島津義弘を有名にした木崎原の戦い

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265人間七七四年
まあもともと農業に適さない土地だった薩摩の領民たちの生業が東南アジアでの略奪や人さらいだったからね。
領民自体が野盗や海賊
そんで島津に篤く信仰されていた仏僧は詐欺師や恐喝者だし…もうね日本とは違う常識で動いていた社会だから。
奴隷にされた沖縄や奄美の民は悲惨だよ。
砂糖の味すら知らなかったんだから
もうアフリカや南米でカカオやコーヒー豆を作らされていながらチョコやコーヒーの味を知らない奴隷と一緒。
266人間七七四年:2011/03/31(木) 16:41:54.47 ID:91hMD7zZ
薩摩の国は日本の最果てなので中央の政庁ではまったく注目されつ事がない。
なぜなら昔から今に至るまで際立って貧困でなんら評価されるものがないためである。
ゆえに薩摩は自立できず、シナからの略奪だけが生活方法であった。
大型船を持つ者達は年間の大半をシナの海岸地帯での略奪行為で過ごし戦死し
小船しかない者は略奪へ行く過程でしばしば遭難した。
このように薩摩の者は絶望的飢餓の輪廻の中で、
おびただしい仏僧や陰陽師を崇め、
その僧侶たちは国内の上下の階層の者たちを迷信の数々で洗脳し
思いのままに操り、戦争で勝つのは僧侶達が行う
儀式における永遠に続けられる犠牲のおかげだとして
国主は彼等から捧げられる膨大な犠牲に囲まれ生活していた。
秀吉の遠征の話も彼らは「わざわざ日本の果てにくるなんてウソだ。
それに来たところで武術に優れた薩摩100人で1000人討つのは容易だ」とした。
267人間七七四年:2011/03/31(木) 16:47:44.97 ID:91hMD7zZ
備中連島の住人、三宅国秀と言う人がいた。

永正十三年(1516)、琉球への渡航のため、薩摩国、坊津に備中より出航した
十二艘の船舶を率いて停泊中、島津忠隆の襲撃を受けて、一行もろとも皆殺しにされた。

江戸期に編纂された島津氏の記録によると、国秀は無法にも琉球征服を企んだため、
島津氏が室町幕府の許可を取り、彼を攻め滅ぼしたのだ、と言う。
島津氏は、琉球を守った恩人であったわけだ。


が、ここに天文二年(1533)頃、伊予の今岡通詮が島津氏に事態の説明を求めた記録がある。

通詮の記録によれば、三宅国秀の船団は、幕府の命を受けたものであった。
無法どころか、室町幕府の正規の船団であったのだ。

この問い合わせに島津氏は、このように返答している。

「三宅国秀の船団は、琉球からの襲撃を受け、そのため国秀は殺された。」

しかしそれはありえない。実はこの三宅の船団の襲撃があった時期、薩摩には
琉球王国の使者の僧が滞在しており、この僧によって琉球に、「島津の戦勝」が
伝えられているからだ。

どうも国秀の船団は、琉球征服どころか、幕府から、琉球に正規の交易を求めるための
ものであったらしい。
琉球交易を独占したい島津氏はこれを妨害するため襲撃、その上でその責任を琉球に
なすりつけ、さらに琉球に対しては、あれは琉球征服の船団であったと恩を売った、
と言うのが真相のようなのだ。


大永元年(1521)四月、三宅国秀一行が殺された坊津に突如、備中からの兵船が現われ
港を焼き払ったのだと言う。国秀関係者の復讐であったのだろうか。