>>100>>101 お前まだ自演してたのw
お前は別人を装っているようだけど
書いてる内容が全部、伊達側からのパクリ内容だけだから
伊達厨の自演ってすぐバレるんだよw
和賀のこと。
伊達世臣家譜 和賀の譜には、和賀改易が浅野と南部の謀と書いてあるが、これは伊達史料の大ウソである。
奥南落穂集や岩崎一揆由来に和賀薩摩守信親が秀吉に参陣せずにいたので秀次下向の際に城を落ちたとしている。
さらに当時の政宗は自分が豊臣政権に対する奥羽の代表窓口だと主張しており、
政宗は和賀信親の他にも岩手郡不来方城主福士直経・志和郡平沢城主梁田詮泰・稗貫郡鳥屋崎城主稗貫輝家に書状を出しており
8/16には和賀が政宗に「御隔心無く仰せ下さる可く候、それがし儀、万端頼み奉る迄に候」と哀れなくらい非常に信頼して対豊臣外交を一任している。
政宗を信用し小田原へ参陣せずに伊達家臣に認定されたのが不満で長江氏は滅ぼされ、黒川も反抗した挙句に知行の大幅削減を飲み降伏を政宗から許された。
留守は政宗の叔父なので泣き寝入りしたようだがw田村、白河、石川、葛西、大崎らは政宗を信じた挙句に参陣してないとして独立大名認定を受け改易された被害者だ。
葛西大崎領などでは秀吉の方針で撫切令で臨む。葛西大崎は浅野長政が検地をしていた。
成実記
小者・あらし子を侍にして本侍を百姓にし米を略奪し百姓の下女どころか本侍の娘子まで
我が女房に取り集めており沙汰の限り仕様候故、侍百姓は明日の事すら分からず…
木村→浅野長吉10/5
米泉という村落の住民が伝馬の課役を拒否し隠していた刀を取り出して反抗したので30人を貼り付けにしたが脇百姓は見分けて悉く助けた
成実記は木村暴政と事実無根の悪口を記す。成実記のデタラメぶりは
天正18年を19年に混同し政宗が九戸包囲に参加したと書いていることからも理解できよう。