[過大評価]伊達政宗再評価スレ[DQN眼竜]

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73人間七七四年
佐竹について
義宣は23日&26日に三成へ書状を出しており、23日以前から石田佐竹は連絡を取っていたのは確定。
7/24家康小山着と同時の24日に家康の使者である古田重勝と島田利正の東軍への誘いに対して佐竹は
「秀頼様に忠誠して伏見に母と妻子を人質に出しているのになぜ家康に人質を出さねばならね」と拒絶している。

北上していた佐竹軍だったが家康小山着を知るや
義宣は突如として夜半に急使を出して24日子刻(真夜中12時)
先鋒の須田盛秀に進軍ストップをかける。直江との連動を窺わせるに十分である不信な行軍である。
7/28付けで家康から佐竹盛重に上方が挙兵したのは事実と返書がある。
盛重が知らないフリをして家康に質問しているのがわかる。

白河については福島市史によると
「報を得た景勝の招きにより甘粕は白石城から残りの兵を率いて白河の軍議に参加した」と断定している。
7月中に白河防衛についたりしている佐竹と宇都宮代表の結城朝勝については秋田藩家蔵文書三十に記されている。

家康は大雨で渡瀬川の栗橋の船橋が押し流されているので家康は小山へ引き返し一度戻ってきている。
善後策を練りとりあえず思川の乙女河原から古河経由で葛西に行く方法が考慮されたが
それと同時期に佐竹傘下の下妻の多賀谷修理大夫重経が家康を襲う陰謀の風聞が流れており
これでは江戸へ向かえず安全確認を取ってから出発せざるおえなかった為に江戸帰りが大幅に遅れた。

慶長5年?か疑われている9/21政宗→留守
「佐竹から使者あり昵懇したいとのこと」
との文書は偽書状または年代特定不能とされている。

横田大学が上杉家臣とするのは上杉家記が記す上山城敗戦記や最上合戦記で
後陣を率いて高松・長清水辺へ進軍してたら川口村で隠れていた
最上軍に敗れたエピソードで有名な横田式部少輔旨俊と誤解してると思われる。
この上山での敗報を聞き長谷堂から上泉泰綱が救援に来て戦死したとも書くが
泰綱の戦死は10月朔日でデタラメであり、
敗北したはずの横田式部も敗北の責で降格もしてない。
完全に講談話で上山での上杉の敗走を証明するものは何もないのが実態である。

横田大学について
慶長三年ニ横田大学と申者 相馬商買之塩荷伊達信夫へ運送之為玉野山中ニ新田を取立
相馬参候塩荷之馬次ニ仕立て 其後福島へ奉行平林蔵人彼地見分仕 
と書かれており相馬側で運送の利便を図るために横田大学、
その後に福島側から平林と言う奉行が来たことが記されている。