戦国ちょっと悪い話15

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1人間七七四年
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話14
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1254321432/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話15
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1256735299/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2009/11/05(木) 14:51:52 ID:GC2jm/Qr
>>1
乙である、これをとらそう。

つ【はくだみ】
3人間七七四年:2009/11/06(金) 01:49:32 ID:gbsjoLpS
>>1大儀であった 好きなおにぎりをとっていくがよいぞ

  ∧ ∧   
 ( ´・ω・)                                      ○
 ( ∪ ∪  ,.-、   ,.-、   ,.-、   ,.-、     ,.-、      ,.-、   .,.⊥、
 と__)__) (,,■)  (,,■)  (,,■)  (,,■)    (,,■)      (,,■)   (,,■)
       梅干  高菜 大腸菌 こんぶ クロロホルム 豚インフル オプーナ
          ,.-、   ,.-、     ,.-、      ,.-、   ,.-、   ,.-、    ,.-、
          (,,■)  (,,■)    (,,■)     (,,■)  (,,■)  (,,■)   (,,■)
          砒素 越前水母 ちりめんじゃこ 宇宙人  柴漬  鳥兜 アニサキス
      ,.-、   ,.-、     ,.-、    ,.-、    ,.-、   ,.-、    ,.-、   ,.-、
     (,,■)  (,,■)    (,,■)   (,,■)   (,,■)  (,,■)   (,,■)  (,,■)
      鮭 御玉杓子  鳩山弟  サリン 鳩サブレ 石見銀山  鳩山兄 鮭ハラミ
           ,.-、   ,.-、     ,.-、      ,.-、  ,.-、、  
          (,,■)  (,,■)    (,,■)     (,,■)  (,,■)  
         マムシ ウラン    河豚     毛虫  麻生

4人間七七四年:2009/11/06(金) 10:24:45 ID:tckDaoGi
  ∧     ∧
  ヽ\´⌒丶/ノ
   /\`二´ノ    >>1乙だぜぃ
  /人●ω・人 トゥ!
   <ヽつ=m|)========-
   /_廿 ⌒ゝ
  (__/⌒(__)
5人間七七四年:2009/11/06(金) 13:06:17 ID:CukRqtZt
塙団右衛門が、加藤嘉明に仕えていた頃の話である。

ある時一人の科人が出て、藪與左衛門、塙団右衛門の両名に、これを討ち取る事が命ぜられた。
二人は籤を引き、與左衛門が一の太刀、団右衛門が二の太刀を受け持つ事となった。

さて、その科人の家に着くと、與左衛門が討ち取る次第の言葉をかけ、これに斬り懸かる。
かの者もたちどころに刀を抜き、これと斬り合う。激しい鍔迫り合いとなった。
…が、団右衛門の二の太刀が、いつまでたってもこない。
與左衛門、どうしたことかと振向くと…


   団右衛門→ アー、サムイサムイ( ・∀・)ノ ノ 焚 メラメラ

焚き火に当たっていた。
その日は寒気非常に強い日であり、団右衛門は二人の戦いを気にもせず、
暖を取っていたのだ。

「何やってんだお前!?」

與左衛門怒る。まあそりゃそうであろう。こっちは命のやり取りをしているのだ。
しかし団右衛門、よほど寒いのか火の前から動こうとしない。
『こんな奴は当てに出来ない!』
與左衛門、どうにか一人で科人を切り伏せ、これに止めを刺したそうである。

この事の終始、検使のものが報告したのだが…

なんと、焚き火に当たっていただけの団右衛門、科人を斃した與左衛門と同じ、
白銀10枚を褒美として与えられた。
その理由は

「同僚が戦っている最中、平然と火に当たっていたのがなんか凄いから。」

だそうだ。
この時代の評価基準と言うのも、なんだか変なのだ。
6人間七七四年:2009/11/06(金) 14:03:44 ID:HQdIirWb
制度が確立された江戸時代とは違って
戦国時代のできて間もない家では
褒賞の基準も特になかったんだな・・・
7人間七七四年:2009/11/06(金) 14:06:12 ID:FjaBdaIi
嘉明は結構細かいから嫌いそうなもんだがこういうところは嫌いじゃなかったのかw
8人間七七四年:2009/11/06(金) 16:52:22 ID:vTynoRH+
>>7
本人が虎を前に居眠りしていたという北斗神拳伝承者みたいな逸話持ちだからなw
ふてぶてしいが、直之さんの剛胆さを褒めたんだろうね。
(→ http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-297.html

結局直之さんはその意地を主君にも張り通して、退転しちまったわけだが
9人間七七四年:2009/11/06(金) 17:22:55 ID:gbsjoLpS
>>5
又「主君が討ち取られそうなのを笑ってみてたら後で怒られましたw」
10人間七七四年:2009/11/06(金) 17:26:53 ID:ZTty1E4u
嘉明と団、黒田の2代目と又兵衛

皆有能なのにねぇ。
人の相性って怖いわ
11人間七七四年:2009/11/06(金) 17:31:36 ID:p+/l+QYm
稀代のへそ曲がり男は、端から見ると楽しい奴だが、巻き込まれるとウザいなw
12人間七七四年:2009/11/06(金) 17:49:50 ID:ZTty1E4u
関が原の戦いで土方雄氏は戦功を上げめでたく大名として返り咲くことになった。
そこで雄氏は正室を迎えようと考え旧主織田信雄に娘を所望したところ…

信雄「堀もないような城しかない家に娘はやれんな」

日和見のせいで直後に改易されるのにこの余裕、さすが常真殿である。

雄氏「堀ありますよ、大丈夫です!」
信雄「じゃ、使者出して確認させるから」
雄氏「(|||゚д゚)」

結局使者が来るまでの二日間で堀を突貫工事で巡らせめでたく嫁取りしたそうな。

その正室は長寿に恵まれ内助の功で3代藩主までを助ける賢婦人となったとのこと。
雄氏の眼の付け所がよかった話か必死さがアレな話か
常真殿の相変わらずなクオリティが悪い話か微妙だったのでここで
13人間七七四年:2009/11/06(金) 17:50:53 ID:1rAiB5Dj
有名かも知れんけどまとめになかったので…
いつもの市松。
福島正則がある時聚楽第で伊達政宗とその臣、片倉小十郎に出くわした。
武辺でのし上がった正則は死に装束や十字架を担いで罪を免れるなど
小賢しさ満載の政宗を良く思っていない。
からかってやろうと出会い頭に「無鳥島の蝙蝠め。」と罵倒した。
無鳥島の蝙蝠とは、鳥がいない島のコウモリ。
つまりは、奥州には碌な武将がいないから政宗如きコウモリでも
勝ち上がってこれたという侮辱である。
これは織田信長が長曾我部元親に対して言った言葉とされるものを
どこかで聞きかじって使ってみたかったのかもしれない。
意味が分からず???となるのを見て笑う心積もりだったのかもしれないが、
DQNでも教養人の政宗では相手が悪い。意味はすぐに通じる。
政宗は聞き流したが、後ろの片倉が黙っていなかった。
「福島殿はちんちくりんのりんりんでございますな。」
しかし、正則にはその意味が分からなかった。
悔しくて帰ってから学者まで呼んで調べさせたが、誰も分からない。
実はちんちくりんとは単に背の低い太閤秀吉の事であり、
りんりんは猿回しの猿の首についている鈴の事。
つまり片倉は主が鳥がいない島の蝙蝠ならお前は猿の首についている鈴だろが、
この腰巾着が!という痛烈な皮肉を返してきたわけである。
しかし片倉小十郎といえば秀吉もスカウトした切れると評判の伊達の軍師。
こんな子供騙しのような事を言うとは誰も思わず、
しまいには異国の真理を表わす言葉ではという結論にまで至って、
とうとう意味が分からずじまいで正則は地団太を踏んで悔しがった。


いつもの市松な話。
もしくはラスボス子飼いの市松に秀吉は猿と言い放った片倉の度胸のいい話。
14人間七七四年:2009/11/06(金) 17:55:04 ID:al6eiJ55
市松と信雄は安心のクオリティだな。

いつ見てもちょっと抜けてる&馬鹿殿だ
15人間七七四年:2009/11/06(金) 18:25:42 ID:kKhLh3ew
前スレの讃岐の白鳥の話の件だが、讃岐は昔から溜池が多いので湿地を好む丹頂鶴にとって生息しにくい環境というわけでもない。
郷土料理の中に泥鰌料理もあるくらい。
16人間七七四年:2009/11/06(金) 20:10:19 ID:a/zBuJkR
黒田長政は何故このスレでは笑い話にされすのでしょうか?
17人間七七四年:2009/11/06(金) 20:24:56 ID:VeGotEIP
ねらーよりも何百年も前にngmsなんて用語を使っちゃったから。




かな?
18人間七七四年:2009/11/06(金) 21:08:21 ID:gR7rtFJM
>>14が馬鹿殿とか言うせいで
市松と信雄の脳内肖像が白塗りの志村けんに摩り替わってしまった
19人間七七四年:2009/11/06(金) 22:15:41 ID:2tvhUJxm
あるイギリス貴族の述懐

17世紀、東アジアにおけるポルトガルの栄光は急速に衰え、代わって我が英国の興隆は目覚ましいものでした。
西欧で金と同量同等に商われたナツメグ、グローブを巡って、わが英国から数多くの冒険的航海者が船出したものです。
行く先は、香料諸島、今でいうモルッカ諸島、その中でもバンダ諸島という南アジアの孤島群は、文字通りの宝島でした。
私は、一応爵位をもつ身です。が、東インド会社と仲違いをし、配下の数隻の小型船を率いて、
海賊稼業に精を出す身でもありました。
不意を突いてお宝を満載した船舶を襲撃、お宝を脅し取ったのです。獲物となる船の国籍は問いません。
ポルトガルはもちろん、母国英国の船まで襲撃したのです。ぼろい稼業です。

そんな折、ルン島の近海で風変わりな同業者と出会いました。日本人の操るジャンク船です。
彼ら日本人海賊は80人ほどでした。互いに挨拶を交わし、日頃の常勝気分で驕っていた私は、
大胆にも彼らのジャンク船に乗りつけたのです。船の上に上がると、彼らは無表情ですが実に礼儀正しく、
私をあちこち船内を案内してくれました。
至るところ、お宝の山です。

帰りに、私の船へと招待すると、彼らは非礼に当たらぬようにと、数十人が私の海賊船に乗り込んできました。
興味深そうに見学していた彼らでしたが、無表情なまま静かに日本刀を抜くや否や、私たちに襲いかかってきたのです。
あっという間に数十人の仲間が切り殺されました。無我夢中で私たちはマスカット銃で応戦、長槍での攻撃が功を奏し、
彼らを船底に追い詰めることに成功したのです。

ところが、彼らが立て篭もった狭い船底、そこに降りていくことは自殺行為です。
途方に暮れた私は、思い切って大砲を船底に向けてぶっ放したのでした。
轟音と共に物凄い悲鳴でした。
功を奏し日本人らは皆死んでしまいました。

私の方も、船底が痛みこれ以上の稼業は続けられなくなりました。
日本人、彼らには油断は大敵だと悟った次第です。


20人間七七四年:2009/11/06(金) 22:56:56 ID:LpG8ZGTn
>19
何があって日本人見学者が刀抜いたんだろう
日本人奴隷でもいたんだろうか
21人間七七四年:2009/11/06(金) 23:07:16 ID:3Z/ZyaZZ
海賊をのほほんとお船に招くカモ襲うのに理由が要るのかい?
22人間七七四年:2009/11/06(金) 23:12:16 ID:08ux/uMQ
「思い切って」って、思い切りすぎだw
>>20
もう最初の接舷から下心見えすいてたのでは
黙ってやられるよりは不意打ちでの逆襲に賭けたとか
23人間七七四年:2009/11/06(金) 23:33:06 ID:zX7GJ43P
どう見ても堅気の船じゃない、船の大きさ、性能的に逃げられそうもない

そうだ、白兵戦に持ち込んで乗っ取ろう

って事か?
まぁこの話はどっちもどっちな気がするw何にしても双方無茶過ぎるw
24人間七七四年:2009/11/06(金) 23:51:51 ID:ovP9n0lv
海賊も脳筋多そうな奴等だな
25人間七七四年:2009/11/07(土) 00:00:32 ID:g9khruuP
脳筋業界は海外航路まで広がっていたのか
26人間七七四年:2009/11/07(土) 00:32:49 ID:efy0Aenf
てゆーか作り話だろこれwww
船底に打ち込める位置まで大砲引っ張ってきて下に傾けて船底に穴あけるとかありえんwww
27人間七七四年:2009/11/07(土) 00:38:16 ID:rPr+7fWD
>>26
ただ、この時代のイギリス人は、このくらいの事やりかねないのがなあw
28人間七七四年:2009/11/07(土) 00:41:27 ID:4dhpskJb
数十人を一瞬で斬り殺す奴が同じ船にいるんだぞ
戦闘体制で監視し続けるのは現実的じゃないだろうしそれなら一か八かの方に賭けたのかもしれん
だいたい穴を開けたとは限らん
大砲の弾じゃなくマスケットの弾や金属片詰め込んで船底にぶっ放したのかも知れん
まぁホントの所は判らんがな
29人間七七四年:2009/11/07(土) 00:43:15 ID:FMuq1u8p
>>11
又兵衛「距離を置いてみるとそれなりに楽しい奴なんですが」
黒田「こうも近くにいるとそのワガママさ図々しさにウンザリです」
団「あれれそれってもしかして そう私めなんです」
嘉明「だからこそ余計に腹が立つってありゃしない」
30人間七七四年:2009/11/07(土) 00:48:05 ID:D/dUvq6L
>>26
この話ではどうだか分からないが
使うときだけ舷側に差し込む、小さい大砲が有るじゃないか
海賊が良く使うので、有りえなくは無いと思う。
31人間七七四年:2009/11/07(土) 00:54:55 ID:4dhpskJb
ってかこの爵位持ちイギリス海賊は一体誰だ?
32人間七七四年:2009/11/07(土) 00:59:20 ID:4qJ9em6b
欧州海賊じゃ、鉄棒や弾に鎖巻いてぶっ放したりしたらしいな
すると着弾したところで鎖が暴れまくって…ヒャッハー
33人間七七四年:2009/11/07(土) 01:07:46 ID:4dhpskJb
ヨーロッパのデカい船になるとちょっと大砲ぶっ放したぐらいじゃ沈まないからな
喫水より下に当てるのは難しいし
必然的に船を沈めるよりも乗組員を効率よく殺す方向に発展していくという…
34人間七七四年:2009/11/07(土) 01:20:28 ID:81JBFgIc
海賊つながりで

虎の海賊退治

永禄三年(1560年)伊勢志摩の豪族,九鬼嘉隆は焦っていた
九鬼家の強引な勢力拡大に反発した志摩の諸豪族達は
伊勢国司,北畠具教の助勢を得る事に成功し,九鬼家に対して兵をおこした
志摩の豪族連合と北畠軍の大軍は直ちに九鬼家の居城である田城を
包囲した。九鬼家の劣勢は火を見るより明らかである

伊勢湾と広大な熊野山脈に囲まれた志摩国の局地戦,しかしこの戦には,かの著名な武将が
軍師格で出陣していた
その名は武田信虎...そうあの信玄の父親であり,その息子に甲斐を追放されたあの人だ

天文19年年(1550)今川家に嫁いだ娘が病で亡くなってしまい立場上,駿河に居つらく
なってしまった信虎は思い切って駿河を出奔。伊勢へと辿り着き志摩国の豪族である
甲賀藤九郎のもとへ身を寄せていた。

この戦で九鬼家は嘉隆の兄,浄隆は陣没,嘉隆は甥の澄隆と共に奮戦するも
北畠の大軍と「甲斐の大殿」信虎の知略の前に敗北。
嘉隆は尾張に逃れて織田家の庇護を受けることになる

信玄に追放後も志摩国の片田舎で戦を続けていた甲斐の虎
そんな彼の海賊退治のお話

35人間七七四年:2009/11/07(土) 02:04:43 ID:O97/PE0g
>>34
信虎さんすげえw
36人間七七四年:2009/11/07(土) 02:19:51 ID:cj8QrimB
意外なところで意外な相手と戦ってたんだな
37人間七七四年:2009/11/07(土) 02:21:11 ID:G3d7IlXs
明の外洋船が欧州船より大きかったんだっけ?

銅銭だかがアフリカで出土しているから向こうまで航海していたに違いないってことになってるけど
38人間七七四年:2009/11/07(土) 07:18:23 ID:CTKhXy30
信虎さんは京で足利さんと誼を結んだり悠々自適だったみたいだな
フーテンの虎さんなんじゃないか?
39人間七七四年:2009/11/07(土) 07:34:32 ID:F6C4db5+
>>34
お父さん格好いいよお父さん
40人間七七四年:2009/11/07(土) 07:43:03 ID:O97/PE0g
>>37
キリン積んで明まで帰ってきましたから。
41人間七七四年:2009/11/07(土) 09:19:18 ID:ucRm6jPp
信虎「恩賞として伊勢の地で所領を頂き、わしの新世紀武田家が国司を御守りしましょう」
北畠「あんなやつに領地やったらマジやべぇ…ありがたい話だが…だが断る!…なぜかって言うとあの…その…足利様が信リンに会いたいって言ってるから上洛費用を出そうと思って!」
42人間七七四年:2009/11/07(土) 10:06:58 ID:XSn/nIam
永禄6年(1563)、のちの大納言・菊亭晴季と武田信虎の娘の婚約が整った。

信虎「というワケで、お邪魔しまーす。」
晴季「んなッ!何しにきたんですか!?」
信虎「えー?ヒドイなー、お義父さんがムコ殿の家に遊びに来ただけじゃん。」
晴季「婚約が決まっただけで、結納もまだでしょ!アポぐらい取って下さいよ!!」

この騒ぎ、さっそく噂好きの京童に聞きつけられ、都大路に落首が貼り出された。

婿入りを まだせぬ先の 舅入り 聞く体(菊亭)よりは 猛けた(武田)入道


まぁ「余生」が30年以上あった人だからヒマだったんでしょうな……
43人間七七四年:2009/11/07(土) 10:22:06 ID:v8jmbqZg
息子に追放されて哀れなオヤジと思ってたが、
本人はけっこうその後の人生楽しんでたのかもな
44人間七七四年:2009/11/07(土) 10:45:22 ID:G16rGwQk
>>13
これ大河でやってたな
45人間七七四年:2009/11/07(土) 11:30:33 ID:nKb9ooDh
信虎はwikiにも、高野山参詣と奈良見物を楽しむ様子がうかがえる――って書いてある。
なんというか、暇なんだなあ……っていう。
46人間七七四年:2009/11/07(土) 11:32:28 ID:ucRm6jPp
勝頼「おじいちゃん呼び戻すぜ!」
重臣「あの老人もそろそろボケてるだろう」
信虎「おれ様がいれば信長なんて敵じゃねーぜ!上洛可能だぜぇヒャッホー」
重臣「あいつ目が昔より血走っててパワーアップしててやべぇ領内いれたらあかんわ」
47人間七七四年:2009/11/07(土) 12:43:27 ID:72U2olwt
てか、親父の信虎って息子の信玄より長生きしてたのか・・・ビックリだ
信虎と信玄、果たしてどっちのが幸福な人生だったのか判らんねえ
48人間七七四年:2009/11/07(土) 16:15:17 ID:axN1m78C
確か義元死後の遠州錯乱時、信虎は今川内の家臣の調略をかなりやってて
その功労を求めて
「儂こんだけ色々武田のために働いてやったんじゃから、
年も年じゃし最期に一度くらい甲斐の土が踏みたいんじゃけど」
って手紙を信玄に出したら
「働いて頂いてありがとうございます。だが、断る」
って言われて結局一生帰れなかったという話を聞いたことがあるw
49人間七七四年:2009/11/07(土) 17:48:00 ID:+622ff1X
普通に考えても、信虎のしおらしさは怪しい。
50人間七七四年:2009/11/07(土) 17:50:05 ID:FMuq1u8p
そりゃ信玄としても色々な思いがあったかもしれんが
一度追放した人間を戻すのは政治的にも難しいよな
51人間七七四年:2009/11/07(土) 18:03:47 ID:G1ldA0HI
これ下手に北畠家が伊勢に領土なんか与えてたら伊勢を統一した武田家と上洛を目指す武田家に襲われるという
織田にとって洒落にならない事態になってたんではw
52人間七七四年:2009/11/07(土) 18:58:28 ID:TEPxNtEJ
伊勢源氏の始祖か
53人間七七四年:2009/11/07(土) 18:59:53 ID:CTKhXy30
武田グループはたくさんあったみたいだからもっと緊密な関係になってりゃ包囲も楽にできたかも
もっとも各個に撃破されそうだが
54人間七七四年:2009/11/07(土) 19:27:14 ID:B5F58y1O
武田グループワラタ

宇都宮ネットワーク、足利財閥、上杉コンツェルンとかと同じ類だなあ
55人間七七四年:2009/11/07(土) 21:04:04 ID:axN1m78C
現在の静岡県藤枝市西益津小学校は、その昔田中城というお城だった
元和2年(1616年)1月21日、家康はこの城で茶屋四郎次郎から接待を受け
鯛の天ぷらを五枚ほど食べた、と言われている

ところがこの現在天ぷらと言われているものは、
実際のところ現在のような料理ではなく
(現在の天ぷらは江戸時代中期ぐらいに完成したものらしい)
クミンなど激しい香辛料たっぷりの小麦粉をまぶした魚や肉を油でじっくりと揚げた
かなりスパイシーで油っこいフリットのような料理であったらしい

簡単に言うとケン○ッキーフライドチキンの鯛バージョンである

四郎次郎に「最近都でバリ流行ってる超高級メニューなんですよ!」と、
フライドフィッシュをを進められる家康、時に75歳。
それまで米やおしんこや味噌汁しか食ったことがない老人が
いきなりケン○ッキーフライドフィッシュを5ピースも食べたと想像して欲しい

家康はそれから3ヶ月後、
胃癌とおぼしめき症状で没するのであった


でも5ピースも食ったんだから美味かったんだろうね
56人間七七四年:2009/11/07(土) 21:26:14 ID:+jq/v1M1
>>54
安芸にも武田いたな、元就の若い時既に有名無実だけど。
57人間七七四年:2009/11/07(土) 21:28:09 ID:G1ldA0HI
美味そうだな・・・明日作ってみよう
58人間七七四年:2009/11/07(土) 21:29:48 ID:F+C0Qyir
>>55
爺ちゃんにKFCみたいなファーストフードを出すのはイクナイ
59人間七七四年:2009/11/07(土) 21:32:37 ID:HVjuwzgV
>>55
1ピースが小さかったのか、「ご飯に良し酒の肴に良しマジウマ-!」だったのか
60人間七七四年:2009/11/07(土) 21:40:43 ID:oDR7O8KT
>>54
伝統と信頼の武田グループ

本家・甲斐武田氏(甲斐守護職)

真里谷武田氏(房総管領)
若狭武田氏(若狭守護職)
安芸武田氏(安芸守護職)

その他
因幡武田氏
常陸武田氏
相模武田氏
南部氏
香曽我部氏
61人間七七四年:2009/11/07(土) 21:48:11 ID:O97/PE0g
大名で生き残ったのは南部氏だけ?
62人間七七四年:2009/11/07(土) 22:02:53 ID:z5ra3DAB
>>54
足利以外は中堅止まり。
細川系列や徳川ホールディングスに比べると格段に落ちる感がある。
63人間七七四年:2009/11/07(土) 22:04:38 ID:R5iU0YFC
蠣崎って武田と関係なかったっけ?
64人間七七四年:2009/11/07(土) 22:10:16 ID:q5fJj4fO
安国寺恵瓊「安芸武田の一族なのに武田ラブの家康に首を刎ねられました」
65人間七七四年:2009/11/07(土) 22:30:07 ID:FVQIjZRJ
〉〉64
「良い武田一族は死んだ武田一族だけだ」
66人間七七四年:2009/11/07(土) 22:48:15 ID:oDR7O8KT
血涙の羽柴コンツェルン(羽柴氏下賜大名)

徳川氏

青木氏 池田氏 稲葉氏 上杉氏 宇喜多氏 織田氏 蒲生氏 吉川氏 木下氏
京極氏 小早川氏 佐竹氏 佐々氏 里見氏 島津氏 滝川氏 立花氏 伊達氏
長宗我部氏 筒井氏 丹羽氏 長谷川氏 蜂屋氏 福島氏 細川氏 堀氏 前田氏
毛利氏 毛利氏 (森) 最上氏 森氏 結城氏 龍造寺氏

↓このうち関ヶ原で西軍

青木氏 上杉氏 宇喜多氏 織田氏 佐竹氏 島津氏 滝川氏 立花氏 長宗我部氏
筒井氏 丹羽氏 毛利氏 毛利氏 (森)

↓大阪の陣で豊臣方

青木氏 長宗我部氏


擬似一門だとこんなもんだな。
67人間七七四年:2009/11/07(土) 22:49:35 ID:SyeWMoiG
これだけ手当たり次第だと有り難みもないような
68人間七七四年:2009/11/07(土) 22:55:27 ID:VA4mkiHs
>>63
若狭武田氏の出の武田信広が、
蝦夷の蠣崎季繁の養嗣子になって蠣崎家を継いでる。
その後も信広の子が蝦夷を治めてるから、
蝦夷蠣崎家は途中から若狭武田家に挿げ替えられた形だな。

ちなみにこの武田(蠣崎)信広はコシャマインを撃退し、
蝦夷における蠣崎家の地位を固めた男でもある。
69人間七七四年:2009/11/07(土) 23:58:11 ID:R5iU0YFC
>>68
サンクス
若狭武田氏か
70人間七七四年:2009/11/07(土) 23:58:15 ID:1P4J/iDB
>>66
この氏 何の氏 気になる氏〜

という音楽とともに画面下方からスクロールしてきそうなリストだな
71人間七七四年:2009/11/08(日) 00:50:22 ID:biIyn1ID
>>70
背景は大阪城か豊国大明神とか他に何がいいかな…




みんなが集まる氏ですから〜
見たことも〜無い〜
(徒)花が咲くでしょ〜
72人間七七四年:2009/11/08(日) 00:52:17 ID:OkRmF1fD
>>60
みんなが集まって、みんなが持ち寄って、新しい時代に取り組んでいます。『天下』が、羽柴のテーマです。
73人間七七四年:2009/11/08(日) 01:10:54 ID:w6PCJzJO
>68
でも若狭には該当する人物の記録がないとか
以前、このスレだったかアイヌスレだかに書かれてたね
74人間七七四年:2009/11/08(日) 02:02:47 ID:WoDzLfn7
足利将軍の近臣・進士家の話

天文20年3月、伊勢貞孝邸宅に三好長慶が招かれた時のこと。
どこからか刺客が紛れ込んでおり、歓待を受けていた長慶に斬り掛かってきた。
長慶は2太刀斬りつけられ負傷したが、その刺客は直ちに取り押さえられて
拷問にかけられた。すると、その刺客の正体は幕府奉公衆・進士美作晴舎の
甥・九郎賢光であり、将軍の命で長慶暗殺を試みていたことが判明。
賢光は直ちに処刑された。

それから十数年のこと。松永久秀父子や三好三人衆が将軍を襲撃したときのこと。
三人衆はまず訴えるべきことがあると称して訴状を出したが、このときに
取り次いだのが賢光の叔父・進士美作でしたが、この内容をみた美作は激怒し、
直ちに自害。当然この訴状は兵士をなだれ込ませる方便に過ぎなかったわけで、
三好勢が攻め込んでくると、進士美作の子息は幕臣として戦うべく討ってでた。

・・・ところまでは良かったがフロイス『日本史』によると、最初の敵と戦おうとしたところ、
いきなり進士美作の子息は殺されてしまったそうな。将軍義輝はもとより、摂津糸千代丸など
年少の者についても、立派な最期を遂げた話があるわけで、どうもパッとしない。
それにしても、賢光といい、美作父子といい、肝心なところでサッパリ役に立たない感があるのは
気のせいでしょうか?
75人間七七四年:2009/11/08(日) 08:54:09 ID:OYFCW2lj
鬼がいなかったッス
だから室町幕府は滅びたッス
一家に一匹はいないと戦乱の世は乗り切れないッス
76人間七七四年:2009/11/08(日) 09:48:32 ID:YQaOk6bN
信虎さまが将軍家にたまたま居候していれば…つか肖像画からして怖いし。
77人間七七四年:2009/11/08(日) 11:44:58 ID:vPPfrzvH
ああ、あのチソチソ頭の肖像画
78人間七七四年:2009/11/08(日) 12:51:28 ID:UPXZF7aI
有名だがまとめスレに無いようなので。

慶長7年5月、金沢城内本丸御殿にて、加賀前田家筆頭家老太田但馬守長知は、
主命により家老横山大膳長知らによって誅殺された。
太田但馬は数多の戦場を経た剛の者であったから、斬りかかった家臣数名が
切り殺され絶命、大怪我、抵横山大膳も危うく突き殺される寸前であった。

藩主前田利長の命であった。
利長の愛妾との密通を犯したとの咎による、とされた。
後日愛妾おいま他数名は、眼をえぐり取られ斬首という残虐な処刑が
百名を超す家臣らの前で執行された。

前田利長、父利家のばさらな気質とは異なり、ひどく慎重で己の心持を
滅多なことでは人に明かさない男であった。
親戚でもあり、関ヶ原の折も、大聖寺城、浅井畷の功は抜群であり、
家中の最重要人物でもある太田但馬を討った理由は、様々な憶測から
悪狐の憑依なる伝説までも生んだ。

愛妾を寝とられた恨みというものが、一般的である。
男ぶりの良い太田但馬を、愛妾らが憧れ夢見る如く見つめる様子を、
利長が憎く思っていた、或いは己の功を鼻にかけ増長する太田但馬を
誅するに至った、ともいう。

が、家康を嫌う太田但馬が、かねがね豊臣から徳川家に傾こうとする
利長の政治手法にことごとく異を唱え、家康への恭順の意を示すための
生贄にこそ太田但馬が最適であった、というのが真相ではなかろうか。



79人間七七四年:2009/11/08(日) 12:52:25 ID:XUdFjP8i
>>75
義輝さん本人が鬼(ry
80人間七七四年:2009/11/08(日) 14:10:36 ID:01dUalmp
関ヶ原の合戦の後、西軍が敗北したのは、或いは小早川秀秋の裏切りのため、
或いは吉川広家、福原広俊が動かなかったため、と、その頃の人々は言い合った。

吉川広家はこれを聞いて、その日の事について語った事があったそうだ。
それに曰く

「あの時は前日の時点で、誓紙血判し、人質を出し合って内通を固めておいた。
だから我等は当然兵を出すわけも無いし、兵を出すのを要求してきた長束正家や
安国寺恵瓊と言った連中をあれこれいなして、時間を稼いだものさ。

それに、例え我々が石田や宇喜田と一味していたとしても、あの9月15日の朝は
霧が深く、15,6間(約10メートル)先すら見えない有様だった。
そんな状況の中、南宮山の麓には2万ほどの押さえの軍勢が合った。
これを排除して、さらに4,50町(約5キロ)も離れている関ヶ原に駆けつけて
戦闘するなんて、そんな事が出来るわけが無い。

ただし、長束や安国寺が、どうしても西軍と共に戦いたかったのなら、我々に相談せずに
関ヶ原に行けばよかったんだよ。
長束なんて、その前の伊勢安濃津城攻めの時は、評議で8月14日に城際まで近づき、
15日に士寄をつけて、16日に攻め入ろうと決めたのに、
それを無視して誰にも相談なしに、自分一人の判断で勝手に町口に攻めかけた事、
これは誰も知っていることだ。

それを、9月15日の合戦に限って、『あの時は我らが動かなかったから西軍に合力出来なかった』
などと言うのは、片腹痛い話だ。

まあ、そういう浮説は、あの時の我々の事情もそれまでの過程も、知らない人間達が
言っている事さ。」

一方的な批判を受けがちな関ヶ原での吉川広家の、数少ない反論である。
81人間七七四年:2009/11/08(日) 21:05:16 ID:vPPfrzvH
>>55
そそられたのでチキンでやってみた。
これは美味いご飯が進む
82人間七七四年:2009/11/08(日) 22:20:19 ID:GBrsotkS
>>55
メタボ一直線の惣菜だな
83人間七七四年:2009/11/09(月) 01:25:28 ID:3jfDEt6r
>>78
腐れ犬畜生^h^h千代「やっぱ釜茹でだろ」
性欲満点露出兇「蛇攻めも捨てがたいですぞ、父上」

DQN血筋かw
84人間七七四年:2009/11/09(月) 22:26:58 ID:qt19JXax
高遠城攻めも一段落付いた時の信忠と長可のやりとり


信忠「勝蔵よ、お前手負いなんじゃないか?」
長可「・・・あぁ、そうですかね」
(腕に微妙なかすり傷)
信忠「いや、そうじゃなくてさ・・・腰から下が血まみれじゃん。出血やばくね?」
長可「ああ、これですか?俺の血じゃありませんので。」


・・・そう、大量の血の正体は全て鬼武蔵に殺された高遠城兵たちの返り血だったのです。
これぞ『血染めの赤備え』

森家重臣、林為忠さんの見た高遠城での一コマ。
85人間七七四年:2009/11/09(月) 22:57:05 ID:btwTiXYq
ひええ〜まさに鬼だなあ
86人間七七四年:2009/11/09(月) 23:58:12 ID:iCIYEdcR
こえーよ。
鬼武蔵なんなんだよマジで…
お前大将だろ…
87人間七七四年:2009/11/10(火) 00:13:04 ID:Z8U2b75f
信長「長可なら仕方ない」
信忠「長可だし仕方ない」
88人間七七四年:2009/11/10(火) 00:34:29 ID:T3O+VuWl
貫禄の通常運転
89人間七七四年:2009/11/10(火) 00:55:57 ID:zr6B9Wqi
底が知れねえ
90人間七七四年:2009/11/10(火) 01:18:02 ID:4lGUI6Dt
そんなに血まみれで・・・いいのか?
今みたいに「他人の血に触れたら検査受けろ」じゃないけど。
91人間七七四年:2009/11/10(火) 02:04:46 ID:JRW2rGsg
関ヶ原の、大津宰相京極高次守る大津城を、西軍末次元康、毛利秀包、立花宗茂らが攻めた
大津城攻防戦。

慶長五年(1600)9月9日の申酉の刻(17時ごろ)より11日まで、西軍は攻撃を仕掛け、
昼夜を隔てず攻め立てたが、城方も良く守った。
そこで9月12日は諸隊の者を休息させ、13日に総攻撃を仕掛けようと、
そのように軍議にて決定した。

ところがその12日の早朝、毛利の陣に大津方の忍びが侵入、旗二本を奪って帰ると、
城の者達は城壁からその旗を立てて、「攻め手の者達は大切な旗を盗まれぬ間抜けたちだ」と
大いに嘲笑した。

が、一つだけ、運が悪かった事。
それは、その旗を立てた正面に陣していたのが、毛利ではなく、立花宗茂だったこと。

宗茂は大津城に立てられた毛利の旗を見て、思った

「しまった!毛利勢に先を越されたか!!皆の者、我等も攻めかかるぞ!!」

宗茂、毛利が抜け駆けをして大津城に攻め入ったと勘違いしたのである。これだから合戦脳は。
立花軍、一斉に動き出す。このにわかの攻撃に、城方は慌てた。相手は今日は
休息を取っているとの頭があるので、こちらも防衛の準備が整っていないのだ。

それでも兵を集め必死の防戦をする。が、立花軍は竹束を盾に堀下に取り付くと、城方の攻撃など
なんのその、死傷者を踏み越えあっという間に三の丸を攻め取ってしまった!

この立花軍の猛攻に、毛利軍も合流。二の丸まで攻め落とし、ついに残るは本丸だけとなった
京極高次は、翌13日、降伏を受け入れてしまうわけである。

関ヶ原の決戦が行われたのは、その二日後の15日。
城の忍者達が、あんな悪戯心をおこさなければ、
いや、その旗を立花陣の前に掲げなければ、
そもそも宗茂が変な勘違いさえしなければ、
高次は関ヶ原の決戦が終わるまで、大津城を守り通せていたかもしれないのだ。

そんな、ちょっとしたことで狂ってしまった運命のお話。
92人間七七四年:2009/11/10(火) 02:48:47 ID:5xCK61KG
大津攻めに時間がかかったのは、大坂が使者を送って開城させようとしてたから
攻撃は遠巻きに鉄砲とか撃ち込むのに留められてたからみたいなんだよな。
だから、城方からのちょっかいを口実に宗茂は強引に総攻めに踏み切らせたらしいけどね。
93人間七七四年:2009/11/10(火) 10:50:04 ID:uJtnmhyr
誤解で立花軍の総攻撃食らうとか涙目すぎる
94人間七七四年:2009/11/10(火) 10:56:38 ID:4YDkL51Z
将軍家光の命により、京は二条城の改装を小堀遠州が担当することになった。
油断なく造作の指図をする遠州のもとを細川忠利が訪れ、知人の来訪に遠州は挨拶した。
「これは細川殿、良くお越しで!」 「「 はい? 」」
「………げ」
そう、『細川』は二人来ていた。家光の依頼で、名高い数寄者の細川三斎も見に来たのだ。

普段は師匠の織部と同門(つまり格上)で、自分の茶の湯に批判的な三斎を煙たがって
江戸城中などでは避けている遠州だったが、顔を合わせた今はそうも行かない。

「こ、これは三斎殿も良くお越しで・・・」
遠州は三斎の批判を恐れ、三斎が見て回るのについて行ったが、三斎は
「さてさて、結構なるものかな。」などと言いつつも、どこが結構なのか全く言おうとしなかった。
見かねた忠利が苦笑しつつ、
「父上、遠州殿が・・・」と三斎に何度も声をかけたが、これも無視。たまりかねた遠州は、
散々な思いで細川親子のもとを離れた。

社交人の忠利が、今一度父親に「遠州殿をお見忘れか?」と聞くと、三斎ようやく
「ああ、あの袴腰が大きくて背に当たってる男かい。」と答えたという。

ちなみに『袴腰』とは袴をはいて帯を締めた時、後ろ側の背に出っ張る部分を言う。
つまり、三斎と見れば逃げて行く遠州は後ろ姿しか印象に無いわ、という
ファッションリーダーの三歳様らしい、イヤミの話。
95人間七七四年:2009/11/10(火) 11:47:02 ID:egVRj4hL
山城守が仲間に入りたそうな顔をして見ています。
仲間にしますか?
96人間七七四年:2009/11/10(火) 11:56:53 ID:jU9medFe
まさしくDQN眼竜と兼続の話と内容的には同じだけど
何というか三歳の方が都会的なイヤらしさを感じるなw
97人間七七四年:2009/11/10(火) 12:36:29 ID:sYTy5Obj
>>92
逆に大坂から戦に関しての横槍が無く、きっちり城攻めをさせてもらえれば
とっくに大津城は落とせて、本戦に間に合ったかもしれないわけだ。
98人間七七四年:2009/11/10(火) 12:54:14 ID:5CTB59yb
俺がルールじゃという強烈な自負を感じるなw
99人間七七四年:2009/11/10(火) 15:04:19 ID:8+BFLLGO
>>96
リアル京都人の幽斎はんの息子どすさかい
100人間七七四年:2009/11/10(火) 19:59:13 ID:ofGIUPuR
以前の書き込みでは、遠州は三歳公に金出して首つないでもらってたし・・・

三歳公も、家康に金工面してもらってたし・・・

金にはしまりのない茶人かな。
101人間七七四年:2009/11/10(火) 21:01:48 ID:JwXbYh5B
>>94
既出のような気がするがなw
三歳様は自分の意見は曲げないイメージがあるぜw
102人間七七四年:2009/11/10(火) 21:28:36 ID:3ObBbF6V
しかしそんな三歳さんからしこたま金を借りている宗茂さんw
103人間七七四年:2009/11/10(火) 23:17:04 ID:jU9medFe
蜂須賀家政は、朝晩の食後に菓子を食うぐらい甘いものが大好きだった。

ある日、家政の近習・内海十左衛門は主君に呼ばれ、「手を出せ。」と言われた。
言われた通り手を出すと、家政は皿に盛った豆餅を一個、楊枝に刺して内海に与えた。
内海が受け取って手を引っ込めると、家政は
「なんじゃ、若い者はまだ食うかと思ったのに遠慮しおって。あとはワシが食うとするか。」
と言って内海を下がらせた。

それからしばらくして、また内海は家政に呼ばれ、豆餅を一個もらった。今度は心得た
内海が手を出したままでいると、家政は言った。
「なんじゃ、意地汚い。残りはワシの分じゃ、やらんぞ!!」
「・・・・・・」


徳島藩士の記録より。えーと、名将言行録には
「家政は余った菓子を宿直の者に残らず与えた。足りない時は切り割り、不公平の
ないようにした」と書いてあるんですが・・・
104人間七七四年:2009/11/10(火) 23:21:44 ID:aNx/1zDG
落語の住職さんと小坊主でこんなのありそうだな。
家政公は笑がわかっておられるw
105人間七七四年:2009/11/11(水) 00:17:50 ID:NF2+W8AT
おそらく与える人間が内海一人だけじゃなくて何人もいたのだろう。
最初の時は豆餅が大量にあり余っていた。
次回の時には足りなかったので切り割って与えるつもりでいたけど
内海だけは前回欲張らなかったから特別に「一個」もあげたのに
更に催促してきたので「意地きたねー」と言った。

と、好意的に解釈してみるw
1061/2:2009/11/11(水) 01:22:25 ID:8N2Vo0En
関ヶ原合戦の後、捕縛された三成に対し、家康の命により、本多正純がこれを尋問した。

「冶武殿にお尋ね申す。
今、秀頼公はまだ御幼少であり、大老、奉行相計って、天下静謐になるようにと
心を砕かれるべきであるのに、かえってこのような戦乱を起こし、ただ一度の決戦で
その全てを失った事、これはまるで、愚者の立てた計画のようです。

一体この乱の張本人は誰で、どういう御思慮で挙兵されたのでしょうか?」

これに三成

「その方は陪臣である。
井の中の蛙が大海を知らないように、しょせん陪臣でしかないお主に、天下の安否を
計る事など、出来ようはずも無い。

まあ、今回の企ての全てを、わし一人に詳細に説明しろといわれてもそれは無理だ。が、
大老である宇喜田秀家、上杉景勝、毛利輝元から、奉行の前田玄以、増田長盛、
長束正家に至るまで、お主が言うように、波風は立てたくないと、最初は皆、わしの企てに
賛同はしなかった。
それを一人づつ説得し、この乱を起こした事。これはお主が究明するまでもなく、
このわし一人が行った事である。張本人は、私だ。
この上は、他の人々の罪は軽くし、わしの首を刎ねるようにと、内府に申し伝えよ。

…が、このように言ってしまえば、まるで戦略も無く大事を企てたように思われるかもしれないが、
あの合戦の時我らは、裏切りや、動かない者たちがいたがために、勝つ事ができなかったのだ。
当初からの計画通りにみなが動いていれば、敗北していたのは、おぬし達の方だ。

しかし、そうはならずに、今わしは囚人の身となり、おぬし達の手に渡ってしまった。
これでは、浅ましく負けたものだと批判を受けるのもしょうがないだろう。
が、裏切りがあって壊乱するまで、宇喜田秀家を始め、大谷刑部、島津義弘、
そして我等は陣列を乱すことなく敵と堂々と渡り合った。決して不覚の負けを取ったわけではない。
この上にわれらを口汚く罵る輩があれば、こう言ってやるだけだ、

我心において、恥ずる所、無し。」
1072/2:2009/11/11(水) 01:23:30 ID:8N2Vo0En
しかし正純、これに納得しない

「貴方の御弁舌は承りました。が、いささか疑問があります。
おおよそ智将と呼ばれる人は、人々の人情、機微を察するものであると聞いています。
あてつけに聞こえるかもしれませんが、我が内府は、鳥居、内藤の注進を聞いて、小山より
引き返し、直ちに西上すべきであったのに、それをせず出陣を遅らせたのは、
衆情をうかがい知る為でありました。

貴方は諸将の心も計らず、軽卒に出陣なされた。そのために、ついに裏切りにあったのでは
ないですか?
なのに今になって、『返り忠の輩が居なければ勝っていた』などといわれるのは
心得かねます。

それに、秀家卿から貴方、長束殿にいたるまで、美濃にご出馬あった日から、討死の
御覚悟があるべきなのに、実際には大谷殿を捨て殺しにしただけで皆逃げ出し、
その上ここに生け捕りになっています。

これも貴方の、戦略だと言うのですか?」

この時、三成打ち笑った

「実に、おぬしの言うとおりだ。諸将の心を知ることが出来なかったために、
裏切りにあってしまった。これについて今更、言うべき事も無い。

ただし、大谷を敵に討たせて、我々が逃げたのは不覚であるように言うのは、
お主の小さな頭で考えた、勝手な理屈と言うものだ。
大谷は多年の病で、先はもう長くなかった。そのため死を急いだのだ。
わしや秀家が逃げたのは、時節を待つ為であった。

その後、田中吉政の家来がわしの隠れ家にやって来た時、これを刺し殺して
自害するのは容易い事だった。が、わしは関ヶ原の合戦以後、他の人々の
動向を知ることが出来なかった。それを知り、泉下の太閤にその事を語り聞かせるため、
こうやって生きながらえたのさ。

さて、もうこれ以上、そなたに話す事は無い。口を利くのは、ここまでだ。」

その後は、一切口を開かなかった。そして正純も席を立ち、下がっていった、とのことである。
108人間七七四年:2009/11/11(水) 01:46:13 ID:Vl8HtrZQ
なんか時々思うんだが三成ってちょっと自意識過剰なところあるよなあ
基本的に若くして才能認められてエリート街道走ってきた男だから仕方ないかもしれないが
109人間七七四年:2009/11/11(水) 09:05:03 ID:L1kd5e4k
それこそ語って聞かせることでも無いよな。
自分がわかっていればいいことだ。
110人間七七四年:2009/11/11(水) 09:06:09 ID:fkB8NRS8
どちらも中世の人としては
異様に理屈がうまいな。
111人間七七四年:2009/11/11(水) 09:34:11 ID:h5onptcL
理屈っぽい上自分が正しいと信じてるから分かりの悪い他者への説明が足りなくなりがちなとこまでそっくり。
112人間七七四年:2009/11/11(水) 09:36:03 ID:NYO+xIQd
正純はなんか藪つっついて蛇出しちゃっているような気がするがw

>一体この乱の張本人は誰で、どういう御思慮で挙兵されたのでしょうか?

これを訊くことが仕事なのに「オメー戦起こして全部失っちゃったねw」なんて前置きするから
113人間七七四年:2009/11/11(水) 14:13:51 ID:T2SKtnBz
>>112
「こんな愚かな計画を貴方が企てるわけはない」という意味で放った言葉に対し、
正純の性格に合わせて理屈で挑発して論争に持ちかけたとしたらすごいな。
そして真実は闇の中に。
114人間七七四年:2009/11/11(水) 16:50:48 ID:qBqAneTO
正信が凄く残念な表情で二人を見ています。
115人間七七四年:2009/11/11(水) 23:00:13 ID:/piwr51A
家久君上阪日記(冬)

慶長19年(1614)11月17日、島津家久(忠恒)は幕命により、鹿児島から出陣した。
日向美々津で大船を借り、海路大阪に向かう計画だったが、何日経っても船が集まらない。
しびれを切らした家久は、美々津代官の綾部助兵衛に抗議した。
「ちょっと!ちっとも船が来ないじゃん。どうなってんの?!」
「?何言ってるんスか。こんな狭い港に、そんなに大船来るワケ無いじゃないですか。」

( ゚д゚)

12月5日
綾部はいい人で、豊後森江津で大船を調達してくれる事になり、その成果を待った。
「殿、公儀のお使者が参りました。」「やべっ、催促か?ちょ、ちょっと待ってもらって!」

「お待たせ致した、家久にござる。いや申し訳ない」
「右大臣豊臣秀頼公の使者、武井理兵衛にござる。是非とも薩州殿のご助力を…」
「 『公』って そ っ ち か よ 」

12月12日
拘束した秀頼の使者を三島重庸に護送させ、大阪の家康のもとに送る。
「それも良いけどさー、薩州殿まだ?」 「も、もうすぐデスヨ…?」

12月22日
「お待たせ致した!島津家久参上!」 「あ、19日に講和したから帰っていいよ。」

( ゚д゚)
116人間七七四年:2009/11/11(水) 23:01:00 ID:/piwr51A
家久君上阪日記(夏)

慶長20年4月8日、再び幕府より大阪への出陣の命が下った。
「よーし、今度は恥かかないように準備するぞー!!」
今度は綿密に九州中の港を調査し、無事に平戸の釜田浦で、大船を確保できた。

5月5日
当地で手柄を立てるべく、念入りに精鋭13800の兵を揃えて、鹿児島を出陣。
数日後、平戸に到着したところで、旧知の幕臣・山口直友からの書状が届いた。

『 8日に大阪落城したから、せめて早く来て、祝賀だけでも述べたら? 』

( ゚д゚)

あわてて軍を帰し、家久自身は昼夜を徹して船を走らせ、尼崎に上陸した。
「さあ、ここから大御所のいる伏見まで飛ばすぞ!馬ひけい!!」
「それが…急ぎ過ぎて、馬を乗せた船がまだ来ておらず……」

( Д )  ゚  ゚

やむを得ず徒歩で伏見に向かったら、家康から逆に同情されて栗毛の馬二頭をもらった。


以上、武勇はともかく兵站の才能からっきしな悪久君の上阪(できない)日記?でした。
117人間七七四年:2009/11/11(水) 23:01:47 ID:OAEXh/3K
規制解除記念市松話

関ヶ原の決戦の後のこと。福島正則と黒田長政は、南宮山より撤退した毛利秀元が、
大阪城に入らないようにするため、間道を通って秀元の軍の先に回り、道の側に座を設け、
秀元に使者を立てた。

『申し入れたい事があります。是非こちらに、お立ち寄りください。』

秀元、これを受け入れその場に姿を現すと、正則と長政はしきりに酒を勧めた。
これは、こうして時間を稼ぎ後から来る吉川広家、宍戸元続らを待って、これらと共に
秀元を説得しよう、と言う腹であった。

ところで、毛利秀元は大力の者として当時有名であったそうだ。

秀元、酒を勧められるうち、流石に正則たちの腹が読めた。
そこで

「いやいや福島殿、少々酔ってしまいました」

と、福島正則の手を、ギュウと(ホントにそう書かれている)握った。
とたん

『○●△※■◎××□!!!???』

正則、余りの痛さに声も出せずにうずくまった。
ここで秀元、

「おやおや、福島殿も酔われたか。では、大阪にて対面いたしましょう!」

と、正則をどかして颯爽と退出。
この時正則は手がしびれて、追いかける事も出来なかったそうである。

なんと言うか、市松さんはこう言う、他人を引き立てる役回りの人なのですなw
118人間七七四年:2009/11/11(水) 23:16:30 ID:Wie+17CM
THE・ICHIMATSUクオリティ
119人間七七四年:2009/11/11(水) 23:53:11 ID:80svrzi+
>>106,107,112

そうですね、正純、尋問者としては稚拙ですね。
三成を、お疲れ様とか、惜しかったですね、といたわるべきです。
持ち上げといて、謀議の全貌を吐かせる。

後年、井上筑後守政重、切支丹転向、転ばせ屋で名をあげましたが、
最初は相手をいたわりソフトムード、好々爺然としていたことは有名。

120人間七七四年:2009/11/11(水) 23:56:37 ID:fkB8NRS8
>>115-116
情報収集力が弱いね。

でも、船や馬の手配は家久の家臣の仕事じゃないの?
家久一人が悪いわけじゃないと思うけど。
121人間七七四年:2009/11/12(木) 00:16:32 ID:8m9vh8Q/
まあ家臣の不始末は君主の責任じゃないの。
122人間七七四年:2009/11/12(木) 00:36:46 ID:4nO+bTwM
>>120
家臣だってある程度具体的な指示がないと動けない。
「何とかしろ」とか言われても何にも出来ないのと同じ。

例えば忠恒で言えば
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-453.html

こういう話もある訳だが、これだって家光の好みを忠恒自身がリサーチするか
伊勢貞昌に調査の上で造るよう指示しとけば、建て直しなんてせずに済んだ。
忠恒が気が回らないせいと言わざるを得ない。

関ヶ原からのこういう体験を踏まえて情報網を整備したから
幕末に勝ち組のトップに立てたって説もあるが。
123人間七七四年:2009/11/12(木) 01:33:23 ID:uAoHEiO1
相変わらずな政宗老人と片倉重長&阿梅夫妻の話。

大阪夏の陣の後、真田幸村の娘である阿梅達を伊達政宗家臣の片倉重長が
保護したのは有名な話。

さて、重長にはすでに妻がいたが、若くしてその妻が亡くなり、
その後妻として阿梅を妻に迎えた。

重長と阿梅は仲睦まじかったと言うが子宝には恵まれなかった。
重長には先妻との間にも女子一人しか子が無く跡継ぎがいない状態であった。

そんなある日、片倉居城の白石城に遊びに来た主君の政宗公。

重長の隣に座る阿梅の腹をなでながら笑ってこう言った。

( ●∀`)「何とかこの腹に男子が宿らんもんかのー。
わしがもうちょっと若ければ代わりに励んでやるんじゃが。はっはっはっ」。

殿様にそんな事を言われた阿梅は真っ赤になって俯き恥じらったと言う。
そんな、セクハラ老人まーくんのちょっと悪い話。

片倉代々記より。


一応フォローすると、
結局、阿梅との間に子供はできず、
重長の娘が嫁ぎ先で男子を産み、その子を三代目小十郎として重長は養子に迎えた。
跡継ぎが出来たことを政宗は大層喜び、この三代目にも自分が亡くなる前に形見分けで脇差しを授けている。


ま、いつものまーくんのりで、うっかりほのぼのしてしまうが、
阿梅がセクハラ受けたのは悪い話なのでこちらに投下。


片倉代々記の政宗ネタは外れがないぞ。
124人間七七四年:2009/11/12(木) 01:34:59 ID:RhkyJuWR
だがそこが悪久クオリティ
情報収集が完璧な三歳風悪久なんて四天王の資格ナッシングです
125人間七七四年:2009/11/12(木) 01:50:28 ID:8AiR92gt
悪久は確か加藤が改易された時も
下手な探りの入れ方して細川忠利に警戒されたりしてたな
情報収集下手なのかー
なんかなぜか世渡り上手なイメージあったわ
126人間七七四年:2009/11/12(木) 04:02:03 ID:ERazUBDd
>>108
豊家を自分が支えなきゃ、って覚悟があったのはいいが、ちと気負いすぎたかな。
いち奉行、それも元奉行に過ぎない立場からよくあれだけの連合軍を仕立て上げたんだが…
127人間七七四年:2009/11/12(木) 15:36:24 ID:8I7aqHTI
>>123
片倉代々記面白いよな。
しかしまー君の台詞、ほんとに若いころなら
冗談で終わらない気がするのは自分だけか
128人間七七四年:2009/11/12(木) 16:42:18 ID:8AiR92gt
>>127
政宗ってその辺の分別はTERUや悪久やソーリンよりありそうな気がするんだが
129127:2009/11/12(木) 17:30:32 ID:8I7aqHTI
>>128
家臣の子供になってるが実は政宗の子、ってのがいたと思って。
うろ覚えなので経緯とか思い出せないから勘違いかもしれん。
130人間七七四年:2009/11/12(木) 17:58:00 ID:XYiFj7Et
この話だっけ?
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-491.html

確かこの時政宗が綱元に「俺の子ってバレると色々まずいからお前の子って事にしといて」と
言ったのを「独眼竜政宗」で見た記憶が
131人間七七四年:2009/11/12(木) 18:21:23 ID:ZC6rjUvD
いや〜、重長って政宗とアレだよ?
いくら姉弟丼までやる政宗でも、夫婦丼は流石にねぇわw
132人間七七四年:2009/11/12(木) 20:03:05 ID:dE7P+ki9
>>111
前に出てた三成が本職の奉行より速く城のほころびてるところを秀吉に報告して
周囲が迷惑したって言う逸話は本多正信が正純にした話で
話した後に「ああいう空気が読めない男にはなるな」と諭したという話を思い出した

で、正純がどうなったかというと・・・・
133人間七七四年:2009/11/12(木) 20:31:45 ID:ekghHdd0
>>130
女の子は伊達騒動の原田甲斐の母で
男の子は息子の中で唯一大坂の陣に従軍
134人間七七四年:2009/11/12(木) 23:15:50 ID:IiYZmmh/
永正6年(1509)10月深夜、足利10代将軍・義稙(義材)の御所を円珍なる荒法師が襲った。
北陸を転々としていた義稙は、2年前に細川高国らの後援により11代将軍・義澄を追放して
将軍の座に返り咲いたが、円珍はその義澄が放った刺客だった。

円珍らは義稙の近習をことごとく斬り倒し、義稙自身さえも手傷を負う有様だったが、とっさの
機転で屋敷中の灯りを消して隠れたところ、円珍は近習の死体を義稙と誤認して去った。

これがトラウマになったか、永正10年(1513)3月、高国と対立して身の危険を感じた義稙は、
誰にも告げずに御所から姿を消した。
突然の将軍の失踪に、後土御門天皇までが憂慮してお言葉を発したが、当の義稙自身は
逃亡先の甲賀で病気になり寝込んでいた。

天皇周辺をも騒がせた事態に高国が折れる形で和解が成立し、京に戻った義稙だったが
大永元年(1521)3月、今度は堺に逃亡した。
しかし、今回は後柏原天皇の即位式直前だった。武家の棟梁が即位式を欠席するという
椿事に天皇は激怒し、義稙の将軍職は廃され、義澄の子・義晴が12代将軍となった。

帰る場所を失い、今度は海路阿波へ向かう義稙だったが、その船中に落首が貼り出された。

『 誰ぞやこの 鳴門の沖に 御所めくは 泊り定めぬ 流れ公方か 』

2年後の大永3年4月、義稙はそのまま阿波で永眠した。

家族まで灰と消えつつも、「剣豪将軍」として現代まで武名を輝かせる義輝が幸せか、
「流れ公方」と笑われつつも、巧みに身を翻し天寿を全うした義稙が幸せだったか、
それは当人たちにしか分からない。
135人間七七四年:2009/11/13(金) 01:29:51 ID:UYTLGV5/
>>134
足利義稙は面白いよねー。不屈の将軍。
あんなに波乱万丈の将軍ってのもちょっと無い。
136人間七七四年:2009/11/13(金) 03:23:24 ID:ZApLDZaT
記録上、最初の忍びかもしれないとされてるのが円珍だっけか
137人間七七四年:2009/11/13(金) 15:11:58 ID:UYTLGV5/
中津海次兵衛伝説

細川忠興の家来に、中津海次兵衛と言う者が居た。
この男、元は若狭国大飯郡中津海村の農夫であったが、走力、軽業共に人の及ばぬ技の
持ち主だったため、忠興が扶持したのだという。

さてある時のこと、忠興が宮津城において猿楽(能)を興行することがあった、が、
その当日になって、脇能高砂につかう箕が無いことがわかった。
この能の担当者たちは大変驚き、

「あの箕はたしか田辺城にあった。しかしここから田辺城までは五里(約20キロ)も
離れている。取りに行っても演目の時間には間に合わない。一体どうすれば…」

と、ひとしきり絶望に襲われている中、そこに颯爽と中津海次兵衛が!

「俺に任せろ!」

その場より次兵衛、駆け出した!
「いくら足が速くても、間に合うわけ無いのに…」残った者達、半ば呆れてその姿を見送った。
が、次兵衛、なんと一時(約2時間)ほどで箕を取って帰ってきた!往復40キロを2時間、
現代でも堂々のマラソン世界記録クラスである。

この時次兵衛が帰ってくるのが余りに早いので、人々、これを大いに怪しんだ。
そこでどうしてそんなに早く取ってこれたのかと尋ねると

「なに、ただ走ったのではない。わしは常に槍を持ち、走りながらその柄を地面に突いて
7,8間(12〜15メートル)を飛び越えながら行ったのだ。だから早かったのさ」

棒高飛びならぬ棒幅跳びである。これが次兵衛のスピードの秘密であった。
だがそれでピョンピョン飛びながら超スピードで移動するのも逆に猛烈な変態だと
思うのだが、それはまあ置いておこう。

次兵衛の活躍により能の興行は無事、滞りなく行われたのだが、一つ、大きな問題を残した。
それは箕を取りに言った先の田辺城。
この頃、田辺城の内堀は8間ほどの幅だったのだが、箕を取りに来た次兵衛が、面倒だとばかり
これを飛び越えてしまったのだ。

「次兵衛に飛び越えられるという事は、他にも飛び越えられる人間が居るかもしれない!
防衛上心もとない!」

そんな変態はそうそう居ないと思うのだが、ともかく田辺城では緊急に工事をし、
内堀を10間に広げた、とのことである。

城の縄張りにまで影響を与えた、中津海次兵衛の早足、のお話。
138人間七七四年:2009/11/13(金) 15:53:18 ID:vMH1CNOq
つお馬さん
139人間七七四年:2009/11/13(金) 15:54:42 ID:VhZ1ME/+
これはこれで変た…もとい超人が殿様を救ったいい話だと思うのだがw

こんな人が有名じゃないってことは関ヶ原後の
小倉転封にはついて行かなかったんだろか?
140人間七七四年:2009/11/13(金) 17:09:51 ID:udBAqaR8
この逸話は既出だろうか?

小田原の役にまつわる伊達政宗のちょい悪な話。

天正十七年(1589年)、豊臣秀吉が小田原征伐を決定した際、
東国の諸大名に小田原攻めの参陣を命じたが、石川昭光は財政が困難な上、
健康上の都合もあって参陣することができなかった。
そこで昭光は甥にあたる伊達政宗が参陣する時、三芦城へ呼び迎え、

「私は諸事情により参陣できないので、代わりに太閤殿下に申し立ててくれないか。」

と依頼し、『荒墨』という駿馬一頭を献上してくれるよう政宗に託した。
一応承諾した政宗だが、政宗自身日和っていたせいで遅参して
秀吉の怒りを買っていたため、申し開きできるような状況ではなかった。
そこで政宗は秀吉の機嫌を取るため、昭光より預かってきた『荒墨』を自分の贈物として献上してしまった。

その結果、昭光の意は少しも秀吉には伝えられず奥州仕置で改易されてしまったという。
141人間七七四年:2009/11/13(金) 17:19:49 ID:lPC6Z4p/
奥州仕置き・関東仕置きを見てると
対人関係に恵まれるということが、どんなに素晴らしいことかよくわかるな
142人間七七四年:2009/11/13(金) 17:20:30 ID:lPC6Z4p/
駿府両替商殺人事件

慶長19年、駿河の国は大雨に襲われ、安倍川が渡れないほどに水量が増えていた
そんな中、ある北国からやってきたばかりの千塚太郎右衛門という若い侍は、
先に府中にやってきていた雲場茂助という侍と自分の下屋敷で暇潰しに色々話等していた
長く話をしているうちに、どうやら雨が少し止んで来たようなので、
太郎右衛門は下男に命じて茂助の傘を縁側の軒先に干すように命じたのだが、
そこで下男がふと縁側の下を見て、奇妙なことに気がついた
なぜか庭の水が縁側の下に流れ込み、縁の下から土が流れだしているのだ
奇妙に思った下男がそこを調べてみると、なんとそこから
まだ腐敗の進んでいない、縞模様の着物を着た男の死体が見つかった
下男の知らせを聞いて驚いた太郎右衛門と茂助は
急ぎご家老にこのことを知らせようと、ご家老の住む上屋敷に向かった

ところが既にこの時日は落ちており、上屋敷の門は閉まっていて
どんなに言っても二人は中へと入れてはもらえなかった
大事な用事なのだから、申し上げねば困ると太郎右衛門が言うと
門番は門を開けない理由を二人に説明した
143人間七七四年:2009/11/13(金) 17:22:29 ID:lPC6Z4p/
門番によると、
昨年、府中のある両替商の男が、この門を入ったままなぜか行方不明となり
以来全く消息がわからぬまま今に至っている
男は縞模様の木綿の着物を着ていて、随分金目のものを持っていたから
もしかしたらそれを目当てに誰かに殺されたのかもしれない
だから犯人がわからぬうちは、夜は門を閉めて誰にも出入りを許してはならぬ
と家老からおおせつかっているということだった

太郎右衛門と茂助は大変なことになったと青ざめた
あの死体はこの行方不明の両替商であるかもしれない
もしそうだとすると、犯人は太郎右衛門の親戚にあたる男で、
昨年まで太郎右衛門が今住んでいる下屋敷に住んでいた谷淵長六であろう

困った太郎右衛門は茂助に頼んでこのことを秘密にすることにした
二人は固く約束し、茂助は自分の屋敷に帰っていったのだが、
翌日、太郎右衛門のもとに家老から
「行方不明の両替商について調べたいことがあるので、上屋敷に来るように」
という使いが届いた

太郎右衛門はさては茂助が武士の約束を破ったのかと激怒し
茂助の家に押し掛けると刀を抜いて切りかかった
説得しても無駄だと悟った茂助は応戦し、二人は相討ちとなって死んだ


事件は結局家老に全てが知れることとなったのだが、
家老がどうして両替商と太郎右衛門の屋敷について知ったのかというと
太郎右衛門が邪推したように茂助が約束を破ってチクったからではなかった

太郎右衛門達が帰った後、家老の上屋敷の玄関に、
なんと死んだ両替商の幽霊が現れて、事件の全容を語って聞かせたのである
両替商は谷淵長六の下男に上屋敷で殺され、金品を強奪されて下屋敷に埋められていたが
掘り起こされたことで幽霊となって現れることができたのである

そして最終的に谷淵長六は全ての責任を負うことになり切腹となったということだ

144人間七七四年:2009/11/13(金) 17:36:01 ID:UYTLGV5/
>>142-143
おお、これは面白い怪談話。舞台劇とかに出来そう。
145人間七七四年:2009/11/13(金) 18:25:17 ID:rHmhfM8y
幽霊が祟った結果じゃなく、人間の疑心が互いを自滅させたんだな・・
げに恐ろしきは人ってことか
146人間七七四年:2009/11/13(金) 22:33:48 ID:NU8ke61b
永禄3年(1560年)、越後の長尾景虎が関東管領職を相続したときのこと。

「なんで? なんであの子が管領になっちゃうの?」

大いに不満だったのが甲斐の武田信玄である。
関東で伝統ある家といえば、まず挙がるのが源平の頃から続く
甲斐源氏武田家であり、家の格式でいうなら武田は甲斐守護、
長尾は越後守護代である。
関東管領を継ぐのは、自分こそがふさわしいと考えていた
信玄にしてみれば、面白かろうはずがない。

だが、室町将軍のお墨付きも得たことに表立って反対する
こともできず、結局できたことは、

「ふっ、ふん! あんたには上杉なんて似合わないわ! 
あんたはこれからも長尾よ長尾。そう決めたんだから!」

と、景虎を長尾の旧姓で呼び続けることであった。
147人間七七四年:2009/11/13(金) 22:50:29 ID:c/px9dU2
>>146
信玄て佐竹義重とも、
どっちが甲斐源氏の嫡流かで(手紙で)言い争ってたよな。

戦国は実力主義だのなんだのと言いながら、
やっぱり家格はものを言ったのかねぇ。
148人間七七四年:2009/11/13(金) 22:51:51 ID:gidy8NF/
北条家も「上杉」を認めずに「長尾」って呼んでたよね。
逆に上杉家は「北条」を認めずに、意地でも「伊勢」と呼んでた。

武力を用いた戦争だけではなく、格式や正当性をも争い
果ては呪力まで用いて全面戦争してたわけだ。
149人間七七四年:2009/11/13(金) 22:53:43 ID:UYTLGV5/
つーか、謙信に関しては、武田に限らず、関東で謙信に与する人間以外はほぼ「長尾」って呼んでる。
景勝も「長尾」って表記される事が多くて、これが「上杉」に統一されるのは、江戸時代に吉良さん所から
養子が入ったころにやっと、じゃないかな?
150人間七七四年:2009/11/13(金) 23:30:04 ID:p5AfXbo+
>>147
甲斐源氏限定でなく、新羅三郎義光流の本流争い。
151人間七七四年:2009/11/14(土) 00:00:41 ID:ZApLDZaT
いまでもよくあることじゃないか
152人間七七四年:2009/11/14(土) 00:02:32 ID:xBxWd/e8
>>140
自分の甥を信用するやつが悪いw
153人間七七四年:2009/11/14(土) 00:12:44 ID:LmkVjqtg
>>152
甥ってだけで口約束でそんなこと頼むの無防備だよね
年寄りの一人くらい完全武装でつければいいのにって思うけど
何の対策もしてなかったのかな
154人間七七四年:2009/11/14(土) 01:00:26 ID:D4tsbjvi
>>137で見事忠興の能興行の危機を救った中津海次兵衛。
今回は、その中津海の悲劇的な最後について語らねばなるまい。

中津海はその早足、軽業に加え、もう一つ、非常に変わった特技があった。
それは、『魚の丸呑み』である。彼は一尺(約30センチ)ほどの鯉や鮒を、頭から
飲み込むことを得意としていた。ヘビかお前は。

しかし世の中、こんな何の役に立つのかわからない芸を喜ぶ人と言うのは居るもので、
彼の主君、細川忠興も、又そういった類の人であった。

関ヶ原の戦功により、忠興は豊前四十万石を領する事になった。
この入国の祝いの余興に、忠興は中津海にお得意の、鯉の丸呑みショーをやらせる。

「さあ、これを飲み込むのだ!」
「ははっ!」

かぷ。ゴキュ、ゴキュ、ゴキュ、ゴクン。
「おおお〜」

一尺余りの鯉が、頭から見る見る飲み込まれる様子に、一座感嘆のざわめき。
この反応に忠興、気を良くしたか、中津海に

「ワンモア、オーケー?」
「イエース!オーケーイ!」

なんと二匹目である。「流石に、あんな大きな鯉が二匹も腹に入らないだろう」
そんなオーディエンスの囁きを他所に、中津海、ノリノリで二匹目の頭を、口に

かぷ。ゴキュ、ゴキュ、ゴキュ、
「おおお」

ゴクン
「おおおおおおおおお!!!ブラヴォー!ブラヴォー!!」

見事飲み込んだ。一同、この珍芸に拍手喝采大盛り上がり。
その時である、忠興がふと、こんな事を言い出した

「次兵衛、お主は頭からばかり飲み込んでるけど、尻尾から飲み込むことって出来ないのか?」
「え?それは…やったことが無いのでなんとも…。」

盲点であった。ここで忠興、「何事も一度は経験しておくべきだ。」などと言い出す。よせばいいのに。
「幸いここに、小ぶりの鯉が一匹残っておる。これで試してみると良かろう。」
「はあ…」

中津海、尾を咥え、
はむっ、ゴキュ、ゴキュ…

小ぶりとはいえ鱗が引っかかって、難しいか?
ゴキュ、ゴキュ、ゴキュ…ゴクン!

飲み込んだ!
「流石は中津海次兵衛!」忠興はじめ細川家中、拍手喝采スタンディングオベーション。

が、その夜、悲劇は起こった

「グハッ!!??」

寝室に居た中津海が突然吐血、明け方にはついに死んでしまった。

「鯉を、さかさまに飲んだことが悪かったのだろう。」その頃の人々は、そう言ったとのことである。
155人間七七四年:2009/11/14(土) 01:07:11 ID:mvW9fx+z
ワラタ

30cmのドジョウならともかく
30cmのコイをひとのみにできるなんて、どんな喉の構造してるんだよw
人間じゃないだろ
156人間七七四年:2009/11/14(土) 01:12:06 ID:71FjYrtc
馬を呑み込んだ、ように見せる詐術があるからそういう類いかと思ったけど違うのか
157人間七七四年:2009/11/14(土) 01:12:36 ID:760GBf1u
ヒデェwww
精神年齢三歳様ヒデェwww
158人間七七四年:2009/11/14(土) 01:14:05 ID:9V/upSaN
一尺の魚を立て続けに丸呑みして超速棒幅跳びでカッ飛んでくる…
どう見ても化け物
159人間七七四年:2009/11/14(土) 01:18:51 ID:M7mkB4JE
ガチで飲んでたのかこのビックリ人間はw
160人間七七四年:2009/11/14(土) 01:23:15 ID:gBs8TBOW
>>152>>153
と言うか石川昭光は当時既に政宗に降ってる状況だったから、
改易されれば政宗は支配地を失うわけで、取り成してくれるはずと思っても
不自然じゃないんでは。
結局石川の所領は秀吉に取り上げられた範囲に入っちゃってたんだけど。
一応政宗は石川昭光を一門筆頭として高禄で家臣に迎え入れて
落とし前はつけたが、そのせいで一門筆頭家の座を奪われた成実が
切れて出奔するという痛手を受けた。
161人間七七四年:2009/11/14(土) 02:35:38 ID:bNQp88SQ
悲劇的な最後?
喜劇的な最後の間違いだろw
162人間七七四年:2009/11/14(土) 08:15:25 ID:LmkVjqtg
>>154
現代人の俺でも魚は尻尾から行くと骨がささりやすいって知ってるのに
生とかあれこれ刺さるもんあるだろ
どうなってるの…
普段があまりにも変態すぎて当然の心配さえしてもらえなかったのか
163人間七七四年:2009/11/14(土) 08:46:59 ID:TxLAvAY3
>>154
鯉と聞いて幽斎がアップを始めました。
164人間七七四年:2009/11/14(土) 10:17:59 ID:qY6W9CG4
>>160
その後石川さんは政宗に厚遇されたましたとさ
で終わればちょっといい話ぽかったのにね…。
165人間七七四年:2009/11/14(土) 10:30:59 ID:uarNiz17
>>154
ネタもネタだけど語り口で吹くw
166人間七七四年:2009/11/14(土) 10:51:18 ID:hbB5EWS8
>>164
相模国でのちの天下人家康に百人扶持で雇われたから良かったじゃん。
そのまま仕えてれば良かったのに。
上杉から5万石で誘われたとか大嘘書いてるけど。
167人間七七四年:2009/11/14(土) 11:08:40 ID:y6YUgtUq
>>150
佐竹は常陸源氏だったか。
浅学申し訳ない。
168人間七七四年:2009/11/14(土) 12:29:19 ID:U+44v2UP
>>166
はいはい大嘘大嘘(笑)
169人間七七四年:2009/11/14(土) 14:39:17 ID:wO9RAmQV
>>166
嘘を証明する史料は?
170人間七七四年:2009/11/14(土) 15:16:16 ID:V4eOibPe
可児才蔵が関白・豊臣秀次に使えていた時の話

長久手の戦にて、秀次軍は徳川軍にこてんぱんにされ、敗走しつつあった。
そんな中、岡本嘉介と村善右衛門らの部隊は懸命に踏み止まって戦っていた。
しかし、もはや多勢に無勢、とても支えきれない。
そこへ駆けつけたのが、可児才蔵だった。
「おお、才蔵殿がきてくれた!」
当時から彼の武勇は知れ渡っている。岡本らは百万の援軍を得た思いだった。
才蔵が問う。
「殿はどこだ?」
「あちらへ退却されました!我らはここd」
「ああそう」
なんと、才蔵はあっさりと岡本らを見捨て、秀次が逃れた方角へ行ってしまった。

当然ながら、踏み止まった者達は腹の虫がおさまらない。
「目前に迫った敵を無視して逃げるとは、才蔵なんざ看板倒れだ!」
そう言いあっていた。
後日、聚楽第に参集した機会を捉え、一体どういうつもりだったのか問い詰めた。
才蔵はこともなげに答えた。
「どうもこうも、総大将の後に続いたまでのことだ。
が、今あなた方の話を聞けば、これももっともだ。
よくわかった、では俺は暇乞いするとしよう」
有言実行、才蔵は自分の宿にも帰らず、その足でとっとと他国へ去ってしまった。

この後、福島正則が彼を七百五十石にて召抱えることになるのだった。
171人間七七四年:2009/11/14(土) 15:25:58 ID:58GADmHn
百人扶持の旗本って大身だよな。
天下の趨勢も大分見えてただろうし、そういう選択もありかと思うが。
172人間七七四年:2009/11/14(土) 15:45:03 ID:LkDscmUJ
>>170
こんなこと言ってるけど、この人肝心の秀次に会った時には馬に逃げられた秀次が
「おまえの馬貸して!」って言ったのに
「雨の日に蓑笠を貸す者はおりませんわい」とか言ってシカトして逃げた
って逸話もあるよなw
173人間七七四年:2009/11/14(土) 22:06:55 ID:KOYTesSf
>>149
考えてみりゃ上杉憲政から関東管領と上杉姓を譲られた謙信はともかく、景勝がそれを世襲
しちゃうって何か話の筋として妙な気もするな・・・
上杉と婚姻関係も無いし、景勝は長尾を名乗るのが本筋のような・・・・
174人間七七四年:2009/11/14(土) 22:59:14 ID:xys50thT
譲るっていうのはそういうことなんじゃないかい?
そいうことなんじゃないかい?
175人間七七四年:2009/11/14(土) 23:46:47 ID:0VrfXF3n
>>162を読んで、ようやく自分が>>154を誤解してることに気づいた

魚をしっぽから食ったのであって、自分のケツから魚を食った(いれた)んじゃないんだなあ、と
176人間七七四年:2009/11/14(土) 23:49:50 ID:D4tsbjvi
>>175
そんな衝撃的な読み違いをされるとは思わなかったw
177人間七七四年:2009/11/14(土) 23:58:10 ID:etc6Pxdj
>>175
貴殿は疲れている。明日は日曜だからゆっくり寝るがよろしかろう。
178人間七七四年:2009/11/15(日) 00:18:52 ID:1KjNpd33
>>175>>154
三斎「ウホッ! いい食いっぷり…」
中津海「俺は魚類でもかまわないで食っちまう人間なんだぜ」
で、小ぶりの鯉は○○○○な結果に終わると。
179人間七七四年:2009/11/15(日) 01:23:39 ID:owDn/OHU
>>175
それは人前でやるゲイじゃない
180人間七七四年:2009/11/15(日) 01:32:46 ID:XslkBbyg
くそみそ鯉こっく
181人間七七四年:2009/11/15(日) 01:46:55 ID:+rPnbu1l
>>173
憲政に謙信が養子入りして上杉家の家督を相続したって話だから
その謙信の養子である景勝は相続権あるでそ?
182人間七七四年:2009/11/15(日) 08:29:03 ID:UQ766gQQ
そういうこと
183人間七七四年:2009/11/15(日) 13:19:55 ID:3sGkYnUw
日頃温厚で心細やかであった細川忠興公であったから、関ヶ原の折、
初陣の嗣子忠隆には大阪の細川屋敷からこまごまとした心得を
早々送っておいた。
丹後田邉に父幽斎は捨て置いたままでよい、心おきなく出立する旨であった。
憎き大坂方奉行どもが大勢にして田邉城に攻め寄せようとも、
武勇に優れた父幽斎であるからして老いた皺腹を切るだけであり、一向に苦しくないと。

祖父幽斎と僅かな留守番のみを残し、後ろ髪をひかれつつ細川忠隆は三千五百の兵を率いて丹後を出立した。
途中若狭小浜の大谷口に差し掛かった。
この地の領主、木下勝俊は家康方に属するも去就の未だ定かではなく、この時分大阪に在り不在であった。
木下勝俊の家老らは、無用な紛糾を避けるべく、細川家に小浜城下の通過を遠慮願う旨を申し送ってきた。

このため細川忠隆の軍は城下を避け、狭隘な山沿いの道へと迂回することとなった。

ところが殿を務めた武者に沢村才八というものがあり、これを不面目、面白からずとした。
独断にて数騎を従え小浜城を仰ぎ見つつ、城下の端から端までこれ見よがしに駆け抜け、
先回りをして主人忠隆を待ち受けたのであった。

この経緯を近江で聞いた細川忠興、何故城下を通過しなかったのか、勇ある将にあるまじき、
と息子忠隆を激しく叱責すること甚だしかったため、忠隆も反発。

この後親子の間は険悪となってしまった。

184人間七七四年:2009/11/15(日) 14:07:23 ID:3zFc92Gn
去就定かならず?
踏み潰せッ!!!!
185人間七七四年:2009/11/15(日) 15:35:26 ID:5nxBSnIf
沢村才八というと後の大学か
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1831.html

家康の記憶に残り晩年宮本武蔵と親交結ぶほどの歴戦の士まで連れて行って
武の名門細川の若殿が消極策取ってんだから怒られても仕方ないな
186人間七七四年:2009/11/15(日) 16:26:36 ID:VlaMpLET
長谷堂撤退戦の時のこと。

上杉軍の中に負傷者があり、これは薬を飲ませなければ、と言うことになったが、
あいにく水の用意が無く、これを飲み込ませることが出来ない。
どうしたものかと考えたが、ある者が「そうだ!小便で飲み込ませればいいじゃないか!」

そこは戦国時代である。「おお、ナイスアイデア」と皆賛同。早速みんなで小便をすることになった。
この時代、うかつに負傷なんてすれば地獄ですな。

ところがである。この上杉軍の猛者ども、出ないのだ、そろいも揃って小便が。
「おい!早く薬を飲ませないと!早くしろよ!」「い、いや、急いでいるのだが…」

焦れば焦るほど小便は出ない。どうしたものかと困っていると、そこに現れたのが
我らが前田慶二。
小便が出なくて困っている同僚達を他所に、裾をたくし上げて堂々と小便を垂れ出した。

「こういう厳しい戦場ではな」

悠々と小便しながら慶二

「みんな気がのぼせて、小便も出なくなるものなのさ。
だがわしは、戦場でもまるで気が上らないたちでな、そのためこのように小便が出やすいのだ。
今後もこんな戦場で小便の御用がある時は、いつでもわしに申し付けてくれ!」

戦場でもそうそう小便を必要とする事態は起こらないだろうし、なるべくなら起こってほしくは
無いのだが、ともかく、こんな事があったので、人々は「前田慶二とは勇気のある者だ」と言う目で
見るようになったそうである。負傷者も慶二の小便で、薬を飲み込まされたそうである。

いい話なんだろうけど、何故かいい話にするのもアレだと思ったので、こっちにw
187人間七七四年:2009/11/15(日) 16:56:43 ID:H3lndvQj
>>186
さすが60前後のベテランだけあって落ち着いてるぜ
修羅場でも動じないのは頼もしかったろう
俺も慶次のしょんべん飲みたい
188人間七七四年:2009/11/15(日) 17:11:01 ID:QKzdBx5s
戦場で飲尿プレイ…しかもアッー…
189人間七七四年:2009/11/15(日) 17:32:48 ID:KFNQFRO5
小便といえば、
戦場で小便しながら敵を斬り倒した金津義舊って猛者がいたな。
まとめで見かけたような気がしたが…。

こいつこそまさに「勇気のある者」だと思う、いろんな意味で。
190人間七七四年:2009/11/15(日) 18:15:46 ID:3sGkYnUw
戦場で暴れまわれば、脱水になるから小便出にくくなるなあ。
で、疲れが加速し動き鈍る。討ち取られる、てことになりやすい。

前田はこまめに水分補給していたのだろう。
尿飲むのは浸透圧高いからよくない。薬流しこむのならやむを得ないが。
基本的に無菌だから、傷口洗うのには泥水よりはずっとよろしいかろうて。
191人間七七四年:2009/11/15(日) 20:49:56 ID:708pj+21
三国志にでてくる魏の将軍『路招』サンは野グソ中に蜀兵に発見されたとき、下丸出しで何人か切り伏せ、悠々とその場を後にしたらしいぞ。
192人間七七四年:2009/11/15(日) 22:38:36 ID:BsK5hzBd
もの凄い臭かったのでひるんだのかもしれん
193人間七七四年:2009/11/15(日) 22:49:48 ID:H2q5dTgg
>>190
戦場で小便が出なくなるのは 脱水症状だからではなく
交感神経が活発化するからだ。
極度の興奮状態にある時、脳は無意識に消化器の活動を停止させ
筋肉や心臓・肺の活動を促進させる。
戦闘や逃走に備えるために。
普通の人間は排尿や排便はできなくなる。

ところが前田慶次の肝の座り様は尋常ではなく、
戦闘の最中でも小便を出せるほど落ち着いていたという意味だ。
194人間七七四年:2009/11/15(日) 23:00:25 ID:jNC5eOyj
家康「大便が必要になった時はまかせてくれ」
195人間七七四年:2009/11/15(日) 23:15:01 ID:BsK5hzBd
例外として腹の痛みが極限まで行くと逆に周囲の状況がどうでも良くなってくる
196人間七七四年:2009/11/15(日) 23:17:17 ID:k9+DW+Xf
漫画では傷を洗うためってことになってたな。
>前田慶次の小便
流石に少年誌で小便を飲む描写はマズかった?
197人間七七四年:2009/11/15(日) 23:53:42 ID:L3lhmPIY
無菌を保つ為には当然直飲みですよね……

>小便
198人間七七四年:2009/11/16(月) 00:15:26 ID:uIpwwKCB
>>196
まぁ、そりゃ飲ませはなぁ
199人間七七四年:2009/11/16(月) 00:37:29 ID:C84LVNP0
>>196
原作小説でもそこは洗うためだったぞ
200人間七七四年:2009/11/16(月) 00:41:06 ID:D3jPilHF
実は頻尿だったとか
201人間七七四年:2009/11/16(月) 01:52:02 ID:oYmmPQcT
黄金水・・・いや、なんでもない
202人間七七四年:2009/11/16(月) 05:52:04 ID:L+Z8HIbi
武士道とは、スカトロと此れ見たり!
203人間七七四年:2009/11/16(月) 06:26:55 ID:W9ASKG/t
>202
さすが半島
204人間七七四年:2009/11/16(月) 08:11:59 ID:OXFeO4+K
傷治すために馬糞汁飲まされるそれが戦国時代
205人間七七四年:2009/11/16(月) 08:59:22 ID:0Raamk8f
しかし、なぜ戦国時代には医学が発達しなかったのだろうか?
206人間七七四年:2009/11/16(月) 11:06:38 ID:EYTervSI
大陸から朱子医学が入ってきて広がる時期じゃない
207人間七七四年:2009/11/16(月) 11:37:56 ID:WfFeKBWv
外科というか、止血関連は経験則だけで異様に発達していたが、
経験を記録化しなかったから世代交代であっさり失われたんじゃなかったか
208人間七七四年:2009/11/16(月) 12:43:56 ID:myy6Pbeg
木曽義仲を大河ドラマに 誘致へ気勢、行列再現

平安末期の武将・木曽義仲と巴御前を主人公にした大河ドラマの実現を目指そうと、
可児市などの有志が15日、「木曽義仲をNHK大河ドラマに誘致する岐阜会議」(亀谷光会長)を立ち上げ、
同市久々利や可児郡御嵩町で約30人が参勤交代の行列を再現し、地域住民や観光客にアピールした。

 同市久々利には、関ケ原の合戦以降、義仲の子孫の千村家が屋敷を構えた。
江戸時代には中山道を通り江戸へ参勤交代しており、今回はその様子を再現した。
千村家は明治維新後に木曽姓に戻し、今も子孫が住んでいる。
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20091116/200911160847_9308.shtml

いや、可児には義仲なんかよりも先にプッシュすべき、地生えの武将が居るだろ。
209人間七七四年:2009/11/16(月) 12:50:25 ID:z1dHcWRZ
義仲がアリなら久秀もアリなんじゃねw
210人間七七四年:2009/11/16(月) 13:15:53 ID:DiHBCqOL
むしろ森家四代記を
211人間七七四年:2009/11/16(月) 13:24:50 ID:91csl90+
>>210
それR指定
212人間七七四年:2009/11/16(月) 13:37:01 ID:M9+8wRiu
TV画面が紅く燃える!史上最も(返り血が)熱い大河

第二十話 高遠城無残
213人間七七四年:2009/11/16(月) 13:37:31 ID:OvWQpELd
姫路城修理完了にあわせてクロカンが来そうな気もするけれど
ここ的にはやっぱり長政主人公で
214人間七七四年:2009/11/16(月) 13:50:40 ID:VMX5ez29
どうせ昨今のホームドラマ大河じゃまともな合戦シーンは望めないんだから
座敷での活躍の多い宇喜多直家辺りにしとけ
215人間七七四年:2009/11/16(月) 14:51:16 ID:F37v78AF
日本水泳連盟推薦
大河ドラマ宇喜多秀家
216人間七七四年:2009/11/16(月) 14:53:59 ID:hjD5L5Z9
面白い話なんだがさすがにスレ違い
続きは大河ドラマ板でプリーズ
217人間七七四年:2009/11/16(月) 18:42:19 ID:jLSROXHe
松浦鎮信の従者に、金子九右衛門という無類の忠義者がいた。

戦の折りのこと。
敵と相対するうち、戦機と見た鎮信、「おい、くつわを放せ」と九右衛門に命じる。
しかし九右衛門、しっかと馬を押さえて動かさない。
何度言っても聞かない九右衛門に、ついに鎮信は立腹し、軍旗をもって殴り始めた。
「まだ、潮時ではありません」
九右衛門はいくら罵られようと離さない。
やがて頃合を計り、「ここです!」と馬を放つと、お味方大勝利となった。

そうしたことが何度もあったという。

また、鎮信は陣中で夜出歩く際、馬上で自ら松明を持っていた。
松明は、灯りとするうちに燃えカスがたまって暗くなる。
そうすると、鎮信は馬を引く九右衛門の頭に松明を叩きつけ、煤を落とした。
そのため、九右衛門の頭はいつも火傷だらけだったという。

……いや、忠義話として紹介されてるんだけど、鎮信ヒドスってことで
218人間七七四年:2009/11/16(月) 19:01:43 ID:iBkk3sVd
戦の勝機を見誤らない辺り、単なる従者にしとくのが勿体無いが・・・・
主人を選べばそれなりの出世をしたかもな。

「この殿様はワシが付いてないとダメだから・・・」とかそういう感じなんだろうか。
219人間七七四年:2009/11/16(月) 19:28:49 ID:ECSLbcPS
後者の話が前者の話の仕返しにしか見えんたい
220人間七七四年:2009/11/16(月) 19:33:51 ID:gmDXNtiu
永禄三年、名目上引退したはずの北条氏康(45)は、
自らの評定衆を率いて独自の印判状を発給したりして、
引退前と変わらずバリバリ働いていた

その頃の氏康の悩みは、天文十八年に起きた巨大地震の対策と
この頃相次いだ猛烈な飢饉・凶作にあえぐ百姓からの山のような嘆願、
更に上杉謙信という、もはや恒例となった災害の被害に対する対処など
色々広範に渡るものであった

そんなこんなに頭を悩ます氏康がこの年に発した永禄三年の九箇条の徳政令は

1.この年の年貢は半分だけを銭ではなく米で収めること
  (この頃年貢はほぼ銭だった)
2.御年貢銭の半分は精銭で、半分は他の質の劣る銭で収めてもよい
3.借りた銭や米などはリセットしちゃって良し
4.妻子、下人の年季売りは取り戻して良し
5.田畑の年季売りは契約年季の三分の二は無かったことにして良し
6.ただしこれまで未納の年貢のうち、代官・奉行が立て替えた分は百姓が払うこと  (利息分は返済を免除する)
7.ただし、うち(北条)の蔵銭から貸し付けた分は無かったことにしません
8.民間の無尽銭(寺社などが営む高利貸し)も徳政の対象にできません
9.田畑の永年売りは本来違法ですが、今回だけ見なかったことにします。
  なんかトラブルあったら氏康に手紙で相談してね

という民に優しいのかどうなのか現在の人には簡単にはわかりかねるけど、
戦国にしては優しいのかしれないかなーという内容のものであった。

氏康は割とこの徳政に自信を持っていたようで、後に
「万民を哀憐し、百姓に礼を尽くした
 天道において明白なことだ」
と自ら述懐している

坊さんに「もっと善政しろよ」と言われて
「オレが今までどれだけ善政をしてきたかお前なんかにわかるんか!」
と、宿題やろうとしたところで親に怒られた小学生みたいにキレたこともある
北条氏康の内政に対する満々な自信を伺わせるお話
221人間七七四年:2009/11/16(月) 20:30:40 ID:z1dHcWRZ
こりゃまた微に入り細を穿つ布令ですな
氏康は大名と言うよりは、諸葛孔明みたいな政治家だなあ
222人間七七四年:2009/11/16(月) 20:38:23 ID:ECSLbcPS
津軽家の弘前城からほど近い所に藤代という村があり、
そこの大きな館の女主人を人は藤代御前と呼んでいた。
藤代御前は名高きヴィジンとして、近隣の地に広く知られていたという。
津軽為信も、かほどの美人ならば是非とも側に置いておきたいと思い、

為信「側室として来て頂けませんか?」

彼女を側室に誘った。

御前「津軽様ならお断りします」
為信「え?」

そして、拒絶された。
実は藤代御前、夫を津軽為信に殺された美貌の未亡人である。断わって当然の立場だった。
だが為信にとっては所詮は過去の思い出である。為信はくじけず、二度目のプロポーズへと移る。
為信が用意したのは、具足を身に纏った足軽達だった。皆、手に得物を持ち、館を攻囲している。
どうやら為信、実力行使に出たらしい。
それに対し体を狙われている藤代御前はというと、妹と家来達と共に武器を手に館に篭もった。
藤代御前はその美貌もさることながら、武勇にも優れていたと伝えられている。
だがいくら武勇に優れていたといえど、限界がある。家来達も多くが戦場に倒れ、
いよいよ藤代の館が津軽の手により陥落しようとしたその時、

御前「津軽の女になるくらいなら、戦って死んでやりましょう!」

藤代御前は門を八の字に開放し、僅かな手勢を連れて打って出て、
死力の限りを尽くして暴れまわった後、討ち死にを遂げた。
223人間七七四年:2009/11/16(月) 20:40:02 ID:ECSLbcPS
藤代御前が死んだ後、津軽為信は後悔するどころか不安な日々を過ごしていた。
実は藤代御前、死に際に

御前「津軽為信ゥ、この恨みは忘れんぞ! 貴様だけではなく、末代にいたるまで津軽を祟りまくってやるゥ!」

と言い放ったのだ。
南部から独立して大名にまでなったのに、祟りで御家を滅ぼされてはたまったものではない。
しかも、運よく為信の代の呪いを乗り切ったとしても、末代まで祟ると藤代御前は公言仰せであった。
どうにかして防ぐ術はないものか――――と悩みに悩んで、時は慶長十二年まで流れゆく。
京に居た為信も、もう死期が近い。これは流石に御前の呪いではないだろう。

為信「わしが死ねば、恐らく津軽家は藤代御前に祟られようぞ。
    だが、わしもただでは死なん。逆に、わしが奴を祟ってくれよう」

晩年の為信、実にいい事を閃いたものだ。
藤代御前の墓は、岩木川に面する土地にある。為信は、その御前の墓の上に自分の墓を造れと左右に命じた。

為信「わしが、死してなお藤代御前を上から押さえつけてやろうと言うのよ」

こうして為信は、念願の藤代御前と永久に眠る事――――ではなく、無事に津軽家を祟りから救う事ができたという。
224人間七七四年:2009/11/16(月) 20:48:38 ID:ZVhtJVcX
為信の奥さんは家臣を幼い頃から息子の様に育てたりした立派な人だったというのに…
225人間七七四年:2009/11/16(月) 21:50:09 ID:D3jPilHF
為信さん気持ち悪いです><
226sage:2009/11/16(月) 22:00:40 ID:pheHiaw4
なんて最低な…
227人間七七四年:2009/11/16(月) 22:02:31 ID:pheHiaw4
なんて間抜けな…
228人間七七四年:2009/11/16(月) 22:10:05 ID:sF4MHsCU
岐阜城を攻略したとき、池田輝政は福島正則を称える使者を派遣した。
しかし怒っていた正則は使者にまともな返事を返さない。
実は岐阜城一番乗りは福島正則だったのだが、池田隊が旗を投げ込んで
横取りしていたのだった。福島正則はそれを根に持っていたのだ。
その様子を傍で見ていた細川忠興は「その使者を斬ってくる」と言って
立ち上がった。「待て、使者に罪は無い」正則は忠興は慌てて止めた。
忠興は「今の口上を使者が帰って報告するときっと池田輝政と争いになる。
大事の前である」と反論した。
正則は改めて使者に丁寧な口上を述べて送り返した。
229人間七七四年:2009/11/16(月) 23:00:27 ID:LpbQ/xP0
230人間七七四年:2009/11/16(月) 23:05:08 ID:myy6Pbeg
吉川広家、関ヶ原での輝元を弁明する。

『この度毛利家が内府様に弓を引いた事、これは輝元が心底からやったことではありません。
輝元は、皆様ご承知のようにバカなので、安国寺恵瓊や石田三成に騙されたんです。
だから、内府様に本心から楯突こうなんて思ったわけじゃないんです。

これからは内府様に御忠誠をつくします。ですから、領地はどれだけ削られてもかまいません。
どうか「毛利」と言う苗字だけでも残してください。

もし輝元が処罰され、私だけ取り立てられては(この時、広家には中国で二カ国と言う内示があった)
面目が立ちません。
輝元が処罰されるの言うのであれば、どうか私にも同じ罰を与えていただけるよう、幾度も
お願いいたします。

今回、もしお恵みを以って毛利家を許していただけたなら、今後毛利の家が
徳川に弓を引くようなこと絶対にありません。
もし、輝元のバカが、千万分の一ほどでも、再び内府様に対して不届きな考えを起こしたら、
その時は私が一人で、輝元のやつをぬっ殺し、あいつの首を取って差し出し、
内府様への忠節をつくします。

ですからどうか、毛利家を残してください。』

以上、吉川家文書より。


この必死の嘆願により、毛利輝元は西軍総大将の責任を問われること無く、周防長門二ヶ国を
拝領した。

しかし

>輝元は、皆様ご承知のようにバカなので、

こんな話がさらっと通用しちゃうのが、なんとも困った輝元さんなのであった。
231人間七七四年:2009/11/16(月) 23:15:57 ID:NJkU9RYF
それを真に受けて倒幕の芽を残した内府もやっぱりドタワケだと。
232人間七七四年:2009/11/16(月) 23:21:15 ID:gmDXNtiu
さすがに200年先まで想定は無理だろw
大体TERUはアレでも毛利家自体の血筋はチートなんだぜ?
それで200年抑えつけた幕府はすげえよ
233人間七七四年:2009/11/16(月) 23:22:58 ID:f6PSVH5c
いつも思うんだが、>>231みたいなのがたまにいるが、この手の人は
この時家康が毛利家を残した事と、250年後の倒幕の中心に長州がいたことが繋がっていると、
本当に信じているんだろうか?
234人間七七四年:2009/11/16(月) 23:31:35 ID:PORADLK7
あの、倒幕の準備は整ったか?いえまだにございます。つう逸話を真に受けてんじゃねw
235人間七七四年:2009/11/16(月) 23:35:31 ID:MhNvqrL2
津山の名物の一つに「きらず粥」という料理がある
ttp://yumeminori.sakura.ne.jp/sblo_files/yumeminori/image/CE5W7731.jpg
「きらず」と言うのはそのままの言葉通り「斬らず」に済む料理の事で
豆腐の絞り粕やおからなどの事を指し、野菜などを飾り付けて粥にして食す。

この名物の誕生は文禄3年(1594年)に前室が亡くなって独り身の森忠政と
豊臣秀長の娘以和姫が新たに室として森家に嫁いで来たのがきっかけである。

以和姫は史書の殆どでは豊臣氏と記載されるが実名は名古屋以和(通称:智勝院or於岩)で
秀長の嫡男小一郎と婚約関係であったので幼な妻として豊臣に嫁いだが、夫となる秀長の息子が
これまた若くして没したので、いきなり未亡人扱いとなりそのまま豊臣養女となった。

以和姫が秀長が没するまでの間他家に嫁がされる訳でも実家に返される訳でもなく、
豊臣大納言家で長く大切に育てられたのは病弱であった嫡男小一郎への秀長の深い愛情と
秀吉の側室となっていた姫路殿や淀の方からの身内厚遇の計らいがあったと言われている。
(姫路殿(信包娘)と以和姫の母養雲院(信包孫娘)は茶々姫(お市娘)が尾張で織田信包の下で
保護されていた時代に共に仲良く過ごした縁続きであったからだと思われる。)
織田・豊臣と天下人の縁戚のもとで育てられた娘なので文字通りお姫様育ちであったそうだ。

一方、森家では家臣たちから「夫婦仲が悪くなり忠政様の悪口を綴った文でも豊家に出されたら・・・」
「この時期に豊臣の姫様とな!これは財政が傾くやも知れぬ!!」と表立っては口に出さぬが
裏でこそこそとぼやくので一時揉めはしたが、忠政には自信があった。

忠政は婚姻後早々に以和の兄九右衛門をどこからか見つけ出し自らの右腕とし以和の妹達も家臣達に嫁がせ
以和との間には2男(虎松・忠広)3女(宮姫・菊姫・)が生まれ夫婦仲は良好で見事に家臣たちを黙らせた。
多少貧しい生活だろうが兄妹も子供たちも元気で以和姫から見れば忠政は最高の夫であった。

そんな折に最愛の夫が戦事という訳でも無いのに人をぶった切ったのだ。
それが自らだろうが、家来に命じてだろうが酷な世を知らぬ以和姫には刺激が強すぎ
「旦那様がそんな残酷な人であるはずがない・・・」と深く嘆き床に伏せった。

追い打ちをかけるように兄九右衛門と井戸宇右衛門の事件が発生し忠政が井戸兄弟を抹殺命令を下した。
以和姫はそれ以降、一年の終わりの歳暮の日に「来年は(主に旦那様が)人を斬らずに済みますように」と
祈りを込めて「斬らず粥」を自ら率先して作り、それが森家の毎年の歳暮の習わしになり
津山の領民に奥方様の料理として親しまれ現代にまで残り伝わった。 

ちなみに津山の寺では忠政の命日に供養として「きらず粥」が振るまれる
236人間七七四年:2009/11/16(月) 23:39:22 ID:myy6Pbeg
>>235
なんかこう、ほのぼのとした愛情を感じる話だな。
願い事の原因は殺伐としているけれどw
237人間七七四年:2009/11/16(月) 23:39:53 ID:cLjXQ+ij
既出のようだがこちらの方がより詳細だな
238人間七七四年:2009/11/16(月) 23:44:27 ID:CHfJafYq
>235
これは奥方の良い話ですな

・・・旦那のほうはいつもの事だが
239人間七七四年:2009/11/17(火) 00:11:28 ID:kbS+ojCX
空弁当

毛利秀元が関ヶ原にてせっせと弁当作り励んでいた事は有名だが、
後に江戸城に出仕した際も彼は弁当を持参した。

 鮭 弁 当 である

「おや!秀元殿!?それは鮭ではごさらんか!?」
「流石秀元殿!弁当に鮭とは絢爛豪華ですなぁ!」

やんややんやと人があつまりあっと言う間に鮭は無くなった。

やはり空弁当である。
240人間七七四年:2009/11/17(火) 00:51:14 ID:4adDEnYk
食われて空になったのかw
241人間七七四年:2009/11/17(火) 01:17:53 ID:cWrq5Dd7
>>230
その広家さんだけど家督を継ぐ前に無断で中国地方の小笠原家に養子で入ろうとして
それに気づいたTERUがやめさせるために父の元春に説得するよう手紙を出してるんだよな
結果的に説得のかいがあり話は無しになったけど、昔から広家はこういったことをやるような人間だったんじゃないか

話が変わるけど毛利家の交渉をした福島・黒田・本多・井伊の四人はいずれもTERUより早く死んでいるんだよな
それから黒田家は後に黒田騒動を起こし、子孫も途中で血縁でない養子が後を継ぎ
福島家は改易をくらっており、本多家は子孫が領地問題でいざこざを起こしている
これってTERUの呪いか
242人間七七四年:2009/11/17(火) 01:20:11 ID:AWdnqoNb
そう来るとは思わなかった
243人間七七四年:2009/11/17(火) 01:29:22 ID:2CXzq1MA
輝元は「西軍総大将」に就任した以上、何があっても責任を取らされるのは確実だったそうな。

それを、吉川広家が「輝元は騙されただけ。それに関ヶ原では手を出さなかった」と
奔走し、それを黒田親子や福島正則、本多、井伊といった連中がフォローしまくって、とにかく
「毛利家存続」を勝ち取った、と言うのが実際のところらしい。

書状なんか見ると、広家は相当早い段階で「西軍が勝てるわけが無い」と、見切りをつけている。
で、勝てるわけが無い以上、毛利の損害を最小限にするべき、と行動したと考えられるそうな。

毛利家は西軍の中枢そのものだった以上、広家はかなりの確信があってそう言う決断をしたんだろうね。
244人間七七四年:2009/11/17(火) 01:58:13 ID:N0S7Z0lZ
うちの御当主が総大将って時点で詰んでるってか
245人間七七四年:2009/11/17(火) 03:06:01 ID:3NEAi7Wz
当の関ヶ原のあの布陣になっても広家は勝てるはずないと思ったんだろうか
246奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/11/17(火) 03:12:44 ID:YwmJn59Z
鮭は吉川に何か恨みでもあるのだろうか。
247人間七七四年:2009/11/17(火) 03:23:00 ID:+65huZEI
>>245
関ヶ原の布陣については、小早川が最近言われているように、その前日の時点から
明確に東軍であったとすれば、逆に西軍が死地の中にいるな。
248人間七七四年:2009/11/17(火) 05:13:09 ID:LdgDjzaO
>>240
気に入らない家臣に空の弁当箱を送りつけようぜ!
249人間七七四年:2009/11/17(火) 07:49:57 ID:bc5Hlibq
>>245
247の言うように、西軍首脳が松尾山に配置した将を追っ払って小早川が着陣している以上、
西軍としてみるのはきついぜ。
250人間七七四年:2009/11/17(火) 08:03:00 ID:nnI8juP7
毛利・小早川・吉川の三家は関ヶ原に連れてこない方が、西軍が勝てたんじゃないか
関ヶ原後の闘いもボロ負けで、元就・隆景・元春もさぞ無念であろう
251人間七七四年:2009/11/17(火) 08:06:29 ID:bc5Hlibq
そうするともれなく毛利・吉川らの押さえの面々が西軍本隊に振り分けられます。
居ても足手まとい、居なくても足手まとい。
252人間七七四年:2009/11/17(火) 09:41:57 ID:skY9OJc6
>>239
ほのぼのしていてワロタ。本人にはちょっと悪い話だが、周り的にはちょっといい話だよなw
253人間七七四年:2009/11/17(火) 09:49:36 ID:C7oliXZF
>>247
明確にはなってないだろ。
それなら西軍が小早川排除をしようとしないのがおかしいし
小早川は最後まで悩みながら毛利本隊の動きをみてから旗色を鮮明にしようとしてたんだろう。
ただ大谷は小早川が裏切った場合は自分の軍が危機に陥るので将としては当然、裏切り警戒はしていただけの話だろう。
三成としては小早川が西軍として参加してきてる以上は小早川の背後から攻撃できないし。
吉川らは伊勢方面を攻撃してるし、毛利は四国や豊後にも手を出してるのに、うちの池沼輝元くんは騙されただけとか言い訳出来ねーってのw
254人間七七四年:2009/11/17(火) 10:11:53 ID:bViUwO1V
ごめんなさいごめんなさい家の輝元ちゃんは馬鹿なので巧言に騙されて舞い上がって
近隣にちょっかいかけちゃっただけなんです!

われわれも決戦まで疑われないようにアリバイ作らなきゃいけなかったんです!
ごめんなさいごめんなさい、馬鹿の不始末でご迷惑おかけしましたが
あの馬鹿の影響最小限にしようとしてたんです!

255人間七七四年:2009/11/17(火) 10:34:46 ID:GVGJjj12
まあ、毛利全体が東軍に付いたとしても、あんなでかい家をそのまま残しておけるはずもないしなあ。
256人間七七四年:2009/11/17(火) 12:07:52 ID:S4GMnQ+M
例え広家が直接家康に許可を取ってたとしても所領安堵されたか怪しいもんだしなぁ
257人間七七四年:2009/11/17(火) 14:28:11 ID:TcAU/utu
>>233
そう真剣に怒るなよw
只の小噺ネタだよ。
258人間七七四年:2009/11/17(火) 14:51:16 ID:1dUT1kyt
>>239
既出な気がする…?
259人間七七四年:2009/11/17(火) 14:54:43 ID:jaXlJAOf
既出だな
260人間七七四年:2009/11/17(火) 15:41:51 ID:p9qHzt2y
>>257
犯罪者の言い訳っぽいな
261人間七七四年:2009/11/17(火) 23:49:50 ID:WTFqT5/y
鍋島直茂の甥、鍋島助右衛門の娘が「近所の寺に説法を聞きに行く」と言って出かけたまま
行方が分からなくなった。良く調べたところ、同家の若党も一人、姿をくらましていた。
駆け落ちである。

八方手を尽くして探した結果、娘はどういう訳か肥後加藤家の家老に妾として養われている
ことが判明した。さっそく加藤家に使者を送り、娘の返還を求めたが断られたため、重臣の
成富茂安が直接清正と交渉に当たった。
「主計頭様、かの娘をお引渡し下され。」
「当家の者を頼っている女人を渡すこと、武士の一分として罷りならぬ。」
「朝鮮の陣の時、主計頭様の苦境を拙者がお救いしたことがございましたな。」
「・・・うむ。」
「その際、主計頭様は『この礼に、お主の望みは何でも叶えよう』と仰せになりました。
ならば娘の身柄を礼としていただきましょう。まさか、出来ぬとは申しますまいな?」
「ならば仕方無い、娘は渡そう。だが、処刑などしてくれるなよ?」「・・・お言葉、承った。」

佐賀に戻った娘は、“自害”した。

さて、娘の親族である助右衛門親子も切腹と決まり、その命を伝えに使者が助右衛門邸を
訪れると、助右衛門は碁を打っていた。
「お達し、ごもっとも。まずは、碁でもご覧下され。」助右衛門は切腹の支度が整うまで碁を
打ったが、そこへ邸内にいた助右衛門の家臣十八名が「お供仕る。」と殉死を願い出た。

使者が「いや、それは・・・」と判断に迷っていると、助右衛門の息子、織部が庭に出て
「思い切ったる者どもだのう!どれ、オレが介錯してやろう!」と言って十八名全員の首を
はねた後、親子して腹を切った。
このため、助右衛門邸近くの川が赤く染まり、当時「血川」と呼ばれたという。

事件の後、直茂は「できる者がおらんで、事を欠いたわい。」と言った。
家臣の誰も娘を逃がしたり、助右衛門の助命嘆願をしなかった事への皮肉だろうか。
262人間七七四年:2009/11/17(火) 23:53:14 ID:2CXzq1MA
どうにもこうにも、葉隠の家ですなあ。
263人間七七四年:2009/11/18(水) 00:17:29 ID:ivetgnbL
>>261
よってたかって臭いものにフタをした感じだな
鍋島さんちだからかもしれんが武士もある面メンツ商売なんだなあ
264人間七七四年:2009/11/18(水) 00:59:06 ID:/Ynn8Ghp
戦国の常陸といえば、大抵真っ先に鬼佐竹が出る人が多いと思うんだが
今回はそんな佐竹を背後からつついては殴られ続ける生涯をおくったとある名族の話

常陸の小田氏は、関東八屋形にも名を連ねる鎌倉時代から続く名門中の名門だった
ただ名門というだけではなく、室町時代末期までは、
370年の長きに渡り、常陸国筑波郡とその周辺を支配した大豪族であったのだ
ところが例によって関東の名族にありがちな没落フラグが、
小田氏最後の名君、小田政治の晩年に立ってしまう
河越夜戦で古河公方に加勢してしまうのだ
河越で討ち死にこそしなかったが、政治はその後程なくして死去した
そして嫡男の氏治が14歳で家督を継ぐことになったわけなのだが
これで氏治が佐竹義重のような名将だったら歴史が変わっていただろう

氏治は一言で言うと「天才的な戦下手」であった
どんなに動員数が勝っていようが、どんなに外交の状況が有利だろうが
氏治が指揮を取っている、というそれだけで大潰走を引き起こす
上杉謙信とは別方向の意味で天才であった

結城氏に攻められて敗北し、主城を落とされ落ち延びる
多賀谷氏を攻めるも敗北し、逆に主城を落とされる
佐竹配下の太田資正と戦い敗北し、主城を落とされる
氏治にはカッとすると冷静に行動せずに最悪の場所に突っ込む癖や
一つの目的があるとそれだけに固執し果たすまで諦めないきらいがあり
そんな性格を利用されては策にはめられてしまうという一軍の大将としては致命的な欠点があった

ところが奇妙なもので、こんな氏治には命を懸けて忠誠を誓う優秀な家臣達が少なくなく
400年近くに渡って小田氏に支配されてきた領民は、小田氏をよく慕っていた

譜代の家臣であった菅谷一族は、菅谷政貞・範治親子を始めとして
敵からも賞賛されるほどに優秀な武将達であったが、
氏治が何度敗北しようと、主城を落とされようと、敵に降伏しようと、
嫡男が討ち死にしようと、変わらぬ忠誠で氏治を支え続けた
領民達も、自分たちの屋形は小田のお屋形様を除いてはいない!と
氏治を退けてやってくる他国の武将にはなかなか頭を垂れなかった
彼らは新しい領主に年貢を納めるのを拒否し、氏治の元にだけ年貢を納め続けた

265人間七七四年:2009/11/18(水) 00:59:55 ID:/Ynn8Ghp
1558年、越後の上杉景虎が関東の戦国世界に介入を開始する
佐竹・多賀谷といった小田氏の敵対勢力は早速その助力を仰いでいた
氏治は数回小田城を落とされ、それを取り返し、また奪われと
彼にしては十分すぎるほど善戦したが、軍神と負け戦の天才の戦いである
結局最後には大敗北し、小田氏は上杉に降伏、後の鬼佐竹義重の父、義昭と講和した
その後はしばらく軍神率いる上杉軍の下で佐竹氏や宇都宮氏と共に
結城氏を攻めたり、小田原を囲んだりしていた氏治だったが
暴れ疲れた軍神が越後に帰るとすぐに、佐竹氏からじわじわと圧力をかけられ始める

1563年、佐竹の圧力に耐えられなくなった氏治は謙信を裏切り北条に鞍替えをした
この行動は当然上杉を怒らせ、早速小田は佐竹・宇都宮・上杉から攻められる
氏治はまた負けて主城を追われ、土浦城に逃げ込んだ
この時奪われた土地は大半が佐竹のものとなった

がしかし、しばらくして領地奪還のチャンスがやってきた
佐竹義昭が死に、息子の義重が家督を継いだのだ
「当主の代替わりがあった時に攻め込むのは関東じゃご祝儀みたいなもんだよね」
とばかりに氏治は佐竹に取られた旧領に攻め込み、小田城を取り返した

ところが、これが再び軍神をブチ切れさせることになる
「喪も明けてない内から、代替わりがあったばかりの家に攻め込む不義、捨ておけぬ!」
義人謙信に関東の常識など通用しない
小田城は怒りの総攻撃を受けまた落城、氏治はまた土浦城に逃れた
捕らえられた小田の人間は人身売買にかけられたという
謙信はそれほど怒っていたのだ
氏治は結局また、城を二度と修復しないことを条件に上杉に降伏した

しかし上杉に降伏しても佐竹が攻めてこないわけではない
佐竹は徐々に小田の領土を浸食し、たびたび焼き討ちにも現れた
こんな状況では他に方法も無いと謙信に頼み込んで佐竹討伐を願ったが
上杉にとって関東では大事な同盟国である佐竹を謙信は攻めてはくれなかった
小田はこの後、太田資正・梶原景国・真壁氏幹といった佐竹配下の猛将に、
何度もフルボッコにされながら、なんとか小田城を死守していたが
戦に勝てない大将が指揮しているわけだからそれも続かない

266人間七七四年:2009/11/18(水) 01:01:55 ID:/Ynn8Ghp
1573年、佐竹の猛攻の前に小田城が最後の落城をする。
以降氏治は小田城を奪還できなかった
ここにきても氏治のどうしようもない運の悪さと戦下手は治らなかった
氏治は小田城の奪還にこだわって、それを知る太田資正の采配に踊らされ続けた
負け戦に続く負け戦で、いよいよ残る拠点は藤沢城と土浦城のみになってしまう
小田氏の家臣達は小勢ながらここが死にどころであると奮起し、最期の戦いに討って出た
まず、藤沢城が落ちる
主将・由良憲綱、戸崎長俊等多くの家臣がここに討ち死にした
更に最後の城、土浦城が佐竹軍に完全包囲される
そんな中でも裏切りは少なく、家臣達は沼尻播摩守を屋形の身代わりとし
氏治とその子守治を城から脱出させると城に火を放ち、
16騎の侍大将が佐竹軍に切りかかり討ち死にした
身代わりとなった沼尻播摩守は城内で切腹した

脱出した氏治にもう他に手はない
一路小田原を目指し、北条氏に息子を人質として差し出すと必死に懇願し助けを乞うた
氏治の懇願を北条は聞き届け、北条氏房が土浦城を攻めた
ところがこの土浦城には、佐竹に捕縛され降伏していた旧小田家臣、菅谷範政が入っていた
範政は喜んで再び小田に降り、城をそのまま明け渡した
彼はいまだに小田への忠義に生きていたのだ

なんとか滅亡を免れたものの、隣の佐竹は相変わらず強大だった
ある程度旧領を回復した氏治は、佐竹と相変わらず小さな衝突を繰り返しながら、
協調してみたり、逆らってみたりと、喉元の小骨のような小さな嫌がらせをしていく

この頃になると、佐竹は伊達氏の南下の動きの前に北部へ兵を集中させねばならなくなった
こういうチャンスを狙って、また氏治は旧領奪還を狙う
彼は未だに小田城を取り返すことにこだわっていた
そして今度こそは奪還できるかと思われた
が、しかしここで関東の戦国が突如終了する

267人間七七四年:2009/11/18(水) 01:03:49 ID:/Ynn8Ghp
秀吉がやってきたのである
親豊臣の佐竹と敵対していた上に北条の勢力下にいて、
しかも秀吉の元に参じなかった小田氏はあっさりと改易された
小田氏治の生涯をかけた戦いはそれですっぱり終わってしまった

全てを失った氏治は娘が結城秀康の側室であったことから秀康の元で客分として迎えられ、
宿敵であった佐竹が関ヶ原で負けた西軍について大騒ぎになっているのを知ってか知らずか
1601年、越前で死んだ

戦国時代の最後の最後まで、弱小ながら戦国大名であり続けたとある主君のお話
268人間七七四年:2009/11/18(水) 01:10:39 ID:FE+WyjWu
大作乙。いやあ、読み応えがあった。
しかし小田氏治は面白いよね。小田軍記や小田天庵記とか読んでも、確かに不思議なほど
慕われている。
まあ勝ち負けにかかわらず合戦の規模もしょぼいんだけどw
269人間七七四年:2009/11/18(水) 01:49:53 ID:XNsY/qDS
こんなダメな主君は俺が、俺達が支えなければならん、と思わせるような何かを持っていたんだろうか。
270人間七七四年:2009/11/18(水) 02:05:37 ID:BtC+atVt
何百年も一所を統治している君主は、
のほほんとしてるだけでも家臣と領民の忠誠を得られるからあれほど楽な殿様家業はないってマキャベリが言ってた。
271奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/11/18(水) 02:14:01 ID:32JWIOEX
総じていい話じゃねえか。
272人間七七四年:2009/11/18(水) 02:34:21 ID:u9QYrjY8
戦国という時代で戦下手というのはただそれだけで悪い話な気がする。
数々の名家名族が消し飛んでいく中で、ここまでしぶとく、かつ慕われた例も少ないだろうけど。
273人間七七四年:2009/11/18(水) 02:37:51 ID:GmkDeUGL
敗北は不名誉にあらず、挑むことこそ誉れなれ。
いい話じゃない?
274人間七七四年:2009/11/18(水) 03:26:22 ID:ccDW416H
まあ小田氏のダメっぷりは今に始まったことではないから
南北朝の頃から藤氏一揆で関東の南朝勢のgdgdにトドメ刺したり
275人間七七四年:2009/11/18(水) 09:01:50 ID:GmkDeUGL
第二次大戦のネタ、絶対勝てる戦争を思い出した。
日本の兵隊に
アメリカの装備を与え
ドイツの将軍に指揮させて
イタリア軍と戦う。

戦国版なら

三河武士に
織田軍の装備を与え
甲斐衆に奉行させ
上杉謙信を総大将に
小田氏治と戦う

とでもなるかな
276人間七七四年:2009/11/18(水) 09:32:18 ID:mQDUpxEv
三河武士の装備は織田と遜色ないよ
というより三河武士の扱いにくさは甲斐衆や上杉謙信でも
手を焼くかと
277人間七七四年:2009/11/18(水) 09:48:51 ID:3TVozVSA
三河武士だと、大将も三河系じゃないと、めんどくさすぎるんじゃね?
それより、蒲生再生工場出身の軍兵のほうがいいんじゃないんだろうか。
278人間七七四年:2009/11/18(水) 12:22:41 ID:/Ynn8Ghp
>271
実はいい話と悪い話どちらに投下するか迷ったんだけど
さすがに氏治のgdgd負け戦に果てた家臣達の人数がものすごい多いのと
最後は改易って結果で、結局旧領には戻れなかったからこっちにした

ちなみに一応最後まで生き残った家臣達なんかは
こんなダメっ子氏治に熱い忠誠を貫き通したってことが家康に評価されて
徳川の旗本に取り上げられていたりする
こっちは完全にいい話だね
279人間七七四年:2009/11/18(水) 12:41:27 ID:bQMvaD6R
某歴史本で言う所の「出ると負け軍師」こと郭図がそのまま大名になったかのようだ
280人間七七四年:2009/11/18(水) 14:16:58 ID:twxTWgPl
>>278
他に面白い話があったら聞きたいな、小田氏好きになりそう。
281人間七七四年:2009/11/18(水) 17:57:56 ID:ivetgnbL
>>274
鎌倉……れっきとした清和源氏なのに平家について頼朝襲来、所領没収
室町……嫡流が絶えて後継争い
戦国……関ヶ原を西軍寄りの傍観で秋田に転封、所領半分以下に


ライバルだって結構やらかしてるのに何が違ったんだろうね
282人間七七四年:2009/11/18(水) 18:12:36 ID:pk8E8897
>>275
真宗門徒に武装させても強いかもしれん。
当時の奴らは死兵と化すからな。
ついでに参謀にクロカン
283人間七七四年:2009/11/18(水) 18:32:01 ID:KKXOzk1a
>>275
福島正則夫妻みたいな兵を集めて
三歳様プロデュースの鎧を与え、
富田長繁に指揮させれば戦国最強。
284人間七七四年:2009/11/18(水) 18:34:23 ID:r070R/2p
>富田長繁に指揮させれば
だが何故か敵ではなく味方の指揮官に殺されるという諸刃の剣
285人間七七四年:2009/11/18(水) 18:59:52 ID:M+8SLtzn
富田さんの体力が底なし過ぎて味方がついていけません
286人間七七四年:2009/11/18(水) 19:08:50 ID:KKXOzk1a
後の辻政信である。
287人間七七四年:2009/11/18(水) 20:00:52 ID:FE+WyjWu
関ヶ原は進行する中、九州においては黒田除水と、西軍の大友義統の軍が対峙していた。

そんな折、大友の本陣より、従者10人ばかりを引き連れた武者が一人出てきた。
彼は箱のようなものを持ち、黒田軍に矢留めを求めた。

黒田の諸隊、これを怪しんだが、武者は

「黒田伯耆殿の陣所に案内していただきたい。」

と、要求をする。そこで黒田伯耆の陣所へと連れて行くと、武者、伯耆に

「義統様よりの言付を申し上げます。
昨日の合戦の折、我々はこちらの隊の、久野冶左衛門殿を討ち取りました。
その、久野殿のご親族が、まだこちらにいらっしゃるとお聞きしました。
そこで、せめて御遺骸だけでもお渡ししたいと、ここにその首を持って参ったのです。
どうぞ、これをお受け取りいただきたい。」

と、その首の入った桶を、差し出した。

伯耆はこれに
「久野の首を送っていただいた事、そのお心に感謝いたします。」
そう言って首桶を受け取り、使者を帰した。
その後、首桶より冶左衛門の首を出した。

冶左衛門の首は、綺麗に洗われ、髪を結い、香も炊きこめられていた。
額には刀傷が二箇所あった。
伯耆はそれを見るとたちまち涙を流した。その場にいた彼の配下の者達も、皆、泣いた。

その場に、冶左衛門の異母弟、久野五郎兵衛がいた。
冶左衛門と五郎兵衛は、母は違っても、非常に中の良い兄弟であった。
五郎兵衛はその首を膝の上に抱えて嗚咽した。そして、突然立ち上がると
馬に乗って駆け出そうとする。

人々慌てて馬の口に縋り、「何所に行くつもりか!?」と問うと

「これから敵陣に駆け入り、討死するのだ!」

そう叫び、あくまで馬を出そうとする。そこで馬の口に縋った者達は
「お前は愁嘆に迷い、君臣の道を忘れたのか!?」
そう言って五郎兵衛を責めた。これに五郎兵衛も、その道理に服し、馬を降り
立ち帰った。と言うことである。

この時代には珍しい、戦死者に対する、残された肉親の、素の感情が記録された
お話である。
288人間七七四年:2009/11/18(水) 20:17:35 ID:Z+MzZm8t
大友義統はバカ殿代表格だと思っていたけど
やっぱり名門だからかこういった事はきっちりしてたんだな
289人間七七四年:2009/11/18(水) 23:20:06 ID:bWKoyEKY
筒井家の関ヶ原

関ヶ原の決戦場、筒井定次は気もそぞろであった。
石田三成から、大和、伊賀の2カ国で誘われていたからであった。
前夜主君の心中を聞かされた家老の中坊飛騨守は驚愕した。
なにせ筒井家の軍は、東軍のど真ん中、最前線に布陣してしまっている。
動けないから、裏切ろうにも裏切りようがない。
が主君は思いつめた顔、何をしでかすかわかったものではない。
思いあぐねた中坊飛騨守、一番手近に布陣する西軍宇喜多家の大軍に、
無謀にも千にも満たない手兵を率いてしゃにむに突撃した。

案の定、さんざんに蹴散らされた、
が、これが幸いして筒井家は東軍として勝ち残ることができた。

その8年後、大坂冬の役で豊臣家に内通と、主君定次を徳川家に告発し、
定次切腹、筒井家改易へと追い込んだのは中坊飛騨守であったが。
290人間七七四年:2009/11/18(水) 23:49:49 ID:Sm7P+2Hm
中坊飛騨守という人物についてもっと知りたいな。
嶋左近や松倉右近と仲は良かったのだろうか?
291人間七七四年:2009/11/18(水) 23:56:43 ID:FE+WyjWu
>>289
中坊飛騨守面白いな。
最後吹いたw
292人間七七四年:2009/11/19(木) 00:09:51 ID:xmjyS/ZY
ってか筒井定次博打打ちすぎだろw
現代にいたら絶対競馬で大穴狙うタイプだ
293人間七七四年:2009/11/19(木) 00:10:34 ID:apFMcllz
http://www.m-network.com/sengoku/sakon/sakon_ep01.html

島左近と中坊、領地の水争いで大喧嘩したようですね。
この時の定次の裁定を不服として、左近、筒井家を見限ったとか。

なんか大武将にしてはダサい喧嘩ですが。
294人間七七四年:2009/11/19(木) 00:14:41 ID:q2fLs0JL
余りにひどいので転載。
豊臣三中老のボンクラ後継者どもw


豊臣三中老 堀尾良晴・中村一氏・生駒親正
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1258436062/

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/18(水) 21:34:52 ID:xNI883ot
堀尾忠晴
忠氏が急死して5歳で家督相続
その際に家督を奪われそうになるが祖父の吉晴が阻止
美少年だったらしく、前田利常(マッチョ)と衆道関係だった
嗣子無し断絶

中村一忠
関ヶ原の直前に一氏が死んで11歳で家督相続
讒言を信じて筆頭家老の横田村詮を誅殺して
村詮の家臣と内戦状態にまで発展(米子騒動)
堀尾吉晴の救援で鎮圧したが、その後酒に溺れて20歳で死去
嗣子無し断絶

生駒高俊
11歳で家督相続、母方の祖父にあたる藤堂高虎の後見を受ける
高虎死後の成人した後も政務を顧みず美少年を集めてホモ踊りにはまる
家臣らが諍いを起こし(生駒騒動)、改易される
295人間七七四年:2009/11/19(木) 00:41:20 ID:MooIy1GP
>>293
ダサいとか言う前に、まずは水の重要性を知るべきじゃないかね。
296人間七七四年:2009/11/19(木) 00:46:49 ID:pWUS2pvs
>>293
当時は水についてのいざこざは死活問題だからなあ。
水が無ければ、農業は出来ないし、生死に直結するんだよね。だから
水を廻る争いというのは近世でも頻発したし、近現代でもしばしば
見られる。
領主は当然、そこに住まう連中の水利を保証しなければならん
わけで、嶋左近と中坊飛騨が水利を廻って対立し、上位権力(主人)の
筒井氏に裁定を求めるというのは至極当然のことなんだよね。
297人間七七四年:2009/11/19(木) 03:52:14 ID:YtbKjVbz
>>280
期待に応えてみる

永禄12年(1569年)11月、
常陸統一を狙う佐竹義重は、いい加減にしぶといっつーかうざい小田氏を滅ぼそうと
ちょうど佐竹に転がり込んでいた客将・太田資正に命じて小田氏治を挑発させた

早速資正が配下の上曽と小幡が逆心を抱いているという流言を流すと
単純な氏治は信じて両者を討伐するため兵を出す
まず氏治の特徴がここで発揮される
あまりものを深く考えないのだ
実は資正、佐竹に転がり込む前は半年ほど小田の世話になっていたことがあり
小田氏治の考え方ややりそうなことを大体把握していた

氏治は手勢3770騎を率いて手這坂を越え、小幡に向かった
この間、上曽・小幡の両名より弁明の便りが届くが、
氏治は思い込んだら基本的に考え直さない男であるから黙殺した
同時に佐竹側も太田資正が同じ上曽・小幡を攻め始める
更に敵に真壁久幹の援軍がここにやってくるという情報が小田軍に入る

「もしかして、は……謀られた!」

氏治はここで敵に乗せられたことに気がついた。そしてキレた
一旦は手這坂を下り退却しかけたが、このまま退却などカッコ悪いと思ったのか
小田軍はいきなり引き返すとそのまま太田軍を迎撃し始めた
いやもうgdgdである……が、これがもっと酷くなるのが小田クオリティ

佐竹軍は三丁の当時はまだ珍しかった鉄砲を小田軍に撃ちかけた
ジリ貧田舎侍な小田の兵は誰もそんなもの見たことがなかったから、
その鉄砲に将が一人討ち取られると一斉に恐慌をきたして混乱した
そこを更に坂の上から太田資正、小田軍の背後から真壁久幹が挟撃したのだからたまらない
そのまま総崩れになり300騎以上が討ち死にすることとなった

真壁軍はそのまま小田城に向かうと城に残った将兵に
「お屋形様が無事帰ったよー!」と偽の連絡をしたのだが
守将達はそれを聞くと氏治の帰還だと喜んで城を開けてしまい
小田城もあっさりと落ちる

潰走した氏治は例によって菅谷氏の勧めを受けて藤沢城に逃亡し、
再び小田城奪還を固く心に誓うのだった



……数年後1573年元旦、色々あって氏治は小田城奪還には成功していたのだが
毎年恒例のものとして開いていた新年祝いの宴会中にまたまた資正に攻められ
祝い酒に酔っていた所、再び小田城を攻め取られてしまう
以降彼は小田城奪還を固く心に誓い……
果たせずに終わるのだった

298人間七七四年:2009/11/19(木) 04:03:16 ID:+DJgSvOv
アホだ……w
299人間七七四年:2009/11/19(木) 08:57:46 ID:eVihP0dx
上も下も真っ直ぐだな
300人間七七四年:2009/11/19(木) 09:02:56 ID:jqefHWkw
これだけ負けまくって人生全うしてるのが逆にすごいw
301人間七七四年:2009/11/19(木) 09:22:08 ID:tFJTu4pL
討ち取っちゃったら復讐に燃える家臣が襲ってくるかもしれないし
後継いだのがボンクラじゃなかったら困るじゃないですか。

こんなチョロい相手そうはないよ
302人間七七四年:2009/11/19(木) 10:10:10 ID:MooIy1GP
というかこの有様で、秀吉が来寇するまで滅びなかったてのが凄まじすぎるw
303人間七七四年:2009/11/19(木) 10:14:40 ID:MU+gsZkk
>>297
>>280じゃないが面白い話をありがとう。
この男こそ文字通り不屈の闘志の持ち主だなw

負けては復活したり、忠勇な家臣がいたあたり、
ちょっと劉邦の面影を感じてしまったわ…。
304人間七七四年:2009/11/19(木) 10:26:21 ID:MU+gsZkk
連投スマン。
小田氏治に興味が湧いてちょっと調べてみたら、
wikiの経歴が敗れた敗れたの連続だったw

これはまだ面白い話がありそうだな…。
305人間七七四年:2009/11/19(木) 12:12:46 ID:xvtQ2M/I
1556 北条軍の太田資正らに攻められる
1558 太田資正に攻められる
1566 太田資正帰服…もあっさり佐竹に鞍替え
1569 太田資正らに攻められ小田城陥落 >>297
1573 太田資正の奇襲で小田城陥落
同年 太田資正に逃げ込んだ先も攻められるも何とか撃退

太田資正殺しとけばよかったんじゃねw
306人間七七四年:2009/11/19(木) 13:23:55 ID:QKDDGCHs
面白いって程でもないが、
小田氏治の小田城奪還物語最終章。


文字通り不屈の闘志で小田城奪還を試みた小田氏治。
寄せては返す波の如く落城→奪還を繰り返したが、
ついに精魂尽き果てた1583年、人質を差し出し佐竹義重に降伏した。
名門ということもあってかそのまま仕えることを許されるも、
すでに家督を嫡男・守治に譲っていた氏治は、
義重より与えられた藤沢城にてご隠居生活を送った。

時は流れて…。

九州を平定した豊臣秀吉は、
北条氏政を討伐すべく大軍を集結させ、今まさに関東へ向かおうとしていた。
天下の耳目がことごとくこの戦いに向いている最中、一人の男が立ち上がった。

小田氏治その人である。

突如藤沢城で挙兵した氏治は息子の守治と共に、
梶原政景が守る故郷・小田城へ猛進した。

「げぇっ、氏治!」

と言ったかは定かではないが、小田父子はそれなりに奮戦し政景を困らせた。

が、そこはやっぱり小田氏治。
お約束通り敗走し、さらには藤沢城までも追い出されてしまった。

放浪の身となった小田父子は、
関東にやってきた秀吉に旧領復帰を嘆願するも、
惣無事令違反とみなされたのかいともあっさり却下。
浅野長政のとりなしにより、結城秀康の食客となりなんとか一命は取りとめた。


結城秀康移封の際、彼はどのような心持ちで越前へ向かったのだろうか…。
307人間七七四年:2009/11/19(木) 13:57:15 ID:iXD0001X
越前では氏治は秀康の養父の結城晴朝とも仲良くやれたのかな?
結城を継いだ結城直基のお陰か晴朝は茨城県に帰ってから死んだらしいけど。
里見も結城へ飛ばされたら寂しくなかったのに?
小野寺「伯耆国の里見さん、たまには石見国を訪ねてくれ!萩に出向いて倒幕の密議しようよ」
そういや山野辺と一緒に最上家臣だった里見一族と安房の里見の傍流は一緒に水戸藩に仕えてたな。
308人間七七四年:2009/11/19(木) 13:58:22 ID:iXD0001X
訂正
里見も越前に飛ばされたら寂しくなかったのに?
309人間七七四年:2009/11/19(木) 14:44:40 ID:RnJ3PnLF
視点を小田城に移して見てみると、軍事拠点としてはちょっと脆すぎないか?
小田氏の根拠城なら砦レベルじゃないだろうし、それにしては戦国一の落城回数だったりしないか?
310人間七七四年:2009/11/19(木) 14:52:20 ID:YtbKjVbz
>>309
そうなんだ、それが氏治の戦下手たるゆえんなんだよね
実は小田城は戦国初期には珍しい純然たる平城で物凄く脆い
しかしなぜか氏治は生涯ここを奪還することだけにこだわり続けるんだよ

しかし脆い城ではあったんだが最後に太田資正に攻略された後は
資正の築城スキルが火を吹いて凄まじい魔改造がほどこされ
氏治が入っていた頃とは比べものにならないくらい堅固に城になっちゃうんだw
で、奪還できなくなっちゃう
311人間七七四年:2009/11/19(木) 14:59:46 ID:GF7wSR97
しかも攻め寄せると例の伝で情報を得た資正が隣城から援軍に現れるという難易度の高さ
312人間七七四年:2009/11/19(木) 15:00:12 ID:YtbKjVbz
>>306
周囲の豪族が北条か豊臣かと去就に揺れているなか
目指すのは未だに小田城奪還なんだもんなw
しかも負けてるし……
313人間七七四年:2009/11/19(木) 15:09:15 ID:q2fLs0JL
関東は北条流と甲州流の、二大築城術がせめぎあった土地なのに、
小田氏の小田城は、鎌倉以来の「屋形」の発想から、あまり抜け出せなかったようだ。
314人間七七四年:2009/11/19(木) 15:18:10 ID:nlkeNbzi
なるほど、小田氏治の逆につけば必ず勝てるわけだ。
315人間七七四年:2009/11/19(木) 15:37:40 ID:ZR9jr9xU
もしかしたら小田原って住みやすかったんじゃないかな。w
316人間七七四年:2009/11/19(木) 16:33:28 ID:wXh5VNjh
落ち目の逆を張れ、ですねわかります
317人間七七四年:2009/11/19(木) 16:45:37 ID:9eGDPdOv
000余騎を破った太田軍は600ほどだったらしいw

討ち取られた先鋒の将が出陣を諌めたのに聞き入れられず
小田氏治に頼られ先乗りし、只今討死!!と叫んで死んだという話もある
318人間七七四年:2009/11/19(木) 16:46:58 ID:9eGDPdOv
3000やがな…ちょっと喪中にヒャッハーして軍神様の猛攻食らってくる
319人間七七四年:2009/11/19(木) 16:57:07 ID:Z1P9KXhY
Q もし小田家中に富田さんがいたらどうなるか
320人間七七四年:2009/11/19(木) 18:17:47 ID:RnJ3PnLF
>>310
あんなに愛した小田城は、見違えるような変貌をとげて攻め寄せた自分を拒み続ける。
小田氏治、何思う・・・・


゜゜・(/□\*)・゜゜ セツネェ
321人間七七四年:2009/11/19(木) 18:47:01 ID:HhQcppts
>>319
A 即座に寝返る


損得には敏感な生き物です
322人間七七四年:2009/11/19(木) 18:47:05 ID:wXh5VNjh
反乱起こして小田氏治殺してのっとって北条と佐竹ととにかく周辺に噛み付きまくって滅亡してるんじゃないか?
323人間七七四年:2009/11/19(木) 18:52:26 ID:Y60o4/wH
>>321,322
そして菅谷ら家臣団と、小田領民による一揆に遭うんですね、分かります。
324人間七七四年:2009/11/19(木) 18:53:31 ID:RYB1GaWP
小田氏治は猫好きなんだよね。
肖像画に猫が一緒に書いてあるんだそうだ。

先祖代々の城を奪われ、慣れない土地で
猫だけが話し相手のさびしい老残の日々…(´;ω;`)ブワッ
325人間七七四年:2009/11/19(木) 19:02:13 ID:t9wdpUsQ
>>324
でもそれでも秋田さんよりはマシ、たぶん・・・
326人間七七四年:2009/11/19(木) 19:30:16 ID:Y60o4/wH
余計なもの書いた感もあるが、時間掛けてしまったので投下させて下され。

『小田氏補足・氏治様の鮮やかすぎる戦歴』
wikipediaで『名君』と書かれても問題無いほどの、名君・小田政治の跡を継いだ
氏治だが、先に投下された様に連戦連敗。
軍神・上杉謙信の襲来や、鬼義重こと佐竹義重が登場と、随分積んだ状況になって
いたが、家臣と領民の助けによりなかなか滅びない。
小田の所領は、それほど小さくなかった。

常陸=佐竹のイメージを付けられているが、政治全盛期では佐竹に継ぐほど
(超すほどかは不明)の所領を持っていた。
正確な石高の対比などの資料が手元に無いが、大雑把に言って、佐竹領は常陸東北、
小田領は南西といった所で、佐竹領と言われがちな中央、水戸の周辺は江戸氏(佐竹には
臣従しきっていない)が、他の常陸各地では大掾氏の一族が広く分布していた。後に佐竹
にて謀殺される鹿島三十三館(霞ヶ浦・北浦の隣)もこの大掾氏で、バリバリの現役。
※一部の真壁氏幹らの様に、早くに佐竹へ臣従した大掾氏もおり、必ずしも大掾氏が
一族団結して勢力を張っていた訳では無い。

取りあえず小田領は、氏治が継いだ頃はそこそこ広く、居城は小田城だけど、持ってる
城は土浦以外にも結構あったという事を軽く覚えておきつつ、以下を御読み下さいな。


勢力説明はこの辺で、氏治様の鮮やかすぎる戦歴へ(長いよ)

1556年 北条・古河公方・結城以下諸氏に攻められる。
    氏治救援に行く→負け。海老名城を取られる。
    おまけで小田城も取られ、土浦城に逃げる。
    氏治体勢を立て直し、小田城奪還。次いで海老名城も奪還し、旧領回復。
    →が、城以外の失地は回復不足。
1557年 氏治、多賀谷氏の下妻城攻め→佐竹援軍により大敗。土浦城へ。
1558年 長尾(景虎時代)・佐竹・多賀谷氏に攻められる。
    小田城→3〜4回攻められ、氏治も3〜4回土浦城へ。
1559年 土浦城主・菅谷政貞により小田城を奪還してもらう。
    氏治も旧領奪還の為、結城城を攻める→落とせず撤退
    →氏治の撤退に乗じて、北條城,海老名城がそれぞれ結城・佐竹に奪われる。
    また、他家(小高氏)の内紛に加勢してたら、
    大掾氏に所領を攻められて、どっか2城ほど落城してたでござるの巻。
    →加勢しに行った自分も、退陣中を追撃されて敗北したでござるの巻。
     →色々ともう無理なので、長尾景虎に降参するでござるの巻。
1560年 (和睦した)佐竹らと結城攻め。古河公方の調停で海老名城が小田へ返却に。
1561年 長尾景虎の小田原攻めに、関東諸侯と共に参加。特に何も無く無事帰還。
1563年 長尾景虎との約束破って北条に付く。
1564年 軍神襲来警報につき、海老名城落城。
    小田勢・信田頼範、岩槻(茨城の?)坂戸城を落とすがすぐ取り返される。
    氏治、山王堂で上杉・佐竹・宇都宮と戦う→負け。
    →小田城捨て、藤沢城捨て、また土浦城へ逃げ延びる。
    一時、小田城を奪還するも佐竹の攻撃にまたry。領地を30余ヵ所程奪われる。
1565年 佐竹当主・義昭死去。それに乗じ小田城を夜襲し奪還。更に木田余城も奪還。
    →…しかし、佐竹を継いだのは鬼・義重。
     →そして、この報を聞いた上杉謙信は大変怒り、本気になってしまった。
      →ここからが本当の地獄だぜ。
327人間七七四年:2009/11/19(木) 19:31:55 ID:Y60o4/wH
続き。

1567年 佐竹と上杉、鬼と軍神による小田城総攻撃始まる。
   (>>265,297とかなり被ってきてるので、以下は城・所領の動きのみ)
    小田城落城。片野城、柿岡城も策略?により佐竹側へ。
1568年 上杉謙信への降伏により小田城・海老名城返還?
1569年 海老名城が佐竹に降伏。小田城は落城せず→だが、城下・近隣は火の海に。
    手這坂の戦いにより、佐竹の柿岡城は落ちずに、小田方の小田城が落城。
1570年 佐竹、筑波の小田領を占領。
1572年 小田城奪還
1573年 >>297の新年祝いにより小田城落城。が、その後1月20日までに小田が奪還し、
    4月11日までに再び佐竹に奪われるという異次元の動きを見せる。
    その後、小田方の戸崎城降伏→甲山城は放棄→藤沢城落城
1574年 佐竹により土浦城,宍倉城落城。戸崎城も降伏。
    が、>>266の菅谷範政により土浦城が氏治の手に戻る。
1577年 氏治、手子生城を奪還。所領も一部回復。
1578年 佐竹により、木田余城落城。小田方が一時取り返すも、いつも通りまた落城。
1583〜89年 氏治、佐竹に臣従するが、勝手に旧領奪還の軍を起こしたりDQNぷり。
      この頃、我等が愛するDQN政宗が常陸に手を伸ばし初めており、
      義重もいつまでも氏治にかまっていられなくなる。
      →氏治に関する苦情・相談は、太田・梶原までお願いします。
1590年 太田資正らの強固なガードにより小田城落城せず。
    →小田原征伐終了につきゲームオーバー。『氏治 〜そして改易へ〜』

以前調べた記憶じゃ自信がなかったので、こちら↓のサイトを見せて頂きながら書きましたよ。
ttp://www.rekishi.sagami.in/tukuba.html

おまけ:氏治様における、自分と友人の基本認識。

氏治「菅えもんー助けてよー、ジャイアンに小田城取られちゃったよー」
菅谷以下家臣団「仕方ないなあ、氏治様は」
領民「放っとけないもの」
328人間七七四年:2009/11/19(木) 19:47:17 ID:Z1P9KXhY
小田政治「こんなときどんな顔すればいいか分からないの」
329人間七七四年:2009/11/19(木) 20:07:16 ID:rZFwAdi9
菅谷さんらの忠臣っぷりは頭が下がるなあ。 氏治さんの戦下手っぷりにも頭が下がるが。
330人間七七四年:2009/11/19(木) 20:09:38 ID:fXGy/8Qp
こういう、ちょっと間の抜けた、だからこそ人間臭い武将は大好きだw
331人間七七四年:2009/11/19(木) 20:15:24 ID:Y60o4/wH
余談ですが。

氏治様がこれほどまでに拘った小田城は、平成12年から復元計画に基づいて
復元がされており、10年後には復元工事終了予定だそうです。
(現小田城跡のパンプレットより)
wikiだと平成26年までの予定になっていましたが。

少し前に現地には行った事があり、
今の状態でも、かなり発掘されているのを見ているので、今後が楽しみだったり。

なお、小田城跡から土浦方面に少し行った所に、藤沢という地名(藤沢城のあった場所)
があり、そこの法雲寺には、小田政治・氏治の墓があります。
氏治様の墓は、どうも書かれてないので分かりにくいが、政治様の墓へ行く前、
石段を登ってすぐの所にあるようです。少し大きめ。
(またwikiでは、氏治様の墓は、新善光寺に越前の地より改葬されたとあります)

流石に、巡礼に行く程熱意ある人は、自分等くらいしかいないだろうけど、
小田城の城域に入った辺りは、基本的に道が狭く、車を擦らないようご注意を。

小田領民の家々が残っているせいか、それとも資正様が築城術の術中にはめようとしているせいかは
分かりませぬがw
332人間七七四年:2009/11/19(木) 20:28:55 ID:RYB1GaWP
>>326-327
いつも小田家単独で戦争してるから負けるんじゃないの?
北条じゃ遠すぎるから、近場の大名と軍事同盟結べばよかったのに。

・・・まあ、同盟結ぶのも大名の能力のうちだけどね・・・
333人間七七四年:2009/11/19(木) 20:53:54 ID:7Wt72KKr
転地人

哀を掲げた戦国武将

334人間七七四年:2009/11/19(木) 20:57:52 ID:Ecga8uPG
大河の主人公やれそうだな。

小田城奪われる→奪還する→奪われる→奪還→(ry

無理か。
335人間七七四年:2009/11/19(木) 20:59:48 ID:HhQcppts
そんなドラゴンボール的な大河は困る
336人間七七四年:2009/11/19(木) 21:02:06 ID:hFAL+8ZA
敗れても敗れても、なお敗れても諦めない
不屈の精神を描く感動巨編、
「延々と」
ご期待下さい。
337人間七七四年:2009/11/19(木) 21:04:07 ID:fXGy/8Qp
笑いあり涙ありの戦国大河か
悪くないかも
338人間七七四年:2009/11/19(木) 21:32:01 ID:uV+ifZAf
戦国の不死鳥(死なないだけ)
339人間七七四年:2009/11/19(木) 21:38:11 ID:5T6gMSnC
コメディ上手い脚本家だと、珠玉の出来になりそうw
340人間七七四年:2009/11/19(木) 21:43:25 ID:q2fLs0JL
:::: ヽ \\       ィユ,        /  / / /::::::::::::::::
:::: ( \ \\   ( ^ω^)      l  三 / / ):::::::::::::::
:::::::ヽ ヽ . ミヽヽ    | |       /   二 / /
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::::... /ヽ ヽ ニ ヽヽ |,,,| ┼  //   ニ _______/
:::.   ヽ____  ニ ヽ`l  ヽ__//    ニ ____ノ
      ヽ___,  ニ l ::   ′    ニ ___ノ
        ヽニ -‐ ,l ::  小田 __ ≡ __ノ+ ┼ *    :::::::::
         ヽ---'''ヽ、  ,,,;''''='''''__ +  ┼  +  .::::::::::

私は不死鳥氏治。何度落城しても蘇る。
世界中にあふれるさまざまな2流武将を知っている。
不幸にも私に討たれてしまい
死んでいった武将達のことを私は忘れない。
私の名は不死鳥氏治、藤原道兼の末裔。
341人間七七四年:2009/11/19(木) 21:48:48 ID:/F9oFrcr
小田さんには是非配下に四天王をつけてあげたい
342人間七七四年:2009/11/19(木) 21:50:40 ID:dRFGDL5h
嫌な火の鳥だなw
まぁ生死を左右する場に何度も身を投じる(何度負けても)ガッツと
それでも家臣や領民が付いてくる人徳は現代人も少し見習ってうべきではなかろうか

それはそれとして海老名城であってるんだろうか?
343人間七七四年:2009/11/19(木) 21:55:34 ID:D0BH21Ed
ずっと日陰の存在だった小田氏治、四百年の時を経て2chスレで初めて主役に躍り出る。
344人間七七四年:2009/11/19(木) 21:59:38 ID:q2fLs0JL
ちなみに小田氏治の事を書いた軍記物である「小田軍記」「小田天庵記」、

この両方とも最後は何故か、小田氏治が「切腹」して終わる。
345人間七七四年:2009/11/19(木) 22:04:59 ID:Z1P9KXhY
…。
346人間七七四年:2009/11/19(木) 22:07:26 ID:wXh5VNjh
また一人、いい悪いスレからアイドルが誕生した、の、か……?
347人間七七四年:2009/11/19(木) 22:08:38 ID:Ecga8uPG
>>344
俺もそれ気になってんだ

江戸期にできたものらしいが、
居城を奪還できない=生き恥ってことで、
最後は切腹の方が武士らしいってことなのかな?
348人間七七四年:2009/11/19(木) 22:13:47 ID:YtbKjVbz
>>344
多分、土浦城落城時、小田親子の身代わりになって切腹した家臣・沼尻播磨守の死が
そのまま氏治の死として扱われたんじゃないかと思うんだけどなあ

本人は脱出して小田原に向かってるはずだし
349人間七七四年:2009/11/19(木) 22:24:26 ID:q2fLs0JL
>>347
>>348
「小田天庵記」に出てるけど、筆者が、氏治の重臣である菅谷左衛門の子孫が名主をしている村に行くと、
小田を裏切ろうとして菅谷左衛門に討たれた信田重成がその村で祭られてて、しかも信田が、
菅谷の主君だった、って言う風に伝承されてたとか。

どうも地元でも100年以上たつと、伝承する主体がいない以上、小田氏関連の記憶は
かなり薄くなってしまったようですな。
350人間七七四年:2009/11/19(木) 22:31:38 ID:x7jrIrbQ
ある男の半生

両刀遣いですっかりおなじみの大内義隆だが、その義隆がかなり熱を入れてアッー!した少年がいた
名は五郎。義隆がどれくらいこの五郎に入れ込んだかと言うと、
この五郎の住まいがある富田若山に夜な夜な通ったとまで言われるほどである
富田若山は現在の周南市、対して義隆が暮らす山口館は現在の山口市
google mapで見ても結構な距離である

ある日の義隆、いつものように富田に向かいラブホ代わりに使っていた寺で五郎と逢引を重ねていたが、
夜がふけ朝に近づくと五郎が先に眠ってしまった
義隆は自身の立場を顧みて眠ったままの五郎を置いて帰ることにしたが、名残惜しいと思ったのか、
もぬけなりとせめて残せば空蝉の世のならいとも思いなすべし(意味は知らん)
と和歌を詠み五郎に送ったという(大内義隆記)

やがてこの五郎は成長し、義隆の一字をもらって元服して数多くの戦で活躍した
そしてさらにその十数年後、五郎は義隆に対して謀叛を決行し義隆を討つことになる


そう、この五郎こそあの陶晴賢(隆房)である
有名な話だから今更だけどまだまとめになかったんで
351人間七七四年:2009/11/19(木) 22:50:22 ID:AfkkQblk
有名すぎて、まだ出てなかったんだな。
この逸話を基にした河村恵利のコミックがあったっけ。
352人間七七四年:2009/11/19(木) 22:54:01 ID:RYB1GaWP
義隆が一方的に好きで、五郎は内心イヤだったのか?
権力に近付くためにアッー!したのか?

ところで、筆と紙を携帯してたのは従者なんだろうけど
アッー!のために、主君に従って毎晩歩いて、行為が終わるのを待ってるのは大変だったろうね。
353人間七七四年:2009/11/19(木) 22:56:07 ID:Y60o4/wH
>>342
海老ヶ島城かも。
書き間違えっぽい。スマンです。
354人間七七四年:2009/11/19(木) 22:58:40 ID:q2fLs0JL
>>352
陶家は周防の守護代をしている名門。
355人間七七四年:2009/11/19(木) 23:03:21 ID:5UYloM4n
陶の謀叛は召し上げられそうになった自領を守る自己防衛の意味が強い。
義隆とのホモセックスが実は嫌だったとかそういう個人的な理由ではないはず。
この話の肝は過去にこれだけ愛しあってもやる時はやるんだよという話だと思う。
356人間七七四年:2009/11/19(木) 23:41:38 ID:dRFGDL5h
>>353
海老名城だと今の神奈川県中央にあった城だけど同名の城ってのも無い訳じゃねぇし間違いとは言い切れないさ
俺の知ってる範囲だと山中城だけで3つ知ってるし
357人間七七四年:2009/11/19(木) 23:58:24 ID:GLh/w8TM
長久手の戦後に首実検が行われた。その時、徳川家康は永井直勝が
指を一本切られているのに気づいた。

「いったいどうしたのだ?」
「実は池田恒興と戦っていましたところ、蜂屋定頼が『助太刀いたす!』
と攻撃したのですが、その時定頼にやられたのです」
「な、なにぃ!定頼、貴様一人で戦っていた直勝の手柄を少しでも己の
ものにしようとしたのか!何たる腰抜けだ!」

そう言われた定頼は怒って

「その時、恒興は直勝に討たれるところでした。そこで私は運にあやかろう
と攻撃してたまたま直勝の指に当たったのです。直勝に聞けばわかります。
馬鹿者と言われても仕方ありませんが、腰抜けとは心外です。失礼!」

と言って出ていったという。
358人間七七四年:2009/11/20(金) 00:01:15 ID:A0+Jd86t
>>340
小田嶋ww
359人間七七四年:2009/11/20(金) 00:06:07 ID:YGrJX/qP
>>357
指を切られたってのは
指一本失ったという意味?
そりゃひどい・・・
360人間七七四年:2009/11/20(金) 00:33:06 ID:xzXNQ44/
>>357
やっぱりこの時代の価値観がよくわからん。
同僚の指切り落としといて、「運にあやかろうとしただけなんで俺悪くありません。間違って切っちゃったんだから悪くないだろ」って態度に見えるんだが。

それともそれはそれ、自分を腰抜け呼ばわりしたことは別問題ってことか。

直勝が危なかったっていうんならまだわかるが逆だしなあ……。
納得いかん。
361人間七七四年:2009/11/20(金) 00:45:22 ID:F8UjbCog
>>360
うん、「腰抜けは違う腰抜けは」って言いたいだけだと思う
そもそも現代人だったら家康みたいに思ったとしても一番に出てくる罵り言葉は
腰抜けじゃない気がする
やっぱり腰抜けが最大級の侮辱語だったんだろうな
362人間七七四年:2009/11/20(金) 00:46:49 ID:lfcjtCO0
自分の失態は理解してても腰抜けという叱責に逆切れしちゃったんだろうな
363人間七七四年:2009/11/20(金) 00:52:14 ID:jx6AJufl
失敗したバカなのは認めても腰抜け扱いは認めないってやっぱ三河者はめんど(ry
364人間七七四年:2009/11/20(金) 01:00:59 ID:1l2mm3HS
あとこの時代、三河武士に限らず、指が1,2本無いくらいなら、むしろその武勇を現すものとして
称えられていた観がある。
365人間七七四年:2009/11/20(金) 01:08:54 ID:HMX+2DTa
指が6本あった猿は天下取ったが
366人間七七四年:2009/11/20(金) 02:35:09 ID:C01zS5bo
>>349
いちおう、足利血統なんだけどなw
367人間七七四年:2009/11/20(金) 02:49:57 ID:NTQlLadG
1555年倭寇対策の一環として日本情勢を探索する為に鄭舜功は琉球経由で来日した。
彼の日本についての記録である『日本一鑑』で薩摩高須浦についてこう記されている。

「我が国の民で倭寇に捕まり奴隷になっている者が2、300人いる。」

薩摩の一地方でこれであるから薩摩全体、あるいは九州全体で
倭寇に連れ去られてきたものは膨大な数に上ると思われる。

また鄭舜功は在日明国人を
「朱縞種」、「被虜官袁種」、「逋逃之種」、「被虜人種」の4種に分けている。
朱縞種はttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2726.htmlに出てくる宋素卿の子孫たち
被虜官袁進種もこの事件で日本側の捕虜となって日本に連れ去られた寧衛府の指揮官袁進の子孫たちである。
彼らは在日明国人のなかでも有力な一党となっていたらしい。

問題は逋逃之種と被虜人種である。
前者は明の追跡を逃れて日本に拠点を移した倭寇達
後者はその倭寇達に連れてこられた者達

鄭舜功の日本についての記録である『日本一鑑』にはこういった倭寇達が
日本を拠点として東シナ海一帯で商船を襲ったり、沿岸を襲撃したりした記録が数多く載せられている。
明の手が届かない安全な根拠地を手にした倭寇達は大勢力と化し
日明間のおける大問題となった。

「真倭は1、2割」と言われた倭寇であるがその活動範囲に国境はないのだ。
368人間七七四年:2009/11/20(金) 03:31:44 ID:y8SSysdT
>>326-327
これすごいな。ボコボコにしてるとはいえ佐竹氏としてもかなり頭痛くなる存在だったんじゃない?
戦争費用や人員の消耗もこれだけ繰り返すと相当なものになりそうだ
369人間七七四年:2009/11/20(金) 04:26:50 ID:1l2mm3HS
『黒田節』、その後

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-638.html
この話の通り、黒田家家臣母里太兵衛に、名槍「日本号」を飲み取られた福島正則。
さて、その翌朝、正則は家臣に尋ねた

「ああ、昨日は良く飲んだ。おや?わしの日本号はどこに置いた?」

「え?アレは黒田家の母里殿にお与えになったじゃありませんか。」

「な…、なんだとーーーーーー!!!!????」

正則驚いた。覚えてない。そんなことをした覚えは無い。
はい、みなさん御想像のとおり、正則さん、また酔って記憶をなくしてしまったのです。

「なんということだ!あれは太閤殿下よりいただいた大切な重宝である!それを他家の
家臣に与えてしまうとは…!何でお前達も黙っていたんだー!?」

口答えすれば斬るだろ、酔っている時のあんたは。
涙目の正則、すぐさま母里の元に使者を出した。『あの槍、返して!』

母里「いやです」

正則からの返還要求を完全無視。その後も、正則より何度も返すように言ってきたが、
母里はついに最後まで、日本号を手放すことは無かったそうである。

正則さん、黒田節の逸話もまた、酒の上の失敗だった。と言うお話。
370人間七七四年:2009/11/20(金) 08:23:00 ID:HMX+2DTa
>>368
太田梶原親子だけで充分対応できたってか三楽ちゃんと天庵ちゃんはツンデレ遊び友達だっただけ。
371人間七七四年:2009/11/20(金) 09:42:13 ID:B3QAcWyn
>>368
ついでに小田は南北朝時代は新田の親戚だったので、
足利方に付いた佐竹を相手に戦い続けている。
372人間七七四年:2009/11/20(金) 09:42:40 ID:QfLL2FMQ
なにこの小田氏治祭りw
今川氏真に次ぐ迷君だけど、氏真より長い間領地保っていたから外交能力は氏真より上か?
373人間七七四年:2009/11/20(金) 09:51:49 ID:0kop5USN
>>370
天庵ちゃん「今日こそは三楽ちゃんを叩きのめして土下座させてやるんだからね!」
三楽ちゃん「天庵ちゃんじゃ100年かかっても無理ね」
天庵ちゃん「この夜討ちで三楽ちゃんの吼え面が目に浮かぶようだわ!」
三楽ちゃん「やはり夜討ち。計画通り!」
天庵ちゃん「悔しい!でも諦めないんだからね!必ず泣かせてやるんだから!」
三楽ちゃん「何度来ても同じよ」
374人間七七四年:2009/11/20(金) 10:08:43 ID:gtSsrHk+
>>368
本腰入れて相手にするほどじゃないにしても面倒な相手だったのは確かだと思う
変に領民や土豪・地元の商人達に慕われてるから、領地奪っても統治がうまくいかないし
関東では佐竹と並べる名族の一角だから滅ぼしてしまうのも色々あって難しいし
かといって相手に臣従する気がありそうかっていうとプライド高いから絶対ないし

結構迷惑だったと思うよ……
375人間七七四年:2009/11/20(金) 10:57:41 ID:rYlE/j8z
小田についてぐぐったら、氏治の父政治は将軍足利義澄の弟かよww
何気に名門ww
376人間七七四年:2009/11/20(金) 12:18:49 ID:9kgSLXAa
おぼっちゃまか・・・
377人間七七四年:2009/11/20(金) 12:23:20 ID:lfcjtCO0
おぼっちゃまくんだなあ

これで将軍やってたなら「公方ちゃまくん」なんだが
378人間七七四年:2009/11/20(金) 12:49:34 ID:NACAS0Ot
まだ氏治様の流れがギリギリ終わっていない様で安心。まだまだ行けるw
太田資正様好きとしては、便乗してこれを書かねばw

『誕生、片野の三楽斎』

太田資正という人を説明する時、大体の場合は岩槻から追放されて終了か、
追放後に佐竹家臣入りして〜完〜となってたり、あまり触れられていない部分がある。
そこの部分のお話。


北条を相手に、武蔵岩槻を居城とした支城と三楽犬
(まとめサイトの『太田資正の戦国トップブリーダー・いい話」を参照 )
により粘っていた太田資正だが、自分の子・氏資により居城を奪われ、各地を
放浪していた。

家臣だった小宮山弾正のいる戸塚城に寄ったかと思えば、
成田氏や上杉謙信の元へ行ったりと各地を放浪して、
1566年ごろ仕えるに至った家は、何と常陸の小田家であった。

氏治「これはこれは、武蔵国から遥々よう参られた」
資正「実は某、息子に居城を奪われまして、嫡子政景と共に放浪の日々を
   送っておりました。どうか岩槻奪還の悲願を達成するまでの間、
   我らを氏治殿の家臣へお加え願えませぬでしょうか」
氏治「あい分かった。資正殿の武勇はかねがね耳に入っておるゆえ願っても無いこと。
   資正殿には片野城、嫡子の政景殿にも柿岡城を与えるゆえ、
   それぞれ守って頂きたい」
氏治(キタコレw今は猫のも借りたいとこだし、前線に入ってもらっちゃおう)
資正(ニヤリ)

とかの会話があったかは不明だが、ここで資正は嫡子政景と共に、小田の配下となる。
この時の知行の数値は怪しく、一千貫と書いたものや、一万八干石書かれるものも
ある様で。
しかしどちらにせよ、氏治はこの時、せいぜい一武将が仕官するかのレベルにしか
考えていなかったのだろう。
だが、この太田資正。彼はこの後の常陸国に大きく影響を与えていくことになる。

……しばらく経って。
資正「どうか我等を、義重殿の配下へお加え下さい。手土産として、仇敵の小田氏治
   より片野城・柿岡城を手土産として切取って参りました」
菅えもん「太田親子が、城ごと佐竹家へ寝返りました」
氏治「どういうことなの……」

資正と政景は、なんと氏治の敵である佐竹義重へと即刻寝返ったのだ。城ごと。
片野も柿岡も、佐竹方への前線にある大事な城。
資正の登場により、常陸のミリタリーバランスは大きく崩れた。
379人間七七四年:2009/11/20(金) 12:50:33 ID:NACAS0Ot
寝返られた氏治は当然怒り、資正・政景を攻めるが、資正は岩槻城時代にて、
散々あの北条とやりあっていたせいか、小田軍三千騎vs太田軍千以下という戦いでも、
苦戦することはあれども最終的に勝利するなど、少なくとも片野・柿岡の両城を、
一度たりとも落城させることはなかった。

小田城にも資正の手が加えられる。
戦国期に入っても、単郭に堀があったかどうかの、城と言うより中世武士の館状態
だった小田城。奪っても氏治の謎のカリスマで取り戻されるの繰り返しだったが、

資正「じゃあ、奪い返せない様に改造しよう」

と、奪ってから政景と共に大改修していく様になる。
その結果の小田城↓
ttp://otakesumiyo.hp.infoseek.co.jp/odatk.htm
(氏治らも、ちょっとくらいは強化していったろうけど)
すぐ横の前山や、筑波山にまで関係する城跡があるとか(城域繋がってた?)。
これにより、後年になるにつれ、段々と昔の様には取り返せなくなってくる。

そして、資正の寝返り以降、氏治と戦う面子にも変化が出る。
太田資正,梶原政景,真壁氏幹
大方、この3人が佐竹方として毎回立ちはだかる様になる。
……というか、氏治の矛先が、寝返った資正らに向かってるだけとも言える。
もともと戦に勝てないのは先の通りだが、1574年には土浦城までも落とされて、
氏治は一時常陸から追い出される。
ころころ落ちる小田城と違って、土浦城が落ちたことは無かった。
もはやそれほどまでに、軍事力に差が出てしまっていたのだ。

が、氏治にとっての最期のチャンスが訪れる。DQN政宗公の登場である。
勢いに乗る伊達に、佐竹は全力で当たらねばならず、
反対側に位置する、南の氏治に構ってる余裕がなくなったのだ。
今なら手薄。しかも伊達と挟撃が出来る!ということで、兵を起こしたのだが……。

???「待てゐ!」
小田城にて立ちはだかるのは、資正(もうすぐ寿命)ら、太田&梶原軍団だった。
小田城に篭城する政景、そこへ後詰する資正、その間に挟まれる氏治という
見事な後詰の図にて、小田城はついに落城しなかった。

そして氏治は秀吉により改易。
資正自身も、小田原征伐終了後しばらくして死去。


よく書かれる太田資正の列伝だと、北条と戦っているところが強調されがちで、
後年ずっと氏治キラーだったことはあんまり書かれないので、知らなかった人も
多いかと。以上です。
380人間七七四年:2009/11/20(金) 12:53:38 ID:gGwzkcnU
>>375
伯父にあたる茶々丸を殺した北条に泣き付くんだから、
父を殺した武将の子を頼る上杉憲政といい、
関東の名門ってちょっとアレだよなw
381人間七七四年:2009/11/20(金) 12:56:45 ID:gGwzkcnU
>>378-379
猫の手は借りても犬の手は借りるなという教訓ですね
382人間七七四年:2009/11/20(金) 13:11:38 ID:HMX+2DTa
たいへんよ!武田北条連合軍の攻撃で松山城が降伏しちゃったみたいで、後詰めにきた謙信ちゃんがキレたみたい…三楽ちゃんが殺されそうだわ
383人間七七四年:2009/11/20(金) 13:45:57 ID:yIGUwd5b
常陸小田氏と言われてパッと思いつくのは小田氏治と
後は流れ着いた北畠親房だなぁ

龍造寺に攻められた肥前小田氏って常陸のと関係あったっけ?
384人間七七四年:2009/11/20(金) 13:52:01 ID:1l2mm3HS
>>383
一応常陸小田氏から分かれた家>肥前小田氏
11代当主の小田持家の弟、直家の流れ。
385人間七七四年:2009/11/20(金) 14:01:30 ID:/Dz+FLyU
>龍造寺に攻められた肥前小田氏

もうちょっと他の紹介の仕方あるだろw
386人間七七四年:2009/11/20(金) 14:07:45 ID:1l2mm3HS
肥前小田氏も、少弐氏が滅んだ後は大友と龍造寺の間をあっちに付いたりこっちに付いたりした挙句、
龍造寺隆信に、いかにも隆信らしいやり方で滅ぼされてるな。
387人間七七四年:2009/11/20(金) 14:25:13 ID:B85SO6OL
城ごと寝返り…
なんと太田さんの悪い話だったか。
388人間七七四年:2009/11/20(金) 14:27:14 ID:8SzD3RGW
いくら戦国時代だからってこれはひどい
389人間七七四年:2009/11/20(金) 14:35:07 ID:Cos3ydHm
信秀「信頼を裏切って城を取るとか、人間として最低だな」
390人間七七四年:2009/11/20(金) 14:40:47 ID:gtSsrHk+
しかし見てて思うんだが城は奪われても
よくぞ謀殺されたり暗殺されたり下克上されたりしなかったよなw
するほどのものではないと思われていたのかもしれないが
隣の国に直家さんや晴信さんやまー君やそのおじさんがいたら
氏治さん安らかに死ねなかったんじゃないかと思う……
391人間七七四年:2009/11/20(金) 14:45:33 ID:UFgkSI3/
軒を貸したら母屋を獲られたでござる・・・ 
母屋を獲り返そうとしたらセコムされてたでござる・・・・

392人間七七四年:2009/11/20(金) 14:55:34 ID:ZsZsPLNJ
小田氏治「ワシの城返して!返して!!」
篭城中の太田息子「セコム呼びますね^^」
セコム監視センターの太田父「天庵さん困るんですよね、もうあなたのものじゃないんですから。早々にご退去願いましょうか」
393人間七七四年:2009/11/20(金) 15:17:37 ID:NACAS0Ot
>391
資正「氏治さん、セコムしてますかwセコムしてなかったんですかwww」

氏治様は本当に家臣に恵まれたってことでしょうね。
なんでも、家臣の菅谷一族は、霞ヶ浦周辺の水運利権を支配してた様で、
結構その財力も、小田の『土浦城から反撃』に相当役立っていたの
ではないかと。
当時は霞ヶ浦及び周囲の川が、今と比べられないほど広かったらしく、
土浦城は地形的にも攻め難い。

普通に土浦が居城で良いような。

あと、資正様が実際どう考えてこの行動をしたのかは不明。
仕えてみて、この当主じゃ岩槻奪還は不可能と思ったのか、
書いたように、『最初から』何かしら手土産を得るつもりで仕えたのか。
はたまた全く別で、小田に仕官せず、既に佐竹が落としていた城を、
佐竹に仕官してきた2人に与えたのが脚色されたとか、色々な説がある様子。


ともかく、一つ言えるのは、

小田城奪還に固執する小田氏治と、
岩槻城奪還に固執する太田資正とが戦った。

妙な運命を感じるのは絶対気のせいじゃないwww
394人間七七四年:2009/11/20(金) 16:26:17 ID:gGwzkcnU
三楽斎には同情していたんだが、
もう同情できない!w
395人間七七四年:2009/11/20(金) 16:31:33 ID:gU2QPOpO
英雄だな、、、、ある意味。
396人間七七四年:2009/11/20(金) 17:11:04 ID:yR/vczHT
>>379の小田城見ると、三楽さんも物凄い気合い入れて縄張りしたもんだよな。
氏治さんもさぞかし驚いたことだろう。
397人間七七四年:2009/11/20(金) 17:17:10 ID:B3QAcWyn
>>396
コードギアスの紅蓮聖天八極式を見た時のラクシャータみたいな感じかな?
398人間七七四年:2009/11/20(金) 17:44:50 ID:av5rx39c
>>393
土浦城が毎度毎度小田城奪還の拠点になってるあたり、
城としては充分だろうから、
小田城見限ってそっちを本拠にしたほうが理にかなってるな。

もっとも小田城をあっさり捨ててたら、
氏治が今ここまで注目されることは絶対になかっただろうがw
399人間七七四年:2009/11/20(金) 18:06:36 ID:eH3qRvds
プチ小田氏治ブームだw
上のリンク先の小田城の写真や図面を見た限り
とても戦略的に価値があると思えないな。
まるで住居のよう。俺んち返せよ!って感じだったのかなw
400人間七七四年:2009/11/20(金) 18:16:34 ID:TO97nCxg
やはり名字の地だからからかねぇ
401人間七七四年:2009/11/20(金) 18:24:29 ID:1l2mm3HS
>>400
後、地元の領民の小田氏への支持が強かったらしい。
攻め取られても相手に年貢提出を拒否したり。
家臣だけじゃなく領民からも、不思議なくらい慕われていたようだ。>氏治
402人間七七四年:2009/11/20(金) 19:05:39 ID:M9e38msO
>399
小田城が筑波山塊の南端の麓で、土浦城が霞ヶ浦の岸にあるから、
この2点間を制圧されると、南北交通は完全に遮断されるし、
東西の交通だって20km以上北の現在のJR水戸線が通っているあたりまで
回り道しないといけなくなる。

佐竹氏が下野、下総の反北条勢力と協力しようとするなら、
小田城の戦略的な価値は非常に大きいといえる。
403人間七七四年:2009/11/20(金) 19:41:46 ID:NACAS0Ot
>>402
その両城の中間に、地味に藤沢城もあったりする。

どうも小田庶流・家臣の守る城郭がそれなりの数は各地あったみたい。
海老ヶ島城もそうだけど、木田余城とかはそれなりの城郭だったみたい
……と、フォローしようと思ったけどダメだwww

なぜなら、調べたらば名が挙がってる城以外は、大体が城っていうか、
小田城初期と変わらないっぽい、館をちょいと強化した程度ってことが
分かったから。頼みますよ氏治様www

とすると、片野・柿岡城は小田の『主だった城』に数えるような城
だったんだろう。
……しっかし、地図見てると、片野・柿岡って相当面倒な部分
取られたんやなあと思うぜよ。
404人間七七四年:2009/11/20(金) 19:42:28 ID:x5IUdn2I
土浦から、古河や結城に直通する場所だな、小田城
関東諸侯にとって、争奪の地になるだけの価値はあったろう
405人間七七四年:2009/11/20(金) 19:46:37 ID:WqANowmX
名字が小田の俺としては感涙せざるを得ない流れ
406人間七七四年:2009/11/20(金) 20:01:04 ID:hp9iF3FP
>>397
その例え分かる人にしか分からんだろw俺はなるほどって思ったけど

てか、太田家は築城や縄張りに精通してたのかな
祖父の道灌も江戸城で有名だし
丹羽さん家なんかも親子で築城してるから家ごとに技術を受け継いでるのか
407人間七七四年:2009/11/20(金) 20:44:44 ID:iY21lQaa
城をわざと浪人に取らせる→鍛えたい武将で攻めて勲功upっていうのを思い出した。
408人間七七四年:2009/11/20(金) 22:09:41 ID:+Q7cUxT+
小田氏治、家臣の言葉を聞き入れず

一、手這山の戦直前

佐竹義重は小田氏討伐のため真壁道無を派兵した。そして佐竹勢は
「片野に旗を揚げれば氏治は出る」と考えて氏治を挑発した。小田の重臣、
菅谷政貞は怒る氏治を諌めた。

「出陣はいけません!どうかご再考を!」
「駄目だ」

かくして出陣した氏治は見事に惨敗した。家臣の信太伊勢守は
「強も捨てる処あり、弱も用いる処あり。若鳶天狗にならず」と絶望し
出仕しなくなったため逆心を疑われて氏治に成敗された。

二、手這山の戦

戦いのさなか、真壁勢を発見した氏治はこれを叩くため坂を登ろうとした。
しかし、家臣たちは何かがおかしいと感じていたのである。

「真壁勢があまりにも少なすぎます。おそらく本隊は筑波山をまわって
挟み撃ちにするつもりです。早く引き上げるとしましょう」
「駄目だ」

具申を退けた氏治であったが、真壁の鉄砲のために敗北し、筑波山をまわり
こんだ敵本隊と合流した部隊によって小田城を落とされてしまうのだった。

三、手子丸の戦

天正になると小田家の命運も尽き始めていた。そんな時に小田家の智将、
天羽源鉄斎が氏治に遺言を残して死去した。

「よろしいか殿、絶対に野戦はいけませぬぞ。篭城して後詰を待つのです。
考えてもみて下さい、我ら小国が大国とまともに戦えるはずがありません。
国力に差があるのに一人が一人と戦って勝てますか?しかし篭城なら一人で
二十人と戦えるのです。ですから常に守勢にお立ちになることが重要なのです」

天羽の死を見た佐竹は手子丸城に出兵した。

「ついに佐竹が攻めてきました。ここは亡き源鉄斎殿に従い篭…」
「駄目だ」

天羽の遺言を無視して出陣した氏治であったが、佐竹に挟撃されて敗北。
氏治はほうほうの体で逃げ戻った。
409人間七七四年:2009/11/20(金) 22:16:20 ID:hp9iF3FP
家臣はこいつのどこに惹かれて仕えていたんだw
410人間七七四年:2009/11/20(金) 22:17:37 ID:gtSsrHk+
>>408
なんでこれで人望あるんだろうなww
わかんねー
411人間七七四年:2009/11/20(金) 22:22:34 ID:1l2mm3HS
まあ、「源平以来の名家の当主」としての矜持を感じないでもないがw
412人間七七四年:2009/11/20(金) 22:23:44 ID:PnUPVpKi
氏治本人になにかとてつもない魅力があったのか
それともあくまでも氏治本人ではなく「小田家」に忠を尽くしていたのか

前者だと思いたい俺は氏治に毒されてきたようだ
413人間七七四年:2009/11/20(金) 22:26:31 ID:8PzckN6h
むしろ家臣が押し切られすぎだろ
黒田さんちのボロクソ苦言が必要だった
414人間七七四年:2009/11/20(金) 22:27:07 ID:MMg1Coy8
ここで氏治をネタ扱いしてる奴らも、いざ小田家の危機とあれば全国どこからでも駆けつけるんだろ?
415人間七七四年:2009/11/20(金) 22:40:54 ID:ESzb/RKF
どうでもいいが手子生城ってほとんど下ネタだよな。
いや読みが違うのは分かっているが。
416人間七七四年:2009/11/20(金) 22:42:55 ID:leRjluRR
下ネタとしてはどう読むの?
417人間七七四年:2009/11/20(金) 22:44:39 ID:hp9iF3FP
>>414
ここにいるぞ!
418人間七七四年:2009/11/20(金) 22:57:08 ID:e63x8IoT
菅谷政貞 「あんな殿だからこそ」
天羽源鉄斎「我々が支えなければと…」

立花道雪 「あー、わかるわかる。」
高橋紹雲 「他人とは思えませんな…」
419人間七七四年:2009/11/20(金) 22:59:00 ID:fRiqtSZL
12/06(日)1030〜 1330〜(同内容)
小田城址確認調査現地説明会

同日には真壁城址発掘調査現地説明会もあります。

興味があるかたはどうぞ。
420人間七七四年:2009/11/20(金) 23:27:41 ID:IQMeC2wu
>>408
戦の天才すぎるw
俺でもまだマシな采配が出来るんじゃないかと思えるくらいw
421人間七七四年:2009/11/20(金) 23:32:45 ID:LbAjErL5
>>408
このあふれでる決断力はどこから来るんだろうw
422人間七七四年:2009/11/20(金) 23:45:04 ID:7+VpcI3Y
氏治は劉備みたいなもんだろ

晩年の劉備みたいに他を圧倒するような謀臣や武将がおらんかった
423人間七七四年:2009/11/20(金) 23:55:20 ID:+Q7cUxT+
>>408
すいません。
最後から五行目の手子丸城は手子生城の間違いです。
424人間七七四年:2009/11/21(土) 00:15:53 ID:jyXk6zye
>>418
下二人の殿は、それなりに有能だろ。

私生活はあれだがw
425人間七七四年:2009/11/21(土) 00:17:53 ID:QD5SAcuf
某スレで日根野弘就がデス武将扱いされてたなー
426人間七七四年:2009/11/21(土) 00:26:10 ID:aTJyDsrv
以前自分が読んだ光栄の武将本に上杉憲政は百戦百敗の武将と書いてあった覚えがあります。
もしかしたら小田氏治ばりの武勇伝もあるかも知れないね。誰かご存知ないだろうか・・・
427人間七七四年:2009/11/21(土) 00:36:57 ID:e9WL7EbM
俺が住んでる近くで死んだわ
最後は宿敵・北条の息子と一緒に、あの世逝くとは想像してなかったろうな
428人間七七四年:2009/11/21(土) 00:57:47 ID:/RJfE8WI
>>425
だって日根野さんは破滅の神に選ばれし男だし。

876 名前:日根野弘就の華麗なる仕官歴[sage] 投稿日:2009/11/19(木) 20:55:23.63 ID:jaFzDAwo
斎藤家:滅亡
今川家:滅亡
浅井家:滅亡
長島一向一揆:壊滅
織田家:木っ端微塵
豊臣家:滅亡
西軍に内通:大敗北
429人間七七四年:2009/11/21(土) 01:06:24 ID:kgiw7Isc
>>428
日本版劉備?
430人間七七四年:2009/11/21(土) 01:46:53 ID:F2B4luqg
日根野さんも早くに武士辞めて甲冑職人にでも転職していれば……
431人間七七四年:2009/11/21(土) 02:30:31 ID:Wes4mqjp
>>365
遅レス
秀吉って首級をあげたことってあるのか?
指揮官としての活躍しか知らないもんで教えてプリーズ。
432人間七七四年:2009/11/21(土) 11:38:40 ID:/eZCR66M
三楽ちゃんは伊達を出し抜いて蘆名へ佐竹義広を養子に送り込むのに性交したり
佐竹に内緒で直接に秀吉にレターしてたが、
佐竹も三楽ちゃんま〜た内緒で勝手にやってるけど、三楽ちゃんならまあいいかってな感じだったな。
もっとも肝心な時に息子の梶原が北条に内通しちゃったりw
最晩年に小田原攻めの際に秀吉に「小田原城あまく見ちゃいけないんだから」って言って不興を買っちゃった。
433人間七七四年:2009/11/21(土) 11:40:01 ID:6e8vHABg
>性交したり

出し抜かれすぎじゃなかろうか…
434人間七七四年:2009/11/21(土) 11:51:17 ID:r7cIh6Tv
>>431
ない。
あったらそれこそ太閤記に恥ずかしいくらい大げさに
435人間七七四年:2009/11/21(土) 13:59:15 ID:wRuCMhhg
慶長五年(1600)8月の頃。そう、言わずと知れた関ヶ原の真っ最中である。
加藤清正の家来、明石茂兵衛は、密かに関東の徳川家康の下へ、使者として派遣された。

さて、この明石が赤間ヶ関(現山口県下関)まで来たところで船を繋げ、風を待っていた。
毛利領である赤間ヶ関は、家康への密使である明石にとって、当然敵地である。
明石、港の者達に、怪しまれた

「あなたは何所から来られて、何所を目指して行かれるのか?」

「私は筑紫から上方に上る商人でして、決して怪しいものではありません。」

そう弁明したものの、赤間ヶ関の者達は明らかにこれを怪しみ、召し捕らえようと
身構えている。

『自分がどうなろうとかまわないが、清正様の密書を奪われてはおしまいだ。』

明石、一瞬の隙を突き、駆け出した。
そして3町(約330メートル)ほど行った所で寺を見つけ、そこに入り込むと、
寺の僧が火をたいて、茶を点てていた。

「これだ!」

清正の密書を取り出すと、その火の中に投げ入れ、焼いた。
そうしているうちに、明石を追いかけてきた港の者達が、寺へ押し寄せてくる。

明石、僧に向かって
「私は田舎から来た商人ですが、この港の者達の利欲から、殺されそうになり、
ここまで逃れてきました!後日、私の事を尋ねる人がいればどうか、この旨を
語り伝えてください!」

そう言うと、「人手にはかからぬ!」と、切腹をして、果てた。

僧、その事情はよく解らなかったものの、明石の最後を哀れみ、懇ろに葬ったと伝えられる。


同じ頃、清正は隣国に出兵する事を、家康に注進するため、家来、谷崎権太夫を呼び、
書状を渡し、急ぎ関東に持って行くようにと命じた。
谷崎は清正の前でその書状を裂き、こよりにすると、これを笠の止め緒の中に結い入れ、
関東へと赴いた。が、これもまた赤間ヶ関で咎め止められた。

この時谷崎、自分の笠を脱ぎ、側に捨て、「私はただの商人です。どうか通して頂きたい。」と
色々に言い訳をしたところ、「ではかまわぬ、通ってよい。」と言わせることに成功した。

が、谷崎はここからがさらに念が入っている。側に落としておいた笠を、わざとそのまま残して
立ち去ろうとした。すると後ろから「おい、笠を忘れているぞ」と声をかけられ、それを手渡された。
『笠は大切なものではない』と、印象付けたのだ。

赤間ヶ関を抜けた谷崎は無事、家康の下に書状を送り届けたとのことである。
436人間七七四年:2009/11/21(土) 14:16:53 ID:oxKSYK3N
>>431
その頃柳生宗矩の無刀取りが有名であった、その評を聞いた秀次は
宗矩が京都へ着たさいに宗矩を呼んで「無刀取りの術を見たい」と所望した。
それで秀次がそこで刀を拔いて宗矩に斬りかかったが、
宗矩はいとも簡単に腕と膝で秀次を制して刀を飛ばしてしまった。
その技に感心した秀次は宗矩の弟子となつた。

その話しを聞いた秀吉は言った。
「そんな分別ではわしの跡を継ぐことはできぬ。
関白ともあろうものがそんな技術を習ってなんになるのだ。
わしは過去に一度たりとも自分で他人に斬りかかったことはない。
他人に命じて他人を斬らせる分別があったからこそ天下が取れたのだ。
そんなこともわからぬ秀次はよっぽどのうつけか」と立腹したという。
437人間七七四年:2009/11/21(土) 15:02:00 ID:2eWIARJ0
>436
殿下の仰ることはご尤もだが
下級武士の時分にはそんなことも言ってられなかったろうに・・・
よくぞ武士が人一人も殺めることなく成り上がれたものよ。
438人間七七四年:2009/11/21(土) 15:16:31 ID:bzcbmfx5
他人に命じて他人を斬らせることができる立場としての話であって
そうなる前は秀吉も人を切ったことはいくらでもあったんじゃないか?
なんせ小者からのスタートだし。
439人間七七四年:2009/11/21(土) 15:28:10 ID:3B2GthLD
秀吉とか光秀の前半生って謎だからなー
あまり口外出来ないこともやってたんだろうか
440人間七七四年:2009/11/21(土) 15:36:37 ID:oxKSYK3N
>>437 >>439
いや、その辺は頭がキレる点でカバー。
頭さえキレればなりあがれるよ。
441人間七七四年:2009/11/21(土) 15:36:59 ID:XU3oJjhF
たいていの人の前半生は全員謎だ
442人間七七四年:2009/11/21(土) 15:54:06 ID:uKQAIra3
キレっぱなしの森武蔵もそのキレっぷり故に出世がかなったのです。
443人間七七四年:2009/11/21(土) 16:03:29 ID:0xWX+7b7
森武蔵は頭の回転が速い+DQNという意味で、二重にキレてるから恐ろしい
444人間七七四年:2009/11/21(土) 16:14:01 ID:3B2GthLD
親父の遺産か、主君の寵愛も受けているから無茶しても許されるのが羨ましい
445人間七七四年:2009/11/21(土) 17:15:52 ID:/RJfE8WI
胡散臭い出自に定評のある爆弾正
446人間七七四年:2009/11/21(土) 17:24:39 ID:EFLHudje
>>436
同じく木刀でもって挑み、無刀取りにあった家康も弟子になっている
ちなみに彼は
「大将は二度か三度、相手の剣を受けれれば良い。こちらから切かかる必要はなし」
と言っている

流石は家康は剣術の達人だけあって、柳生の無刀取りが大将の剣術であることを見抜いていたと言えよう
447人間七七四年:2009/11/21(土) 17:28:12 ID:wRuCMhhg
>>446
そんな家康も若い頃は単騎突撃大好きだったんだよね。三河一向一揆のときとか
一人でがんがん突っ込んで行ってる。作左さん達に怒られて止めたらしいがw
448人間七七四年:2009/11/21(土) 17:35:38 ID:3B2GthLD
家康って老獪なイメージが強いけど、若い頃はかなり三河武者っぽい
三方ヶ原で大敗したのが転機になったのかね、しかめ顔の絵を描かせて自分を戒めたらしいし

そういや信玄も個人的な武勇の話は聞かないな、軍配を持ってる絵が多くて
449人間七七四年:2009/11/21(土) 17:41:22 ID:EFLHudje
家康のは自ら槍を振るうのではなく、矢弾の飛び交う前線から指揮をするというたぐいのもの
「味方の後頭が見えている所から指揮しても意味は無い」
と言っています

若い大将は前線に出るとヒャッハーとなって指揮を忘れて、槍を持って飛び込んでしまうようです
450人間七七四年:2009/11/21(土) 18:12:15 ID:kgiw7Isc
>>449
井伊とか福島とか黒田とか細川とかか?
451人間七七四年:2009/11/21(土) 18:24:06 ID:gxeVIk5p
復活のどもり弾正

例のどもり声のせいで、間違って家来に刺殺された木山どもり弾正惟久。
彼の戦死後も加藤勢・小西勢それに有馬や大村らの軍勢は進撃を続け、
一揆側の拠点である天草氏の本戸城を攻囲した。
清正や行長らが総戦力で本戸城を攻め立てること五日間――――。
よく粘ったが、本戸城は守備兵討たれ、門も突破され、落城は避けられない仕儀と相成った。

清正:我に続け。

とっさの機転で弾正惟久を死に追いやった稀代の策士・加藤清正も、門をくぐって城内へ突入する。
清正が入ったその時、城の奥から30人前後の武者達が現れ、清正を襲った。

惟久:加藤主計頭、見参!
清正:何者か。
惟久:我こそ仏木坂にて貴様に討たれた、木山弾正よ!
清正:なに?!

弾正が蘇ったと、清正は驚いた。

惟久:死ねやああああ!
清正:ム……。

そして清正は、さらに驚くべき事態に直面する。

惟久:い、いやぁっ! な、や、やめぇッ!

惟久、梅の木の枝に頭に被った兜を引っ掛けて、身動きが取れなくなってしまったのだ。

清正:…………。

どのような心境だったのだろうか、清正、とりあえずこの惟久を難なく討ち取ってみせた。

後になって分かった事だが、弾正を名乗って清正を襲ったのは、弾正の妻の京の方だったという。
そして、彼女と共に清正を襲撃した30人の兵士達も、皆武装(男装?)した女子だったという。
452人間七七四年:2009/11/21(土) 18:49:51 ID:Bg7CUt/F
そのあとはおいしくいただかれました
453人間七七四年:2009/11/21(土) 18:51:07 ID:RCW+cGrD
どもりの夫と、おっちょこちょいの妻……
木山弾正と妻の日常が気になって仕方ないw
454人間七七四年:2009/11/21(土) 21:08:01 ID:rN/y1UD3
死んでも死にきれねええええええ
455人間七七四年:2009/11/21(土) 21:10:34 ID:kgiw7Isc
木に引っ掛からなくても勝ち目ないだろうから、憎い加藤を脅したかっただけじゃね。
敵の手を借りた自害。自作自演。
456人間七七四年:2009/11/22(日) 00:19:20 ID:HPrp6dsm
木山弾正は弓の名手として名が知られていた。
仏木坂でもその強弓で敵をまったく寄せ付けない。
ついには加藤清正自らが木山弾正に挑みかかる。

敵大将をと見て取った木山弾正、当然弓を引き絞る。
と、その時清正は手にしていた槍を投げ捨てて叫んだ。
「打ち物(太刀)で勝負!!」

豪傑木山弾正がそれを聞き流すはずはなく、弓を捨てて挑みかかる。
大将同士の組みうちが今まさに…というところで清正槍を拾いあげて突きかかる。
さしもの木山弾正も太刀と槍では勝負にならず、撃ち討られてしまった。
457人間七七四年:2009/11/22(日) 00:44:41 ID:9r9q7sCy
武家の嘘はなんとやらってやつだな
ってか大将が一騎打ちに応じるってあるのか
458人間七七四年:2009/11/22(日) 00:48:47 ID:E0QCiHij
既出
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-52.html

だが木山の名前が判明させたのはいい仕事だ!
459人間七七四年:2009/11/22(日) 03:12:04 ID:p3PkMTPF
伊達政宗、少年の記憶に刻み込まれる。


徳川家光の御世、寛永七、八年(1630〜31)頃、
江戸において、伊達政宗が金森重頼の屋敷に遊んだ事があった。

この時金森の屋敷の客の中に、旗本の兼松又四郎正吉もいた。
ちなみにこの兼松、天正元年(1573)の朝倉攻め、刀根山の戦いの活躍で、
織田信長より褒美として例の半足をいただいた、初陣は桶狭間と言う
歴戦の勇者である。

どうも政宗、この日既に酔っていたらしい。
政宗が屋敷の中を移動した折、この兼松の着ていた肩衣に触れ、これを
はじくような形になったのだが、そのまま何の挨拶もなく通り過ぎようとした。

「待たれよ政宗殿!」

兼松は呼び止めた。
いくら太平の世になったとはいえ、この時代の武士である。このような無礼、
刀を抜いて血を見る事態になってもおかしくは無いのだ。
が、兼松はそこをぐっとこらえ、懐から扇を取り出すと

『パンパーン!』

と、政宗を二発叩いた。

政宗、これに怒る、かと思いきや、何でもないような顔をして
犬坊という十番切(幸若舞の一つ)を舞いながら

「打って腹立ちが収まるなら、いくらでも打てばよかろう。」

と、静かに言った。
個人的にはどうにも挑発しているようにしか思えないのだが、まあとにかく、政宗にしては、
諸侯の長老らしく、平和裏に大人の態度で事を済ませようとしている、かに見えた

「しかし考えてみれば、もしわしが同じように肩衣をはじかれたら…」

ここまでは

「その時は…それをした奴を逃がしゃしねえぞ!!」

政宗、突然脇差に手をかけた!
なんだか解らないが、自分が同じことをされた場合を想像したら、怒りのスイッチが
入っちゃったらしい。なんとも困った爺様である。
やっぱりこうなったか!と、傍にいた者達、一斉に政宗に取り付いた。
こうして政宗を身動きできなくしたことにより、その場はどうにか無事に済んだ。
とのことである。

これは、後に島原藩初代藩主となり、島原の乱で荒廃した地域の復興に尽力した
松平忠房が、12,3歳の頃にその場で見た事なのだそうだ。
460奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/11/22(日) 03:38:57 ID:OOOjBe43
兼松という苗字は、岐阜県加茂郡坂祝町でダントツの人口を誇る。
461人間七七四年:2009/11/22(日) 05:54:45 ID:2k0n8zPM
兼松さんも蘇ったのか…?
462人間七七四年:2009/11/22(日) 10:37:15 ID:Eejrqtwe
兼松さんは1627年に86歳で家族に看取られて大往生を遂げたはずじゃ・・・。政宗は本人が生き返ったり、相手が生き返ったり忙しいな。
463人間七七四年:2009/11/22(日) 10:46:45 ID:IoOWHJoG
>>459
途中まで今日の政宗は一味違うと思ってたら…

やっぱりいつもの政宗でしたかw
464人間七七四年:2009/11/22(日) 13:22:05 ID:f6nCRt4t
>>459
俺の知ってる話だと、

政宗「微禄の旗本ふぜいじゃ相手にしねえよ」

って穏便にすましてたんだが・・・
どうしてこうなった
465人間七七四年:2009/11/22(日) 14:55:32 ID:Y7fiNRWD
DQがN龍の二つ名のなせる業としか。
466人間七七四年:2009/11/22(日) 16:01:41 ID:Nl1q+4lQ
>>464
ソース忘れたけど俺の知ってる話だと
金森さんが仲直りの杯用意したけど、まだキレてた兼松が杯投げつけて粉々にするオチと、
兼松が帰る時、政宗が兼松の袴の裾踏んづけてブッ倒して鼻で笑うオチの2パターンある。

また、『葉隠』だと
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2498.htmlの旗本は
「若松又七郎」になってて、>>459が九州に変化した形で伝わったと思われる。
467人間七七四年:2009/11/22(日) 18:09:59 ID:nHISOxUn
ある大名が小野次郎右衛門を招いて
「あなたの手筋を見たいという配下がいるんだけど見せてくれない?」
次郎右衛門
「それは仕合を望むということですね?遠慮は無用、相手をしましょう」

いざ試合となると木刀を逆に執って
「余計な事を望むな。怪我するだけ損だぞ」
相手の木刀を叩き落したうえで両腕を打った

「見えたか」
と一言って身を引くと「多分腕が折れてるよ」と平然をしてる

相手はその後両手の自由を失ったそうな
468人間七七四年:2009/11/22(日) 18:17:28 ID:HPrp6dsm
>>467
小野さんはえげつない話が多いよね。
武芸者の興行に飛び入り参加して優勝してみたり。
469人間七七四年:2009/11/22(日) 18:18:55 ID:Mp0hRGqL
容赦ねぇなw
470人間七七四年:2009/11/22(日) 19:03:03 ID:eSdyeDTU
天下人の自信

小田原攻めの間とも、開城後、奥州に向かうときともいわれていますが、
武田信玄や上杉謙信の話が出たとき、秀吉公はこう言いました。

「謙信よ、信玄よ、早く死んで良かったな。生きていれば俺の部下だ。」

頼朝公と友達
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-846.html
だったり、さすがです。

これを聞いた人も、確かにその通りだと思ったそうです。
471人間七七四年:2009/11/22(日) 19:18:39 ID:KN9AsmWU
俺の部下になれたのに残念だなあ
と言わないところに部下への接し方が見える
のはうがちすぎですかね
472人間七七四年:2009/11/22(日) 19:20:50 ID:+Jkpt57T
さすがラスボスw
頼朝はまだ分かるけど、信玄・謙信とか織田の武将の時に手こずらされてたくせに
信玄・謙信が和睦して共同戦線張られてたら、織田家はヤバかっただろw
473人間七七四年:2009/11/22(日) 19:22:20 ID:53rcG7Jm
謙信よ、信玄よ、早く死んでよかったな(キリッ
というやる夫AAで即座に再生されたw
474人間七七四年:2009/11/22(日) 19:37:36 ID:40TOW4n3
ラスボスは逸話中の発想のスケール感がマジ半端無い
475人間七七四年:2009/11/22(日) 19:39:09 ID:imWIl5DO
まあでも実際に、1590年の時点で信玄や謙信が生きていても、
秀吉に服従するか北条と一緒になって滅ぼされるかしかなかったろうな。
476人間七七四年:2009/11/22(日) 19:52:53 ID:5t8982ql
信長、そして信忠までもが死んでくれて良かったな>秀吉
477人間七七四年:2009/11/22(日) 19:57:37 ID:HI5SoZ4G
>>476
ラスボスのことだから、邪魔なら用済みとばかり、
信長でも信忠でも始末したのでは?
478人間七七四年:2009/11/22(日) 20:03:29 ID:HPrp6dsm
>>477
そのどちらか片方健在なら秀吉の天下取りはかなり難しくなると思う。
織田家内での内紛という状況にならないと。
479人間七七四年:2009/11/22(日) 20:05:09 ID:5t8982ql
>>477
いくらラスボスでもそれは無理だろ・・・例えば誰が秀吉につくんだ?
蒲生とか堀とか丹羽などは命がけで織田につくだろう
480人間七七四年:2009/11/22(日) 20:05:17 ID:PEGGhkV7
ifの話は嫌いじゃないがその辺にしとけ
スレの趣旨から些か外れてしまう
みんなで楽しくやろうぜ
481人間七七四年:2009/11/22(日) 20:06:59 ID:Mp0hRGqL
うん、本能寺スレでやろう
482人間七七四年:2009/11/22(日) 21:21:46 ID:OsR8rSQs
上杉二十五将にも数えられた甘糟景継は、謙信に見出された剛勇の将であった。
しかし、関ヶ原の戦いの折、預かっていた白石城を伊達政宗に奪われてしまう。
以後、上杉景勝には冷遇されたといわれる。

これを聞き、実にもったいないと思ったのが徳川家康だ。
家康は自らの旗本に招きたいと思い、畠山下総守に勧誘させた。
景継は京の畠山屋敷に呼び出され、本多正純の書付まで示されて説得を受けた。
しかし、景継は頑として断り続けた。
「白石での失態は、すべて自分が悪いことです。
主君が怒るのは当たり前のことで、恨みに思うなどとんでもない。
上意はまことに有難く存じます。
しかし、どうかどうか、このまま譜代の主に仕えることをお許しください」
景継はそう言い、涙を流した。
家康はこの話を聞いて感動し、「だからこそ欲しいのだ」と悔しがった。

さて、どこから漏れたのか、景勝にもこの一件が聞こえてしまった。
景勝は感動などしなかった。逆に怒った。
「わしに隠れてこそこそと畠山に会うなど、分を超えている。言語道断」
以後、いよいよ甘糟を疎み、景継は不遇のまま死去した。
子らは甘糟家の相続の沙汰下らず、津軽へと流れていったという。

(続武者物語)
483人間七七四年:2009/11/22(日) 21:27:14 ID:+Jkpt57T
景勝酷過ぎでドン引きした
484人間七七四年:2009/11/22(日) 21:28:28 ID:gZTCpWkT
景勝器小さいと率直に思ったが、そう思っちゃっていいのだろうか…

昔からどうも景勝からの上杉は苦手だな
理由は分からないが
485人間七七四年:2009/11/22(日) 21:30:19 ID:p3PkMTPF
>>482
この甘糟景継は、大河ではパパイヤ鈴木がやってた人…w

甘糟が疎んじられたのは、次男がキリシタンだった部分もあるのかもね。
486人間七七四年:2009/11/22(日) 21:46:57 ID:LjaJH3t2
>>464
神保 相茂「わしは7000石じゃ!」
487人間七七四年:2009/11/22(日) 22:25:49 ID:zx3i3eST
上杉将士書上で上杉四天王に名を連ねる程の勇士なのに同族の景継よりもマイナーな
扱いにされている甘粕景持。
488人間七七四年:2009/11/22(日) 22:37:28 ID:+Jkpt57T
なんか上杉家臣団自体が他の有力大名と比べると影が薄い感じ
良くも悪くも謙信のカリスマ性が喧伝されている
489人間七七四年:2009/11/22(日) 22:42:59 ID:V/RC7kng
まあバラバラでまるで結束力の無い因縁だらけの家中を
謙信がカリスマと力業でねじふせてまとめていたようなもんだからな……
490人間七七四年:2009/11/22(日) 22:43:33 ID:qXAuPcaf
小牧・長久手の戦いでの事である。この時、秀吉方について戦っていた池田恒興が
家康配下の永井直勝に討ち取られた。さらに、恒興の長男元助も一緒に戦死した。ここまでは
皆さんもご存知と思います。さて、父と兄の戦死を知った池田輝政は
「父上と兄上が戦死した!?おのれっ!者ども続けぃ!父と兄の敵をとる!」
と敵陣に突っ込もうとした。しかし、この時輝政の馬廻りとして仕えていた某(名のある人物ですが失念)という男は
「なりませぬ!もし輝政様まで討死という事になったら御家はどうなります!ここは耐えられませ!」と輝政の馬の手綱を放そうとしなかった。
これに輝政は「ええぃ、離せっ!離せと言うに!」と男の頭を持っていた指揮棒で血まみれになるまで叩いた。それでも某は手を離さなかった。
そうこうしてる間に、秀吉と家康は和睦し戦は終結した。しかし、輝政は内心面白くなかった。父と兄の敵を討てなかったからだ。さらに、それを邪魔した某の事も許せなかった。
結局輝政はこの事を死ぬまで根に持ち、某を昇進させなかったという。しかし、跡を継いだ利隆はこれに感謝し某の息子を取り立て、譜代の列に加えたという。いい話か悪い話かは微妙ですが、長文失礼
491人間七七四年:2009/11/22(日) 22:53:03 ID:+Jkpt57T
景勝も輝政も、そこは感謝しとけよw内心感謝していたのかもしれんけど
利隆は良く忠義に報いた
492人間七七四年:2009/11/22(日) 22:59:07 ID:p3PkMTPF
池田利隆は若くして死んだけど、名君の聞こえの高い人だったそうな。
493人間七七四年:2009/11/22(日) 23:15:29 ID:rTxsVh6z
謙信って若い頃は領土裁定に行き詰まって逃げ出したのにな
なんだかんだでよくまとまったよな
494人間七七四年:2009/11/22(日) 23:34:19 ID:/+zulvIK
御館の論功行賞はそれは酷いものだったらしいからな。
495人間七七四年:2009/11/23(月) 00:09:45 ID:yO/h8IYP
論功行賞って武家に限らずかなり重要だモンな
新潟の実家の近くの城任されてた武将たちは、ほとんど景虎側について没落しちまったらしい
496人間七七四年:2009/11/23(月) 00:27:10 ID:VRrKsZIm
>>490
何で見たか忘れたけど輝政の従者が気をきかせて輝政に
「親父も兄貴も戦線を離脱しましたよ。私達も離脱しましょう」
って言って撤退させた話も聞いた事がある。
497人間七七四年:2009/11/23(月) 00:30:07 ID:jgdlniVm
石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の処刑が、いよいよ行われると言う時のことである。
その日は三人の最後を見ようと、京中の老若男女が刑場を十重二十重と囲んだそうだ。

このころ、京の時宗六条派の本山、六条道場(歓喜光寺)の上人は、
処刑される罪人に引導をわたす役目を受け持っていた。

この日も道場の上人は弟子、出家を率いて、三成ら三人を待っていた。
が、この三人、上人による引導を、無役だとして拒否した。
何故無益か?

石田三成は
「自分は法華宗であり、念仏を信仰しない」

小西行長は
「自分はキリシタンであり、そもそも念仏を必要としない」

そして安国寺恵瓊は
「南禅寺の長老まで務めた自分が、いまさら引導など必要が無い」

こう言われてかの上人、すごすごと立ち退き、その姿は京童たちに、
大いに笑い囃されたそうである。


六条道場(歓喜光寺)上人の、ちょっと恥ずかしい話。
498人間七七四年:2009/11/23(月) 00:33:32 ID:9NEidfGo
同じ家を三度出奔した男・相良武任

相良武任は大内義隆に右筆として仕えた男である。
義隆に寵愛され右筆以上の権限を持つようになってからは大内家の武断派、特に陶隆房から激しく嫌われていた。
そんな天文14年4月、武断派奉行による掟書が出される事になる。
殿中並びに私の銭、近年殊に過麗に及ぶと云々〜で始まるそれは「武を忘れるべからずの精神」を説いたもので、
尼子攻め失敗以来すっかり文弱になった義隆とそんな義隆を甘やかす武任をあてつける内容だった。
家中に居づらくなった武任は剃髪して本家である肥後相良氏を頼って逃げだした。
天文14年5月、武任出奔。

これに困ったのは義隆である。
肥後の安国寺に説得を依頼し、義隆自身も手紙を出して必死に説得した。
3年近く続けられた義隆の説得に、そこまで必要としてくれるなら…><と武任、大内家に戻ることを決意した。
天文17年8月、武任再出仕。

これにイラついたのはもちろん陶隆房と武断派である。
この頃から武断派は武任だけでなく義隆にも反感を抱くようになっていた。
・天文18年1月、陶隆房・麻生余次郎間の密約を露見させた家人を麻生が殺害→義隆直々に隆房を詰問
・同3月から5月まで山口に滞在していた毛利元就御一行と隆房が内密に連絡をとり合っている噂
など不穏な空気が家中に漂う。天文19年9月になると隆房による義隆・武任幽閉計画の噂が立ち、
二人はそれを警戒して予定されていた神社参拝とりやめた。
その数日後には逆に義隆による隆房暗殺の噂が立ち、隆房は自邸の警護を固めた。
どちらも噂で済んだのだが武任は怖くなった。このままではやばい。
天文19年9月、武任再々出奔。

武任は逃げた。剃髪して石見の吉見正頼を頼り、船を使って筑前まで逃げた。
筑前守護代杉興運の庇護を受け、花屋城をもらってそこで暮らしていた。
が、逃げたままでは面目が立たないと思ったのか、あくる日筆を持ち自身を弁明をする書状を書く。
これが「相良武任申状」である。自己弁護の他に、
「隆房が謀叛起こすって噂があるけど、この噂を広めたのは杉重矩です><」
「てか重矩も隆房を嫌ってたくせに今になって隆房方についてるねー、ホント不思議だわw」
などと杉重矩を非難する内容もあった。
ある意味これは的を射ており、杉重矩の未来に暗雲をもたらす事になる…がそれは置いといて
これを読んだ義隆、武任を呼び戻した。
天文20年1月、武任再々出仕。

山口には天敵・陶隆房の姿はなかった。
隆房は武任が再々出仕する二ヶ月前に暇乞いを願い出て富田に引きこもっているのだ
謀叛の空気をひしひしと感じていた武任は逃げ出すタイミングを探していた。
天文20年8月10日、武任再々々出奔。

吉見正頼に義隆の密書を届けると、武任は筑前に逃げた。
そして天文20年8月29日、隆房はいよいよ山口に攻め入った。
この報を聞いた武任は花屋城に立てこもった。もう逃げる場所はない。呼び戻してくれる主もいない。
陶軍は容赦なく花屋城を攻め落とした。
享年54歳。首は山口に送られ隆房によって晒し首にされましとさ。

その後、相良武任申状のことを知った隆房は杉重矩も殺しました。
彼も晒し首です。
499人間七七四年:2009/11/23(月) 01:11:56 ID:M0ok+of3
同じ名門でも小田とはえらい違いだな
やはり当主の差か
500人間七七四年:2009/11/23(月) 01:24:31 ID:yO/h8IYP
>>497
この三人打ち合わせしてたんじゃないかって位息ピッタリだなw
501人間七七四年:2009/11/23(月) 01:45:25 ID:rNv9d4qv
>>498
陶隆房って短気と言われる割によく我慢してるな
502人間七七四年:2009/11/23(月) 02:26:35 ID:XzE7mT1p
道灌の再来とも呼ばれた名将資正でバックに軍神と鬼が・・・
これで瞬殺されない氏治は名将ではないか?
503人間七七四年:2009/11/23(月) 06:05:55 ID:M0ok+of3
>501
大内の一族で誇りもあるだろうしだし寵愛されてもいたし、昔の義隆を知っていたから佞臣さえ除けばという思いがあったんじゃないの
504人間七七四年:2009/11/23(月) 08:22:32 ID:w59Gbmlw
>>502
名将かどうかはわからないけど、当時の人たちの評価を聞いてみたい
身内や敵側とか、だれか日記にでも書いてないかな
505人間七七四年:2009/11/23(月) 08:41:20 ID:M0ok+of3
>495
あれは上田と古志の代理戦争でしょ?

しゃあないんでは
景勝に器量があれば結果も変わったんだろうけど
506人間七七四年:2009/11/23(月) 10:04:49 ID:kMnlZhAM
このスレでの氏治様のあまりの活躍っぷりに
太閤立志伝Vで氏治様に仕えたんだけど、
弁舌系の能力がちょっと高かった。
何かそういった話が上手かったとか、敵を
罠に掛けたみたいな逸話でもあるんだろうか?
507人間七七四年:2009/11/23(月) 10:28:53 ID:fpT2gtDA
>>506
小田の立地を見てくれ
北→上杉勢力(軍神二度裏切ってる)
東→鬼佐竹(南北朝からの宿敵)
南→北条黄金期(伯父の仇)

軍事能力底辺&この状況で滅ばないにはどうしたらいいってんだw
508人間七七四年:2009/11/23(月) 10:32:42 ID:9XbKkv2U
西には何もないのか?
509人間七七四年:2009/11/23(月) 10:34:22 ID:fpT2gtDA
>>508
西も北条
510人間七七四年:2009/11/23(月) 10:39:25 ID:YDvqbEiK
>>504
当時とはとても言えないが、興味深いものを発見したので載せてみる。


茨城における戦国末期の合戦を記録したもので、
おそらく江戸時代にできた東源軍鑑(写し)という資料がある。
もっとも、文中で永禄元年と前置きしながら
佐竹の当主が義宣だったりとツッコミどころはあるが。

そこの一項目で、佐竹義宣小田天庵(氏治)確執之事という章がある。

四海大いに乱れ国土穏やかならず、
楽しいことも無く人々は餓えている、
なんとも浅ましい世の中だった…

という出だしで始まるわけだが、問題はその後。

この時代にあって、
佐竹義宣と小田氏治の二人は智仁勇の三徳を備えていた。
両虎であり、二龍であった。


ど う し て こ う な っ た 。
511504:2009/11/23(月) 11:15:29 ID:vkfgOXR8
>>510
虎と龍で知勇兼備wwwwwwwwww

地元の人が書いたのかな、ありがとうw
512人間七七四年:2009/11/23(月) 11:17:42 ID:/ddIaKoD
小田氏治が虎であり龍であったとか違和感が凄いw
513人間七七四年:2009/11/23(月) 11:32:22 ID:XzE7mT1p
>>504
記憶ですまないが直江兼続が古今東西大小問わず名将を上げろ言われて
大はもちろん謙信公で小は三楽斎以外に無しとか言ったとかなんたらかんたら。
地元のさいたま市は議会で岩槻城を築城したのは成田氏でなく太田道灌。
理由は有名人だからキリッ
なんか歴史捏造してないでもっと太田三楽斎を評価すべき。
514人間七七四年:2009/11/23(月) 11:37:08 ID:SrcdzMvq
>>506
俺も触発されて太閤立志伝5、小田氏治でやり始めたんだが、
居城が土浦城になってて、小田城が佐竹の城になってるのを見て笑った。
515人間七七四年:2009/11/23(月) 12:00:24 ID:vlflKzfn
>>514
ゲームスタートして即小田城を攻めるべきだろ、小田氏治的にw
516514:2009/11/23(月) 12:08:15 ID:XzE7mT1p
>>504のレスを勘違いしてた

>>510
ゴクリッ・・・
517人間七七四年:2009/11/23(月) 12:11:07 ID:9XbKkv2U
>>510
なんなんだ、その三國志演技のような書き出しはw
518人間七七四年:2009/11/23(月) 12:14:37 ID:U7Ibx9Io
上杉、北条、佐竹らに囲まれた戦国真っ只中の関東で戦い続けた男
不屈の闘将、小田氏治さんカッコイイ!
519人間七七四年:2009/11/23(月) 12:17:29 ID:fpT2gtDA
少なくとも江戸時代には小田氏治を敬愛の眼差しで見つめる人間が存在したというわけだな
そして更に現在、ネットの片隅とはいえその名前が語られる氏治

ここ数日の流れのせいで妙に好きになっちまった
520人間七七四年:2009/11/23(月) 12:22:05 ID:vkfgOXR8
氏真がなかまになりたそうにこちらをみている
521人間七七四年:2009/11/23(月) 12:26:05 ID:fpT2gtDA
>>520
氏真はさ、今川義元の息子でありながらああもさっぱり諦めちゃった潔さ良さが凄いんだよ
で、小田氏治は小田原攻めでゲームオーバーするまで決して諦めなかった異常な執念深さが凄いわけで
この二人は共に武将としての才能が乏しいということ以外は真逆だと思うんだ
俺は二人とも好きだが
522人間七七四年:2009/11/23(月) 12:46:42 ID:kMnlZhAM
>>514
家臣誰もいないんだよね。w
忠臣団が必死の抵抗 or 小田城奪還する
ところが見たいのに…。

しかしこのスレでも人気が出てきたということは、
氏治様には天性の人気(じんき)があったん
だろうなぁ。
523人間七七四年:2009/11/23(月) 12:50:46 ID:gimmsbwK
人徳とガッツは正直かなわん
524人間七七四年:2009/11/23(月) 12:56:56 ID:9XbKkv2U
>>522
なに「のぼうの城」みたいなことを言ってるw
あれは色々と粗い小説だったな
525人間七七四年:2009/11/23(月) 13:03:27 ID:jhImjQOs
関東八屋形は個性派揃いだもんな〜。
526人間七七四年:2009/11/23(月) 14:17:49 ID:ov8YGJKg
>>522
いなけりゃ新武将で作ればいいじゃない
527人間七七四年:2009/11/23(月) 15:35:01 ID:90mdE6d7
文禄元年(1592)、蒲生氏郷は朝鮮の陣に備え、会津から肥前名護屋に行くことになった。
出立に及んで氏郷は重臣の蒲生左文郷可を呼び、米沢城代として執政の職に着くよう
申し渡した。しかし、郷可はこれを断った。
「ならば、誰か他にお前の代わりが務まる者がおるのか?」
「四郎兵衛がよろしいかと。」

蒲生四郎兵衛郷安は、郷可と仲が悪かった。郷可がそれを置いて郷安を推挙したことを
氏郷は良しとして、米沢城を郷安に授けた。
しかし一抹の不安を覚えた氏郷は、米沢に近い中山城を郷可に授け、
「当家に敵対していた者でも、良き者であれば召抱えよ。」と二人に言い、九州へ向かった。

しばらくして後、郷可の家臣が米沢城下を通り過ぎようとした時、郷安の手の者に囲まれ
米沢城に拉致されるという事件が起きた。
「おのれ、四郎兵衛!殿に推挙した恩も忘れ、何をするか!?」
「ふん、わしは殿の仰せに従ったまでよ。殿は「良き者を召抱えよ」と申されたではないか。
わしの城下にいた「良き者」を城に連れ帰って何が悪い?」
「貴様ァ――――ッ!!」

激怒した郷可は、実弟の上坂源之丞、郎党の上坂左介、松下半兵衛、若宮三郎兵衛、
松田七兵衛、寄騎の布沢勝左衛門、伊南弥五郎、横田某などに兵を集めさせた上に、
“米沢からの攻撃に備えるために”中山城を改築した。
一触即発の自体に蒲生郷成・真令(備中)らが調停に乗り出し、事は一応の決着を見た。

3年後の文禄4年、氏郷の急逝後、郷安は政務を独占し、これを批判した氏郷の近習筆頭
だった亘理八右衛門を郷安が暗殺すると、再び他の重臣と郷安は対立。
この騒ぎが太閤秀吉の耳に達し、蒲生家は会津92万石から宇都宮12万石に大減封され、
家臣団は散り散りとなった。

信濃なる 浅間の岳は 何思ふ 我のみ胸を 焦がすと思へば

塾長不在の蒲生男塾の話。↑は、氏郷が名護屋へ向かう道中で活火山・浅間山を見て
詠んだ句と伝わる。
528人間七七四年:2009/11/23(月) 17:34:42 ID:zuZxf8Xf
>>510
まあ仁はあるだろう。婦人の仁かもしれんが。
勇もあるだろう。なかなか真似できることではない。
智は…うーん……ダメだ思いつかない。
529人間七七四年:2009/11/23(月) 17:45:53 ID:8D0WbpR0
>>528
勇もやや「匹夫の勇」気味だと思う。
人徳ある代わりに武勇の足りない項羽?


よし、項羽には届かないってことで小覇王と呼ぶか。
530人間七七四年:2009/11/23(月) 17:59:36 ID:ftJB0CC0
孫策が小田城に総攻撃を仕掛けたようです。
531人間七七四年:2009/11/23(月) 18:04:02 ID:vlflKzfn
>>528
誠の「知」とは決断する事と言いますぞ。
そして氏治の決断には一切の迷いが無い。

つまり小田氏治公は、智仁勇を兼ね揃えた真の大将といえようw
532人間七七四年:2009/11/23(月) 18:13:59 ID:YtjmM3th
>>521
小田の地を取り戻すためなら何度も立ち上がる不屈の闘志「小田氏治」
家名を繋ぐ為なら父の仇の前で蹴鞠も辞さない貴公子「今川氏真」
偉大な父の陰でボンクラ息子扱い けど領地は広げたぜ「北条氏政」

我等、人呼んで氏ボンクラーズ
533人間七七四年:2009/11/23(月) 18:19:03 ID:t5qZ3gEQ
>>527
蒲生姓もらった人達同士かな
しかし急造の大所帯だけに、まるで家中の和がない・・w
534人間七七四年:2009/11/23(月) 18:25:38 ID:fpT2gtDA
>>532
待て待て流石に氏政をその二人と一緒にするのはひどいんじゃないか?
他に氏で居ないのか
535人間七七四年:2009/11/23(月) 18:36:11 ID:jgdlniVm
>>534
北条氏に小弓公方を滅ぼしてもらって嫁までもらったのに、
その影響力から抜け出ようとして上杉に味方したら、河越夜戦でフルボッコにされました!

古河公方、足利晴氏です!
536人間七七四年:2009/11/23(月) 18:40:11 ID:YtjmM3th
もう一人いればゴレンジャーだなw
537人間七七四年:2009/11/23(月) 20:20:53 ID:ov8YGJKg
女の怨霊に振り回されて79代目で無詞断絶!

宗像大宮司  宗像氏貞!
538人間七七四年:2009/11/23(月) 20:36:59 ID:jhImjQOs
小田じゃなくて織田って書いてたら良かったのに字数が悪い。
誰か小田八犬伝でも書いてやれよ。
539人間七七四年:2009/11/23(月) 21:19:56 ID:EktsIjpb
>>529
小覇王の小は届かないとか縮小版って意味じゃない
540人間七七四年:2009/11/23(月) 21:27:20 ID:queEP3ux
太閤殿下に内通したのに、娘と家臣のせいで見棄てられたでござる

成田氏長!
541人間七七四年:2009/11/23(月) 21:41:11 ID:YtjmM3th
豊穣の影響なのか氏がつく奴関東に多いな
北条は今川からもらったのか
542人間七七四年:2009/11/23(月) 21:43:04 ID:5bQfN8X9
足利じゃないの?
543人間七七四年:2009/11/23(月) 21:51:55 ID:YtjmM3th
関東公方の通字か、d
544人間七七四年:2009/11/23(月) 21:55:05 ID:+fjkIjsR
>>541
>>542
早雲の諱がいまいちはっきりしないからなぁ。
定説通り諱が盛時で長氏や氏茂が間違いなら、
氏が付き始める息子の氏綱が、
今川氏親からもらったと考えるのが自然かな?
素人の勝手な推測だけど…。
545人間七七四年:2009/11/23(月) 22:30:47 ID:jgdlniVm
伊達政宗が鷹狩りに出かけたある時、その途中で芝の上に寝転がり、
よほど気持ちが良かったのか、そのまま昼寝を始めた事があった。

政宗、スヤスヤと寝入ったが、この時俄かに雨が降り出す。
付き従っていた近習が、政宗を起こした

「殿、雨が降り出しました。目をお覚まし下さい。」

が、気持ちよく寝入ったところを起こされた事は、独眼竜の逆鱗に触れた

「誰が起こせといったーーーー!!!!」

政宗、傍に置いた刀を抜くと、刃をその近習に向けた!
寝起きの独眼竜の目は本気だ。近習、逃げる。が、逃げられれば政宗も当然追いかける。
そのまま2,30間(4〜50メートル)ほども、抜き身の刀を振り回しながら追いかけた。

これが、政宗に雨が降りかかる事を心配した、その結果の出来事なのだ。

近習、逃げているうちに、流石にその馬鹿馬鹿しさに気がついた。
はた、とその足を止める。そしてくるりと振返ると、そのまま政宗の前につかつかと歩み寄り、

「君臣の礼もこれまででござる!さあ!お手に懸けられよ!」

と、その場に胡坐をかいた。『もう勝手にしろ!殺すなら殺せ!』というわけだ。

おそらく途中から追いかけることが面白くなっていた政宗、こう言う態度に出られて
ふと冷静に戻ってしまった。しかし振り上げたこの刀、さて、どう治めたものか?
そうだ!

「何を勘違いしておる!?」

政宗、近習を叱り付けた

「わしはお前を斬ろうとして追いかけたわけではない!」

「ええっ!?」あんた、殺る気満々だったじゃないか!?
近習が吃驚した顔を向けると、政宗、

「わしは、お前がわしを起こしてくれた褒美に、この刀を与えてやろうと思って
追いかけたのだ。それをわしが殺そうとしたように取るなどとは、まったく、ひどい思い違いだ。」

と、抜き身の刀を投げ出して、その近習に与えた、とのことである。


これを記録した江戸期の書物には、このような事が書かれている

『政宗に関しては、この手の変人行為の記録が大量にあるんだけど、
多すぎてきりが無いし、スペースも足りないので、あえてこれ以上記載しない事にする。』

全部書いてくれればよかったのに。おしい。
546人間七七四年:2009/11/23(月) 22:37:37 ID:5yleT5yf
政宗、テラ半端www

DQNエピばかり載せて、伊達家からクレーム付くと嫌だから加減したのかな
547人間七七四年:2009/11/23(月) 22:40:07 ID:/ddIaKoD
何故、全部書かない?
548人間七七四年:2009/11/23(月) 22:42:03 ID:GpqN2Vwa
>>545
>これを記録した江戸期の書物
ちなみにこれは何?
549人間七七四年:2009/11/23(月) 22:44:44 ID:YtjmM3th
書くのが億劫になるほどよくある事だったんだよ、多分
550人間七七四年:2009/11/23(月) 22:47:30 ID:jgdlniVm
>>548
関ヶ原軍記大成です。
551人間七七四年:2009/11/23(月) 22:49:57 ID:jhImjQOs
まぁ先天性池沼だから障害者差別記録は江戸時代も気分のよいものじゃなかったんだろ。
552人間七七四年:2009/11/23(月) 22:51:41 ID:GpqN2Vwa
>>550おk
553人間七七四年:2009/11/23(月) 23:21:51 ID:9RabIy3v
本当にもっと書いてくれれば良かったのにwww
554人間七七四年:2009/11/23(月) 23:43:30 ID:nPn4V2DX
その当時にこのスレがあれば!
555人間七七四年:2009/11/23(月) 23:46:23 ID:aPcczLft
>>554
大規模規制されるんじゃないかな
556人間七七四年:2009/11/24(火) 00:12:16 ID:6/Z/C6bW
まぁ、先天性池沼は戦国時代板にも一人いるけどなw
557人間七七四年:2009/11/24(火) 00:25:07 ID:g5Ci0s65
鐘巻自斎さん弟子にボコられる

鐘巻自斎の弟子の一人が
「剣術の妙を悟りました」とか言い出した
これを聞いて自斎先生は怒った
「舐めるな若造、数年の修行で身につくわけがないだろ」
「こういうのは教えてもらうもんじゃないし、年数とかも関係ないし」
「調子に乗るな、剣術の奥深さを思い知らせてやる」
が、あっさり敗北
二度目も負け
三度やってもやっぱり負け

この後二人で剣談とかあって、なんか覚っちゃった自斎先生
「オレの極意とかもう不要かもしれないけど一応教えておくわ」
ってことで秘伝を授けた

この弟子が後の伊藤一刀斎景久である
558人間七七四年:2009/11/24(火) 00:35:01 ID:LthTeKIT
>>547
書き手「私は真に驚くべき逸話を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる」
559人間七七四年:2009/11/24(火) 00:42:45 ID:DP4zYIHQ
>>558
権現様〜呼ばれてますよ〜
560人間七七四年:2009/11/24(火) 00:43:31 ID:DP4zYIHQ
しまった誤爆
富田さんの軍の前に飛び出てくる・・・
561人間七七四年:2009/11/24(火) 01:04:37 ID:fW1F3Ltf
>>531面接官『あなたの長所と短所を教えてください』
小田氏治『はい、長所は決断力です、短所は判断力です』
562人間七七四年:2009/11/24(火) 01:45:48 ID:v52vudoH
典型的な無能な働き者タイプですね
563人間七七四年:2009/11/24(火) 04:15:06 ID:QzUJ3Rdr
>559
誤爆?

スペースがなくなるっていってどんどん字を小さくしていったの誰だったっけか
忘れちゃった
564人間七七四年:2009/11/24(火) 08:08:17 ID:HaLycqAo
>>563
たぶん、↓の逸話だと思う。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3090.html
だから、誤爆なんだけど、正確に目標に命中してたりするw
565人間七七四年:2009/11/24(火) 09:11:28 ID:fSIPkzDq
558じゃないけど
>>558の元ネタはフェルマーの最終定理だな。
17世紀なので一応同時代だし。
566人間七七四年:2009/11/24(火) 09:12:43 ID:Ac0kr6F1
>>558
どっかの数学者の逸話というか所業だったっけ?
567人間七七四年:2009/11/24(火) 12:03:36 ID:fd3BhjP8
昨日のまとめで蒲生さんと相良さんの三回出奔の話で思い出したけど、関ヶ原時に石田三成のとこにいた蒲生郷舎も蒲生騒動その他、蒲生家中で他の重臣とうまくいかなくて出奔、放逐してるんだよね、蒲生家が代替わりする毎に出奔→帰参みたいな。
それでも何度も帰ってくる、なんか。
「べ、別に好きで帰ってきたんじゃないんだからね!あんた(時の蒲生家当主)が頼りないから仕方なく戻ってきてあげたんだから!」
て、心の声が聞こえてきた。
最後は幕府の介入もあって蒲生家放逐となり没年が不明ということは他家には仕えなかったのかな?寂しい最後だったんだろうな…。
殺された相良さんよりはマシかもしんないけど。
568人間七七四年:2009/11/24(火) 14:55:39 ID:vL4A8Vji
>>567
渡辺勘兵衛みたいに奉公構までされときながら
銭湯経営して小金稼いで時々知り合いの大名の所に遊びに行く
なんて人もいるからニンともカンとも

まあ結局はその人の才覚に寄るんだろうけど
569人間七七四年:2009/11/24(火) 17:47:32 ID:WOMkoNTq
島原の乱の討伐に、知恵伊豆こと松平信綱が派遣された頃の話。

すでに、籠城する一揆軍は兵糧不足に陥り、困窮していた。
一揆の大将に、芦塚忠右衛門という者がいて、彼は様々に考え、一計を案じた。
城門の外で戦い、引き上げる際に兵糧をわざと残していく。
そうすれば、敵は籠城方の食糧潤沢と見て、兵糧攻めをとらないだろう。
彼はそう読み、三十ばかりも腰兵糧を置いていった。

さて、この報告を受けた幕府軍の本陣。
首脳達はさぞ動揺し……なかった。
「一揆衆って勇猛かと思ってたけど全然たいしたことないなw
さすが百姓、撤退戦で 狼 狽 し て 兵糧捨てて逃げやがったw」
なんの疑問もなく、一揆衆が総崩れしたと思い込む首脳陣。
知恵伊豆も「兵糧捨てるとかありえないねw」と一緒に笑う始末だった。

後からこれを聞いた人々は、
知恵伊豆は、世事には長けているが戦はてんで疎い、
芦塚という者も、通じもしない相手に策を練って、兵糧だけ失うとは、
と双方をあげつらったそうである。
570人間七七四年:2009/11/24(火) 18:26:02 ID:mpINyi4b
お詫びに一つ、いい話でも悪い話でもないですが、

世の中では武田信玄の西上への準備が本格化していた元亀四年(1573)の三月十九日、
近江では各地で洪水が起こり、田畑に大変な被害があった。
この時、野洲川から、巨大な牛のような生物が這い上がり、落合の堤防で啼いたが、
その鳴き声も牛のようであった。
しばらくすると黒雲が天より降りてきてその牛のような生物を包み込むと、
そのまま空へと上っていった。

またこの後、京の桂川で洪水があった時にも、嵯峨野嵐山の奥から梅津近辺まで、
濁流の中を、やはり巨大な牛のような物が泳ぎ下り、やがて水が引くとまた、上流へと
上っていったのだという。
巨体が波立つ河を泳ぐ時、巨大な牛の背のようなものが垣間見え、
その光景は背筋の凍るような恐ろしい物であった。
ただ、その生き物がどのような顔をしていたかは、誰も見ることが無かったそうだ。

そんな、京都周辺に現れた戦国のUMA話。
571人間七七四年:2009/11/24(火) 18:31:03 ID:mpINyi4b
あー、いい話スレのお詫びのつもりで書いたのにこっちに投稿してしまった!
…いろいろ駄目だな今日はw;
572人間七七四年:2009/11/24(火) 20:45:51 ID:n8CGIwPv
>>569
芦塚さんも考えた時はノリノリだったんだろうなw

横山三国志で「策とは相手の知能を見て立てるものです」みたいなことを孔明さんが言ってたな。
573人間七七四年:2009/11/24(火) 22:03:01 ID:NB8Ta7c3
>>571
まあまあ。
面白かったから、また逸話教えてよ。
574人間七七四年:2009/11/25(水) 00:40:57 ID:76ZWb+9K
>>572
 「知恵伊豆」の知恵は殆ど政治専門で軍略は糞だったでござる。
 ってことか。
575人間七七四年:2009/11/25(水) 00:45:25 ID:xlxJDe4X
正直、芦塚忠右衛門のやったこと自体が、江戸期の、しかも中期以降の軍学の臭いが強くて、
とてもじゃないが実戦的じゃないけどね。
576人間七七四年:2009/11/25(水) 03:49:07 ID:PiIPO0i3
戦談議は漏らしてでも聞けという時代でもないからな、仕方ないでしょ。
577人間七七四年:2009/11/25(水) 07:34:59 ID:KhORnkew
古い戦術だろうと使い方では役立つし
むしろ一揆軍の中にこうして知恵を働かせた人物がいた方が驚いた
578人間七七四年:2009/11/25(水) 07:53:44 ID:DTispAUH
一揆軍と言ってもも中核は元武士の浪人達だからね
579人間七七四年:2009/11/25(水) 08:32:24 ID:QAxoFcp1
でもしっかり兵糧攻めは続けているわな
580人間七七四年:2009/11/25(水) 09:08:34 ID:WItJaofx
>569の逸話の知恵伊豆は、「兵糧を捨てていくということがまずあり得ない」という点から、
城側の混乱や、軍事知識のなさを悟って笑ったってことじゃないのか?

知恵伊豆の揶揄されっぷりといい、かなり創作臭い。
581人間七七四年:2009/11/25(水) 10:38:39 ID:31AXLFR+
というか、城方が打って出るのに兵糧持って出るってのはありえるのかな。
携帯していった分がボロボロこぼれたんだとしたらみっともないし、
わざわざ荷駄を押し出してたりしたら相当間の抜けた話ということに……
582人間七七四年:2009/11/25(水) 12:34:19 ID:qWDrAPq8
腰兵糧って弁当みたいなものかな?
島原の乱には有馬家の遺臣とかが参加してて普通の百姓一揆では
なかったそうだけど、なんか追い詰められっぷりが痛々しくて泣ける

遠回しに「禄の少ない文官を総大将で投入って馬鹿じゃねーの」って
幕閣への批判もあったのかねえ
583人間七七四年:2009/11/25(水) 13:39:29 ID:oPhm01Q3
>腰兵糧
大名家によって違うけど、戦闘中にでも食べられる簡易食事。
当日の朝に作った握り飯だったり、干飯や焼き味噌、芋茎とか、
いつでもどんな状況でも食える携帯食料。
現代で言うならカ○リーメイトあたり。
584人間七七四年:2009/11/25(水) 13:44:33 ID:O0ucLJ5a
今日は大事な作戦の日だ!

さあパスタを茹でよう
585人間七七四年:2009/11/25(水) 14:18:07 ID:BhxV/7Qk
>>584
ヴェネチアーノ 乙
586人間七七四年:2009/11/25(水) 15:49:52 ID:bLofNM9w
今度は伊太利亜抜きで戦ろうぜ!
587人間七七四年:2009/11/25(水) 16:22:23 ID:/zurrEmc
そういえばちょっと前に今川氏真に最後まで仕えた朝比奈泰朝さんちが
先祖代々伝えていた朝比奈ちまきっていう、
兵糧向けのちまきを地元の人が再現した
っていうニュース見たなあ
家康にも供されたことがあるんだそうな
588人間七七四年:2009/11/25(水) 16:59:24 ID:qWDrAPq8
>>583
カ□リーメイトw
・・・大事な食糧を捨てて逃げたつもりが、武士達の目には
食物に見えないくらい粗末だったというオチだったら号泣する(´・ω・)
島原はほんと切なすぎる
589人間七七四年:2009/11/25(水) 17:19:17 ID:hJKQ2rJ5
>>587
朝比奈泰朝さん好きだー
こういって歴史の陰に埋もれて行った人たちは史料が少ないのが困る

小田さんとこでいうと菅谷さんポジだな
590人間七七四年:2009/11/25(水) 17:36:57 ID:Q5X++uwk
>>570
桂川のやつはハンザキっぽいね
今でも増水で雲畑あたりのが流れてくるし
さすがに牛みたいに鳴いたあげく天に上ってったのは妖怪とかしか言いようがないが
591581:2009/11/25(水) 17:44:09 ID:31AXLFR+
むぅ、「腰」の一文字を見落としていた
恥ずかしいわ
592人間七七四年:2009/11/25(水) 20:33:49 ID:+XDPRmZM
かわいそうなイメージばかりつけちゃったので、乱世っぽい秋田実季の話を。

数代にわたって秋田氏に圧迫されてきた比内浅利氏。
安東愛季には当主・浅利勝頼を謀殺され、嫡子の頼平は津軽為信を頼って浪々の身となる。
後、為信と実季の妥協によって比内へ帰還したが、身分は秋田氏配下になってしまった。
しかも、時は豊臣秀吉が奥羽まで従えた、ちょうどその頃。
中央に秋田氏配下と認められてしまい、独立の機会は遠のいた。

さて、全国の大名には豊臣への奉公義務があったが、秋田からは杉材や鉱物が納められていた。
頼平も当然負担していたのだが、ある日これが馬鹿らしくなった。
「せっせと太閤に貢納しても、全部実季の功績になるだけだ。
なんで仇敵の手柄を稼がなきゃならんのだ」
頼平、豊臣への負担分をごまかすようになった。サボタージュである。
当然、すぐに実季にばれた。
「ほう、津軽の顔を立てて戻してやったが、そういう態度なら容赦はいらんな」
実季は税金の「強制徴収」を始める。
比内へ進攻し、浅利軍を攻撃、ついでに村々から略奪を行ったのである。

浅利方は後に被害を訴えるため報告書を作るが、それにはこう書かれている。
「この村では家が七戸しかなくなった。以前は二十戸の村だった。秋田軍が撫斬、放火した」
「この村は十五戸あったが、今はもうない。荒れている。秋田軍が放火した」

秋田・浅利紛争は豊臣政権の法廷に持ち込まれるが、実季勝訴の判決とともに、頼平は急死した。
593人間七七四年:2009/11/25(水) 22:05:43 ID:xlxJDe4X
>>592
戦国大名の発生が遅れた、東北らしい話って感じですなー。
南北朝時代のようだ。
594人間七七四年:2009/11/25(水) 22:37:30 ID:Kc8dkWQe
南北朝時代ならもっとドロドロしているだろ
595人間七七四年:2009/11/25(水) 22:46:14 ID:hJKQ2rJ5
南北朝の東北は初代風林火山の人のおかげか結構話題になるな
すごい複雑で理解が追いつかないけど、東北から関東突き抜けて上洛とか戦国時代でも考えられない
596人間七七四年:2009/11/25(水) 22:56:02 ID:xlxJDe4X
天正18年(1590)、会津を拝領した蒲生氏郷は、奥州、葛西大崎一揆への対応を協議するため
伊達政宗が陣する吉岡に出向いた。これが氏郷と政宗の初対面であり、
かねてよりその野心を大いに噂される政宗の元に赴くことに、氏郷に同行した
蒲生家中の面々は、あの鴻門の会もかくや、というほどの強烈な緊張下にあった。

両雄対面し挨拶、そして一揆の状況分析、ならびにその対応策を話し合い、
双方の作戦を決める。何事もなくすんだ。ここまでは。

会議が終わると政宗より、「少し時間は早いが」と、饗応が出た。
伊達、蒲生双方の家中、定められた座に座り、そこに膳が並べられた。

さて、この時、蒲生家中の末席に、あの蒲生郷舎もいた。

会食が始まらんとした時、郷舎、突然立ち上がると、政宗、氏郷の座のほうに
つかつかと歩み寄り、先ず政宗の前に据えられた膳を取り上げ、さらに
氏郷の前に据えられた膳を取り上げると、それぞれを取替えて再び置きなおした。
そうして政宗に向かって

「このような軍門における会見では、茶を飲み酒を酌み交わすことすら
互いに疑い深くなっているものです。
そういった疑いを晴らすためあえて、このような事をいたしました。
どうか私の出すぎた無礼とお考えになりませぬよう、お願いいたします。」

と、あくまで座の興を冷まさぬよう、朗らかに言った。

これに政宗

「ぬう!?突然持病が!!すまぬが、今日はこれで失礼いたす!」

と、その場を立ち去ってしまったと言うことである。
597人間七七四年:2009/11/25(水) 22:56:31 ID:W5jADjNU
南北朝は戦国では蹂躙される一方の足利様、北畠さん、菊池さんや山名さんや畠山さんが強者として戦う様は胸が熱くなるな

負けっぱなしの少弐さんも…少弐さんも…負けてるなぁ。
598人間七七四年:2009/11/25(水) 23:02:13 ID:SLQraHzo
>>596
 流石は政宗……でいいのかな?
599人間七七四年:2009/11/25(水) 23:32:08 ID:hJKQ2rJ5
>>596
政宗の行動は容疑を認めているようなもんだろw
こんな小物臭がするのに戦国生き抜いたのは凄い
600人間七七四年:2009/11/25(水) 23:36:28 ID:4v4PSgvW
>>596
王道を行く蒲生さんと比べると
腹黒いうえにやり方がせこいんだよな。
601人間七七四年:2009/11/26(木) 00:13:18 ID:0bjJYWl/
>>600
どっちも当時の武将のなかでは、かなり優れた人物といっていいと思うけど、
そのベクトルが全然違うというのが面白いなw
602人間七七四年:2009/11/26(木) 00:14:36 ID:7lTB7ILI
その話、大河の独眼竜でみた。元ネタ逸話ってあったのか。大河じゃ、その後蒲生の人達が怒って帰って行って、政宗達が笑いながら毒疑惑の飯喰ってたんだけど。大河だと結局毒盛ってないのに、なんでわざわざ疑われる様な事したのか、未だに謎なんだ
603人間七七四年:2009/11/26(木) 01:12:26 ID:mDgHM4e3
常陸の仁義なき戦い

それは些細なことから始まった。小田領府中の百姓と佐竹領小川の
百姓が争い、石礫の投げ合いで府中の百姓が一人死んでしまったのだ。
訴えをきいた小田氏治は面子にかけて報復せねばならぬと思った。

「佐竹のアホンダラが…おいお前、ちょっと行って小川の百姓を殺してこい」

この一言で小川の百姓が十数人殺された。この行為は佐竹側を
怒らせるには十分すぎる挑発であった。

「小田の野郎…うちの縄張りで好き勝手なことをしやがって。
この落としまえつけさせてやる」

対抗した佐竹側は府中の百姓数十人を殺害した。こうなると氏治も
後には引けない。

「そうかい、そっちがその気ならもう容赦しねぇぞ…構うこたぁねぇ!
小川の住人余さず撫で斬りじゃあ!!!」

氏治の命で出馬した五十騎は小川の百姓をみな殺しにしてしまった。
もはや泥沼、佐竹だって後には引けない。

「くっくっく、氏治めもう許さねぇぞ…野郎ども全面戦争じゃあ!!!」

ついに事件は武力衝突に発展、佐竹側は塩井大膳が、小田側は
菅谷政貞が出て小競り合いが始まった。結局、この仁義なき戦いは
小田側の菅谷が詫びを入れてやっと収まるのである。
604人間七七四年:2009/11/26(木) 01:23:30 ID:QNEsUTh9
>>602
毒殺疑ってびびってろよpgrって感じの嫌がらせだとおもww
ほんとに毒盛ったりしてたら取り潰してくださいって言ってるようなもんだしね。
605人間七七四年:2009/11/26(木) 01:25:17 ID:7FiLlgLs
>>603
百姓、領民の保護は、戦国大名にとって最も大切な義務なんだよね。
これが出来ないと「頼みがたき殿」って事にされて、他国に逃散されちゃう。
だから自領の百姓が他領の領民に攻撃されたら、当然これに報復を返さないといけない。
戦国大名も難儀な商売ですわ。
606人間七七四年:2009/11/26(木) 01:30:22 ID:5t3IDHVb
名門の貴公子のはずがヤクザの親玉にwww
607人間七七四年:2009/11/26(木) 01:43:58 ID:remt6fvl
苦労人菅谷さんw

小田さんをイビッていた謙信の父・長尾為景

天下に例のない奸雄とまで言われ息子とは正反対の評価をされる父であるが
朝廷や幕府に献金を行う一面も持ち合わせていた、この辺りは息子にも影響したのかもしれない

そんな為景が父の仇である越中の一向宗討伐に向かった時の話である

一向宗の激しい抵抗にあいながらも何とか討伐を成功させた為景
盟友と言ってもいい長尾房景にこんな手紙を送っている
「今回の合戦で各々が討死され、嘆き悲しまれていることはお聞きしました。
 しかし負け戦でさえ合戦のならいはそのように悲しむものではありません。
 まして今回のような勝ち戦の討死ならなおのこと、決して嘆くものではありません。
 特に若い人はこれからの事を祝うものです。傷心などしてはいけません。」

言い事を言っているように聞こえるが、乱暴に要約すると
「まだ若いんだから、味方の被害大きかったけど泣くな。勝ったんだから祝おーぜ!」
と、言っているようにも聞こえる。

こんな手紙が残っている辺り、謙信と同じく筆まめだったのかもしれない。

悪い話か微妙ですが、為景といったら悪いという事でこちらで投下させて頂きました。
608人間七七四年:2009/11/26(木) 07:58:08 ID:Fiq7Ik2Y
悪い・いいでくくれる話ばかりじゃないよね
609人間七七四年:2009/11/26(木) 08:03:41 ID:2gOcS1ec
>>596
似たような内容をどっかで聞いた事があるな
ただ、登場人物は伊達と蒲生じゃなかったと思ったけど

これも一種のテンプレかなぁ?
610人間七七四年:2009/11/26(木) 08:05:31 ID:bBvGnIKE
伊達が出てくるといい話でも必ず悪いオチがでてくるんだな。
611人間七七四年:2009/11/26(木) 09:32:34 ID:0Uev2M0k
>>609
まーくんは、トンデモ話テンプレに、ほぼ必ず当てはめられてる気がする。
それだけ昔から、良くも悪くも人気があったということなんだろうね。
612人間七七四年:2009/11/26(木) 09:32:39 ID:Kf28vwj0
>>596
この話、本当かな?
毒を盛ってます、ってバレバレだし。

できれば出典を教えてほしい。
613人間七七四年:2009/11/26(木) 09:33:03 ID:idBdSMEq
金森可重の愛妻遍歴

飛騨国高山藩主・金森長近の息子(養子)に二代藩主・金森可重という男がいた
二代将軍秀忠の茶道指南役を任されたり何気にスゴイ人物だが
一人の女にゾッコンになるとどうにもならない面倒くさい人物でもあった。

最初の正室は遠藤慶隆の娘にちょっかいを出して正室に迎え
気持ち悪いぐらいに可愛がりあまりにも溺愛してくるので側室も多く不安の身では
あったが室町殿はあまり機嫌は損ねず妻として平穏な日々を暮らしていたはずだった・・・
が、とある風の噂が可重の耳に届いてしまった・・・。

可重が聞いてしまった噂は文禄三年(1594年)に絶世の美女と名高い
高家名護屋氏の娘(名護屋高久の娘)が津田織部と離縁したとの事だった。

そして今は弟の名護屋山三郎を頼り伊勢で二人で暮らしていると聞きつけ
可重はさっそく伊勢へお忍びで偵察に向かいあっさりと一目惚れしてしまった。

だが、この弟は主君の蒲生氏が亡くなっていたので喪に服している最中であり
離縁したばかりの姉と慰め合って生活している真っ最中で、森家の当主と妹の婚儀ですら
両家の友人代表として媒酌人を務めた細川三斎忠興の必死の説得で何とか出席したほどで
主君の死で気落ちと苛立ちの波にあり下手に近寄れなかったので可重は手紙攻撃に出た。

「重頼の母堂ハ名護屋因州女也始ハ津田織部嫁せられしか文禄年中離別有りて後弟の
三左衛門が許に居られしに美女なる故可重の乞求て伊勢国より入興なり」 ※金森家『家説類聚』より

ストーカーしまくったあげくに一切引く気がないので名護屋氏の方のほうが折れて嫁いだ
そんなこんなで名護屋氏の方の呼び名は、「伊勢のかみさま」「中段さま」と呼び名が上がっていき
慶長十九年(1614年)室町殿との間の長男・重近を廃嫡、続け様に次男・重次すら遠ざけ
遂には室町殿を離縁、名護屋氏の方を継室にし二人の間に生まれた三男・重頼を藩主にしたので
室町殿母子たちは山内一豊に嫁いだ室町殿の叔母・千代を頼って家から出ていくしかなかった。

元和元年閏(1615年)6月3日に可重は最終的に「慈弘院」という号となった継室
名護屋氏の方の死後1カ月もたたずに謎の死(死亡理由が一切不明)を遂げた。
614人間七七四年:2009/11/26(木) 11:04:30 ID:LEXgusa9
>>603
うーん、小田さんは本当に地元民にとっちゃ地元の利益をすぐに代弁してくれるいい領主だったのかもねい
単に負けず嫌いのプライドだけ高いお坊ちゃんではなかったのかも
615人間七七四年:2009/11/26(木) 11:12:23 ID:bBvGnIKE
小田って福島正則に似た感じがするな。
家来に見捨てられるようなことをいくらでも平気でやっていながら、
なぜか優秀な家来が寄ってくる。
小田義治が福島の家臣になったのも何か似ていたのが原因では?
616人間七七四年:2009/11/26(木) 15:47:52 ID:vOaTLHEb
お前らの小田への支持もにたようなものかもな
617人間七七四年:2009/11/26(木) 16:45:23 ID:6OwAcq2l
宗麟「ボクは何でこのスレで支持されないのかなあ?」
618人間七七四年:2009/11/26(木) 16:56:40 ID:b7Qr5cQ7
あんたは後味の悪い話になっちまって救いがないんだよ
619人間七七四年:2009/11/26(木) 17:04:01 ID:7FiLlgLs
>>612
出典は「会津四家合考」です。
620人間七七四年:2009/11/26(木) 17:37:12 ID:sPvveicN
小田さんの場合は「能力は無いんだけど頑張っている」って感じなんだけど、
宗麟の場合は「能力はあるけど有効に使えていなくて失敗した」って感じが。
621人間七七四年:2009/11/26(木) 17:46:52 ID:SXk2FNJo
そして、「能力も無いしロクな事しない」輝元さん
622人間七七四年:2009/11/26(木) 18:08:57 ID:BcwIzC9n
秀吉も夜の面では無能な働き者
623人間七七四年:2009/11/26(木) 18:49:41 ID:eNlxLAEQ
>>622
下品なこと言うね。
624人間七七四年:2009/11/26(木) 18:52:14 ID:/mYZM9Uc
>>613
ひでぇな、これw
625人間七七四年:2009/11/26(木) 19:19:57 ID:GyLFU62o
重近って確か有名な茶人になってたような気がするけど、彼の廃嫡にはそんな背景があったんか…
626人間七七四年:2009/11/26(木) 19:21:21 ID:Vv/9T7oL
嫁さんが格上の家の場合に良くある話と思って調べたが

名君3代目も森家の小澤さんから従妹ゲットで4代目にして
4代目も本多家から森忠政の孫娘にあたる姫をゲットして5代目にして…

金山家には奥さんの家の血をひく嫁しか許さんって遺言でもあったのよw
政略婚だとしても三代続けて近親婚とかこわいわw
627人間七七四年:2009/11/26(木) 19:54:20 ID:/mYZM9Uc
必ず森家の血も混じるようになってしまたから金森家に改易される運命が待ってたんですね、分かります
628人間七七四年:2009/11/26(木) 21:43:41 ID:nUmmbAP5
「戦国リクルート」

下野の唐沢山城を拠点とした、佐野昌綱という小豪族があった。
その三男に祐願寺という名で、新当流の達人だったという。
彼は素性を隠し、剣術修行がてら武田信玄に仕えた。
合戦では無茶苦茶に暴れまくり、途中で逃げ出したかと思うと、砥石で長刀を研ぎ直してから再び突撃。
しかもそれを一回の合戦中に二度もやって信玄を驚嘆させた。
信玄に呼び出された祐願時は素性を明かした上で、恩賞をねだった。
「俺、すごいでしょ。恩賞に一千貫文ください」
これに対して信玄は、
「お前には確かに一千貫文の値打ちがある。しかし、当家譜代の者でもニ百〜五百貫しか与えていない。
それでも命令どおり命を投げ出して働いてくれるんだよ。
いくら手柄を立てようが、出自が正しかろうが、新参者に高禄を与えれば家中に害が生じてしまう」
と、やんわりと断った。その上でこんなアドバイス。
「関東にはお前を召抱える器量のある武将はいない。
いるとしたら越後の謙信だけだ。そっちにいってみたら?」
佐野祐願時は信玄の転職アドバイスに従って越後で謙信の面接を受けた。
信玄の言葉をそのまま伝えたところ、即一千貫文で採用。
歩兵弓頭となり、剣術指南の一人となった。

越後上杉に採用された祐願時は、自分以外の剣術指南役の稽古にケチをつけまくった。
このことが謙信の耳に入り勝負させてみたところ、圧倒的に祐願時が強かった。口先だけでは無いのだ。
が、その勝負から数日後、祐願時は甲斐武田のスパイだという噂が流れた。
いくら否定しても広まるばかり。彼には全く味方はいなかった。
ついに身の潔白を示す為に切腹したという。

今も昔も職場の人間関係はやっかいだという悪い話。
629人間七七四年:2009/11/26(木) 21:45:41 ID:nUmmbAP5
すいません。訂正。

>その三男は祐願寺という名で、新当流の達人だったという。
630人間七七四年:2009/11/26(木) 21:53:21 ID:Vv/9T7oL
>>626
金山家ってなんだよ金森家か そして遺言でもあったのかよだった

>>628
その後ちゃんと身の潔白は晴れて供養してもらったんだろうか…
631奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/11/26(木) 21:58:50 ID:hIX9GNjW
美濃の名家を知らずに適当な書き込みを繰り返す輩には怒りを覚える。

これが系図研究のイロハのイだ。
632人間七七四年:2009/11/26(木) 22:02:04 ID:7FiLlgLs
>>631
怒りを研究への情熱にするのかw
633奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/11/26(木) 22:08:37 ID:hIX9GNjW
>>632
自分が勝手に先祖と設定した人間を冒涜される。
怒って調べまくる。
打ちのめされる。
母系に逃げる。
さらに雑系に奔る。

偶然繋がる。
自分は貴種なんだ。
補強するためにさらに学ぶ。

研究って楽しいんじゃない?
634人間七七四年:2009/11/26(木) 22:12:21 ID:yVGbf+DP
なんか屈折してるなw
まぁあっさり辿れて証明できちまった俺が言うことでもないが。

でも怒りって上手く使うとかなりの原動力だよな、確かに。
635人間七七四年:2009/11/26(木) 22:12:40 ID:/mYZM9Uc
せっかく来たんだし原長頼の逸話を披露してくれよ
636奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/11/26(木) 22:25:18 ID:hIX9GNjW
http://blogs.yahoo.co.jp/me468646/62203784.html

>>635
ここで書かれた説はオレの書き込みが基になってないかと心配してるんだよね。
長頼養嶽入道というオレのHNがあるけど、彦作の法名も養嶽だったりするんだコレが。
637人間七七四年:2009/11/26(木) 22:55:00 ID:xM8x4R9U
>>636
リンク先に両親の事は全くわからないって書いてあるけど
あってるかどうか別にしてそれっぽい該当者いないの?
638人間七七四年:2009/11/26(木) 23:09:13 ID:tJ0542fK
>>628
コイツに禄を与えたくない、しかし敵に回られてはやっかいだ、そうだ謙信に殺させよう

そこまで信玄が考えているんじゃないかと勘ぐってしまう
639人間七七四年:2009/11/26(木) 23:53:52 ID:Kf28vwj0
>>619
ありがとう。

『会津四家合考』ねえ、会津は伊達が一時占領した後、奥州仕置きですぐに没収になり、
蒲生が来て、江戸時代は会津松平。
その会津松平の人間がまとめた史料なわけだけど、四家とは蘆名・伊達・蒲生・上杉で、
伊達に滅ぼされた蘆名や、伊達と敵対していた蒲生・上杉の旧領とくれば、
政宗を良く書くはずが無いな。
640人間七七四年:2009/11/27(金) 00:01:49 ID:sLekUwFz
家や国の立場で同じ出来事でも内容がかなり違ってくるのは地味に面白い
641人間七七四年:2009/11/27(金) 00:16:37 ID:IiICFUvM
「会津四家合考」は、政宗が他の蘆名、蒲生、上杉の三家から
どれだけ嫌われていたかを知ることの出来る貴重な本w
642人間七七四年:2009/11/27(金) 01:52:09 ID:UYxJFsck
親戚に難癖つけてまでケンカするやつだ

赤の他人にはキチガイにしか見えなかったんじゃないか?
643人間七七四年:2009/11/27(金) 07:24:55 ID:GcoYE61i
まぁ古今東西、隣国ってのは仲が悪くなるもんだからね
おまけに著書する側の印象も入るし
644人間七七四年:2009/11/27(金) 08:24:14 ID:SK+r99E+
成りあがりに成功した伊達に比べて
蘆名蒲生上杉は落ちぶれたから、
多少のやっかみもあるだろうしな。

>著書する側
制作した会津松平家(向井吉重)も伊達の隣国だったと思った。
645人間七七四年:2009/11/27(金) 08:31:40 ID:SK+r99E+
おっと上がっちまった、スマン。
646人間七七四年:2009/11/27(金) 09:18:29 ID:sPCx45Og
>>639
加藤涙目
647人間七七四年:2009/11/27(金) 09:36:14 ID:eRljPu5T
>>628
面白い話だ 訴訟マニアの曲渕を飼いならすほどの人が手放すか
648人間七七四年:2009/11/27(金) 10:28:53 ID:WfpGq4HE
まんま道徳訓になるよな
実力があるからと思い上がって周囲のものを批判ばかりしていたら
立場が悪くなったとき誰も味方してくれる者がいないなりますよーという
649人間七七四年:2009/11/27(金) 11:00:47 ID:YwohuI/m
涙目の人の話

ある日、加藤嘉明が家臣に訓戒した。
「よいか、いざという時、袴帯は前で結ぶものだ。決して後ろで結ぶな。」
「それはまた、何故でございましょう?」

「うむ、慶長のはじめ、伏見の大地震の時だがな。『太閤殿下はご無事か』とご機嫌伺いに
どの大名も伏見城へ走った。わしも懸命に走ったが、わしの横を追い越して行く者がおった。
そいつに負けるのもくやしいと思って、ふと見るとそいつの背中に帯の結び目があるのが
目に付いた。
そこで、城門前の人ごみに紛れて、そっとそいつの帯の結びをほどいてやったら、そいつは
門に入ったとたん帯が外れ、刀も脇差も袴もみーんな落ちてしもうた。
そいつが帯を直している間に、わしは先に行くことが出来た。という訳で、帯は前で締めよ。」
650人生七十四年:2009/11/27(金) 11:36:17 ID:0Aaw2FHC
嘉明さんひどいな
でもこれが命のやりとりのときだったら、やられたほうは丸出しで死ぬことになるんだよな。
そう考えると心がけとしては正しいのか
651人生七十四年:2009/11/27(金) 11:37:37 ID:0Aaw2FHC
いい話で武田信玄と雲洞庵の話を書いたんだけど、さて勝頼の代にはどうなったかというと・・・

武田勝頼から雲洞庵へ

つつしんで一筆をさしあげます。思うに遠くはなれたために、
長い間お目にかかることができず気持ちもふさがりがちです。
なお最乗寺の住職権について、興国寺と定津寺の間で問題が再燃しました。
そこでお考えをうかがわなくては細かいことはなにもできません。
ご老体であり、炎天の頃でもあり、御苦労をおかけすることは誠に申し訳ございませんが、
致し方ございませんので、早速お出で願えれば本望であります。
くわしくは大泉和尚からおしらせがあるでしょうから重複しないようにしたいと存じます。

信玄の書状は余裕たっぷりなのに対し、こっちは悲壮感が漂うほど
信玄さんの打った手のマイナス面をことごとくひっかぶった勝頼さんですが、
こんなとこでも苦労してたんです。
652人間七七四年:2009/11/27(金) 12:06:55 ID:wttP/Twa
細川忠興は関が原後に父の開城の知らせを受け激怒、
田辺城攻めに加わった諸将の討伐を請願し家康の許可を受けた。

まず前田茂勝を攻めに向かったがこれは茂勝の必死の弁明と幽斎の口添えで
怒りが鎮まり福知山攻めの先鋒に加わることで決着。
木下家俊もこれを見て急ぎ謝罪し許された。

だが忠興は福知山城に篭る小野木重勝の決死の抵抗を排除できず損害も増え続けたため長陣となった。
困ったのは家康である。
大勢は決着してるのに畿内で長々と戦されてはたまらない。

小野木からの弁明も届いていたこともあり家康から調停の使者が使わされ重勝助命を条件に開城が決まった。
開城した重勝は近くの寺に入り剃髪し隠居生活を始めようとしたのだ…が

忠興「今すぐ重勝を捕らえてまいれ」

内通していたり父の助命のために密かに動いていた連中はともかく
主将たる小野木重勝を許す気など忠興にはさらさらなかったのである。

忠興「我が手で首を刎ねたい程憎い奴だが内府に免じて打ち首は免じる。我ら父子の前で切腹せよ」

当然驚き慌て周囲は制止した。制止しまくった。
だがそんなことはものともせず重勝を切腹に追い込み溜飲を下げた忠興であった。
なお、家康には当然報告が行ったが特に忠興に対するお咎めはなかったという。
まだ小野木の切腹のあたりはチラッとしか出てなかったと思ったので。

関連
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2096.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2316.html
653人間七七四年:2009/11/27(金) 12:10:54 ID:SK+r99E+
でも結局はピンチは全部切り抜けてるんだから不思議。
何だかんだでやっぱり人望があったのか(好き嫌いの別れるタイプだがw)
ピンチも一人で切り抜けるだけの機転がきいたのか…

>>649
後で結ぶ→背後にいる奴から解かれる
前で結ぶ→正面にいる奴から解かれる
つまり、いざという時は裸(or褌一丁)が最強という事ですか?
654人間七七四年:2009/11/27(金) 12:16:43 ID:wttP/Twa
正面から解きにきたらぶった切るとか無骨するとか火箸でぶっ刺すとかぶっ飛ばすとか出来るだろw
655人間七七四年:2009/11/27(金) 12:28:05 ID:ny7uVmkZ
>>651
現存する勝頼の手紙を見てるとあまり傲岸不遜な人物だったようには見えないんだよなあ
まあ状況が悪くなってるってのはあるんだけど
656人間七七四年:2009/11/27(金) 12:57:12 ID:u2EiSITc
ある時、佐藤聖が後輩たちに訓戒した。
「いいか、いざというとき、ブラは前で止めるものだ。決して後ろで止めてはいけない」
「それはまた、何故でございましょう?」


……なんとなく書いてみた。
657人間七七四年:2009/11/27(金) 13:11:58 ID:dOXpdrN9
アクの強さで親父の信玄にかなう奴はそうそういないよね
信玄があれだけ怖いボスだったから、二代目の勝頼が舐められてしまったのかも
658人間七七四年:2009/11/27(金) 14:11:58 ID:9xSD/kSm
>>657
おジイちゃんから数えると三代目…
659人間七七四年:2009/11/27(金) 16:40:56 ID:AfrfZVYw
嫁が死んだ直後くらいの三歳様は本当に恐いな
6601/2:2009/11/27(金) 17:19:02 ID:IiICFUvM
天正十八年、秀吉の奥州仕置きにより所領白河を没収、改易となった結城(小峰)義親。
その後各地を流浪していたが、改易から6年を過ぎた頃、故郷懐かしく、その身を
旅人の姿にまぎれさせ、白河へと入った。

前領主であり、人目を忍ぶ身であったので、夕暮れのさびしい時間になるのを待って、
結城家の菩提寺である、関川寺へと行く。
そこでは、記憶にあったものより寺の庭の梢は茂り、代々の墓所は、義親が改易されて以来
折々の清めも絶えたため苔むし、なんともいえない、物寂しい有様であったという。

この関川寺の住職、比丘得峰は義親が来ていることを知ると、早速、今は地下の者となっている
義親のかつての郎党たちにこれを知らせた。間もなく十人ばかりが、酒肴を持ち寄り関川寺に集い、
義親に見参、やがて酒肴を出して、宴会となった。

旧家臣たちは言う
「もう世の中は変わらない、これまでだ、などと、ご短慮をされてはいけませんよ?
梅は厳しい冬を耐えて、花を咲かせるのです。
このようにご辛苦を重ねられている上は、必ずよい日が巡って来るはずです。」

始めは静かに始まった酒宴であったが、夜が深まり、酒が回ってくる内に、皆気持ちが
大きくなっていった

「もし世が再び乱れれば、それがしは一方の大将を仕ります!」
「私もお旗本に駆けつけますぞ!」

他愛も無い酒の席での広言。
ところがこの時、この話に聞き耳を立てている者がいた。
6612/2:2009/11/27(金) 17:22:42 ID:IiICFUvM
それは蒲生氏郷よりこの白河の支配をまかされた関一政の下人、何某と言う者である。

彼はこの関川寺の喝食の一人と仲が良く、この日の夜も、これと物語するため寺に
忍んで来ていたのだが、俄に義親が現れ寺の中が騒がしくなると、外に逃げ出す事もできず
しかたなく仏壇の下に隠れた。ここで、結城旧臣たちの、先の発言を聞いたのだ

「これは、謀反の話し合いだ!」

この何某、夜明け前ほどに酒宴がお開きになり、面々が寺より出て行くと、仏壇の下から抜け出て
関一政の元に駆けつけた。

「昨夜謀反人の談合を聞きました!そこにいたのは関川寺の住職得峰、
武士は斑目信濃、遠藤某、地下のものには当宿の検断である土蔵但馬、星三河、同源三郎、
矢部主膳といった者たちです!」

関、これを聞いて急ぎ捕り手を派遣、かの面々を召し取った。
この時、結城義親は既に、白河を出ていて、捕縛される事はなかったらしい。

が、捕まった彼らを尋問し仔細に調べてみると、謀反の証拠などまるでなく、
どうやら誤認逮捕であることがわかった。しかしどうするべきか方針を決めかね、
彼らを拘束したままにしておいた。

これに関川寺の住職、得峰は激怒し、警護の者に向って

「私は愚かな僧であると言っても、二十年余り修行しここの寺の住持を任された者である!
それを無実であるのに、このような捕縛の辱めを与えるとは何事か!
たとえ関一政はこの過ちを認め我らを開放したとしても、一体何の面目があって
再び仏に仕えることが出来るだろうか!?
もはや生きる甲斐も無い。私は関一政の目の前で自ら首を切り落とし、因果のほどを
知らしめてくれる!」

これを聞いた関は、
「あの僧の態度を見るに、例え縄を解いても感謝することなく、かえって仇を成そうとするであろう。
だいたい、事の実否はともかく、捕縛された人間が法を悪し様に言う事、その罪軽くない。
また、大勢の者が、まるで野心があるかのように広言した事、これは事実である。
よって」

得峰を始めとして捕縛されたものたち、全員斬首。
その首は獄門にかけられた、とのことである。

なんとも後味の悪い、結城旧臣謀反騒動についての話。
662人間七七四年:2009/11/27(金) 17:26:25 ID:WmnH6cAZ
蒲生さんとこまで話が上がってたらこうはならなかった気がする
663人間七七四年:2009/11/27(金) 17:49:35 ID:ny7uVmkZ
関東仕置き後の関東の名族はみんな散々だなあ
一番悲惨なのが宇都宮さんな気もするが、佐竹以外軒並みひどい
664人間七七四年:2009/11/27(金) 22:35:41 ID:FItSXzGy
甲州を平定した徳川家康は徳川に武田の血を入れようと、信玄の娘で
美女と名高い松姫の所在を探した。これが武田旧臣には面白くない。
彼らは新羅三郎義光の血統を田舎武士などに渡したくなかったのだ。

しかし松姫が見つかるのは時間の問題である。彼らは考えた末に
思いついた。どうせ家康は姫の顔を知らない、替え玉を差し出せばよいと。
彼らが目をつけたのが穴山信邦の妻、於都摩であった。

この信邦という男は穴山梅雪の弟である。彼は武田への忠節から妻を
犠牲にすることに決めた。夫に説得された於都摩は松姫の身代わりとなり
家康のもとへ向かった。

家康は偽物とも知らず大いに喜んだ。そして信玄の息女に敬意を払って
下山殿と敬称をつけた。家康の側室で殿がつけられたのは彼女だけである。
その後、下山殿は家康との間に二子をもうけたが二十七の若さでこの世を去った。

その下山殿の碑を建てたのが水戸光圀だった。かつての水戸領主、武田信吉
は下山殿の子であり、下山殿の墓が荒れているのを見た光圀は信吉との縁
から下山殿を他人とは思えず、墓を改葬して石碑を建て、そこに下山殿の
履歴を残したのであった。
665人間七七四年:2009/11/27(金) 22:47:53 ID:wkcg9Qmb
松姫は八王子にいたはずなんだが…
666人間七七四年:2009/11/27(金) 22:50:07 ID:rh202t+t
身代わり説、影武者説は珍しくないとは言うものの、
いつ誰から姫の身代わりだとバレたのか…
667人間七七四年:2009/11/27(金) 22:58:29 ID:IiICFUvM
まあ身代わりなんかしたところで、徳川家中には旧武田家臣が
何ぼでもいるから直ぐばれますけどねw

一種の伝説、説話の類なんでしょうね。
668人間七七四年:2009/11/28(土) 01:00:45 ID:Hu8DeJ6L
既出の松姫話とはまたえらく毛色が違うなw
こういうのも面白いね
669人間七七四年:2009/11/28(土) 01:17:09 ID:xg2E3eAX
>>660
改易された原因は石川さんと同じくまーくんに邪魔されたからなんだけどね
罪悪感からなのか伊達家に仕えてからは厚遇されたのが救いだろうか
670人間七七四年:2009/11/28(土) 07:55:06 ID:6TEuzZV1
知ったか
671人間七七四年:2009/11/28(土) 10:26:22 ID:YD2JCqoY
松たか
672人間七七四年:2009/11/28(土) 13:09:26 ID:78FitEUh
最近は長文も空気も読めない1行レスが増えたな
twitterで呟いてろよ
673人間七七四年:2009/11/28(土) 13:09:38 ID:deSn12LS
てっぺんかけたか
674人間七七四年:2009/11/28(土) 14:33:25 ID:/dP2D5gJ
滝川一益の最期

蟹江城の戦いが終わり、豊臣の世がやってきた
剃髪し、僧籍に入った滝川一益は放浪し、越前国今立郡の五分一庄に流れつき、
そこで何をするでもなく毎日村はずれの楠木の下に座り込んでぼんやりとしていた
そんな姿を地元の人々は時折気にして見ていたのだが
ある日奇妙なことに、この一益の足元の真っ黒な影が
日に日に小さく、薄くなってゆくことに気がついた
空模様のせいだろうなどと言っていたのだが、しかし改めて見てみると
やはり楠木の影と比べて一益の影は異常に薄いのだった

ある日とうとう影は、フッと消えてしまった
それを見ていた人が驚いて走り寄ると、もはやそこには
一益自身の姿もなかったという話である

675人間七七四年:2009/11/28(土) 17:03:54 ID:aEWVkSGM
>>674
伝説だろうけどある意味スゴイ話しだな。
ゾッとした
676人間七七四年:2009/11/28(土) 17:04:55 ID:zp6qLNeM
そう言えば滝川一益忍者説、なんてのもあるな。
677人間七七四年:2009/11/28(土) 17:07:50 ID:TY8J/lKh
>>674
戦国ちょっとホラーな話だな
こんな話他にもある?
678人間七七四年:2009/11/28(土) 20:23:41 ID:DTQj3VaP
>>676
某ゲームでも忍者だしね
679人間七七四年:2009/11/28(土) 21:12:45 ID:0umufALV
海外なら、リンカーンが暗殺される前に
メイドが自分の死を悼んで泣いている夢を見た
という話があった
680人間七七四年:2009/11/28(土) 21:38:46 ID:+Cz2qTtS
出てなかったと思うので

葛西・大崎一揆の扇動がバレ、窮地に立ったまーくん
蒲生氏郷から国に帰る代わりに人質、を出せと言われ
まーくんはしゃーねぇな成実と国分盛重を出すよと言いました

が、氏郷が帰り支度をして人質を迎えると盛重しか来てません
ちょwwwさすがにねーよwwwwwwと氏郷は約束違うだろ、二人ともよこさないと帰らんぞと怒る
まあそりゃそうだ
氏郷が盛重を追い返すと、政宗は渋々成実と盛重をセットでよこして来、
氏郷はやっと名生ノ城へ帰れたのでありました


蒲生氏郷記から政宗の人質までごまかそうとして失敗した話
681人間七七四年:2009/11/28(土) 21:41:20 ID:+Cz2qTtS
>>680
あ、「国に帰る」じゃないや
陣払いをする、でしたすまん
682人間七七四年:2009/11/28(土) 22:19:07 ID:1j481UZF
自分が知ってる話とちょっと違うな。
政宗は氏郷から、右腕の従兄弟伊達成実か輝宗代からの功篤き叔父留守政景を出せと言われて、
どっちも惜しいからとりあえず叔父だけど無能であんまり要らない感じの国分盛重を出してみた。
だが伊達に取っての盛重の価値は氏郷も知っていたのか、成実か政景しか人質として認めん!
と言われ盛重が返されてきたので、盛重は無事戻って来たし大丈夫だろうと、
仕方なく成実を人質に出した。という話だった。

683人間七七四年:2009/11/28(土) 22:23:36 ID:FFwIVmm7
>>674
一益も本能寺から後は転落人生だよね…
関東を任された時が絶頂で。
684人間七七四年:2009/11/28(土) 22:51:44 ID:gegrPVDe
盛重ェ・・・
物みてえな扱いだな。
685人間七七四年:2009/11/28(土) 23:01:41 ID:Zs7enw5m
>>682
蒲生さん相手にそんなに構えることないのにねぇ。
後ろ暗いと発想が自ずとw

これが宇喜多さんだったりすると盛重を無事に帰して信頼させておいて成実ぬっ殺すとか平気でやるだろうけどw
686人間七七四年:2009/11/28(土) 23:22:39 ID:rZQcYiPv
盛重さんカワイソス…
687人間七七四年:2009/11/28(土) 23:38:48 ID:1j481UZF
>>685 >>686
うん。でも盛重は国分へ養子に行った時からずっと家臣団に嫌われてて反発を抑えられず、
家臣達からの訴えが酷くて政宗にも随分手間を掛けさせてて、この頃には既に家臣団は
政宗の直属になってるような状態だった。
そして最後には追放処分になっているので、政宗としては本気で要らなくて
「なんだったらあげるからこの無能再生してやってよ工場長!」だったかも知れないねw
688人間七七四年:2009/11/28(土) 23:39:59 ID:1j481UZF
>>685じゃないな。>>684だった。
689人間七七四年:2009/11/28(土) 23:44:37 ID:0umufALV
DQN眼竜軍団には不必要な人材だったとしても
現代なら盛重さんは普通の小父さんでいられたかもね
生まれた時代が悪かったつうか、家が悪かったつうか
690人間七七四年:2009/11/28(土) 23:58:14 ID:rZQcYiPv
そうか!思い出した!
大河でイッセー尾形が演じてた人だ!
…いい味は出してたけど、やたら偉そうに調子こいてる印象と
政宗に怒られてバッタのように這いつくばってる印象しかないw
ほんとにあんな叔父さんなら現代でも要らないなw
691人間七七四年:2009/11/29(日) 00:01:59 ID:/wNO6NZK
イッセー尾形演じた盛重出奔のシーン
あれ、セリフはアドリブだったという噂が…
692人間七七四年:2009/11/29(日) 00:06:30 ID:K8BMLuUN
あの大河今見たら秀吉でビビりまくる自信があるw
693人間七七四年:2009/11/29(日) 00:14:20 ID:XXNoh6Q+
>>692
勝新の秀吉はまさに「ボスザル」といった雰囲気だよね。
694人間七七四年:2009/11/29(日) 00:40:21 ID:GzfDpz6H
>>691
どんな台詞だったっけ?
695人間七七四年:2009/11/29(日) 01:07:17 ID:RgBp5NEz
>>694
691じゃないけど「甥のくせに舐めやがってこんにゃろーこんにゃろー」(大意)
無人の陣中で一人愚痴りまくり、あの弦月の兜にゴミポカポカぶつける流れに吹いた
696人間七七四年:2009/11/29(日) 01:34:28 ID:dJsY5hSG
>>680
正しくは「名生城に帰った」ではなく「名生城から黒川城に帰還」

要領を得ない地で、しかも冬に一揆勢と伊達勢の実質両方を警戒しなければいけないなら
名生城に籠城して、人質で保障を求めるのも已む無しだな

ちなみに盛重はその後、佐竹に仕えて秋田伊達家として残ったみたいだね
697人間七七四年:2009/11/29(日) 03:02:30 ID:dJsY5hSG
ついでに一つ


毒か薬か


近畿では関ヶ原が終結した頃、奥州和賀の地でも一つの戦いが終わった
奥州仕置で没落した和賀氏が、領地拡大を狙った伊達家の支援を受け、再興を図ったが夢破れたのである
その後、和賀の当主義親や家臣の主だった者は仙台の国分尼寺で自刃することになる

その中には毒沢義盛の名もあった
毒沢という厳めしい名は、和賀氏没落の時に義盛の居城であった濁沢城の井戸に自ら毒を投げ入れ
野に下ったことを由来とし、濁沢から毒沢に改名したと伝わる

義盛は前述の通り自刃して果てたが、子の義広は名を毒沢から多田と改めて伊達家に仕えた

その義広は、後に子供二人を政宗の側に置く事に成功する

只野作十郎勝吉と勝女姫である

只野作十郎に関しては今更説明の必要が無いので省略するが、三代全員が名を変えたのは興味深い
勝女姫は政宗との間に伊達宗勝と岑姫の二人を授かった

伊達宗勝は伊達騒動の中心人物で、以前は専横を極めた悪人とされていたが
近年においてそれは、旧来の地方知行制を維持したい伊達宗重派と、中央集権化を図ろうとした伊達宗勝派の争いに
敗れた末の評価であり、宗勝は改革者であったという評価もされている

事件後の仙台藩において、地方知行制はその影響を色濃く残すが
毒沢の血を引く宗勝は伊達家にとり、果たして毒であったか薬であったのかは定かではない



勝女姫の娘・岑姫は伊達宗重の兄宗実に嫁いでいます
伊達騒動の頃には勝女姫も岑姫も亡くなっていますが、勝女姫は1665年まで生きていたので
片や息子、片や娘の嫁入り先が日々軋轢を深めていく様を複雑な気持ち見ていたのではないかと思います
698人間七七四年:2009/11/29(日) 08:53:17 ID:4N/wmRGO
只野はラブレターの相手かw
勝女姫はなんて読むの?
699人間七七四年:2009/11/29(日) 11:03:39 ID:I0iZF+dC
盛重は実はかなり有能で出奔後は佐竹に仕えて
対伊達最上の最前線にもなる横手城を任されたほど。
単にDQN政宗にイジメを受けていただけだと言う…
700人間七七四年:2009/11/29(日) 11:11:11 ID:wSW6lPkk
実際はそんなとこだろうな
701人間七七四年:2009/11/29(日) 11:13:23 ID:RgBp5NEz
経営者一族で関連子会社任されたもののそこでは合わず、他社に移ったら実力発揮ってとこか
702人間七七四年:2009/11/29(日) 11:30:20 ID:RYzARU2W
妄想>資料なヤツがいるなw
703人間七七四年:2009/11/29(日) 11:31:09 ID:cZ72HBqL
逆に、大内定綱は伊達に反抗していた時は散々だったが、
召し抱えられてからは手腕を遺憾なく発揮しているな。
後に一族の家格も与えられているし。
石川昭光も伊達家に戻ってからは、一門筆頭になっている。
まあ、成実はおもしろくなかったみたいだけど。
704人間七七四年:2009/11/29(日) 11:37:24 ID:wSW6lPkk
>>702
妄想≠想像かつ資料≠史料な。
勝者側の記録はどこまで客観的か分からないんだから
いろいろ推理するのも歴史の楽しみ方じゃないか?
705人間七七四年:2009/11/29(日) 11:45:04 ID:jRrUVGb3
前からいた家老よりも有能な新参を待遇するのはどの家でもあるんだけどな
まぁ織田はそのせいで殺されたけど
706人間七七四年:2009/11/29(日) 11:55:35 ID:1xmZyeTd
>>704
その推理が事実だと思ってると
Subみたいなヤツになるんだよな
このスレにもたまに湧くけど
707人間七七四年:2009/11/29(日) 12:07:16 ID:wSW6lPkk
だなー
708人間七七四年:2009/11/29(日) 13:03:13 ID:yYukUHn4
「おい、おまえ!おれの名前をいってみろ!」

秀吉の四国攻めに際して多聞院英俊、日記に記す
「四国の支配者は長曽我部という人らしい。ちょうすがめと読むのだろう、面白い名字だ。
一条兼定殿の有力家臣からのし上がったとか…」
(土佐大将ハ長曽我部ト云人也。チャウスカメと云ト思ヒシ、面白キ名字也。土佐ノ一条殿ノ
内一段武者也…)

同時期にルイス・フロイス、イエズス会に報告する
「秀吉がチョースガミ( Chosugami )と称する暴虐の君主を討った。」

元和のはじめ、毛利家臣の玉木吉保、自伝において盛親について記す
「長曽亀は…」

幕末、土佐藩士の楠目盛徳、随筆に記す
「長宗我部殿は、チャンスカメと訓みける由…」

……実際の所、どうなんですか?

元親「秦氏の分家が土佐長岡郡宗部(そがべ)に移住し、「宗我部」を名乗った。
ところが、同じ土佐の香美郡に既に「宗我部」を名乗る一族がいたので、区別するために
「長宗我部」を名乗ったのが、わが一族の始まりらしい。
よって、「長曽我部」と書いてある本も多いし、普通「 Chousokabe 」と読まれているが、
「長宗我部」と書き、「 Chousogabe 」と読むのが本来だろう。

それはともかく、いまだ長宗我部の者は名字に悩まされており、webマガジン「そら飛ぶ庭」の
代表、長宗我部友親氏はわが弟の親房の子孫だが、若い頃バイト先で
「『名字だけ書け』と言ったのに、下の名前まで書いたのは誰だ!」と怒られたそうな。

「伊東」を「伊藤」と書いたり、「北条高広」を「ほうじょうたかひろ」と読んだり、人の名前を
間違えるのは失礼な行為だから、みんなも気をつけろよ!」
709人間七七四年:2009/11/29(日) 13:11:16 ID:sOt9bh1S
反論意見が出てくるとすぐ妄想とか言われて投稿する気失せるな。
佐竹に仕えて横手城を任されたのも資料なら、国分の家臣団を
まとめられなかったのも資料だろうに。
710人間七七四年:2009/11/29(日) 13:13:58 ID:dJsY5hSG
>>697
見返したらミスが…
> その後、和賀の当主義親や家臣の主だった者は仙台の国分尼寺で自刃することになる
義親ではなく忠親 

> 義盛は前述の通り自刃して果てたが、子の義広は名を毒沢から多田と改めて伊達家に仕えた
> その義広は、後に子供二人を政宗の側に置く事に成功する
義広ではなく吉広


>>697
スイマセン分かりません
711人間七七四年:2009/11/29(日) 13:16:44 ID:dJsY5hSG
下は>>698宛てだった…
連投失礼
712人間七七四年:2009/11/29(日) 13:20:50 ID:CreuKBbs
>>708
>「北条高広」を「ほうじょうたかひろ」
え、違ったの?と思った俺にわか乙w

俺も名前よく間違えられる
最近は訂正もうざくなってきたので、問題ないときは放置してる
713人間七七四年:2009/11/29(日) 13:30:12 ID:wSW6lPkk
>>712
きたじょうたかひろ
714人間七七四年:2009/11/29(日) 13:37:26 ID:aA4Q8/++
紛らわしいから漢字変えろ
715人間七七四年:2009/11/29(日) 13:49:44 ID:KgNyNY3O
チャンスカメw
716人間七七四年:2009/11/29(日) 13:54:49 ID:K8BMLuUN
>>714
分かりました!

北条隆広

これで
717人間七七四年:2009/11/29(日) 14:43:27 ID:c1F/Mg8Q
Subっぽい奴がいるなと思ったらホントにSubでワラタw
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1247488347/
718人間七七四年:2009/11/29(日) 14:50:10 ID:T+mQlIeI
>>708
長宗我部は戦国の源五郎丸洋ですね
ネタ古すぎて分からない人がほとんどか
719人間七七四年:2009/11/29(日) 14:54:05 ID:l1/6w4Ud
職場の北条さんは「ほうじょう」だな
どうでもいいがウチ東西南北の条が揃ってる 
一時期は東西南北上中下の野がいたそうだし人事部ふざけすぎ
720人間七七四年:2009/11/29(日) 15:33:49 ID:HDFqLx4N
じゃあ上条中条下条さんもいずれそのうち・・・。
721人間七七四年:2009/11/29(日) 16:01:01 ID:LTDpP9Ip
>>708
字の読み方はけっこう変わるからな…
戦国時代には曽は「ス」で部は「メ」と読むものだったのかも。
木曾氏は「きす」氏で色部氏は「いろめ」氏とか。

あるいは発音の問題とか。バ行とマ行は音が近いらしいし。
722人間七七四年:2009/11/29(日) 16:56:42 ID:D0TEMh9X
「伊達」も元々は「いだて」と読んだらしいね。
文字は目に見える形で残るけど、発音は後世に残らないのが惜しい。
723人間七七四年:2009/11/29(日) 17:07:02 ID:jRrUVGb3
もしかしたら武田はぶたと呼ばれていたかもしれない
724人間七七四年:2009/11/29(日) 17:07:18 ID:ED1iOR/V
北畠顕家や豊臣秀吉が漢字をほとんど使わないのは、
正しい発音で読んでもらうためだな。
725人間七七四年:2009/11/29(日) 17:21:02 ID:l1/6w4Ud
>>722
そういえばDQがN竜さん
ローマへの書簡で Idate って名乗ってた気がする
726人間七七四年:2009/11/29(日) 17:23:22 ID:I0iZF+dC
違う「いたて」だ。
はっきりいって奥羽の訛りは酷すぎるので、アクセントも考慮したら最上の「もかみ」も含めて爆笑もんだったろうね。
浅井を「あざい」と読むと言ってるのは小和田先生が地元の地名がそう読むとか言う話だったが、こちらは義姫や義光の平仮名文に書いてあるから間違いない。
義光はたまに政宗のことを義姫への手紙で「まさ」と書いてたりするな。
727人間七七四年:2009/11/29(日) 17:25:38 ID:D0TEMh9X
「まさ」は訛りじゃないだろSub
728奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/11/29(日) 19:21:13 ID:8xMAtUTF
その時代に濁点とかないし。
729人間七七四年:2009/11/29(日) 19:28:54 ID:l1/6w4Ud
あったあった IDATEはともかくMASAMVNEて新しいよねw
ttp://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/senk35.htm
730人間七七四年:2009/11/29(日) 19:37:21 ID:zhtllJhb
その時分、uとvは同じ文字扱い。
731人間七七四年:2009/11/29(日) 19:38:14 ID:VRoN2tnx
>>726
「てつはう」をそのまま呼んで恥をかくタイプ。
732人間七七四年:2009/11/29(日) 20:25:46 ID:Q8t/waKb
吉川広家の子 広正だが慶長十九年、家督を相続し
元和二年、毛利輝元の娘 竹姫17歳を娶る
竹姫は 分家に嫁いだことに不満たらたら だったらしい

輝元は娘に対し
「結婚に不満を抱いているようだが、行儀を良くし、家中を治めることが大切と諭した。
また、吉川家に嫁ぐからには吉川家の家法に従い、決して短気を起こさず、
腹が立っても我慢せよ」と伝えた。

輝元は秀元に対しても竹姫は
「その身少し気根に候て、もってのほかの気ミちかく候」という手紙を送っている。

娘は短気で他国には嫁がせることが出来ない。
粗相があっては毛利家の恥であり、秀就に迷惑がかかり、
自分も老後が不安で仕方がない。
仕方がないので身内の広正に嫁がせることにした、と云う。


同じような話を吉川広家にも伝えてあり、輝元は姫の嫁ぎ先に悩んでいたらしい
他家に嫁に行けないほど 気が短いって どんだけだったんだ
吉川広家は 泳いで参った殿の姉と死別して以降 再婚していないから
嫁姑問題がおきないのも選んだ理由だったかも

関が原だけでなく娘も押し付けられたのか?ってことで悪い話
733人間七七四年:2009/11/29(日) 20:26:32 ID:kfuA34/n
過去スレにあったけど、三斎様はローマ字の印鑑作ってtadauoquiって彫ってる。
734人間七七四年:2009/11/29(日) 20:41:57 ID:BfG7hVvp
タダウオクィ!
735奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/11/29(日) 20:53:23 ID:8xMAtUTF
quiは キ でいいだろうけどさ。

ただをき か。
736人間七七四年:2009/11/29(日) 21:44:10 ID:hDvGIcEB
>>732
既出
まとめ読んで来い
737人間七七四年:2009/11/29(日) 22:08:17 ID:qQ5gwPbf
>>736
すまん 調べたつもりが 見落としたらしい
橋の番人してきます
738人間七七四年:2009/11/29(日) 22:54:22 ID:YtjaAuak
708が710に突っ込んでいる・・・
739人間七七四年:2009/11/30(月) 02:53:13 ID:6pwbTB9p
いい話として伝わるものですが、あえてこっちに


武田信玄の家臣の中に、岩間大蔵と言う者がいた。
この岩間、生来甚だ臆病で、合戦のたびに、先ず最初に退却してくるのは、
決まってこの岩間であった。
そのため人々から大いに笑われ、また、信玄のほうにも
「あのような怯懦な者は合戦いは無用でしょう、使わぬほうが良いのではありませんか?」
と言ってくる者もあった。が、信玄はこのように言われて

「そういった者だからと言って、わしは決して無用の者にはしない。
わしに少し考えがあるから、まあ、見ておけ。」

と、答えた。

次の合戦の時、この岩間に対して『信玄の考え』が実行された。

まず、信玄は岩間を、竹盾に縛り付けさせた。
そして身動きの出来ない岩間付き竹盾を、戦場の真ん中に固定させた。

さあ合戦が始まる。戦場には両軍より矢弾が雨のように飛び交う。
そのど真ん中で縛り付けられている岩間の周りにも、当然それは降り注ぐ。
しかし身動きできない、逃げられない。
合戦が終わるまで、この地獄の放置プレイは行われた。

合戦が終わり、岩間は回収される。はたして、なんという運の強さであろう、
戦場の真ん中に放置されたにもかかわらず、彼に矢弾が当たることはなく、
無事、生きていた。

これで岩間は悟った「矢弾の集中する場所にいても、案外当たるもんじゃないのだな。」
彼はこれ以後、人に先駆け敵に突撃する勇者となり、人々は臆病者を勇者に変えた
信玄の手腕を大いにたたえたと言うことである。
え?最初の放置プレイで死んだらどうしたのかって?それは、知らない。

740人間七七四年:2009/11/30(月) 05:08:31 ID:1TB6OdBS
どこの男塾だよ…
741人間七七四年:2009/11/30(月) 10:41:20 ID:HDFphGAF
塾長www
742人間七七四年:2009/11/30(月) 10:42:10 ID:kdO7xvV7
岩間大蔵・・・のちの富樫である
743人間七七四年:2009/11/30(月) 11:00:09 ID:aASfe2Ef
矢玉の森の間の岩間をこっそり見ながら性的興奮をしていた信玄はその夜さっそく岩間を呼び寄せて自分の尻を突き出した信玄だった
翌朝から岩間は偉そうな態度をするようになった
744人間七七四年:2009/11/30(月) 11:49:23 ID:OcqpXmC1
面白いと思って書き込んでるんだろうなぁ…
745人間七七四年:2009/11/30(月) 12:39:46 ID:ob72f0tm
そいつSubだから放置でおk
746人間七七四年:2009/11/30(月) 13:28:06 ID:tE3XSiCj
>>719
鹿児島いた当時は周りに
東西南北上中下内外前の園(薗)が揃ってたわ

園(薗)はバリエーション多すぎて全部把握出来ない
東郷西郷南郷北郷より確実に多い
747人間七七四年:2009/11/30(月) 13:43:42 ID:EaxzWUEa
>>739
塾長「男塾名物 矢武鎖目である」
748人間七七四年:2009/11/30(月) 14:41:41 ID:5ektwmHw
追放したはずの親父がハッスルしてたり
訴訟マニア飼い慣らしたり
男塾ごっこで部下を鍛えたり

御館様も大変だな
749人間七七四年:2009/11/30(月) 16:08:42 ID:zzhWNquo
>712
そんな「北条」さんの悲劇を

1554年上杉家から北条(ほうじょう)家に蔵変えした「北条高広」だが、北条(ほうじょう)家から「北条」ではなく喜多条に強制的に変えさせられてしまった。これに怒ったのかどうかわからないが上杉謙信の関東進攻の時上杉家に帰参、名を喜多条から「北条」に戻したという。

名前の恨みは恐ろしい。
750人間七七四年:2009/11/30(月) 18:50:28 ID:KgbiUf+Q
主家を憚る必要がなくなったから戻しただけじゃないか?
751人間七七四年:2009/11/30(月) 18:51:47 ID:90JqhRN2
>>749
そんなKITA条さんは、御館の乱が勃発すると北条氏邦に従い越後へ攻め入るのでありましたとさ。
752人間七七四年:2009/11/30(月) 20:30:57 ID:vL2SefT9
北条が攻めて来たじょう
753人間七七四年:2009/11/30(月) 20:32:00 ID:kp6w1OwV
長曽我部蓉子が好きなのよ
754人間七七四年:2009/11/30(月) 23:20:07 ID:yxwbCFa0
松平忠吉は近臣に子供が生まれたことを知ると、近臣に子供は可愛いだろう
としつこく尋ねた。そのとき近臣は主君がいつも厳粛であることを思い、
殊勝な者と思われようとした。

「初めての子なら、さぞかし可愛いであろうな」
「いえいえ、特にそのようなことは」
「そんなはずはない。自分の子が可愛いだろう?」
「いいえ本当に可愛いと思っておりません。本当です」
「……」
(よしよし、これで俺の好感度も上がったな)
「なんと邪険な奴だ。貴様のような輩は忠義が疑われる。クビだ」
「え!?」

不興を買った近臣はあえなく改易された。忠吉はとても子供を欲しがって
いたらしく、初めて生まれた子はすぐに亡くしていた。そうした主君の境遇を
考えていなかった近臣は浅はかだった。
755奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/11/30(月) 23:21:41 ID:yJwswXJz
>>754
確かに浅はかだ。
756人間七七四年:2009/11/30(月) 23:49:58 ID:yuqhCGsd
「殿の方が愛しゅうござる」とでも答えておけば。
757人間七七四年:2009/12/01(火) 00:14:20 ID:nkLIiPuL
メンドクサイ三河武士ならここからあれこれ忠吉にケチつけ始めるだろうに
758人間七七四年:2009/12/01(火) 09:08:47 ID:iLObcMAW
家康なら同意したはず
759人間七七四年:2009/12/01(火) 12:56:42 ID:oCBuofQ/
お前でも子が可愛いのかと言われそうで。
760人間七七四年:2009/12/01(火) 14:27:26 ID:OZe0btlO
>>756
某片倉さんGJ!
761人間七七四年:2009/12/01(火) 17:58:36 ID:utM4WvRM
大阪の陣、いよいよ勃発と言う頃、福島正則家臣、吉村宣充は、江戸に抑留されている
正則の下に密かに駆けつけた。

吉村は言う
「我が家は関ヶ原での軍功で、安芸と備後を賜りました。
あの頃世の人々は、『福島家は他の家に比べて恩賞が過分だ』と噂したそうです。
ところが家康公はこれを聞いても
『福島の功は戦功のみにあったのではない。最初に清洲を明け渡し、そこに入った
他の諸侯十三家、数万人を引き受け、40日にわたって兵糧をまかなった。
この功に安芸一国では不足であるから、備後もあてがう事にしたのだ。
決して過分な恩賞ではない。』
と、仰せられたと承りました。

あの時、我が家と徳川家との間には伊奈図書の事件がありました。にもかかわらず
その不満の気持ちを少しも表に出さず備後を我らに下さった事、これはまことに名将の所業で
ありますが、わたしは『平穏な時代になれば我が家に何か圧力がかかってくるに違いない。』と、
ずっと心配していますた。

ところが、今まで十数年にわたり平和な時代が続きましたが、我が家に圧力がかかることは
ありませんでした。

今、私が考えますに、これは『大阪城を落とすまで諸大名の心を取っておこう』と言う
計算があるためでしょう。
つまり、大阪城の落城が、我が福島家に大変が起こる前兆となるのです。

殿!大阪が落城いたしましたら、どうかそのときは直ぐに『天下弓治めのお祝い』として
備後を幕府に献上なさいませ!そうする事が、当家安泰の礎となるでしょう。
この事、なにとぞ御考察ください!」

しかし、正則はこれを受け入れる事はなかった。
その後の福島家改易は、皆、知るところである。
762人間七七四年:2009/12/01(火) 18:09:24 ID:BggSIZaL
>>761
それを教訓にした正則は
後年信濃、越後二ヶ国にまたがる四万五千石を領有していたが、
嫡男死後、信濃二万石のみ残し二万五千石を幕府へ返上した。
しかし教訓は役に立たず、改易になった。
763人間七七四年:2009/12/01(火) 18:14:21 ID:7/jpZzsU
>>760
だったらそもそも子作りしなければって思うのは俺だけか?
女にだって菊門はあるんだし、そっち使えばいいのに。
764人間七七四年:2009/12/01(火) 20:28:12 ID:AgWIzT4N
羽後の戦乱で武名を上げた夜叉九郎こと、戸沢盛安。
小田原参陣でも、↓のような勇ましい逸話が残されている。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2782.html

しかし、この参陣の途上にはこんな逸話もある。
張り切って出発した盛安一行、羽前の港・酒田に到着したところで大変なことが判明した。
なんと、旅費が尽きた。
まだ出羽国から出てすらいない。手持ちの銭が全然足りていなかった。
羽後でも新興勢力、しかも旅慣れぬ地方武士の悲しさか、わずか10騎足らずの旅費もままならなかったらしい。
仕方なく、酒田の豪商・加賀屋与助より七両ばかり借金し、ようやく上洛することができた。

いくら勇将でも、やっぱり先立つものがなくてはどうにもならなかった。
765人間七七四年:2009/12/01(火) 20:39:28 ID:BggSIZaL
>>764
なんか関ヶ原の謝罪で家康に会うため、福島正則から金を借りて江戸へ行った
島津家久を彷彿とさせる悲しい話だな。
766人間七七四年:2009/12/01(火) 21:09:20 ID:FDWat5kv
当時の旅費って何がかかったのかな?
食費、宿泊費、馬のニンジン代?

出発前にある程度予想がつきそうな気が…それとも地域によって物価があほみたいに違ってたのかな
767人間七七四年:2009/12/01(火) 21:11:09 ID:BggSIZaL
まずは
木賃だな。
炊飯用の。
768人間七七四年:2009/12/01(火) 21:16:03 ID:EpdzG+Iv
通行税とか凄そうだけど
769人間七七四年:2009/12/01(火) 21:42:05 ID:9boDiZZ6
物価は京と南部では5倍くらい違ったり、物によるけどね
770人間七七四年:2009/12/01(火) 21:49:01 ID:BggSIZaL
どうせ旅するなら、天秤棒担いで商売しながら歩けばよかったのに。>>戸沢
そうすれば旅費に苦労するどころか、稼げる。
771人間七七四年:2009/12/01(火) 21:50:24 ID:9boDiZZ6
どう考えても遅参です。あがt
772人間七七四年:2009/12/01(火) 21:52:04 ID:utM4WvRM
大名の参陣で最も金がかかるのは貢物。
ケチればその程度の勢力かと認識されるので、身の丈精一杯のお土産を
用意する必要があった。
北条が秀吉のところに使者を出したときでさえ、そのために臨時の増税したほど。
毛利輝元は初上洛のときは家臣から借金してた。
773人間七七四年:2009/12/01(火) 23:17:22 ID:i0JQKYW2
徳川家康の直参旗本が同僚を斬り殺して逃げ、本多忠勝の屋敷に駆け込んだ。
これを家康みずからが走って追いかけ、忠勝屋敷の門前まで来ると、
「ただ今駆け込んだ者を、すぐに渡せ!!」と騒ぎ立てた。

屋敷から出て来た忠勝は、
「お越しいただき申し訳ござらん。殿の御意とあらば、何で駆け込み者を隠しましょう。
とは言え、ご自身の出馬とあらば事が大きくなり、他への聞こえもあり申す。
ここは早々にお帰り下され。」と、家康をなだめた。

しかし家康は「どうでも良いわい。とにかく、かの者を出さねば帰らんぞ!!」
と言って、屋敷の門の敷居に座り込んでしまった。
ここに至っては仕方なく、忠勝は駆け込み者の首をはね、家康に渡した。

のちに家康は語った。
「駆け込み者は保護すべきであるのに、あっさり出すとは、忠勝に似合わぬ処置である。
酒井備後(忠利、酒井忠勝父)ならば出さなかっただろうに。」


…えーと、どうすれば……
774人間七七四年:2009/12/01(火) 23:25:28 ID:BggSIZaL
>>773
当然、家康が三成を隠居させたようにする
775人間七七四年:2009/12/01(火) 23:30:45 ID:bdHp1r0x
>>773
三河武士のテンプレの如く
めんどくさくめんどくさく対応するべきでした。
776人間七七四年:2009/12/01(火) 23:35:37 ID:BggSIZaL
>>775
なるほど。
逆に家康の屋敷に押し掛けて座り込みするわけだな。
777人間七七四年:2009/12/01(火) 23:40:55 ID:m7E0eXII
>>697>>708
たまたま伊達騒動と長宗我部の話が出たんで思い出したが、
伊達騒動で原田甲斐を斬った柴田外記は長宗我部の家老だった佐竹親直の忘れ形見
佐竹親直の妻は元親の女なんで、柴田外記は元親の孫に当たる
まあちょっとしたつながりでした
778人間七七四年:2009/12/01(火) 23:43:57 ID:DnP8idwb
家康直伝の「腹切って死ぬ死ぬ詐欺」をするか、
自分で編み出した「一戦仕る詐欺」をする。
779人間七七四年:2009/12/01(火) 23:49:34 ID:4q/pDRIJ
>>777
柴田外記が香宗我部氏の仙台藩仕官を斡旋しているんだよね。
柴田家は仙台騒動の後に船岡城を預かる重臣になって、後に
白鳥事件にも関わってくるんだよね
780人間七七四年:2009/12/02(水) 01:49:20 ID:7T494h0D
>>778
しかしやりすぎるとオオカミ少年になる諸刃の剣
この程度の事件ではオススメできない
781人間七七四年:2009/12/02(水) 02:09:15 ID:JbPd0xYK
三河武士がめんどくさいのは主君がめんどくさい対応を求めてるせいじゃないんだろうか
782人間七七四年:2009/12/02(水) 02:44:21 ID:/JYzQnus
つまりツンデレではなくデレデレだったと
783人間七七四年:2009/12/02(水) 05:32:47 ID:hX2dU6aw
>>773
>これを家康みずからが走って追いかけ、忠勝屋敷の門前まで来ると、
>「ただ今駆け込んだ者を、すぐに渡せ!!」と騒ぎ立てた。

家康の個人的イメージ図
ttp://korokobo.michikusa.jp/u_uheei/dra_gisin/018.jpg
784人間七七四年:2009/12/02(水) 15:36:06 ID:J+7+G+xi
>>779
船岡城址に花見行ったら
柴田外記と原田甲斐の供養塔が仲良さげに並んで建っててアイター (ノ∀`)
まあ仏となったら斬った斬られたは関係ないのかもしれんが・・・w
785人間七七四年:2009/12/02(水) 16:12:03 ID:asOWgZLI
紀州公は家臣を手打ちにしたら帯刀にしこたま叱られてるのに
父親は自ら追いかけるとかw
786人間七七四年:2009/12/02(水) 16:29:40 ID:fAw6DGM3
>>785
紀州公ならば家臣手打ちにして帯刀のお説教
神君なら家臣手打ちにするべく追い回してかくまった家まで押しかけ
三斎なら家臣手打ちで三十六歌仙
鬼武蔵なら他家の橋守も他家に逃げた下人も視界に入ったら殺害
秀吉なら落首があれば近隣皆殺し、何十年前のいじめっ子を思い出せば手打ちにしてくれようと捜索

やっぱりラスボスはスケールがちgひsじょlk
  ハ,,ハ
 (。ω゚ )ゴトッ
  ~~~~~
787人間七七四年:2009/12/02(水) 17:45:09 ID:niulY8+b
いじめっ子に復讐するのは権現様だろう
788人間七七四年:2009/12/02(水) 18:31:38 ID:maGO05qZ
一応切腹ならまだ節度ある方じゃね
789人間七七四年:2009/12/02(水) 18:40:47 ID:m4ZsGPg5
>>786
紀州公ならば家臣手打ちにして帯刀のお説教
神君なら家臣手打ちにするべく追い回してかくまった家まで押しかけ
三斎なら家臣手打ちで三十六歌仙
鬼武蔵なら他家の橋守も他家に逃げた下人も視界に入ったら殺害
秀吉なら落首があれば近隣皆殺し、何十年前のいじめっ子を思い出せば手打ちにしてくれようと捜索

参議正則なら家臣手打ちにするべく追い回してかくまった家まで押しかけ土下座して謝って帰る
790人間七七四年:2009/12/02(水) 18:44:01 ID:hHwZ0XY7
市松・・・・可愛い奴w
791人間七七四年:2009/12/02(水) 19:21:28 ID:MPRqHLz1
いい話スレで信雄が舞ったときの話が出たが、こういう話もある。

豊臣秀吉がついに小田原北条氏を降した戦勝祝いのとき、秀吉は織田信雄に
舞を求めた。しかし信雄は常々秀吉に怨みがあったのか、舞を舞うことは
舞ったのだが…

「秀吉め、わしを見くびりやがって…お前に不吉な舞を見せてやるぞ」

と思い、不吉な舞を披露したのである。これに気づかない秀吉ではない。
祝いの席でなんてことをするのかと不機嫌になった。

そしてその後、秀吉は徳川家康の代わりに信雄に三河などを任せようとしたが…

「今の領地でいい」

と信雄はきっぱり断った。秀吉は不吉な舞のこともあって信雄の態度に激怒し、

「信長公の子だから要所を任せようというのに拒否するとは、大名の器ではないな」

と、信雄を改易してしまった。これを見た世の人々は信雄は少しの意地で
領地を失ったと言い合ったという。
792人間七七四年:2009/12/02(水) 19:38:13 ID:m4ZsGPg5
>>791
おかげで織田氏は危険視されず、皆から忘れ去られ政争に巻き込まれることなく
明治まで家を安泰に保てました。

良い話じゃね?
793人間七七四年:2009/12/02(水) 19:58:05 ID:kL0V0Lc9
まあ、信雄って一時は秀吉の上に立って、かつ秀吉に逆らったというか敵対した人物だからなあ。
有能なところを見せていたら、三河遠江駿河甲斐信濃五カ国の大名なんて地位も命も、最後まて保てなかっただろうな。
794人間七七四年:2009/12/02(水) 20:21:42 ID:fKyYiL4q
有能だったら狙われるような立場にもならずに済んだのでは?
795人間七七四年:2009/12/02(水) 20:30:13 ID:JCVRdWQE
叔父さんから生き残る方法を教わって実践したんじゃない?
796人間七七四年:2009/12/02(水) 20:30:25 ID:V5PeWpW3
>>794 豊臣政権は逆
797人間七七四年:2009/12/02(水) 20:52:35 ID:tQS4sfBZ
>>796
>>794は有能なら信雄が天下取ったってことじゃね?
798人間七七四年:2009/12/02(水) 21:01:29 ID:8PSoMSZy
兄貴か親父のどっちかが生き残ってれば苦労しなかったけどな
799人間七七四年:2009/12/02(水) 23:41:45 ID:kNI9oTpH
中途半端に有能というか人並みでもよくないだろう。
豊臣秀頼が、三介どのや氏真どのみたいならば豊家の歴史も変わったかもしれない。

逆に三介どのが信孝レベルだったりすれば秀吉に殺されてただろうし、
信忠でもそうだったかも。

信忠が生きてた場合はかなり陰険なことしないとうまく秀吉の世にはならないだろうけど。
800人間七七四年:2009/12/03(木) 00:35:12 ID:fbwh646n
「昔、都の上京辺りで火事があった。火の手はみるみるうちに広がり、内裏さえも危うくなって
宮中百官がどうしようか右往左往していると、皇弟の八条宮智仁親王が衣冠を正し、太刀を
携えてやって来た。
「すでに火は間近い。万一の延焼に備え、主上には不肖この身がお護りするゆえ、他へ行幸
していただきたく参上した。誰かある!このこと主上に奏上いたせ!」

親王の言葉と威に打たれた殿上人は、「実に頼もしき御装いかな」と感じ入り、落ち着いて
行動することが出来た。

そこへ、宿直を抜けて物見遊山に出かけていた公家衆が騒ぎを聞きつけ、あわてふためき
遊び着のまま汗を流して駆けつけたが、親王の凛々しいお姿を見て、肝を潰して逃げ出した。
その見苦しい有様には、宮中の百官も言葉もなかったそうな。

このように、人間の善し悪しは危急の時に現れるものだ。」





と、織田常真入道信雄は語った。
801人間七七四年:2009/12/03(木) 00:38:15 ID:PMc2TvDu
台無しだよw
802人間七七四年:2009/12/03(木) 00:57:21 ID:sAJHXnp7
有楽「ほう、興味深い話ですな」
803人間七七四年:2009/12/03(木) 01:13:33 ID:K9HrDQes
>>800
お公家さんの頼りなさと「お前が言うな」、二重の意味で悪い話ですなw
804人間七七四年:2009/12/03(木) 01:20:38 ID:hjHTzJBv
豊臣秀吉による九州、島津征伐の緒戦、戸次川の戦いで大敗を喫し、
嫡男信親を失った長宗我部元親も、大将仙石秀久と共に伊予へと撤退する。

信親を失った事に痛切極まりない元親は、家臣谷忠兵衛を、かねてから親交があり、
戸次川の戦いでも戦いあった島津の重臣、新納忠元の元に派遣した。

忠兵衛、忠元に元親の言葉を伝える

『この度の豊後、戸次川合戦でのあなたの働き、古今に見られぬほどのもので、
どれだけ称えても、称えきれないでしょう。

そこにおいて、我が愚息弥三郎(信親)は戦死を遂げました。
これは武士の本意に適うものであり、また天下のお役に立ったものでもあり、
我が一家の誇りとするところであります。

そこでどうか、彼の遺骸をお引渡しいただきたいのです。』

忠元はこれを聞いて涙を流し、言った

「私は先年より不思議な縁があって、宮内少輔(元親)殿と親交を結ぶようになりました。
それからお会いする事は無かったものの、書状にてよしみを深めました。

然るに、去る12月12日の合戦において、ご子息弥三郎殿の部隊と出会い一戦に及び、
我が方も多くの兵が討たれましたが、武運が少しばかり勝っていたのでしょう、我々が勝利し、
弥三郎殿は戦死を遂げられました。
武士の習い、戦の習いとは申しますが、弥三郎殿の戦死は私にとっても最近に無く、
本意に無いことであります。
その御遺骸を直ぐにでも送るべきであったのに、忙しさにかまけそれを怠ったこと、
旧交を忘れた所業だと言われてもしかたがありません。

武士が合戦にて討死する事、元より望むものとは言いますが、親子の恩愛は不朽とも言います。
宮内少輔殿のご心底、お察し申し上げます。

弥三郎殿の奮戦は素晴らしく、その名誉は人々に語られております。
どうかこの事を以って、お心をお慰めください。』

そう伝えよと使者に言い含め、信親の遺骸は既に痛んでいたため火葬をし、
遺骨と、遺品である甲冑、太刀を持たせて、元親の元に返させた。



元親は、使者の持ち帰った信親の遺品を一目見たとたん、目を背け、嗚咽した。
余りの嘆きように近習たちは、すぐにその遺品を、元親の目に付かない場所へ運んだと言う。

その遺品、太刀は鍔元から切っ先まで隙間も無く敵の切り込みを受けた跡があり、
もはや太刀の形をしていなかった。
甲冑には矢弾の跡、太刀、槍の跡が数え切れないほど残っており、袖や草摺の部分は
途中から千切れていた。

これを見たものは皆、『信親様はなんと激しく戦ったのか』と、驚き、涙を流さないものは
いなかったと言う。
805人間七七四年:2009/12/03(木) 05:54:14 ID:wLHU0Ls8
いい話スレに投下すべきじゃないか?
どこが悪い話かわからん。
806人間七七四年:2009/12/03(木) 06:06:39 ID:Vo0sATNp
まぁ長曾我部にとっては、その後の滅亡の遠因にもなった悪い話ではあるな。
でもいい話スレ用だね、確かに。
807人間七七四年:2009/12/03(木) 08:02:56 ID:ouQkfAov
九州戦線で大敗を喫し、自家どころか長曽我部家まで衰退させた仙石家にとっての悪い話じゃね
808人間七七四年:2009/12/03(木) 12:54:52 ID:myrkjWlM
>>805
まあ、遺品の状態が悪い話ということで。

これは涙を誘う話。
809人間七七四年:2009/12/03(木) 16:36:01 ID:ZUMuJeLY
息子を見殺しにして逃げた悪い話?
810人間七七四年:2009/12/03(木) 17:55:20 ID:y7x7KVRJ
見殺しってか家臣に馬の尻引っぱたかれたんじゃなかったかね。
ま、四国勢壊滅させた仙石さんの悪い話に被害被った(運の)悪い話だな
811人間七七四年:2009/12/03(木) 19:38:11 ID:rPd1Wp+1
>>804
切ないな…
812人間七七四年:2009/12/03(木) 20:35:08 ID:rf0Zbaek
>>775
スレチかも知れんが、
今、大河の『徳川家康』見ててこのスレの『三河武士=めんどくさい』
ってテンプレ意味が理解出来た気がする。


813人間七七四年:2009/12/03(木) 23:27:19 ID:MQ6313Ux
>>812
ニアリーイコール江戸っ子気質だから、まじ大久保彦左衛門と一心太助の世界なんだよね。...バクーフが
814人間七七四年:2009/12/04(金) 11:03:53 ID:nKlbEmfH
三河武士・平松金次郎は、同僚にケンカを仕掛けられると逃げ出すのが常だった。

ある日、渡し舟の中で口論になった金次郎は、自分の若党が殴られて引っ込んでしまった。
これを見た同僚たちは金次郎をいよいよ「腰抜け」と罵り、金次郎と刀掛けを一緒にするのも
いやがる程になった。
しかし家康だけは、「いや、金次郎は志ある剛の者だ。」と、彼をかばった。

天正12年(1584)4月、徳川軍は池田恒興・森長可率いる軍と戦った。この時、金次郎は
茜色の陣羽織に十文字の槍を携え、鬼武蔵と呼ばれる男の軍へ一直線に駆け入り、
見事に一番槍を果たした。戦後、金次郎は大声で言った。

「生れてより殿様の恩を受け、これを返すため軽々しく命は捨てられぬ、と思って今まで
ケンカを引き下がってきた。
ご恩を返した今、思い残す事もない。誰でも出て来い、一薙ぎで斬ってくれる!」
一人として言葉を返せる者はいなかった。

・・・と、ここまではいい話なのだが、忠義のために恥を捨てるこの男が、のちに加増のことで
不満を持ち、豊臣秀次に誘われて出奔してしまった。

激怒した家康は刺客を放った。小栗又市・渡辺半蔵・河村善七・坂部治兵衛(三十郎従弟)
と、そうそうたる面々が送り込まれたが、金次郎はよほどの手練れだったのか、坂部が
返り討ちにあった上で、ようやく遠江袋井の古寺に押し込め腹を切らせたという。


・・・いまいち、めんどくさい武士のスイッチがわからん
815人間七七四年:2009/12/04(金) 14:22:45 ID:PR7Hnd6g
又市さんと槍の半蔵がいるチーム返り討ちにするとか相当強いんじゃ
もったいないなあ

ガマンから解放されて気が大きくなってたんだろうか
816人間七七四年:2009/12/04(金) 15:31:10 ID:/+gjK+Xr
自分への公的な評価って、恩賞で測るしかないからね
忠義に見合う恩賞じゃない、と切れちゃったのか
817人間七七四年:2009/12/04(金) 17:20:14 ID:QrB+TY86
鬼武蔵に向かっていくってだけでも貴重な人材なのに。

ところでふと思ったんだが、メメント・モリが「死を想え」って意味なら、
鬼武蔵はまさにその名に死を冠していると言えなくもない・・・・・・よね。
818人間七七四年:2009/12/04(金) 17:53:38 ID:rAiR0wW/
長宗我部元親が、土佐一国の検地を行った頃の事である。

弘岡の郷に籠宗全という、算用に通じ、検地の実務に詳しい者がいた。
彼が浦戸まで出てきて、元親に申し上げるに

「先に土佐一国の検地が行われました。が、その内容は甚だ粗雑で、不十分な検地によって
税収にかなりの損失が出来ているように見えます。

そこで、どうか私に再度の検地を申し付けください。国中ことごとく調べなおし、1万石の地から、
新たに千石を打ち出して見せましょう。」

家老達の中には、『これは民を虐げる所業ではないか?』と言うものもいたが、
増収のためであると言われれば、これをむげに退ける事もできず、とにかく一度、この宗全に
やらせてみよう、と言うことになった。

宗全は先ず、自分の住居のある周辺の地域、弘岡、伊野、畑などを検地した。
この検地で宗全はなんと、千石の地から新たに、八百石余りを打ち出した。
なんと80%の増益である。当然、年貢も倍近くに増える。
この地域の民、これを聞いて大変に嘆き悲しんだ。


慶長四年(1599)、十二月三十日の事であったそうだ
深夜、宗全の家に何者かが、四方より火をかけた。
宗全は寝入っていたため逃げることが出来ず、そのまま焼け死んだ。
これは後で、近隣に住む一領具足の仕業だと言われたが、
宗全の死に関しては、『因果応報である』と、同情するものは誰もいなかったそうである。
819人間七七四年:2009/12/04(金) 20:36:40 ID:d1vRxQnY
前の検地の時は目溢しとかもあったんだろうな…
下手すりゃ一揆が起きても気がする。
籠宗全(とその家人もか?)だけで済んだだけまだマシだったのかも。
820人間七七四年:2009/12/04(金) 20:51:54 ID:Kz6mIplU
別の見方をすれば、元親は上手く使ったよな、というところか。
税収は増やして、恨みは他所へ。
821人間七七四年:2009/12/05(土) 01:57:25 ID:OHnP+2k+
>>820
家康のいう「代官は殺される商売」てヤツかね
822人間七七四年:2009/12/05(土) 04:12:27 ID:fVVcurG/
商鞅みたい
823人間七七四年:2009/12/05(土) 08:18:13 ID:04lL+Csu
>>816
普通、一番槍は自分から攻めるというすごく勇気がいることから、報償されるものなのだが
三河武士にはそういうのはゴマンといるのであった
だから、大切なのはその逆の自己を抑制できる三河武士だったりする訳で
824人間七七四年:2009/12/05(土) 09:09:02 ID:BtbsFC4Q
>>822
功臣が排除されるというパターンだと、
本多正純に似ていると思う。
825人間七七四年:2009/12/05(土) 11:25:48 ID:8sDEhkoL
戦国無双3の市松の扱いにワロタ。
826人間七七四年:2009/12/05(土) 12:29:12 ID:0eDPTA9f
ここが雑談スレだ
827人間七七四年:2009/12/05(土) 13:38:49 ID:KESt7QzX
小説だけど「神無き月十番目の夜」も検地のときの話で激鬱になったなあ
文字通りの死活問題だもんね
828人間七七四年:2009/12/05(土) 13:44:24 ID:9FWu336+
検地で苦労したという割に太閤検地の表高5万石で、
実高20万石より相当低く抑えられてるな>長宗我部の土佐
唐入りや上杉討伐(関ヶ原)ではばっちり20万石相当の
軍役課せられてるから、中央にはバレバレだったんだろうけど
829人間七七四年:2009/12/05(土) 17:42:14 ID:irZ/5Kbc
土佐は国沢に何某と言う学者が住んでいた。
彼は内外の書物に通じ、土佐における大賢と尊ばれ、およそかの国で学問を
志すほどの者で、何某の門弟にならぬものはいなかったのだと言う。

さて、土佐に検地が行われると、村落の境界が確定し、それに伴い一部の地名の変更などが
行われた。
この時何某、かねてよりの研究の結果を今こそ役立てる時だと思い、長宗我部元親の
在する浦戸城に、国中の在地に関する正しい名称、および神社仏閣の来歴を記した書物を
差し上げた。その上で申し上げた事に

「現在、長岡郡岡豊と書いていますが、この『岡豊』、元々は『豊岡』であったものが、いつの頃からか
上下逆となってしまった誤表記なのです。
今、地名の変更などが行われていますが、この際に岡豊の方も、過去の正しい表記に
戻すべきではないでしょうか。」

元親はこれを聞くと、どうするべきか重臣達に詮議をさせたが、各論様々で議論は一致しなかった。
そこで神社仏閣や、各家の記録を集め、改めて調べなおしたが、それらは皆『岡豊』と書き、
『豊岡』と書いているものは無かった。
この調査結果より、元親

「記録の中には『岡豊』を、仮名で書いたものもあったそうだ。
確かに最初は『豊岡』であったのかもしれない。が、数代にわたって『岡豊』と書いてきた。
今これを改めて、なんの利益があるというのだろう?人々を混乱させ、迷惑をかけるだけではないか。

だいたい近頃の学者と言う連中を見てみると、天道(天文学)、地理、神道、仏法を始めとして、
学んでもいないような和歌の技術にまで勝手に道理をつけて口に任せて説いて回っている。
前後の明らかでない文章すら、多くの書物の中から似通った言葉を取り出し、『これは
この文字の通音、これはこれと韻が近い、こっちは言い誤りだ』などと、木を竹に接ぐような
真似をしてこれを語る。
今の『岡豊』『豊岡』の話も、それと同じ事だ。

古人の言葉に、理屈は道理を迷わし、利口は賢さを後退させる、高智でなければ
全てを知る事はできない、と言う。
であれば、『悪利口は国家を覆す』と言うのは、古聖人の教えである。
古の学者は人を導いたが、今の学者は人を迷わす。総じて、破戒の出家は清潔に見せて
人を欺く。儒者などと言う連中も同様の曲者である。」

そして何某に対し

「今、この者は聞かれもしないのに、やって来て教えを説こうとした。
その心底を考えるに、学問を売り、名を求め利を貪る方便として使っているのだろう。
これは盗賊の頭領と同じではないか!
周礼に言う、造言之刑、もしくは乱民之刑にあたる。
国政を妨げる事、これより大きな事は無い。罰せずには置けない事である!
これを今時多い、売学の徒への見せしめとせよ!」

そう言って何某を捕らえると首を刎ね、獄門とした。


何某も、まさか地名に関する指摘で殺されるとは思わなかったであろう。
後世に言う、「岡豊の文字事件」である。
830人間七七四年:2009/12/05(土) 17:50:44 ID:wTAwXG0T
これはちょっと難しい案件だな…
元親の言い分は現代にも通用すると思うがまさか首を跳ねるとは…
んな事したら真の賢者まで進言してくれなくなるのでは?
831人間七七四年:2009/12/05(土) 20:22:56 ID:OsYXjRVo
あえて元親を弁護(?)すると、この話土佐物語によれば
「七人ミサキ」事件と同時期、元親錯乱の頃の話のようで
学者も運が悪かったなあと…
832人間七七四年:2009/12/05(土) 22:52:00 ID:91JboteQ
元親は後半生がどうにも悲劇だな。
833人間七七四年:2009/12/05(土) 23:07:17 ID:lgZz6FlT
打ち首獄門にするほどではないような・・・・
裏に何かあったのかな
834人間七七四年:2009/12/05(土) 23:13:41 ID:pxaSPoxg
信親が死んだ後はほんとに別人だからな。
実際に優秀かどうかは別として、
信親にはやっぱり相当期待してたんだろう。
835人間七七四年:2009/12/05(土) 23:18:38 ID:3FVSN7aV
祟られたんだろうな。
836人間七七四年:2009/12/06(日) 04:53:13 ID:iNSsOLif
センゴクにか
837人間七七四年:2009/12/06(日) 08:26:01 ID:O1yWnnv7
仙石秀久の実績は間接的に元親を廃人同然にしたこと
それ以外は何もないな
838人間七七四年:2009/12/06(日) 10:59:47 ID:2uUffFPY
結果として長宗我部家を滅亡に導いたと考えれば凄い事かもしれんよw
839人間七七四年:2009/12/06(日) 11:32:09 ID:8JABMjs2
>>838
十河家の事もたまには思い出してあげてください
840人間七七四年:2009/12/06(日) 12:48:29 ID:t4noqVzj
四国勢クラッシャーセンゴク


そういや四国って都の陰陽師が流れてきてるけど長宗我部とか三好とかに仕えていたのかしらん?
完全に民間に潜っちゃったのかな?
841人間七七四年:2009/12/06(日) 13:10:17 ID:2f3LoAlx
俺はパーティを組まされた
十河・長宗我部・仙石のそれぞれに同情するけどな
まあ仙石は逃げたのはまずかったがな、
秀吉ももうちょっと考えろよ…最悪って組み合わせじゃねーぞ
仙石の戸次川を一つだけ擁護するなら先陣切ったって所だけだな
これが長曽我部・十河を先に行かせてたらもう擁護しようがなかったw
尾藤と仙石の対比が実に面白い
842人間七七四年:2009/12/06(日) 13:31:29 ID:O1yWnnv7
あの頃、秀吉は相性が悪い者同士を組ませてみるサド気質に目覚めたからな
朝鮮でも加藤と小西を先鋒に立てるとか、そういう組み合わせばかりするようになった
天下人の持つ権力に酔いしれて、それが止まらなくなってしまったんだな
ま、それは信長・家康にも言えることだが
843人間七七四年:2009/12/06(日) 13:50:11 ID:xvk3GpOU
人たらしとか言われてる割に他人の意志尊重しないよな>秀吉

自分の妹の40ババアを元のダンナから奪い取って家康に押しつけたり
中川秀成に鬼玄蕃の娘を嫁がせたのだって秀成が嫁かばったから
美談になってるけど中川家中じゃさんざん嫌われたみたいだし
844人間七七四年:2009/12/06(日) 14:03:23 ID:PmymF+Kk
センゴクは古参だし期待されてたんだと思うけどな。
あんな失態をするとは思わなかっただろう。
845人間七七四年:2009/12/06(日) 15:10:04 ID:xqrYaM0g
四国の時みたいにちゃんと黒田をつけてればこんなことにはならなかったのにな
846人間七七四年:2009/12/06(日) 15:25:27 ID:D3kYGRRw
>844
自分が先陣切って討ち死にしてれば「100%大友が悪い!」って擁護して貰えたかもしれんが逃亡チキンだからな
まるで器じゃなかったからねえ。軍監だの参謀だの能力も資質も不足すぎ。 

と、逸話も書かずに雑談してしまった
847人間七七四年:2009/12/06(日) 15:25:50 ID:rTfk2quu
黒田、蜂須賀、前野といった将官級
子飼いの青年将校清正、正則、三成、大谷達(尉官級)

この間の人材(佐官級)に確固たる戦歴を付けさせたかったんじゃないかなと思う
いわゆる次世代の司令官候補に神子田、尾藤、仙石あたり

行政官僚系の佐官級は中村、堀尾、山内、藤堂とかを秀長秀次付にして経験
積ませてたわけで
848人間七七四年:2009/12/06(日) 15:32:29 ID:E5aghn+o
秀吉は息子だけでなく子飼い育てるのも下手だったのか
849人間七七四年:2009/12/06(日) 15:54:37 ID:2f3LoAlx
ゴンベーは基本的に前線で戦ってたからな〜
1次淡路でも補佐がクロカン、1次四国では十河いたけど数的に前線と変わらない
紀州征伐のパーティは増田・藤堂・小西・仙石で立ち回りは多分槍働きだし
2次四国も前線で蜂須賀・十河・仙石で後衛が笑岩・秀次・秀長だったし
実質の総大将は九州征伐で初めてだったから、ある意味辛かったと思うよ。
850人間七七四年:2009/12/06(日) 16:32:33 ID:O1yWnnv7
>>848
というか秀吉に、人を見る目が無かっただけの話じゃないかと
人たらし=人を見る目がある、ってことじゃないしね
子飼いといっても秀吉自身が成り上がり者で、人材に不足していたから縁続きの男を手当たり次第引き上げただけだし
851人間七七四年:2009/12/06(日) 16:40:55 ID:Tedobc/Z
仙石さんに指揮官させちゃだめだったんだよ、やっぱり
本人のためにも周りのためにもならなかった
852人間七七四年:2009/12/06(日) 16:46:53 ID:YFq5g3v6
>>850
秀吉の人たらしってのは魅力で惹きつけるというよりは、
交渉能力の賜だと思うけどな。
853人間七七四年:2009/12/06(日) 18:04:22 ID:NFi0FTbo
仙石さんがおかしくなったのは、紀伊山中で変な鐘拾って帰った祟りだろう
854人間七七四年:2009/12/06(日) 18:28:21 ID:evxkbKZM
安珍清姫「おのれセンゴク〜
855人間七七四年:2009/12/06(日) 19:14:49 ID:dPNhTZig
天正二十年(1592)、豊臣秀吉はいよいよ、朝鮮に向けて出兵を開始。
後世に言う文禄の役の始まりである。
この年の四月、渡海するための軍船数万隻が、壱岐国風本の港に集結した。
ここから対馬へと渡り、さらにそこから朝鮮に向かうのである。

さてここに、小西行長がいた。
小西は対馬守、宗義智に尋ねる

「あなたはこの海の案内を良くご存知であります。
今吹いている風を、どのように考えられますか?」

「これ程であれば、順風と言うべきでしょうが、普段よりは少し、強く吹いているようです。」

「ほう、順風ですか。多少強く吹いているからと言って、この海を渡れないということはありませんな。」

行長は配下の船に、密かに命を下した
「明日早朝、出航する。」

翌、未だ夜が開け切らぬ頃、小西部隊の船、俄に帆を上げ、港より押し出た。
他家の船、これを見て叫ぶ

「抜け駆けだ!」

他の船も慌てて出航の準備をはじめ、用意の出来た船から小西を追って港を出た。
ところが巳の刻(10時ごろ)、十里ばかり進んだところで突然風向きが変わり、
後続の船団は港に引き返す。しかし先行した小西隊はその風の影響を受けず、
四十二里(約170キロ)を二時(約四時間)で走り、対馬豊崎港に到着。

この後風が悪く二日ほどここに逗留し、釜山へと向ったが、壱岐に残された船は、
その頃ようやく出航する有様であり、後続部隊が朝鮮に着いた頃には既に、
小西隊が釜山を攻め取り、忠州を占拠しようという状況であった。

この抜け駆けに諸将怒り、中でも加藤清正の怒りは甚だしく、これが朝鮮役を通じての、
加藤、小西の対立の端緒となった。とのことである。
856人間七七四年:2009/12/06(日) 19:24:15 ID:wLRHej/G
>>855
これから外国に攻め入ろうと言う時に抜け駆けとか近所の城攻めるんじゃないんだからよ
と、この話を聞くと思う
857人間七七四年:2009/12/06(日) 20:28:58 ID:iNSsOLif
ついでにそのあとの風の予想も聞いていて出港したとか
858人間七七四年:2009/12/06(日) 21:05:42 ID:WlENEcz8
>>856
隣の城攻める感覚だったんだと思うよw少なくとも最初は
859人間七七四年:2009/12/06(日) 21:06:01 ID:dDxYMEVb
むしろそのまま孤立して壊滅してたらいい教訓話になったのかもなあ。
860人間七七四年:2009/12/07(月) 00:41:13 ID:jUCUPUif
慶長元年(1596)7月、畿内大地震の際に伏見城へ駆けつけた加藤清正は、謹慎を許された。

秀吉「虎之助、このたびは助かった。よう来てくれた。
……そう言えば、朝鮮より大量の竹を持ち帰ったそうじゃな。どうするつもりじゃ?」
清正「え?い、いや…その、あの…私も竹で庵の一つも造ってみようかと…」
秀吉「?ほう、おまえも侘び数寄に目覚めたか。まぁ趣味を持つのは良い事だ、励め。」
清正「…は、はぁ……」
秀吉「???」

しかし、やがて秀吉の耳に清正が竹庵造りどころか、竹を諸将に売り払っているとの話が
聞こえて来た。
秀吉「?????」

さらに、世間では噂が流れた。
「清正は朝鮮で略奪を繰り返し、莫大な財宝を得た。悪評を恐れた清正は、帰国に及んで
財宝を黄金に替え、これを溶かし『何か』に隠して日本に持ち帰った」


天下人に見紛う巨城・熊本城は慶長11年(1606)に完成した。朝鮮の役に膨大な金と人を
つぎ込んだ清正が、その建造費用をどこから捻出したのかは、不明である。
861人間七七四年:2009/12/07(月) 10:28:33 ID:LE2vO3sn
まあ政宗の仙台城や三歳の小倉城とか同時期に城作った人が
軒並み財政難に陥ってる中で「三ノ天守」まである城作るのは不審だが…
862人間七七四年:2009/12/07(月) 14:05:23 ID:xNoewVTn
当時の半島に財宝ってほどの財産があったのか
明に絞り上げられてたっぽいけど、隠してたってことかな
伊達が母ちゃんへの土産になるもの探しても布しか無かったそうだけど
863人間七七四年:2009/12/07(月) 15:15:50 ID:A7iepmdg
きっと竹塩だよ
竹塩石鹸は美容にいいらしいしw

実際、熊本の小麦をフィリピンのスペイン人と交易したりして費用を捻出していたという論文を見たことがあるし
清正が半島でなんかの副業していた可能性は否定できないなあ。
864人間七七四年:2009/12/07(月) 16:42:41 ID:wlJjobvX
>>862
布と言っても当時は高級だった木綿だから。
当時の国内では三河くらいでしか生産されていない。

漢城や地方の官庁に備蓄されていたものを集めて行ったとかかな。
土地の富農富豪の蔵とか。
865人間七七四年:2009/12/07(月) 16:57:53 ID:ZLj+2pME
>>862
冊封体制下なんだから、明に絞り上げられるってこたないだろ。
李王朝自身の搾取によるならともかく。

でなきゃ足利氏だって好き好んで冊封に入るかという。
866人間七七四年:2009/12/07(月) 17:14:21 ID:Bh6Sv764
伝説好きとしては、虎皮を売って儲けたお金ってことにしてほしいw
実際は隠してあった朝鮮茶器を売りさばいたとかだろうけど
867人間七七四年:2009/12/07(月) 17:54:57 ID:e3ntVNYH
乱取りで獲得した朝鮮人奴隷を南蛮船に売って、というのは無いかな?
868人間七七四年:2009/12/07(月) 18:27:56 ID:tPEvEYZ5
もし大規模にちょろまかせるとしたら朝鮮国内じゃないんじゃないの
満州黄金伝説とかロマンあるじゃん
869人間七七四年:2009/12/07(月) 18:39:02 ID:t3TdzX2P
>>865
ところが李氏朝鮮は元と必要以上に親密だったのが明に睨まれましてね・・・
まあいろいろ貧乏籤国家だったことは確かよ。
870人間七七四年:2009/12/07(月) 19:34:22 ID:84Aoq3su
>>869
ああそんな話が前有ったな・・・確か明に全然信用されて無いレベルだった覚えが
871人間七七四年:2009/12/07(月) 20:36:43 ID:r5SiJP7g
秀次のちょっとカッコ悪い話

小田原征伐の時の某お公家さんの日記
4月●日
秀長経由で秀吉からの戦況報告がきた。3月末に孫七郎(秀次)が力攻めで山中城を攻め落としたとか。珍重珍重。

4月◇日
実は秀次も配下に大損害を出したという噂じゃw
↓噂の出所?
某お寺さんの日記
4月●日
秀次が山中城落としたらしいけど味方もいっぱい討死したとかwww

秀次って小田原の頃から人気なかったのだろうか・・・
872人間七七四年:2009/12/07(月) 21:38:32 ID:Z8LQaSAg
落とせなかった治部よりいいじゃない。
873人間七七四年:2009/12/07(月) 22:57:56 ID:EzI7DShh
公家や寺社からすれば、秀吉のコネだけで昇進する若造に好意をもつはずがないからな・・
874人間七七四年:2009/12/07(月) 23:04:42 ID:P+BDU6oc
そもそも公家は武家自体にあんまいい感情持ってないじゃない
875人間七七四年:2009/12/07(月) 23:10:07 ID:aOy6JAXf
公家が血筋のコネ否定したんじゃ生きてけないから
秀吉も込みで嫌いだったんだろうね。
876人間七七四年:2009/12/08(火) 05:42:53 ID:HMi3oHHd
朝鮮役の折、多くの朝鮮人が日本軍の捕虜となったが、土佐長宗我部氏の捕虜の中に、
経東という、当時の朝鮮で聞こえた名医もいた。

さて、土佐につれてこられたこの経東、医師と言うことで病人を診るのだが、
病気の診断をするものの、その診断で病気が治るということがなく、かえって殺す事が多かった。
そのような状態が1年ほども続き、土佐の人々は「異国にはあんなヘボ医者がいるのか」と、
上下男女、大いに嘲笑った。
経東はこれを恥じ、どうしてこうなるのかと大いに苦悩し、そのまま病気にまでなってしまったそうだ。

病に臥せりながら朝夕に自分の診断が失敗する理由を考えていた経東、ある時ふと、思い至った。
「朝鮮と日本は土地が違うだけではなく、その土地に住む人も、また異なるのではないだろうか!?」

これを悟るとたちまち病回復し、また患者を診ても失敗する事が無くなり、逆に名医と言う声が
日増しに高くなった。その声は畿内にまで聞こえ、ついに秀吉の居城、伏見へと召しだされ、
その威勢、「経東の他に名医はいない」と言われるほどであったと言う。

ところが、名が上がればそれに嫉妬する人が出るもので、当時大医と呼ばれた人の中に、
経東の名声に激しく憤った者がいた。この者、饗宴と言う名目で経東を呼び出し、
その食事の中に密かに鴆毒(砒素毒)を入れた。

経東、これを食してたちまち、「鴆毒だ」と見抜いた。ところが

「私がこれを解毒するのは簡単なことだ。が、今毒で死ななくても、刀刃によって殺されてしまうだろう。
しかし、今死ぬのなら!」

そう言うと懐中より、四寸四方ばかりの一冊の書物を取り出した

「これは万民を救う医学書であるが、日本人に伝わってしまえば我が恨みとなる!」

と、火の中に投げ入れ焼き捨てた。
本が燃えるのを見届けると、経東もまた程なく死んだ、とのことである。

人々、「医師であるなら経東に親切に接し、彼から医術を学ぶならば、貴重な医術を
日本に伝え残す事ができたのに、くだらない嫉妬で殺してしまうとは、
天下の宝を失ったとはこのことである。」と、語り合ったそうである。
877人間七七四年:2009/12/08(火) 09:30:06 ID:/05OCmQu
>日本人に伝わってしまえば我が恨みとなる
この部分だけ発想が理解できないな。
別に日本人でもそれを活かしてより多くの生命が救われるほうがいいんじゃないかと思ってしまう。
878人間七七四年:2009/12/08(火) 09:35:48 ID:dVpS5iLm
恨の文化ってやつなのかね
良し悪しは別として食い違いが発生する理由のひとつが垣間見える気がする
879人間七七四年:2009/12/08(火) 14:04:23 ID:U9mbTHTm
一応後世に残されたようだよ、金徳伝医方として
ただこれ・・・針灸ようだが
880人間七七四年:2009/12/08(火) 14:45:55 ID:7RYKNdPu
>>877
恨みの先が加害者だけでなく日本人全般に向いたんじゃね?
相手が異邦の地に拉致られて来た人だという事を忘れてはいかんよ。
それでも頑張って人命救助してたのにこの最期ではな……
881人間七七四年:2009/12/08(火) 14:51:05 ID:2K+8x7wp
いかにも作ったような話なのが惜しい
でも、後世の人々への戒めにはなるね
882人間七七四年:2009/12/08(火) 15:01:38 ID:WeMDNTvi
殺して技術を奪ったとなれば、それが何であれ、後々まで怨恨の元になるって事じゃないかな
多くの人を救う尊いものであるからこそ、そういった因縁がつくのを恐れたとか

本人の意思とは関係なく恨み、怨霊の類にされちゃいそうってのは割と日本的
883人間七七四年:2009/12/08(火) 16:32:44 ID:rXDHLi5s
京の茶人、針屋宗真が知人の千利休と細川忠興を招いて、朝の茶会を開いていた所に、
不意の来客が訪れた。
「で、殿下・・・」お忍びで京の町を歩いていた関白秀吉が、風情に引かれてやって来たのだ。

宗真は秀吉を出迎えると、急いで茶釜の湯を捨て、新しく水を入れて炉にかけ直した。
さらに三方に洗い米を載せ、熨斗を添えて秀吉に差し出した。
(近畿の正月飾り『蓬莱飾り』の形。本来、床の間に飾りお供え物・縁起物にする物なので、
秀吉を最大限敬った形になる。)

その後、懐石なしで茶会を進め、湯が沸いたら小茶碗に茶を一すくい入れて毒見をしてから
別の茶碗で茶を点てて秀吉に勧めた。
宗真の振る舞いにすっかり満足した秀吉は、知行百石の朱印状を宗真に与えて去った。

関白殿下が帰った後、宗真は利休と忠興に改めて料理を振る舞い、茶を点てて出したという
ラスボス文化人にも煙たがられた話。
まぁ現代でも仲間内の飲み会に上司が割り込んでくりゃ冷めるワケですが・・・
884人間七七四年:2009/12/08(火) 19:30:16 ID:VRxzjhpC
こないだ同僚三人で飲みに行ったらなぜか課長がついて来た俺には針屋さんの気持ちがよく分かる…
885人間七七四年:2009/12/08(火) 20:34:40 ID:9s+4fu+k
ずっと規制されててやっと書き込めた
もう氏治様の話はないのかな?
886人間七七四年:2009/12/08(火) 20:42:20 ID:9I+/h4ku
ちゃんと知行百石の朱印状とか与えてってるんだからまだ良いじゃねーのw

これが馳走になった、じゃ、これで。だと気の毒で終始した話だけど
887人間七七四年:2009/12/08(火) 21:58:25 ID:XC0P3xd+
>883
突然の来客でもりっぱなもてなしが出来ないようでは一流の茶人とはいえない。
針屋宗真のいい話・・・かもしれない。
888人間七七四年:2009/12/08(火) 22:51:53 ID:HMi3oHHd
>>885
では氏治公が、小田城を取られた顛末

永禄十二年(1569)、小田氏治配下となっていた太田三楽、および梶原景国が
氏治に緊急の注進をした

「上曾氏俊、小幡道三が逆心を企てています!一刻も早く出陣を!」

当然、嘘である。それどころかこの太田、梶原の両人こそ佐竹に寝返っており、
上曾、小幡は彼らから寝返りを誘われたが、断った者たちだったのだ。
「彼らの口から、自分達の寝返りが発覚しないうちに!」
太田、梶原の謀略が始まる。

さて、我らが氏治公、太田梶原の言葉にまんまと乗せられ、小田城を出て
上曾、小幡退治の兵を出した。上曾、小幡両名からは使者が来て、「寝返りなどもってのほか、
何者かの讒言でござる!」と申し開きをするものの、氏治は納得せず、彼らへの攻撃を始めた。
その時である、
太田、梶原の軍、味方であるはずの小田勢に攻撃を仕掛けたのだ。

これに小田方は激怒。小田家家臣の川相源五郎は梶原に
「氏治公は八幡太郎義家公からの源氏の嫡流である!それを、源氏の執権である
梶原景政の子孫であるお主が裏切るとは何事か!
この逆心の企て、天罰逃れがたいと思え!」

と、罵声を浴びせ、これから両軍入り乱れての乱戦となった。

夕暮れの迫る頃、小田家家臣の信田重成はこう進言した
「両軍とも戦いに疲れ果てています。もはや夕刻でもありますし、ここは小田城へと
引き上げるべきだと考えます。今、小田城は留守の者少なく、何か事が起こっても対処できません。
夜陣を張るくらいなら、ご帰城なさるべきです。」

しかしこれに、氏治の嫡男守治が

「梶原のやつの首を見るまで、城になど帰れるか!だいたいこちらが圧倒的に大軍なのだ!
これで城に帰っては恥である!」

と、拒否。しかし決着は付かず、日が暮れると双方引き、小田軍は手葉井山に夜陣を敷いた。


さて、その夜、未だあけきらぬ頃
小田城に軍勢が攻めかかった。太田、梶原と連携した、北條氏高、真壁道夢の部隊である。
兵も殆どいないこの城、多少の抵抗を試みたもののたちまち乗っ取られてしまった。

小田落城。氏治はこれを聞くと慌てて奪い返すため引き返そうとしたが、菅谷正光より
「そのような事をすれば太田、梶原の軍勢と挟み撃ちにされるだけです!」と反対され、
仕方なく菅谷の居城、藤沢城へと落ちていった、とのことである。

これくらい見事に引っかかってくれれば、策謀をする方にもやり応えがあるだろうな、
と思うほどの氏治公なのであった。
889人間七七四年:2009/12/08(火) 23:20:27 ID:9s+4fu+k
>>888
ありがとう、ありがとう

小田氏治って前々から佐竹に負けまくって段々と領土が小さくなってきてるのに
よく殺されずにすんでるなと、なんとなく不思議に思ってたけど掘り下げてみると面白いね
農民も侵略してきた佐竹には年貢を納めずに小田にだけ収めてたってあたり
ここまで領民に慕われてた大名っていないんじゃないかとさえ思えるし
なんなんだ 一体
人間的な魅力に溢れてた人かも知れんね
890人間七七四年:2009/12/08(火) 23:34:38 ID:U9mbTHTm
今でいうカリスマだけは溢れまくってたんだろうな
農民が侍を嫌いになる理由として戦が田畑をダメにする、というのは良く聞く文句だが氏治はどうなんだろ・・
田畑では戦わない、とかそういう精神を持ってたら面白いんだが
891人間七七四年:2009/12/09(水) 03:35:18 ID:96u4BgTO
ふじん(武人ではなく婦人)の仁をもった立派な御館さまよ

なんてな
892人間七七四年:2009/12/09(水) 09:15:22 ID:GbZwbwXH
それは「ふしん」と書くべきでは
893人間七七四年:2009/12/09(水) 11:35:00 ID:SMj/v7OW
まとめスレにコメントしときましたみてください-_-
894人間七七四年:2009/12/09(水) 11:59:24 ID:CfknTTwU
>>888
菅谷さんいつもお疲れ様です
895人間七七四年:2009/12/09(水) 12:16:32 ID:2wbtMx9a
896人間七七四年:2009/12/09(水) 14:38:17 ID:6dNSJ+LJ
では三楽さんの言い訳(佐竹側の記録)を

永禄10年(1567)、小田家の勢力が苦々しい佐竹義重は、家老の車丹波に小田家の
調略を命じた。しかし、車は予想を超える事態に遭遇する。

岩槻を追われた太田三楽は、小田氏治の配下にあった。一宿一飯の恩を返すため
三楽はたびたび氏治のもとに伺候し、打倒佐竹の兵法軍略を説いた。
氏治の前に侍る若侍たちは、関東有数の将の策を震えながら拝聴した。

その日も三楽は、氏治に懇々と策を語った。「…と言う訳で、常陸全土を抑える
事も出来ます。」
ついに若侍たちは、我慢出来ずに吹き出した。
「い、いやぁ片腹痛きぞ、三楽斎どの!それほどに縦横無尽の策をお持ちなら、
なぜ貴殿は北条に敗れ、こんな所に居るのかな?大言壮語も大概にされよ!」

激怒したのは三楽よりも息子の梶原景国である。彼は父を説得して小田家離反を
決め、のちに舅となる真壁道無に渡りをつけた。道無はさらにこれを車丹波に
相談し、労せずして内応者を得た車は永禄12年(以下>>888)

首謀者たる梶原はのちに美濃守政景と名乗り、馬場美濃・須田美濃と並んで
三美濃と呼ばれる武将になったという二重三重に口は災いの元な話。

小田家の侍に三楽を笑う資格があったかどうか、このスレの皆さんは
良くご存知だと思うので、俺はとやかく言わない。
897人間七七四年:2009/12/09(水) 15:00:14 ID:Cyk/vpJ/
将校級だけそろってても上と下が馬鹿じゃ駄目だな、やっぱ
898人間七七四年:2009/12/09(水) 15:26:01 ID:v6+LaWvU
讒言は信じる癖に...
899人間七七四年:2009/12/09(水) 17:31:51 ID:FlZBU2yY
戦下手の袁紹って感じだなw
900人間七七四年:2009/12/09(水) 17:58:42 ID:q35lZYQ9
小田衆の弁護をすれば、
論だけ立派でも実績を見せない奴はホラ吹きと思われてもしょうが無い。
何時でもいるからね、弁だけで行動が伴わない奴。

まあ、弁だけじゃないってのは身を持って知ることになるんだがなw
901人間七七四年:2009/12/09(水) 18:04:27 ID:jTkfly+u
>>899
袁紹からカリスマ性以外全部差っ引いたら小田氏治だな
902人間七七四年:2009/12/09(水) 18:13:44 ID:dD2dqLNW
つか三楽斎を敗残の武将と侮ってる時点でもう駄目なんだと思うけどな。
関東の戦の動向きっちり調べて情報伝わってれば北条に敗れたからって馬鹿に出来るもんじゃないのはすぐ分かる。

ま、福島家の家臣たちを馬鹿にした若衆と同じ類の話なんだが
主が叱ってくれなかった代わりに自分らの城が落とされたわけだなw

903人間七七四年:2009/12/09(水) 18:16:59 ID:2WZ6N2fJ
>>901
何を言うか!袁紹殿より決断力はありますぞ!ただ、ちょっとばかし判断力が(ry


実は官渡でも判断ミス一度も無いんだよな。
904人間七七四年:2009/12/09(水) 18:49:57 ID:tsk97om3
>>903
スレチだが、烏巣救援で二兎を追ったのは痛恨のミスだと思う
それ以外には特にミスは無いというのには賛同
905人間七七四年:2009/12/09(水) 19:19:26 ID:FpcH8I25
しかし、梶原美濃はなかなかのくせものだな
一時は独断で北条についたりしてるし
旧領復帰への執念ゆえか
906人間七七四年:2009/12/09(水) 19:27:36 ID:SyWIBrUg
>>896
やっぱ氏治様は面白いな
なにもかも面白いように裏目に出るし、かなり危機的状況にあっても絶対に死なない
実際には知らない人だけどこのスレ見てるだけでも彼の人間的魅力に触れられたような気がするww
907人間七七四年:2009/12/09(水) 19:49:45 ID:J4xi8W0k
なんでなのかねぇ
多分、安定した時代だったら、

「おらが村のいい殿さん」

で通ってたんだろうなあ
生まれる時代を間違えちゃった感じがする
908人間七七四年:2009/12/09(水) 19:51:40 ID:mRe3rDPh
敵が策謀を仕掛ける

あっさり引っ掛かる

菅谷「それは敵の策謀ですぞ!」

無視

敗走及び小田城陥落

常にテンプレどおりな氏治様
そこに痺れる(ry
909人間七七四年:2009/12/09(水) 19:55:03 ID:SyWIBrUg
その辺りが分からないよね
確かに小田氏が長らく統治した土地で領民が懐いてたっていうのはあるだろうけど
それ以上のものを感じるね 家臣団にしてもここまで普通は忠誠しないでしょ 戦国の世なんだからさ
もの凄く阿呆で放っとけないタイプだけど人情に厚い人だったのかなぁ
小田城に執着する辺りにヒントがありそうな気もする
910人間七七四年:2009/12/09(水) 19:58:32 ID:dQjRJRJq
>>908

「助けて菅エモン」

奪還

も追加だなw
911人間七七四年:2009/12/09(水) 20:03:39 ID:jTkfly+u
朝比奈泰朝が討伐する度に何故か今川領が減ってくのと一緒だな
912人間七七四年:2009/12/09(水) 20:12:49 ID:wQax6Wet
茨城のあたりの人ってマゾ体質?
913人間七七四年:2009/12/09(水) 20:59:42 ID:J4xi8W0k
人国記だと、常陸の国の人間はムチャクチャ書かれてるなぁw

犯罪者だらけで、それを恥と思わない気風がある、とかもう散々。
常陸に全き人無しとまで書かれてる。

ただ、昨日の味方を今日の敵とするような気風は全くない、とある。

そこがもしかするとヒントになるかもしれない。
914人間七七四年:2009/12/09(水) 21:05:26 ID:IoE/6BPx
基本的にだだっぴろい平野が続く豊かな土地で気候も良い
よって、男も女も苦労しらずのどら息子or娘タイプが多い
良く取れば裏表のない子供のような人が多い土地柄だよ、今でもねw
915人間七七四年:2009/12/09(水) 21:10:25 ID:rgkyobkn
うちの殿さん10回くらい死んでてもおかしくね?
→何で生き延びてんだろ
→ヤバい何かが憑いてたりしねえ?
→じゃあ粗末に扱うとバチが当たるかもしれんのか
→なんか放っとけないしなあ

こんな感じだったりして
916人間七七四年:2009/12/09(水) 21:18:07 ID:SyWIBrUg
>>913
なるほど
なんか納得いった
だからこそ氏治様はそんな領民のいる本拠の小田城を取り返したかったのかも知れない
むしろ愛すべきは氏治様より常陸かも知れん
917人間七七四年:2009/12/09(水) 21:28:09 ID:U+9piukR
石高は常陸一国で結構あるしな
神話に登場する国譲りに抵抗した悪神アマツミカボシもあの辺りの神だし反骨精神は土地柄かもしれん
文化的にも中央と違ったのかもな
918人間七七四年:2009/12/09(水) 21:39:33 ID:VIsuXyu+
常陸は、平安中期成立の延喜式において「大国」に分類され、
しかも上総国、上野国と並んで親王任国。
とにかく格式において非常に高い地域だった。
919人間七七四年:2009/12/09(水) 22:04:33 ID:wQax6Wet
>>914
分かり易く言うとジャイアンみたいな人達?
920人間七七四年:2009/12/09(水) 22:09:24 ID:cWi5fnnb
ジャイアンは奥州に一人いたような気がする
921人間七七四年:2009/12/09(水) 22:13:15 ID:wQax6Wet
>>920
なるほど
ジャイアン気質と佐竹は水と油なんだな
922人間七七四年:2009/12/09(水) 22:26:32 ID:tH1GnZx2
南北のジャイアンに挟まれた佐竹さん(´・ω・`) カワイソス
923人間七七四年:2009/12/09(水) 23:02:18 ID:lFH4b4uq
小田氏治を思う気持ち


ガキの頃のドリフで『志村うしろ〜』と叫ぶも
まんまと引っ掛かる志村


あ〜あ…志村バカだな〜と言いつつ人気者


な感じか
924人間七七四年:2009/12/10(木) 00:41:55 ID:83LjCrxR
伝説の栗林義長が小田一族岡見氏の下に帰ってくるのって氏治が小田を追われてからだっけ?
925人間七七四年:2009/12/10(木) 00:54:05 ID:vj95kYP0
阪神赤星の引退のニュースをみて、多分その御先祖方面に当たる人の事を
思い出したので書いてみる。


肥後隈府城主、赤星統家と、同国の隈部城主、隈部親永は、元々は同じ菊池氏であったものの、
肥後の名族菊池氏の正統を争い、両者の関係は非常に悪かった。

西九州の戦乱も、島津、龍造寺の二家の争いに収束しようとしていた頃、
赤星統家は龍造寺隆信の肥後侵攻の際に彼に服属。隈府城を引渡し、
嫡男と娘を人質に出した。

しかし龍造寺隆信は、肥後において前より服属していた隈部親永を露骨に重視し、
この後ろ盾により肥後での赤星家の勢力は日に日に圧迫されていた。

統家はこれを不快とし、佐賀への参勤を渋った。
これを見た隈部親永は、『赤星は龍造寺殿と敵対している島津と密かにつながっている。
彼が参勤しないのはそのためだ』と言う噂を流した。
隆信は怒り、赤星の弁明を待つことなく、天正11年(1583)、人質であった赤星の幼い子二人を、
山門郡竹井原にて磔にかけた。
嫡男の新六郎14才、娘は8才であったと言う。

赤星はこれに激しく憤り、龍造寺を離脱、有馬氏を介して、島津氏に服属した。

翌天正12年、赤星統家は、有馬・島津連合軍の一員として、赤装束に縄襷(なわだすき)という
出で立ちで、50人の兵とともに沖田畷の戦いに参加。先鋒として大いに活躍。
そしてご存知のようにこの戦いで隆信は敗亡、赤星統家は、子の恨みを晴らしたのだ。


…が、このとき島津に接近しすぎたのが仇となり、天正14年(1586)、豊臣秀吉の九州征伐がおこり
島津が敗れると、赤星家再興の望みはついに絶たれ、その居城隈府城に帰る事は、二度と無かった。

ちなみに、赤星統家と争った隈部親永も、天正15年(1587)の肥後国人一気に参加し、
敗れた後、切腹。
古代より肥後の大族として知られ、南北朝でも南朝方として天下に名を成した肥後菊池氏の勢力は、
ここに潰え去ったのである。

そんな、名族菊池氏の、最末期のお話。
926人間七七四年:2009/12/10(木) 01:01:56 ID:W4FjVivc
>>925
隈部は菊池ではなく大和源氏の出
阿蘇の重臣、甲斐の方が菊池一族
927人間七七四年:2009/12/10(木) 01:29:03 ID:vj95kYP0
>>926
隈部って途中で菊池の血が入ってなかったっけ?
勘違いしたかな?
928人間七七四年:2009/12/10(木) 02:04:20 ID:vj95kYP0
隈部は出自はともかく、何代にも渡って菊池氏と血縁関係を結んでて、
一応一族扱いされてたってことでいいみたい。
929人間七七四年:2009/12/10(木) 14:44:51 ID:OUjCbI9i
大阪の陣の際、福島正則は江戸での留守居を命じられ、見えぬ大阪表の戦況への思いに
身を焦がす毎日を送った。
そこへ、大阪に行っていた使い番の本部新左衛門が戻って来た。

本部の語る大阪方の奮闘は、正則を大いに喜ばせた。旧知の木村常陸介の息子、重成の
活躍の下りを聞くと、正則は手を打って同席した側近達と笑いあった。
「そうか、そうか!あの小せがれが、そんなに立派な若武者になったか!」

笑って喜ぶ主君に気を良くした本部は、さらに語った。
「しかし拙者、これほど不面目な使いをしたのは初めてにござった。
関ヶ原の頃、福島家中と言えば京・大阪ではどこに行っても下にも置かぬもてなしを
受けました。
それが今回は、中間下郎に至るまで見下した目を向けられ、挙げ句の果てに
『こたびの福島殿の振る舞いは何としたる事だ。故太閤の恩を忘れたか。』
と陰口を叩かれる始末…?」

座の冷えた空気にやっと気付いた本部は語りを止め、側近達は正則が彼を手討ちに
せぬかと顔を青くした。しかし正則は、
「よく正直に話してくれた。下がって良いぞ。」
と言って本部を退席させると深くうつむき、手で顔を覆って静かに泣き出した。
930人間七七四年:2009/12/10(木) 16:41:19 ID:72QUkaff
市松、さあ涙をお拭き
931人間七七四年:2009/12/10(木) 17:34:52 ID:8gDX3tE+
正則の逸話は等身大すぎて胸に来るわ
932人間七七四年:2009/12/10(木) 17:42:34 ID:NJA2vCPw
助作「まったく気の毒なやつよ」
933人間七七四年:2009/12/10(木) 18:02:08 ID:vj95kYP0
三楽さんが何気に注目されてるのでこっちに投稿してみる


上杉輝虎(謙信)が、武蔵、忍で対陣していた時の事。
このとき輝虎の元に、太田三楽が密かに北條と好を通じている、と言う情報が入ってきた。

輝虎、これを聞くや否や、馬添えの者すら連れず、ただ一騎で駆け出し、三楽の陣に
駆け入った。
突然の総大将の乱入に驚く太田の士卒たちを尻目に輝虎、三楽の三男安房守、
当時12歳を発見、たちまちひっ捕まえた!

「いつの間にかこんなに成長したか。よし、我が家の子としよう。」

こう言ってそのまま連れて帰ってしまった。人質である。
この時三楽の兵達、輝虎のあまりの猛威に恐れ、身動きすら出来なかったそうだ。
そしてこの後、三楽も輝虎に心服するようになったそうである。

しかし戦国の世とはいえ、大将自らが拉致誘拐と言うべきことを、しかも白昼堂々
一人でやったのは輝虎位の物であろう。

煮ても焼いても食えない太田三楽であるが、輝虎には流石にかなわなかった、
と言うお話。
934人間七七四年:2009/12/10(木) 18:03:06 ID:3mKNSsZN
これは悪い話というより、気の毒な話。特に最後の一行、切ない。
935人間七七四年:2009/12/10(木) 18:54:23 ID:hb0QFU8Z
木曾に押し入った鬼武蔵と大差ない件
936人間七七四年:2009/12/10(木) 18:57:12 ID:l0o2jeaI
「よし、我が家の子としよう」シリーズの被害者だったのか、三楽
937人間七七四年:2009/12/10(木) 19:04:08 ID:naHMkLbM
>>933
三男というあたりに一応気を遣った形跡があると思ったんだが…

ていうか謙信、何かの妖怪のモデルになっていそうだ…
938人間七七四年:2009/12/10(木) 19:06:10 ID:naHMkLbM
>>933
三男というあたりに一応気を遣った形跡があると思ったんだが…

ていうか謙信、何かの妖怪のモデルになっていそうだ…
939人間七七四年:2009/12/10(木) 19:07:07 ID:naHMkLbM
連投すみませんorz
940人間七七四年:2009/12/10(木) 19:25:57 ID:qdSWWso6
子供の躾で「いい子にしてないと謙信が来るぞ」とか言われてそう
941人間七七四年:2009/12/10(木) 19:28:35 ID:naHMkLbM
>>940
後のなまはげである、ですか
942人間七七四年:2009/12/10(木) 19:31:26 ID:vj95kYP0
>>940
実際に能登の方ではそんなこと言われたらしいw
943人間七七四年:2009/12/10(木) 20:11:00 ID:Yp5t4QoF
どこのハンニバルだよw
944人間七七四年:2009/12/10(木) 20:45:30 ID:ZTYqccee
>>942
マジかww
地方ごとに「いい子にしてないと○○が来るぞ」ってあったりして

さしずめ北信濃なら「いい子にしてないと鬼武蔵が来るぞ」ってとこか?
945人間七七四年:2009/12/10(木) 20:46:16 ID:7JWG8/mL
上杉を威嚇するために鬼の面つけて太鼓打ってなかったっけ>>能登
946人間七七四年:2009/12/10(木) 20:51:20 ID:jrUKAgRY
謙信信者の子供はお屋形様にお会いしたいが為に、わざと悪い事をしたりってそういう話?
947人間七七四年:2009/12/10(木) 21:03:46 ID:llpTgESv
徳島ではガチでソガベが来るって言うな
ソガベは長曾我部ね
昔は妖怪の名前だと思ってましたwサーセンw
948人間七七四年:2009/12/10(木) 21:10:05 ID:jrUKAgRY
元親ぐらいじゃ別に怖くないしなw
949人間七七四年:2009/12/10(木) 21:13:40 ID:5DLph8u2
このスレ的には鬼武蔵が来るとか秀吉(最終バージョン)が来るとかで死を覚悟する奴が多そうだ
950人間七七四年:2009/12/10(木) 21:30:30 ID:ZJob6bxZ
あっけなく戦死した武将がしゃしゃりすぎw
951人間七七四年:2009/12/10(木) 21:34:27 ID:X6nQlyIE
鬼といわれるのが戦場じゃなく統治面だからただの弱いものいじめの雑魚だしな>>森
952人間七七四年:2009/12/10(木) 21:46:32 ID:l0o2jeaI
適当な事言っちゃって
953人間七七四年:2009/12/10(木) 21:47:33 ID:E9KcHUWy
ちょっと前まで「誰それ?ああ蘭丸の兄貴か。」程度の認識だった森長可が、
ついにアンチが沸く武将になったかと思うと、感慨深いものがあるな。
確実にメジャー武将への道を駆け上がっているw
954人間七七四年:2009/12/10(木) 21:54:39 ID:BQOk6MgP
森武蔵本人じゃなくて
人の逸話にいちいち強引に割り込んでくる「ヲタ」がうざがられてるんだよ
955人間七七四年:2009/12/10(木) 21:54:46 ID:x9yqzxtu
それに比べ忠政きゅんはこのスレでもあまり人気ない希ガス
956人間七七四年:2009/12/10(木) 22:02:57 ID:ut57JpA7
何に関してもそうだが、わざわざ出てきて
「俺は気に食わない!俺は気に食わない!」
ってやり出す奴の方が大抵うぜぇよな。
957人間七七四年:2009/12/10(木) 22:04:41 ID:5bMRO2ga
酒井にボコられ瀕死の重傷を負って同僚に八つ当たり
汚名返上と中入りしてみれば徳川に瞬殺される なんちゃって鬼の森
958人間七七四年:2009/12/10(木) 22:06:26 ID:BQOk6MgP
アレみたいになるぞ森武蔵
本人は一つも悪くないのに
959人間七七四年:2009/12/10(木) 22:09:22 ID:ut57JpA7
俺が言ってるのはわざわざ特定武将叩き始める奴のことな。

信者が信者発言残しても、他を貶めでもしない限り「ああ、余程好きなんだな」で済むが、
侮蔑やネガティブ発言は、その向けられてる対象に関係なく、発した人間にイライラする。
960人間七七四年:2009/12/10(木) 22:10:58 ID:jrUKAgRY
スルーしろよ
リアルじゃ下向いて歩いてるくせに
961人間七七四年:2009/12/10(木) 22:12:35 ID:zz35eU8W
一言多くてスルーで来てないw
誰か身も凍えるような悪い話持ってきてよ
962人間七七四年:2009/12/10(木) 22:14:07 ID:ilgmcJNC
身も凍えるような悪い話といったら
さらさら越えくらいしか思い浮かばん
963人間七七四年:2009/12/10(木) 22:14:47 ID:ut57JpA7
>>960
スルーしろと言う人間が、舌の根も乾かぬうちに挑発することを我慢できないのは如何なものか。
964人間七七四年:2009/12/10(木) 22:16:08 ID:jrUKAgRY
くそっ
スルー検定実施中です・・
965人間七七四年:2009/12/10(木) 22:17:19 ID:zz35eU8W
>>964
君はしゃべらん方がいいかも分からんね
966人間七七四年:2009/12/10(木) 22:27:36 ID:l+ig5U/r
>>953
何かの間違いで森武蔵や富田さんが
無双やBASARAに参戦したらこのスレ的には祭りになるんだろうかw
967人間七七四年:2009/12/10(木) 22:54:38 ID:FZAvoXrr
>>945
http://www.city.wajima.ishikawa.jp/yorankaine/taikogeinou.htm

> 名舟町に古くから伝わる太鼓で、天正5年(1577年)、上杉謙信の能登攻略のとき、
> 古老の一計で、奇妙な面を付け、陣太鼓を打ち鳴らし上杉軍に奇襲をかけ敗走させた
> のが始まりといわれる。御陣乗太鼓の伝承は地元に生まれたものにしか資格がなく、
> 地元の子供たちは週2回、大人は毎晩太鼓の練習をしている。
968人間七七四年:2009/12/10(木) 23:06:25 ID:l0o2jeaI
身の凍るような逸話・・・?ホラーをご所望か、分かった

「輪切り地蔵」

下野の戦国大名、那須家の家臣に佐久山義隆という武将がいた。
彼は武勇に優れ家中での評価も上々。更に妻に当時、那須家で発言力を誇った大田原資清の娘を娶るなどまさに順風満帆であった。

しかしながら1563年に義隆はうずら狩りに出かけた所を境が峯で何者かに襲撃され討たれてしまう。
この暗殺事件を起こしたのは資清の息子である大関高増、福原資孝、大田原綱清の3兄弟で義隆の才を警戒しての犯行であったともいわれる。
程なくして義隆の妹の半学姫も殺され、義隆の妻は兄弟の非情の行いに涙しつつ、尼となり旦那と義妹を弔いながら一生を終えたという。
そして後年、義隆の遺臣の子孫達によって3つの地蔵が境が峯に置かれ、義隆、義隆の妻、半学姫の無念を鎮めるべく作り置かれたのである。

この地蔵はしばらく所在が分からなかったが、現代になってある郷土史研究家が発見したところ非常に薄気味悪い状態になっていた。
3つの地蔵はそれぞれがおおよそ自然に割れたとは思えぬ形で体が一部が輪切り」にされており、まるで3人の無念が呪いとなって地蔵に現れたかのような状態だったのである。
見る人を不安にさせるこの地蔵を見て地元の人たちも「まだ供養が足りぬ」と思い、3つの地蔵を更に手厚く供養すると新たに立派な供養塔を建てたのであった。
969人間七七四年:2009/12/10(木) 23:12:30 ID:vj95kYP0
>>968
ゾクッとした。これは、怖いな…。
970人間七七四年:2009/12/10(木) 23:34:58 ID:WBGlwtjy
>>967
太鼓で故郷を守るとは勇敢ですね 今でもその精神を受け継いでるのか(・∀・)
971人間七七四年:2009/12/11(金) 00:19:06 ID:aQkSbS3E
>>968
地蔵が3人と聞いて一瞬3兄弟のことかと思ったけど、そっちでも怖いしw
でも殺された3人の地蔵を輪切りにしたのが3兄弟の仕業だったら、病気入ってるし

当時の人々が供養した後も恨みが残るのは珍しいですね
(普通は供養しておしまいな気がします)
972人間七七四年:2009/12/11(金) 00:19:23 ID:cBqAkqSd
そろそろ新スレ立ててみる
973人間七七四年:2009/12/11(金) 00:21:52 ID:cBqAkqSd
できた

戦国ちょっと悪い話16
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1260458448/

ここ埋まったら移動してください。
974人間七七四年:2009/12/11(金) 00:28:02 ID:DYlr/8te
大田原3兄弟自体は悪い事しまくってるがみんな天寿をまっとうしたがな
975人間七七四年:2009/12/11(金) 08:20:29 ID:uVGTUt79
>おおよそ自然に割れたとは思えぬ形で体が一部が輪切りに

普通に考えれば、由来を知らない奴が面白半分でやったことだろうな
976人間七七四年:2009/12/11(金) 09:54:08 ID:dJN8cUwg
でも石の地蔵を輪切りにするには、それなりの道具や技術がいるよね
977人間七七四年:2009/12/11(金) 10:19:26 ID:Wvt44oqe
時代は下がるが江戸時代中期には被害者が卑劣な手段で殺された印として
墓標の一部を切り取る風習があったらしい。
国定忠治だか清水次郎長が殺害した人物の墓にそんなのがある。
978人間七七四年:2009/12/11(金) 11:11:22 ID:HP8Wzphi
高橋紹運の家臣屋山中務に太郎次郎という13歳になる息子がいた。島津が筑前へ軍勢を進める天正14年7月彼は母親に無理を言って父や主君そして母と共に岩屋城に留まった。
落城が押し迫った7月27日父の戦士を聞いた彼は母の静止を振り払って単身島津軍に切りかかった。
島津の将兵は彼を斬る事を忍びず捕らえようとしたが出来ず、ついに一人の兵が彼を苦しまずに斬ろう刀を振り太郎次郎を斬った。
息子の死を見た母親は放心状態となりその場に倒れてしまった。
彼女の手には息子を引き止めようとした際掴んだ片袖があった。
彼女は寝ても醒めてもこの片袖を眺めてたといわれた。
その太郎次郎は岩屋城戦死者名簿に記されている。そして彼の片袖は「白麻地藍文」として屋山家子孫に秘蔵されているという。
979人間七七四年:2009/12/11(金) 13:04:19 ID:gHdbeQub
>>929
大抵の逸話は「子供がそのまま大人になったような人」という、誉めてんだか馬鹿にしてるんだか
分からない言葉がピッタリくる、このスレ的にはお笑い系の市松さんだが・・・・


この話は無性に泣けるじゃないか・・・・il||li(つω-`。)il||li
980人間七七四年:2009/12/11(金) 13:21:10 ID:FDs13LgZ
埋めついでの小ネタ

藤堂高虎の会計吏は、薄い衣類を着て、袴も短い物を履いていた。
それは、高虎に計算書を出した時に間違いがあると、
叱責と共に時には刃が飛んできたからだ。
ゆえに、すぐに逃げ出せるようにそのような装束を着ていたのだ。
981人間七七四年:2009/12/11(金) 13:45:58 ID:7eTHQiAn
>>980
逃げるのはいいが、その後どうする気だったんだろう
「先日はサーセンっした」で済むのか、それともそのまま他国へ出奔?
982人間七七四年:2009/12/11(金) 13:54:37 ID:ZjdJVj1b
むしろ高虎さんが
「HAHAHA!こないだはつい熱くなっちまって悪かったな!次からはきっちり頼むぜなあおい!」
てな感じで許してあげるんじゃないかな。
983人間七七四年:2009/12/11(金) 14:30:34 ID:FDs13LgZ
>>982
たぶんそんな感じだと思う。
高虎はすぐにカッとなるけど、基本的には度量の大きい人だから。
しかし、すぐにカッとなって抜刀する傷だらけの巨人……怖いよw
984人間七七四年:2009/12/11(金) 16:11:20 ID:bSUk6RSa
戦国かなり怖い話
985人間七七四年:2009/12/11(金) 16:43:29 ID:PLzYvjQK
着物に気を使う前に、計算間違えないように気を使えよw
986人間七七四年:2009/12/11(金) 18:11:44 ID:9lsy11dp
>>968
将来、これも怖い系の昔話として地域で語られていくんだろうか

>>978
立派すぎる烈婦達より、こういう話がむしろ多かっただろうね…やはり
987人間七七四年:2009/12/11(金) 19:38:22 ID:cBqAkqSd
関ヶ原合戦の後、土佐に帰っていた長宗我部盛親は大阪の家康の元に
弁明に赴く事に決め、その安全祈願のため、かねてより信仰している
柏尾観音へと参拝をした。

盛親の一行が、あと十四、五町(約15キロ)ほどに近づいた時の事。
観音堂から白い布が、二十丈(約60メートル)ばかりも立ち上がった。

元親を始め供の面々まで、突然の不思議に目を凝らして見つめていると、
布に見えたのは白雲であり、それはだんだんと薄くなっていったが、
その雲の中にやがて観音の御姿が顕れ、それもやがて消えた。

これに皆、奇異の思いをなしていたところ、突如観音堂より火の手が上がった。

人々驚き、慌てて観音堂に駆けつけたが、着いた頃にはもやは観音堂は、
灰燼と化していた。
これに盛親もどうすることも出来ず、ただすごすごと引き返したそうである。

人々は、『これは観音が長宗我部家を見放したのだ』などと噂しあった。
盛親もこの不思議が心に引っかかっていたものの、今更翻す事もできず、
大阪に向って出航した。
その後の改易、皆、知るところであろう。

長宗我部没落の前兆とも言うべき、柏尾観音堂焼失のお話。
988人間七七四年:2009/12/11(金) 19:50:28 ID:C+Ld7x6D
長曽我部を見放して、柏の紋を持つ家に行ったわけだな。
989人間七七四年:2009/12/11(金) 22:01:15 ID:aQkSbS3E
>>978
文章読んでるだけで泣けてきそうだ
大河ドラマも、こういう(感情移入した結果)見ていられない女の悲しみを描いたらいいのに

ちょっとスレチでしたかね
990人間七七四年:2009/12/12(土) 00:08:17 ID:IBJZ8KFu
座敷童子みてぇ
991人間七七四年:2009/12/12(土) 01:51:21 ID:JawmazIO
竹中半兵衛の後継者と言われた神子田さんが改易された話は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1712.htmlで纏められているけど
どうもこの逆バージョンもあるそうで・・・

小牧・長久手の戦いで、神子田さんが敵の首を1つ取り、秀吉がそれを褒めた所

「は? たかが首1つで褒めるって何それ? つ〜か大将ならもっと高所からさぁ」

なんて言ったもんだからさあ大変。ラスボスが本気で激怒。
諸将もラスボスを抑えながら「お前マジ謝れよ」と言ったのだが、神子田はあっさり無視。
結果、神子田は追放。結末は上記の通りと。

ちなみにこの説話を記した本。このエピソードの前に、播磨の5000石を皮肉った話も掲載されていて
「こんなに性格が捻じ曲がっていればそりゃダメだろJK」的な結論にしている。
992人間七七四年:2009/12/12(土) 02:04:25 ID:Eiq1EaVQ
普通はそうだよ
まとめサイトに記載されてる方が秀吉悪者にするため曲筆してるだけ
993人間七七四年:2009/12/12(土) 07:00:07 ID:eh4HWLjs
こやつめ、ハハハ的な対応を期待したんじゃないか
994人間七七四年:2009/12/12(土) 10:06:28 ID:L9Ii/WfC
頭良いヤツで他人が自分の考えと違う行動すると
「何でそうなるの?バカなの?死ぬの?」な態度取るヤツいるよね

三成とかNGMSに対する又兵衛とか
まーくんに対する直江…は違うかw
995人間七七四年:2009/12/12(土) 14:08:00 ID:8BWhk6vm
坂崎出羽守直盛は馬が好きで、馬医として有名な桑島心海と交流があった。

ある日二人で雑談している時、桑島が
「私の家臣に、成敗してやりたい者がおります。しかし、そやつは身ごなし素早く、返り討ちに
会う者が多く出ては、と思うと、小身者の私ではとても思い切れません。」
と、グチをこぼしたのに対し、直盛は答えた。
「その者を、この屋敷へよこしなされ。当家で成敗してやりましょう。もし同意してくれぬなら
今後お主とは絶交する。」「なぜそうなる」

数日後の早朝、件の男が坂崎邸に使者としてやって来た。
門の前では直盛自身が十四、五歳になる小姓一人を連れ、仁王立ちして待っていた。
「坂崎、ここに在り!」
直盛は門前で桑島からの書状を受け取って読むと、使者に言った。
「この書状によると、『使者を成敗してくれ』との事じゃ。覚悟!」

使者は直盛の最初の太刀こそ受け肩に傷を負ったものの、続けて襲い掛かった小姓に
手傷を負わせ、すぐに身を翻し逃げ出した。
直盛はこれを追いかけ、ぬかるみで使者ともつれて転んだ所で、二か所斬られながらも
踏み込み、使者を討ち取った。
996人間七七四年:2009/12/12(土) 15:01:58 ID:bFNSsv5J
>>995
なんとも言い難い…が、悪い話だな
997人間七七四年:2009/12/12(土) 15:11:25 ID:evuVZCMD
なんか無茶苦茶だなw
998人間七七四年:2009/12/12(土) 16:53:23 ID:YtNjVuWK
これが坂崎さんなりの友情の示し方なんだよきっと
999人間七七四年:2009/12/12(土) 17:06:10 ID:apDnczgc
めりーえーん
1000人間七七四年:2009/12/12(土) 17:18:23 ID:mMOAYWT5
1000なら鬼武蔵を討ち取れる
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
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