのおの兵を労ることは勿論に候。しかりといえども、 此説、信長滅亡の時刻到来候のところ、ただ今寛宥の御備、労して功無(じゃかぁっしい!こっちゃ 寝返りわんさか出てそれどころじゃねえ!ちんたらちんたら行軍しやがって 北陸の雪深さを知らん 甲斐の山猿がぁ!今年はドカ雪じゃあ![義景心の叫び])御分別過ぐべからず候。」 ★元亀四年二月二十六日 信玄から本願寺顕如へ 「あんたと義景の催促に応じて遠江まで出陣したのに義景帰っちゃったじゃん(怒)」 ★元亀四年二月二十七日 本願寺顕如から信玄へ 「野田城落城おめでとうございます。こっちからも使いの者を越前へ派遣して、義景が再度出陣するのを 見届けさせますから〜。今年は大雪なもんですから、なかなか出陣できそうにないんですが・・・ あっ、でも、方々から要請されてるんで、もうそろそろ出陣するんじゃないかなっ!」 (何でわしが言い訳せにゃいかんの・・・) ★四月、信玄没 ★七月、将軍義昭追放 ★八月、義景自害、浅井久政・長政自害 皆、死んだか・・・('A`) ('A`) ('A`)
946 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 22:37:20 ID:9LVMs8Hs
敵前逃亡も甚だしい奴だな 大雪なのに帰国しても雪合戦くらいしかすることねーだろうに 織田領に攻め込んで乱捕りするほうが楽しいだろ
947 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 23:28:18 ID:uwVpF546
規制解除されたので戦国の食文化にまつわる話 ラスボスが天下を統一し、朝鮮出兵の為に肥前名護屋城下に続々と国内の兵が集まっていた折 しかし、兵の集まりが予定に反して悪いのでどうしたものかと調べてみると多くの兵達は長州下関で“てっぽう”に当たっていたのだ!! もちろん、本物の鉄砲ではなく今でも下関の名産である“河豚”によるものであるが… これに激怒したラスボス、河豚食を身分の上下を問わず禁止した そして、その後の江戸幕府でも主家に捧げなければならない命を、己の喰い意地で命を落とした輩」として 当主がふぐ毒で死んだ場合には家名断絶等の厳しい対応がなされたという まあ、取り締まられても従わないのが人間で江戸時代もお上に見つからないように河豚食は続いていたらしいが… 余談だが、本格的に河豚食が解禁されたのは明治時代、長州出身の偉人である初代内閣総理伊藤博文によるという しかし小生、著名な武将で河豚で死んだという者を聞いたことがないことからやはり歴史に名を残す者達は強運も必要だと感じた 長文乱文スマソ
948 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 23:50:50 ID:fOvOrFBH
著名な武将はチャンと調理されたフグを喰ったんだろう 雑兵なんかは自分で捌いたとか、あんまり素性の良くない料理人のところで喰ったんじゃないか
949 :
人間七七四年 :2010/04/07(水) 23:57:26 ID:QWvqVYIc
政宗「食い道楽だの食べ比べで死に損ねる馬鹿とか、武士じゃねえよw」
950 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 00:12:34 ID:o17ZCUO8
徳川家康「河豚はもちろんの事、食べ物に当たって死ぬとかねーよw」
951 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 00:19:13 ID:GDMsTO4n
森忠政「まったくですな、食べ物には気をつけないと」
952 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 00:28:07 ID:fizOK4Su
信長「この料理味が薄くて糞マズ、料理人は斬り捨てよ」
953 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 01:14:17 ID:Wq7/rn8y
毘沙門天「人間は酒と塩だけで充分だろ」
954 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 02:29:29 ID:Rwm6R0PQ
法性院大僧正「わしはノンケだって構わないで食っちまうんだぜ?」
955 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 03:05:42 ID:qlXx9mEG
なんだこの怒涛の畳み掛けはw
956 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 03:24:16 ID:XSWcikNC
>949-954 お前らちょっと待て!どさくさに紛れて関係無いのが混ざってるだろ!w
957 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 08:42:39 ID:8OiZ72kQ
自演乙
958 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 13:37:53 ID:qnqrxJkQ
埋めネタがてらに いいか悪いかも微妙なんだが 現在の愛知県豊田市に長興寺という臨済宗東福寺派の寺がある 室町時代に支配者たる衣城の中條氏により建立された 応仁の乱での同氏の衰退により影は薄くなっていたが足利幕府時代の保護政策もあり近隣で一番の偉容を誇っていた 二龍松というありがたい逸話を持つ由緒正しい寺でもある そんなことはつゆ知らず、通りかかった織田信長 「こんな所に情報にない城だと!?味方の城でなくば敵に決まっておろうが!者共、かかれー!」 元より衰退傾向であったため長興寺側の武力は貧弱、瞬く間に占拠した で、信長は気付いた 『やっべー、城じゃねーし。立派なだけの普通の寺だ…。しかも足利幕府のお墨付き…』 織田信長、痛恨の勘違いである 本院はものの見事に焼け落ち城と見間違うほどの偉容も無残な姿に変わっていた 信長は即座に自らの非を認め復興、支援を確約した 形骸化していたとはいえ足利幕府も健在 足利幕府の保護を受けた由緒正しき禅道臨済宗東福寺派の長興寺は信長にとって保護すべき寺院であった訳である ちなみにこの事件は1567年の事とされる 同年は美濃攻めの真っ最中 何で三河西部に…、と思わなくもないが一説には直率部隊で無いとの話も… 即時再建ではなかったものの数年を経ずして長興寺は再建を果たした 再建の落成が一向宗と戦っていた頃で‘仏敵’とされていた時期と重なるのは皮肉とも言える 1583年、衣城代の余語正勝によって信長の一周忌法要が長興寺で行われた その際、狩野元秀により寺に寄贈されたのが‘紙本著色織田信長像’ 恐らくはもっとも著名な信長の肖像画である 勘違いして攻めかからられなければ産まれなかった縁 世の中不思議なものである
959 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 13:49:30 ID:GC+iMU3Z
>で、信長は気付いた で、じゃねえよw
960 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 14:02:00 ID:fx7dCa8J
>>946 その場合本国で謀反が起こったらどうするんだ?
961 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 14:14:27 ID:ZPKbAidJ
織田の領国でも謀反起こったらどうするんだ
962 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 14:41:04 ID:fx7dCa8J
>>961 いや俺が言いたいのは大雪で通行ができないのに
軍を近江に置いておいたら越前ががら空きになるって事なんだが・・・
963 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 15:04:15 ID:KRTsxNYM
義景が合戦継続したいって言っても、部下がもうガタガタだったんだよ
964 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 15:06:26 ID:J9STcNXe
義景養子説ってのも有るくらい当時の朝倉氏は内部対立でガタガタだったからな
965 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 15:21:49 ID:orYM1VoL
乱取りでも始めようものなら織田が武田ほっぽって全力で向かってくるしなぁ むしろ徳川助けに行かない理由が出来て喜ぶだろう
966 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 16:43:11 ID:STdMKCgX
どこもかしこもほっぽっておけないから手ふさがりなわけで 内部崩壊でガタガタになるのは織田だろ
967 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 16:55:44 ID:Nj6C7nDW
朝倉はそれ以前に内部崩壊でガタガタになってたんだろね
968 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 17:29:21 ID:tLytfPMW
969 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 17:54:39 ID:HAAkq5uC
というか軍事行動不能なレベルの雪だったらそりゃぼけっとしてたら春まで帰れないとなるわけで
970 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 18:45:25 ID:GDMsTO4n
宗滴爺ちゃんがいないとどうにもならん家だなあ…
971 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 18:54:52 ID:7uEgbxXi
972 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 18:56:53 ID:GDMsTO4n
973 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 18:59:14 ID:tLytfPMW
次スレやってみる
974 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 19:02:08 ID:tLytfPMW
975 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 19:09:56 ID:ytO+LOPj
では立ててやろう
976 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 19:11:08 ID:ytO+LOPj
977 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 19:11:39 ID:ytO+LOPj
下一行はコピペ消しミス
978 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 19:13:49 ID:tLytfPMW
>>976 乙です。ありがとうー。
つーか、何のコピペだw
979 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 19:44:26 ID:LiCk52sv
>>976 乙。なんのコピペか気になるじゃないかw
980 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 20:14:02 ID:C9XJIRbQ
>>944 竹中さんの過大評価は、息子が大ボラ吹いたことにも起因するようだしね。「うちの親父はこんなに凄かった」と
981 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 20:33:02 ID:+7AHhZcQ
>>920 遅レスだけど何だこの“イケメン過ぎる戦国武将“w
毒盛らない方のウッキーさんと双璧じゃないか?
もっとも後世描かれた絵か分からんが。
982 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 21:04:46 ID:wzHt9fnC
>>976 乙だ。
困る…困る…とぶつぶつ呟く富田さんにじりじりと迫られる役をやろう
983 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 21:25:40 ID:+VbxXgq1
>>958 へー、あの肖像画ってそういう経緯があるのか
奇縁というかなんというか
984 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 22:11:15 ID:tLytfPMW
大聖寺城主山口宗永の嫡男、山口修弘と言えば、薙刀の名人として天下に名高い男であった。 慶長五年(1600)8月2日、関ヶ原、前田利長による大聖寺城攻めで、修弘は父の籠城の方針に反対し果敢に討って出た。 これに油断していた前田勢は一度は撹乱したものの、やはり大軍である。当初の混乱から備を立て直すと逆襲、 修弘は城に押し戻された。しかし場内に残っていた山口方も出て反撃し、両軍は城壁側での乱戦となった。 ここで山口修弘の薙刀がうなる。水車に回し敵をなぎ払い、前田勢は修弘一人に追い立てられるという有様であった。 まさに無双状態である。 これに前田方の兵法の名人山崎次郎兵衛、利長の陣から抜け駆けし小太刀を抜いて修弘に迫る。 それを見て勇気を取り戻した前田の兵たちは数百人が山崎に続き修弘に殺到した。 この時櫓の上から、修弘が敵に取り囲まれているのを修弘の乳母が発見した。 この女、元より大力で有名であったが、これを見るや人夫たちに材木や大石をもたせ駆けつけた! 「若様に何をするか!」 乳母、人夫に持たせた材木や大石を受け取ると敵に向かって次々と投げつける!今度は女ドンキーコングだ。 これにより10人余りが討殺されたのだと言う。 前田勢は 「あれは人間じゃない!」 と大いに驚き恐れ進みかねた。ここで大将の山口宗永はじめ城兵が「修弘を討たすな!乳母を討たすな!」と 一斉に討ってで両人を回収。前田軍はそれを囲んで殲滅しようとしたが、ここに修弘と乳母が取って返し 天魔鬼神のごとく暴れまわった。これには大軍と言えどもたまらず、軍の真ん中を開いて彼らを通した。 無双と女ドンキーコング。これに立ち向かえと言う方が無理であろう。 …が、やはり山口勢は寡兵であった。 数度目の戦闘で乳母がついに討死。山口宗永、修弘親子も翌日、自刃した。 修弘は当初籠城を主張した父宗永に、こう言って説得したと言う 『この城でたとえ5日10日固く守ったとしても、後詰のあてが無い以上兵糧が尽きて餓死をするだけです。 我が城は兵糧の備えが足らないのです!ならば討って出て一戦し、名を後世に留めるべきでは ありませんか!?』 大聖寺城、その最後の奮闘である。
985 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 22:14:31 ID:Nj6C7nDW
986 :
人間七七四年 :2010/04/08(木) 23:44:43 ID:0HV5xT+a
河豚には毒があるのだぞ…
987 :
人間七七四年 :2010/04/09(金) 00:57:24 ID:s+Jxys/L
>>984 乳母さん、すげえ度胸と忠誠心だな
やっぱり戦国時代は女も強かったんだろうか
988 :
人間七七四年 :2010/04/09(金) 02:30:23 ID:ahqzR10A
>>980 太閤記で半兵衛=孔明キャラ
・市松=益徳キャラ
・虎たそ=雲長キャラ
yて過剰に演出施されたのが悪かったんかねえ。官兵衛どん=士元キャラ かな
989 :
人間七七四年 :2010/04/09(金) 05:44:56 ID:XF2aXFKG
>>988 酒でよく失敗するうっかりさんだが戦場では勇敢なとこは完全に張飛キャラだね
990 :
人間七七四年 :2010/04/09(金) 07:21:13 ID:Fy32CpC7
埋めがてら軽めの話 真田信之の家臣に、正村金右衛門というカルーい侍がいた。 ある時、江戸から帰った信之が金右衛門に、「何か変わったことは無かったか?」と聞くと、 金右衛門は「特にございませんが、大林寺に盗賊が入り、住職が石臼離しになりました。」と答えた。 「・・・『いしうすはなし』?なんじゃそれは???」 「はい、石臼はだいたい同じ大きさの丸い石が合わさって出来ておりますな?」 「うむ。」 「それを離せば、同じ大きさの石が二つ転がる。つまり人間で言えば胴体真っ二つってなワケで!」 「・・・オマエ、そんな話ヨソに行ってデカい声でしゃべるんじゃねーぞ・・・?」 またある時、信之が金右衛門を連れて上田の町外れを通ると、鳥の鳴き声が聞こえて来た。 「良き音色じゃ・・・・・・」 「そうですなぁ!ここの女ほどのテクニックを持つのは、この辺にはちょっとおりませんなぁイヒヒヒ」 「ばっ、バカヤロ―――――!!またオマエは何を言い出すんじゃあああああ!!!」 「は? いや、女衆の麦つき歌が聞こえて来たんで、その事について・・・・・・ ・・・えぇー?殿ぉぉぉー?いったい何のことだと思ったんですかぁーーー???」( ・∀・)ニヤニヤ 「・・・・・・・・・」(〃へ〃) ぼくこどもだからのぶゆきさんのいってることわかんないや
991 :
人間七七四年 :2010/04/09(金) 09:19:31 ID:05/ydERU
最後の行だけちらっと見て、ほりのぶゆきかと思った すんませんw
992 :
人間七七四年 :2010/04/09(金) 12:09:08 ID:Z7547Ian
993 :
人間七七四年 :2010/04/09(金) 12:50:59 ID:+t67zAMV
また少し冷えるな炬燵から離れられん 戦国の世に炬燵があったら背中丸めて炬燵当たりながら 塩をあてに日本酒ちびちびする謙信とかチョーカワイイんだが
994 :
人間七七四年 :2010/04/09(金) 13:06:31 ID:atwj6awi
炬燵といえば伊達政宗が炬燵が好きで、冬は炬燵で暖まってたらしいのだが、 その時一種の健康法として、必ず片側の布団を開けていたらしい。 色々と意味が有るんだか無いんだか分からないが、炬燵一つにも素直に当たらない 政宗らしいへそ曲がり炬燵術。
995 :
人間七七四年 :2010/04/09(金) 14:07:48 ID:WnQ9Ux75
健康法というか、足元だけじゃなく室温も上げたかったのかねえ 隠居所のあたりは年がら年中のべつまくなし霧が出るようなとこだから 湿気にウンザリしてたとかはあるかもしれない つか基本的に陰鬱な気候の仙台に住んでたくせに、なんであんな ヒャッハーな性格を維持できたのかマジでわからん
996 :
人間七七四年 :2010/04/09(金) 14:14:18 ID:eW7/+KCg
>>994 潜り込んだ猫が酸欠にならないようにじゃなかろうか
997 :
人間七七四年 :2010/04/09(金) 16:14:29 ID:noClQSgP
現代の北海道人が冬場にアイスクリームを消費しまくるようなもんだろう
998 :
人間七七四年 :2010/04/09(金) 16:48:10 ID:eW7/+KCg
>>995 仙台(岩手や福島の海沿いもだけど)は東北の中では雪も少ないし
過ごしやすい方な気がする。
999 :
人間七七四年 :2010/04/09(金) 16:52:11 ID:ioFs+zHA
>>998 雪が少なくても暖かくはないだろ。
フグシマの浜通りはそんなに寒くないみたいだが
千なら瀬田に旗を立てる
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