1 :
あっ、ホンマ…(絶句) :
2009/12/08(火) 15:41:18 ID:NikvA9hf
2 :
人間七七四年 :2009/12/08(火) 20:19:13 ID:6HADuSC6
3 :
人間七七四年 :2009/12/08(火) 22:07:38 ID:ZOwLCpnc
>>1 山名某「スレ立て大儀であった。
>>1 殿は本丸に入られませ」
4 :
人間七七四年 :2009/12/09(水) 09:15:36 ID:02rRVZjx
/i (~) iヽ
《 ブ~愛`くノ
. {ヽ,二,,ノ}
( ´・ω・) わしは
>>1 乙など言いとうなかった!
(:::::::::::::::)
しωJ
5 :
人間七七四年 :2009/12/09(水) 09:35:40 ID:oRttdgfk
>>1 乙であった。
これより憎き三楽斎めを攻める、先駆けいたせ。
小田城の守りは気にせずともよい、奴を倒せばよいのじゃ
6 :
人間七七四年 :2009/12/09(水) 09:59:34 ID:zGMM/K/F
不祥ながら本多上総介、宇都宮より国境を越え時を越え、小田天庵殿の合力に参った!
7 :
人間七七四年 :2009/12/09(水) 11:21:34 ID:q35lZYQ9
>>1 乙
我ら白虎隊も時を超え、小田様に御助勢仕る!
なに、我らの城は御家老が守りぬいてくださるから案ずるな。
8 :
人間七七四年 :2009/12/09(水) 11:50:40 ID:ADtPKJVo
天庵さま大好き
9 :
人間七七四年 :2009/12/09(水) 12:00:25 ID:wQax6Wet
小田義治「広島へ行きます」
10 :
人間七七四年 :2009/12/09(水) 16:00:12 ID:Yr1aNdv2
詳しい人がいたら教えてほしいんですけど、 「甕割り柴田」のエピソードって、実話ですか? 海音寺先生は、武将列伝だったかエッセイだったかで、実話のように書いていましたが、 実話ではないという話を聞いた事があります どちらが正しいのでしょう?
11 :
人間七七四年 :2009/12/09(水) 16:56:31 ID:wQax6Wet
実話扱いだと思う。 瓶割山に長光寺城跡というのがある。
12 :
人間七七四年 :2009/12/09(水) 17:15:30 ID:VIsuXyu+
直茂公シリーズ 鍋島直茂がある時、こんな事を言ったそうだ 「城郭とは必要であり、また、必要の無いものでもある。 良い大将で良い部下を持っているなら、城郭は必ず有益なものとなる。 だが、無能な大将で良い家臣も持たぬようなら、城郭がどれだけ堅固であっても それに何の意味も無い。 城を生かすのも殺すのも、やはり人であるのだ。」 これが直茂公の城郭論である、
13 :
人間七七四年 :2009/12/09(水) 18:04:58 ID:H8ghV2wK
ある日、徳川家康が細川忠興を訪ねた。二人は何気ない話をしていた。
家康「私はもっと長生きしたいんですよ。笑っちゃうでしょ?」
忠興「まさか!ぜひ長生きして下さいよ」
家康「そうですか?じゃあ言っちゃおうかな。私は鷹狩と鉄砲だけが
楽しみでしてなぁ。これらをやってると寿命が延びる気がするんですな」
忠興「はあ」
家康「そこでご相談したいのですがね。稲富伊賀守のことなのですが…」
忠興(……しまった)
忠興は家康にうまく乗せられたことに気がついた。稲富祐直は忠興の家臣で
鉄砲の名手だったが、忠興の怒りを買って殺されそうになり、松平忠吉のもとに
逃れていた。(
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1274.html )
家康「伊賀守から鉄砲の話をきいて日ごろの疲れを除きたいと思うのですよ。
いや、忠興殿のお怒りはごもっともですが、あれほどの男を殺すのは惜しい
ではありませんか。出家させて命だけでも助けてやってはいかがでしょう?」
忠興としては稲富を許すつもりなどないのだが、話の流れから駄目とは言えず、
ついに稲富を許した。その後、稲富は徳川家を大いに助けたという。
14 :
人間七七四年 :2009/12/09(水) 18:05:52 ID:Yr1aNdv2
15 :
人間七七四年 :2009/12/09(水) 18:42:11 ID:q35lZYQ9
16 :
人間七七四年 :2009/12/09(水) 19:35:05 ID:wQax6Wet
>>13 重臣に逃げられる大名多いな
細川、伊達、黒田
17 :
人間七七四年 :2009/12/09(水) 19:55:07 ID:nJT/T7OG
>>13 リンク先の不忠義が読み応えありすぎるw
それを知ってて狸が言うもんだから相当したたかだな
18 :
人間七七四年 :2009/12/09(水) 20:18:21 ID:vKScSpN8
>>10 「お市様はカメを頭突きでブチ割る男が好きだ」と言う噂を聞いた
柴田勝家が頭突きでカメを割る訓練をしたエピソードだっけ?
19 :
人間七七四年 :2009/12/09(水) 20:58:31 ID:FlZBU2yY
>>まてそれは殿いつネタだw
20 :
人間七七四年 :2009/12/09(水) 21:59:23 ID:DpvEVayF
混乱を極めた越前をようやく平定した柴田勝家は、織田信長に拝謁した。 「権六、良うやった。褒美は何が良い?」 「されば、殿ご秘蔵の『姥口(うばぐち)の茶釜』を頂戴いたしたく…」 「あれは余が父・信秀より相伝せし逸品。それを求めるならば、さらに励むべし。」 「…………」 数年後、加賀・越中をも攻略した勝家は、信長に拝謁した。 「権六、良うやった。余みずから茶を点てて進ぜるゆえ、しばし待て。」 茶室でしばらく待っていると、信長が茶釜を持参して現れた。炉にかけられた釜を見て、 勝家は驚いた。 「そ、それは『姥口の釜』!!」 ♪馴れ馴れて 飽かぬ馴染みの 姥口を 人に吸はさん こと惜しぞ思ふ (もうつきあい馴れて飽きたババアの口でも、他人がkissすると思うと惜しいモンだな) そう口ずさみながら、みずから茶を点てた後、信長は約束通り『姥口の釜』を勝家に譲った。
21 :
人間七七四年 :2009/12/09(水) 22:00:58 ID:RtwNTLR/
信長の歌が面白いw
22 :
人間七七四年 :2009/12/09(水) 22:20:20 ID:6dNSJ+LJ
どっかの狂犬が荒らしに荒らしまくった越前を鎮圧しても 信長にとっちゃ大手柄じゃないのか…
23 :
人間七七四年 :2009/12/09(水) 22:58:34 ID:tsk97om3
越前平定は勝家だけの手柄じゃなかったからでは?
24 :
人間七七四年 :2009/12/09(水) 23:24:31 ID:4o/mIX8J
風流な話だよな
25 :
人間七七四年 :2009/12/09(水) 23:52:14 ID:LHy9HE0x
なんかエロい歌だ
26 :
人間七七四年 :2009/12/10(木) 10:46:39 ID:bGhAT70p
>>1 遅れてすまぬ大儀であった 好きなおにぎりをとっていくがよいぞ
∧ ∧
( ´・ω・) ○
( ∪ ∪ ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 .,.⊥、
と__)__) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■)
梅干 高菜 鬼武蔵 こんぶ お歳暮ハム ハッスル オプーナ
,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、
(,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■)
砒素 唐辛子 ちりめんじゃこ 年賀状 柴漬 塩辛 とりかぶと
,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、
(,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■)
鮭 御玉杓子 鳩山ママ サリン 鳩サブレ 石見銀山 鳩山兄 出汁がよんしゅんだ大根
,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、
(,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■)
カツオ ワカメ サザエ タラ ナミヘイ
27 :
人間七七四年 :2009/12/10(木) 13:42:03 ID:KqiEQmN9
>>20 ガンガン炊いてアッツアツの釜を「このまま持って帰れ」とか言わない大殿で助かりました。
28 :
人間七七四年 :2009/12/10(木) 14:24:07 ID:j2Xoybym
29 :
人間七七四年 :2009/12/10(木) 17:24:24 ID:YcO2fWtv
30 :
人間七七四年 :2009/12/10(木) 17:57:09 ID:8gDX3tE+
かつて横手を領した小野寺義道は、関ヶ原の戦い後に石州津和野へ流された。 恩人・坂崎直盛の供養が有名だが、その後も彼は生き続けている。 彼はたびたび、佐竹氏に仕官した旧臣に書状を送り、羽後の近況を尋ねていた。 そのうちの一通、1645年の書状はこんな内容だった。 「この短冊を、形見として送る。 自慢するようだが、私の書いた短冊はあちこちから所望されるのだ。嘘ではない。 頼まれれば否とも言えないので、流人である恥も構わず書き与えている。 出雲や長門、安芸などからも地紙を届けてくるから、もう百枚は書いただろう。 これは余人には言わないでくれ。 六郷のやつは運がいいな(羽後から常陸へ移封されたが、後に国内に戻れた)。 由利衆の面々はどうしているか、まるで知らないから、詳しく教えてほしい。 私に仕えていた者などは、大抵死んでしまっただろうな。 誰が生きているのか、詳しいことを聞きたい」 この書状の日付から10日余後、 恐らくは最期まで故郷を思いながら、義道は80歳で死去した。
31 :
人間七七四年 :2009/12/10(木) 18:07:26 ID:l9LCPUt+
32 :
人間七七四年 :2009/12/10(木) 19:10:37 ID:izVB9wIP
返事は読めなんだか・・・
33 :
人間七七四年 :2009/12/10(木) 19:17:16 ID:scC/yPxF
やっとカキコできた記念に みんな大好きウキウキさんの合戦話。拙い文章ですが・・・ 暗殺とかばっかり有名ですが、ちゃんと合戦もできるんです。 直家は三村家親を史上初の銃で狙撃という手段で暗殺したのは有名な話。 その後、三村五郎兵衛の玉砕は以前語られている通り。 「今こそ父の敵を討つぞ!」 家親の死の一年後、跡を継いだ三村元親は備前へ侵攻し、 明禅寺城に夜襲をかけ陥落させた。 この城は当時直家の本拠だった沼城の防衛用に築いた城だった。 当然、その城を奪われると言うことは喉元に刃を突きつけられるに等しい事だった。 直家は奪われた明禅寺城を取り返す為、5000の兵で城を包囲、 それを知った元親は、20000大軍で備前迎撃を行い、直家の目論見を打ち破らんとした。 そして軍を3隊に分け、2隊を明禅寺城へ、元親本隊は直家の本城沼城を目指した。 その報告を聞いた直家、総攻撃を命じて自ら明禅寺城下に突き入り、 先陣が明禅寺城へ到着する前に落城させた。 驚いたのは三村軍の先陣を率いていた庄元祐である。 落城を知り浮き足立った先陣は城を落とした宇喜多忠家らの猛攻を受け、 庄元祐は討ち死にして敗走する事になった。 中軍は敗走する先陣の兵に遭遇し、動揺しているところを またもや宇喜多勢に襲われ、これも敗走する事になった。 別働隊2隊の敗走は元親の軍にも動揺を与えた。 元々備中の国人衆を寄せ集めた元親の軍は、 次々に勝手に退却、残った元親の軍は覚悟を決めて 直家の本隊に襲い掛かったが、先陣を攻撃していた忠家らの軍も合流し、 ついには三村軍本隊も敗走する事になった。 この合戦を人々は明禅寺崩れと呼んだ。 金光宗高「先陣の道案内は俺がしたんだよねー♪当然内応済みっす。」 中島大炊介「本隊の道案内は拙者が。上に同じく」 直家「計画通り。わざと城をくれてやったら見事に誘いに応じてくれたわ」 この二人のその後を書くと悪い話になってしまうので割愛。 ちなみにこの時戦場となった備前平野では、 その死者を直家が手厚く埋葬したといわれている。 その首塚は、現在もいくつかは現存しています。
34 :
人間七七四年 :2009/12/10(木) 19:59:02 ID:mXPFHNjz
中島大炊介って備中の人で、清水宗治の部下で、中国兵乱記を書いた人だっけ。 面白そうなので悪い話スレで楽しみにしてます。
二人の義妓 戦争において戦うのはなにも男や兵だけではない 朝鮮出兵時に妓生となりながら日本軍に抵抗した二人の女性の話をしよう 一人目は平壌の桂月香という女性である 当時平壌は防衛線であった大同江を日本軍に越えられてしまい 朝鮮軍に放棄され小西行長が平壌に入っていた その小西配下の武将が一人の女性に入れ込んでいた 彼女の名は桂月香 桂月香は平壌の守将である金応瑞の愛人であったが 平壌を放棄した金応瑞には付いていかず平壌に残りこの武将の妓生となっていた 武将は毎晩桂月香を求めるが父の喪中であるからと拒み続ける桂月香 その間桂月香は密偵として日本軍の内情を北に逃れた金応瑞に伝え続けていた ある日桂月香が武将に父の喪が明けた事を告げると武将は舞い上がり 昼間だというのに酒盛りを始めた 桂月香も武将に酒を勧め日が暮れるまで飲ませた さて、いよいよというところで武将が桂月香に触れようとすると 桂月香は隠し持っていた目つぶしを武将に投げつけた 武将はひるみその隙に討たれて死んだ 潜んでいた金応瑞が首を刎ねたとも桂月香自身が手に掛けたとも言われる この武将を失った小西の軍勢は混乱、明、朝鮮連合軍が迫り桂月香から情報が漏れていた事もあって 平壌の防衛は困難となりとなり撤退する事となった しかし桂月香自身は日本軍に討たれ死んだという
もう一人は晋州の論介というである女性である 晋州城は一度は日本軍2万を撃退し日本軍から"もくそ城"と呼ばれ評価されていたが 二度目の攻撃では9万の日本軍相手に耐えきれず軍民をまきこんで壮絶に落城した 晋州城陥落の後、日本の将達は晋州城の矗石楼で連日連夜の祝宴を開く 宴の中で諸将が争うように妓生を求める中に一際華美な妓生が一人いた 顔は厚化粧で覆い両手はすべての指に指輪をし派手に着飾っている 彼女こそ後世にその名を知らしめる論介である 論介はこの戦で晋州城を守備し戦死した崔慶会の愛妾であったが 夫の死に怒り妓生となって祝勝会に潜り込み 諸将に媚を売りながら復讐の機会を狙っていたのだ そんな論介の思惑などつゆ知らず酒に酔った毛谷村六助という武将が論介に目を付けた 論介は微笑みを浮かべ毛谷村を矗石楼の東側にある南江の険しい岩の上へと誘い出すと 毛谷村に抱きつき指輪で手がほぐれぬようにしっかりと手を組み合わせて 水面に身を投げ将もろとも溺死し復讐を果たした 論介のこの行動は後に朝鮮王朝に義挙として認められ矗石楼の奥に祠を立て祀られた 今でも晋州城址には論介が飛び込んだとされる岩は義岩と称し保存され 毎年義巌別祭が行われ義妓として韓国で知られているという 韓国側にとっては義の為に命を挺して武将を陥れたいい話 日本側にとっては酒と女で命を落とした武将の悪い話ですが これは韓国の話なのでこちらに投稿 例によって資料に乏しく史実性は期待出来ない為あちらで広く知られているパターンでいきました 実際は二人が殺した武将どころか二人の素性すらあやふやですが要は民話の類です 二人の肝っ玉に感じ入ると共に酒と女には気をつけようw
37 :
人間七七四年 :2009/12/10(木) 22:16:48 ID:HGMeGwSS
妙林尼と同じ手に引っかかったのか 全く男って香具師は・・・
38 :
人間七七四年 :2009/12/10(木) 22:21:13 ID:VbFab/X/
ハニートラップとかって、そんな代わり映えしないんじゃないか? それだけ普遍的に使える手なんだろうけどさw
39 :
人間七七四年 :2009/12/10(木) 22:35:12 ID:5+GyYeBP
ちなみに桂月香の話は芥川が金将軍という短編小説で書いてる 討たれた武将は小西になってるが多分芥川の創作
40 :
人間七七四年 :2009/12/10(木) 22:47:49 ID:vj95kYP0
昔は韓国の歴史学者と朝鮮役の共同研究をすると、この手の根拠の無い民話レベルの話を 民族史観、愛国史観みたいな形で大真面目に主張されて、日本側の研究者たちは 大変困ったそうな。 一応韓国の名誉のために言っておくと、最近の、特に若手の研究者は、自国の歴史を 客観的に見るようになってて、例えば朝鮮役についても、研究者レベルでは 日本の見方とそんなに変わらない感じになっているらしい。 そんな状況に古くからの研究者は、最近の若い者は民族の視点が無いと お冠なのだそうですがw
41 :
人間七七四年 :2009/12/10(木) 23:11:50 ID:5+GyYeBP
後者の論介の話も 「なんか一年位前に素性の知れない賤妓が倭将を道連れに溺死したらしいよ」 って話から 「功を認めるのに賤民じゃ格好つかないから格上げ」 となってちゃんとした妓生としての身分になり 「晋州城守ってた将軍の愛人だったんだよ」 って尾鰭が付いて夫に尽くした女性としての価値が見出され、 戦後はその愛国心溢れる行動を強く評価されて民族主義掲揚のタネになった…らしい ゲタ履かせすぎだろ… だが韓国が民主主義になってからまだ世代が入れ替わってないからしょうがなくもある
42 :
人間七七四年 :2009/12/10(木) 23:55:49 ID:NJg4Nz4h
プロパガンダからの派生か大陸の説話からの派生ってとこかなあ
43 :
人間七七四年 :2009/12/11(金) 00:42:18 ID:aQkSbS3E
よく分からんのだが、2件目は当時の王朝が義伎認定したのではなく、もっと後世の王朝が持ち上げたの? まぁどちらにしろそんな石碑が立つなら、書類が残ってそうなものだが、焼けてしまうのが戦争の悲しいところやね
44 :
人間七七四年 :2009/12/11(金) 02:17:56 ID:6MZ5FoS7
>>36 二件目の話の詳しいのが前読んだ本に載ってたと思ったけど書名がどうしても思い出せん
日朝両国の文学史に見る朝鮮出兵みたいな内容で主にもくそ判官と論介について書いてあるやつ
確か元々の話は、朝鮮出兵終わってからあんまり経ってない頃に、朝鮮で戦争中義のある行動を
した人を顕彰しようって動きがあった時に収集された話で、民話レベルってほど怪しい訳でもないけど、
「名前も伝わっていない妓女が断崖で踊って日本兵を一人誘い出し、道連れにして川に落ちて
二人とも死んだ」という簡潔な内容だったはず。
「…という事例を推薦したけど妓女だから選にもれたらしい、身分はどうあれ立派な行動は
評価されるべきだと思うけど」と推薦人が記録を残してるとかなんとか。
そこらへんに文学的修飾が加わって義娼論介の物語になっていったわけやね
45 :
人間七七四年 :2009/12/11(金) 07:29:58 ID:18Q6Tgre
論介はどういうわけか戦後直後は下賤という理由で評価されなかったのに 100年以上後の1700年代後半になってから政府が碑を建てるように命じてるんだよ 再評価の過程で何があったのかは謎
46 :
人間七七四年 :2009/12/11(金) 14:00:47 ID:R5xj31Hl
財政状況も悪いだろうから、下の方は切り捨てていったんじゃないかな。
余裕が出来た頃には忘れられかけていたとか。
宮廷で李舜臣の廟を建てるという話が出たが
いつの間にか立ち消えになり、結局7年後に民衆が廟を建てたなんて話もある。
>>45 それくらいになると実情がどうこうより「日本兵を道連れ」という行為が
観念的な方面から評価されたとか。>100年以上後
47 :
人間七七四年 :2009/12/11(金) 16:51:04 ID:9lsy11dp
社会や政治が歴史に対して示す関心は一定じゃない、というのもあるね 時代によってまったく無関心だったり、強く執着したりする
48 :
人間七七四年 :2009/12/11(金) 17:29:51 ID:cBqAkqSd
ジャンヌダルクもフランスで、長い事無名の存在だったのに、 ナポレオンの時代になって突然表彰されたからねえ。
49 :
人間七七四年 :2009/12/11(金) 18:35:39 ID:uAEes9KQ
土井利勝 「昔、家康公に『安藤直次は人使いがうまいという。利勝よ、どんな やり方か見てこい』といわれて直次殿の屋敷を訪ねたことがあってな。 それで私は直次殿を側から見ていたわけだが、直次殿の部下が 仕事について伺いをたてても、直次殿は首を縦か横に振るだけで、 なにをどうしろと指図しないということに気がついた。 横に振られた者はそこから下がって一考したり、誰かと相談した上で また来るが、直次殿は気に入らないと決して首を縦には振らず やはり、なにがいけないとか指示することはなかったよ。 疑問だった私は思い切って、気に入らないならどこが悪いと指示 なさったほうが仕事がはかどるのではありませんか、と申し上げた。 すると直次殿は『私がどうしろと言うのは簡単ですが、それでは彼らは 私を頼りきってしまって、努力も勉強もしなくなります。そうなると良い 役人が育たんのです。私はもう年老いて死ぬだけですからな、今のうちに 頼宣様のために良い人材を育てておきたいのですよ』と仰ったのだ。 それ以来、私も直次殿に倣い、部下にあれこれ指図せずよく考えさせる ことにしておるよ」
50 :
人間七七四年 :2009/12/11(金) 19:22:36 ID:RIqwQWlG
けどそれって時間かかるよね・・ 即戦力にならない奴は今のご時世じゃ「使えない奴」の烙印を押されかねないな
51 :
人間七七四年 :2009/12/11(金) 20:22:36 ID:PVk/He1g
身分や所属の固定が求められた社会でなら通用するんだろうけどね。 逆に戦国みたいな時代では、家臣は自分で自分を成長させて、売り込みをかけなければならない。
52 :
人間七七四年 :2009/12/11(金) 21:16:26 ID:pQWERsen
>>50-51 そうして仕事の能力と同時に“めんどくさい”も継承されたんだよ。ココ大事なのよ!?
53 :
人間七七四年 :2009/12/11(金) 21:40:01 ID:9XCiRd/i
>>36 俺、毛谷村六助の出身地と言われてる村の出身だよ。
一応、公民館とか村の中に看板があって、
>>36 の内容
をかいつまんで書いてあった。
もう10年近く帰って無いな…相当田舎で、家継いだ兄と
折り合いが悪くてね…懐かしい。
54 :
人間七七四年 :2009/12/11(金) 22:21:58 ID:aQkSbS3E
>>52 めんどくさい上司を攻略するには、自らもめんどくさくならねばならんのか…
55 :
人間七七四年 :2009/12/12(土) 00:27:08 ID:toCTnA4U
>>50 けど出来ない人が少しだけ出来るようになると
雨×子猫×不良の黄金ほーてーしきが成り立つのです!
出来る人には起こりにくい、不思議なほーてーしきなのです。
56 :
人間七七四年 :2009/12/12(土) 04:40:07 ID:DwFBCdhh
57 :
人間七七四年 :2009/12/12(土) 09:54:31 ID:nGBn+q/U
地域情報って商工会かなんかがやってるのかな。 見てきたけど、やけに充実してるね。
58 :
人間七七四年 :2009/12/12(土) 10:19:44 ID:gKy9yu7N
豊臣秀吉は朝鮮出兵の指揮をとるために九州へ行く途中、 広島の厳島神社に立ち寄った。 そこで秀吉は「われらが勝利するために賽銭の表側が多く出よ」 と言いながら賽銭を投げた。 するとどうしたことか秀吉の投げた賽銭はすべて表側になった。 これを見た家来たちは「おお、賽銭が表ばかりじゃ!これは幸先が よいに相違あるまい!」と一様に喜び、その士気も上がった。 しかしこれは秀吉の仕掛けたトリックだった。 賽銭はすべて二枚重ねでどんな投げ方をしても表側が出るように なっていたのだ。 秀吉の見事なパフォーマンスであった。 ……え?どこかで聞いた話だって?
59 :
人間七七四年 :2009/12/12(土) 11:04:46 ID:ioO8cWfn
>>58 そんなズルをしたから、神社の神様(何か忘れた)に祟られて負けたんか
60 :
人間七七四年 :2009/12/12(土) 11:32:49 ID:xikkw36O
>>59 宗像三女神かな?海上交通の神様だね。
他に祭られてる神様もことごとく女神だったような・・
61 :
人間七七四年 :2009/12/12(土) 12:31:26 ID:9nCWkHAi
女神様でもラスボス相手じゃ嫌だったのかね。
62 :
人間七七四年 :2009/12/12(土) 12:52:16 ID:asQJ5kpi
>>20 飽かぬ馴染みのってことは
馴れて飽きたじゃなくてまだまだ飽きてないんじゃないの?
63 :
人間七七四年 :2009/12/12(土) 12:58:39 ID:M7OuIw1O
女神は秀吉の趣味じゃない熟女ばかりだったんだよ、きっと
64 :
人間七七四年 :2009/12/12(土) 13:28:16 ID:PN8rP6xA
>>62 なんか和歌だか俳句だかでなかったっけか、ぬ の使い方のやつ
完了形だかなんだかの ぬ なので 飽きた でいいんだと思う
間違っている可能性大なので日本語のプロに任せるけどw
65 :
人間七七四年 :2009/12/12(土) 13:30:41 ID:c2sk30/j
>>63 そりゃあ齢数百年じゃ済まないどシニアだからなあ。
66 :
人間七七四年 :2009/12/12(土) 13:36:36 ID:asQJ5kpi
>>64 おお解説感謝、短歌俳句どころか古文にさっぱり疎いんでスレ汚しスマンです
67 :
人間七七四年 :2009/12/12(土) 15:18:42 ID:5qxNsQAK
完了形のぬだと、飽きぬ(連用形)、否定のぬだと飽かぬ(未然形)、じゃない?
68 :
人間七七四年 :2009/12/12(土) 17:56:36 ID:Hhyl5ILg
完了の「ぬ」は連用にかかるんで、未然の「飽か」にかかるんだったらやっぱり否定の「ぬ」じゃないのかえ
69 :
人間七七四年 :2009/12/12(土) 17:58:00 ID:Hhyl5ILg
2時間遅れて被るとは迂闊w 失敬致した
70 :
人間七七四年 :2009/12/12(土) 19:03:07 ID:MUPBnWCG
天文八年のこと。 権威付けのためか、伊予の河野通直は幕府御相伴衆になるべく、働きかけを行った。 さて、これが結構大変である。 通直は幕府中枢にパイプがなかったらしい。 どういう経緯か、名門公卿・近衛尚通の正室が動いている。 彼女は幕府内談衆の大舘晴光へこの話を持ちかける。 晴光は父親で、同じく内談衆として幕政を動かす大舘常興へ頼んだ。 常興は、将軍・足利義晴を擁立した実力者、近江の六角定頼へ仲介。 ここで初めて、御相伴衆就任についての検討が始まる。 定頼も加わった会議では、河野氏を加えることに反対意見も出たものの、義晴の存念次第と決まる。 この結果は定頼から常興へ伝えられ、常興は晴光に書状を送り、そして尚道正室へ知らされた。 翌年、通直が御相伴衆に任じられることが決定。 通直は御礼として義晴へ太刀と二千疋、嫡男の義輝にも馬と太刀を進上した。 こうして、ようやく通直は念願を果たしたのであった。
71 :
人間七七四年 :2009/12/12(土) 19:37:32 ID:M5JKWG2p
権威付けにしてもその当時の室町幕府それほど権威あったのかな?
72 :
人間七七四年 :2009/12/12(土) 19:48:13 ID:NF0/lZXv
>>71 実権はともかくとしても、権威はそこそこ生きていたみたいだよ。
その幕府の権威ゆえに、三好長慶や信長だって苦労することになるわけだし
73 :
人間七七四年 :2009/12/12(土) 20:15:49 ID:DwFBCdhh
河野通直は河野氏の中では傍流(一説には来島通康の子)であり、 永禄11年(1568)に伊予守護、河野家当主となるものの、本来ならその権利は無かった。 この当時将軍直臣というものは、守護権力の掣肘を受けない権利があり、 通直は守護権力に対する自己の立場の強化も狙って、幕府御相伴衆への就任を 考えたのでしょう。
74 :
人間七七四年 :2009/12/12(土) 20:36:21 ID:2GTTUTxm
和歌の話と任官の話が出たついでに 天文の終わり頃、肥後国守護の官を授かった名門武家の若者が、後奈良天皇のもとへ 参内した。若者の文武両道振りを聞き及んだ天皇は、彼に言った。 「そなたは、和歌の道にも通ずるとか。そこで頼みがある、この場にて『雪中早苗』の題で 一首詠んでくれぬか?」 苗は五月に植えるものであり、「早苗田」は初夏の季語である。それが雪の中にある 情景を詠めという、謎々集『後奈良院御撰何曽』を残した天皇らしい難題だった。 若者は少し考えた後、朗々と歌を詠んだ。 「 富士うつる 田子の浦わの 里人は 雪の中にも 早苗とるなり 」 駿河国、田子浦近くの水田には、まだ頂上に雪が残る富士山が水面に映る。里の者は、 その田に映る富士の雪を愛でながら、早苗の手入れをしているのだろう・・・ 「おぉ・・・見事!さすがは名門、大友家の跡取りよ!」 のちに休庵宗麟と号する若者の、名門らしい教養と知性あふれるお話。 まぁオレはベッキーの 岩根踏み 峰の懸け路の 賢しさも なに武士(もののふ)の 道にかはらじ とか、宗茂パパの かばね(屍)をば 岩屋の苔に 埋みてぞ 雲居の空に 名をとどむべき とか、男くさいけどダンディズムあふれる歌の方が好きですが。
75 :
人間七七四年 :2009/12/12(土) 21:27:15 ID:A3F3qu0x
>>73 の通直と
>>70 の通直は同一人物ちゃう。河野氏は通直さんばっかりなので間違えないでね!
当主だけで通直3人、通宣2人いるのですよ……。
今の研究だと
1.教通(通直とも、応仁の乱の頃の人)
2.通宣(刑部大夫、何故か来島で死去)
3.通直(弾正少弼、
>>70 の人、晴通と争って負ける、来島通康に娘を嫁がせる)、
>>70 はこの辺
4.晴通(かつては分家出身と言われたが今では3.の通直の実子と言われる)
5.通直(数年後の晴通の病死?暗殺?で3の通直復帰)
6.通宣(左京大夫、晴通の弟、同じく分家出身と言われたが、今では3.の通直実子と言われる)
7.通直(伊予守、かつては庶流池原通吉実子と言われたが、最近では来島通康実子説と6.の通宣実子説が有力、かな)
76 :
人間七七四年 :2009/12/12(土) 21:29:22 ID:DwFBCdhh
>>75 おおお、勘違いしていたか…
しかし何とややこしいw
77 :
人間七七四年 :2009/12/12(土) 21:37:48 ID:A3F3qu0x
>>76 すまぬ、もう一人通直さん忘れてた。
教通の曾祖父、通尭も通直と名乗ったらしい。
通尭さんは戦国時代じゃないが超がつく苦労人。
子供の頃、同じ北朝のはずなのに隣の細川頼之に攻め込まれ父が討ち死に。
家臣に助けられて九州に落ち延びて南朝に転向。
九州で活躍の後、満を持して南朝の助けも得て伊予に帰国。
伊予を抑えると北朝に戻って伊予守護職を義満さんからゲット。
ちょうど中央では細川頼之が失脚。
といっても軍事力山盛りの頼之にやっぱり攻め込まれて伊予の世田山で討ち死に。
幼い子は何とか義満のおかげで伊予守護職を確保したけど……。
伊予は戦国時代の前から守護権力が怪しかったという全然よくない話でした。
スマソ
78 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 01:49:46 ID:usGE5PsF
上洛のついでに女狩りとかやってた話もあるクセに妙に清々しい歌を…
79 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 08:19:49 ID:7bT5VcCl
>>77 地元の話題ktkr
世田山は新田義貞の弟が北朝の軍に敗れて自刃したりしてるね。
80 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 09:51:37 ID:21l+RcZd
>>74 今の世ではただの変態ですが、当時だと歌が上手けりゃ多少の変態行為は見逃されてたんですかね
イケメソだから女を取っ替え引っ替えするのはしょうがない、みたいな
81 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 10:26:02 ID:lAT3Ueju
合意の上じゃなかったりするけどな
82 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 11:16:17 ID:wWKIA83x
>>78 狩ったからスッキリ清々しい歌を歌ったんでしょう。
83 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 12:03:40 ID:qJQY2wnv
賢者タイムだったのかw
84 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 12:04:12 ID:ECabrYje
関ヶ原合戦の敗因を考察すると、多分に三成の状況判断の甘さ、諜報能力の低さが 大きな配分を占めていると判断したから
85 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 12:05:18 ID:ECabrYje
86 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 12:47:58 ID:GtS5//dj
>>85 誤爆すいません><
と該当スレをさっきまで見てた他人の俺が言っておくw
87 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 13:33:01 ID:9LQnIGDU
串柿に使われている串は柿を食べてしまうとたいていの人は捨ててしまう。だが、松永久秀は串を捨てずに集めていた。 なぜそんなものを集めていたのかというと、自宅の壁の補強にその串を使っていたのであった。 松永久秀はこの「もったいない」の精神で蓄財に励み、後々の出世の糧としたのである。
88 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 13:47:27 ID:AReLKQse
せっかく蓄財して買った茶釜も最後は爆破しちゃうんだから。
89 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 14:09:53 ID:hWAK4CHP
今なら牛乳パックで本棚作るんだろうな カリスマ主夫久秀萌。
90 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 15:20:50 ID:DZP6wFwH
恐妻家でカリスマ主夫で多趣味で小動物好きの久秀さん
91 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 16:21:24 ID:NjOmZTB8
「蓄財とか流行らないよ。パーッと使おう!!」 寛永9年(1632)1月、大御所秀忠が死去し、将軍家光の親政が開始されると、真田信之は 麻布の真田藩中屋敷の改築を始めた。 人足を千二百人ほども集めた信之は、普請奉行として十四、五人の騎馬の士を選んで、 将軍家の喪中とて、静かにゆっくりと普請を行わせた。 さらに国許から建材を小荷駄百両を連ねて運ばせ、「田舎百姓の馬ばかりなれば」と、 江戸城に近い上屋敷や中屋敷を避け、下屋敷に仮の厩舎を造って休息させた。 5月、肥後加藤家が改易されるも騒ぎ立てる大名は無く、世は平穏を保った。 「・・・そろそろ、よかろう。」 信之は、人足に偽装した足軽衆を普請奉行らに指揮させて帰国させた。 さらに下屋敷へ密かに小荷駄で運び込んだ馬・兵糧をも返させたが、なおも念のために 板橋・蕨・浦和あたりで馬子を雇って一ヶ月ほど遊ばせ、ようやく国許に戻した。
92 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 16:29:39 ID:21l+RcZd
>>91 いつ改易になるか分からず慎重なのは分かったけど、
喪が明けるまで待てない理由がよく分からない(笑)
この時の喪中期間は年単位で長かったのですか…?
93 :
92 :2009/12/13(日) 16:47:10 ID:21l+RcZd
すみません、服忌令で調べたら自己解決しました 綱吉以前は3年ですか…
94 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 17:08:17 ID:AReLKQse
これはあれでしょ。喪に乗じた変が起こった場合に真っ先に駆けつけるために足軽を人足に偽装させて屋敷の改築名目で集めただけ。
95 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 18:24:47 ID:EKWyoRoF
おれもそう思う。 秀忠死去と加藤改易で一波乱起こった時のために備えとして江戸に人数集めてたんだろう。 贅沢は名目。 で、どうやら何事もなさそうだから国元へ退却させたと。
96 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 18:28:52 ID:KDWmPxSA
毛利三兄弟の三矢訓の逸話は有名だが その三本の矢をすべて受け止めた男がいた 大内義隆である 彼は毛利三兄弟(その他弟も含む)を穴兄弟にした恐ろしいガチホモである
97 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 19:10:32 ID:7OgVbK5o
井伊直孝がある時、しみじみとこう言ったそうだ 「世の人、財宝を送られれば、誰もがその厚い志に感謝をする。 だが自分の考えに反する異見を言われた時に、それを恩に思うものはいない。 しかし異見と言うもの、ほんの少しでも聞けば、一生の役に立つ事が あるものだ。だとすれば、これ程の宝はこの世に他に無い。 そう思って異見と言うものは聞くべきであろう。」 異なる意見と言うものの大切さを指摘した言葉である。
98 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 19:27:53 ID:YSTBXAvI
>>94-95 一体どっちに加勢するつもりだったのだろうか・・・
上田から無理矢理移動させられた恨みもあるだろうしもしかしたら・・・
99 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 21:30:09 ID:lObP5YPR
文禄・慶長の役の戦間期頃の話 明の副総兵である劉テイが加藤清正が居城としていた 西生浦城を訪ねた時のこと 劉テイが清正に封と関白の座を与えようと持ちかけた 秀吉を裏切って明側に寝返れと言うのである この提案に清正は 「秀吉の日本統一は天の与えたものであり 秀吉は明を征服して名を後世に掲げ 男児の志を顕そうとするものである。 自分は秀吉と心を共にしているものであり明に降るいわれはない」 と拒否したという
100 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 21:31:44 ID:lObP5YPR
おおっ!書き込めた!
>>97 うーん、現代にも通じる話ですな
耳が痛い
101 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 22:12:31 ID:kLYjDV0j
>>99 よりによって清正に声かけたのか。無謀だったな。
他に可能性のあるのいただろうに。
102 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 22:17:55 ID:lObP5YPR
まぁ明側は他の武将にも寝返りを囁いた形跡あるけどね… 島津とかそうらしいがそっちは詳しくない 誰か調べて投稿してくれ
103 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 23:06:06 ID:jmjGzSIi
太田道灌は自分の部下を厳しく訓練した。しかしその辛さゆえに怠ける者もいて、 そういう者は罰金を払わされた。 怠け者「どうもすいませんでした。罰金払うんで許してください」 道灌「おう、これからは気をつけな。よし、お前らこの金で飲みにでもいけ」 部下「ヤッタ━━(゚∀゚)━━━!!!!」 道灌は罰金をこのように部下たちに渡した。当の怠け者は同僚たちから仲間はずれ にされて、罰金を払うのがばかばかしくなった。そういう経験をすると、怠け者は心を 入れ替えて怠けなくなったという。それこそが道灌の狙いであった。
104 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 23:19:32 ID:RjrT4ldL
>>101 なんか明側は中途半端に日本の情報を仕入れたらしく(絨毯爆撃してたのかも知れんが)
そりゃもうよりによって清正に
「お前と秀吉は昔同格だったんだろ?今は使われる身とかどうよ?裏切れば?」
と勧めてしまったらしい
105 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 23:23:17 ID:Qhoeo/Rh
106 :
人間七七四年 :2009/12/13(日) 23:38:06 ID:ZdbwolHS
かつての身分というと足軽身分から天下人まで当てはまる超レアケース相手だから何言ってもよかったんでは?
107 :
人間七七四年 :2009/12/14(月) 00:36:57 ID:4JS/sgyf
>>105 当時の身分区分やそれへの意識はよくわからないけど、ともに農民出身だろってことじゃないかな
108 :
人間七七四年 :2009/12/14(月) 01:39:36 ID:EFpzVwoS
>>101 内応を持ちかけられたことが日本側に伝わればなんらかの動きが…とか。
最前線の大物だし。
以前ここで出ていた薩摩の許儀後の報告書には
「日本の大名は皆遠征を嫌がっています。
それを見て取った薩摩の君臣は東海道(家康か?)と内通して謀反の相談をしていました。
成否はわかりませんがもし謀反が起きたら入寇は難しくなります。
しかしどうなるかはわかりませんのでまずは入寇を防ぐ準備をすべきでしょう。」
なんて文章が出てくる。
明側は日本軍の戦意というか秀吉への忠誠心は低いと考えていたのかもしれない。
(まあ大外れとも言えないが清正は例外だろう)
109 :
人間七七四年 :2009/12/14(月) 03:40:30 ID:9PejUnMV
110 :
人間七七四年 :2009/12/14(月) 07:10:10 ID:rDvOUNrj
111 :
人間七七四年 :2009/12/14(月) 07:36:21 ID:Dap2U2t/
112 :
人間七七四年 :2009/12/14(月) 09:13:43 ID:ouL5lA0h
113 :
人間七七四年 :2009/12/14(月) 10:04:00 ID:5JlCCF7R
小西殿を朝鮮に置いていったらそれこそ日本の恥である みたいな事言ったのって誰だっけ? もしかしたら小説か何かのネタかも知れないんだが・・・
114 :
人間七七四年 :2009/12/14(月) 10:50:42 ID:d8A6RKtq
>>113 秀吉死後の帰国を算段しているときに宗茂が言ったみたい
115 :
人間七七四年 :2009/12/14(月) 12:08:00 ID:ATAzCRaW
親不知子不知とか難所に関する戦国ちょっといい話は何か無い?
116 :
人間七七四年 :2009/12/14(月) 16:04:43 ID:0OMNbPok
>>96 吉川さんもアッー!なん?
まあ兄弟揃って嫁さん一筋(隆景に至っては結果的に、家まで潰しとる)の愛妻家一族なんだよね。
117 :
人間七七四年 :2009/12/14(月) 16:19:50 ID:0OMNbPok
>>30 悲しいけどいい話やね。新たにやって来た大名(出羽なら佐竹や酒井とか)に仕えたり、
帰農して庄屋・名主で家名を残したり(加賀守護の富樫一族とか)、戦国武将の末裔も様々だねい。
118 :
人間七七四年 :2009/12/14(月) 18:52:11 ID:KfSvux06
>>116 37年に山口行ってるからたぶん食われている。
隆元や隆景のように寵愛されなかったから名前もらえなかったけど陶と関係持ってるし。
119 :
人間七七四年 :2009/12/14(月) 19:05:00 ID:FICIJjbd
義隆の隆の字は寵愛は関係ない つか寵愛が関係あったら有名どころでは弘中隆兼に宍戸隆家、 挙句の果てに竜造寺隆信まで食ってしまったことになる 元春に隆の字がないのは毛利家の二男として元服したから その証拠に元就も二男だから兄がもらった興の字をもらえていない 隆景が隆の字をもらえたのは元服前に家を出て 毛利家の三男としてではなく、竹原小早川の当主として元服した為だ 隆景の先代も大内義興の興に小早川家の通字の景で「興景」
120 :
人間七七四年 :2009/12/14(月) 22:30:56 ID:W33KqTkh
NYダウ 10471ドル +65ドル ナスダック指数 2190P −0.5P CME日経先物 10090円 −10円
121 :
人間七七四年 :2009/12/14(月) 22:37:20 ID:MfEF4O0O
122 :
人間七七四年 :2009/12/14(月) 22:53:14 ID:AFfL1kVq
えっ
123 :
人間七七四年 :2009/12/14(月) 22:55:09 ID:2BcS9+mW
>>121 陣中へ酒を売りにくる人がいた。
冬の陣屏風にも描かれているよ
124 :
人間七七四年 :2009/12/14(月) 22:59:12 ID:OoFqfirk
>>115 親不知子不知は小説だったかは有名だけど戦国のいい話は思い当たらないな
謙信祖父の長尾能景が越中で討たれてるから長尾家にとって
親不知子不知を越えて越中に遠征するのは宿願だったらしいけど
125 :
人間七七四年 :2009/12/14(月) 23:15:41 ID:G1R0fAg/
宿願つっても、為景も早くから越中で暴れてたような
126 :
人間七七四年 :2009/12/14(月) 23:21:41 ID:ATAzCRaW
>>124 そうですかぁ…。
難所をどうにかしようと苦心した武士の話が唐突に聞きたくなって。
127 :
人間七七四年 :2009/12/14(月) 23:58:26 ID:+44I9rOF
>>126 ぱっと思いつくのは、佐々成政くらいかなあ>難所を越えた武士
128 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 00:11:17 ID:WQrkFUR7
しかもさらさら越えは往復だからなw 信じられんぐらい無謀
129 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 00:19:44 ID:aEclZIyV
成政は凄いよな、雪の北アルプスを信州方面に抜けたんだっけ 親不知で調べてみたら「越後野志」ってのに永正5年(1508)6月に上杉顕定と長尾為景の親不知合戦があったとなっていた 機会があったら調べてみて、逸話になりそうなのがあったら紹介します
130 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 00:29:51 ID:PiUarUfX
親不知に限らず各地難所に関する逸話がありましたら是非ともお願い致す!
131 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 10:09:08 ID:+AQTdX6c
冬の北アルプスなんて現代の装備で登っても遭難死する事あるのに 当時の日本人の体力はマジで化けもんだな
132 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 12:05:43 ID:5VJgK450
甲斐の人とか越後の人なんか他国で戦するだけで割と難所越えだったはずだけど 逸話と呼べる程の話は聞かないねぇ 三増峠のソバの話はどう考えても悪い話だし…
133 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 12:47:23 ID:6yzJJ417
他に思い浮かぶものといえば、本能寺の変の時の家康、 関ヶ原の合戦の島津義弘ぐらい....。
134 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 13:03:33 ID:BDx0C26I
家康を秀吉がかばった話(
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3262.html )が
出てたのでもうひとつ
家康は背が低くしかも若いころは痩せていたが、
50過ぎには肥満体(およそ160cm 80kg)でことで知られている。
50代の頃には下腹がふくれ、自分で下帯を締めることも出来ず、
侍女に締めてもらっていたというくらいに肥満だったという。
その話を秀吉の御伽衆が噂をし、秀吉の前で笑っていたところ
「何がおかしい!」と嗜めたという話。
一応家康を秀吉がかばったいい話、のつもりなのだが
「人は見た目で判断するな!」という秀吉の人物観が分かるようにも思える。
まぁ自分もチビで痩せていて禿鼠なんて呼ばれたたから人事とは思えなかったという説もw
それにしてもこの話書いてたら家康はよく75まで生きれたなとしみじみ思った。
135 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 13:03:48 ID:WV9ePtc4
鵯越や稲村ガ崎、瀬田の唐橋なんかで苦労する話は有名だが 戦国時代になると、故事を知って将の能力が上がったせいか、 あまり苦労話として伝えられないね。 瀬踏みをして渡河したり(信長、左近) 天険は軍道を敷いたり(謙信) 悪天候でも強襲上陸に成功したり(元就)
136 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 13:34:12 ID:AYBetazf
日本で始めての国内を舞台にした大規模戦闘だから、始めて尽くしだったのだろう>源平の頃
137 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 14:01:31 ID:URnKstkB
なんか源平合戦〜室町初期までは無茶苦茶な行軍で勝ってしまうみたいな話が多いような。
138 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 14:50:52 ID:kRwUjegv
壬申の乱や平将門の乱なんかも相当大規模な兵乱だけど、 公家社会の記録では詳細な軍事活動が後に伝わらないしね
139 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 15:10:54 ID:NgenFxll
そもそも交通の難所では余程の事が無い限り闘わないだろうしねぇ 攻め手の被害が大きくなる場所で戦わず、迂回したり奇襲したりとするだろうし 難所で無理に攻めたら土屋さんの片手千人切りのように酷い事になる
140 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 15:17:15 ID:BwGWbqRs
じゃあ、誰か馬術の名人、家康の危ない橋の渡り方講座でも。
141 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 17:02:57 ID:9xMb8D0L
142 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 18:27:51 ID:AYBetazf
というか、160で80って数字を信じるなら、別にそんなに太ってないよね。
143 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 18:34:22 ID:pwPjoPSv
>>132 甲斐から信濃、その逆の越後から信濃のルートは古代から切り開かれている交易路だったんで、
難所越えといえるほど大変だったともいえないような。
>>135 そういや、信長は陸地の難所ではなく、危険な水を超えてのエピソードが三つほどあるな。
144 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 18:39:07 ID:uUMUGY6v
大雑把に、身長-105が適性体重だったはず。 ただしスポーツマンなどは身長-95が適性体重になる。 家康の場合後者を適用するとしても65kgなので、80kgだと太っている。 ちなみにBMIだと31.25で押しも押されぬ肥満。
145 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 18:53:23 ID:oo/Xz66C
>>144 肥満ではあるけど、
>>134 に書かれてるように下帯が締められないほどの肥満ってほどでもないはず。
おそらく筋肉質の固太りの上に脂肪がついた状態だろうから、160cm、80kgって数字が本当なら「恰幅がいい」レベル。
146 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 18:58:55 ID:dW41vL7v
下帯より足の爪切るのが大変そうだw
147 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 19:02:49 ID:qhqeWjEj
つーか、近代以前は「太っている=食に困らない=金持ち」のイメージがあって、
太っている事が人から笑われる事にはならない。
どうも
>>134 の話は明治以降、ヘタすると戦後に作られた話の臭いがする。
148 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 19:22:45 ID:H5YDryxr
戦国時代でデブじゃまずいだろw 太り過ぎのせいで逃げ遅れた熊さんとかいるしw
149 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 19:38:44 ID:uUMUGY6v
>>148 家康が太り始めたのは桃山期に入ってから。
それまではただの筋肉達磨。
150 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 19:48:49 ID:HOLtYxe5
>>149 中年になって代謝が落ちても食事量を変えないでいると太るらしい。
家康はそれだろうね。
まあ老年になっても元気に鷹狩りやってるから不健康な太り方はしていなかったろう。
151 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 19:49:24 ID:2JstD308
その後も基本、固太りだけどね
152 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 20:47:24 ID:arYNWK8B
難所に関する話…はこれくらいしか知らない 秋田県雄勝と山形県最上は険しい山地に隔てられており、現代も難所となっている。 中世においては、有屋峠というさらなる険路を通らねばならなかった。 天正14年、横手の小野寺義道は数千の軍を率い、この有屋峠へ出陣した。 かつて、小野寺氏の版図はこの峠を大きく越えて広がっていたが、 5年前に麾下の鮭延秀綱が最上義光へ降り、失陥してしまう。 義道はその回復に打って出た。 当時、最上家は庄内でも上杉派との戦を抱えており、それに乗じた行動である。 対する義光も1万余をもって出撃。 有屋峠を占める小野寺軍、それを見上げる最上軍の対峙となった。 さて、両軍は地形の険しさに警戒していたが、小野寺家重臣・八柏道為が策を施す。 囮で最上兵を引き寄せると、鉄砲三十ばかりで高所から撃ちかけたのだ。 最上軍は大混乱に陥り、大勢の死傷者を出した。 しかも、庄内に上杉軍が進攻、大将の義光がそちらへ急行するという事態になる。 窮地の最上軍にあって、ある人物が積極策を主張した。 かつての小野寺配下、鮭延秀綱である。 秀綱は間道を使い、軽兵を小野寺鉄砲隊の側面へ迂回させて攻撃した。 これに呼応して最上軍も攻勢に出、小野寺軍は峠を支えきれず、敗退。 陣取りは逆転し、峠を最上軍が、小野寺軍はその下へと転落した。 以後、羽後情勢にも翻弄され、義道は二度と優勢に立つことはなくなった。 かえって、秀綱らが峠を越え、小野寺領を蚕食していく。 一つの峠をめぐる、明暗のお話。
153 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 23:13:35 ID:QoDS5Hvn
朝倉・浅井勢の先陣が比叡山に陣どったことに驚いた織田信長はすぐさま 比叡山に向かおうとしたため、市井の人々は大騒ぎになった。 その時、茶室で家臣が集まるのを待っていた信長に柴田勝家が進言した。 「都の大衆が不安がっております。一刻も早く将軍様のお供をして心配ない ということを示すべきでしょう」 「そんなことは後回しだ。今はすぐにでも敵を攻撃しなければならん」 「ほほう、急ぐと仰りながら茶をすすっているのは過失ではないのですか」 「なんだと?」 信長は勝家を睨んだが、同時に勝家の言葉は道理だとも思った。 そして信長は勝家の進言を受け入れ、将軍義昭が健在であること、自分の 軍勢がいる限り心配はいらないということを人々に知らしめた。
154 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 23:17:41 ID:vACryQaW
勝家って信勝から寝返った後はイエスマンのイメージだったけど 諫言した逸話なんてあったんだな〜 聞き入れる信長もいい上司だ
155 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 23:50:19 ID:AgVk0zAH
勝家の場合は、本能寺後の秀吉との対立からか、織田家の忠臣ってイメージはつけられているんだよね
156 :
人間七七四年 :2009/12/15(火) 23:58:50 ID:N4iI0syq
柴田勝家程度でイエスマンと言われてしまうとは、イエスマンもインフレ起こしているのなw
157 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 00:42:39 ID:uB+fAssq
めんどくさい三河武士の逸話読みすぎて、食傷ぎみなんだよw
158 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 00:51:11 ID:f6nbz+Gk
真の忠臣は主人の耳に痛い諫言をする人でしょ
159 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 01:07:41 ID:hjHzSL3R
つまり後藤又兵衛こそ真の忠臣
160 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 01:13:44 ID:yPyBxtIA
彼は確かに痛い諫言を行う忠臣だな。 こう、主君の耳に限らず、色んな意味で、だが。
161 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 01:15:18 ID:ORt1OHN8
又兵衛さんはちょっと違うなあ。 自分を家臣だと考えていたかどうかも疑問だw
162 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 01:22:32 ID:4ar6M6Qp
>>152 それは最上側からの記述だな。
小野寺側としては
八柏の策に恐れをなした最上勢は峠を越えて攻めて来る事は無かった。
後日、八柏の智略を恐れた最上義光は計略を仕掛ける。
八柏に内通の疑い有りと偽計をかけた。
小野寺義道はまんまと罠にはまり八柏を城へ呼び出し誅殺した。
義道は自らの手で貴重な人材を失う事になった。
163 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 01:53:31 ID:QJHPzx/5
小野寺さんとこの義道君はよく「最上が卑怯な手を使ったんだ!」と証言するが それって自分が騙されやすくて判断力がありませんって言ってるようなもんだからなぁ そんなことに気づけないアホの子だから改易されるんだが
164 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 02:07:24 ID:Tb3g3qSJ
又兵衛はともかく黒田家の皆さんは殿に愛あるダメ出ししまくってるじゃない
165 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 02:55:17 ID:q7i1u95e
黒田家のの皆さん「あんたは殿様だろ!そんなんでどーすんだよ!!」 又兵衛「プゲラ、お前真性のアホwwwwwww」 てくらい違うからなあ
166 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 05:23:00 ID:+FW2qusA
有名な話だし、もう出てるかもしれないが、 蘭奢待には、東・大・寺の感じが入っている。 偶然ですかね?
167 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 07:39:43 ID:ydOJIjJG
>>165 まるで出来の悪い甥に接するがごとくの態度だったのかねえ。
168 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 07:51:34 ID:pzk/xOpS
又兵衛さんは、若殿に対する態度はあれだったけど 大坂の陣では普通に空気読んでいたんだろうか? このスレのせいで、又兵衛は若殿をおちょくる印象ばかりもつようになっちまったw
169 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 08:05:32 ID:L6dXeTgO
少なくとも問題行動は記録されてないからなぁ>又兵衛@大阪の陣 普通にNGMS限定だったと思う
170 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 08:42:50 ID:aAdVUoc5
笑っちゃいけないと思いつつも笑ってしまうよ又兵衛…。
171 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 10:23:40 ID:qLX5Dvto
卒に母親の如く慕われるとか、こう、五稜郭の土方とも通じる評価があったと思う。 勝ち負けを超えた人生の完結編の表現場所と言う意味で二人は似たような心情だったんだろうか。
172 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 10:53:27 ID:iuABtgwC
大阪の陣での後藤さんは真性KYな某弟に振り回されてた印象
173 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 11:07:46 ID:VoZBWz+v
>>96 掘る者も 掘るるる者も 諸ともに 如露亦如電 応作如是観
掘ったり掘られたり乱交するとすぐに逝ってしまう、まさにケツは観音様だ
174 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 14:48:34 ID:kaqy2Myc
>>163 最上が嫌いだから西軍についたんだっけ?
周辺の小大名も最上嫌いだけど、情報集めて勝敗見極めようとしてるのに、南北朝みたいなことして……
175 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 14:56:39 ID:2D9LQtTz
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3112.html といった事があって、後藤又兵衛は細川家を出て京で仕官先を探すことにした。
又兵衛が安芸を通ると聞いた福島正則は、家老の福島丹波を派遣して又兵衛に福島家
での仕官を打診した。
「福島家ならば不足はござらん。ただし、知行は前に同じ三万石を頂戴したい。」
条件次第で仕えても良い、という又兵衛の回答を、丹波は喜んで主君に伝えた。
しかし、
「なに、三万石…家老のお前や尾関石見でさえ二万石ではないか。
いかんいかん、お前たちの面目が立たなくなるわ。この話、なかった事にせよ。」
あわてたのは丹波である。
「し、しかし殿、相手は後藤又兵衛ですぞ!?それに『福島では、よそ者の又兵衛に
三万石も出した。ならば生え抜きの丹波や石見は、他家へ行けばどれだけの知行を
取る実力があるのだ』という評判になれば、我らの面目も立ちます。」
「いや、要らぬいらぬ。」
こうして又兵衛の仕官話は消えたという、又兵衛にとっては悪いが
市松さん譜代を大事にした話。
別バージョンもある話ですが。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-303.html
176 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 15:43:33 ID:kaqy2Myc
怒らせて また怒らせて うとまれて 又兵衛よ どこへゆく
177 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 16:15:10 ID:KP3EsDyn
178 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 17:53:25 ID:UJPks82c
>>177 こう、故事に則り天下の賢才を募るとかじゃなく
1/1の純情な感情をあらわにする所が市松の良いとこでもあり、悪いとこでもあるよな
179 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 19:52:52 ID:RfTzExv2
藤原惺窩に教えを受けた1人に斎村政広という武将がいた。 旧名を赤松広通といい赤松政秀の子として生まれ、後に但馬竹田城を領し 惺窩に小早川隆景や直江兼継と並んで文に秀でた武将と言われた人物である。 1600年に政広が故あって自刃した時、惺窩は悲しみのために、声をあげて激しく泣いた。 惺窩は政広が孔孟の道を期することができる人物だと考えていたのだ。 惺窩は朝鮮儒者姜への手紙に、こう書いている。 「赤松公は今新たに四書五経の経文を書し 私に宋儒(朱子学)の意を持って和訓を字傍に加えることを頼んで、以て後学に役立てようとした。 日本において宋儒の義を唱える者は、この本を原本とするだろう。」 この四書五経に惺窩が加えた和訓がいわゆる「惺窩点」(1599年、政広自刃の前年に完成)であり それをもとに弟子の林羅山が発展させた「道春点」が、羅山が幕府に召し抱えられることで全国に広まった。 また姜の「看羊録」には「日本の将兵は悉く是れ盗賊なるも、ただ広通のみ頗る人心が有り。」という惺窩の発言や 政広が三年の喪を行うなど明・朝鮮の礼を好んだ事 但馬の領地に孔子廟を建てて、家臣に朝鮮の冠服で祭儀を習わせた事などが記され 惺窩とも共通する政広の大陸趣味が見て取れる。 慶長三年に惺窩が姜と初めて会ったのは政広の屋敷 惺窩が姜から学んだ孔子を祀る礼『釋典(せきてん)』を弟子たちと行ったのも政広の下 前述の四書五経の浄書と引き換えに姜の帰国費用を出したのも政広であり広く学問の後援者だった。 日本文化史に残る事業の後援者の割には地味な人物の話 余談だけ19世紀初頭に書かれた「先哲叢談」藤原惺窩の項には 「今の世の中で徒に上杉謙信、小早川隆景、高坂昌信、直江兼継が 戦乱の時代に文を好んだことを知っている者でも赤松広通を知っているものは少ない。」とある。 惺窩が認めた5人の中でもマイナーなんだよね。家が途絶えたというのもあるんだろうけど。
180 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 20:27:16 ID:GK6/MFvK
× 兼継 ○ 兼続
181 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 20:41:34 ID:5BCzAONP
惺窩四天王・・・?
182 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 20:48:19 ID:ORt1OHN8
惺窩先生は学問に厳しい人で、弟子でも成績が悪いと直ぐに破門したのだそうな。 これがホンマの惺窩主義。なんてな!
183 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 21:31:21 ID:u9wZrwm/
>>134 身長160cmって当時なら平均はあったんじゃないかな?
(室町:江戸前期で、男子157cm:155cmくらい/女子146.5cm:143cmくらいだったかと)
ちょっと関係ないが、オレの中学の時の先生が
「地質学の実習で富士山の室町時代の火山層(?)発掘してる時に掘り当てた、成人男性の人骨の身長は154cmだったな〜」て言ってた。
あと有名かもしれないけどまーくんが159.4cm。 加藤清正も同じくらい。三成が156cmで淀君が168cmwらしい。
184 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 21:37:36 ID:A5Cs8V9a
茶々さ…ま…?
185 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 21:40:49 ID:3RftTszI
茶々でけぇwwww
186 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 22:03:40 ID:uB+fAssq
168cmの淀君と 150cmなかったと思われる秀吉は どういうセクースしてたのだろうw
187 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 22:32:44 ID:Of/W6LcO
長政や市も長身っていう話もあるし、 茶々がでかいのも遺伝かね。 秀頼も巨漢だったみたいだし。
188 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 22:35:38 ID:KgZeLQoO
殿の血筋取り込めばチビなんて言わせずに済むぞ! と言うのが秀吉の織田家の女好きの所以か!
189 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 22:36:14 ID:q7i1u95e
茶々すげー、今でもでかいぞ
190 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 22:42:23 ID:iuABtgwC
そういえば、冬姫にも言い寄ったんだよな 秀吉を振った女リストとか作ったらおもしろいかも
191 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 22:46:10 ID:UPW7rS9M
でかい美女。現代ならさしずめスーパーモデル?
192 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 22:51:47 ID:EcL2Nnrd
193 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 23:00:37 ID:3RftTszI
俺の中の茶々のイメージが花の慶次の絵からコレに代わった _,.. - ,_ ,. - ' ´:::::::::::::::::´"' - ,_ /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::`ヽ /::::::::::::::::::::::::::::::::::/::::::::ハ:::::::::::ヽ /:::::::::::::::::::::::::r─‐┴─┘L:::::::::::ヘ /:::::::::::::::::::::::≧ニ=x,_ー┐ `ヽ/}::ヽ , 、 /::::::::::::::::::::::::::::7癶 ‘’ `ラ仏_,ノ_ V:::ヘ く ヾ ) ::::::::::::::::::. ::::: ::::!  ̄´イ { ⌒ト‘’\ }::::::} rく/ :::::::::::::. .. :::!i ´ r冖- ヘ`¨^7\┘/´ ワシが浅井長政と市の娘茶々じゃ :::::. .: .::::: ::! ト- `⌒ - _,ノ ´{:::::j/ ::: :: ::::: ::! _,r=ニつく 丿/ :: .::: :::: :! ! {王王ミtヾYf‐ ':::::| 秀吉 : .:::: :::: l ヽ 、__ ` ソ :::::::: | メ卩 | ナ_ 乙、| :::..::. ::::::: :::: | }\ ` ` Y:::.. :::::| ナLノ L.ノ / 、__, oノ o :::::::: ::::::: :::: | |: : :ヽ、_ 丿:::: :::{ :::::::: l:::::: l:::::! }: : :/ /: :厂「:::::::::::::::. ::::| :::::::l l:::::: l:::::} !: : ' /: :/ ./:::::::::::::::::: ::::{ :::::::l l:::::l l::::{ /: : ' /:l:::::::l::::::::::::::::| :::::::l l:::::l l::::} /:::l:::::::l::::::::::::::::| :::::::l l:::::l l::::| /:::::l:::::::l::::::::::::::::| :::::::l l::::::l l:::ト、_ ハ::::::|:::::::|:::::::::::::::|\ :::::::l l:::::::l l::|:. : ` ‐ 、_ \}:::::::|::::::::::l::::|:. :.\ :::::::l l::::::::l l:|:. :. :. :. :. : \ \:::|::::::::::l:::::| :. :. :.\ \::! !::::::::l.l:|三三三三三\ .人|::::::::::|:::::|三三三\ \!:::::::::l|:ト、: : : : : : ヽ: :`YTT|::::::::::|!:::::|/ \ \:::::lリ ` ー 、_}: : } } :}:\_||::::::| \ | \| } : リ:/´ ̄  ̄´ \ | {二二} ヽ
194 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 23:04:32 ID:u9wZrwm/
>身長(何度もごめん) 現代成人の平均身長を男子171cm女子158cmとしてなおしてみたら 茶々168cm→181cm 家康160cm→174cm 三成156cm→170cm 秀吉150cm以下→163cm以下 男子の大体の目安で 当時170cm→現代185cm 当時180cm→現代196cm 位のようです。
195 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 23:04:40 ID:ORt1OHN8
鍋島直茂がある時、こんな事を言ったのだそうだ 「”義理”とは不思議なものだ。 わしは従兄弟などの肉親が死んでも涙も流さない事があるのに、縁もゆかりも無く、 見たことも無い50年、100年も昔の人の話を聞いては、その義理の深さに落涙してしまう。」 ここで言う「義理」とは、後世で言う武士道的な徳目、 もしくは「義理人情」と解するべきであろう。 ともあれ、直茂公もこのスレの住人のように、古の物語に一喜一憂していたんだな、 てな事を感じさせてくれるお話。
196 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 23:12:32 ID:GSKqtm4p
197 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 23:24:42 ID:tbsZ+I4s
ある日、正室の居室に入った豊臣秀吉は仰天した。 己の古女房が、お白粉をとき、黛を柳のごとく細く書き、麝香の香りをプンプン漂わせ、 周りには、鏡台、手箱、鬢水入れ、紅筆、笄、かんざし・・・・・・etcが広がっていたからだ。 「な、なんじゃあ、ねね!普通の尾張者は、そんな格好はせんぞ!?」 「あらぁ・・・でも“血筋良きお人”や“京女”は、みんなこーんな感じなんでしょ?」 “他の女”について、痛いところを突かれた秀吉は逆切れした。 「何という、にっくき言い様!成敗してくれん!!」 騒ぎを聞きつけ、たまたま登城していた細川幽斎がやって来て、これを止めた。 「これは、殿下がいけません。女子の化粧するは三十二相と申しまして、菩薩の相を備える とか。それを斬れば、仏罰が当たりましょう。 ところで殿下は鎧のお召し様こそ達人でございますが、化粧の召し様はご存知ですかな?」 「いや、知らん。」 「知りもせぬことを咎めるとか。いやはや、さてはて、どっちが理ィやら非ィやら。」 「・・・・・・」 笛の拍子のように囃したてる幽斎に、さしもの関白も言葉もなく奥へ引き下がった。
198 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 23:42:24 ID:esxIslJe
まさか化粧も達人だったりしたんだろうかとふと疑惑がw
199 :
人間七七四年 :2009/12/16(水) 23:58:56 ID:7EHi4LfN
公家との付き合いもあるし化粧もしてただろうなぁ<幽斎
200 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 00:04:24 ID:5hSalX/p
化粧も室町文化のひとつなんじゃないか。 お歯黒とかしてたのかなぁ、幽斎。
201 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 00:13:45 ID:+aTXVmUo
俺もセーラー服着たりするし、必須一般常識だったんじゃない?
202 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 00:19:01 ID:jID4HBsm
前田玄以「ですよねー」
203 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 00:50:13 ID:7ZLVJQ/x
>>200 お歯黒は戦国武将では普通です。
ちなみに島津家久もしていたという記録があります。
204 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 01:05:45 ID:j1vh2hrv
小十郎「あら、お歯黒がチ○ポについちゃったわ」 政宗「この黒光りする俺自身でお前のケツの中を黒く蹂躙じゃ!なんか興奮するのぅ」
205 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 01:12:25 ID:8FFe9cm3
北条五代記にも 「侍は討たれた時のことを覚悟して化粧と歯黒をした。」みたいな記述があったはず。
206 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 01:12:36 ID:6dYPWWV0
ホモと味噌ネタは飽きた。しつこすぎ
207 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 01:41:07 ID:KTLlXm6X
お歯黒は大層くっさいので塗るのはなかなかに大変らしいな
208 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 01:54:02 ID:xK+OPYMG
時は永禄五年、和泉岸和田城近辺。 前年に畠山、六角(あと北畠)連合軍による反三好の一大軍事作戦が発起してからというもの、 山城、和泉、河内の三国は戦乱の巷となって焼け野原となり、 中でも畠山・三好あわせて十万とも称される主力決戦の舞台となった、 和泉河内国内の荒廃ぶりはすさまじいものがあった。 ことに文化財の破壊は酷く、由緒ある寺社仏閣は焼け落ち、多くの史書文物の類が失われた。 後世に伝えるべき先人の想いの数々が、無益な兵火の中に失われてしまったのだ。 教興寺の決戦で大勢が決した後。その有様を見て、悲嘆にくれる一人の男がいた。 彼もまた、その惨状を作り出した一人であるが、 その無常に自らも晒された当事者だからこそひときわ嘆きも大きなものがあったのだろう。 彼がその時の心情を歌に認めるに曰く、 「古を 記せる文の 後もうし さらずばくだる 世ともしらじを」 (古のものごとをしるした文物、史跡も失くなってしまった。憂い深いことだ。 それがなければたとえ後世にあっても伝わることはないだろうに) 後世に伝えるべき文化、歴史が目前で、己の手で失われてしまった。 おおよそ今を争うべき武家らしからぬ嘆きを書に認めた人物の名を、 三好筑前守の弟、淡路洲本城主、安宅摂津守冬康という。 いずれ自分達も歴史として後世に伝えられる、そのことを彼は意識していたのかもしれない。 名宝や書を保全することを欲得、悪徳と捉えて敢えて打ち砕くことも心意気なら、 歴史を伝えるという使命を強く意識することもまた心意気の表れ。 そんな戦国武将の心意気のありようを示すお話。 ただし馬場さんと安宅さんを近づけるの禁止。
209 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 06:16:06 ID:Eu7mPGMx
>>179 >但馬の領地に孔子廟を建てて、家臣に朝鮮の冠服で祭儀を習わせた事などが記され
ふっと思ったんだけど明ではないの?
210 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 06:21:03 ID:WqdqMqbC
立花宗茂が立花家に養子入りするとき、父の高橋紹運は 「立花家と高橋家が対立することがあれば、立花家に味方せよ」と諭したとか。 裏切りが多かったあの頃だから、こう言わずにはいられなかったのだろうか。 それにしても、娘に短剣持たせたあのお父さんとはえらい違い。
211 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 06:23:47 ID:WqdqMqbC
また、立花宗茂が九州平定を終えた論功行賞の場で、羽柴姓と官位を与えられた時、その官位が主君の大友宗麟より高かったことから、官位を辞したとか。 秀吉も酷なことをしますな。 離間の計ではないよな。
212 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 06:34:13 ID:ixW71XJZ
>>211 清正より官位高くて嫌味言われたいうの聞いたことあんやけど官位は断ったの?
213 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 08:56:25 ID:1J0L45BX
>>194 六尺三寸(だっけ?)の高虎は今なら2メートル超か
こんなのが凄んだら、お公家さんは怖かっただろうなぁw
214 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 09:35:40 ID:tSwkhWfc
>>210 嫁は駐ダンナの家大使みたいなものだからな
215 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 09:44:57 ID:jEgX1j3e
お歯黒は虫歯対策なんで塗らないと死ぬ、くらいのものだという話もあるな。 歯科医がいなければ虫歯も不治の病
216 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 11:53:23 ID:8FFe9cm3
>>209 看羊録には
「制我国祭服祭冠、間日率其下習祭儀
(我が国の祭服祭冠を制し、間日其の下を率いて祭儀を習わしむ)」
とあるので我国=朝鮮じゃないかと。
217 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 12:32:47 ID:BuCYN3V9
魚半人らしいがあくまで天朝は明だろう
218 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 12:41:14 ID:VJHfJ2pS
朝鮮や日本の儒学者には、中国を「我が国」って言うのがいるからなあ
219 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 12:52:10 ID:wNO51dXx
それはさすがにキモいなあ
220 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 13:35:09 ID:iir5zqbG
異民族が統治してる中国なんか中華じゃないやい、とか言って これからは李氏朝鮮が儒教の本家!って人が多かったと聞いたことが 上のも朝鮮のことじゃないかな?
221 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 13:48:07 ID:PttLIIqa
明が異民族とな
222 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 14:01:49 ID:Lwnc9xCi
清なら異民族なんだがなあ・・・
223 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 14:06:43 ID:iir5zqbG
あー1600年ならまだまだ明かサーセンorz それにしても茶々様でっかい 157cmの自分でも学校や職場では背が高い方に分類されてるのに 元々小柄だわヒールないわの当時だとすごいことになりそうな
224 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 14:23:21 ID:3ra3k8IG
いい話 徳川家康はホモが嫌いだった
225 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 14:48:21 ID:xK+OPYMG
226 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 15:14:25 ID:US0PThFO
ホモネタではしゃぐ奴は頭悪そう
227 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 16:28:39 ID:8isb0ig8
直政涙目w
228 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 17:14:39 ID:wNO51dXx
しかし孫の家光はホモ三昧であったとさ
229 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 17:23:23 ID:ZDcivV8k
ホモネタに反応する奴あたま悪そう
230 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 17:27:57 ID:F4HzYBBf
腐女子は出てけ
231 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 17:32:05 ID:FAmvvumH
歴女とかマジいらん存在だな 板のレベルが下がりすぎ
232 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 17:37:20 ID:feBDXi4F
家康と直政が衆道関係というのは噂話程度だからな 個人的には外様なのに通遇される直政とそれを行う家康への 三河武士のセクハラじゃないかと思う つまり三河武士は上司の覚えが良い新人美人OLを虐める お局様軍団ということ……成程、史上最強な訳だ
233 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 17:42:22 ID:y5vxkXOo
そもそも衆道を現代的なただのホモと重ねるのは間違いだ。
234 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 17:45:02 ID:do9emsKB
ずっと前髪を下ろさず幼名のまま、というのは十分に衆道の傍証だろ
235 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 17:54:43 ID:feBDXi4F
>>234 幼名は虎若で、家康の家臣になってから万千代となったとあるけどね
236 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 18:06:34 ID:eAiH5svO
237 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 18:09:01 ID:eAiH5svO
>>208 仁者だよねー冬康さん。三好長兄もすげー教養人だし単純に残虐無道て武将じゃないんだけど……
238 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 18:40:09 ID:sHDYFo7/
天下統一を進める織田信長が浅井長政を滅ぼした後、木下藤吉郎(後の秀吉)を旧浅井領の大名に させたい意向をもらすと、木下藤吉郎に反感を抱いていた重臣の柴田勝家は強く反対した。 しかし、信長はその反対を押し切ったので、木下藤吉郎は無事に大名になることができた。 その後、木下藤吉郎の耳に、柴田勝家が「木下藤吉郎が大名になれたのは自分のおかげだ」と吹聴している という噂が飛び込んできた。 木下藤吉郎は「あれほど反対していたのになぜそんなことを言うのか?」と不審に思っていると、 同僚の丹羽長秀が「柴田は最初反対していたが、信長様がどうしても秀吉を大名にしたいと 言われると、そこまでおっしゃられるならば、と賛成に回った。もし柴田が最後まで反対していた のであれば お前の大名就任は実現されていなかった」と解説した。 木下藤吉郎は丹羽の言いたいことを察すると、すぐに柴田勝家のところへお礼の挨拶に行った。 後に木下藤吉郎が改名する際、丹羽の「羽」と柴田の「柴」を取って「羽柴秀吉」と名乗ったのである。
239 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 19:12:33 ID:oYtMS+ea
>>212 最初断って、大友義統と同じ従五位を任官するんだけど、その1ヵ月後に秀吉
から再度従四位を受けるように言われて従四位になった。
日差しの強い日、従四位の宗茂が昇殿を許された際、5位で地下だった清正が
外で暑そうにしていたのを見て、宗茂が「場所を代わりましょうか?」と聞いたら、
「19万石(北肥後を与えられたばかり)の傘があるから、暑くない」と返答された
らしいな。
240 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 19:33:16 ID:MYVooW02
>>233 そうそう
そっちに行く方がおかしい
蘭丸といい昌信といい直政といいれっきとした譜代の陪臣として
養育するという目的のほうが大事でそもそも衆道は
グリコのおまけ程度の存在
241 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 19:37:01 ID:MYVooW02
譜代の陪臣として ここ重要ね 大事だから2回言っとく 衆道の近習=ホモみたいな直結方法はニワカの証拠
242 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 19:40:32 ID:cSbKqOhD
ますます義隆様の立場がなくなるフォロー
243 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 19:55:41 ID:tME+NDOp
喜んでるのは腐だろ
244 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 20:05:27 ID:XkL2/5Z3
>>194 茶々は顔も美人だから現代ならモデル張れるだろうけど、
戦国期は大きい女子って人気だったん?
今なら「背が高くて羨ましい」とか言うけど
245 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 20:33:43 ID:wNO51dXx
秀吉にすればあの市姫様の娘ってだけでもうビンビンだったろうし、長身か短躯かはさほその問題では無さそう 逆に言うと、血筋と言い体の大きさと言いプライドの高さと言い、秀吉以外ではもてあましそうな姫だよな
246 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 20:36:58 ID:6GbPEhes
胸がでかい:キメェwwww 現代感覚での美人:キメェwwwww だったというが、でかいのはどうだったんだろうね そして20以上は当時感覚だと大年増のババァ扱い
247 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 20:49:27 ID:XkL2/5Z3
>>245 あの茶々様が今で言う喪女に危うく属するところだったとは…
身長だけで、今までの茶々像が変わりそうだw
>>246 え、巨乳人気無いのかw
それは意外だwww
248 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 20:55:42 ID:N2Z/CvJ+
旧主家の血筋で、とか滅んだ家の、とかいうと儚げな姫さまが浮かんでいいはずなのに チャチャと築山御前のせいで、おっかないおっかさんしか思い浮かばない。
249 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 20:57:26 ID:xV6bGCQv
意外じゃねーよ 初婚年齢が今より若いんだぞ 二次性徴が終わりきる前に結婚するんだから巨乳になる頃にはババア扱いだろ
250 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 21:05:19 ID:6GbPEhes
どっかの小説家が書いてたが 1〜10歳までそのままの年齢の扱い 11〜20歳までは+5歳した扱い 21歳〜は+10歳した扱いだと考えると現代人にも判り易い感覚になると
251 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 21:08:18 ID:Lwnc9xCi
>>247 今の巨乳はバイーンボイーンって感じだけど、
往時の巨乳はブラーンブラーンって感じだって。
ブラが無いから垂れ乳になる宿命だとかで。
252 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 21:10:48 ID:wNO51dXx
あーそっか、乳が垂れてくると自然ババア扱いになっちゃうよね・・・
253 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 21:12:41 ID:Se/8pXbv
ブラが無い時代だっていう事を忘れるな 巨乳=びろーん
254 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 21:19:21 ID:Kyw8HNZ8
ポロリ ポロリ ポロリ
255 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 21:22:27 ID:JFQsDyzM
かてて加えて昔の庶民とかは人前で乳出して授乳させてたり、 夏とか乳出しで作業する第一次産業状態もあったりして、 おっぱいはさほど性的な関心向けられなかったって話しもあるよな 春画とか見ても乳は重視されていなくって 男がおっぱい嗜好になったのは戦後、 それも女がブラ身に着けるのが普通になって 乳を隠す方向に行ってからだという話しもあるくらいで
256 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 21:26:58 ID:xV6bGCQv
隠されていると言うことは非常に重要 戦国時代の宣教師も生足出してる女にビックリしてたそうだ 当時の西洋では足は日常生活で他人に見せないので 生足は性的部位であるという価値観があった
257 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 21:37:09 ID:QZp709ft
下着ってことで此方に 細川忠興は越中守という役職についていた。 彼は今で言うところの変態気味な一面があったそうだ。 具体的には下着フェチだったと言われているようで、奥方である ガラシャの下着を好んでつけては喜んでいたという。 当時の女性の生理帯というとまさしく男の褌と同じスタイルだったが 忠興がそれを身に付けた時に、不可思議な喜びを感じたのかも しれない。そしてそれを常用したいと考えた。 そこから、自分用の下着として、つまりは褌として身に付けはじめた。 そしてこの、元々女性用の下着から作った褌が世に広まるに従い 忠興の役職でもある越中守から越中フンドシと呼ぶようになったという。 既出だったらごめんなさい
258 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 21:37:45 ID:lsPYTxvr
安宅と書いて「あたぎ」って読むのね 今更ながらはじめて知った
259 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 21:39:26 ID:k+RjmxW5
今で言えば、JCやJKがミニスカ・見せパンとかで歩いてて、 見えても全く嬉しくないどころか悲しい気分になるのと一緒か
260 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 21:40:58 ID:cVP1+Iea
>>257 越中フンドシがそんな不純な行為から生まれたなんて
261 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 21:43:31 ID:xV6bGCQv
>>257 もっこ褌は既出だが越中褌は初のはず
ってか忠興…w
262 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 21:48:48 ID:WKfhg8Bs
つーか流石にその出展はどこからななんだ?>越中褌
263 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 21:49:45 ID:uRdK3Eu/
お目目パッチリ、ボンキュッボーンのような欧米的な美人感覚は 明治になって西洋を手本にするまではなかった。 昔は能面のような色白細目おちょぼ口が美人。 着物は胸もウエストも重要視しない。
264 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 21:52:33 ID:uRdK3Eu/
>257 女性の陰毛とか下着はお守りになるんじゃない?
265 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 21:59:20 ID:xV6bGCQv
266 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 22:23:36 ID:WKfhg8Bs
>>265 > 掲載している情報の中には不確定な要素を含むものもあります。
> ここに掲載されていることが事実と異なる場合もあると思いますが、
> ゆる〜い雰囲気でお楽しみ頂ければ幸いです。
非常に創作臭が強いなw
267 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 22:32:38 ID:s8S6BXd1
でも忠興が玉子の下着を携帯してたとかいう話はどっかで見たことがあるな
268 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 22:46:50 ID:2hU4H+BH
「細川越中守忠興、軍用の利を考へて、下帯を割下帯と名付けて、 中を竪に割て並べ合せ、前にて結ぶ様に拵えらる。 是、具足を着たる時、常の下帯は後ろにて結ぶ故に不勝手なり。 其の利方を以て制せられ、家中残らず是を用ふ。 然るに、後世には左様の訳も知らず、越中の褌とて簡略の事に成りて 卑賤のみ専ら用る事となりぬ。」 (翁草) まあガセビアだろ
269 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 22:57:34 ID:tykiAQdg
完全な作り話だったとしたら、逆にどこからその発想が来たのか気になるw
270 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 22:58:53 ID:cVP1+Iea
>>269 ガラシャに対する忠興の異常な偏愛以外に理由が思いつかん
271 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 23:06:04 ID:8g/VNueN
>>238 羽柴の名字は大坂の陣が終わるまで池田福島細川家が使ってたな。
徳川の天下普請の時代に使ってた石切場で羽柴越中守石場と刻まれてるとか。
272 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 23:20:55 ID:k/Dsx9wT
三歳公ならやりそうだからややこしい
273 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 23:22:55 ID:xV6bGCQv
当時の生理帯の形状は実際にはどうだったのかで
>>257 の信憑性も変わるのではないか
274 :
人間七七四年 :2009/12/17(木) 23:52:31 ID:odGnWk0N
大坂の陣のとき、徳川家康は息子の徳川義直に頭黒に白葵の丸を付けた 旗五本を与えた。ところが弟の頼宣は将軍秀忠と同じ黒紋を付けた旗七本だった。 この差別が義直の生母於亀には気に入らなかった。彼女は家康に泣きながら言った。 「あなたはなんと無情なお方でしょう。義直は御兄君であるのに、弟君の頼宣様だけ 将軍様と同じ御旗ではありませんか。何故このようなことをなさるのか」 すると家康は於亀をこうなだめたという。 「武家には総領の庶子、庶子の総領があるのだ。かつて信康が死んだ後に 秀康を立てるはずだったが、秀康には同腹の弟がおらぬ。しかし秀忠には 忠吉がおったから、わしの後継ぎにした。 もし将軍になにかあった時、義直にはそうした弟がいないが、頼宣には頼房がおる。 よって天下の総領は頼宣なのだ。 義直と頼宣の格には優劣はない。だから二人は同時に縦四位下に叙任された。 二人の家に優劣はない。だから弟のいる頼宣が天下の総領である。 これが道理ではないか?」
275 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 00:09:06 ID:OkXHX8AL
>>274 一夫多妻制度って、
嫁のコントロールが本当に大変だったんだろうな・・・
276 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 00:12:12 ID:2bVPa5OW
秀康を嫡男にしなかったのはそういう見方もあったのか この時代の子作りって母方の立場が結構重要だったんだなー
277 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 00:12:33 ID:20XWtxfG
乳の話からパンツの話になろうとは…
てか、前にもパンツの話されてるんだね
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-996.html
遠州が茶・華・詠・建築(他にもあったかも)の才能があるのはすごいと思ったけど、
服飾デザインの才能があった忠興も面白い
他の茶人もこういう才能があったのかなぁ
>>273 なんか個人のブログになら
「ガラシャの生理用下着が元で越中褌がデザインされた」
と出るんだけど、出典が分からないです…
278 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 00:18:12 ID:C4pwx9gb
忠興って戦の工夫大好きで実利のためなら常識くらいはちょっと投げる人みたいだから
もしかしたら女物の下着を見て思いついたようなこともあるかもね
しかし
>>257 は変態脚色すぎるだろw
279 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 00:21:42 ID:LDn46Z6H
280 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 00:47:27 ID:20XWtxfG
>>274 尾張と水戸の因縁は既にここから始まってたんかね
>>279 随分不快な思いをさせたようで、申し訳ありませんでした
281 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 00:58:33 ID:sJ2zw943
>>273 当時は血=穢れ、という考えが強かったので
あまり話題にしないため、資料がなかなかないってどこかで読んだ気がする
>>275 市松「本当命懸けっすよ。」
282 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 01:44:42 ID:Zm671BF0
283 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 02:00:06 ID:LDn46Z6H
284 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 02:20:39 ID:Zm671BF0
いちいち宣伝に口だすなハゲ
285 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 02:25:34 ID:rH7s/IZ+
ハゲを馬鹿にするな禿げ
286 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 03:36:45 ID:kTMee/R3
もうやめて、気にしてるんだから(´・ω・`)
287 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 04:00:19 ID:HVFxYMGF
ラスb・・ゲフゲフン太閤殿下がにこにこ微笑みながらそなたたちを手招きしておるぞ
288 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 06:19:24 ID:9aNZY2yQ
光秀殿が皆さんの家に閲兵式に行くって急に指示が変わったんだけど、なんでだろう
289 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 09:23:53 ID:Cu9uPIfl
イデヨシは禿げてなかったの?
290 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 13:09:35 ID:HqlyF4Bu
信長の与えたあだ名が、はげねずみ
291 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 13:21:46 ID:JaWS3Z0d
当時は頭頂部を剃る習慣なんだからみーんなハゲだろ
292 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 15:04:46 ID:j1cOpn+M
293 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 15:33:56 ID:50+bdCCa
信長は人を禿と罵ってた方だと思うがw
294 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 16:03:43 ID:8JoAX6yq
>>291 坊主頭と禿頭が同じではないように、月代と禿げも違うだろう。
剃っただけならすぐ青々となる。禿なら…ね。
お主は年のわりに髷が寂しいのう、とかあったと思う。
295 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 18:56:18 ID:+npztOY0
キンカ頭に禿ネズミ 部下のハゲに付ける渾名はお見事だがw
296 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 22:06:50 ID:sQJHEESd
よそから使者かなにかにきた相手に会った家来に「使者ははげていたか?」ってきいて 「そこまではわかりません」って答えた使者に 「はげだったら頭部の地肌の色が違うだろ。観察力が足りん」ってかんじに怒った武将のエピソードを 昔に何かで読んだことがある気がする。 誰のエピソードでどこでみたかはわからないし実は俺の記憶違いだったりするかもしれないし そもそも小説なら作者さんの創作な可能性もあるけど。 やっぱり月代そっててもはげてるか否かは見る人が見たらわかるみたいですよ?
297 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 22:27:52 ID:Jd+1p1nf
298 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 22:40:23 ID:sQJHEESd
あ、
>>296 の2行目の「使者」は「家来」って書いたつもりだったごめん。
299 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 23:25:18 ID:MHVr7UJ7
つか力士でも髷が結えないくらい頭髪が減って引退した人いるし 戦国時代もそういう人いたんじゃないか
300 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 23:39:11 ID:5qs4LlIX
結えなくなったら剃髪するだけだろ
301 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 23:42:11 ID:y5+zDQzh
ヅラや付けヒゲが普通だったとも聞くが。
302 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 23:43:10 ID:gd7WOcEY
剃髪ついでに出家すれば自社勢力対策にもなって、ハゲも隠せて一石二鳥 マユを結う時代に生まれたかった
303 :
人間七七四年 :2009/12/18(金) 23:54:00 ID:bSxMi++x
>>273 この流れで書き込んで良いのか迷ったんだが、
一応生理帯自体は平安時代からあったみたい。
以下、
ttp://www.lohasworld.jp/hajimete/nap/modules/pico/history.html から転載。
月経の処理にはナプキンを主体とする「あてもの」とタンポンのような「つめもの」の2種類に分類できます。
現在、日本では「あてもの」94%、「つめもの」6%というように、
(薬事統計2000年)使い捨てナプキンが圧倒的に多くなっています。
しかし、それは「アンネナプキン」が発売された1961年以降、
そしてサニタリーショーツの普及もあってから、それ以前は「つめもの」が主だったと考えられています。
月経用品が記録に登場するのは平安時代から。984年に医師・丹波康頼が著し、
円融天皇に献上された日本最古の医学書「医心方」の中に、月帯(けがれぬの)という月経帯が紹介されているそうです。
戦国時代末期には各地で綿花の栽培がさかんになり、月経時には木綿を詰めていたとの記録がありますが、
庶民は麻や葛、こうぞなどを詰めていたようです。
江戸時代になると記録がはっきりしてきました。
馬の前垂れに似ていることから「お馬」と呼ばれた、
褌のような形の月経帯に漉き返した再生和紙(浅草紙など)をあてて使用するようになりました。
使い古したぼろ布や綿なども一般的で、あてたりつめたりして使っていたようです。
遊女たちは絹織物を裂いてこより状にして「赤玉」「込め玉」と言ってタンポンとして使っていたとの記録もあります。
余談だが「雪隠で 手綱捌きを する女」 「越中を 女房がすると 事を欠き」 という江戸期の川柳もある。
304 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 00:02:55 ID:S7LtkGZl
>>303 微妙だな
江戸初期に「お馬」の記録があるのならその少し前から使用されててもおかしくはないし
あるいは
>>257 の逸話が江戸期に作られたのなら…
まぁ話半分だな
305 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 00:29:36 ID:gj3VJ3/c
>>302 マイケル・ジョーダンはハゲを隠すために坊主からスキンヘッドにしたという話(というか悪口?)
があります。
あなたもいかが?
306 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 00:30:17 ID:IHkBrhKM
麻や葛・・・ こわい
307 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 00:36:10 ID:KHRWDj89
308 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 00:40:36 ID:bWlu47mH
309 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 02:45:40 ID:2+5R5vNr
江戸の初期だったか 下着を含めた古着の販売が始まってるんだよな 遊女が廓で厳しく管理されるのもそのころか
310 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 08:13:12 ID:38GqkI3N
>>307 そうだね〜営業先のお客さんとかびっくりしちゃうし
やっぱりアデランスしかないな
311 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 11:52:41 ID:Gfw+AZv+
一日でハゲ&下着スレになっている不思議。
312 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 11:58:36 ID:VK/IHr5r
スキンヘッドが問題になるって30年以上前から時間の止まっているド田舎かよ 人相がよほど悪いならともかく、いまどきそんなんでどうこういうところは無いよ むしろカツラだの増植毛だのよこから引っ張ってきてだの、そういうほうがみっともない
313 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 12:09:45 ID:G2vX0x9d
日常生活はともかく、ビジネスマンとしてはスキンヘッドはツラいぞ。
314 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 12:11:35 ID:v1WN+ipK
ちょっと話が長いよ。 はげの話はハゲ板でやろうね。
315 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 12:26:07 ID:VK/IHr5r
>>313 そりゃ頭の外じゃなくて中に問題があるからだろw
316 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 12:28:04 ID:IHkBrhKM
>>312 本当の田舎ならスキンヘッドだと拝まれる
317 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 12:49:07 ID:cEPfFCL/
戦国ちょっと髪が薄いい話スレ
318 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 12:59:59 ID:aWsZjGP2
山川菊枝の「武家の女性」には 祖父が若ハゲだったために 毎朝びん付け油で髪を撫でつけ、つけ髷をしていた話が出てくるが 暑い時期には油がタラタラ溶けるわマゲはゆるむわで気持ちが悪く 明治になってその苦労が無くなってホッとしたそうだ ハゲには厳しい時代だったんだね(´・ω・`)
319 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 13:36:43 ID:CAX+mzKl
むしろハゲには優しい。 月代だってあるし、坊さんだって多かっただろうし。
320 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 13:53:04 ID:G2vX0x9d
ハゲがデコからくる場合のハゲ始めは優しかったかもしれんが、 頭頂からくる場合や、すっかり進行した場合は今よりも苦労が多かったようだな。 まあ、禿げてない俺にはわかんないんだからねっ
321 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 14:31:16 ID:b+Ufq1me
>>303 昔の女は経血のコントロールができたって話を聞いたことがある
排泄物と同じようにトイレで出してしまうから特に大袈裟な手当は
してなかったとか
今でも寝てる間は出血しない人とか結構いるらしいよ
322 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 14:39:38 ID:IHkBrhKM
平安・鎌倉の烏帽子を常時被ってた頃の方が辛いらしいぞ 簪を外から挿して髷を通して烏帽子固定してたから禿だとすぐポロリ 現代の感覚でいうとズポンとパンツが一気に抜けた感じの恥辱プレイになる
323 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 14:48:04 ID:Dr40thUy
>>322 露頂=性器露出くらいの羞恥プレイだからな、そのころは
324 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 16:35:05 ID:Ht50Mwk8
頭の話題だから兜でも。 戦国時代の甲冑の中でもおそらく一番人気の伊達政宗の甲冑ですが、本人は同じタイプの替具足を 何領か用意していて、一番のお気に入りを墓所の瑞鳳殿に副葬させました。 仙台市博物館に所蔵されて有名な具足も、実は二番目のものだったんですね。 瑞鳳殿は戦災で消失した後、戦後になって発掘調査が行なわれていますが、その時に甲冑も復元が 試みられています。 錆びて朽ち果てていましたが、特徴的なのが兜の三日月の前立て部分、全長で98センチと換算されました。 カーブをなぞれば1メートルを越します。仙台市博物館のものの1.5倍近いですね。 戦国パロディでは、あの三日月が長すぎるとかいうネタがありましたが、それ以上に長かったわけです。 なお三日月の材質は、革製で金箔押しです。
325 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 19:45:37 ID:pxgClHE/
>>321 今でも我慢できるとか言う人の話は聞くが…
ボク男の子だからわかんないや
326 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 22:35:54 ID:kLTu+EMM
>>324 あのダース・ベイダーの前身鎧のモデルになった鎧かな
327 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 23:36:16 ID:TPV5EROB
>>324 あれ革製だったのか。金属かと思ってたが…そうだよな、
金属のような木材はいざって時に折れなくて困るって三歳様が言ってたよな。
328 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 23:45:02 ID:Z/l8Sjcn
革製?そんなバカな いざという時、武器にならないじゃない!
329 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 23:45:19 ID:G2vX0x9d
革製ということは木に引っかかった時なんかには びよんと曲がって戻ったりするのかな。 だったら三歳さまの言ってた折れやすい木製よりもよさそうだけど。
330 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 23:51:58 ID:JuZT4gQv
331 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 23:54:20 ID:JuZT4gQv
332 :
人間七七四年 :2009/12/19(土) 23:57:53 ID:jSH3qOpY
謙信「悪い武田信玄はいね〜が〜!」
333 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 00:02:50 ID:yDCu+ju1
334 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 00:19:35 ID:G1sta73l
最近、謙信公の話題が多くて地元民として嬉しい
335 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 00:33:48 ID:evwD89sL
謙信は二重人格者 私はそう思っています
336 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 00:58:23 ID:G1sta73l
謙信は性同一性障害にみえた、疲れてるんだな寝よ
337 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 01:04:38 ID:FYn68+zZ
けんちん汁が飲みたくなってきた
338 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 01:55:56 ID:HdFDqfx6
>>324 三日月の前立ては瑞鳳殿に行った時木製だって説明受けたぞ?
「折れるように出来てるんです。そして刀が振りやすいよう右側を
短くしてあるんです。」って言われて感心したからよく覚えてるんだが…
339 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 02:47:47 ID:mMUEI4iY
長霊癋見って鬼神らしいな さすが鬼武蔵よりも格上だわw
340 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 10:54:28 ID:JDmGCpSb
341 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 11:25:39 ID:FYn68+zZ
342 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 11:27:13 ID:+fIaV8M3
オナベという説もあるが
343 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 12:01:51 ID:QWoFHGay
>>338 伝世品が木製で
副葬品が革製ってことじゃないの?
344 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 12:12:16 ID:pd80pa6X
>>341 柿崎景家の項目を見て、
当時の謙信(家出する前後)の苦労がちょっぴりわかった気がする
345 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 13:10:14 ID:IeCgSd1k
346 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 15:58:17 ID:9duoKc7t
北条さんは毛虫とも戦っていたな
347 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 16:23:49 ID:HdFDqfx6
>>343 あぁそうなのかな?(話を聞いたのは副葬品の出た瑞鳳殿なんだが…)
でもそうだとしたら使い勝手で改良したって事か。どっちが新しいんだろう。
前立ては革製と木製とどっちがいいんだろう。気になるな…
348 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 16:38:30 ID:TTClKOrl
どうせ消耗品だしどうでもいいんじゃね?
349 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 18:28:52 ID:Jv5Q8uXs
>>345 仙台市博物館で見た
ていうか振り向いたら目の高さにこんな顔があってマジで腰抜けるかと
350 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 18:41:15 ID:lDVFQ1MY
351 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 18:42:44 ID:kUfLDwJZ
352 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 18:46:32 ID:UV0hYq8y
>>349 目の高さでそれなら仰ぎ見るはめになった武田・北条の歩兵さんは怖かっただろうなぁw
あの時代の足軽だから俺たちよりはだいぶ肝が座ってるだろうけど
353 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 19:08:00 ID:ixMr2CpO
354 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 19:29:16 ID:Jv5Q8uXs
>>351 あんなのがゴロゴロしてる軍と戦うのは嫌だ
>>352 肝が据わっていても、篝火に浮かび上がるあの兜とか
あんまり見たくはないだろうと思うw
ちなみに私の身長がほぼ当時の男性平均なので目線も(略
355 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 20:22:48 ID:3Aex2iC8
>>345 甲山の猛虎さんが美味しそうに見つめてます
356 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 22:06:43 ID:HMPbJJK7
1579年3月末日の事 武田勝頼に奪取された高天神城を取り戻すため徳川軍は兵を送り横須賀で対峙、武田軍としばらく睨み合っていた。 その日は結局文字どおりただ両軍睨み合うばかりで双方が仕掛ける気配は無く、一向に戦況が変わらない状態だったので、先に武田軍が痺れをきらせて城へさっさと引き上げてしまった 徳川軍もここは退き時と心得て、何事も無く帰国の途に就く事となった だがこの時無事に帰れると言うのになぜか1人だけワーワーと泣きわめく若武者がいた 水野国松(勝成)「わーん!わーん!」 槍をあわせて怪我をした訳でも無し、仲間が死んだ訳でも無しなんで泣いているのだ? と周りにいた大人達も訳も分からず泣き出したこの子供に困ってしまったので 雑兵某「一体どうしたんだボウズ腹でも痛くなったのか?」と話しかけた所 国松「違う!そうじゃないんだ!私は今日が初陣だと言うのに結局なんの活躍も出来なかった、それが悔しくて悔しくて…」 それを聞いた周りの大人達は呆れると同時にとんでもないガキだと驚いたそうな 時に水野勝成14歳
357 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 22:08:40 ID:HMPbJJK7
わりぃ最近sage進行なのにあげてしまった
358 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 22:19:37 ID:lqJ5a/X6
なんて厨二w
359 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 22:30:06 ID:3Aex2iC8
やっぱり初陣の日に手柄を立てたれず悔し泣きをするってのは 武将の初陣話のセオリーだなw
360 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 22:45:33 ID:HMPbJJK7
1615年5月夏の陣の事 戦争は終結、徳川軍にもかなりの痛手はあったものの遂に豊臣家を滅ぼす事が出来た 各大名は家康に挨拶と報告を済ませ、各々が帰国の途に就いた だがこの時無事に帰れると言うのになぜか1人だけワーワーと泣きわめく若武者がいた 徳川頼宣「わーん!わーん!」 槍をあわせて怪我をした訳でも無し、仲間が死んだ訳でも無しなんで泣いているのだ? と周りにいた家臣達も訳も分からず泣き出したこの子供に困ってしまったので 本多正信「一体どうされたのですか?」と話しかけた所 頼宣「私は今日が初陣だと言うのに結局なんの活躍も出来なかった、それが悔しくて悔しくて…」と答えた すると 正信「若君はまだお若いのだから、今後いつでもお手柄をたてる機会はございますよ」と慰めたが 頼宣「ワシに14歳が二度あるか!」と正信睨み付けたと言う そこにたまたま居合わせた水野勝成は ( ´з`)oO(コイツ俺と似てできる!)と思ったかどうかは伝わっていないが大変感心し一目置いたそうな 他にも細川忠興と家康もそこに居合わせて見ており後者は 家康「その言葉こそ槍なり!」と称賛したと伝わる
361 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 22:47:03 ID:dtyoMaJo
>>356 大河ドラマなどで昔の武将が泣くとき
「うぅ、うっうっ・・・」ボロボロ・・・
という現代人っぽい情けない泣き方をするのは非常に違和感がある。
豪傑はワーワー声を張り上げて泣かないとね。
362 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 22:50:20 ID:muOWrPoI
>>360 頼宣の場合大坂の陣以降戦自体が無くなるわけだから泣く気持ちもわからなくもないね。
363 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 22:52:04 ID:HMPbJJK7
>>358-359 まぁ忠勝とか13歳の初陣で鬼強だったみたいだし、こんな奴等が周りに居たんじゃ落ち込んじゃうのもしょうがないかもなw
364 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 22:54:32 ID:wElM8UXP
顔文字ある時点で読む気がしないな
365 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 22:58:15 ID:HMPbJJK7
>>364 うん!たいした話じゃ無いから読まなくていいよ!
366 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 23:07:12 ID:EX3RZcIh
関ヶ原合戦の後、捕縛された石田三成、小西行長、安国寺恵瓊三人の身柄が、 大久保忠隣に預けられた。 しかし、この頃忠隣は家康の側にあり大変忙しく、その子息、加賀守忠常(当時二十歳)が 彼らの管理に当たる事になった。 忠常が、三成達の拘束されている場所に行って見ると、三人は高手小手に縛られており、 その中でも三成は、当時腹を壊しており、この苦しさからその場に臥せていたそうだ。 これを見た忠常、自ら暖かい粥を三成の前に持って来て 「どうぞこれを、一口お召し上がりください。」 と言った。これに三成 「おぬし、何者だ?」 「は、これは申し遅れました。先年の奥州の御検地であなたが関東に御下向された時一度、 お目にかかったことがございます。大久保忠隣のせがれ、忠常であります。」 三成、忠常をじっと見て。 「ずいぶん前の事だし、全く覚えていない。」 そう正直に答えた。いかにも三成らしい。 「ところで忠常殿、久しぶりの対面早々何だが、この有様では粥を飲むことも出来んよ。」 と、体中に掛けられた縄を見せた。 そこで忠常、縄を解き手を自由に使えるようにした。三成はこれを大いに喜び、 「今の芳情忘れぬぞ」と礼を言って、小ぶりの茶碗に一杯半ほども粥を飲んだ。 その後、三成達を厳重に縛める事をやめ、首に形ばかり縄をかける形に改めた。 三成は隣室の小西行長を、「摂州!摂州!」と大声で呼び 「家康は果報な男だ。譜代の子供まで良く育っておるわ!」 と、語ったそうである。
367 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 23:11:13 ID:+QnYTCAD
368 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 23:13:43 ID:motJ3TQ1
ツンデレw
369 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 23:14:59 ID:DOrTygu/
>>351 パパイヤ鈴木は兜をかぶれないと思います(キッパリ
370 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 23:31:15 ID:EX3RZcIh
>>367 その爪の逸話、漠然と「小姓」ってだけ書かれた物と「蘭丸」と書かれた物は存在するけど、
氏郷と書かれた物は見たことが無い。
多分童門さんがこの逸話を勝手に氏郷に当てはめただけだと思う。
童門さんの小説には良くある事だがw
371 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 23:34:01 ID:motJ3TQ1
童門は勝手に脚色改変するからアテにならん
372 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 23:35:31 ID:iesOXET8
373 :
人間七七四年 :2009/12/20(日) 23:52:40 ID:D5Nmkdsr
小説家は小説家であって歴史学者じゃないからねえ 盲信するのもほどほどにした方がいい
374 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 00:42:26 ID:1uD1UxXs
ヤフオクで竹中重治の鎧出品されてるぞ
375 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 01:10:04 ID:A1zSgthW
童門はほんとに評判わるいね
376 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 01:27:20 ID:iX+oLkmP
徳川頼宣は早くから大名の地位を家康より授かったが、それとともに「天下の名物」と
呼ばれる茶入を譲られていた。
ある日、頼宣の蔵を預かる役人が蔵の道具の虫干しをしていると、家老安藤帯刀の息子、
彦四郎重能がやって来た。「ご重宝の茶入を拝見したい。コッソリ見せてはくれぬか?」
彦四郎は日頃から酒癖が悪く、この日もプンプンと酒臭い息を吐いていたので、役人は
断ったが、彦四郎は聞かない。
「・・・そこまで言うなら、どうぞ蔵に入られよ。ただし、他言は無用ぞ。」「分かっておるわ!」
二日酔いで薄暗い蔵に入った彦四郎は足元が定まらず、近くの箱の上に倒れこんだ。
驚いて箱を開けて見ると、中身は件の茶入だった。
さすがに黙っている訳にも行かず、彦四郎は父・帯刀に、斯くの如しと申し出た。
「これは、殿に申し上げねばなるまい。場合によっては、わしも責任を取る。お前も覚悟を
決めておけ。」「・・・・・・」
報告を受けた頼宣は、帯刀に言った。「して、その破片はあるか?」
「破片は、そのまま置いてあります。」「ならば、漆でも使って継いでおけ。」
「・・・彦四郎には、いかなるお咎めを仰せつけになりますか?」
頼宣は笑って答えた。
「茶入は『天下の名物なり』、と父上に授かった品ではあるが、戦場で弓鉄砲も撃たず、
槍刀も使えず、先頭に押し立てて『天下の名物なり』と呼ばわったとて敵が恐れ入るわけも
なし。彦四郎は酒癖は悪いが、ひとかどの者である。捨て置け。」
「ははーッ!有難き仰せ!」「・・・・・・」
その後、彦四郎は人が変わったように職務に打ち込むようになり、口癖が出来た。
「武士には『伊達』というものがあるが、存じたる者は少ない。そして、伊達の最たるものは
主君のために死ぬることよ。」
その言葉通り、大坂夏の陣で彦四郎は一番槍を果たして戦死した。
有言実行を遂げた彦四郎を賞賛せぬものは無かったが、その死は父親を悲しませた。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-684.html
377 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 01:29:59 ID:3QHMS5cS
>>376 ああ、南龍公は名君だねえ。これは惚れる。
378 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 01:35:05 ID:W9E+adKX
罪を許された礼を自分の命で返したのか…(ノ_・。)
379 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 01:41:43 ID:v5ZzqaMj
童門の小説って読んだこと無いんだが、そんなに酷いのか? 小説なんだから大作家と言われる人でも普通に捏造エピ入れることもあるけど、 そういうのとはまた、程度が違うの?
380 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 02:15:21 ID:9+Jep6SN
俺個人としては普通に小説家として小説が面白くない人って印象だな>童門 登場人物や哲学に魅力がない。学研の漫画の方がまだ面白いんじゃないかってぐらい
381 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 02:44:25 ID:FlrFyeU9
>>351 謙信から甘粕に与えられたとかじゃない?
382 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 02:57:28 ID:OyFY0qpX
>>380 知識が古い上に、理想郷だの愛民だの脳内お花畑で、そのためならどんなこともねじ曲げてくるってかんじだな。
童門著のとある本を参考にするとざっと、こんな感じ。
直江が用いた兜、「愛」の前立ての由来は?
A:以下原文ママ
>(直江兼続の)本心はまさしく、「この国を平和にするには、人間同士の愛が必要だ」と思っていた。
小田原惣構えを築いたのは?
A:北条早雲
>(前略)小田原城を奪って拠点とした(中略)「城下町を土塁で囲め」と言って、何キロにも及ぶ堤を築かせた。(後略)
注:数キロに渡る惣構えは氏政時代の小田原城。ちなみに北条早雲(伊勢宗瑞)は韮山から本拠を移していない。
楽市楽座の先駆者は?
A:織田信長(断言)。織田信長が思いついて、織田信長が初めて実行した。
兵農分離ってあった?
A:もちろん。織田信長が実行した。専業兵士だけの軍隊を作った。
伊達政宗が金の十字架を軍の先頭に立てたのはいつ?
A:奥州の一揆を鎮圧するとき、度々立てた。西洋に目を向けていたその慧眼は凄い。
383 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 07:04:23 ID:jXGl2xPX
確かにちょいと古いなw
384 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 07:21:53 ID:mTaVpBAi
昭和の歴史観でも小説家として面白かったら叩かれない 小早川隆景の小説書いておいて厳島の戦いを なんだかんだあったけど天候が良かったから勝てた。の三行で済ましやがったくせに 後の展開の木津川口海戦で村上水軍の説明が必要になったとたん、 実は厳島の戦いは村上水軍のおかげで勝てたんだよ!とか平気でやるその構成力
385 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 07:41:16 ID:9+Jep6SN
いや別に小説家なんだから事実をねじ曲げたり間違ってたりしてもいいと思うよ。でも小説自体がさ…… 例えば宗茂の小説なら志木沢や八尋は薦めるけど童門は絶対薦められないな、俺は。読み終わった後に残るのは過ぎた時間だけになるからさ 「ギン千代、あれが父上の星だ。私達を見守っててくれる」「ええ…」みたいなセンスで小説家やれるのある意味凄いよw 宗麟の女癖に絡めてアンチ男尊女卑になってる八尋や、ツンツンしながら宗茂とのケンカを楽しんでる志木沢のギン千代に比べて童門ギン千代の主体性のなさw
386 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 07:46:38 ID:4LAdFPDe
387 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 08:33:35 ID:S+ku6fLN
>>381 製作年代が豊臣時代あたりと考えられます。
で、「天知人」では景勝の小姓たちにも気さくに話しかけてくれましたが、
実際の甘粕は、謙信との面識は無いと思われ。
388 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 08:44:19 ID:EyHOQyfs
爪の逸話というと、韓の昭侯の逸話を思い出す。 こっそり爪を隠しておいて、爪がなくなったと騒ぐ。 側近は探しても見つからないので誰かが自分の爪を切って「あった」と申し出る。 昭侯は「側近とはなんと不誠実なものであるよ」と思ったそうだが、信長相手じゃなくてよかったな。
389 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 08:57:17 ID:2sGqDGmN
>>366 なんか死の間際なのにさっぱりしているな やっぱ三成も武人だったんだな
>三成は隣室の小西行長を、「摂州!摂州!」と大声で呼び
死罪待ちで牢屋に入っているのに普通に世間話しててフイタw
390 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 10:31:20 ID:pBnMzuLX
391 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 12:30:41 ID:d4qU//m1
>>390 アンサイクロペディアを出典にするのは恥ずかしいぞ
ユーモアが足りない
392 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 12:37:38 ID:9vtGt5bY
>>389 あまり言い訳をしないところや死罪に際しても動じないところは、広田弘毅にも似ているよな。
393 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 13:14:55 ID:SAFYxAn0
>>392 それこそ城山三郎の小説が元ネタで実は「死刑」
になりたくないから黙っていただけと笹川良一が「人類皆兄弟」
で書いていたよ。
394 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 13:46:43 ID:pBnMzuLX
395 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 13:53:06 ID:DGBeoZpx
>>394 気にすんな。
UESUGI KENSHINで画像検索すると、戦国ランスばっかり出てくるのが今の世の中w
396 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 14:03:44 ID:uZId3tNz
あんな強い武将が男の子な訳ないじゃないですか
397 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 14:23:56 ID:ln0/mB8j
>>393 広田弘毅については『落日燃ゆ』の影響もあってか実像と創作の部分が
ごっちゃになっるとはいえ(なので光と陰、功罪を信用のおける資料で過不足なく
見直す必要があるけど)、大体の資料が「泰然自若としてた」とあるし
概ね信用していいんじゃないか。
むしろ笹川良一のほうが、言い方は悪いが収攬されたことすら
自分の栄達に利用したような男だし、よほど信用ならん。
(スレ違いでスマン)
>>394 それはネタで言ってるのかw?
398 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 16:29:19 ID:GFuA8lao
この時代の牢屋の環境ってかなり悪かったんかな 官兵衛は足が悪くなっちゃったし
399 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 18:26:35 ID:lCqRHmT3
そもそも懲役刑って概念がなかったからねえ
400 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 18:58:42 ID:zjBYrTgV
まあ一応、遠島がそれに当たるんじゃね?
401 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 19:20:15 ID:YLLSIY7P
蟄居は禁固刑かな
402 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 20:27:30 ID:A1zSgthW
>397 ポスターならドイツのときに販売されたよ
403 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 21:09:55 ID:H8muASH7
>>398 黒田官兵衛が閉じ込められてたのは土牢で、土牢っていうか、斜面に掘ってある穴?
体をかがめて足を曲げてやっと入ってられるくらいの小さい所に一年以上入れられてた
せいで、ずっと曲げてた足が悪くなったらしいって聞いた
いろいろ世話をしてくれた牢番の子供を引き取るくらい恩義を感じたらしいから、
きっとそれがなかったら生きてたか怪しいくらいやばかったんじゃないか
404 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 21:15:22 ID:H8muASH7
>>403 ごめん、追記
実は黒田家の認識によると「荒木村重は小寺政職の依頼を蹴って官兵衛を殺さず
幽閉したので恩人」らしい
その認識に従って荒木の子孫の世話を焼いてるとこ見ると死ぬほどひどいってことはないか
405 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 21:24:19 ID:GFuA8lao
村重は人質にでもするつもりだったんかね
406 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 21:57:34 ID:hpS9NdMq
そういや当時って座敷牢はあったの?
407 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 22:49:31 ID:iDvw96aE
官兵衛が頭部に患ったアレはもしかしたらタムシとかあんなのじゃないかと思っている。 不衛生だったかもしれないし…。 当時は水虫とかどうしていたんだろう。
408 :
人間七七四年 :2009/12/21(月) 22:58:13 ID:mulgUc3C
戦国期に水虫ってあったのかな? 当時は草鞋だったし寒かったから 水虫患者自体珍しかったのでは?
409 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 00:02:22 ID:NlFalMcw
当時は皮足袋だったから しょっちゅう履く人は水虫になったりしたかもね
410 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 00:23:16 ID:swNSD2BK
日本では水虫の歴史というものはせいぜい数十年だそうな。 でもどこにでもいるカビ菌だし、当時もあったんだろうな。
411 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 00:35:42 ID:EBEIT2Kp
靴とか履くようになってから蔓延するようになった、とたしか王様の仕立て屋であったような
412 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 01:00:26 ID:9g5hpzzj
かもすぞ〜
413 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 02:05:17 ID:RWdERj4f
以前どっかで書き込みみたな。 水虫になったら焼けた砂浜を裸足で歩くとかしてたらしいが。 まあ乾燥が大事ってのは経験的にわかってたのかね。
414 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 02:08:14 ID:UmfEdHi1
拷問に近いなw
415 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 05:40:55 ID:frDtGcBL
天文六年(1537)四月、扇谷上杉家は父朝興の死去により、扇谷上杉朝定が僅か12歳で後を継いだ。 これを好機と見た北条氏綱は七月、扇谷家の拠点河越を攻略。朝定は河越城を放棄し、 家臣難波多弾正の守る武州松山城へと逃げた。これを追う氏綱の軍勢、難波多勢の籠る松山城に 押し寄せた。 これに難波多弾正はしぶとく戦い、北条勢を撤退させる事に成功するのだが、 この時北条方の侍、山中主膳と言う者が難波多に攻めかかった。 難波多は山中を軽くあしらうと、早々に城に引き上げようとした。山中、これを追いかけ 後ろから 「あしからじ よかれとてこそ戦はめ など難波多のくづれ行くらん」 と詠んだ。『みっともないぞ!勝算があると思って戦を始めたのだろう?どうして難波多殿は 逃げ崩れていくのか?』と言った意味である。まあ勝負をしてくれない難波多を煽ったわけですね。 難波多弾正これを聞いて 「君を置て あだし心も我もたば 末の松山波もこえなむ」 という古今和歌中の古歌を詠んだ。この歌、本来の意味は 『あなたを差し置いて、私が他の人を思う心を持ったなら、あり得ないことですが、末の松山を 波が越えてしまうでしょう』という恋の歌である。 これを転じて 『主君朝興を放って置いて、あなたと勝負するような心を私が持てば、松山城は 北条の軍勢の波に飲み込まれてしまうでしょう』 と言う意味で詠ったのだ。 当時の人々、この難波多弾正の雅な受け答えを大いに賞賛した、とのことである。
416 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 06:21:26 ID:NhXhOxLP
難破田さん、井戸に沈んじゃうんだよなあ 犬猿だった義晴との同盟を斡旋したり扇谷家にとっては欠かせない人だったよね
417 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 06:44:41 ID:WLd1maVC
北条って提灯の人とか逸話いっぱいあるけど 一般の知名度低いのが悲しい
418 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 09:51:20 ID:CFlAs2t3
天下統一を進める秀吉に対して、北条家が氏政の弟、氏規を送って、彼が帰国して言うには、上方は屋根が板、北条家の家は萱ぶきであり、経済力が全然違って歯が立たない相手だと言った話があったような。
さすがに名外交官だけあって、観察力には優れているね。
>>417 知名度については、戦国時代を扱った某ゲームで能力値が高い人物が少ないからかも。
やはり能力値が高いほうがユーザーは関心を持ちそう。
北条兄弟ももう少し評価されていれば、知名度は上がったかもしれないのに。
419 :
仙台藩百姓 :2009/12/22(火) 12:14:31 ID:0bM/h6Eg
何が名外交官、洞察力だお(≧ω≦)プッ 室町政権が消滅し新たな中央政権の波が地方にも押し寄せて来ているのは 織田氏の台頭で誰もが気付いていた事だお( ^ω^) 誰もが信長の後継者争いに注目し見極めに奔走していたお だから小大名でさえ賎ヶ岳の直後から羽柴氏に接触を図り誼を通じる者が多くいたお( ^ω^) それを北条はあらかた帰趨が決した頃になって上方の経済云々とか何を寝ぼけた事言っているのだお┐ (´ω`) ┌ いかに北条がお山の大将で悦に浸り鈍重に外交を怠っていたかよく分かるエピソードだお まして北条は対織田外交で失敗しているのに全く成長がない連中だお( ^ω^)
420 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 12:22:13 ID:1Bl4bUcp
>>418 いや単純に、滅びてしまった家だから知名度が無いんだろう
源平や足利や豊臣も滅んだけど、あっちは天下を取ってたし、北条は地方だけだしね
その後に、家康という大物が関東入りして自分色に塗り替えてしまったのが大きい
>戦国時代を扱った某ゲームで能力値が高い人物が少ないからかも。
あのゲームにそれほどの影響力はないでしょw
前田利益が「花の慶次」でメジャーになったことから分かるように、
人気作家に漫画化してもらえば知名度はグンと上がる
421 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 12:28:56 ID:qzVc3uzU
422 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 15:35:42 ID:7JxY9Yka
>>420 北条氏直が長生きしていれば北条家は滅びることはなかったんじゃないかと思うよね。
伯耆一国貰う予定って逸話が本当だったら貰ってしまえば後は滅びる可能性ほぼゼロだったわけだし。
だって氏直の奥さんは徳川家康の娘。
豊臣時代だって家康がフォローしてくれるだろうし
江戸時代になったら安泰もいいところだったはず・・・
徳川家の親戚で中国地方の抑えとして国持ち大名やってたんじゃないだろうか
そして池田輝政の一族は氏直が長生きしたらひょっとしたらあそこまでは繁栄できなかった可能性が・・・
氏直があと20年ぐらい生きてればと考えると惜しいかも。
プラス20年生きても50歳ぐらいだし。
423 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 16:01:58 ID:BDILQLDI
まったくだ。北条幻庵がもっと長生きできてたらな。
424 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 16:30:11 ID:CKWnxHnw
またまた御冗談をw
425 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 16:35:48 ID:RWdERj4f
>>422 外様だけど準親藩みたいな扱いだったかもね。
やっぱり寿命は重要だよなぁ。
そう考えてみると、突撃癖のある主君が諫められるのも当然やね。
426 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 16:38:55 ID:b0f5itM8
いやいや、氏康公が幻庵様並みでも一向に構いませぬ。
427 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 17:00:13 ID:ZZKsfaHM
>>418 >屋根
同じ感想を上洛した謙信も言ってなかったっけ
428 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 17:04:36 ID:nGYJqoYN
氏勝「北条の家名はおいらがまもる(キリッ」
429 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 18:34:20 ID:44oj5xK7
陸戦型化物と戦場で敵として出会わないですむだけで北条傘下に入るな。
430 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 19:33:25 ID:/wR0cIOm
〉〉429 代わりに越後から軍神と言う名の陸戦型化物が襲来します
431 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 20:39:01 ID:Wm5GnGov
ifが有りなら。 北条氏が小田原の陣に至る前に臣従したとする。 出家した氏政氏照を伴い氏直が上京。若年ながら家康の婿でもあり顔は潰せないので 外甥扱いで権中納言羽柴相模守に位打ちしつつ 秀吉は毎度おなじみ分断統治を図る。 本家を相模一国、氏邦と松田に武蔵半国ずつ、大道寺に南上野を少々であと召上げ。 で、松田大道寺に独立を唆して反応を見る。 まずはこんなところかと。
432 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 21:02:29 ID:/CLsSIzx
つか氏規ルートとかで二国もしくは三国安堵の内示がなされた状態での小田原開城降伏だからな 実際に降伏したら氏政氏照切腹&領地全没収つー即死コンボだった訳で、 北条家への対応は同様に惣無事令拒んで抵抗した長曽我部や島津とは本質的に異なる 氏直の大名復帰話も眉唾だと思うなぁ
433 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 21:37:22 ID:t9VIJzvU
それまでの大名みたいに朝敵扱いじゃなくて、正式に朝敵とされたんじゃなかったけ だとしたら秀吉の一存だけでどうこうなる範疇は越えてるし
434 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 21:55:48 ID:nGYJqoYN
朝廷なんて太閤電化(まだ太閤違うけど)の御意向があれば赦免状のひとつやふたつだすだろ
435 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 21:58:37 ID:z7JvXls1
>>432 しかし氏直が死の直前に発給した文書には明らかに氏直に何らかの形で
領地の受領があると見られる記載があるからなあ
わからないよ
436 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 22:50:25 ID:WbjooeIa
北条有利とされるはじめの沼田の裁定を受け入れていたらどうなったかな そしたら昌幸が動くかな?
437 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 23:07:57 ID:HehlvT1Q
噴火関係だと三湖伝説とか… 縄文時代じゃないけど
438 :
人間七七四年 :2009/12/22(火) 23:08:38 ID:HehlvT1Q
誤爆
439 :
人間七七四年 :2009/12/23(水) 00:08:03 ID:fIsRRKSe
井伊直孝の家臣が規律にそむいた家来を手討ちにしようとしたが、30間くらい まで逃げられてやっと家来を討った。直孝は「その場で討てないやつなど必要 ない」とその家臣をクビにした。 別の家臣が家来を手討ちにしようとしたとき、その家来は抵抗して主人に 傷を負わせたが、ついにその場で討たれた。家中の者は先例は手傷を 負わなかったのにクビだったのだから手傷を負ったならば切腹だろうと 思っていた。しかし直孝は「よく養生せよ。主人に傷を負わせるほどの 剛強な家来をかかえるとはたいした奴だな」と家臣を誉め、みなの予想を 裏切った。逃げられるのは恥だが、傷は恥ではないということか。
440 :
人間七七四年 :2009/12/23(水) 01:28:01 ID:RECdIkAR
ただの気まぐれです
441 :
人間七七四年 :2009/12/23(水) 02:10:12 ID:WWsNuUiF
足の速い人間はうかつに雇えないな。
442 :
人間七七四年 :2009/12/23(水) 02:54:47 ID:cCggpMg0
スピードタイプよりパワー派だったんだな
443 :
人間七七四年 :2009/12/23(水) 03:30:01 ID:3Uj1llWh
444 :
人間七七四年 :2009/12/23(水) 04:18:41 ID:4Kjf3Gmz
>>378 ベッキーさんとか戦国期バリバリの武将でも聞いたことある類型だけど、
安藤帯刀さんや水野重良らにビシバシしごかれて、すっかり戦国武将気質なんだから紀州様……
仙台イーグルスのまーくん以上に「遅れてきた群雄」枠の人だねぇ
445 :
人間七七四年 :2009/12/23(水) 06:03:34 ID:PzFqvWAQ
>>376 みたいなのは良い方にも悪い方にもとれるけどねえ
見方を変えれば「次の戦いではきっちりと死んで詫びてね」って言ってるようなものだし
死ななかったら「茶入れ程度の奴」って言われる訳だからねえ
446 :
人間七七四年 :2009/12/23(水) 09:06:12 ID:Y1H13Jil
家中一の戦名人と呼ばれてばらばらになった茶入れを拝領 安藤家の家宝として現代まで残りました
447 :
人間七七四年 :2009/12/23(水) 09:29:10 ID:M+FnChMl
えーと、後北条氏は氏直の子が大和に一万石もらって明治まで存続してます。 幕末に大和の乱の舞台になったぐらいで、特に記憶する必要ないけど
448 :
人間七七四年 :2009/12/23(水) 10:54:43 ID:a3YeNXHJ
そんなことは誰でも知ってるだろう、てかそれそもそも氏規系だろ。創価学会の会長出した…… あと大和でなくて河内国内だし、そもそも存続そのものより国主級の扱いが話の論点だったと思うんだが
449 :
人間七七四年 :2009/12/23(水) 11:48:03 ID:K4pGdSxW
すまん、みんなスルーしているが言わせてくれ。
>>434 ラスボスついにサイボーグ化ですか。
450 :
人間七七四年 :2009/12/23(水) 21:07:57 ID:jsxquVZs
天文20年(1551)3月、北条氏康は関東管領・上杉憲政の平井城を攻めた。
本拠地を攻められた上杉軍は長野業政・太田資正の援護を受けながら必死に抵抗した。
中でも上杉家臣の荒井伝八の武勇は凄まじいもので、巨馬にまたがり、大まさかりを
かついだ伝八は、北条武者の兜であれ馬の首であれ、当たるを幸いとなぎ払った。
北条軍は伝八一人に追い立てられたが、そこへ北条綱成の弟の福島勝広(北条綱房)が
現れ、樫の木の棒で応戦した。
まさかりの荒武者と樫の木の猛将は暴風の如く渡り合ったが、勝広が渾身の力を込め
棒を振り下ろすと、伝八はまさかりを捨て、両手で棒を受け止めた。
二人が力比べとばかり互いに樫の木をねじり合うと、棒は真ん中でねじ切れてしまった。
二人が勝負を預けて別れたその時、北条軍の弓の名手・横井新助が駆け寄って来て、
荒井の馬の横腹を射た。
地に降り立った荒井は、まさかりを拾い新助に襲い掛かったが、すでに新助は二射目の
用意を済ませており、放たれた矢は伝八の胸板を貫いた。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1633.html での失敗に懲りたモンスターハンター、再挑戦で大手柄のお話。
451 :
人間七七四年 :2009/12/23(水) 21:14:50 ID:4m0ULh95
もう関東選抜のモンスター武者達でラスボスに切り込めばよかったんじゃね?>小田原の陣
452 :
人間七七四年 :2009/12/23(水) 21:16:53 ID:SjEGs4Jp
なんで関東は陸戦型モンスターだらけなんだw
453 :
人間七七四年 :2009/12/23(水) 21:19:50 ID:pyRx8zGh
空戦型モンスターだと違う物語になるからだろ
454 :
人間七七四年 :2009/12/23(水) 21:45:54 ID:2JA3EQ5W
確かに暗殺型モンスターだらけの中国は別の物語が展開してるな
455 :
人間七七四年 :2009/12/23(水) 22:00:28 ID:hUauGQgQ
456 :
人間七七四年 :2009/12/23(水) 22:14:56 ID:EeTThJtx
ふはは、この坂東武者の前に三本の矢など話にならぬわ!といって叩き折る脳筋三兄弟 想像するとぶち壊しだなw
457 :
人間七七四年 :2009/12/23(水) 22:32:03 ID:WWsNuUiF
>>450 この姿を見たらラスボスも兄妹のことなんて聞かないだろうな。
それにしても、5年前までは美少年だったのに。
美少年だけどパワフルなだけか?
458 :
人間七七四年 :2009/12/23(水) 22:52:09 ID:KE5zhFWG
樫と言ったら真壁氏幹をまっさきに思い浮かべてしまう 樫を武器にするのが坂東武者の間で流行ったのかね
459 :
人間七七四年 :2009/12/23(水) 23:01:20 ID:iHHADzh8
棒とかマサカリとか大太刀とか・・・ 何かもう関東は太平記の時代からなにも変わってないな どんだけデカい武器愛してんだよw
460 :
人間七七四年 :2009/12/23(水) 23:08:09 ID:3Uj1llWh
大きいことはいいことなのさ。
461 :
人間七七四年 :2009/12/23(水) 23:14:10 ID:JX/sthJV
>>457 その頃の美少年ってムッキムキも条件じゃねーのか
462 :
人間七七四年 :2009/12/23(水) 23:21:53 ID:o85qGrOa
美少年って言うと誤解を招きそうだな 偉丈夫と言えばいいんじゃないか
463 :
人間七七四年 :2009/12/23(水) 23:40:51 ID:68B0fTrY
しかし、ラスボスが「女ならセックルしたい」と思わせるような容姿だったんでしょ? それとも、ラスボスは実はがっちりした体格の女が好みだったんだろうか? 茶々様みたいな巨女がストライクゾーンだったのかな
464 :
人間七七四年 :2009/12/23(水) 23:50:53 ID:VvkfHFlh
>>463 秀吉が自分の側室の中で、どうも単純に女性として一番のお気に入りは
京極さんの娘の松の丸殿だったらしい。
465 :
人間七七四年 :2009/12/24(木) 00:00:00 ID:uEeBMuNS
坂東武者全部が北条にいるならともかく 半分くらいは上杉とともにラスボス側に付いてんじゃないかねぇ。
466 :
人間七七四年 :2009/12/24(木) 01:14:42 ID:Pycn5hbV
確か上杉にも農民なのに殺しまくってた奴いたよな ヒャッハー成分はないけど
467 :
人間七七四年 :2009/12/24(木) 06:20:09 ID:CVv6LmVG
当時数少ないサイドビジネスだからねぇ
468 :
人間七七四年 :2009/12/24(木) 12:51:37 ID:fk8CltEB
クリスマスイヴだが戦国時代もキリシタン達はお祝いしてたのだろうか
469 :
人間七七四年 :2009/12/24(木) 12:56:01 ID:S+y6wZSO
キリストの命日を祝うのか?
470 :
人間七七四年 :2009/12/24(木) 13:21:45 ID:oIwYFRIO
なんで命日なんだw 1552年に山口で日本で初めてのクリスマスという話があったはず。
471 :
人間七七四年 :2009/12/24(木) 13:39:26 ID:CVv6LmVG
義隆「サンタのおじさんだよー」 武任「みんなー、殿からのプレゼントだよー」 子供「わーい」 晴賢「俺、トナカイかよ!」 長房「父ちゃん、殺るぜ…」
472 :
人間七七四年 :2009/12/24(木) 15:29:35 ID:s4rrgELt
どうでもいいがサンタクロースが歴史に出てきたのが1821年 戦国時代ではクリスマスといっても本当に聖誕祭のミサという意味合いしかなかったはず
473 :
人間七七四年 :2009/12/24(木) 15:36:28 ID:CVv6LmVG
それ以前に大内義隆は1551年に攻め滅ぼされてるんだけどね(マテコラ
474 :
人間七七四年 :2009/12/24(木) 17:14:11 ID:ofXGhUdr
475 :
人間七七四年 :2009/12/24(木) 18:15:32 ID:IX/QxHMq
大内義隆は鶏姦禁止と聞いて激怒して布教許可しなかったんだよね。
476 :
人間七七四年 :2009/12/24(木) 18:29:45 ID:v+mIV7En
>>475 それは一度目
ザビエルと二度目に対面した際に布教を許可している
477 :
人間七七四年 :2009/12/24(木) 18:38:57 ID:Pycn5hbV
異教徒が祭で浮かれている今こそ奇襲のチャンス
478 :
人間七七四年 :2009/12/24(木) 19:45:12 ID:k7GiXHDF
「キリシタンなど居ない!」 江戸幕府がキリスト禁止令を布いて諸大名に領内にキリシタンが居ないか厳しく取締をしていたというのはよく知られたお話。 幕府に目を付けられぬようにと諸大名もこぞってキリシタン狩りのような真似をし、バテレンを処刑したりと日本のキリスト教徒にとっては厳しい時代。 しかしながらそんな流れに別にキリシタン大名でも無いのに真っ向から逆らっていた人物がいた。 レオン・パジェス著の『日本切支丹宗門史』から 元和10年(1625)年 「美作の領主は、領内にキリシタンはをらぬと政庁に報告させ、目を閉じた。 彼の城下の近くに、或る美しい墓地があって、キリシタンはそこに行っては、祈祷を捧げてゐたが、 その中央に高さ十五パルムの素晴しい十字架を立てた。 之は『汝はもろもろの仇の中に王となるべし』Dominare in medio inimiocrum tuorumといふ、 詩篇の言葉を実現するためのやうであった」 元和10年(1625)年当時の美作の領主・・・すなわち津山藩主、森忠政であった。 忠政は「領内にキリシタンなど居ません」と幕府に報告しつつも、キリシタンが津山の城下の近くに墓地を作り、その中央に十字架を立てて日々祈りを捧げているという事を知りながらも見てみぬ振りをしてやっていた。 もちろん、幕府の上使の領内見回りなどで墓地が見つかれば言い訳のしようも無いのだがのらくりらりと忠政はかわしていた。 後年、日本のキリスト教弾圧の歴史を調べていたレオン・パジェスはこの事実を知って忠政の姿勢を旧約聖書のイスラエルの王に送られた詩篇の言葉を流用して評価したという訳である。 しかしながら幕府の津山藩の甘さをやはり認知していたのかもしれない。 寛永15年(1638年)キリシタン弾圧で島原の乱を生んだ松倉勝家の斬首刑はわざわざ2代目津山藩主森長継の江戸の下屋敷で執行された。
479 :
人間七七四年 :2009/12/24(木) 19:59:10 ID:qwxbmc+1
大内義隆って怒らせてもケツを差し出したら許してくれそうだよな
480 :
◆QcuDphiuh6 :2009/12/24(木) 20:15:07 ID:flpLH3kY
タチなんですか?
481 :
人間七七四年 :2009/12/24(木) 20:45:20 ID:vw1I1YHb
イスラエルの王=森忠政とは大きく出たな
482 :
人間七七四年 :2009/12/24(木) 20:47:46 ID:KYuIpmHJ
確かにヤハウェは四天王級のDQNではあるが
483 :
人間七七四年 :2009/12/24(木) 20:55:44 ID:CVv6LmVG
ふと5人いる四天王を思い出した
484 :
人間七七四年 :2009/12/24(木) 21:46:38 ID:wl5es4RO
>>483 派閥の長が子飼を無理矢理推し込んだのが真相だろ
485 :
人間七七四年 :2009/12/24(木) 21:47:02 ID:tbmJ6hMQ
まあ、江戸町奉行所の与力にキリシタンがいるような政権の取り締まりだから ヌルヌルなんだわさ、キリシタン弾圧。 しまいにはキリシタンが発生すると責任問われるので、連中がよほどつけあがらない限りは 見て見ぬふり。
486 :
人間七七四年 :2009/12/24(木) 22:25:14 ID:w3qzOQDt
黒田家の家臣、小河藤左衛門は罪を犯して牢の中にいた。当然、刀はない。 時々、罪人になった小河の世話をしに、小河が可愛がっていた十八の少年が来ていた。 ある日、小河は少年に 「私は重罪を犯したゆえ、死罪は間違いない。だか、その前に切腹すれば 面目が立つ。頼む、刀をここに持って来てくれ」 と言った。そして少年がこっそり刀を持って来ると、小河は喜んで切腹した。 事態に気付いた役人が少年を問い詰めると少年は 「かつての主人が難儀していたので、私が刀を持って来ました。いかなる 処分も受ける覚悟です」 と答えた。役人はこの次第を黒田長政に伝えて少年の始末について伺いを立てた。 すると長政は不機嫌になった様子であった。 「お前がそこまで分別のない男とは思わなんだ。私はお前を買い被っていたかな?」 「…は?」 「罰せらるのを承知で、元主人に忠節を尽くすような者を罪人として扱う としたら、それはお前の誤りである。見所のある少年ではないか」 その後、長政は少年をすぐに元服させ、要職につかせまでしたという。
487 :
人間七七四年 :2009/12/24(木) 22:52:37 ID:Pycn5hbV
>>486 重臣一同「我々の諌言こそ真の忠節なり。これだから殿は…」
まぁ、有名なところなんだが載せておく。 鮭延秀綱のちょっといい話。 最上家の御家騒動で最上家信(義俊)は「奥羽に置ける鎮守の力量無し」として 近江大森と三河の合わせて1万石に大幅に減封された。 最上義忠を当主として最上家再興を願った真室(まむろ)鮭延城主秀綱も主家改易に伴い土井家預りの身上となった。 数年後、土井利勝は秀綱に切り出した。 「太平の世とはいえ、お主ほどの剛の者を埋もれさすには忍びない。 大身で無いため、5000石程しか御用意出来ないが、家臣として仕えてはくれまいか?」 秀綱はこう答えた。 「某は亡き義光公に才を見出され、先代家親公にも最上の行く末を託された。 義俊様に節を尽くすことは出来なかったが、義光公、家親公に頂いた1万1500石、米一粒たりとも欠けては最上に対する礼儀を失う。 他家に仕えることは考えておりません。」 この後の話は「乞食大名」で検索してもらった方が早いか。
489 :
人間七七四年 :2009/12/25(金) 01:27:46 ID:WeYUHXFI
義俊の愛されなさはちょっとひどいと思う まあ本人がどうこう言うより家中の派閥争いがひどかったんだろうけど、 もめたら改易食らうとは思わなかったのかね。
490 :
人間七七四年 :2009/12/25(金) 01:50:21 ID:a+DSXneO
>>489 家親36歳で頓死の時、最上義俊わずか12歳(だったと思う)。
将軍秀忠に顔の利くバリバリの働き盛り(家親)に死なれて、海の物か山の物とも知らない子供(義俊)よりは、器量人と言われた家親の弟(義忠)に期待するなーというのも酷な話だ。
491 :
人間七七四年 :2009/12/25(金) 01:53:27 ID:a+DSXneO
追加:DQ眼竜の甥っ子も最上の改易を聞いて (●Д゚)<なにも潰すことはねえんじゃないの? ーと言っていたのも有名な話。
492 :
人間七七四年 :2009/12/25(金) 02:30:31 ID:3BKadZZq
改易時は結構な大所帯だしなぁ最上。独眼竜も最上家臣、相当な人数 引き取ったよな。
493 :
人間七七四年 :2009/12/25(金) 04:58:42 ID:bwsBCTRe
幕府の仲裁を蹴っちまったからなぁ
494 :
人間七七四年 :2009/12/25(金) 12:10:53 ID:w003/1n4
そういや乞食大名の話、まとめサイトに無いんだね。 もしかしてまだ未出だったのかな。
495 :
人間七七四年 :2009/12/25(金) 16:45:40 ID:1BMAPNo0
>>492 結構どころか松平忠輝とかを除けばたしか最上家57万石改易が改易された大名の石高トップなんじゃないかって気がする。
他の改易された大大名って
加藤家(熊本)52万石、福島家49万石、加藤家(会津)40万石、田中家32万石、堀尾家24万石
蒲生家24万石、筒井家20万石、森家18万石、生駒家17万石、中村家17万石
それに本多正純の本多家15万石ぐらいだったとおもうし。
あ、ある意味豊臣家65万石があるか・・・
496 :
人間七七四年 :2009/12/25(金) 20:19:52 ID:VtI7ZOi6
信濃国小県に、会田という土地がある。 その統治者は海野一族の会田氏ともいい、あるいは同族の岩下氏ともいう。 本城である虚空蔵山城が、武田家に屈した天文年間に誰の支配にあったかも判然としない。 武田信玄によって越後に逐われた会田小次郎幸継であるとする史書もあれば、 永禄十年に生島足島神社に奉納された信濃諸将の起請文に名を連ねる岩下幸広らともされる。 資料や系図ごとに並ぶ会田・岩下一族の名はばらばらで、 現代においても確かなことは分からない。正統争いの末に、何時しか事実が失われてしまったのだ。 戦乱の世に同族相食んで滅んだ家の、宿命のようなものといえるだろう。 その会田五ヶ郷に、近年大きな発見があった。 虚空蔵山城に程近い、平時の会田氏(或いは宗家の名跡を継いだ岩下氏)の居館たる殿村遺跡。 ここで、東日本の築城史を百年近く遡る――というより日本最古級の『石垣』が発見されたのだ。 そればかりではない。 城の遺構、特に堀のあとからは多数のかわらけ(素焼きの盃)や木製の箸が出土した。 これは領主の会田小次郎一族が、頻繁に家臣や近隣の地侍、農民を集めて その結束を高めるための親睦の宴を執り行っていたものだと推察されている。 さらに戦国時代初期の遺構であるにも関わらず、天目茶碗や茶入れといった茶器の類も多数出土した。 当時、茶道の文化圏は未だ西国や都市部にとどまるものと考えられているこの時代に、 文化圏の中心から大きく離れるこの信州の奥地に到達していた、という文化上の大発見があったのだ。
497 :
人間七七四年 :2009/12/25(金) 20:20:51 ID:VtI7ZOi6
これ以外にも、多くの文化的発見がこの一年に相次いだ。 非常に貴重な文化遺跡として、保存の話が持ち上がった。 これにゼネコンと地元政界が猛然と反発した。 そもそも今回の遺跡発掘は、この地に大きな小学校を新たに建設するためのもの。 一通りの調査が終わったなら、さっさと遺跡を壊して建設を始めさせろ。 何百年前の殿様ごとき、なんだというのだ。子供たちが地震にあったら大変だ。 未来の命を守るためなら、遺跡なんぞどうでもいいことではないか。 彼らはそう主張したのだ。 それが今年の三月のこと。 喧々諤々の議論が起こり、その間に政府がころりと転げた。 そうして半年経った十月、文化庁から役人がやってきた。 やって来た彼が出した勧告は、 「非常に地域の文化財の豊富な場所だ」 「周辺の文化財一帯を合せた将来的な町づくりについても考えていかなくてはいけない。 その点では、この地域はメニューが多い」 という二点に力点が置かれたもの――つまり、小学校建築計画の見直しを強く求めたもの。 かくして、殿村遺跡の本格的な学術調査がほぼ決まった。 記録保存のための事前調査ではなく、遺跡保存を前提とした学術調査として。 戦国の歴史に新たな1ページが書き加えられることも近いかも知れない。 そんなちょっといいお話。
498 :
人間七七四年 :2009/12/25(金) 20:49:25 ID:yV6EENhY
ちょっとしたコネがあれば辺鄙なとこでも文化人が立ち寄っていたりするんだけどね 解説員とかは、有名な大名のところにしか行かないとか思ってるんだろうなあ
499 :
人間七七四年 :2009/12/25(金) 21:13:31 ID:5X6qny4H
山口に行けばものすごい歓迎されて贅沢させてくれていたらしいから西に行く印象が強いのも無理はない
500 :
人間七七四年 :2009/12/25(金) 21:46:08 ID:eT+d0tKE
茶の文化自体、貿易との関係が深いし、西国イメージはやはり強いね でも歌に関しては、結構東国へも人が往来してるんだよな それにしても、発掘の面白さがよく分かるお話だ
501 :
人間七七四年 :2009/12/25(金) 22:35:20 ID:zj1nO1ZZ
遠江に賎しい身分の者の妻がいた。彼女は賎しくとも大変美しい人であった。 そんな美しい人だから、彼女は土地の代官に「グヘヘ、俺の女にしてやるぜ」と 狙われてしまう。そして、その悪代官は罪をでっちあげて彼女の夫を死刑にし、 彼女を無理矢理に監禁してしまった。 さて代官は「俺の女になれ」とあの手この手で彼女を責めるのだが、彼女は 決して屈しなかった。そしてある夜、彼女は三歳の娘おはちを連れて脱走し、 浜松城に逃げ込んで徳川家康に直訴したのである。家康は「よしわかった」と 彼女の訴えを受け入れ、代官を呼び出して糾弾、罪を咎めて処分した。 さて夫を失い、帰る場所のない妻であったが、なんせ大層な美人である。 家康は彼女をとても気に入り、側室にしたのであった。彼女こそ家康の側室で ただ一人、家康の死に水をとった於茶阿である。
502 :
人間七七四年 :2009/12/25(金) 22:54:33 ID:5X6qny4H
茶阿局と阿茶局 まぎらわしい
503 :
人間七七四年 :2009/12/25(金) 23:22:04 ID:lvkVEHQc
海運大手・日本郵船には、かつて徳川家の当主(徳川恒孝氏)と前田家の当主(前田利祐氏)が勤務していて、二人は同部署にいたこともあるそうな。 その時の上司は、「徳川と前田の当主を従えるなんて豊臣秀吉以来だよ」とはしゃいでいたとか。 改めて、信長・秀吉の偉大さを物語るいい?話 財務省・日銀とかでも同じ経験をした人はいそうだな。 確か財務省や世界銀行に勝海舟の子孫がいたし。
504 :
人間七七四年 :2009/12/25(金) 23:44:32 ID:VtI7ZOi6
>>503 つ東條英機陸軍大将
参謀総長/陸軍大臣兼務時代の部下に、
ボルネオ守備軍司令官前田利為大将(侯爵)と、
御三卿清水家の陸軍航空士官学校校長徳川好敏中将(日本人で初めて空飛んだ人)がいる
まあ前田中将をいじめ殺したなんて言われたりもするけど
505 :
人間七七四年 :2009/12/25(金) 23:57:52 ID:lah3g+Td
最上義治氏の絵を持ってるとか 真田幸俊准教授の生徒とか 料亭御花の常連とか 知らないで接してる人けっこういるんじゃなかろか
506 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 00:04:49 ID:DjuibA9D
507 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 00:07:11 ID:TFC2EsAr
知らないだけで、気付かずに子孫の方と接したりしてんのかもな 世の中は狭いもんじゃ
508 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 00:13:00 ID:DjuibA9D
地方の城下町には今でも、有名武将、部将の子孫の方が結構いたりする。
509 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 00:13:23 ID:/Ule6nw8
生きている人間はみんな誰かの子孫だし もしかしたら誰かの先祖になるかもしれない 偉業を成し遂げてなくても命をつないできた事自体が凄い 激動の戦国時代はそういう意味でもロマンだね
510 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 00:24:28 ID:hZMzdej0
>>494 乞食大名はあくまでフィクションなんだ。
実際の鮭延は五千石もらったのを、すべてくっついてきた家臣にわけあたえていた。
乞食大名だと家臣の家で養ってもらった、だったと思うけど逆なんだよね。
まあどっちにせよいい話だけども。家臣は彼を慕って鮭延寺を建立したという。
ちなみに鮭延は正室がすでに亡くなっていて、古河にうつってから別の女性とのあいだに
男児をもうけたけど、鮭延家は継がせずに意図的に断絶させている。
また、当初は徳川忠長家老職業五千石を幕府からオファーされていたりするのを蹴っている。
とか考慮していくと、逆にわざと改易ねらった!? という悪い話になっちまったりもするんだよな。
俗説だが、嫡男を義光に殺されたのを恨んでいたとか云々。
ただしこれは義光が、鮭延嫡男の壮大な葬式を出しているし、家臣の嫡男を殺す理由もないからガセとされているが。
真相は闇の中…。
乞食大名について書かせて頂きます。ちょいと待ってね。 人人人人人人人人人人人人人 > ゆっくりしていってね! < ∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨
512 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 00:29:48 ID:UwfFM4qj
鮭児は絶品と言われるだけに、間違えて食べちゃったのかもね
513 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 00:50:03 ID:I3DkP3RL
大名クラスだと子供作りまくってるから子孫自体はいっぱいいるでしょ ただ直系とか宗家になるとすごいなあと思うけど しかし、大名は同族で結婚しまくってるから子孫はやっぱり御先祖様に似てるのかなあと思ったりする 護煕は幽斎の肖像画そっくりだしw
秀綱が江戸神田橋土井利勝邸を宥免されて門を出たとき 垢面放髪、乞食のような集団から声が発せられた。 (´;ω;`)「殿、宥免祝着にございまする・・・」 改易の折、山形で付き従った家臣たちであった。 「おう、その方等息災でなにy・・・」 秀綱は胸がつまり、それ以上何も言えなかった。 数日後、神田川べりに乞食の掘っ立て小屋が立ち並んだ。 近くの人達は、身なりは粗末だが、人品・ふるまいは乞食とは思えず、 いかなる素性の人かみな首を捻った。 掘っ立て小屋の住人は物売りや商人、土方、物乞いなどがいたが、 頭領と見える初老の男を中心に、いつもほのぼのとした空気の中で暮らしていた。 八年後、駿台徳川中間衆がこの掘っ立て小屋の若い娘に乱暴しようとしたところ、 乞食たちが中間等を叩きのめし追い払った。 数日後、数十人の応援を得た中間たちが大挙して押し寄せると 掘っ立て小屋の中からいかつい初老の男が槍をかざして号令した。 (`・ω・´)「下郎共を叩き伏せよ!」 その号令で乞食たちが数に勝る中間に殴りかかった。 (`・ω・´)「鮭延越前勢の戦振りをひよっこ共に思い知らせてやれ!」 なにしろ長谷堂で直江兼続を押し返した猛将の戦い振りに中間達はさんざん痛められ逃げ去って行った。 この騒動の後、剛勇鮭こと秀綱とその旧家臣たちの忠義一徹ぶりが江戸の噂となり、「武士の鏡」としての秀綱にオファーが各大名より掛かるが (`・ω・´)「某は最上の臣にて。あしからずお引取りください」 とそれらの使者に対する秀綱の返答は決まっていた。
515 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 01:12:26 ID:qXPbFcLf
いい悪い話スレの投下でコテとかいらんから
秀綱編・乞食大名ファイナル? しかしこうしてる間にも秀綱も家臣たちも老いた。 時は非情である。 中間どもの襲撃の翌年、人足働きをしていた 下濃(すそご)又兵衛の三男が土木作業中に土砂崩れで圧死した。 その夜掘っ立て小屋に変わり果てた遺体が運ばれてくると秀綱は 草地に伏し、頭髪を掻き毟り号泣した。 (´;ω;`)「ワシのつまらん意地で 有望な若人を死に追いやってしまった・・・」 翌朝秀綱は土井利勝邸の門を叩き 「これまでたびたびのお勧めをいただきながら、 その都度辞退申し上げ、真に失礼仕りました。 今となっては心苦しきことなれど、先行きわからぬ老骨で どれだけの奉公が勤まるかはわかりませぬが、 この老骨を土井家に飼うて頂けるよう、 かくは参上つかまった次第でござる。」 と言うと一礼した。 利勝は以前からの家禄の5000石で秀綱を家臣に迎えた。 土井家分限帳では トップ土井内蔵10000石 次席寺田與右衛門6000石。 客分秀綱の大切にされた様が良くわかる。 ところで秀綱は利勝に願い出、この5000石を 山形以来の家臣20名に分け与え、自分は一文も受け取らず、 家臣の家々を居候しながらその生を終えたと言われる。 鮭延寺(けいえんじ)文書に 「14人の家臣に当分に知行を与え」といった表記があるため 最初20人いた家臣も流浪の生活中他界し 14人に減ったとも受け止められる。 海音寺小説の「乞食大名」により上記が有名になったが 実際は5000石の知行を貰った後は300石と屋敷を除き、 家臣に残りの180−190石をほぼ等分に分配し、 最上義光宜しく「友達君主」としての生を全うしたらしい。 あ、鮭延寺(茨城県猿島郡総和町大堤)は 旧家臣が秀綱が正保3年(1646)に死んだとき、 主君土井利隆に頼んで鮭延屋敷跡に菩提を弔う一寺を建立した その「寺号」だお。 だが、もうちっとだけ続くんじゃ
517 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 01:54:30 ID:vh6o6LDx
もう一人の乞食大名「北楯大学利長」 「乞食大名」というと「鮭延越前秀綱」の名前を上げれる方が多いと思いますが こちらの方も立派の乞食大名かと。 北楯利長・・・最上義光の命により、庄内平野の治水に努め 「庄内の石高を10倍にした男」と評され、義光からは綿帽子をもらい、 自身も義光に鮭をあげるツーカーの仲として知られた。 だが元和8年(1622年)最上氏が改易されると、利長も所領を失い、 庄内に入封した新領主・酒井忠勝からの召し出しを断り 代わりに子の助次郎を薦め、自らは托鉢僧となり俗世に別れを告げた。
518 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 02:00:05 ID:gjGr7Lvx
深夜とはいえ休日前夜から一時間スレを占領とは迷惑な。 厳しく注文をつけるような固いスレではないとはいえ、「投下分はメモ帳にまとめてから 一気に投下する」もしくは「一レスで独立して読めるようにした上で『独立したレスなので 間で他の逸話やそれに対するレスをしてもらってかまいません』と一言添える」くらいの ことは要求してもいいだろうと思うがどうなのよ。
519 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 02:07:54 ID:vh6o6LDx
520 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 02:16:01 ID:DjuibA9D
いや、面白い逸話だった。ありがとう。
521 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 02:16:14 ID:JNqGGE5Y
>>518 投下してくれてる人に文句を言うのもどうかと思うよ
自治するのも程々にして「自治してしまってすいません」ぐらいの一言添えろよ
522 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 07:40:22 ID:YgZVF6Aq
>>519 面白かったですよ。
こういう落ちぶれても気概のある男たちの話は好きだ。
523 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 09:09:56 ID:9/9LnqbC
>>504 ヒデキ直属の部下には甘粕景継の子孫もいたな。
甘粕事件の甘粕正彦憲兵大尉。
524 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 09:27:46 ID:/cWkobTg
東京の水天宮の宮司は、久留米藩有馬氏の直系子孫。 その宮司の祖父さんは、有馬記念の創始者。
525 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 09:39:09 ID:WTULfA1b
大陸に渡ったDQ眼竜の子孫w
526 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 10:46:21 ID:kc0sJDVg
慶長4年(1599)、南部信直は福岡(現在の岩手県二戸市)で息を引き取った。 その葬儀を行っていたところ、突然風がゴウゴウと吹き出し、 砂塵を巻き上げながら黒い雲が下りてきて、殿様の棺が空中に舞い上がってしまった。 辺りは真っ暗で、天地も見えない。 「これは祟りか、鬼の仕業か!?」一門家臣は驚き慌てた。 僧侶たちが必死に読経をするものの、一向に変化はない。 家臣団は近所の神社から神主まで引っ張ってきて加持祈祷をさせたが、 棺はプカプカと空中に浮かんだままである。 そこで一人の若い和尚が呼ばれた。 和尚が数珠を繰り念仏を唱えると、たちまち風雲は収まり、殿様の棺が静かに 地面に下りてきたので、葬儀は無事終わらせることができた。 信直の子・利直は和尚に深く感謝し、和尚に引き出物をたくさん持たせ、寺領も30石与えた。 和尚が家に帰ると、和尚の帰りを寺で待っていた母が不思議な夢の話を始めた。 これより少し前のある夜、母の夢枕に和尚が子供の頃から可愛がっていた 30歳にはなろうかという老猫が現れ、こう話したという。 「今までずいぶんお世話になりました。 私もようやく御恩に報いることができる機会に恵まれました。 和尚様は出世なさるでしょうが、私はもう寿命もないので、これにてお暇をいただきます。」 その日からトラは寺から姿を消した。 和尚は、一連のことは全てこのぬこのおかげであろうと思い、 寺の鬼門にあたる森の中に猫塚を築き、その霊を崇めた。 浄法寺町のインター近くの福蔵寺というお寺には本当に猫塚というものがあるらしい。 殿様の葬式が庄屋の娘の葬式になったりと、いろんなバージョンの話が伝えられているようだ。 個人的には北爺が腰を抜かしてないか心配になった。
527 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 10:51:30 ID:kc0sJDVg
スマン、トラってのはぬこの名前な。
528 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 11:27:49 ID:iCsmT+VD
南部信直「おのれ妖猫め、ワシをダシに使いおったな!」 いやまあ、それは冗談として、世話になった礼を返した義理堅い猫ですなあ。
529 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 11:39:09 ID:gdwMsE/T
それ 大店だか庄屋だかの娘のバージョンがあるね 昔、まんが日本昔話でやってたよ どっちが古いのかなあ
530 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 11:40:49 ID:gdwMsE/T
ゴメン 最後まで読んでなかった
531 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 13:36:51 ID:T2t0Wtig
九戸政実の祟りだな
532 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 14:53:14 ID:bhb+Lec1
戦国の遺品がなんでそんなところにという話 福岡藩黒田家の筆頭家老栗山大膳は、藩主忠之をいさめたが聞き入れられず、いわゆる 「黒田騒動」が起きるにいたった。 幕府による裁定で、とりあえず福岡藩は安堵されたが、大膳は盛岡藩南部家預かりとなって 生涯を終えることとなった。 大膳の父は如水の右腕というべき重臣だったので、如水愛用の「合子形兜」を拝領していた。 これは漆塗りのお椀型の兜で、鉢かぶり姫みたいな代物である。 忠之がこれを自分に寄こせと言ったのも、いさかいの原因の一つであった。 栗山家はその後盛岡藩に仕え、更に後、兜を藩主に献上した。 そういう訳で、何の関係もない南部家に、如水の兜が伝わっている。 結局福岡藩には、忠之が作らせた複製品しか伝わっていない。しかも現物の寸法を確認して 制作できなかったので、一部違っている。 山形県の新庄藩戸沢家では、縁戚の鳥居家から定盛(鳥居忠政の次男)を婿養子に取ったが、 早世したので跡は継げなかった。 婿入りの時に持ってきた家宝はそのまま戸沢家のものとなったが、それが武田信玄愛用の 「諏訪法性兜」だった。鳥居氏が甲州を所領とした時期に、旧武田家臣から献上されたもの と伝えられる。 その後は戸沢氏の家宝となったが、戊辰戦争で新庄藩は、隣の庄内藩酒井家の大軍に城下を 焼き払われ、藩主一家は着の身着のままで逃げだすこととなった。 そういう理由もあって、消息不明である。 なお、「諏訪法性兜」と伝えられるものは複数ある。
533 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 15:03:56 ID:I3DkP3RL
黒田忠之、加藤忠広、加藤明成で何かユニットが組めそう
534 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 16:41:34 ID:rojAa77F
前田綱紀と伊達綱宗が何か言いたそうにみてます
535 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 19:37:11 ID:Tyal8fin
伊達忠宗と細川忠利と島津光久もユニットが組めそう
536 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 21:13:35 ID:qqWs6Wu+
>>516 亀レスかつ蛇足だが、
鮭延寺のある旧・猿島(さしま)郡総和町は
町村合併によって現在は古河市になっているよ。
537 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 23:23:29 ID:Y+fC/vMW
鮭・・・つか山形関係のネタはいらん
538 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 23:29:55 ID:X2DHRPgS
出た
539 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 23:51:41 ID:tlbeq9dD
いや、俺も最上ネタうぜーと思う。 一時期続いたなんでもかんでも義光マンセーでライバル卑下のスレを見てからそう思う。
540 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 23:53:46 ID:DjuibA9D
わざわざID変えて工作しなくてもいいから
541 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 23:54:21 ID:YVYn2mlP
既出ネタ繰り返してるわけじゃないんだし、別にいいんじゃね?
542 :
人間七七四年 :2009/12/26(土) 23:55:54 ID:vmxHt0qz
>>539 誰だよお前w
お前の事情なんて知らんわ
543 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 00:03:29 ID:El9ZbnSS
こうやって荒らし釣られてレスする奴がいる限り、荒らしは辞めないだろうな
544 :
539 :2009/12/27(日) 00:04:46 ID:ouyk2Cnc
一言同意しただけでこれだけ必死に最上擁護か。 あんたら必死だなwww
545 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 00:08:51 ID:MLGNuEb8
有名な話ではありますが。 武勇を以て知られる吉川元春ですが、実は教養人としても有名で、尼子家・月山富田城を攻めているときには太平記を書写しているなど、文学への関心も深かったそうです。 吾妻鏡(吉川本)が彼の下に巡ってきたのも、彼の文学愛好の故なのでしょうか。 父親にせがんだのかもしれません。 本当に元就の子どもたちは優秀だわ。
546 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 00:11:15 ID:SlaT5LUP
そのうえ無駄にイケメン率が高い
547 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 00:15:16 ID:JZNNyjy/
そういや広島カープの小早川もイケメンだったな
548 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 00:28:47 ID:/EaaLi9F
駒姫と怖いものがくる話 注)伝承ですので実際の歴史的事件とは関係がない場合がございます。 戦国時代の末期頃に山間の田舎大名に それは美しい珠の様な姫君がおわしたそうな。 父親は荒くれ者の土豪の出身であったが、、 この娘をいたく大事に育てていた。 娘が8歳の夏に真夜中に起きてきて父親の布団の中に潜り込み 「こわいものが来る」と泣く事を止めなかった。 連日に渡り娘が夢に怯え衰弱すると 父親の大名は腹心の飯田播磨と大和田典膳を呼び話を始めた。 (´・ω・`)「お駒が夢に怯えるんだが、ワシの殺生がまずいのか?」 播磨が答えた。 「殿は寺社仏閣をたいそう大事にされておられる。 妖がそれを妬み姫の夢に出てくるのでは?」 典膳がそれに続けた。 「ならば悪夢を食べる獏の絵をこの城の中に置いてみては如何でしょう?」 数日後、獏の絵が出来てからは姫は悪夢を再び見ることはなく 快方に向かったという。 専称寺に残る獏の絵がそれと同じものかはわからんが。 とっぴんぱらりのぷー
549 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 00:34:09 ID:TNRgw1Fz
濃姫様のお話ありませんか?
550 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 00:34:52 ID:YXPusJJ+
>>548 >娘が8歳の夏に真夜中に起きてきて父親の布団の中に潜り込み
なん……だと!!
551 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 00:41:29 ID:tJDBUQTJ
552 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 00:47:23 ID:fRxX7qlH
>>551 娘の悪夢が治ったいい話だし、
娘がかわいい話だし、
獏の食欲がいい話じゃないか?
553 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 00:57:43 ID:h8gvQDPs
よかった…悪夢の子供はいないんだ…
554 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 01:17:20 ID:ZTa+BFFg
>>548 みんなわかっててあえて突っ込まないと思うが
「駒姫」「飯田播磨」「専称寺」ときたら
最上義光の娘を思ういい話
だろ?
ついでに「大和田」「獏」
>>550 だめ、パパ!ママが帰ってくる!
ーまで読んだ。
555 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 01:19:33 ID:yaI6fd1r
鮭いらね!
556 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 01:27:38 ID:ZTa+BFFg
>>555 世の中には鮭を食べたくても食べられない人がいたりしてだな・・・(クドクド)
557 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 01:30:05 ID:ke8lbluz
正直鮭は塩鮭にしないとうまくないと思うんだ
558 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 01:30:35 ID:QD8xndPE
うむ、口がひん曲がるほど塩辛い鮭で 炊きたての飯が食いたくなったではないか 最近あんまりないよね、焼くと塩が浮き上がるくらいの奴・・・
559 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 01:32:27 ID:El9ZbnSS
何この流れ
560 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 01:34:47 ID:ZTa+BFFg
561 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 01:37:39 ID:ZTa+BFFg
秀次「夢と違う!!」 駒姫「!!!!!」 なんだ、ただの都市伝説か。
562 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 01:43:21 ID:QvKxRh7H
とっぴんぱらりのぷー って小森だよな
563 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 01:59:53 ID:QD8xndPE
>559 塩鮭が駄目なら塩鰤の話を一つ 富山県氷見市と言えば寒ブリで有名なところ ここにある書状が残されているそうな 「良い鰤があったら塩鰤にして京都へ送ってちょーだい」という内容の書状の送り主は そう、前田利家(実際には命令を中継した家老が出しているのだが 年取り魚として正月に欠かせないとされた鰤を お歳暮としてラスボスに贈っていたのである
564 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 03:20:14 ID:Mpj8RqVb
犬っころは貢物とか如才ないよなぁ・・・
565 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 08:32:58 ID:+E1ZKakE
昔は「花の慶次」での利家の描かれ方が酷いなあと思ったけど 最近はあれで充分だと思うようになってきた
566 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 08:38:15 ID:ehZGeS3v
ラスボスが貢ぎ物・贈り物の天才だから元親友もそうなったんだろうな
567 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 08:51:16 ID:uW8A9YWW
鮭から慶次へ… この流れ 花の鮭児への前ふりなのか
568 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 11:07:55 ID:ieiBMGUo
だれうま
569 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 13:16:22 ID:8NXLjS1Z
貘「(熱々ご飯に塩のきいた鮭の悪夢で飯が旨い!メシウマ!)」
570 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 14:40:22 ID:OWXBB29b
571 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 15:11:15 ID:OWXBB29b
鮭様と身嗜みの心得 最上義光と坂紀伊守とのやり取り 秀吉の天下が決まり京都で観兵式がとり行われる事となった。 手紙でのやりとりなので判り易くまとめてみる。 坂「天皇を交えての観兵式との事ですが、軍装はどのようになさいますか?」 (´・ω・`)「全軍一統するか、各将の持ち味を出させるか…」 坂「伊達勢は黒で一統するようです。我らも旗指しは丸に二引きで一統しますか?」 (´・ω・`)「猿マネ言われるの癪だから、丸にニ引きは軍が判る程度に固めて、 諸将の旗も用意させんと、部下たちが不平を言うだろう?」 坂「鎧は統一しないのですか?」 (´・ω・`)「各将好みはあるだろうし、みすぼらしい者には金を惜しまず好みの武具を用意させよ」 坂「まとまりがなく、奇異に見えるのでは?」 (`・ω・´)「戦は個々の者が指揮の下に働き功名を立てるもの。一統したのでは 個々の面白みを無くす事になる。 味方だとさえわかれば身分以上の武具を着ていても、 それに見合う功名を立てれば問題はなかろう。 金は惜しむな。返せぬ者がいるなら義光の名でくれてやれ」 普段は質素を心掛けていても「金の使い方」を知っていた鮭様の良い話。
572 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 16:06:31 ID:SmoZxO9k
サーモンピンクに統一すりゃよかったのに それか銀魚鱗小札の具足 鮭備の最上軍
573 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 16:35:01 ID:OWXBB29b
井伊の赤備え 伊達の黒備え 最上の鮭備え そんな最上軍やだ(´・ω・`)
574 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 16:39:53 ID:eoyz/Tm/
最上の鮭備えワロタwwww
575 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 16:44:38 ID:QD8xndPE
>572 なんか鎧の小札が鮭とばで出来てそうで生臭そうな感じがw>鮭備え
576 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 16:45:05 ID:ZfIbvFk7
577 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 17:08:34 ID:BzWH+HOH
>>571 都で恥をかかないように無理しようとしてるようにも見えるな
坂紀伊はもろに伊達への対抗心出してるし・・
578 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 17:43:45 ID:h8gvQDPs
ふと鮭をくわえた義光公の置物が頭にうかんだ
579 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 17:46:50 ID:XP3uER7I
俺なんて兜に替わりに鮭のかぶりものをまとった義光公が頭に浮かんだよ。
580 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 17:55:49 ID:JZNNyjy/
熊ならともかく、鮭くわえた狐は想像できん
581 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 18:15:26 ID:iLG5qSFw
鮭は捨てる所が無いと言われるだけに アイヌ人は鮭皮の靴を履き、鮭骨の矢尻を使ったらしいんで 鮭皮の鎧があったとしてもおかしくない。 鮭骨の穂の槍を武器に、新巻鮭の立物の兜で最上の鮭備えになるだろう。
582 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 18:39:38 ID:h8gvQDPs
もがみだけにさいじょうということで…
583 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 18:50:33 ID:CwCN/d+I
その時の絵を描かせたが為に400年経ってもうんこ漏らした言われ続けるのと 鮭おいしかったよ!って手紙が残ってるがために400年経っても鮭大好き言われ続けるのって どっちがマシだろう
584 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 19:04:15 ID:W1PGHEo+
世の中には世紀末ヒャッハーな人生送っときながら遺言に「弟に跡継がせないで」 と書いたばっかりに「ホントは武士がイヤだったんだカワイソス」 という評価を得てる人がいてだな…
585 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 19:55:41 ID:+Z1C/1G0
586 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 21:02:49 ID:cRq6D4We
やめろやめろという人は 鮭なり最上なりをNGワードにぶち込んで 黙ってスルーしてくれんかね。 どんな武将の話でも知らない話は面白いと わくわくしてる戦国初心者の楽しみをジャマしないでくれんかね。
587 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 21:14:58 ID:RC1zTLxe
鮭雑談は総スルーしてるくせに 逸話だけケチつけるあたりプロだな 第一級最上逸話判定士だろう
588 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 21:35:43 ID:LG8sM1q0
スルースキルくらい身に付けなさいよ。
589 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 21:38:53 ID:G8WTCa5z
>504 17代様を二等兵とか近衛の若御所も二等兵・・やりたい放題でつな。
590 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 22:12:54 ID:UypUxJhF
591 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 22:22:27 ID:lSJLT3Xd
>>590 これって、以前このスレで手紙が見つかったとか言ってたのと関係あるのか?
592 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 22:27:38 ID:Si+Qs6ke
それって勝頼じゃなかったっけ?
593 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 22:32:34 ID:/KPmhCmy
そういやあの話続報聞かないな どうなったんだろう?
594 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 23:02:39 ID:u15THjwd
>>580 ごんぎつねが何かを言いたそうに鮭を咥えています
>>583 鮭v( ̄Д ̄)vうまーの方がマシだろ
595 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 23:10:49 ID:h8gvQDPs
焼酎おくれって手紙出したばっかりにアル中扱い(ry
596 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 23:39:41 ID:8YjdlOpg
(●Д゚)「だから手紙は読んだら燃やしてね」
597 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 23:56:19 ID:LG8sM1q0
598 :
人間七七四年 :2009/12/27(日) 23:57:49 ID:rtoJcUub
最上ネタがウザ過ぎて吐き気がする
599 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 00:02:06 ID:g+0XgXl5
600 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 00:11:18 ID:AHuxj+lS
>591 あれは山形だったでしょ 報告しにくるといったあとに、このスレでやるなとか叩かれていたから嫌になったのかも upされた書状を俺は見ることができなかったので、いまだに釣り?とか思ってたりするけど
601 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 00:12:32 ID:3qLfAGxb
602 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 00:14:41 ID:KTHXSiPi
手紙でふと思ったんだが、句読点っていつ頃から使うようになったんかね? やっぱ明治以降かな?
603 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 00:25:51 ID:LnL1OOKg
604 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 00:27:22 ID:3TovJypq
河北文書に面白い内容があったので挙げておく 最上四天王 とある戦での名乗り 《゚Д゚》「某、最上四天王が第一、楯岡光茂!」 (・∀・)「同じく最上四天王、知恵伊豆こと志村光安!」 (`Д´)「最上四天王、同じく剛勇無双!延沢満延!」 (〃`Д´)「同じく最上四天王、槍の鮭延越前!」 ミ゚Д゚彡「最上四天王、同じく中代比興里見民部!」 どこがおかしいかは判断は任せる。
605 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 00:29:12 ID:/ppUMlL5
5……人……? 竜造寺じゃないんだからさ……
606 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 00:30:35 ID:kSL+Ftgu
お前らもかw
607 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 00:30:59 ID:pdElsfMA
昔の人も受け狙いのネタでやってたのかね
608 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 00:37:31 ID:SfDB7iEt
一人はザシキワラシである
609 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 00:38:02 ID:HfK8FNJU
この世には三種類の人間がいるでござる・・・ 数を数えられる者と、数えられ無い者にて候!
610 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 00:47:58 ID:rhODrmbe
延沢満延「1、2、たくさん・・・」 志村光安「延沢殿・・・(汗」 誘導 www.noukin.com
611 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 00:52:57 ID:8ml9UIRG
後藤勝基の妻 天正七年4月上旬、宇喜多直家は重臣花房助兵衛・延原弾正に 娘婿で浦上宗景の重臣である後藤勝基が篭る三星城を攻撃させた。 しかし勝基はよく奮戦したため寄せ手は攻めあぐね、一旦兵を引いた。 その後援軍として到着した宇喜多詮家を交え軍議を開き、 城内の様子を知るために長光寺の僧を招き話を聞いた。 その僧は 「城内には安東相馬・難波利介・柳澤太郎兵衛という勇士がございます。 彼らがいる限り城は落ちないでしょう。もし計略をもって彼らを寝返らせることができたら、 落城すること間違いありませぬ。」 と進言した。 そこでその僧に頼み、この三人に内応すれば恩賞望みに任すとの旨を伝えさえたが 安東は納得したが他二名は納得しなかった。 それから四〜五日が経ち、人々も安東の変心を察したのか、何となく城中は騒ぎ立ち、 疑心暗鬼となり、結束が弱まってしまった。 勝基は妻を招き 「近頃城内の気風は変わり、士卒の心は和合せず互いに疑心を深めている。 これでは到底篭城を続けることは出来ぬ。余が自害し、城内の者の命を助け城を明け渡そうと思う。」 と語った。 妻はそれを聞き勝基を諌めてこう言った。 「貴方の御覚悟は決死て時宜を得たものとは損じませぬ。 誠に無益の御自害と申せましょう。この期に及び敵に寝返るような武将は尋問して確かめ、 罪状明らかならばこれを殺し、士卒の心を静めたならば篭城を続けること何で困難でありましょう。 ここは私にお任せくださいませ。」 そしてその晩のこと、奥方は頭分の侍に料理を振舞うと称し 安東・難波・柳澤及び長光寺の僧を呼び広間で料理を出し、囲碁等をしているところに 侍女が菓子を持ってきて 「奥方様よりの下されものでございます。」 と安東に渡した。 安東が座を退き、菓子を頂戴しているとき勝基の妻が物陰より 急に現れ、一刀のもとに安東の首を打ち落とした。 しかしこの事を誰にも漏らさず、密かに隠していたので、城内でこの事を知る者は誰一人いなかった。 そして翌朝 大手門外に安東の首が晒されていた。 これを見た敵方に内応をしようとしていた者や変心した者は震え上がり、決心を翻した。 そしてまた心をひとつにした城方は宇喜多の大軍を相手に奮戦したという。 流石宇喜多直家の娘といった感じでしょうか。
612 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 00:57:03 ID:P0woocDz
戦国時代は数字の四と五の順番が入れ替わってたんじゃなかろうかと思えてくる
613 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 01:06:46 ID:pdElsfMA
>>611 でも結局落城して後藤勝基も妻も自害しちゃったんだよな
614 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 01:09:21 ID:rhODrmbe
最上四十八楯がどう数えても60近くあるんだが・・・
615 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 02:01:36 ID:0XH6tn5V
人数が多いのは討死にした時の控えなんだろ 「四天王の一人ががやられて三人になりました!」ってよりは 「四天王の一人がやられてやっと四天王が揃いました!」って方が味方の士気も下がらんし敵も勢いづかないはず むしろ雨降って地固まるようなスッキリ効果が期待できる
616 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 02:02:54 ID:sLdB8umI
武田二十四将も35人いるけどな
617 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 02:15:43 ID:rhODrmbe
最上の話は置いておいて 小山家「腹切り左右衛門」 小山秀綱の家臣に「腹切り左右衛門」と呼ばれる男がいた。 戦場では敵の胴を鎧の上から横断し、 刀に刃こぼれを残さない剣の名人と称されていた。 戦後の鮭の席で同僚の藤岡山城が左右衛門に聞いた。 藤岡「お主、なぜわざわざ敵の胴を斬って倒すのだ?もっと戦いやすい方法もあるだろうに?」 左右衛門は周りを見回しこっそり藤岡に耳打ちした。 「この戦い方に慣れ過ぎて、他の戦い方(斬り方)が出来んのよ」 剣の名人と思われていても、本人には別の悩みがある典型的なお話。
618 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 04:26:18 ID:S8+wGYkn
とりあえずツッこんでおく >戦後の鮭の席
619 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 05:40:19 ID:pJPuuJVl
620 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 05:50:11 ID:/VtalsW3
富永山随の最期はまとめの逃亡中に鶏の鳴き声で見つかって討ち取られた話が有名だがこんな話もある
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-610.html 丸山城が落城し、陸には鶏がいて危ないので船を漕ぎだし逃亡、伊豆半島を廻航し下田に逃げ込もうとした。
しかし、下田も既に豊臣方の大船団に包囲されており、恐らく小田原も同じであろうと、よもや逃げ場なしと悟った。
富永山随とその手勢は下田を包囲する船団の間を素知らぬ顔で通り抜け、小田原を目指した。
その後、小田原沖を包囲する豊臣方船団に何か騒ぎが起こったのが小田原城から確認された。
城からはそれ以上の事は確認できなかったが、何者かが豊臣船団に殴り込んだらしい。
やがて騒ぎは収まり、数刻後、何者かの死体が小田原の浜に打ち上げられた。
小田原まで落ち伸びる事が出来た富永残党により、それは富永山随の死体であると確認された。
富永さんは一体どうやって亡くなったんだろう?
621 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 07:30:36 ID:QHjK3z9F
また荒れてる…だから未然防止で鮭ネタ禁止となぜ
>>1 は書いておかなかったのだアホが。
鮭ネタ専用スレがあるじゃないか誘導する知恵もないバカ
>>1
622 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 07:40:18 ID:8Ot25ZLZ
今年最後の月曜日、出勤のみなさんご苦労様。 鍋島直茂の家老、鍋島安芸守茂賢は、主君に用があって御座所へ向かったが、直茂は あいにく不在だった。誰に聞いても行方を知らないというので城中くまなく探した所、 外堀に面した隅櫓に登っているのを見つけた。 「殿、こちらでしたか。なぜ、このような所に来られたのです?」 「ここは、佐賀の街が良く見える。ここ二、三日、わが国の風俗を眺めておったのじゃ。 人通りを見ていて、感じた事があったのでな。・・・嘆かわしい事に、この肥前国の侍どもは 弱くなり始めておる。」 「ほほぅ!それはまた、どういう訳でございましょう?」 「家老たるその方も、良く心得ておけ。ここで街を往来する者を見ると、大抵が伏し目がちに 地を見ながら通る者ばかりよ。 これは、佐賀者の気質がおとなしくなったからじゃ。勇み足を踏む位の気持ちでなければ、 槍も突けぬものだがな。 忠義も良いが、律儀に正直に、などと考えてばかりで心が固まっていては、功も立てられん。 時にはハッタリの一つもかまし、胸を張り背を反らす気構えこそ、武士に必要な事よ。」 これを聞いた茂賢はホラ吹きとして知られるようになったが、名家老としても名を残した。 お仕事中・出勤中の諸君、上を向いて歩いてるかい?地べた見てタメ息ついてないかい? 直茂公に笑われるぞ?!
623 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 08:43:10 ID:HeOkibIU
了解!上を向いて通勤中。 痴漢に間違われない様に両手はいつも上向きなのだが、顔も上げねばな。
624 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 09:12:38 ID:AHuxj+lS
息子も上を向いとるぞ
625 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 10:05:03 ID:LnL1OOKg
出てなかったと思うんだけど重複だったらすまん ある時まーくん側近へ語るに (●д゚)<最近は若いもんのみならずいい年こいた爺まで変な髪型したり 袴ずり下げて引きずって歩いたり刀も脇差程度しか満足に差しやがらねえでもっそり歩きやがる 流行りなの?馬鹿なの?死ぬの? 若者文化にはしゃぐとかないわ、爺は爺の威厳ってもんがあるだろうが いいか、立派な武士ってのはきちんと髪を結い、大小を差して、 袴の帯はすっきり上げてはき、身分があるなら歩かず馬に乗るもんだ いくら流行りだからって、「さすが田舎者だせぇプッ」とか陰口叩かれても お前らはこんなみっともないことするんじゃねえぞ、いいな! 政宗卿御名語集より 語り口からして爺になってからかな? 意外に保守的な爺だったようです
626 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 10:24:05 ID:/T4Gr/V6
>>624 さすが当代きっての槍弾正殿ですな
栗栖益の初陣に功名を立てられず涙を流した某も御高名にあやかり
槍を扱いて次ぎの夜戦(大晦日)に備えなければ!
627 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 11:00:02 ID:3qLfAGxb
>>610 そんな延沢殿も銀山経営でひとやまあてるなぞ、そうそうバカでもないはずでござるよ(汗)
>>617 あれはただのゴロあわせらしいし…
628 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 11:45:24 ID:kdHC3kDJ
>>625 長袴と殿中差のことかとも思うが
袴の帯ずり下げて履くってのは今でいう腰パンみたいなものだったのかな?
ということは見せフンとか流行ったんだろうか
629 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 12:02:57 ID:ODcq0ctN
>>611 さすがに富田信高夫人の従姉妹だけあるなw
(富田信高夫人、関ヶ原戦役で富田信高が敵の武者に組み敷かれて討ち取られかけた時、
突如あらわれて、相手武者を討ち取り、富田信高を救出)
630 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 13:00:21 ID:OatrQoAP
乗り遅れてしまったが、今来て最上の鮭備えワロタw 魚鱗の陣が得意戦法だったのだろうなぁ。。。
631 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 13:05:50 ID:ODcq0ctN
前田家だったかと思うのだが、ナマズの兜を被っていた武士が居たらしいから、(前立てがナマズのヒゲ) 鮭の兜があっても不思議ではないと思うのだが
632 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 13:13:37 ID:XvFNtzYV
633 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 13:18:00 ID:ncelOEYF
>>625 この時代だと地域間の情報格差もあるだろうし、田舎者は無理して流行りを追うより
田舎武者は古風できちんとしているというブランドを確立した方が結局かっこいい
という美意識かもしれんよね
634 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 13:19:19 ID:ODcq0ctN
>>632 尾の方ではなく、頭の方の兜があったと思う。
真田丸の空堀に飛び込んで伏せていると、「ナマズのヒゲが震えている」と笑われて
怒って飛びかかろうとすると鉄砲で狙撃されて、犠牲者が続出した話。
635 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 13:38:17 ID:C1edwapH
>>633 上杉さんちの本庄さんだか水原さんだかが
確か古くさい服着てきたら
「さっすが上杉さんちだぜ古風でまじかっけえ!」と
なんか褒められたという話があったような。
636 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 13:56:55 ID:kzXSVyby
>>614 最上は家臣の所領と伝えられるものを合計すると、総石高以上になるしね。
637 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 15:13:40 ID:9dIxRQTp
毛虫・百足・兎の前立ては 「後ろには引かない」という気構えの喩えだそうだが 鯰は何を意味しているんだろう?
638 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 15:27:39 ID:b/9wzgk1
〜(゜◎゜)〜<地面揺らすほど暴れてやるぜー
639 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 15:30:15 ID:TiiR/Q1w
640 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 15:34:33 ID:2RbJEqsJ
641 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 15:47:38 ID:8DnLaP79
>>617 一つの分野に特化しすぎると転職しづらくなるよね…と
>>625 秋田佐竹の梅津日記にも
最近下郎から上役までヤンキーみたいなかっこして困るわぁ
みたいな記事があったような気がする
幕府が風俗規制に乗り出す理由はあったってことかね
642 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 16:02:44 ID:3QO/1iQD
>>635 水原常陸だったと思う>まじかっけえ
長年愛用した鎧はもうボロボロ、鎧の上に能衣装を羽織って大阪に出陣
それを見た家康が「見よ、あの者は錦の直垂を付けておる。」
さらに水原を本陣に呼んで「それはどのような由来のものか?」
これに水原は「どのような由来のものか定かではありません」」と回答
家康は「由来がわからぬほど古いのか。さすがは上杉、古雅なことだ。」
643 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 16:07:25 ID:0XH6tn5V
>>617 黒田にもそんな人いたよな
確か左のコテで刀を受け止めて右の刀で突き刺すだけの
644 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 17:44:13 ID:GkRmvp4o
645 :
人間七七四年 :2009/12/28(月) 21:46:43 ID:XcvO58yT
>>625 それと同じ調子で小姓頭に手紙も出してるね。
最近小姓どもが変な髪形してるけど、
あれって誰得?何処がいいの?
それぞれ配下の小姓どもから聞きだして、
五日以内に報告上げろ。
みたいな感じの。
変な髪形=きっちりひっつめない、ゆったりとした髪型(ふくろがみ)らしいけど
長い袴を履いて裾跳ね上げて歩く様子とか、
江戸初期に流行ったらしくて、絵とかにも残ってる。
政宗的には「皆この髪型にしてるけど、これ捕まれたらどうにもできなくて
ねじ伏せられちゃうだろ!」とか言ってるので、
武士としての嗜みの観点からも嫌ってたみたいね。
646 :
人間七七四年 :2009/12/29(火) 00:02:49 ID:1N56/n7/
大内義興が出雲の尼子氏のもとに向かっていたときのこと 求菩提山で戦勝祈願していた坂口坊頼尊が夢のお告げを聞いて 山中を調べたところ銅板法華経を発見する。 それは1142年に求菩提山の頼厳が埋めたものだった。 これは現在では国宝になっている。 そのような貴重なものを求菩提山は惜しげもなく義興に差し友好関係を維持しようと必死になるほど 当時の大内氏の勢いはすごかった。
647 :
人間七七四年 :2009/12/29(火) 00:25:55 ID:RhomdJ5B
648 :
人間七七四年 :2009/12/29(火) 01:37:39 ID:ajxa05M1
>>625 おしゃれ大好きな政宗は
若い頃から色々な服装を試して、ついには
きちんとした格好をすることが一番おしゃれなんだという境地に達した
ということじゃなかろうか。
649 :
人間七七四年 :2009/12/29(火) 04:01:33 ID:aaJMMkAq
part5にも概要がありましたが、葉隠の鍋島直茂ネタ。 船が大嫌いな鍋島直茂。船の匂いも磯の香りも大嫌い。 そんな直茂が上方から佐賀に帰る船旅のお話。 当初順風だったが、海はやがて大荒れとなり、船の舵まで壊れて荒天の中を漂流する始末。 もう現在地がどこかも分からない。 かなりヤバイ状況だったようで、家臣の藤島生益は直茂を船室から連れ出すと、直茂を船の欄干に掴まらせ、 お付きの持永助左衛門にも直茂をだき止める形で欄干に取り付かせた。 生益「いいですか、絶対に手をはなさないように」 揺れる船の中、そのうち直茂が吐き、助左衛門が吐き、二人してゲロまみれ、見るも無残な状況に・・・。 「いやー、「兎の子取ろ」(←子供の遊びらしい)のようですな、はっはっは。」 と軽口を叩く生益。二人はきっと笑えなかったに違いない。 しばらくして少し波風も弱まったころ、僚船が近くを通り過ぎていくのが見えた直茂、 大声でこっちに来いと叫ぶが、僚船は素通り。 直茂「ムキーーーッ!港についたらあいつは切腹!氏ね!」 生益「いやいや、この天候じゃ寄せるのは無理ですよ。」 キレる直茂となだめる生益。 その後、また天候が悪くなり、予備の楫も破損し船はまた漂流を始めてしまった。 直茂「ちょ、また舵が壊れたのかよ!?」 家臣A「え?いや。誰かが板を踏み折ったんじゃないですか。」 直茂「適当こいてんじゃねーよ、わかるんだよ、ふざけんなよ氏ねよ!」 どうもこの時は沈む寸前だったらしく、直茂はもう覚悟を決めていたようだ。 直茂「生益、脇差を持ってきてくれ」 生益「いよいよとなればお持ちしますが、もう少し待ってください」 直茂「頼む。死んで岸に流された時に、鍋島加賀守が丸腰とは末代までの恥辱じゃ」 生益(あー、もう。この人に脇差渡したら沈む前に自決するだろーなー。) 脇差の件は無視し、船底の米俵を紐で結び海中にぶら下げたところ、少しは揺れも収まったため、 直茂も少し安心してきた様子。 そうこうするうちに夜も明け、播州明石手前の沖合500mあたりにいることが判り一安心。 波風も静まってきた頃に、上陸し事なきを得た一行であった。 帰国後、生益がこのときの様子を直茂家族一同の前で詳しく話したところ 奥さん(陽泰院)には泣いて感謝され、息子で当主の勝茂からは加増を賜った。 同席していた直茂 「いやいや、今聞くと笑えるけど、ヤバかったんだよ。 脇差受け取ったら喉をついて死ぬ気マンマンだったのに、こいつ渡さないし。 その時はけしからん奴だと思ったが、今は良かったと思う。」←本当だよ もちろん直茂の船を素通りした僚船乗員にもお咎めはなかった。 後日の生益。 自分の孫にその時素通りした船には誰が乗っていたのか聞かれた時 「直茂公も口にされないことを、ワシが言うと思うかバカもん。」 と怒ったそうな。
650 :
人間七七四年 :2009/12/29(火) 04:03:46 ID:gf74XEKB
戦国時代の話じゃないんだが 『蒙古襲来絵詞』が成立した経緯が結構いい話だと思う 竹崎季長が非業の死を遂げた恩人達(安達泰盛、少弐景資)らを弔う為に作成したって話
651 :
人間七七四年 :2009/12/29(火) 07:49:05 ID:MF5AAGNs
>>649 どこかで聞いたことあるかと思ったら「死ぬことと見つけたり」に採用されていたエピソードか
葉隠ってエピソード集としては抜群に面白いなw
652 :
人間七七四年 :2009/12/29(火) 09:57:47 ID:egpLh/c9
>>649 ヤべー声に出して笑ってしまったwwww
653 :
人間七七四年 :2009/12/29(火) 11:00:52 ID:y86l1xx6
>>649 あれ、孫とのやりとりに本多家が被って見えるw
654 :
人間七七四年 :2009/12/29(火) 12:41:16 ID:ynyTObyz
>>632 金箔を貼ったド派手なケチ親父の兜の方が有名なのに
何故に息子の方を?
655 :
人間七七四年 :2009/12/29(火) 13:17:44 ID:WauPSlTL
>>649 大阪から船出して、兵庫県沖で遭難しちゃうんだ。昔の船旅は大変だねえ。
656 :
人間七七四年 :2009/12/29(火) 14:43:50 ID:ZZkmwf8k
657 :
人間七七四年 :2009/12/29(火) 15:26:53 ID:lHNvsxMn
明石手前ってことは明石海峡のあたり 時化と潮の干満がかぶったら現在でもやばい
658 :
人間七七四年 :2009/12/29(火) 21:58:06 ID:a/NvTb7t
生益さんの妙な冷静さもかわいい
659 :
人間七七四年 :2009/12/30(水) 00:37:39 ID:DV4z/6/G
ひどい船酔いになると死にたくなる。マジで。 鍋島直茂、船酔いを苦に自刃。 とかならなくてよかったね。
660 :
人間七七四年 :2009/12/30(水) 12:40:46 ID:Sn9mauPn
冷酷無比な御家老のイメージが音を立てて崩壊してるぜw 直茂かわいいよ、直茂
661 :
人間七七四年 :2009/12/30(水) 16:35:15 ID:6KgjKYwY
下野の那須家重臣に、大関夕安と言う者がいた。 ある時宇都宮氏の軍勢が那須を襲ったが、那須氏はこれに大勝した。 もうすこしで相手の大将も討ち取れる、と言う時、夕安は追撃に反対し、 あえて宇都宮勢を撤退させた。 時の人々は夕安のやったことが理解できず、 「何故わざわざ逃がすような、不思議な真似をしたのでしょうか? 今回の戦ではあのまま追撃すれば、宇都宮を滅ぼす事もできたのに。」 と不満を持った。これに夕安 「こんな歌がある。『雲はみな はらひ果てたる 秋風を 松に残して 月を見るかな』 今、宇都宮の劣勢を利用して、那須優位の同盟関係を築く努力をする事無く、宇都宮を 滅ぼしてしまえば、我々は小田原の北条と直接に勢力圏を接してしまう。 もし国境を接した状態で強大な北条と敵対してしまえば、我々が那須を保持する事は 不可能だろう。ここは宇都宮を残し、彼らに北条の相手をしてもらい、その間に我々は 軍備を整え家中の紐帯を強くし、準備が整ったところで北条への敵対を宣言すべきなのだ。」 人々、夕安のこの答えに大いに感服したそうである。 ちなみに『雲はみな〜』の歌についてだが、通常この歌の意味は 「雲をすっかり払ってしまった秋風を、松に残るさわやかな音として聞きつつ、澄んだ月を見ることだ。」 とされているが、もう一つの意味を後に徳川家康が説明している。それによると 「”雲”とは敵や不利な状況の事、”秋風”とは家臣、味方、優秀な作戦、といった自分たちの取りうる 手段の事である。すなわちこの歌は 『自身の努力や策謀が、敵を討ち悪状況を解消出来うるまで結実するのを待つ事ができれば、 最終的な勝利を手に入れ心安らかに月を楽しめるだろう』 と言う意味を含んでいるのだ。」 目の前の敵を倒し滅ぼすだけでは生き残ることは出来ない。戦国の深謀遠慮についてのお話。
662 :
人間七七四年 :2009/12/30(水) 17:37:24 ID:sE6J0gmM
大関高増だな。 頭はいいんだが悪いことばかりする事に定評のある大田原3兄弟の長男。 珍しく良い事してるが。
663 :
人間七七四年 :2009/12/30(水) 18:45:39 ID:z7D2qpf0
>>662 というか、こういう視点を持った戦略家だからこそ武功第一の脳筋系武将には言ってることのイミが理解されず
「正面切って戦わず悪巧みばかり巡らす陰謀家め!!」て、なんとなく敵味方から疎まれたんじゃなかろうか。
本多正信なぞは同じようなことをやらかした上で
「私は長期的視野に立てないあなたたちとは違うんです! フフン♪」とか周りの三河武士をわざわざ挑発しまくって、
自分一人で恨み辛みを全て引き受けてから死んで、徳川家と幕府を残したんだろうね
664 :
人間七七四年 :2009/12/30(水) 19:10:04 ID:5qafYXL9
丹羽長秀「ああ、あの腸腐れね」
665 :
人間七七四年 :2009/12/30(水) 19:11:07 ID:kMbs7ZOj
>>663 ひょっとして本多家改易って親父が遠因なんじゃないか?
666 :
人間七七四年 :2009/12/30(水) 19:12:21 ID:sE6J0gmM
>>663 いやぁ、違うと思うけどなぁ・・・
悪い話スレになんか書いとこうかな、その内
667 :
人間七七四年 :2009/12/30(水) 19:45:32 ID:Q6Rc7Qxy
>>661 こりゃいい話だね。
下野・常陸の小豪族は、対立しつつも連合しないと
大勢力の北条家に呑み込まれてしまうからね。
陰謀家と言われる人は、見方を変えれば
深謀遠慮の知将だったということだね。
668 :
人間七七四年 :2009/12/30(水) 22:07:50 ID:LJ0oN3Gf
戦わずに済めは何よりだもんな
669 :
人間七七四年 :2009/12/30(水) 22:07:55 ID:6oALwCzA
常陸下野あたりで常識人を見つけようとするのは難しい
670 :
人間七七四年 :2009/12/30(水) 23:08:16 ID:2t3UhEZU
波乱万丈の人生を送った割に影が薄い大友晴英(大内義長)のいい?話 大友晴英が子供の頃、府内にポルトガル人の冒険家たちがやってきた その冒険家の名はメンデス・ピント ピントは痛風に苦しむ晴英の父、大友義鑑に万病に効く木の汁を与えてその症状を軽くし 冗談や諺などを言って府内の武士たちを大いに喜ばせたため、 義鑑に旅の金子を送られるほど気に入られていた その一方で義鑑たちはピントが持つ鉄砲の価値にも注目しており、晴英も例外ではなかった 晴英は鉄砲の打ち方を教えてくれとピントにせがんだが、そんな簡単に扱えるものではないとピントは一蹴する しかしどうしても鉄砲が撃ちたかった晴英は義鑑にせがみ、 その義鑑に撃たせてやってくれと懇願されたピントは仕方なく撃たせてやる事を約束したのだった そして翌日、鉄砲を打つためにピントの住む屋敷に入った晴英は実物を見てテンションが上がったらしく 傍で寝ていたピントを起こさずに鉄砲を持ちだすと、見よう見真似で覚えた鉄砲の打ち方を実践してしまった つまり火薬をありったけ詰めて弾丸を装填、顔で押さえた後に火をつけたのである …勿論銃は爆発、その衝撃に晴英は気絶しその場に倒れた 爆発音で目が覚めたピントが晴英に駆け寄ると、晴英は額と手に大きな傷を負っていた 特に親指はちぎれかけ、かろうじて繋がっている状態で、これを見た晴英の供が館に戻り 「外国人の鉄砲が若殿を殺した」と吹聴した為にピントはたちまち捕えられてしまう 義鑑とその妻、大友家臣たちに囲まれたピントは死を覚悟したが、その危機を救ったのは意外にも意識を取り戻した晴英だった 「父上、母上、どうか泣かないでいただきたい。私の死は私の過失なので誰も責めないでいただきたい。 ピントを釈放していただけるよう、今私が浴びているその血潮にかけてお願いしたい。 というか解放しないと死んじゃうかもー…」 そう晴英がいうので義鑑はすぐさまピントを解放した その後、晴英の治療のために四人の坊主がやってきたが、彼らは医者ではないため 何の手だてもできずに議論ばかりを重ねていた。それに業を煮やした晴英が 「その悪魔ども(訳文まま)をどこかに連れ去ってー」と言ったため即退場 事態が好転しない状況に義鑑はピントにどうすればよいか相談した ピントは「傷口をしっかりと検分さえできれば一カ月以内に治療できます」と答えたが、 家臣の中にとりあえずピントを殺して、もっと優秀な博多の坊主を連れてくるべきだという意見も上がった 義鑑はこの悪魔の手下どもの呪われた勧告(訳文まま)を受け入れようとしたが晴英が 「どんなやり方でもいいからすぐ何とかしてー」と言ったため義鑑はピントの意見を用いてピントに治療させた ピントの治療が適切であったおかげか晴英は額を五針、親指を七針縫ったものの、事故から二十日過ぎる頃にはほぼ完治したのである (メンデス・ピント 東洋遍歴記より) ※このピントはほら吹きで有名であり、この話にも嘘がある この事故は本当にあったらしいが、治療したのはピントではなく別のポルトガル人だったとか
671 :
人間七七四年 :2009/12/30(水) 23:34:24 ID:iR0u7DDB
>>669 小田氏治「よんだ?」
>>670 大友さんの所は大内や菊池の下に養子出した弟を殺したり、本当に兄弟仲良くないのに英明にそだつものだ。
672 :
人間七七四年 :2009/12/30(水) 23:59:35 ID:BZAba0KO
>>670 大友晴英って結構いい性格してるなw
陶の傀儡大名ってイメージしかなかった
673 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 01:24:34 ID:UuJ3Puz7
ひょっとしたらたとえ傀儡だとしても俺が大内を立て直してやるとか本気で思って馬関海峡を渡ったんじゃないか? 馬関ってIMEじゃ出ないんだな
674 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 01:39:28 ID:8LvHnFCV
いやん馬関
675 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 04:01:03 ID:T3Pb6rzs
戦わずにすむんなら今川氏真氏実様が最高じゃ 無慈悲な殺戮も陰険な謀略も無縁じゃ 戦争なんかは外道のやることかってにやってれば ひたすら文化活動にいそしむ なんと高貴なおひとじゃのう クズのたかりども
676 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 04:02:29 ID:T3Pb6rzs
○氏実じゃ蹴鞠ちんちん
677 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 06:32:54 ID:5si0yv5g
氏真、戦ってるし殺してもいるな。
678 :
1/2 :2009/12/31(木) 07:50:31 ID:CAcwL7tU
天正13年(1585)11月、小笠原貞慶は石川数正に呼応して徳川から豊臣に寝返った。 同12月初め、上杉家からの支援をもとに5千の兵を集めた貞慶は、本拠地・深志(松本) から、真田攻めの後処理で城主不在の地が多い南信濃に乱入した。 その城でも、主君の留守を守る侍たちが、対策を協議していた。 「殿も若様も、本隊を率い真田に備え、小諸に駐留。残った騎士40、雑兵350の小勢では 門の一つも守りきれまい。ここは城を落ちて下伊那へ逃れ、徳川様と伊那衆の助けを 得た上で反撃するべきだ。」 「うむ。蛮勇に走って城を落とされ、命を無駄にするは、小諸の殿にも申し訳なし。」 「かーっ!なんちゅう情けない事を言うとるんじゃ!」「あっ、ご、ご隠居様!」 今年75歳になる隠居した先代が、いつの間にか座に加わっていた。 「若い者が血気に逸って死に急いではいかんと来てみれば、一戦もせずに城を捨てる 相談とは…お主ら、それでも武士か!?」 「お言葉ですがご隠居様、兵にして十数倍の敵が相手では…」 「深志からこの城へ至るには不動峰南端の鉾持桟道(ほこじさんどう)、人がすれ違うのが やっとの山道を通る他あるまい。そこが狙い目よ。 その上、小笠原は短気な性分。数を頼んで大した謀もあるまい。まあ、わしに任せておけ。 これでも戦に臨む事60余度、少しは駆け引きも心得ておる。 老後の思い出に九死一生の戦のやり方、お主らに見せてやるわい。」
679 :
2/2 :2009/12/31(木) 07:51:32 ID:CAcwL7tU
隠居は蔵から白布数十反を出し、数々の紋を描かせ、偽の旗印を大量に作らせた。 さらに、近隣の農民300余を招集し、このうち160人に武具鉄砲を与えて鉾持桟道の川向い、 白山の山中に伏兵として置いた。 12月3日、吹雪の中を鉾持桟道に差し掛かった小笠原軍の先鋒は、隠居の命を受けた 物頭・赤羽又兵衛率いる300余の奇襲を受けた。 初めは不意打ちに驚いた小笠原軍だが、次第に数の優位を取り戻し、赤羽隊を押し返した。 「よし、やれい。」 そこへ隠居の合図により、北原玄蕃率いる農民たちが山上から、用意した大岩・丸太を 小笠原軍目がけて投げ落とした。 直撃を受けた者は即死、あるいは谷底に落ち、先鋒と本隊は落石によって分断され、 先鋒は勢いを取り戻した赤羽隊に次々と討たれた。 吹雪が晴れた後、小笠原貞慶が見たのは、死屍累々たる先鋒の姿と山中から襲って来る おびただしい軍旗(実は偽の旗印を持った北原の分隊わずか70人)、そして川向こうの 白山の山中から鳴り響く鉄砲の音だった。 「しまった!もう本隊が帰っていたか!?」早合点した貞慶は、深志目指して逃げて行った。 「…………」「おい、勝ったぞ。勝どきを上げんか。」 「す、凄い…これがご隠居様の、”槍弾正”の軍略……」 隠居こと保科弾正正俊は、この武功により家康から感状と名刀・手掻包永を授かり、 8年後の文禄2年(1593)、栄光に包まれながら80余年の生涯を閉じた。
680 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 08:28:17 ID:wsGoX+pl
へえ、石川数正以外にも徳川から豊臣に寝返った人はいたんだな
681 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 08:32:21 ID:xoe5lPV6
ちょっと疑問があるんだけど。 緊急招集した農民に鉄砲撃てるのかな?
682 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 08:57:02 ID:TBugmOiR
あの時代の農民なら、大概徴兵されて出兵した事があるんじゃないか? もっとも戊辰戦争の会津城の戦いでは、鉄砲の操作方法を知らない隠居老人たちを、 山本八重子が率いて大山巌を狙撃し、負傷させた例もあるが。
683 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 09:12:56 ID:Rr9hWhnK
当たる・当たらないは別にして、音で敵を混乱させる という目的じゃないの?
684 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 09:25:08 ID:UuJ3Puz7
じつは猟師かもしれんて
685 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 09:29:50 ID:b+q7JUZA
当時の農民は軍事のセミプロ。 最終的な村の生存権を守るのは村の軍事力だからな。 例えば禁制をもらったとしてもそれを執行するのは大名ではなく村、 あれは「うちの兵隊が濫妨狼藉したら自衛していいよ」って言うものであって大名が積極的に取り締まるものではないから、 村に武力が無いと武装した雑兵には太刀打ちできないからね。 それに八十年代なら結構な数の銃が出回ってる頃だし、問題ないかと。
686 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 10:17:06 ID:l8nPUq1Z
田畑を耕すのも農民、戦に駆り出されるのも農民 この時代の農民ってハイブリットだよなあ
687 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 10:46:37 ID:rGm+zqWv
元々の武士の形だよ
688 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 11:00:45 ID:4SiPZDd9
一領具足とかね
689 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 11:05:54 ID:B19nYQBN
>>672-673 晴英「俺が大内立て直せば兄貴より格式上の大名だぜ!
兄貴も支援してくれるだろうしな!!」
兄「あ?支援?するわけないだろ。おい元就、弟の身柄なんかより茶器だ茶器寄越せ」
こんな感じかも
690 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 11:25:25 ID:L6FiDoQp
>>685-687 七人の侍が元から村に住んでるようなもんだからな。
というか村人の半ばは七人の侍モードw そりゃあ刀狩りも検地も苦労するってもんで・・・
691 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 11:58:20 ID:TBugmOiR
ただ、現役農民たちも若殿達と共に小諸へ出兵しているだろうから、 残存しているのは戦力外とされた老人たちだろうな。 おそらく槍弾正みたいな連中が三百人ほど居たのだろう。
692 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 12:03:32 ID:B19nYQBN
くくく…武田信玄に従って従軍した頃の血が滾るわ!なんて老人の群れが槍弾正に指揮されて戦うとか怖すぎるw
693 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 13:20:43 ID:LH5qCwjH
ちと遅レスだが。 この時代の鉄砲は信頼度が低くて、暴発の危険性もとんでもなく高い。 なので、鉄砲隊は使い捨てができ、数を揃えられる練度の低い兵士の役割だった。 実際に鉄砲を撃って、慣れていたのは農民達なのです。
694 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 13:48:16 ID:Ox0o6Msk
弓、槍、刀は取り扱う技術を持った人でないと使いものにならないけど 鉄砲は数揃えて弾込めて発砲するとこまで仕込めば、 爆音と面制圧力という最低限の期待される効果はあったからね 人手が足りなきゃ女子供老人すら動員して鉄砲持たせた
695 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 14:50:48 ID:G2ugPjgV
なるほど、なんかアルバイト使う店長みたいで 鉄砲隊指揮官は鉄砲隊指揮官で大変そうだなー
696 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 15:30:03 ID:0Qnt3cM4
>>681-691 まじめな話、百姓が戦に駆り出された場合は
あくまで陣夫としてだ。
荷物や兵糧を運んだり、雑用したりするのがお仕事。
戦闘行為を行うのは侍と足軽・中間。
戦闘員は全軍の3割〜5割程度。
例外としては、徳川は小牧の戦いの時、北条は小田原征伐の時に
百姓を徴兵して訓練し、戦に備えたことがあったけど
これは戦闘員数不足に悩まされていたから。
そもそも戦国時代までの武士が半分農民だったという説を誤解してはならない。
より正確に言えば、武士が副業として農業をやってた、という言い方が正しい。
農民が誰でも武士だったわけではないんだ。
697 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 16:45:02 ID:NajUKlJc
>>693 鉄砲隊は金さえあれば、再構築は簡単だけど、馬に乗って槍を振り回すようなお侍は
一度大きなダメージを受けたら、それを再構築するのに時間がかかるよね。
長篠の戦いで武田家の戦力が大きく衰退した理由はそれだよね。
698 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 17:12:23 ID:3+shbe+e
あれは槍働きする武士っていうより、前線指揮官が死にまくったのが痛かった
699 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 17:47:41 ID:dipw/QV7
将棋で言えば飛車角が香車に串刺しにされたようなものか
700 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 18:15:27 ID:B19nYQBN
飛車角金までいなくなって銀桂香と歩だけで詰めろほどけという状態
701 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 21:19:55 ID:6lh3JEjd
正俊「歩のない将棋は負け将棋」
702 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 22:29:42 ID:b+q7JUZA
>>696 それはその通りだが、認識が甘い。
村は自分たちの権益を守るために村同士の戦いもするし、
自村の領域、田畑は言うに及ばず山や野原や川など自分たち以外のものが
採取した場合は縄張りを自衛する。
またさっきも書いた通り禁制を掲げるだけで村の安全は保証されないので自衛力が必要になる。
武士だけが争いをするわけではなく農民同士も争いをした、と考えないと。
そして一領具足のような連中は名前を変えて各地にいる。
土佐のそれが有名なだけでね。
703 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 22:39:51 ID:m/zt/2g0
争いを好み暴虐の限りを尽くす武士 平和を愛し暴虐の限りを尽くされる農民 こんな階級闘争史観を 何時の間にやら植えつけられていた頃が 私にもありました。 ところが、むしろ戦の火種は村同士の諍いで 各村には敵対村、同盟村があり 拗れると、ついには大名同士の衝突にさえ至る・・・ って感じだと今では理解しているんですが、あってますか?
704 :
人間七七四年 :2009/12/31(木) 23:08:16 ID:7XELvjRJ
毛利秀元の弁当の鮭を 他の大名に食べられた話を詳しく聞きたい
705 :
【大吉】 :2010/01/01(金) 00:18:35 ID:XRu7Lofk
方々、あけおめ
706 :
人間七七四年 :2010/01/01(金) 00:24:33 ID:Qs1L6BsD
年明けて目出度く候
>>704 kwskも何も『雨窓閑話』の
「昔、大猷公(徳川家光)御噺の衆とて、毎夜登城して物語申し上げ御夜話申し上げられし
衆中十人あり。
毛利甲斐秀元侯、丹羽五郎左衛門長重侯、蜂須賀蓬菴至鎮侯、林道春の類なり。
この衆中登城の時、皆々屋敷より弁当参りけるに、蔀(しとみ)の間に寄り合いて、
これを披き食い給う。珍しき菜などある時は、互いに取り交わして賞味し給いけるとなり。
毛利甲斐侯の弁当の菜に干し鮭のありければ、皆これは結構なる菜なり、珍しとて殊の外
賞味し給いけるとなり。」
って文が全て
707 :
人間七七四年 :2010/01/01(金) 00:55:58 ID:ADG5zm2c
>>706 お正月から乙そしておめでとう
庶民的w
蜂須賀さんちは至鎮じゃなくて家政の間違いみたいだね
708 :
人間七七四年 :2010/01/01(金) 03:58:04 ID:sS7lyNb6
謹賀新年
709 :
人間七七四年 :2010/01/01(金) 09:21:32 ID:lyXUir9U
あけおめで候 ところで四国の公文さんはなんで餅が食べられなかったのだろうか 多分裏にはいい話が隠されているに違いないと思うのだが、知っている人はいないだろうか? 某ゲームで公文さんを知りwikiもみたりしたけど、なかなか原因までは載ってない・・・
710 :
人間七七四年 :2010/01/01(金) 11:32:37 ID:le3UVsBN
中江新八のようにいざというときのために貯めていたのかもしれんし、帰農してほんとに貧しかったのかもしれん
711 :
人間七七四年 :2010/01/01(金) 13:21:38 ID:S3OBwF3u
>>703 あってます。鎌倉や室町のころは、大名だけでなく大寺社も荘園同士の争いからお互いの闘争に繋がってイロイロとやってます。
712 :
人間七七四年 :2010/01/01(金) 15:45:37 ID:Fx7txd/t
その辺を集中的に研究してるのは最近だと藤木先生か。
713 :
人間七七四年 :2010/01/01(金) 15:48:20 ID:Fx7txd/t
研究というと語弊があるか。 研究→出版で読み替えてくれ
714 :
人間七七四年 :2010/01/01(金) 15:57:22 ID:zLOtJsXn
江戸時代でも水争いや領境域の葦の刈り取りで揉め事おきてる県
715 :
人間七七四年 :2010/01/01(金) 16:09:44 ID:HDKVXFo4
>>706 いつもオカズ交換しながら弁当食べてたのかよw
かわいいなおいww
716 :
人間七七四年 :2010/01/01(金) 16:15:37 ID:j8SpW5r1
イラン・イラク戦争はシャットゥルアラブ川の使用権を巡る争い。 戦前の状態に戻すことで合意して終戦。 戦いなんてそんなもの。
717 :
人間七七四年 :2010/01/01(金) 16:48:51 ID:0phNN3xu
いい加減スレ違いだから日本史板あたりでやってくれ
718 :
人間七七四年 :2010/01/01(金) 18:18:16 ID:58uo4gLi
いい話でも悪い話でもないが、
季節的にここがタイムリーなので余談として書き申す。
興味ない人はスルーしてくだされ。
伊達政宗のお正月
政宗が18歳の時、父輝宗が家督を譲り隠居して、12月になったところで
母・義姫を通して輝宗手書きの手紙を送られた。
それによると伊達家の正月はこんな感じである。
元旦、参賀の儀式
二日、買い初め。金銭50指越を与え、米沢の町の商人から米・塩・もち米を買う。書き初め。
三日、狩り。御野初め。
四日、お茶挽き。
五日、寺僧年賀。
七日、連歌。
八日、般若心経を朗読する会。
十一日、談合(政治)始め
十四日、謡初め
十八日、過去の罪を懺悔する日
二十日、灸始め、教法を問答する日
二十二日から二十八日まで、護摩を焚いて祈祷する
これが仙台城に移ってからだと少し順番が変わる。
元日早朝に起きた政宗は、御座の間にて、その年の年特神を迎える祭壇である
恵方柵に向かって座る。
素袍、袴を着た年男が明け方に汲んだ若水と硯を上に乗せた料紙箱を持ってきて、
政宗の前に置いていき、これで政宗は書き初めをする。
その後、お膳が運ばれる。
最初は大豆粉と紅白の菱形の奥田餅。延命長寿を願いながら、お相伴衆とともに口に入れる。
二番目が精進料理。この間に白鳥を乗せたまな板を持ってきて、政宗の前で切り捌く。
三番目が御組み付けと御銚子、四番目がお雑煮、最後に御膳。
四の膳のお雑煮は小姓が書き残した覚書によると、
餅、くしあわび(串貝)、くしこ(干しなまこ)、ニシン、豆腐、大根、牛蒡、黒豆、菜の茎が入っていた。
後の代になると更に品数が増えるそうだが、具材が豪華で知られる仙台雑煮のルーツも
この辺にあるのかもしれない。
更に、仙台は初売りに豪華景品がつくので有名だが、公正取引委員会は
藩政から続く伝統行事としてこの豪華景品がつくことを期間限定の特例として認めている。
近代になるまでは初売りは一月二日と決まっていて、
一度労使の問題などで三日になったものの、再び二日開催に戻っている。
近年は元旦でも営業している店が増えたが、
二日が初売りと決まっていた背景に、伊達家の買い初めが二日なのも関係していそうで
なかなかに面白い。
余談。具体的に仙台雑煮がどんなものかと言うとこんな感じ。
http://www.sendaihatsuuri.com/sendai_03.php
719 :
人間七七四年 :2010/01/01(金) 18:45:42 ID:dMCCpBL3
>>718 これは面白いな。
しかしいつも思うけど、大名のスケジュールって殺人的だよね。
これをこなしながら合戦も政治もやってたんだから、ホント超人だわ。
しかし仙台雑煮って見た目からして豪華ですな。いかにも政宗に相応しい。
720 :
人間七七四年 :2010/01/01(金) 18:47:04 ID:Ft6VpkXa
ゴージャスな雑煮だ。 しかし、伊達政宗は仙台のいろいろな風習や名物を作り出してるな。 七夕とかずんだとか。
721 :
人間七七四年 :2010/01/01(金) 18:53:04 ID:d+cREI1Y
では川の使用権を巡る戦国時代の話を。 薩摩に入来院又六重時という男が居た。 島津以久の次男であり、初代佐土原藩主である島津忠興の兄に当たるのだが 入来院家に養子入りして伊作は花堂川一帯の地頭職に就いていた。 ある日のこと、彼が妻の八重、妻の妹のサクラと昼食をとっていたところ、 外から「おん大将ーっ」「地頭様ーっ」と子供達の声がする。 元来静かであるべき地頭屋敷の側で一体どうしたことか、番卒に問い合わせると次のような仔細であった。 狭野の百姓の子供達が花堂川で漁をしていたところ、向こう岸の花堂の百姓の子供達が漁場を奪いにやってきた。 しかも侍の子供を頭に押し立ててきたのである。 彼らは漁場を奪うのみならず川に立ち入ることまで差し止めているというのだ。 子供の争いとはいえ川の漁場は百姓の生計にも関わることである。 重時は直ちに双方の子供達の代表を屋敷に案内させた。 狭野の代表は百姓の子供の平太といい、花堂の代表は郷士の子供の岩尾正太郎といった。 「汝ら、子供とはいえ地頭屋敷の側で騒ぎを起こすとは不届き千万である。このまま家に帰すことは相成らんぞ。」 地頭の重時が言うと百姓の子供たちは押し黙ってしまったが、武士の子である正太郎は違った。 「地頭様に御願いがあります」と口を切り、 「私は花堂の郷士、岩尾静馬が長男の正太郎と申します。花堂川はその名の如く花堂の物であり、 川の保守管理や川の幸を得ることで生計を立てている者もおります。 ところが狭野の悪童どもが花堂までやってきて狼藉を働くため、正義のため私がこれを排除しました。 今後は狭野側がこのような悪事を働かぬよう地頭様よりきつくお叱り下さるよう申し上げます」 実に堂々と口上を述べたのである。 (岩尾静馬も良い息子を持ったものだ)内心感心した重時だが片方だけを贔屓するわけにも行かない。 「元来、川は天が与えたものである。人はこれをあずかることは出来ても私することは出来ぬ。 今後はお互い自分達側の岸で漁をするように。人命の救助や特別の場合を除き川の中心を超えてはならぬぞ。 投げ網や投石も同じじゃ。」と、双方の代表に申し渡し書を出した。 地頭屋敷で子供同士の争いが裁かれたのは後にも先にもこの一軒だけだったという。 ところで、この話にはおまけがある。 例の裁きから数日後、狭野の牛が夜中に大声で吠え出し、村中の者がたたき起こされたのだ。 これは平太をはじめとする子供たちが牛に草をやるのをサボっていたので牛達が空腹に耐えかねたためであった。 裁きに感激した平太たち狭野の子供たちはすっかり重時になついてしまい、 子供たちは地頭屋敷の周りに集まって、近くの神社で武士の真似事をして遊ぶようになったのだ。 これを知った狭野の百姓達、 「さてもさても、最近の子供たちはどうして自分達が遊ぶことばかりを考えるのだろうか。 自分達が子供の頃は親が働くのを一生懸命手伝ったというのに」とぼやいたとか何とか。 どうやら、親の子供に対する愚痴というのはいつの時代も変わらないらしい。
722 :
人間七七四年 :2010/01/01(金) 21:53:30 ID:icVEDrcQ
>>718 はらこってイクラか?正直、暖かい汁にイクラは俺的にちょっと…
まぁ、はらこ飯は食べた事があるし
あんな感じで意外と美味いってなるかもしれないけど
723 :
人間七七四年 :2010/01/01(金) 22:13:29 ID:GM0wRCnc
板倉勝重は長く京都所司代を務めて老齢になったので辞任を決意した。 将軍秀忠は「お前に代わる者などいない」と引き止めるが、勝重の意志 は堅い。そこで秀忠は「ならばお前が適任だと思う者を指名してくれ」 と勝重に言った。 勝重は「私は長く京におりましたので江戸にどのような方がいらっしゃる のか存じません。江戸には優秀な方々が多くおられると思います。ですが、 もし名をあげろと仰せでしたら、僭越ながら我が子、重宗を推挙いたします。 かの者の冷静さならば、父の役目を引き継げましょう」と述べた。そこで 秀忠は重宗に後任を命じたのだが、重宗も父と同じで頑固なのか、自信の なさから後任を何度も断った。しかし秀忠が「子を知るは父にしかず」と 諭すので、渋々ながらついに役職を引き受けた。 所司代を受けた重宗は父に「私には所司代なんて無理ですよ。それなのに 私を推薦なさるなんて…。私はあなたが恨めしいです」と文句を言った。 これに勝重は「ハハハ、『爆火を子に払う』ということじゃよ」と答えた。 その後、勝重は息子に国光の刀を与えて「人を切るのも、人に切られるのも、 身を守るのも、人の身を守るのも、すべて刀の徳じゃ。されど、この刀を 狂人に与えても刀に代わるとはありえない。おぬしはそれをよく知り、 この刀を狂人に渡さぬ心構えで政事を裁くのじゃ」と重宗に言った。
724 :
人間七七四年 :2010/01/01(金) 22:56:18 ID:j8SpW5r1
>>723 親子そろってめんどくさい。
似た者親子の典型だな。
725 :
人間七七四年 :2010/01/02(土) 04:54:39 ID:hlJUyFWj
726 :
人間七七四年 :2010/01/02(土) 17:15:00 ID:CKigZtZJ
「あなたが落としたのは、この金の斧ですか?」 秀吉の小田原攻めに参戦した蒲生氏郷は、城方の夜討ちを受け、これを撃退した。 この時、氏郷家臣の佃又右衛門は主君の眼の前で先駆けして槍を振るい、後に氏郷から 褒美をもらった。 褒美を渡しつつ、氏郷は又右衛門に声をかけた。 「お主が日頃の心がけ通り先駆けを果たした事、大儀であった。しかし、少々うろたえていた ようだな。わしは横で見ていたが、槍の鞘を外さずに突いていたぞ。」 又右衛門は答えた。 「いかにも。まことに夜討ちの勢い厳しく急いで応戦したゆえ、鞘を外したかどうか分からず 戦に及びました。」 又右衛門をじっと見た氏郷は「お主は正直者よ。普通の者は、そうは答えられぬものだ。」 と言って、重ねて又右衛門に褒美を与えた。 のちに、ある男が又右衛門に尋ねた。 「主君の問いにそのまま応じただけで、なぜ褒美までもらったのですか?」 又右衛門は男をジロリと睨み、答えた。 「およそ武士たる者が、夜討ちを受けたからとてうろたえて槍の鞘を外し忘れた、という話が 世間に知られれば、良い物笑いの種よ。 しかし、殿がその目でしかと見たと仰せあるものを否と言い、主君の言に逆らうことなど わしには出来ぬゆえ、その通りだと答えた。 殿はその辺りをお察しに下さり、わしを『正直者』とお褒めになったのだ。」 正直者・佃又右衛門は、のちにレオン氏郷の影響でキリシタンになり、大坂の陣の後、 明石全登の息子の逃亡を援助、宣教師をかくまう等の行為によって幕府の怒りを買い、 処刑された。
727 :
人間七七四年 :2010/01/02(土) 23:07:36 ID:Y/CD8443
よかったね。めんどくさい三河武士じゃなくて。
728 :
人間七七四年 :2010/01/02(土) 23:15:11 ID:IuSC4vUN
死んだ時は福島正則の家臣? 福島正則も問題ある家臣大勢抱えて大変だな。
729 :
人間七七四年 :2010/01/02(土) 23:16:19 ID:LAYLOJQP
730 :
人間七七四年 :2010/01/04(月) 08:24:13 ID:+TbYA1sc
高橋紹運は、家中で重罪を犯した者を、家臣の萩尾大学に命じて討たせた。
萩尾はその者と街で行き逢った際、すれ違いざまに後ろから一太刀で切り伏せた。
このことを家中では、「後から切るのはたやすい。」などと批判したが、紹運の子・宗茂は
「突然行き逢ったのであれば、その場で討ち取ってこそ手柄だ。仕損じたら何とする。」
と言って萩尾をかばった。(
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1896.html )
しかし、萩尾を批判的な目で見る者は無くならなかった。
天正9年(1581)11月、立花道雪とともに秋月種実の領地を攻撃した紹運は、秋月軍の反撃を
受け、穂波郡の石坂でこれを迎え撃った。そこには、初陣の宗茂の姿もあった。
宗茂は150の兵を与えられ、紹運本隊の後方に置かれたが、秋月軍が近づくと馬を降り、
「オレに従う者は来い。」と言って、本隊から3町(330m)も離れて布陣した。
あわてたのは傅役の有馬伊賀である。
「この小勢で本隊を離れては危のうございます。本隊の後ろへお戻り下さい。」
これに宗茂は笑って答えた。「敵が多勢でも何程の事があろう。それに父上と一緒にいては、
わが兵も父上の兵と一緒に動き、わが下知には従わぬではないか。」
それを聞き有馬も、
「年端も行かぬ初陣の身が、豪気なことを申される。これは天性の武将の才であろう、
ここは若君の言う通りにしよう。」と考え、宗茂の命に従った。
襲い来る秋月軍を、宗茂隊は果敢に応戦したが、そのうち疲労した有馬伊賀に、秋月軍の
堀江備前という者が斬りかかった。それを見た宗茂が矢を堀江に放つと、矢は堀江の左手を
射抜き、逆上した堀江は宗茂に向かって来た。
宗茂は堀江と組打ち、さんざんもつれ合ったあげく、ようやくこれを押さえつける事が出来た。
「くっ・・・萩尾、助太刀せよ!!」「応!!」
呼ばれた萩尾大学は、群がる秋月軍をものともせず駆け抜け、宗茂を救い出して堀江の首を
挙げた。混戦はさらに続いたが、伏兵の道雪隊が攻撃を開始すると、勝負は決した。
「いや、しかし萩尾よ、見直したぞ。危険を顧みず、若君を救うとは・・・」
「うむ、今まで卑怯者呼ばわりをして済まなんだのう。」
「い、いや良いのだ・・・(もしや・・・若君は、わしのために・・・・・・?)」
萩尾は宗茂の方を振り返って見たが、若武者は微笑むばかりで何も言わなかった。
731 :
人間七七四年 :2010/01/04(月) 11:26:49 ID:MsdvqHDX
>>722 東北では「ごろうのたま」といって味噌汁にイクラを入れる。
プリプリしてたいへん旨い物だが火を通しすぎると硬いゴムの玉のようになりまずくなる。
お椀のそこに入れといて熱い汁を掛ける程度だろうか。わからん。
だが一押しは蕪と打ちマメの味噌汁だな。まさに滋味。
732 :
人間七七四年 :2010/01/04(月) 11:34:59 ID:vhQeqCpk
>>730 いい話だ。こんな完璧な殿様なのに
ぎん千代とは何でうまく行かなかったんだろう。
733 :
人間七七四年 :2010/01/04(月) 11:36:19 ID:ZgjWKgEm
男盛りの時に朝鮮行ってたせいじゃないか?
734 :
人間七七四年 :2010/01/04(月) 11:42:12 ID:bOVVQJxt
むしろそういう性格だからこそ上手くいかなかったんじゃないのか ギン千代の方も性格あんなんだから折り合い悪そうだし
735 :
人間七七四年 :2010/01/04(月) 12:06:07 ID:bjKfqpZB
>>730 「それ、殿の手柄じゃん。勝手に俺の手柄にしないでくれるかな。迷惑なんだよね。
手柄くらい自分で立てられるし、面目丸つぶれだ。切腹する。」
と三河武士なら拗ねて喧嘩になる。
736 :
人間七七四年 :2010/01/04(月) 12:42:51 ID:t+dPmAh/
イクラというのはロシア語の魚卵という意味の単語がどういう経緯か知らんが日本語化したものだけど それ以前は鮭の卵をなんて言ってたんだろう? かつてははらこが東北限定の言い方じゃなかったとか?
737 :
人間七七四年 :2010/01/04(月) 12:50:29 ID:Vj+9Mwlv
すじこ?
738 :
人間七七四年 :2010/01/04(月) 15:01:15 ID:k6VSC+k1
忠興「性格に問題あるとは大名失格だな」 長政「そうだそうだ」
739 :
人間七七四年 :2010/01/04(月) 15:19:01 ID:Kq3Tmdlj
当時生魚なんてすぐ腐るようなものは地元でしか味わえなかったんだから、方言とはちと違うような気がする
740 :
人間七七四年 :2010/01/04(月) 15:41:16 ID:d6xrShDS
>>736 バラバラになっていない繋がったものはひとしく「筋子」なのですが、
その他の呼び方というとはらこ・はららごなどの他に
鮭(の)子・鱒(の)子という感じで「魚の名前+子」で呼んでいたのではないかと思われます。
イクラと言う言葉が入ってきた最初の文献は恐らくですが
大正4年(1915) 明治屋のPR誌「嗜好」で「イクラ」を紹介したのが最初らしいとの事。
この時の紹介文が
「あえてこの珍味を諸君に推奨す。
鮭の子の塩漬け(イークラー)世界的珍味として
露国のキャビアが珍重さるるように
我国にも今度鮭の子の塩漬けでその名をイークラーと称する珍味が現れました。
鮭の子の塩漬けや粕漬けと申せば従来も世に行われた品で
その風味はすでに諸君が御承知のことでありますが、
今度現れたのは従来の品と違って北海道の水産試験場が万望して
この北海道の名物をして世界的たらしめたい、
一般食卓上の珍味たらしめたいと多年研究の結果ようやく製出しましたもので、
ちょっと頃合いの小缶入りとなりその風味の加減は実にいうにいわれぬ妙があって
上戸の方にも下戸の方にも和食家にも洋食家にも万人向きがいたします(後略)」
となっていて、文中「鮭の子」と書かれているのがわかります。
件の「はらこ」と言う言葉も歴史は古く、東北限定の言葉でもなかったようで、
新潟の村上あたりで取れた「はらこ」が平安時代に献上品になっていた話もあります。
余談、ロシア語の「イヴァシー(иваси)」は日本語の「いわし」が語源です。
741 :
人間七七四年 :2010/01/04(月) 16:46:05 ID:UD/PaMLH
>>740 > ロシア語の「イヴァシー(иваси)」は日本語の「いわし」が語源
久々にいいトレビアを見た。
742 :
人間七七四年 :2010/01/05(火) 07:46:00 ID:SPj572+c
743 :
人間七七四年 :2010/01/05(火) 10:53:48 ID:tYPUpA7C
「柿食え、柿!」 真鍋五郎右衛門貞成(真入斎)は早くに父を戦で亡くし、九歳で家督を継いで主君の 織田信長に謁見した。 挨拶が済むと信長は、取り次ぎ役の堀久太郎に、床の間に山盛りになっている干し柿を 指差し、「それを、くれてやれ。」と言った。 久太郎は二つばかり干し柿を持って来たが、それを見た信長は、 「なんじゃ、ケチケチするな。もっと、たーんと持たせてやれ!」と、久太郎を叱った。 今度は十数個も持って来た久太郎だったが、一抱えもある干し柿は九歳の子どもの手には 受けきれず、貞成は袴のすそを広げて袋を作って受け取った。 その様子を見た信長は上機嫌で、ニカッと少年に笑いかけたという。 どうも魔王様、甘党だったようで、戦の時も当座の褒美として戦場にまで持って来ていた 柿をくれてやったり、訪ねてきた宣教師に与えた茶菓子が、たいてい干し柿だったり、 逆に宣教師に金平糖をたかったりしております。
744 :
人間七七四年 :2010/01/05(火) 10:59:56 ID:hqO8tNqc
幸村の子供を政宗が匿ったことかな?
745 :
人間七七四年 :2010/01/05(火) 14:48:02 ID:hPK/Vrst
>>743 濃い味好きで甘いもの好きか…
体に悪そうだなあ
746 :
人間七七四年 :2010/01/05(火) 16:09:03 ID:63q79E74
>>743 戦の褒美まで甘いもの、宣教師に金平糖をねだる、って子どもかwww
魔王様のなんとも可愛いエピソードだw
747 :
人間七七四年 :2010/01/05(火) 17:34:51 ID:dXuTDuY9
当時は甘味が貴重品だったしな
748 :
人間七七四年 :2010/01/05(火) 18:11:33 ID:JFZEnDAs
甘いものを食べてればストレスが消えるので大人しくなる筈なんだが 信長のあの気性は生まれつきのものなんだな
749 :
人間七七四年 :2010/01/05(火) 18:19:30 ID:84OHeHk+
あの気性とは言っても、切れた時以外は理知的だと思うけどな
750 :
人間七七四年 :2010/01/05(火) 18:55:09 ID:IiB5f3k6
そういえばタイトル忘れたが戦国武将のカルテとか言う本で信長糖尿説書いてたな。
751 :
人間七七四年 :2010/01/05(火) 21:12:36 ID:riXA+req
信長は典型的な下戸の甘党ってやつじゃないのか。
752 :
人間七七四年 :2010/01/05(火) 21:25:19 ID:bng5jV4f
伊達政宗 鷹狩の掟 元和二年(1616年)十二月の事。 政宗は、家康から拝領していた久喜(埼玉県)の狩場に鷹狩に出かけた。 この鷹場は江戸滞在中度々出かける狩場で、 このときも十二月一日に江戸を出て、翌二日に久喜に到着、 十三日まで滞在し十四日に江戸に帰還した。 このとき、狩場に到着した翌日の日付で、政宗が掟書を書いた。 家臣たちへの戒めと心得を五箇条で書いたものだ。 陸奥守鷹野の掟 一、今回鷹狩に供をしてきた者は、決して近在の百姓たちに無礼をしてはならない。 一、朝食の時は、酒は小盃で三杯まで。場合によっては五杯まで許す。 一、晩は飲み放題。ただし、大酒は禁止々々 一、毎日狩場へ出かけず留守をする者も、のほほんとしてサボっていては駄目。 一、今回、この雪風に(寒い、寒いと言って)大人気なく江戸に留まった者は、 後で帰ってから罰金とする。 元和二年極月三日 政宗(花押) ……といったものなのだが、毎日顔を合わせる家臣に「陸奥守」と仰々しかったり、 一行目はともかくその後の内容が些か不自然(酒量制限やら罰金やら・・・)だったり、 花押が公式のものではなく即興で作られたその場限りの花押だったりと、 いろいろあやしい点がある(偽物ではない)。 酒量制限も大酒禁止も、むしろお前が言(ry とつっ込みたくもなるだろう。 どころか、書いたときにすでに酒が入っていたのか行の感覚が怪しく、 最後の日付はかなりスペースがなくなって窮屈なことになっている。 要するに半分お遊びで作られた物らしく、 現代のゴルフコンペみたいなものである鷹狩を盛り上げようとした、 一種の余興ではないかと推測されている。 自ら率先して座を盛り上げようとする、政宗の心配りがいい話(?)。
753 :
人間七七四年 :2010/01/05(火) 21:27:48 ID:IYCq0tlX
> 一、朝食の時は、酒は小盃で三杯まで。場合によっては五杯まで許す。 「場合によっては」って、どんな場合なら良かったんだろうか?w
754 :
人間七七四年 :2010/01/05(火) 21:48:12 ID:M9HksMg3
(●∀゚)俺が飲みたい時に決まってるだろ
755 :
人間七七四年 :2010/01/05(火) 22:22:19 ID:X6F+iG5o
酒飲みの場で遊びで決めたんだったら 「三杯以上飲みたい場合」とかそんなんじゃない
756 :
人間七七四年 :2010/01/05(火) 23:06:05 ID:YDarq4E0
遊びの自分ルールを酔った勢いで後世に遺してしまうとは、さすが陸奥守さま
757 :
人間七七四年 :2010/01/06(水) 10:08:33 ID:mBP6M7u8
そういや政宗の別の書状でも最後のほうが窮屈になってるのがあったな。 中身が思い出せんがあれ書いた時も酔ってたのかな…
758 :
人間七七四年 :2010/01/06(水) 18:59:27 ID:Oe5gUBV5
堀秀政の家臣に、小倉主膳と言う者がいた。 秀政が居城にあったある時、次の間にいる者達の名を呼ばせた。 ところが小倉はその時次の間から少しばかり他所に出ていたので、この呼び上げから 外れてしまった。 秀政、「次の間にいる者たちに湯漬けを振る舞え」と命じ、膳を用意させたのだが、 その場には当然のように、名を呼び上げられなかった小倉も出てきて膳の前に座った。 秀政は驚いた。「なんでお前いるの!?」秀政、この事に妙に不愉快になった。 やがて給仕係がそれぞれの膳に、湯漬けを配膳して回るのだが、これが小倉の前に来たとき 秀政は給仕の者に向かい「たわけ者には食わせるな!」と言いつけた そこで給仕の者、配膳を止め立ち上がろうとした。が、その瞬間小倉はその者の 手を抑えつけると 「そのままま湯漬けを置いていくのだ!置かぬというのならそなたと刺し違える! だいたいあのような、武士に恥をかせるような仰せに唯々諾々と従うのは、 武士の道ではないだろう?」 と、引き止めた。 秀政はこれを見て、「あいついい根性してるな」と却って感心し、その後小倉に加増をした とのことである。 正直いい話なのかなあ?とも思うが、まあいい話として伝えられているのでこっちにw
759 :
人間七七四年 :2010/01/06(水) 19:09:34 ID:OdORZ3B/
いい悪い以前に、現代人からするとわけわからんw
760 :
人間七七四年 :2010/01/06(水) 19:35:46 ID:Oe5gUBV5
>>759 正直書いた自分も、現代語に訳しながら良くわからなかった。
非常に苦労したw
まあ基本的には、呼ばれもしないのに出てきた小倉に秀政がむかついた、ってだけの話で、
それに小倉が「殿の命令でも、人々の面前で武士に恥を懸かせるような事は
良くないから聞かなくていいよ」、って秀政の前で言い放ったのがいい話、だとは思うのだがw
761 :
人間七七四年 :2010/01/06(水) 19:38:27 ID:a1cbga9K
食い意地張ってるようにしか見えんw
762 :
人間七七四年 :2010/01/06(水) 19:58:00 ID:2xtqCF3f
>>760 最近の中間管理職は人前で
叱責するのが普通だから
サラリーマンには違和感ありまくりだろ。
763 :
人間七七四年 :2010/01/06(水) 20:24:34 ID:CbqeHQK9
そりゃ人前で叱責しないと何もしてない無能にしか見えんもんな、今は
764 :
人間七七四年 :2010/01/06(水) 21:05:44 ID:P9XYlbql
秀政も何かちっちゃいなw
765 :
人間七七四年 :2010/01/06(水) 22:10:47 ID:I1dSw7ia
>>760 理不尽な叱責には上司といえども喧嘩するくらいの気概があれば、
パワハラや職場イジメやすぐ仕事止めてしまう若い奴らも少なくなるというところで、
逆に現代人が学べるところもあると思った。
仕事しないで怒られて逆ギレとかでは駄目だけど
766 :
人間七七四年 :2010/01/06(水) 22:25:41 ID:OdORZ3B/
>>765 当時の武士は基本的に「自分の土地」を持っていました。
だから、何があっても究極的には生活に困ることは無いんで、主君に大きくでられた。
江戸時代や現代会社員の、サラリーを完全に抑えられている状況と一緒にするのはNG
767 :
人間七七四年 :2010/01/06(水) 22:36:04 ID:I1dSw7ia
>>766 確かにそうだね。
まぁ、でも現代でも組合員になるとか、頭の良い奴は抵抗の手段を時代に合わせて考え出すわけで。
行き過ぎると権利だけ要求するタカリ屋になるんだけれど。
当時をそのままではなく温故知新として参考にするという観点のレスと思ってもらえれば
768 :
人間七七四年 :2010/01/06(水) 23:24:29 ID:jcsXx5Hu
その辺、頭いい上司はパワハラとか退職勧奨ののやり方も考えるべなw
769 :
人間七七四年 :2010/01/07(木) 00:44:31 ID:nQd3ESMG
伊右衛門と勝頼の首 『甲陽軍鑑』『甲乱記』などに、 武田勝頼主従は華々しく戦って討死を遂げたと記されているが、 史実は、そうではなかったらしい。 滝川一益「勝頼の首を獲った者には信長様が一城与えるそうだ!」 滝川家来衆「おぉー!!!!」 田野の戦いで勝頼は、戦闘に参加することなく具足櫃の上に腰掛けていた。 嫡子信勝が死に、勝頼の前面を防備していた土屋右衛門尉昌恒も 滝川一益の家臣・滝川儀太夫によって簡単に討ち取られてしまった。 その直後、勝頼の本陣幕を破り伊藤伊右衛門永光等雑兵の群れが勝頼を襲い、 雪崩の様に勝頼を襲い首を挙げたという。 永光の同輩の津田小平次は、勝頼の最期の模様を眼前に見ていたが、 勝頼は太刀で防戦するかにみえたが、飢えと疲労のために動けず、 永光によって簡単に討ち取られてしまったと、自記に記している。 勝頼の首は、永光の鞍の四緒手(しおで)にくくり付けられ、 織田信忠のもとに届けられたが、 首実検の際、多くの大将首が運ばれたため、 勝頼の首が分からなくなってしまった。 当初、小原丹後守継忠の首が勝頼のものとされたが、 勝頼の首の斬口に、永光の馬の毛がついていたので、 やっと判別できたという。 信長「親の信玄坊主が悪いから、息子も孫も滅ぼしてやったzw!」 家康「若さゆえの過ちか・・・」 右衛門は信長に面会を許され、勝頼の最期を問い正された 右衛門「あれが勝頼だったか?疲れてたみたいで簡単に倒せただよ」 信長「・・・で、あるか」 数刻後右衛門は帰路にいた。 右衛門「殿、褒美は何がもらえるん?」 一益「信長様の前で空気も読めないで、命があっただけマシだと思え。」
770 :
人間七七四年 :2010/01/07(木) 01:01:23 ID:nQd3ESMG
そろそろ日常に戻る前に 「最上家の食卓(正月編)」 最上家節供(せちえ)=おせち料理の意味 ・餅 ・豆腐 ・鯛 ・練りそば ・鮭 ・里芋汁 ・味噌 ・干し柿 ・猪肉 ・鰯 ・おから ・酒 ・漬物 ・雑煮 ・カボチャ ・小豆 ・大根 ・ぜんまい ・田楽 など 鮭があるのが最上家らしい。
771 :
人間七七四年 :2010/01/07(木) 09:11:30 ID:WqmNLSlb
海のものあり山のものあり、結構豪華だな 大名家なんだから当たり前かw
772 :
人間七七四年 :2010/01/07(木) 12:35:31 ID:iEb/TPX3
一見豪華なようで、妹の嫁ぎ先の雑煮の具の方が多そうな気がする そう思うとかなり質素
773 :
人間七七四年 :2010/01/07(木) 12:36:36 ID:CFkO0J+G
先日悪いスレでも微妙に可哀想な目にあってた甘粕近江守景持のいい逸話無いかなあ。
(
>>523 の甘粕正彦は景継系では無く景持系の子孫)
御館の乱でも大身譜代として存在感大きかったみたいだし、川中島の戦いにおける手際も
なかなかなのに駿河の民である俺にはなかなかこれというネタを見つけられぬ。
774 :
人間七七四年 :2010/01/07(木) 14:00:46 ID:+1IvatIP
775 :
人間七七四年 :2010/01/07(木) 14:29:38 ID:JB5FbBTW
>>774 天文年間にポルトガル人が持ち込んだらしい
カボチャの栽培ってすげぇ簡単で、芽が出たら放置してても育つから
そこそこ普及してたんじゃなかろうか
ただ、今食ってるカボチャは西洋カボチャで
当時のカボチャとは品質がちょっと違うらしいから味は違うかもね
776 :
人間七七四年 :2010/01/07(木) 14:41:46 ID:L8ixMUf7
>>772 今の関東風雑煮と言われているものは
もっと具が少ないぞ
777 :
人間七七四年 :2010/01/07(木) 16:22:57 ID:hhrP+nZu
>774 サツマイモ同様に南米由来のジャガイモが流入してたら18世紀あたり食料革命がおきたかもなー
778 :
人間七七四年 :2010/01/07(木) 17:22:09 ID:7U6Rjwv0
カボチャってそのままじゃ大して美味くないし、あまりありがたみは無さそうだな
779 :
人間七七四年 :2010/01/07(木) 17:29:09 ID:BSxvQoJd
>>777 日本には稲があるからなー
連作障害やその他を考えると、いまさらに日本にきたところでたいして影響があったとも
780 :
人間七七四年 :2010/01/07(木) 17:50:21 ID:OqqZ4gCL
ジャガイモは寒さに強いから、冷害の年を生き抜くのにすんばらしそう。
781 :
人間七七四年 :2010/01/07(木) 17:52:18 ID:iEb/TPX3
当時は品種改良も進んでなくて水稲に不適だった北東北から蝦夷では食料革命おこせたかもな
782 :
人間七七四年 :2010/01/07(木) 17:52:20 ID:gl9Nkfz4
実際には役に立たなかった維新後の記録があるけどな<ジャガイモ
783 :
人間七七四年 :2010/01/07(木) 17:59:08 ID:Rf+Wl1x1
>>769 これはいいねえ。
信長は勝頼の首を蹴飛ばして罵倒したなんて話もあるが。
信長の武士の情けを見た。
784 :
人間七七四年 :2010/01/07(木) 19:54:33 ID:aa+kcGj1
>>783 武田家とは戦うべくして戦っているからね。
まさかの裏切りがあった浅井親子とは違う。
785 :
人間七七四年 :2010/01/07(木) 21:32:50 ID:ZsSkq12G
髑髏を箔だみにするのって何かの密教の供養方法だとか。 信長は酒飲めないから杯にしたというのはデマ。
786 :
人間七七四年 :2010/01/07(木) 22:50:29 ID:wzHjLXBB
天正14年(1586)2月、本多忠勝の長女・稲は真田信幸と婚礼を挙げることになった。
(もうすぐアイツと・・・ああ、でも
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-722.htmlとか やっちゃったし、うまくやれんのか・・・・・・
い・・・いや、アイツはその程度は気にしないデキる男だ!・・・でもアイツの親父さんは
徳川を嫌ってるみたいだし・・・・・・
いや、アイツは包容力のある、いいヤツだ!・・・でも・・・・・・)
「姫様、お支度が整いましたが・・・」
「・・・・・・・・・」
「姫様?」
「・・・・・・・・・・・・吐く」 _| ̄|○
「大連院(小松さんの法号)様、・・・同十三日、御二方様御登営有之処、御新造様御不快、
依之十五日迄御滞留・・・」(大連院殿御事蹟稿より抜粋)
こうして婚礼は二日間延期になりましたとさ。
おお、乙女オトメ。
787 :
人間七七四年 :2010/01/07(木) 23:18:04 ID:daGriUf6
>>785 インドではそうだが、日本にその奇習は入ってきてない
つか信長公記で信長貶めるデマ書く必要ないだろw
788 :
人間七七四年 :2010/01/07(木) 23:37:38 ID:gl9Nkfz4
なんだ立川流の髑髏本尊は嘘か
>>786 吐く乙女…?
関係無いがまとめのプロフィールにちょっとびびったw
789 :
人間七七四年 :2010/01/07(木) 23:50:40 ID:Vle3UNtl
つまり、「あまりにも悩み過ぎた為、胃が痛くなりリバースしてしまった」って所ね。
790 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 00:05:17 ID:AKq1Ffes
立川流とか戦国期にはほぼ壊滅状態で、江戸期に止め刺されてる上に、 史料も散逸してどっからほんとでどっから嘘なんだかわからん
791 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 03:06:02 ID:BgJRFbWu
>>769 やる夫真田でもその話を見たのだが、最後は全然、華々しくないよなー。
追いつめて押し込めて、最後はもはや残党狩り。
天目山の「戦い」なんて格好良いもんじゃねぇ。
792 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 04:00:20 ID:50O16mOn
裏切り続きで逃げてて ついに追い詰められて死んじゃったって感じだしな
793 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 09:17:53 ID:eES7IsMi
立花宗茂の話が出てたので便乗して道雪&紹運、 宗茂の逸話を織り交ぜたお話を。 立花道雪が落雷で半身不随となり不幸にみまわれた頃(1576年頃)のお話。 当時龍造寺家、毛利家との争いが激化しており両家との合戦中のことであった。 道雪が指揮している部隊の一角が崩れ大ピンチ! そんな時道雪が大声で叫んだ。 「我が輿を敵中に入れよ!命が惜しければその後輿を置いて逃げよ!」 主君を敵中に置いて捨てていく事など出来ない。 輿周りの武者達は一斉に太刀を抜き敵陣深く突撃し始める。 まっしぐらに敵軍のど真ん中へ輿が突撃し始めると道雪は三尺ばかりの棒を 取って輿を叩き、「エイトウ!エイトウ!」という声を上げる。 これを聞いた武者達は「それ戸次音頭が始まったぞ!」と 言うやいなや、我先にと競って敵を攻めたてる。 一旦は崩れた者たちもこれを聞くと皆脇目も振らずに敵陣に突っこみ、一斉に斬りかかる。 万一部下たちが躊躇していると「どうした、はようせい!!」と怒声が響き 鬼の形相で輿の前後を激しく棒で叩かれる。 そのため道雪の部下たちは遅れをとることを敵から逃げることよりも恥としたという。 この噂は遠く武田信玄にまで届いており、道雪と相見えたかったと言ったという。
794 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 09:19:04 ID:eES7IsMi
このような恐るべき雷公様へ養子に行く事になった宗茂 宗茂の実父・高橋紹運は「宗茂は当家の嫡男であります。平にご容赦を。」と断ったのだが、 道雪は事あるごとに何度となくねだり、ついに首を縦に振らせたという。 宗茂の婿入りが決まり、立花山城へ向かうため別れる宴でのこと。 紹運は自らの愛刀である備前長光を差し出した。 「宗茂、これを取らす。受け取るがよい。」 「はっ、有難き幸せにございます。」 「これより親子の縁を切る。」 「は、はっ?父上、それはどういう…」 「戦国の習いじゃ。こののちわしとお前が敵味方になったらその時は自ら願い出て 道雪殿の先鋒となり、この刀でわしを討ち取りに参れ。よいな?」 「…」 「返事はどうした?道雪殿は未練がましいことを好まれぬお人柄ゆえ、 何事にも迷いがあってはならぬ。」 「はっ!宗茂、承知つかまつりました!」 「うむ。またお前が何か不覚により道雪殿から離縁される事があるかもしれないが、 その時は当城に帰って来てはならぬ。潔くこの刀で自害せよ。」 このようにして刀を宗茂に与え、道雪の元へ送り出したという。
795 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 09:20:06 ID:eES7IsMi
時は流れて天正12年(1584年)頃のこと 沖田畷の戦いで龍造寺隆信が島津家に敗れ戦死したため龍造寺家が島津家の傘下となってしまう。 立花・高橋軍は結束して龍造寺・島津勢を破って筑後への侵攻に成功するが 道雪が筑後・猫尾城攻めの陣中にて高齢のため病に陥ってしまった。 道雪の容態を気遣う手紙を送ってきた宗茂・ァ千代に対し、道雪はこう返した。 「自分の死後、遺骸に甲冑を着せ柳川の方に向けてこの地に埋めよ。その後陣を引くがよい。」 その後、道雪は亡くなってしまったが宗茂夫妻、家臣一同敵陣へ道雪の亡骸を 置いたまま陣を引くことなど出来ないという結論に達した。 道雪の棺を輸送しながら陣を引くことになったのだが、何故か島津勢からの追撃がない。 ふと島津陣中を観ると道雪の死を悼み喪に服する島津勢の姿があった。 島津勢の中には道雪の死に涙する者も居たという。 辞世の句は「異方に 心ひくなよ 豊国の 鉄の弓末に 世はなりぬとも」 訳:これからも当家は戦ばかりが続くであろうが大友家の敵に心を揺さぶられるな。 決して大恩に仇で返してはならない。
796 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 09:21:11 ID:eES7IsMi
天正14年(1586年)筑後を攻略した島津軍は紹運の籠る岩屋城へ 10万の大軍で押し寄せ、降伏勧告を行ったが紹運はこれを拒絶。 宗茂の篭る立花山城、次男・高橋統増の篭る宝満山城へ 退却する提案にも首を縦に振ることはなかった。 7月14日、島津勢は6万の軍勢で岩屋城攻めを開始した。対する紹運の兵は700人余りであった。 しかし寡兵でありながらも高橋勢の奮戦は凄まじく、 26日になっても島津勢は城の外郭を破ったにすぎなかった。 攻め方の犠牲者があまりにも多いことから島津忠長は再度降伏勧告を行い 講和に近い妥協案を持ちかけたがそれも拒絶。 島津軍が紹運へ最後の降伏勧告をする際、使者の新納蔵人という者と こんなやりとりがあったという。 新納蔵人 「長年に渡る紹運殿の忠義、そして今その死をもって城を守らんとする お覚悟は敵ながらまことお見事です。 しかしあなたの主君・大友親子はそれに比べてどうでしょうか? 耳川での戦いを始め無用な争いを行い、結果多くの家臣が次々と叛き 今や豊後一国を治める事さえ思うに任せぬ有様です。 対して我が主君・義久様は信義を以って人に接し、民百姓の暮らしを安んじようしております。 今や九州の大半を居ながらにして治め、統一する勢いです。 これまでの紹運殿のお働きにて武門の意地も十分立ちましょう。 城兵の助命と紹運殿の本領安堵は取り計らいます故、 ここは降伏されて城を明け渡されてはいかがですか?」 これに答えて紹運 「生者必滅、盛者必衰は世の習いでありましょう。 大友家は源頼朝公より豊後の地を治める大命を賜って以来、 武名衰えたりと言えども家はまだ健在でござる。 対して島津殿はというと以前は周辺の勢力に攻められ、一国さえも治めかねておりましたな。 今少し勢いを得たと言っても豊臣公が九州に進軍の折には島津家の滅亡も有り得ましょう。 新納殿も島津家が危急存亡の際には主家を見捨てて御身のみ生き長らえるおつもりか? 主家が盛んなる時に忠励み働く者は多いが、衰えたる時に一命を捨てる者は稀ではあります。 が、士たるものその恩義を忘れてしまえば畜生に成り下がりましょう。」 この痛烈な返答に新納も言葉無く、話を聞いた島津勢からも感嘆の声が上がったという。 その日の夕刻、今度は荘厳寺という寺の快心和尚を遣わして有利な条件を提示してきた。 「もはや降伏しろとは申しませぬ。ただ、紹運殿の働きは比類ないものです。 そこで和議を結ばれるというのはいかがでしょうか? 岩屋城、立花山城、宝満山城の三城の所領は保障いたします。 実子のうちお1人を人質に差し出して頂ければ島津軍は速やかに陣を退きしょう。 これ以上の戦いはお互いの兵や民にとっても無益のはず。 今後の事は戦後また話し合うとして、今はお互い兵を退くべきかと存じます。」 これに答えて紹運 「息子達に和議を結ぼうなどと相談すればそれがしは面目を失います。 人の命運はいつか必ず尽きる時が参ります。 それを恐れて命を惜しんだとあっては末代までの恥でござる。 大友家は既に多くの将兵を失っています故、この城への援軍は来ないでしょう。 豊臣公の援軍も間に合うかどうかわかりません。 我々は一同皆、城を枕に悉く討死する覚悟ゆえ、島津殿におかれましては 心置きなくこの城を攻め取られるがよろしかろうとお伝えくだされ。」
797 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 09:22:58 ID:eES7IsMi
翌27日の明け方、総攻撃が開始された。 紹運は曲輪の高櫓から全軍の指揮を取り、数珠を片手に死者を弔いながら奮戦したが 水の手が断たれると自ら打って出て落城寸前の曲輪で自刃した。 介錯は吉野左京介が行い彼もまたその刀で後を追ったと言われている。 岩屋城では守兵700人余りの全てが討死、もしくは割腹して果てた。 島津勢の損害は討死3000人以上、手負いが1500人以上であったという。 辞世の句は「流れての 末の世遠く 埋(うず)もれぬ 名をや岩屋の 苔の下水」 「屍(かばね)おば 岩屋の苔に 埋みてぞ 雲ゐの空に 名を止むべき」 戦後、紹運の遺体を島津軍の陣中に運び諸将が居並ぶ中調べてみると 具足の引合せに寄せ手の大将・島津忠長宛ての手紙があった。 その手紙には「是一途、義によって候。諒承願い奉る。」 (これもひとえに義によってである。理解して頂きたい。)と書いてあった。 これを読んだ忠長は、床几を降りて地面に突伏し 「たぐい稀なる勇将を殺してしまったものよ。この人と友であったなら いかばかり心涼しかったろう。弓矢を取る身ほど恨めしいものはない。」 と嘆息し諸将ともども涙を流して遺体を丁重に弔ったという。
798 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 09:24:20 ID:eES7IsMi
最後に関ヶ原の戦いにおける宗茂の逸話で締め括り升。 関ヶ原の合戦当日、宗茂は大津城攻めに参加しておりその後三成率いる本隊の敗北を知った。 帰国途中のこと、折りしも関ヶ原で決死の逃走劇を果たしていた島津義弘の軍と出会う。 見れば義弘の手勢は皆手負いの上、数もわずかである。宗茂の近習が耳打ちをする。 「殿、今こそ父君・紹運様の仇を討つ絶好の機会かと存じまする。」 「馬鹿を申すな!!」 「しかし殿…」 「お前は相手の兵が少ないのを見て討ち取ったなどという事を手柄とするのか? それに義弘殿は味方ではないか。」 そう言うとわずかな供廻りと共に義弘の軍へ進み出る宗茂 「義弘殿はいずこ?」 近づいてきたのが宗茂の軍と知って警戒する義弘の軍に対し 「そう警戒せずともよい。一言申し上げたいだけだ。」 と答え、義弘が進み出るとこう言った。 「父・紹運の事は少しも気にかけておりませぬ。 それよりも見た所、貴殿らの手勢だけでは道中心許ないかと存ずる。 義弘殿に異存が無ければ護衛を致したいがいかがか?」 「宗茂殿…かたじけない…」 「道中は諸事、心を合わせて参りましょうぞ。」 このようにして島津義弘と友誼を結び、九州まで帰国したという。 その後、宗茂が柳川城に篭城した際には、間に合わなかったものの 柳川城へ兵1万を援軍として送ったと言われている。 また帰国途中に防衛の為、京の要衝である瀬田の唐橋を焼き落とそうとする兵に対し 「古来より京を守るためにこの橋を落として結果、勝利した事は無い。 民達の通行を妨げるだけ無益であろう。」と止めさせており、 この話を聞いた家康を感心させたという。 思ったよりも長文になってしまってすみません(汗 西の勇将達のいい話でした。
799 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 09:38:16 ID:21CCZc0k
>>793 やべえ、朝から涙出ちゃったんだけど……。
かっこよすぎんだろ、宗茂。
800 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 09:47:49 ID:Q+Yo5cgr
さすが ちんちんシュシュシュの人だぜ
801 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 10:15:04 ID:n3IyOE9J
>>793-
>>798 大作乙。
この三人の逸話は読むとなんともいえない爽やかな心地がする。
宗茂が婿入りするときの「もし離縁されたら云々」て言葉は初めて聞いたな。
紹運は将としてもだが、親としてもホントに出来た人だな。
そら宗茂も完璧超人になるわw
802 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 10:16:19 ID:hAvNY+Ru
803 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 10:35:27 ID:+GrbHMFM
招運公の墓と三柱神社に敬礼
804 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 11:08:11 ID:0zvnTTzO
続けて隣国の甲斐さん家の話を見たりすると感慨深いぞ 私心なく仕えてるのにどうしてこうなった、と
805 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 11:10:12 ID:jD1jF1kA
道雪、紹運、宗茂三代の大河ドラマが見たくなってきたぜ…
806 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 11:17:28 ID:jD1jF1kA
甲斐さんは家の為とはいえ、結構酷い事してるからなぁ… 恨まれて毒殺されたって説もあるくらいだし。
807 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 11:18:04 ID:+GrbHMFM
>>803 訂正
招運公→紹運公
申し訳ないです。
808 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 11:54:46 ID:ZakExmMz
>>806 実子全員と壮絶な不仲だったんだっけな>甲斐宗運
809 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 14:30:16 ID:sIm7w+h4
つか宗運さん以外の家臣阿蘇家に見切りつけてるし…
810 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 15:47:34 ID:ry1jSsow
811 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 15:51:10 ID:sJ9GZh94
今日も巡回ご苦労様です
812 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 16:56:04 ID:ywHt+lvj
紹運さんは、息子に厳しく教育したため、面子があるから不利な状況でも逃げられないんだね。 秀吉軍が来るまでゲリラ作戦で時間を稼いだ方が効率が良かったけど・・・
813 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 17:33:33 ID:pjgVfugG
落ち目の主君に見切り付けるのは必ずしも悪じゃないのに 3代揃って義理堅くってまあ
814 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 17:38:37 ID:H8nw9nMz
景勝がサルを見て笑ったって話があったが 俺の知ってる話だとそのサルは景勝じゃなくて謙信のマネをしたって話だった そのサルに必死に謙信に並ぼうとする己の姿を見たのか 謙信の厳格な面しか体現できない景勝を「お前もまだ未熟だ」と笑う養父の姿を見たのか…て結びだった 謙信のマネって辺り創作臭がするって奴も多いと思うが話としては面白いと思う
815 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 19:50:08 ID:rOCR84CS
>>805 残念ながら一般の人への知名度がいまいちだからな。
816 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 19:54:32 ID:odT4Su+M
そんなドラマ、歴女向けの、飛んでる大河に決まっている。最悪だ。
817 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 20:18:24 ID:IaeMnFaf
毛利3兄弟で大河やってほしいんだが
818 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 20:22:21 ID:vWXJGXgx
はい、そこまで もう最初の話題から懸け離れて板違いになっていますね 自重しましょう
819 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 21:31:25 ID:VvyRlhox
820 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 21:59:29 ID:lJ2KsqQg
博多といえば山笠だが過去に道雪を飾った山笠はあったんだろうか?
821 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 22:07:39 ID:kQvPLhXR
822 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 22:14:39 ID:E346NMt9
823 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 22:36:31 ID:kQvPLhXR
有名な毛利元就三本の矢。 が、このような説もある。 毛利元就はある時こう言った 「このように一本の矢は簡単に折ることが出来る、が…」 元就、息子に矢を渡して言った 「隆元(毛利隆元)」 「はっ」 「元春(吉川元春)」 「はっ」 「隆景(小早川隆景)」 「はっ」 「元清(穂井田元清)」 「はっ」 「元秋(毛利元秋)」 「はっ」 「元倶(出羽元倶)」 「はっ」 「元政(天野元政)」 「はっ」 「元康(末次元康)」 「はっ」 「就辰(二宮就辰)」 「はっ」 「五龍(宍戸隆家室)」 「はい!」 「おまえたちの矢を束ねれば折れることは…」 「父上、10本も束ねればそりゃあそうでしょう。」 「…」 子供全員に矢を渡して教訓を述べたのだとか。 毛利の矢、3本どころではなかったと言うお話。
824 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 22:40:04 ID:gYF1Pcd4
え、今更その話っすか
825 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 22:42:51 ID:IaeMnFaf
元清や就辰も隠れた名将なんだよな
826 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 23:29:43 ID:AKq1Ffes
三木自綱「うんうん、兄弟力を合わせて挑まば、開けぬ道とてないものにござるな」
827 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 23:44:16 ID:kVAFMn30
毛利兄弟は正室が産んだ三兄弟&五龍とそれ以降に年の開きがあるから、 三本の矢の逸話は、五龍が「うちはハブられてんのかよ!」と抗議して結局四本てオチじゃなかったっけ?
828 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 23:48:47 ID:O3ptTmvs
>>812 分かっていてなお、身命を賭して戦う。
紹運公の死に様は大谷刑部と被るな。
>>813 だからこそ別格の将として扱われてたんだよ。
829 :
人間七七四年 :2010/01/08(金) 23:55:28 ID:JQyMxxpf
秀包はぶられててかわいそうすなあ それに公然の秘密とは言え、 元就が生きている間は二宮就辰が元就の子として言われる事はなかったし、 後世の人がスローガンありきで逸話作ると、どうしても無理が出てきちゃうな
830 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 00:00:05 ID:EnCrC7iT
いしいひさいちの4コマ漫画では 息子たちが3本まとめた矢も折ってしまうので 「これでどうだ」と火縄銃を渡したら それもへし折ってしまったため 「ま、まあとにかく兄弟仲良くな…」と焦るオチになっていた。
831 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 00:27:25 ID:YWk3BRBJ
ドリフのコントで、よぼよぼの志村(元就)がうっかり簡単に三本折ってしまって、 仕方がないので親戚など何だのも合わせたことにして数十本束ねるもやっぱり簡単に折ってしまって、 しまいにはありとあらゆる物を折ってしまうのがあったな。 それの別バージョンで、どんなに頑張っても一本も折れずにひっくり返った拍子に家が崩れるってのもあったな。
832 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 00:49:44 ID:vgPyYbsH
鮭様から古織様に手紙が着いた。 長谷堂の戦いが終わって城下の復興と拡張に乗り出した鮭様。 菩提寺の光禅寺一画を整備している時にふと一閃の考えが頭の中をよぎった。 (`・ω・´)「そうだ、あの方なら趣のある、面白い庭園を造ってくれるに違いない!」 義光さんから古織さんにお手紙が着いた。 (`・ω・´)「京・伏見ではお世話になりました。お変わり御座いませんでしょうか? 関ヶ原の戦いも終わり、治世の時代がはじまり、あなた様の弟子で私の甥(政宗)も こちらでイタイくらい元気にしてるようです。 (中略) もしみちのくへ遊びにこられる事がある様なら、 路銀は持たせて頂きますし先導も付けますので、 緑豊かな山形に是非遊びにいらして、 庭造りのアドバイスなんかして頂ければ義光嬉しいんですけど(´・ω・`)」 古織「政の字よ、緑と食い物が美味いところに行って見る気ない?」 小堀遠州「師匠、なんか企んでます?」 古織「いやいや、ワシもなにかと忙しい身でなゲヒヒヒ」 小堀遠州が古田織部の紹介状を持って山形に着いたのはそれから暫くのこと 山形城の三の丸外まで最上義光が自ら遠州を迎えに来ていた。 遠州「これは太守様自ら来られるとは」 (´・ω・`)「織部様は忙しくて来れないけど、 自慢の一番弟子を向かわせたと聞いていたけど、キミ若過ぎない?」 遠州「今年で23になりますが、センスは師匠譲りですよ。」 山形城内で最上家臣団を交えての酒の席で さすが古田織部の秘蔵っ子とも言われる小堀遠州 さっそく最上家臣団の度肝を抜いた。 遠州「この城内からみえる、あの綺麗な最上富士(千歳山)、 あれを庭園に入れましょう。」 千歳山を借景し、裾に織豊期の和風庭園を纏めた小堀流光禅寺庭園 地元山形の人も知らない人が多い、隠れた名跡である。
833 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 02:58:30 ID:tzHv/TMQ
そんな事より1よ、ちょいと聞いてくれよ。 スレとあんま関係ないけどさ。 この前、親父に呼ばれたんですよ。親父に。 そしたら、兄貴も弟も来てるんですよ。もう何事かと思ったね。 で、三人揃って親父に会ったら、兄貴が矢を渡されてさ 折ってみよ。とか言うんですよ。親父が。 もう、アホかと。馬鹿かと。 このジジイ、俺たちに矢を折らせるために呼びつけたのかよ、ボケが。 矢、だよ矢。 そりゃ、折れるさ。木だもん。ペキッてなもんよ。 そしたら、親父。では二本ではどうだ?とか言いやがる。おめでてーな。 とうとうボケたかと思ったね俺は。 兄貴も兄貴で耄碌ジジイに付き合ってノリノリで矢を折ってやがるし、もう見てらんない。 ジジイ、オマエな、この城の矢を全部持ってこい。 そしたら俺が残らず折ってやるからさっさと死ねと。 俺も弟も忙しいんだよ、耄碌ジジイはすっこんでろ。 で、やっと終わるかと思ったら。兄貴の奴、三本一緒に折れないんですよ。 そこでまたブチ切れたんです。 あのな、二本までノリノリで折れて、何で三本が折れないんだよ。ボケが。 困った顔して何が、折れませぬ、だ。 お前は本当に折れないのかと問いたい。問い詰めたい。半刻弱は問い詰めたい。 お前、本当は事前にジジイと打ち合わせたんじゃないかと。 戦国通の俺から言わせてもらえば、これからの我が家は親父と兄貴を殺して、 両川体制、これだね。 両川ってのは、俺と弟のこと。そんかわり兄貴は抜き。これ。 で、兄貴の子供を傀儡に立てる。これ最強。 しかし、これを失敗すると家中分裂という最悪の事態を迎える諸刃の剣。 他家の連中にはお勧めできない。 まあ、お前らド素人はせいぜい家督相続をしっかりやれってこった。
834 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 03:15:44 ID:f30UZWPw
>>833 元春さん甥っ子と三男坊のことでお悩みですかw
835 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 03:17:15 ID:Kn44GReW
ついでに嫁と姉の仲もよろしくないようで
836 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 03:49:21 ID:FIKpk1e9
吉野家コピペがこんなところにも使われるとはねぇ。 つーかネタが古すぎるよ。
837 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 04:17:48 ID:gJpQBtle
>>836 400年前の出来事を読んで喜んでいるくせに、たかが10年前のコピペが古いとかどういうことだよwww
838 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 04:25:24 ID:Nvbg1594
三本の矢の話は、吉野家コピペよりも多く使われてるだろうなw
839 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 04:33:07 ID:eTp6aOXb
侍A「三本の矢コピペがこんな所にも使われるとはねえ。つーかネタが古すぎるよ」 侍B「二百年前の出来事を喜んで読んでるくせに、たかが10年前のコピペが古いとかどういうことだよwww」
840 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 05:22:47 ID:RV6wgbyN
>>824 まとめサイトには、皆知ってるだろうとの暗黙の了解からか、
有名どころの話が入っていないので、
高橋紹運の岩屋城や毛利元就の三本の矢の話とか、
記録の意味でも、出ていない有名な話なら出せばいいと思う。
今まで戦国時代に興味なかった人には新鮮に感じるわけだから。
今、知ってる人だってはじめは知らなかったわけだし
841 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 08:54:41 ID:72j+A9iL
毛利の三本の矢って、息子たちは三本束ねれば折ることはできないが、元就にかかれば簡単に折ってしまう。 元就みたいな天才はそうそういないから兄弟が力を合わせていれば大丈夫だが、 もしそんな奴が現れたらさっさと講和しろよ。というその後の毛利家の基本方針となる訓戒だよな。
842 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 09:28:06 ID:57ZmoAk5
>>840 それで良いと思う。初期の頃なんてほとんどレスがなくて、
毎日一話のレスがあるなんて、考えられなかったし。
ただ若干被る話もちらほらあるので、その場合は「既出ですが」
と一言断りを入れた方が良いかと。
とは言え、相当初期からの住人じゃなきゃ、もうわからないかもね…
843 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 10:48:04 ID:7eC2f2Fj
毛利は連合国家みたいなもんだからな 内輪揉めすんなよって話だろ
844 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 10:55:02 ID:pN3xeRso
それっぽい単語を使ってまとめの検索すれば既出は大体出てくるけどな スレに話が出ててもまとめにない漏れも一部あるけど
845 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 11:02:41 ID:UgzxlRBs
>>844 ある人物のいい話として伝わってる逸話を検索せずに調べても出てこないから
未出か?と思ってもその逸話の中に出て来るほかの人物の悪い話として載ってることもあるから困るw
だからやっぱり検索は大事だよな
846 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 16:52:04 ID:Bovu/48I
>>843 毛利は国人からの成り上がりで敵ばかりだから、身内で固まらないと
足元を掬われちゃうぞって話だと思う。しかし元就の種は外れがないな。
孫の世代だってdでもないバカはいないでしょ。
847 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 17:27:58 ID:Q5A/vvQ5
立花、高橋家はガチでカッコいい逸話ぞろいだから泣ける。 で、兄や父なんかと比べてイマイチ地味な弟の逸話を誰かまとめてくれまいか。 嫁取りの微笑ましさ、宝満山城撤退の悲哀、明における兄救出の奮戦といい話は結構ある。 我が文才のなさが恨めしい。
848 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 17:38:15 ID:Q5A/vvQ5
自分で書いといて後から調べて、嫁取り話は既出だったね、スマン。 親父名義でまとめられてるから気付かんかった。
849 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 18:20:54 ID:u1nkVZ7f
>>847 大友家に殉じて関ヶ原に散った、従兄の吉弘統幸もね。
850 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 18:42:51 ID:Wjxva0mu
>>817 3兄弟の話は面白いよね。
この前うちの爺さんが入ってる老人ホームで、こんな落語をやってたよ。
元就「隆元、この矢を折ってみよ。」
隆元「はっ、かしこまりました。(ポキン)」
元就「よし、では元春、この3本の矢をまとめて折ってみよ。」
元春「はい、父上。(バキッ)」
元就「折るな!まったく…、話が続かんではないか。」
元春「父上が折れと仰せになったのに…。(´・ω・`)」
隆景「兄上、この矢をお使いください。」
元春「う、うむ、これじゃな。(ぐにゃり)」
隆景「さすが兄上。父上の話が早く終わるように鉄製の矢を用意いたしましたのに…。
恐れ入りましてござりまする。」
元就「もうよい!ところで隆元はどうした?これ、隆元?いかがした?」
隆景「心臓が止まっておりまするなあ。」
元就「またか。隆元はよく心臓が止まるのう。元春、蘇生してやれ。」
元春「蘇生とはどのようにすればよろしいので?」
元就「左胸の上を強く押してマッサージするのじゃ。」
元春「こうでござるか?それっ。(バキボキバキボキ…)。」
隆元「ぎゃあああああああああ。」
隆景「あ、生き返った。」
元春「どんなモンダイ。」
隆景「さすが兄上、肋骨が全部折れたようにござりまする。」
元就「くぁwせdrftgyふじこ…」
851 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 19:10:41 ID:AW9D3Dwy
隆元と入居者を掛けてる悪い話か
852 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 19:18:33 ID:aQcExPld
853 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 19:36:49 ID:BiNLMYFP
>>852 そうやって兎も角も土佐一国を保ちつつ倅の教育に熱を上げていたら仙石と大友jrのバカが・・・
854 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 20:49:37 ID:Umuudzjk
仙石で思い出したけど、安珍清姫の安珍って可哀想だよな 旅先で勝手にわけわからん女に一目惚れされて、 夜這いお断りして逃げようとしたらストーカーされたあげく鐘に閉じ込められて蒸し焼きだもんな
855 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 21:11:20 ID:0vSAAWzn
実際は(当たり前だが)蛇になることもなく、騙された後身投げしたみたいだね>清姫 悪女に仕立てる宗教ヒドス 後世の人が、物語の中で安珍を殺したのは良心が咎めたからかな
856 :
人間七七四年 :2010/01/09(土) 23:30:34 ID:8e0vSNXV
政宗と名香の有効活用。 退屈が大嫌いで、晩年は様々な趣味に没頭した伊達政宗。 能や料理、和歌の他に香道も嗜んでいた。香道は公家や大名間で高尚な遊びとして流行しており、 名香を所持することは一種のステイタスだった。 政宗も名香の所持者として知られ、なかでも寛永3年9月に細川忠利から買い取った、伽羅を「柴舟」と名付け て大切にしていた。 さて、政宗が名香を手に入れたとの噂を聞いて、この香を欲しがった者がいた。 息子の秀宗と忠宗である。 庶長子、秀宗はすでに宇和島藩主10万石の大名として独立しており、嫡男の忠宗も政宗の跡取りとして、 当然大名づきあいで香会などに出席するからである。 政宗は息子達にそれぞれ「柴舟」を譲ってやったが、手紙を書き、こう釘をさした。 「この香は貴重な香だから、むやみやたらに人に分け与えたり見せびらかしたりするんじゃねーぞ! ほんと、こんな香はめったに手に入らないんだからな!」 しかし、当の政宗がこの香を誰かに分け与えたと息子達は聞く。 秀宗&忠宗「パパ言ってること違うじゃん・・・・。」 やがて、香を贈られた者から伊達家に礼状が届いた。 「名香を分けてくれてありがと〜〜。 徳川家光」 秀宗&忠宗「・・・・・・・・・・・・。(さすがパパ抜け目無い・・・。)。」 政宗は「柴舟」をごく親しい者や身内などには分け与えたようだ。 (●口 ̄)「誰にもやるなとは言ってねーだろ。持ってるものは有効に使えよな!」 そんな、政宗の要領が良い話。
857 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 01:17:41 ID:z8drVaX4
畑谷城、江口道連の漢の意地 奥羽版関ヶ原の合戦といわれる慶長出羽合戦で 最上方江口五兵衛光清(法名道連)は最前線の畑谷城に配置されていた。 直江兼続が山形を攻めた際、進撃の道なりに当然畑谷城も攻撃を受けた。 最上義光は犠牲を最低限に抑え山形城に兵力を集中させるため、 (´・ω・`)「畑谷城のような小城で戦ったって、とうてい持ちこたえることは できないよ。急いで山形に帰り生死を共にして。義光のお願い」 と再三道連に使者を出し撤退を命じたが、 道連は「我常々この城を預かるは、このような時のため。 敵を目前にして城を捨てたとなっては、殿(義光)の家臣たるもの 末代の名折(恥)。元より命捨てる覚悟あり。忠義の心を後世に残す所存。」 と義光の命令を聞き入れなかった。 直江兼続の降伏勧告も光清はこれも無視し、 兵士・一族500人と共に上杉軍相手に激しく抗戦し、 城兵はすべて上杉勢に討たれた。 後日談 道連が徹底抗戦を決意するに至った時点で、 一族の子女を密かに城外に逃がした。 城から出た子女らは、畑谷から小滝街道沿いに逃げ延び各地に匿われた。 現在の上山市狸森地区・小白府地区・南陽市小滝地区にかけて、 その子孫が現存している。
858 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 01:48:20 ID:B8sw32no
天正十三年四国征伐に乗り出した豊臣秀吉の命を受けた、小早川隆景三万の軍勢が伊予国新居郡に上陸した。 迎え撃つは源平合戦の時代から、この地に所領を持つ伊予金子氏、金子元宅が率いる二千の軍勢。 この金子元宅、勇将の誉れ高く、その人柄は領民たちに慕われていたという。 外交政策は現実派で、長曽我部元親に誼を通じながらも、河野通直を通して小早川隆景とも友好関係を維持していた。 しかし小早川隆景が自らの所領に進攻してきた以上、自らの出処進退を明らかにしなければならない。 豊臣秀吉の後ろ盾がある小早川勢と戦をしても勝てる見込みは薄く、実際に伊予には小早川勢に恭順を示す者たちも出てきている。 だが本来、金子元宅は長曽我部方の人間である。小早川隆景との友好関係も所領の安定を思えばこそのこと。 意を決した元宅は「約を変じ強きにつくは男子の道に非ず」と言い小早川勢三万と二千の軍勢で戦うことを決める。 同時に、 「昨日は長曾我部に頭を下げ、今日は又小早川に腰を折る。 所せん肩をひそめて世を渡らんよりは潔く討死をして名を後世に残すべし、 勝負は時の運なり、死力を尽くし一戦を交え、刀折れて矢尽きるまで身命を賭して戦うべし。」 との言葉も残している。 武士の意地をとった元宅に軍勢の士気も上がり、小早川三万に対して勇敢に対抗した。 兵でない領民たちも地元意識と長くこの地を治める金子氏を慕う気持ちから、 自主的に非正規軍を結成して小早川勢と戦ったと言う。 そして七月十七日、もはやこれまでとみた元宅は自ら城に火を放ち、野々市原に討って出た。 そこで金子勢生き残り十三人になるまで戦い抜き、自決してその生涯を終えた。 戦後、小早川隆景は金子勢の武勇を賞賛し野々市原に千人塚を建てて弔い、 同時に旧金子領の復興にも尽力したと歴史は今に伝える。
859 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 01:55:54 ID:z8drVaX4
飯田播磨と谷柏相模の友情 飯田播磨守は最上義光の命によって、 谷柏相模守・富並忠右衛門・高楯遠江・日野伊賀・向田八郎左ら100名ばかりの兵と 江口五兵衛を畑谷城から山形城へ連れ出すべく馬を進めたが、 到着前に畑谷城落城を前進の敗兵により知った。 しかし谷柏と飯田はそのまま引き返さず 「城は落ちても、残った兵や領民がいるだろう。 救わねばならぬ」と言い現場へ向かった。 道中着の身着のままの女子供老人が畑谷から逃れてくるのを見て 飯田は谷柏に 「自分はしばらく敵を防ぐから、逃れてきた人々達を山形城へ連れて行ってくれ」 と頼み、勇敢にも上杉軍の軍勢が押し寄せるなか突入していった。 上杉兵`∀´「敵将討ち取っただぁ!」 飯田!゚∀Y「うわぁぁ・・・」 飯田播磨守は畑谷からの落人を逃す為に上杉軍に立ち向かい討死。 谷柏゚Д゚|「播磨ぁ!!!!」 谷柏相模守はこれを見て討死覚悟で上杉軍へ突入して追い散らし、 打ち捨てられていた飯田播磨守の首を探し出し泣く泣く山形へ引き上げたという。
860 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 02:50:29 ID:tLXEtAWh
高橋、江口、金子とか確かにいい話ではあるのだが。 現代ではこのような人がいたとしたら非難対象になりこそすれ、評価されないよな。 もっと人命を大切にしろと。 戦国乱世であればこそのいい話。
861 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 02:58:37 ID:4rmhpWaC
あれだけの大大名だったわりには良いスレ・悪いスレ通じて大内ネタって少ないよな
862 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 04:24:13 ID:cgkYk995
>>730 萩尾大学って最期は岩屋城の戦いで討ち死にしたんだっけなぁ・・・
たいしたものですよ
863 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 05:27:12 ID:L0TVGuEo
都人の魂幾百まで
南部信直の例(
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-181.html )が示すように、東北大名は上方では田舎者扱いされていた
これは、後に伊達者と呼ばれる程のまーくんでも例外ではなかった
政宗公が上洛した折
公家の人々が政宗は田舎者だと侮り、桜花を手で折って
「一句詠んではくれないか」と試すように望んだ
政宗は即座に
「大宮人 梅にも懲りず 桜かな」
と発句してみせたところ、公家達は恥じ入り句を継げなかったという
これは、平安時代の前九年の役の折、義家に破れて都に連行された安倍宗任に公家達が
「蝦夷如きが花の名を知るはずもない」と、嘲笑しながら梅の花を見せ付けたのに対し
「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」
と詠み、宗任が見事に切り替えした故事を政宗が引用し、公家達を痛烈に皮肉ったものである
(●∀゚)「梅に続き桜とは、いつまでたっても懲りないねぇ」
と、なんだかんだで高い教養の片鱗が見える政宗公のいい話
864 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 05:59:47 ID:1x6AzRAj
865 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 06:16:10 ID:z8drVaX4
サントリーのお偉い人が 「東北はクマソの産地、文化程度は極めて低い」なんて発言をしたことも あったし、今も昔も偏見は何も変わらないって事で。
866 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 06:22:09 ID:z8drVaX4
鮭の伝統 鮭が好きだったのは義光だけではなかったらしい。 義光が亡くなった翌年の慶長20年(1615)正月13日、 徳川家康が岡崎で鷹狩を楽しんでいたところへ 最上家親の名代として最上の外交役・坂紀伊守光秀が 陣中見舞いに訪れた。 最上家からの献上品は 白鳥二 黒馬一疋 最上蓼漬一桶。 光秀自身も家康に 子篭鮭十尺 (庄内産) を土産として持っていった。 74歳の家康は「ご飯の合わせにいいんだよ、コレ」と 喜んで光秀に面会し最上家親の働きについても 合わせて礼を述べたという。
867 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 06:26:46 ID:4rmhpWaC
黒官の鮭のせいで元春が・・・
868 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 06:29:49 ID:z8drVaX4
>>867 宇喜多直家「鮭だけではノドが乾くだろうに、ワシの茶でも一服いかがかな?」
869 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 08:26:31 ID:CalYJj83
宇喜多なんぞの策に引っかかる元春じゃないし
870 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 10:10:29 ID:iHKMutCZ
871 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 10:12:55 ID:iHKMutCZ
872 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 11:13:02 ID:lYjJN4xi
>>865 東北をクマソですか大宮人の知性は・・・
政宗の返しを言った気持ちが何となく・・・
873 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 11:54:22 ID:XcR9eX8P
>>866 確かに鮭旨いよな、家康も好きだったとは。
874 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 12:02:08 ID:ogAnAovn
鮭は皮の部分にコラーゲンがたっぷり含まれているからお肌に良いんだぜ
875 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 12:12:28 ID:AQwgZJ9q
876 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 12:18:14 ID:16Cr2IDU
865とかみるとうわぁwて感じ。 大宮人に綺麗に皮肉れる伊達はやっぱセンスある人だな。
877 :
863 :2010/01/10(日) 12:56:16 ID:L0TVGuEo
>>864 確認が足らず、既出申し訳ないorz
ちょっと人取橋で左月斎の供回りを務めてくる
878 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 13:23:18 ID:MIKHQO2L
鮭の話なんだが・・時代がわからん (戦国末期か江戸初期?) 井伊家から皇室へ塩鮭が献上された。 その夕、鮭が天皇の食卓に並んだが、半分残したと聞いて 「御気に召さなかったか・・」と気を落とす井伊家の使者に、取次ぎ役が 「お上はたいそうお喜びになり、残り半分は明日に取っておくと言われました」 と伝えた。 天皇の食卓には7種の馳走を並べる決まりがあったが、 そのうちの3〜4種には赤い札が置いてあった。 これは既に腐っているから食べないようにという印である。 皇室の困窮さを物語る話 鮭嫌いの人、スマンナ
879 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 13:31:53 ID:dNw46TVv
まあアテルイから226事件まで、東北は中央政府の敵であり続けた訳で 今や財政改革路線の敵認定だし、偏見はまだまだ消えないだろうね
880 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 16:17:37 ID:yaiR1ZlM
>>870 ∩___∩
/ ノ \ ヽ
| ● ● | カルシウムと塩分が足りないんだね?
彡 (_●_) ミ
/、 |∪| ,\ 親がエサ与えないのか?鮭やるから帰れ
/.| ヽノ | ヽ
,,/-―ー-、, --、 .|_,|
r-、,'''";;:;;:;::;;;;:;;::;:;:;;::;:;`'- /_,l,,__ )
|,,ノ;;:;r'" ̄ ゙̄^"`Y'-、;;;::;:;::;:;:;:;::;:|
.ヽ,′ ; `"";;;;;⌒゙')
´`゙'''''''''''‐-‐'"`‐-‐'"゛ `゙´
| .‖ /
("___|_`つ
881 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 16:38:32 ID:4rmhpWaC
>>874 鮭は身より皮を食べるものだろ常考
>>878 >既に腐っているから食べないようにという印
何そのトリアージ・・・井伊家からってことは江戸期の話だよな
貴重品の鮭を半分残したのは分かるけど、マジで!?
882 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 16:44:46 ID:d2ICnwf5
>>823 大内義隆「わしは十人相手でもかまわんぞ」
883 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 16:49:16 ID:20cO0w+7
>>881 光圀公乙w
井伊家は南北朝時代南朝方で活躍した家で、皇室とは
非常に繋がりが深かったらしいので、これはおそらく
皇室が最も衰微した、応仁の乱から信長の上洛
あたりまでの話じゃないかな?
実際には、皇室の経済的状況は信長→秀吉→家康の順番で
良くなってる。天皇の代替わり儀式である大嘗祭は室町末期から
断絶して、江戸期になってようやく復活した。
884 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 17:08:29 ID:yaiR1ZlM
>>881 宮家の窮乏は有名な話。
じゃ、それに関してイメージの話を。
古田織部と北山の茶会
豊臣の天下が決まり、北野の森で大名・武士・町民・農民・商人を交えた大茶会が開かれた。
古田織部監修により集められた武将は
伊達政宗、佐竹親子、最上義光、蒲生氏郷、上杉景勝、直江山城、浅野長政、福島正則、加藤清正、細川三斎、
宇喜多秀家、黒田長政等。
主賓が秀吉なだけに
政宗( ●ロ゚)「(山形の伯父貴?)」
義重(`Д´)「・・・(政宗が一緒だと?)」
義光(´・ω・`)「(・・・)」
氏郷《゚Д゚》「古織めぇ(怒)」
景勝( ・ω・)「・」
直江( ゚∀゚) 「殿は此度は御招き頂き恐悦至極とおっしゃられているようです」
浅野(´ヘ`;)「(なんだ?この人選は?)」
正則( ´・ω)「(今度は最期になりませんように)」
清正( ´・ω・)「(ヒゲがじゃまじゃ)」
三斎(゚∈゚*)「・・・」
秀家(  ̄ー ̄)「(名だたる諸将、これは凄い)」
黒田(´・д・`) 「(いわくありげな茶会じゃのう・・・)」
どの部将も辞退など出来るハズもなく
重苦しいギクシャクした雰囲気の中で茶会が行われた。
秀吉「織部、この人選に意味はあるのか?」
織部「名前を見て面白そうな組み合わせにしてみたのでござるよ、ゲヒヒヒヒ」
人より優れたモノを持つ者は異才といわれる、
呉越同舟を纏めた茶会のお話。
885 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 17:28:22 ID:L6btYsgC
>>884 「へうげもの」でもぜひ見てみたいシーンだなw
886 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 17:47:26 ID:knzCwWjb
東国諸大名のギクシャクっぷりは異常
887 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 17:47:38 ID:BkWYW9uQ
>>884 九州大名でやるなら
島津義弘、伊東祐兵、鍋島直茂、立花宗茂、大友義統で茶会をするようなものか。
この組み合わせほどにはギクシャクはしない感じ。
888 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 17:55:20 ID:BkWYW9uQ
>>884 になにか足りないと思ったら、南部と津軽が入っていないな。
そしたらもっと殺伐とした茶会になっただろうw
889 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 18:30:42 ID:yaiR1ZlM
これに相馬が加わったら 政宗の仲直り熱湯茶会の面子が揃ってたんだがな。
890 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 18:42:10 ID:PjR3kSSN
891 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 18:56:31 ID:Z8cJ96JH
>>858 > 昨日は長曾我部に頭を下げ、今日は又小早川に腰を折る。
国人なんて、周辺の強豪みんなの御機嫌伺いしなきゃならんのよな
こういう華々しさとは無縁なのが、本来の姿なんだろうね
892 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 19:03:54 ID:93EnXJVh
以前、南部と津軽は同席させないとか、毛利と吉川は同席させないとか 諸藩の取説表にしたサイト見たことあるけど興味深かったな
893 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 19:16:06 ID:4rmhpWaC
>>883 へぇ、井伊って以前から朝廷と繋がりがあったんだね
一介の井伊谷の郎党ではなかったのかー
>>884 大名衆にとっては、秀吉時代が一番他の大名とも交遊できて楽しそうだね
江戸時代なんて儀礼至上主義すぎて泣けるw
894 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 19:34:03 ID:zS8fvCJ9
>>884 えーと、この頃仲が悪いのは…
政宗と氏郷、佐竹親子、義光、直江…?あれ?分からん
忠興さんと黒田の長政さんって、この頃はまだ仲悪くないよな?
895 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 19:57:20 ID:SU6/GC7S
>>884 大和大納言といわれ豊臣政権の温厚な重鎮である秀長は
この直後から体調を崩し復調する事がなく死去するのである
896 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 20:13:10 ID:v9wwhwDH
兄ちゃん、勘弁してよ。 みたいな心労がたたってか?
897 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 20:19:07 ID:TsnWuO7M
政宗を助けた猪捕りの名人の話 伊達政宗の家臣に、市左衛門という者がいた。 五十石そこそこの下級侍で、狩場で鹿や狼を見張ったり 政宗が狩場に遊びに来ている時に先役をする程度の者だったが、 だんだんカモシカや猪などの大物を捕るのが上手になっていき、 猪捕りの名人と言われるようになった。 ある時、政宗は大勢の家臣を連れて、 作並にて狩りを行った。 一日目は鹿三十頭、カモシカ十頭、猪十五頭を捕って、 腹一杯に食べて温泉も堪能し、大満足であった。 その翌日も、勢子の追い出しが上手だったので、 隠れていた獣たちが次々と飛び出して、お昼近くには みな大猟で疲れてしまうほどだった。 その時である。窪地に身を隠していた大猪が、 政宗のいる本陣めがけて一直線に飛び出した。 勢子の者達が驚いて、大声で叫ぶ。 「殿のほうに向かって行くぞ、殿をお守りしろ!」 だがこの大猪の勢いは凄まじく、 棒や槍を跳ね返しながら政宗にあと二十メートルほどにまで迫った。 誰かが大声で怒鳴っている。 「市左衛門はおらぬか!市左衛門は……!」 その声に応える様に、幔幕から市左衛門が飛び出してきた。 持っていたのは腰の小刀のみ、しかし市左衛門は猪の事をよくわかっていた。 一直線に向かってくる猪の横に向きを変えたその瞬間、 小刀を抜いて局部を突き刺した。 大猪は二・三度暴れたが、どおと音を立て倒れて事切れた。 政宗はこれを見て、大変見事な倒し方だと驚き、 目の前に市左衛門を呼び出して、 褒美として百石を加増、 更に自分の御衛隊(旗本)である御名懸組に加えることにした。 市左衛門はその後も各戦場で手柄をたて、 番士組にまで出世して八百余石を取り、 後に上遠野伊豆と名乗ることを許されたという。
898 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 20:24:36 ID:NvRU2Zlo
>>897 なんかその時機を窺って大将倒そうとしたような猪もすげーな
899 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 20:32:45 ID:v9wwhwDH
もののけ姫みたいだな
900 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 20:33:15 ID:yaiR1ZlM
市左「いいか、休憩になったらこの似顔絵のヤツをやーっておしまい」 つ( ●ロ゚) 猪「あらほらさっさー」
901 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 20:51:44 ID:93EnXJVh
その頃の東北にイノシシいたのかな? 小氷期だったから、温暖な場所の動物(短足で雪に弱い猪)の生息域は狭く 寒冷な場所の動物(鮭や丹頂)の生息域は広かったはずだから
902 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 21:19:47 ID:oRgFWAvC
小刀で倒したって文にするとなんでもないけど実際凄いことだよな 北海道には包丁で熊殺したマタギがいたらしいが凄腕になるとそんなことも可能なんだろうか?
903 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 21:34:28 ID:blKO8dtt
904 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 21:42:36 ID:B8sw32no
>>902 >包丁で熊殺したマタギ
達人だなw
そのマタギさん、戦国時代行っても通用する肝っ玉持ってそうだ
905 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 21:45:34 ID:vXDpsl/G
猟師が持ってるのは山刀じゃね 獲った獲物解体したり山歩くのに邪魔な草木切り払うのが主な用途な分厚い包丁みたいなのだけど 猟師が熊を鉄砲で仕留め損なって熊に体当たりされて鉄砲も落としたが 山刀で熊の心臓を一突きにして助かったみたいな話もわりとあって 猟師の最後の武器といったものでもある
906 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 21:54:31 ID:oRgFWAvC
907 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 22:01:19 ID:Un0PqqLf
908 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 22:58:37 ID:nx4ew34O
909 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 23:00:46 ID:XB9JXMn0
>>884 豪華と言うか、凄絶と言うか…w
家康の時代になったら絶対実行できないな
910 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 23:27:49 ID:2Kysx8tf
一字拝領 昭和中期にシスコン的な手紙で それまで「よしみつ」いや「よしあきら」だろうと 諸説あった鮭様の呼び名論争に終止符が打たれた。 さらに後年 「與 光 義光(花押)」(光の字を与える よしあき) という紙まで見つかってしまっては それまでの最上家臣団の定説とまで言われていた名前の「読み」までが変わってしまった。 大山内膳正光隆みつたか 楯岡甲斐守光直みつなお 松根備前守光広みつひろ 氏家左近丞光氏みつうじ 江口五兵衛光清みつきよ 寒河江肥前守光俊みつとし 坂 光重みつしげ 坂 紀伊守光秀みつひで 坂 光房みつふさ 志村九郎兵衛(光清)みつきよ 志村伊豆守高治(光安)みつやす 野辺沢宮内少輔光昌みつまさ 向田八郎左衛門光之みつゆき 「みつ」→「あき」で呼び直し 氏家守棟が最上義守の一字拝領だから わかるっちゃあわかるんだが。
911 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 23:31:05 ID:8csEUUv2
でもそれだと高師直がコウモロナオじゃなくてコウモロタダにならね
912 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 23:31:49 ID:SfeJLZSS
>>906 包丁でヒグマ殺すとかヘイヘとか舩坂の領域に近いなw
ちゅうか日露の帰還組か、強いはずだわ。
参考(wikipedia引用)
ヒグマ標準スペック
オスの成獣で体長2.5-3.0mで体重250-500kg。メスは一回り小さく体長180-250cmで体重100-300kgほど。
がっしりとした頑丈な体格を誇り、頭骨が大きく肩も盛り上がっている。足は時速 55 kmと競走馬なみの速度で走る。
ニホンイノシシのスペック
体長は雄110-170cm、雌100-150cm、肩高60-90cm、尾長30-40cm、体重80-190kg(岐阜市で約220kgもの雄個体が捕獲されたこともある)
913 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 23:38:32 ID:2Kysx8tf
>>911 前田慶次郎利益(まえだけいじろうとします)みたいに
「慶ニ」「利太」「利増」と書かれてる書物が多ければ判明も楽なんだけどね。
914 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 23:41:31 ID:BkWYW9uQ
915 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 23:45:03 ID:2Kysx8tf
>>912 竜造寺隆信がハチミツを片手に何かを訴えている模様です。
916 :
人間七七四年 :2010/01/10(日) 23:45:55 ID:xSe/Wdtg
917 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 00:02:30 ID:WBlWfLuy
>>912 大猪って事は200kg近くの巨体が向かってきたわけだ
槍や棒でも立ち向かいたくないのに小刀で立ち向かったのはやばいなw
918 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 00:18:29 ID:fRsIUNmg
(;●Д゚)「うちのママンでさえ離れた場所から弓矢で射ったってのに」
919 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 00:19:27 ID:DcW+2caN
920 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 00:20:04 ID:+h5b8c9r
神戸には信号守って横断歩道渡る猪がいたというのに あいつまだ生きてんのかな
921 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 00:24:29 ID:waxngXUg
922 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 00:35:59 ID:WvRVVHGJ
923 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 01:18:28 ID:moyL609w
>>919 >>921 ・正式な読み方がわかった
・史料で判明
重要度はさて置き、当時の読みがわかったいい話では?
924 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 01:20:01 ID:xZ6uOCVJ
九州の一夜城 益富城は秋月街道と日田街道が交差する交通の要衝「大隈」の街近くにあった城である。 当時の「大隈」は長崎街道ができ「飯塚」が栄えるまでは筑豊地区一の街であり、 益富城は大内・大友・毛利と領有権が移り、ラスボスの九州征伐時は島津方秋月種実種実の城であった。 羽柴秀勝率いる九州征伐軍はまず手始めにとばかりに秋月氏の支城のひとつ岩石城をいとも簡単に攻略した。 そのあまりの猛攻ぶりに秋月勢は支城を捨て、拠城の古処山城に篭城する作戦をとった。 当然、益富城も放棄したのである。 放棄翌日の夜、九州征伐軍が「大隈」の街に到着。そしてしばらく経つと「大隈」の街は炎に包まれた。 その炎は益富城から5キロ以上離れた古処山城からも良く見え、「大隈」の街は火の海の様に見受けられた。 さすがラスボスやってくれるぜ・・・と思われた翌朝だが「大隈」の街は何事も無かったかの様にそこに存在した。 しかも益富城が一夜にして白壁の立派な城に変身していたのである。 この事態に秋月種実は戦意を喪失し、その後ラスボスに降伏することになる。 秋月氏を降伏に追い込んだ「大隈炎上」と「益富城変身」、この仕掛けは簡単なものであった。 「大隈炎上」はただ街人に一斉にかがり火を焚かせたものであり、 「益富城変身」は街人から徴収した戸板・障子などを集め紙を貼ったただのハリボテだったのだ。 このような策を弄したのはおそらくは秀勝の副将蒲生氏郷だと思われる。 その後の益富城は黒田氏の筑前六端城のひとつとして後藤又兵衛→母里太兵衛と城主を変える。 一国一城令により廃城となるまで対豊前(細川領)への備えとして活躍したのである。
925 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 01:26:09 ID:xZ6uOCVJ
>>923 どちらかと言うと学者からしたら今更の悪い話じゃね?
926 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 03:40:34 ID:DXwwnTeA
我らの世代で解明出来た 後世に間違いを残さず済んだ 先人には悪いがキリのいい話という事で
927 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 04:07:18 ID:DXwwnTeA
かわいいから許す 最上義光が山形城内で食事を摂っていると 息子の飼っていた猫が義光の処へ近づいてきた。 (´・ω・`)「・・・」 様子を見ているとぬこが義光の膳を食べ始めた。 近習「!!」 小姓達がぬこを叩き出そうとすると 義光がそっと切り出した。 (´・ω・`)「猫に分別は無いし、お腹が空いてたんだろうね。許せ」 妹、奥さん、娘どころか小動物にも弱かった鮭様の話。
928 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 05:19:49 ID:YENPamLa
猫「この鮭うめぇw」
929 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 05:34:07 ID:pwZKH5UW
秋月さんも重臣の意見を受け入れて早期に豊臣に降伏していればなぁ それまで大友、龍造寺、島津と渡りあうくらい政治感覚は優れてたのに
930 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 08:12:37 ID:Klu1Yg2a
>>927 鮭様話でいちゃもんつけられたからって無理やり適当な逸話を作るのは良くないな。
931 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 09:26:57 ID:LRqdN2xb
顔文字使ってる時点で読む気がしない
932 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 09:43:53 ID:V8d2U/9J
933 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 10:05:40 ID:/8u9zG2I
>>927 いくら猫でもしつければ人間のお膳に手を出さんくらいの分別はつくんで
殺されそうならともかく、叩き出すくらいはするべきじゃねーかと思います
934 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 10:36:09 ID:c7AzyIX2
最上ネタを書く方も否定する方ももう少し空気読むというかタイミング考えろと なんで双方粘着質に意地になって書き込むかなあ
935 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 10:58:21 ID:3REyWEUK
ぜんぶ自演なんじゃないかと思ってしまう
936 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 11:09:14 ID:3REyWEUK
いい話スレだと、どうしても話題が偏ってしまうな 最上、立花、伊達、真田あんちゃん皆好きだが、立て続けだと食傷気味だ たまには一条兼定のいい話も見てみたいんだが
937 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 12:10:51 ID:qQg2CDvV
>>929 でも家はちゃんと残って、後には上杉鷹山を輩出したから、結果オーライでしょ。
938 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 12:27:07 ID:teQiC6Eq
しかしながら、良い話にしろ悪い話にしろ最上ネタがでると何故こうも荒れてしまうのか。 既出の話を何度も出すとか、活躍した時代が違うとかなら分からなくは無いけど。最上の何が いけないのだろうか?
939 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 12:49:30 ID:uIlY/LTN
最上っていうか義光はダークサイドの人間なのにあえて養護する奴がウザイという事なんじゃないでしょうか
940 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 12:49:52 ID:KKNarToj
>>938 多分subだろうが別になにもいけなくないよ
subが偏執的に最上を嫌ってる事が一点
それに対して感情的に反応してしまうお子様がいるのが一点
両者の言い争いに苛ついて
>>934 みたいに自治厨化する奴がいるのが一点
悪いのは最上の話じゃなくて取り巻く人にある
わかったら無駄レスでスレを消費するんじゃなく逸話の一つでも投下しようぜ
議論するスレじゃなくて逸話を楽しむスレなんだから
941 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 12:55:59 ID:rG0C9ynf
スルーが一番ってのには同意するが、 わざわざ煽るようなレスせんでもいいんでないの? 一言多いよ。
942 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 13:48:20 ID:mkCArZm7
確かに
住民を偉そうに評じていく
>>940 は何なの?と言いたい
943 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 13:53:45 ID:kjPs9m4s
┏┳┳┓ ハイ. ┏┳┳┓ ┏┫┃┃┃ 煽り合いは ┃┃┃┣┓ ┃┃┃┃┣┓ ここまで ┏┫┃┃┃┃ ┃ ┃┃┏━━━┓┃┃ ┃ ┃ 煽り ┣┫ . ・∀・ ┣┫. STOP!┃ ┗━━━━┛┗┳━┳┛┗━━━━┛ ┏┻┓┃ ┏━┛ ┣┻┓ ┗━━━┫ ┗━┓ . ┗━━━┛
944 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 14:14:55 ID:LfVKgnUg
945 :
938 :2010/01/11(月) 14:15:42 ID:teQiC6Eq
失礼しました。では話を1つ。(長くなりますが、ご勘弁を。) あるとき、矢作橋にて一人の少年が休んでいると野武士の一団が通りかかり、その頭が少年の頭を蹴飛ばした。 するとこの少年「人の頭を蹴飛ばしておきながら無視するとは何事か!一言詫びろ!」と頭を睨み付けた。 そう言われた頭はこの少年の度胸の大きさに感心し、自分の屋敷に招いた。 「一つ知恵比べをしよう。3日以内にこの刀(名刀正宗)を奪い取る事が出来たら、お前にやろう。」 「分かりました。受けてたちましょう。」こうして二人の知恵比べは始まった。
946 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 14:54:46 ID:ubLrULUs
>>945 続くならまとめてから書き込めボケ
何分空ける気なんだ
947 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 14:56:19 ID:/8u9zG2I
なんか不具合でもあったんじゃねーの
948 :
938その2 :2010/01/11(月) 14:58:55 ID:teQiC6Eq
「さてさてあの小僧、どの様な策を使ってくるのか・・・」 頭は刀のある部屋にて少年を待ち構えた。一方、少年は屋敷の庭先からこちらをじっと見張っていた。 「そうか、ワシがここを離れた隙に奪い取る気だな。だが、甘い。常に刀を持って移動するからな。」と頭も隙を見せなかった。 そんなこんなで3日目を迎えた。この日は雨だった。 「結局、あの小僧はワシを見張るだけで何もして来なかったな。いかに度胸はあっても所詮は子供か。」と勝ちを確信した。 すると雨がどんどん強くなり、強風も吹いてきた。しかし少年はその場所から動こうとはしない。頭も流石に危ないと思ったのか、 「小僧、負けを認めてこちらに来たらどうじゃ。」と声をかけたが、少年は動かない。頭が不思議に思い近寄って見ると少年だと思っていたそれは なんと傘を持たせた人形だったのだ。「しまった!騙された!」とあわてて戻るとそこには、「賭けは私の勝ちです。約束通り、刀は戴きます。」 刀を持った少年がいたのだった。結局、頭は負けを認め、刀を少年に渡したという。その後も2人の交流は続いた。少年は後の天下人豊臣秀吉、頭は その右腕、蜂須賀正勝となるまで。 以上、長文になりましたが秀吉と正勝の出会いの話となります。
949 :
938 :2010/01/11(月) 15:00:24 ID:teQiC6Eq
申し訳ありません。途中で送信されてしまい、このような形となりました。
950 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 15:09:01 ID:uIlY/LTN
>>946 それぐらいの事で怒るなよ
誰もネタ投下しなくなるぞ
951 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 15:17:35 ID:HOoG9ubK
でも実際まとめるのがマナーだと思うよ その間、他の人が投下しずらくなるし
952 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 15:24:22 ID:JTs2C7qC
まあまあ、文を読んでいると間違って送信しちゃったみたいだし… このスレ以前より雰囲気悪くなった気がする、色んな人が来るようになったからかな
953 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 15:31:10 ID:HM3mUQvl
954 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 15:37:30 ID:9iThTFQM
>>777-782 とは言え、寒冷地で稲作をやめろというのも無理な話。
東北で稲作が続けられたのは、前近代的な思想の権力者からの押し付け!なんて
主張する例もあるけど(漫画「風雲児たち」もその嫌いがあるw)、なにより米には食って
美味いという大きな意味があるよな。
それとプライドの問題。
雑穀も粒食では不味いけど粉食にすれば美味かったのにっていうのは、これは文化上の
問題だから、思想で片付けられても困るしねw
アイヌが米をシアマム(真の穀物)と言ったのも、やっぱ美味いからだよね。
955 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 16:06:11 ID:kjPs9m4s
あと米は最大の商品作物だった、ってのも忘れちゃいけないよね。 作れば作るほど金になった。 農民が豊かになる最も手っ取り早い方法は稲作だった。
956 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 16:11:37 ID:FMoCyUfp
つか下手にジャガイモなんかを主要作物にしちまうと、 いくら日本の土壌でも連作障害で耕地があぼんぬすると思うんだ ジャガイモの特性なんか当時あまり広くは知られていないだろし
957 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 17:03:33 ID:IKOiV1JB
利休と長慶 地元の図書館に利休に関しての対談やら雑誌があった 三好スキーな目線からしたら かなりちょっとだけ鼻が高くなるお話w 対談の内容は大分簡略化しますよ 利休の茶道が本格的になり始めたのは後年のお話で若き頃の利休は目利き修行に明け暮れていた。 商人として戦国大名に仕える事は、自らの商売にも繋がるし地位向上にも繋がる。 しかし時代は戦国時代、どの大名に仕えるかはしっかりと見極めないといけない時代。 利休の初めの妻は三好元長の長女と言われており、阿波の三好実休とも茶の湯で交流があった。 そして当時の天下人の三好長慶に仕えようとしたが、長慶は間もなく亡くなってしまう。 利休は商人仲間と数寄者・松永久秀の茶会に呼ばれるなどしていた、(この時代は利休にとって苦難の時代と言われる) そして織田信長に仕えるが、信長も本能寺にて死んでしまい利休は新たなる主人を探す事になる 羽柴・柴田・明智・滝川・神戸の中から秀吉に利休は賭け、秀吉と共に出世していき 茶室や芸術の花を拓かせるが秀吉との仲が悪くなってきた時 秀吉が山上宗二を殺害し利休と秀吉の和はここで決定的に別れたと言われている 晩年、利休は自らの墓を自作するがその場所は大徳寺聚光院であった 秀吉との決別の為に自らの墓所を決めたという話もあるし、大徳寺と縁が深かったからとも言われている 織田信長・豊臣秀吉に仕え最後の茶席は徳川家康という英傑に深く関わったのは勿論だが そんな千利休の墓の隣には一時天下(京)を握った三好長慶が眠っている 共に1522年生まれの2人の、何か不思議な想像を掻き立てられる繋がりである
958 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 18:55:53 ID:j76NQZqo
>>936 たしかに500レスあたりから鮭ばかりで食中り気味ではある。
鮭延もいっぱいあったがw
959 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 19:01:20 ID:Klu1Yg2a
960 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 19:22:26 ID:39FryGRf
>>939 最上に悪い話には全力で否定して、持ち上げるときは他者を否定した文面だからじゃないかな。
最近は文面変わってきたけど。自分も前の文面嫌いだったから最上ネタスルーしてたけど、
マトメスレではネタの良し悪し関係なしに、常に拍手多いし好きな人が多いんだなと思う。
961 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 19:28:13 ID:sc3mjhZe
>>957 寺の都合で動かしたとか、そういう記録がないなら、やっぱり三好氏との縁ゆえか、と勘ぐりたくなるね
962 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 19:44:00 ID:ZwabGv95
まとめスレを見ていると同じエピソードがオチ違いで 良い話にも悪い話にも載ってたりするなあと感慨深い。、 ところで越後のオカンの話なんだが詳しい話が載ってなかったっぽいので。 上杉謙信が能登の七尾城を攻め、 幼い畠山当主春王丸が籠城の中病に死に、能登畠山氏は滅亡した。 …と長家は伝えているのだが、 謙信本人が七尾城を落とした後越後に出した手紙だとこのような話である。 「北条高広さん、貴方の息子はもう30歳も過ぎてるのに いまだ結婚もしてないので私はとても心配しています。 ところで私の元に身寄りがなくて苦労しているお嬢さんがいるんですが、 この女性と結婚してはどうでしょうか。 この女性は畠山義高の未亡人で、息子も一人いるんですが まだまだ若い良い年頃ですし、三条家の娘さんなので家柄も良いです。 息子は私が養子にして面倒見ますから、どうですか?」
963 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 21:47:46 ID:oZS+3GiC
謙信、遣り手婆みたいだ…
964 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 22:15:36 ID:XhxUV0dl
未亡人の再婚斡旋までやるとは戦国大名も大変だなぁ このスレで色んなエピを知るまで謙信なんて戦にしか興味のないバカだと思ってたよ
965 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 22:53:30 ID:stxta5Kz
畠山義高=義隆で義隆の息子=上条さんか
966 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 23:03:56 ID:NUee74ux
謙信はガチでオカンだよなぁ…
967 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 23:09:14 ID:uEK18w56
謙信はエルトンジョンみたいだな。
968 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 23:11:41 ID:MQQQr4Cv
けど上条ちゃん上杉家を出て行くし
969 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 23:24:22 ID:fK7im+bN
流れ者のジョウジョウ
970 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 23:30:30 ID:3REyWEUK
上条の奇妙な冒険
971 :
人間七七四年 :2010/01/11(月) 23:44:05 ID:jQTGZgvv
さすが謙信、人買いの元締めなだけはある 母親の方を押し付け恩を売り息子の方は養子で実質人質 高い身分の人は自分で直接売りさばいてたんですね、やり手すぐるw
972 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 00:03:09 ID:PLgoVGrF
DQNと鮭と 秀次事件で閉門蟄居を喰らった奥羽の二人。 駒姫処刑に次いで伊達領と最上領の接収が京の人々の間で噂された。 とある日、石田三成が高札を秀吉の前に持ってきた 三成「殿、こんな物が!!」 伊達政宗邸前高札「この屋敷の主、羽州最上義光と謀り天下を奪わんと画策中」 最上義光邸前高札「この屋敷の主、奥州伊達政宗と謀り天下を奪わんと画策中」 ( ●Д゚)「バカめ!」 (´・ω・`)「!!!!」 秀吉の事態の収拾出来なさに、徳川家康と本多正信が仕組んだ物とも言われる高札だが DQNと鮭が禁固から無罪放免世に放たれた良い話?
973 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 00:09:16 ID:D7AEblZq
974 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 00:34:13 ID:aCb0yYZz
>>960 >>常に拍手多いし好きな人が多いんだなと思う
バカ鮭の自演だよ。そろそろ理解しろ。
>>972 顔文字のアホまじイラネ
975 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 00:51:33 ID:SUpVJdeE
悪いスレのほうが和やかだな って迂闊に言うと残念な人たちが移動しちゃうか?
976 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 01:20:40 ID:1LFLd8JI
まとめスレで
>>945 読んだんだが、
矢作橋は1601年に架けられたので、この話はフィクションとされる。
フィクションとわかった経緯(945へのレスなので、戦国時代でないのはご勘弁)
明治時代、蜂須賀茂韶侯爵(元阿波藩最後の藩主)が宮中に参内した際、こっそり
タバコを一本失敬した。だが間の悪いことに明治大帝に見られてしまった。
明治大帝「ほほー蜂須賀よ、先祖は争えないのう」
茂韶(何たる無念、この上は蜂須賀正勝が盗賊でなかったと証明せねば)
こうして茂韶は大正末、史学者の渡辺世祐に伝記「蜂須賀小六正勝」を書いてもらった。
この本には、蜂須賀家は、尾州蜂須賀村に鎌倉時代から土着している豪族であり、
正勝は、斎藤道三→岩倉織田氏→犬山織田氏→牢人→秀吉に説得され織田信長に
という経緯で仕官したので盗賊を働く暇はなかった、また当時の矢作川に橋は
架かってなかった、ことが示されているという。
これについて海音寺潮五郎は、当時の小豪族にとって盗賊を働くのは常識である。茂韶が
大金を払って渡辺氏にごまかしてもらったのだろう、と「列藩騒動録」に書いている。
※蜂須賀家は10代目(正勝から数えて)に他家から養子を貰っているため、茂韶とは
遺伝的つながりはない
977 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 01:43:18 ID:ZwaTS8Zy
>>976 この話は明治天皇こそ実は徳川家経由で蜂須賀正勝の子孫であり、
蜂須賀茂韶も実質徳川家嫡流であるというネジレ現象。
明治天皇は家康こそ天下を盗んだ悪党だ、とでも言いたかったのだろうか?
978 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 02:57:20 ID:jOazsnk8
養子とはいえ当主である以上は家名に全責任を負う立場にあるわけだし この場合、遺伝的つながりはそれほど関係ないかと
979 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 06:03:40 ID:e3jCjavU
まぁ、応接室においてある煙草吸うくらいで盗賊呼ばわりは普通しないわな 明治天皇も冗談で言ったんだろうに それとも吸わないでポケットにでも入れたのかね
980 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 07:22:50 ID:auPgNT/M
981 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 10:34:53 ID:ioHp06ny
982 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 12:48:59 ID:Rx6jXmuk
モガミサイコー
983 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 13:01:32 ID:L04w149B
>>979 なんかポッケナイナイしたような記述だよね
ちょっと行儀悪いというか
珍しい銘柄とかだったのかな
984 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 13:10:48 ID:U0731ofR
いや日常でもたまーに居るだろこういう人w 微笑ましい冗談にマジで顔真っ赤にした茂韶w
985 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 14:36:40 ID:BIR9JjT9
>>984 本当の話なら、明治天皇はトップの人間なんだからさ、注意の仕方を考えたほうがいいよ。
他人ならまだしも、天皇に言われたら傷つくぞw
まぁ、煙草くすねる茂韶が悪いっちゃ悪いんだけどw
986 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 14:39:45 ID:L04w149B
まぁ、明治天皇も結構陽気でざっくばらんな人だったらしいしなぁ 大正天皇ほどくだけては居なかったらしいけど
987 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 14:52:02 ID:jOazsnk8
明治帝は軽い諧謔のつもりだったんだろうけど、言われた蜂須賀にとっては まさに御家の一大事だよなぁ・・・こうして後世にまで逸話が残っているわけだし。
988 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 15:02:46 ID:n2IpQAI7
というか次の蜂須賀侯がアレだから……
989 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 15:15:42 ID:jOazsnk8
迷君の誉れ高い蜂須賀重喜って秋田新田佐竹家から養子入りしてるけど、 蜂須賀と血縁とかじゃないよね? なんで佐竹の新田藩から養子を迎えたんだろう・・・
990 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 15:20:49 ID:dVATOZvp
991 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 15:45:42 ID:tcZElVhz
992 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 15:50:30 ID:jOazsnk8
993 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 16:38:36 ID:cY+iRCGw
>>988 アレですって?息子さんの方がお孫様よりポテンシャルにおいて勝るとでも言うつもり?
994 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 19:25:24 ID:i3bPmePr
>>987 逸話として残ったのはどっちかというと天皇家側の狙いのが強い
当時の天皇って天子様であって、今みたいに具体的な尊敬の対象ではなく、朧気なものだった
偶像崇拝というかそんな感じではあったけれども、実際にぴょこんと目の前に出てこられてもなんだこれは天子様かありがたやーみたいな
その後天皇を神でありつつも具現化した国家元首として存在させるためにこういう逸話を生むことで国民に対しても『偉いんだぞー』というイメージを植え付けさせようとしたわけ
長々と書いたけど実は全部嘘だったりするので信用したらだめだよほんと
995 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 20:06:27 ID:n2IpQAI7
996 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 20:58:12 ID:U/6EcxyD
ただただスレを埋めるだけのレスをするのも無粋なので良くも悪くもなく面白くもない話を投下 去年の梅雨頃に愛知県岡崎市の隣の幸田町という小さな町の深溝という集落にある本光寺というお寺から 小判やヨーロッパ製のグラスなどが出土したという記事を覚えている方はいらっしゃるだろうか? この本光寺、徳川家と共通の祖を持つ深溝松平家の菩提寺で深溝松平家代々の当主が埋葬されている。 出土した小判などは松平忠雄の埋葬品でこの人は島原藩の2代目藩主だった人物 この深溝松平家、地味ながらも徳川家によく尽くした家柄で 2代目好景 善明堤の戦いで敵方を深追いし伏兵に討たれ討ち死 3代目伊忠 三河一向一揆では家康に従い、掛川城攻略、姉川、三方が原両戦役で武功を立て、 長篠の戦でも信玄の弟を討つなど活躍するも追撃戦時に小山田昌行の猛反撃を喰らい討ち死 4代目家忠 21歳という若さで家督を相続。主に城郭の普請を従事した事から土木の才能があった模様 関が原の合戦の際には鳥居元忠の副将格として伏見城に篭り共に玉砕 といったように当主が3代続けて戦死するというなかなか苛烈な一族である。 さてその家忠の息子の5代目になる松平忠利は三河武士らしいめんどくさい一面をほんのりと発揮する。 伏見城で玉砕した父の仇を討つと駄々をこねるも家康に止められて結城秀康と共に上杉の抑えに従軍。 戦後の論功行賞では家康の関東移封された時に深溝松平家は下総の小見川に一万石を与えられていたので 家康が当地に加増を薦めるも忠利は旧領の深溝への復帰を望み、加増無しで旧領に帰り咲く。 その後、深溝松平家は三河吉田藩、三河刈谷藩、丹波福知山藩そして肥前島原藩と次々と移りつづけ明治維新を迎えることになるのである。 以上、徳川を創成期から支えた無名の三河武士の一族の駄文長文失礼致しました。
997 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 21:06:49 ID:cY+iRCGw
>>995 いい話スレなんだから空のモダン侯爵様と呼んであげてちょうだいよ
まあその飛行技術で「チッ、アメリカ移住を親族どもに邪魔されてるうちになんか知らんが
戦争が始まってしまった…まあいいか!レッツ自力脱出&亡命大作戦!」とかやらかして
一足先に爵位剥奪されたお方だけどさあー
998 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 21:09:32 ID:1LFLd8JI
>>995 そう、蜂須賀正氏は孫の方。
京極夏彦の小説「陰摩羅鬼の瑕」に鳥類学者の変人伯爵の話が出ているが、
彼のことをモデルにしたのではないかと思う。
ロスチャイルド家との親交があったらしいが、蜂須賀の卍の家紋が入った
贈り物をしていたとしても、戦後破棄されてるかもしれない。
999 :
人間七七四年 :2010/01/12(火) 21:15:11 ID:tcZElVhz
>>996 4代目家忠さんの家忠日記は面白いよねー。
アレだけでも歴史に残る仕事をした。
1000逝ったら秀家が八丈島より泳いでまいる
1001 :
1001 :
Over 1000 Thread / `ヽ、
ー┬――─‐ァ
/ ̄ ̄ ̄ ̄,l,
_/ ,、r'" _」
. | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
/`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
/ 秀家 ゙ヽ:::::::::', ごくろう。このスレはみごと統一された。
゙|゙゙゙''' ‐‐''""' ';:::;r==,、 さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
. |エi> ,' イiエ> レ'゙,r .,l }
i. / Y./ノ さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
l { .、 /
', ` '' ' rTヲ
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