戦国ちょっといい話15

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1人間七七四年
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話14
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1254464290/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話14
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1254321432/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2009/10/29(木) 00:54:59 ID:bXGrwnbw
  ヽ、_    _ノ,'
   `-ニ(~)ニ-'´      |
   {i:i:i:i:i:i:i:i:}      _人__ >>1乙でがす
 ∠シ´●ω・)ゝ     `Y´
  /ミ/;;;;;;;;;)⊃l|ニニニニフ |     ディテール変わったでがす
    しωJ           |
3人間七七四年:2009/10/29(木) 11:50:08 ID:Mx0Om/Ik
>>1大儀であった 好きなおにぎりをとっていくがよいぞ

  ∧ ∧   
 ( ´・ω・)                                      ○
 ( ∪ ∪  ,.-、   ,.-、   ,.-、   ,.-、     ,.-、      ,.-、   .,.⊥、
 と__)__) (,,■)  (,,■)  (,,■)  (,,■)    (,,■)      (,,■)   (,,■)
       梅干  高菜 大腸菌 こんぶ クロロホルム 豚インフル オプーナ
          ,.-、   ,.-、     ,.-、      ,.-、   ,.-、   ,.-、    ,.-、
          (,,■)  (,,■)    (,,■)     (,,■)  (,,■)  (,,■)   (,,■)
          砒素 唐辛子 ちりめんじゃこ 宇宙人  柴漬  塩辛 とりかぶと
      ,.-、   ,.-、     ,.-、    ,.-、    ,.-、   ,.-、    ,.-、   ,.-、
     (,,■)  (,,■)    (,,■)   (,,■)   (,,■)  (,,■)   (,,■)  (,,■)
      鮭 御玉杓子  鳩山弟  サリン 鳩サブレ 石見銀山  鳩山兄 鮭ハラミ
           ,.-、   ,.-、     ,.-、      ,.-、  ,.-、、  
          (,,■)  (,,■)    (,,■)     (,,■)  (,,■)  
         マムシ ウラン    河豚     毛虫  唐揚げ
4人間七七四年:2009/10/29(木) 21:08:26 ID:W38oVInC
>>1の石高を上げるついでにこのスレもage
5人間七七四年:2009/10/29(木) 23:13:03 ID:fwel1lTc
乙。

>>3
なんでハズレ(いや当たりか?)の方が多いんだよ。w
6人間七七四年:2009/10/29(木) 23:37:25 ID:wiS/VGvk
馬鹿鮭ネタは禁止でよろ
7人間七七四年:2009/10/29(木) 23:44:22 ID:QxbFhF5O
天正九年(1581)徳川家康が、遠江の重要拠点、高天神城をついに攻め落とした時のことである。
城兵たちの抵抗は激しく、捕虜になるようなものはおらず皆討死したそうだ。
その、首実検の時、ひとつの首に、家康を始めとするみなが驚いた。

それは、年のころは十六七であろうか、うっすらと化粧をし、目鼻立ちあくまで美しく、
皆、見とれるほどであった。

「これは、女首ではないか?」

こんなに美しい男と言う者も無いだろう。そう言う者も現れたが、いかんせん既に首になっており、
確かめようも無い。しかし女首であった場合、それを手柄とするわけにはいかない。

みなが頭を悩ませていると。家康がこう言い出した

「その首のまぶたを開いて見よ。白目ばかりになっておれば女である。
黒目が真ん中に来ておれば、それは男である。」

早速確かめてみたところ、黒目が真ん中にあり、「これは男の首である」となった。

はたして、後日その首は、高天神城の守将、栗田刑部の秘蔵の小姓、時田鶴千世の物だと
わかったそうである。

徳川家康、首だけで性別を見抜いたお話。
8人間七七四年:2009/10/30(金) 05:27:22 ID:z/3cQWSb
ということで、鮭様ネタを頼むw
9人間七七四年:2009/10/30(金) 08:17:12 ID:y2hqLPTg
自演基地外の鮭ネタいらね
10人間七七四年:2009/10/30(金) 11:15:16 ID:7By91C6l
>>7
死んだ女の目を何度も見ていないとその発想は出てこないよな。
11人間七七四年:2009/10/30(金) 13:18:45 ID:vOPnW665
女が白目をむいて死ぬというのは、医学的に説明が付くもんなのかなぁ?
12人間七七四年:2009/10/30(金) 14:00:02 ID:2hJyR9/7
女性……戦死の苦しみに耐えられず意識を失いながら息絶える(白目を向く)
男性(武士)……戦死の苦しみに耐えて敵を睨みつつ息絶える(黒目を向く)

って感じの悪く言うと偏見じゃないかなぁ
13人間七七四年:2009/10/30(金) 14:08:28 ID:UCV6e9+9
戦国心理学ってとこかな。「女が殺されるのは不当な暴虐によってだから、少しでも逃れようとして目が上を向く。
男は殺されて当たり前だから最期まで抵抗して眼は前を向くのだ。」
講師は徳川家康さんでした
14人間七七四年:2009/10/30(金) 15:17:25 ID:w+BIs/nz
三河武士の心構え的な事を当て嵌めただけのような気も・・
15人間七七四年:2009/10/30(金) 15:21:03 ID:elZfJy7e
>>7
孕石元康どのが化粧するので待ってほしいと……
16人間七七四年:2009/10/30(金) 16:32:04 ID:FbSs2y1h
アヘ顔です
17人間七七四年:2009/10/30(金) 18:00:36 ID:3a7h7gJh
そういう、誰が理屈を考えたのかわからない嘘知識って、昔の記録に結構あるね
未来人が今の本見たら、同じように思われるんだろうけど
18人間七七四年:2009/10/30(金) 18:23:08 ID:1k0kBqja
>>13
まだ築山殿と信康を失った痛手が癒えてなかったんだねT_T
19人間七七四年:2009/10/30(金) 20:21:26 ID:Zz4risCY
>>17
うなぎと梅干し一緒に食うと腸が腐って死ぬとかそんな迷信あるよな
迷信だとわかりつつも試したことないが
20人間七七四年:2009/10/30(金) 21:05:34 ID:1k0kBqja
>>19
本多S渡守「いやいや、それがしは大丈夫でしたぞ?」
21人間七七四年:2009/10/30(金) 21:08:42 ID:PcM/kFvS
まあ、後世の人間から見れば、現在の血液型性格判断なんて、戦国時代のもの以上に
意味不明の迷信と写るだろうさw
22人間七七四年:2009/10/30(金) 21:11:05 ID:O+f1080H
「西瓜と天ぷら」は水と油だから食い合わせ悪いのは分かるけど
「うなぎと梅干」はわからんよな。幕の内弁当でも偶にあるしなw
23人間七七四年:2009/10/30(金) 21:43:04 ID:lU70N6Cz
逆に梅干しの酸っぱさがうなぎに良く合い過ぎて沢山食べてお腹を壊してしまうからよくないって説もあるけど
後世の人が民間伝承に無理に理由づけしようとしてこじつけ臭くなる典型な気がしてならない
24人間七七四年:2009/10/30(金) 21:44:49 ID:elZfJy7e
>>23
紀伊田辺の大名と浜松の大名が仲悪かったんじゃね?

片方は安藤さんだがw
25人間七七四年:2009/10/30(金) 21:57:41 ID:PDfVu6El
うなぎと梅干は鮮度の問題じゃなかった?
26人間七七四年:2009/10/30(金) 22:20:01 ID:Z3s+L+TI
ハレとケの食材の混同を忌んだから
漢方の思想ではうなぎは体を熱する食べ物で梅は体を冷やす食べ物なので同時に食べると両方の作用が働きかえって体調を崩す
梅干し何て食ったら食欲がそそられるから刺激の強いうなぎをガツガツ食っちゃって体調を崩す
俺が聞いたのはこんなところだな
多分正解はない
27人間七七四年:2009/10/30(金) 22:25:22 ID:1IBm4gQL
俺が聞いたのは
うなぎは海のもの、梅干しは山のものだから
一緒に食べるとどっちかの鮮度が落ちてるとかいもの
28人間七七四年:2009/10/31(土) 01:48:50 ID:A/0SmmCN
昔テレビで検証してたけど
アルカリ性と酸性だから良くはないってコトだったよ
個人的には伝説の類いには必ず先人の経験が活かされてると思います
理由はともかくね(笑)
29人間七七四年:2009/10/31(土) 08:31:06 ID:c57IEGgd
めんどくさい三河武士が女首なんて獲るわけないから、もっともそうなことを言って場を納めただけじゃないか。
30人間七七四年:2009/10/31(土) 14:59:16 ID:uo5PVM0X
女でも鎧着てたら分らんぞ
31人間七七四年:2009/10/31(土) 16:06:20 ID:xt/c9pwZ
男の娘か、まかせろ

天文15年、扇谷上杉・山内上杉・古川公方らを中心とする関東諸侯連合軍は
北条家の主力が今川と河東で争っている隙をついて北条領に進軍
北条屈指の猛将、北条綱成が守る河越城を落とさんと八万を超えると言われる大軍で攻めていた
ところが河越城、なかなか堅牢であり、そうやすやすとは落とせぬまま半年が過ぎようとしていた

憲政「そうは言っても北条の主力は動けないとわかりきってるので気楽なもんです」

まあ大体ダラダラやってりゃ勝てそうな状況に兵士達の士気もやや下がり気味な関東連合軍
そんなある日のことである。

パッカラパッカラパッカラパッカラ

兵士A「あれ?なにこの勇ましい馬の足音」
兵士B「まさか敵襲?……ってそれはないかぁ」

徐々に近づいてくる馬蹄の音。兵士たちがそこで見たものは……

兵士A「女の子だー!」
兵士B「ものすんごい美少女だー!」

長い黒髪と打ち掛けをはためかせ、艶やかな化粧をした美しい少女が、
馬に乗って関東連合軍のど真ん中を突っ切っていったのである

兵士A「( ゚Д゚)ポカーン」
兵士B「( ゚Д゚)ポカーン」
なんだったの今の

あまりの少女の美しさに、誰もが身動き一つ出来ずに彼女を見送ることしかできなかった


その頃河越城内では

綱成「なに?御本城様の援軍がすぐ近くまで来ているだと!」
美少女「はい、機が参りましたら奇襲をかけるとのことです」
綱成「そうかわかった。ありがたいことだ。
   これでいい気になって城を囲む連中の鼻をあかせるというものよ。
   しかし弁千代、お主よくぞ、この包囲網の中こうして城内に参ったものぞ。
   さすがは儂の弟じゃ」

実はこの美少女、正体は“地黄八幡”北条綱成の実弟、福島弁千代であった
彼は兄の窮地を救うため、氏康に願い出てこの危険な伝令任務を受け持った
美少年として知られていた弁千代は、己の大変な美貌を武器したのだった

この後、関東連合軍は氏康率いる奇襲部隊と綱成率いる河越守備隊に散々に蹴散らされ、
関東管領の権威は完全に失墜することになる
氏康の武名を轟かせた河越夜戦で活躍した
北条の秘密兵器のお話
32人間七七四年:2009/10/31(土) 16:15:42 ID:AI8oV5DA
やらないか
33人間七七四年:2009/10/31(土) 16:27:41 ID:ScVLhpzN
万が一、捕らえられたらと思うとアッー!
34人間七七四年:2009/10/31(土) 16:37:54 ID:ZQUPcZtB
>>31
ラスボス「所で君、姉や妹はいるのかね?」
35人間七七四年:2009/10/31(土) 17:33:53 ID:8+HkA/0C
S田N之:うちの嫁が鎧姿の美少女といえば私じゃないのかとアップを始めました。
36人間七七四年:2009/10/31(土) 17:37:12 ID:CdmvK8Dm
「こんな可愛い子が女の子なはずないじゃないか」なんて言い出して襲ってくる奴がいなくて良かったなw
衆道が広まってりから一人ぐらいいそうだが関東はそうでもない?
37人間七七四年:2009/10/31(土) 18:04:47 ID:xt/c9pwZ
>>34
綱成「うちは残念だが全員男の兄弟ばかりだ」

>>36
関東はかなり盛んだと思う
まとめの鈴木大学とか参照な
ていうか福島弁千代は氏康の小姓なんで多分氏康とはそういう関係だったと思う
38人間七七四年:2009/10/31(土) 18:05:26 ID:AI8oV5DA
すでに氏綱さまと氏康さまに掘られましたが何か?
39人間七七四年:2009/10/31(土) 18:18:23 ID:21xnXJ89
某スレで氏康はょぅι゙ょ萌だと思い込んでいたのでショック・・・
40人間七七四年:2009/10/31(土) 23:27:50 ID:IgP9jTPU
徳川家康は自分の死期を悟ったとき、息子秀忠を枕もとに呼んだ。

「わしが死んだあとの天下は泰平だろうか。それとも乱れるか」

秀忠は少し考えた。

「それは…乱れるのではないでしょうか」

「…うむ」

家康は頷いた。それは秀忠が乱に備える心構えを忘れていないからだった。
41人間七七四年:2009/10/31(土) 23:40:25 ID:khIS3A0w
>>40
それは秀忠の読みが外れた悪い話?
42人間七七四年:2009/11/01(日) 00:09:30 ID:3t0EGwil
心構えとしては乱を忘れず、
実際には乱れさせなかった秀忠のいい話だな。
43人間七七四年:2009/11/01(日) 00:27:12 ID:VexJSlN4
津川雅彦と西田敏行で脳内再生されちまったぜw
44人間七七四年:2009/11/01(日) 00:53:03 ID:JcLn+nJk
>>43
べつの放送回だったが、親子のお付き合いの時に、津川さん(ご高齢w)が怪我しないか心配してましたw
45人間七七四年:2009/11/01(日) 07:39:30 ID:34wror13
>>41
「治にいて乱を忘れず」かと
46人間七七四年:2009/11/01(日) 08:27:57 ID:RmsgJdA0
西国はいまだ豊臣恩顧大名いたからなあ。
それに大坂陣では徳川側の指揮官もだいぶ若返りを図って不手際もあったからね。
秀忠が数々の改易による恐怖政治やったのが良かった。福島改易も幕臣たちから危惧されたが秀忠の意志だったし。
牢人が増えて家光時代の社会不安の原因になったが。
47人間七七四年:2009/11/01(日) 08:47:12 ID:2q7K4ZVS
改易ってスゲーよなー
大名だけじゃなくその家臣大勢までがクビになって全員無職になるとか怖すぎる
明治維新では全国規模で似たようなことをやったし、むしろ維新の時のほうが荒れたね
48人間七七四年:2009/11/01(日) 18:10:08 ID:/kPwZAKX
維新の時が、ってより、今でも荒れてる
ものすごく大雑把に言えば、
先日の総選挙で自民が勝った地域は薩長閥だからな

まぁ自民は地方で強いから、中四国や九州で勝つのは普通なんだが、
同じ地方でも東北や北海道で負けた
これは要するに維新政府に最後まで抵抗した地域や、
その後流された地域だからだし
49人間七七四年:2009/11/01(日) 19:16:31 ID:AXzJVsON
そんなネタの数々にオレ様がクマ(AA略
50人間七七四年:2009/11/01(日) 22:15:18 ID:UzZQqipD
永禄六年の夏の事であった。

「そろそろ嫁取ろうと思うんだが、どうよ?」

長宗我部元親が、家老達を集めてそう言った。
家老達、それを聞いてたちまち歓喜の涙「とうとうその気になられましたか!!」

「まあ俺ももう、二十五だしな。そろそろ身を固めないと。」

この長宗我部家嫡男、よりにもよって二十五まで身を固めていなかったのだ。
この間の家老達の焦燥、身に詰まるではないか。

「ところで、突然嫁取りなどと言い出したからには、どなたか意中の方はがいらっしゃるのでしょうか?」

「ああいるよ!美濃の斉藤豊後守政吉の娘!」

「美濃!?」家老達、今度は吃驚してひっくり返りそうになる

「ああそうだよ?美濃の…」

「あー、ちょっと待ってください?」
老職の一人、中島大和が謹んで申し上げる

「ここは、何所ですか?はい、四国の土佐ですね?
いいですか?よく聞いてください。我が長宗我部家みたいな国人領主が嫁取りをするときはですね、
当国の土佐、もしくは近隣の阿波、讃岐、伊予、
そのあたりの大名や城主から、嫁をもらうのが当然なんですよ!
何故なら、そうしておけばもしものときに、その類縁に頼れるからなのです!
これが戦国の常識!

…なのにわざわざ、遠国から嫁をもらうというのは、こんな事を言うのもなんですが、
まさか、『あそこの娘は美人だ』なんて噂を聞いて、それで嫁にしたくなったんじゃないでしょうね!?」

「ち、ちげーよ!」

元親、老親たちの冷たい目に、慌てて言い訳を始める

「天地神明に親ってそうではない!美人だとか可愛いとかそんな噂はこれっぽっちも聞いてない!
ええとその、ほら!その昔和田義盛が、木曾義仲の愛人であった巴を嫁に迎えたという
話があったが、アレは巴の容貌に惚れたんじゃなくて、その武勇に感心したためだそうだ。
その結果二人の間には、朝夷三郎って化け物みたいな勇者が産まれたそうじゃないか!
それと同じ!

そりゃ流石に今の世に、巴御膳みたいな女はいないよ?だからその肉親の武勇を見たのだが、
彼女の父豊後守も、祖父伊予守も、武勇世間に知られた勇者ではないか?これはもう血統書つき。
サラブレットの家系と呼んでいい!そういう勇者の血を我が長宗我部に入れるためには、たとえ
遠国であっても嫌う事は無いと思うんだ!そうだろうお前達!?」

まあこんな事を言われて、なんとなく納得してしまった老親たち、美濃へと吉田左衛門佐を派遣し
婚儀を整えた。ちなみに斎藤豊後守には娘を末に三人の子供がいたが、次男は、いわずと知れた
斉藤内蔵助である。

そして元親に嫁ぎ小少将と呼ばれた娘は、信親、盛親を始めとして、元親との間に
十人の子を設けたそうだ。

長宗我部元親、品種改良みたいな理由で嫁を選ぶ。と言うお話。
51人間七七四年:2009/11/02(月) 02:10:07 ID:4b7vodLe
小少将って元親にしてみたら婆さんだったろ
よほど美しかったのかな


まあ、俺も家内は6つ上だが
52人間七七四年:2009/11/02(月) 02:14:18 ID:4b7vodLe
てか、それは小少将じゃないんじゃねえか
53人間七七四年:2009/11/02(月) 02:19:48 ID:djtO0GuA
ちなみに何て読むんだ?
しょうしょうしょう?
54人間七七四年:2009/11/02(月) 03:01:04 ID:GaD82vML
こしょうしょう、かな。
元親は後年、別口の小少将さんも側室にしとる。http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-341.html

>50
ビバ夏草の賦 

全国的にゃマイナー戦国大名だが大河にならんかねえ……龍馬なんぞより
55人間七七四年:2009/11/02(月) 03:45:24 ID:ReaNXLiE
戸次川以降が激鬱エンドすぎて「琉球の風」並みの
低視聴率になりそう (ノ∀`)
56人間七七四年:2009/11/02(月) 07:57:04 ID:Oie4Kj16
直江の関ヶ原以降=長曽我部の土佐1国へ減俸以降

秀吉に屈服しておしまい、って大河にしちゃえw
57人間七七四年:2009/11/02(月) 08:11:00 ID:qI+nsfCJ
「夏草の賦」は戦国に生きた男の儚さがよく描かれていて大好きな作品だよ
そんなに激鬱エンドかね?
戦国時代なんだし、あんな終わり方もいいんじゃないか

どうせ大河なら適当に脚色するだろうしw
58人間七七四年:2009/11/02(月) 10:00:11 ID:a57zd0Ld
>>57
信親の遺体をとりかえしてくれ、頼むって家臣に手を合わせて頼むところなんか、英雄がただの人の親になっちゃう悲涙をあらわしていてすごくいいと思う。
ただ、最近の大河にそんな描写は期待できない。
59人間七七四年:2009/11/02(月) 10:22:19 ID:Ypw738oK
無理繰ハッピーエンドっぽい展開にするのがデフォになりつつあるから、どう頑張ってもバッドエンドにしかなりようの無い長宗我部は厳しくないかな。
一昔前のハリウッド的な手法が遅れて主流になってきてるというか、安直な物語のほうが受けがいいと判断されてるというか。
60人間七七四年:2009/11/02(月) 11:02:18 ID:skiNFZhM
バットエンドを作るってのは世間に何か投げかけたいってコト(ハッピーエンドよりモヤモヤ感が残るので)だから
パッピーエンドが主流になってる昨今の日本の世間ってのは平和な証拠なのかも知れないよ

単に活力が失われているともいえるが
61人間七七四年:2009/11/02(月) 11:19:22 ID:Ypw738oK
>>60
平和は平和なんだろうけど、「考えてもムダ」とか「真面目に考えるほうがバカ」って諦念が広がってる感じがする。
62人間七七四年:2009/11/02(月) 13:35:28 ID:ReaNXLiE
現実が暗いんだからドラマでまで暗いの見たくないですぅ的な話は
よく聞くなあ
結果しか見ないで判断する人が増えたなっていうか、こういう
ちょっといい話とかにも「でも最後は滅びたんでしょ?」って反応orz
63人間七七四年:2009/11/02(月) 14:32:31 ID:ARaSmI99
>>62
わかる話ではある
64人間七七四年:2009/11/02(月) 14:56:00 ID:iLFDIa23
歴史でも何でも勝者か敗者かってだけで分けちゃって
それ以上は考えようとしないのが歴史好きな人間としちゃ辛いよな
勝者であっても決して幸福ではなかった人(晩年のラスボス)や
敗北はしたが満足な一生を送った人(某・ファンタジスタとか)もいるのが歴史の面白みなのに
65人間七七四年:2009/11/02(月) 16:55:57 ID:9uaBrWqa
>57
嫁取りの背景(美濃情勢)とか明らかに史実に反する部分や、司馬史観入ってて今時の戦国史研究からズレている部分はアップデートしてほしいけど、
あとは余計な脚色せん方がいいと思うがなー…大河ドラマに望んでも詮無いことかね。
ま、どっちみちあんまし言うとスレ違いか。すまんね…
66人間七七四年:2009/11/02(月) 20:13:29 ID:CfK9mLso
映画とかドラマみたいな軽い娯楽だと最後がハッピーエンドでないと視聴率や売上で
明らかに差が出てしまうと聞くしそんなもんだろ
今の人は身内の死レベルの不幸もあまり経験したことがない人が多いから
悲しい内容の物語を見ても感情移入がし難くてただ「暗い」って感想を持ちやすいって説もあるそうだけど
67人間七七四年:2009/11/02(月) 20:21:44 ID:cQ3AKIrD
今は物質主義なんでしょ
誇りとか意地とか精神面の物事は軽く見られがちだもん
68人間七七四年:2009/11/02(月) 20:43:21 ID:pEXO0OJw
最近の大河は所謂スイーツ(笑)だからなぁw
武士の意地とかはスイーツ(笑)脳には理解できないんだろう
69人間七七四年:2009/11/02(月) 20:57:33 ID:4b7vodLe
>54
元親にはふたりの小少将が嫁いでいたってこと?
斉藤から嫁いできた正室の名称は伝わってないと思ってたけど
70人間七七四年:2009/11/02(月) 21:18:15 ID:tJlfmDpF
無理やりハッピーエンド…

内ヶ島氏が上杉、姉小路の侵攻を撃退し、織田信長死後の動乱も切り抜ける地方豪族の生き様を描く。
帰雲城にて金森氏との和平成立を祝う宴を開くシーンで終了
71人間七七四年:2009/11/02(月) 21:35:04 ID:Nyd3bO3N
今年の大河の出来を考えると、長曾我部とかどんなことになるか。
松永や鬼武蔵でさえ、愛と正義の人になりそうな勢い。
72人間七七四年:2009/11/02(月) 21:52:40 ID:k7nrHQal
こういっちゃなんだけど時代劇や大河を真に受けてるスイーツ層って
テレビしか見ないタイプなのかもな
本読んだりしなさそう
73人間七七四年:2009/11/02(月) 22:02:25 ID:Bf8aCcEX
>>64
そうなのかなぁ。
なにわのことは、ゆめのまたゆめ
良い一生だったと思うけどな。
74人間七七四年:2009/11/02(月) 22:29:03 ID:skiNFZhM
物質主義なのは昔から男のほうって言われているんだけどね。男っていうか少年?
精神面でのハッピーエンドとかって少年ウケが悪いんだよ、明確に何か手に入れて達成感が欲しいのがウケて
女性は案外バットエンドでも主人公やらヒロインやらに感情移入して「私哀しいわ……」って浸れるそうだ

兎角、歴女とかスイーツとか言うのはちょっとマスゴミに踊らされていると思うんだけどな
75人間七七四年:2009/11/02(月) 22:37:56 ID:djtO0GuA
>>71
おいおい、松永のアニキはもともと愛と性技の人だぞ
76人間七七四年:2009/11/02(月) 22:38:20 ID:AcnrniPB
>70
それって・・・直後が・・・
77人間七七四年:2009/11/02(月) 22:47:40 ID:ReaNXLiE
歴史で萌えでなく燃えを語れるおなごもいたけどなあ
外見とは関係ないのが興味深い
78人間七七四年:2009/11/02(月) 22:55:31 ID:m12TrluC
最近の大河は観光客招致の町興しも兼ねてるからな
町興しのキャラが欲と非道の人であったり
馬買った以外特に有名エピソードがないなんて事になったら面白くないだろ
79人間七七四年:2009/11/02(月) 23:10:39 ID:UaqSJ1nA
黒田長政の家臣、神谷小助は、関ヶ原の前哨戦となった美濃合渡合戦において
真っ先に槍を入れ、敵兵十人ばかりを槍玉に挙げたが、自分の身にも十数か所の傷を
負ってしまった。

幸い傷はどれも浅く、一命は取りとめたものの、戸板に乗せられ後方へと引き下がる事になった。
その神谷が板に乗せられたまま、主君長政の前を通ったときの事だ。
神谷、突然大声で叫んだ

「今日の合戦で、私より先に槍を合わせた者はおりませんよ!!」

そう、実はその日の合戦、黒田の軍で神谷と共に一番槍を争ったのはなんと、
主君黒田長政その人であった。
そのため神谷は
『私が居ないのをいい事に、自分が一番槍をしたなんていうことは許しませぬぞ!』
と、念を押したのだ。

これには長政、少々苦笑いしながら
「勿論だ。そんな事は解っている。
それよりも手負いだというのに、気を張って物を言うのは傷にさわるぞ?
浅いといっても数箇所を負傷しておるのだ。戦場での治療だけでは心もとない。」

そう言って、有馬で湯治をさせるよう、手配したとのことである。

一番槍を目指す武士にとって、主君といえども競争相手なのである。
と言うか、主君の癖して競争相手になってどうするんだ、とも思うのだが、
これもきっと、長政だから仕方が無いのだ。

そんな黒田軍の、きっといつもの風景。
80人間七七四年:2009/11/02(月) 23:21:21 ID:fd8xD0L+
>>71
各地の大河予想スレでは、もし爆弾正の大河やるなら原作は戸部版がいいという話になってるぞw
愛と正義ではないが、戦国一の忠義者という設定だw
81人間七七四年:2009/11/02(月) 23:21:58 ID:xWaP4PxI
目立つ兜被っているやつって結構手柄立てたがっているの多そうだな
82人間七七四年:2009/11/02(月) 23:54:04 ID:850vYSVF
>>79
長政さんは相変わらず突撃バカで何より
そしてそんな長政さんに容赦のない家中の皆さんが大好きです
黒田家面白い
83人間七七四年:2009/11/03(火) 00:01:23 ID:klNY2fvT
福島正則の友人を見舞う話

伏見に滞在中、松江の城主堀尾忠晴がやってきた。
「松田の顔が見えませんがどうしたのですか」正則は訊ねた。
かねてより正則と堀尾の家臣松田重太夫は懇意にしていたのである。
「ちょっと風邪気味なので大坂に置いてきました」堀尾は答える。
その晩遅くのことである。突然松田の屋敷の門をけたたましく叩く音。
なにごとだろうかと松田が門を開けてみると伏見から一人で駈けつけた正則の姿があった。
松田は福島をもてなさなければならないと家の者に酒を買いに行かせた。
「さあ飲め」福島は松田に飲ませようとする。「病気ですので」辞退する松田だが、
福島の酒を「拒める者などいるはずもない。
「ではこの線まで」松田は酒瓶に線を引くと交互に一杯ずつ線を引いたところまで酒を飲んだ。
正則の酒をやんわりと抑える良い話。
84人間七七四年:2009/11/03(火) 00:23:38 ID:XvvgEFpm
>>78
馬買っただけとは失礼な!
同僚の倅の手柄横取りとかもあったと思ったけど。
85人間七七四年:2009/11/03(火) 02:26:49 ID:O3PTh7qo
>>84
スモー大会で郷士37564とかな。
86人間七七四年:2009/11/03(火) 07:33:58 ID:gTBWtaq0
>>79>>82
一番駆けして、家臣(後藤含む)に窘められる長政って、市松クオリティなみに安心感あるな。
87人間七七四年:2009/11/03(火) 08:39:48 ID:5fkdfY23
後藤「なじられるまで計算づくのプレイかよこれだから長政は」
88人間七七四年:2009/11/03(火) 15:29:33 ID:eClTJxXt
>>83
市松ww 近所迷惑な奴www
89人間七七四年:2009/11/03(火) 23:16:55 ID:NyiFZH2K
関ヶ原のとき、東軍各隊の物見が、「敵は十万余り」と報告する中、
一人「敵はせいぜい2,3万。何故なら戦う気があるのはそれだけだからです!」
と答え、家康から直々に『甲州(長政)の物見は巧者である』と言われた、
黒田長政家臣、家屋主水武久。その関ヶ原後の話である。

黒田長政は筑紫に入国した後、とある大身の家臣の子を主水と名乗らせようと考えた。

「主水は先に毛屋がいるが、前から、あいつにはあんまり似合わない名前だと思ってたんだよなー。
ちょうどいい、毛屋には名前を変えさせよう。なんか好みの名前があったらそれにさせてもいいし。」

そんな事をスナック感覚で思いつき、毛屋の元にさっそく使いを出した。

「何か変えたい名前あります?」

使者の問いに毛屋、答える

「糞兵衛」

「く、糞!?そ、そんな汚らしい名前、殿に報告する事もできませんよ!?」

「フン、いきなり名前を取られて、この上さらに又、名を取られる様なことになっては適わんからな。
そこで、人が絶対に付けぬ名を考えたのだ。『糞兵衛』に改名、お願いいたす。」

ほうほうの体で帰ってきた使者に、長政、「それはお前の切り出し方が悪かったのだ。
よし、わしが毛屋に名を与えてやろう」と、毛屋を呼んだ。

「毛屋、武蔵坊を知っているか?昔源義経に仕えた、高名な者だ。」

「知っております」

「さて今の世、将軍は武蔵国に御在城されておる。これも知っておるな?」

「知っております」

「それといいこれと言い、武蔵とは実に良い名称である。毛屋、これを名乗ってはどうか?」

毛屋、こう言われてなんだかいい名に思えたのか、素直にそれを頂き、その日より
『家屋武蔵武久』と、名乗ったそうである。
90人間七七四年:2009/11/03(火) 23:22:09 ID:YAWA9rjC
おおw
途中まで長政も蹴られる話だと思ってたw
スマン長政公wwww
91人間七七四年:2009/11/03(火) 23:26:04 ID:NyiFZH2K
ああああああ、最後の行の
『家屋武蔵武久』は、”毛屋”の間違いです。すいません。
92人間七七四年:2009/11/04(水) 00:57:15 ID:VIYQzcSt
糞兵衛にすればネームバリューは戦国随一になったろうに
93人間七七四年:2009/11/04(水) 01:31:47 ID:7GMPPTfP
長政公って我が福岡じゃ知勇兼備の大英雄なのに如水の名に隠れてかなり不当な評価受けてる気がする。
日本屈指の大大名である筑前52万石の開祖は長政公であって如水公は我が才をひけらかし過ぎて太閤に押し込められた人って言うのが地元民の正当な評価。
そんな長政公のお話をひとつ。

家康公、晩年に秀忠と土井利勝に豊臣恩顧の外様大名の評価を聞かせた。その中でも黒田長政の人物については日本一の大将と語ったそうだ。
家康公「一先ず戦国は終息したが予の死後、再び天下が乱れれば天下を取るのは黒田であろう。知勇兼備、豪勇果断、今様に奴程の武将はおるまい。如水は太閤殿下に才を恐れられたが、小手先の芸に秀で大局感がない。如水ならば赤子を捻るようなものだ。」
「長政が九州の大名を統合すれば幕府は危うかろう」
筑前武功記より
94人間七七四年:2009/11/04(水) 01:44:16 ID:dFgFTMBl
黒田長政は後藤又兵衛が英雄視された割を食ってると思う
95人間七七四年:2009/11/04(水) 06:23:57 ID:+maZBblz
家康の恐れた男のテンプレに、テンプレ男の長政も入ることになったか。
96人間七七四年:2009/11/04(水) 07:52:12 ID:h5Ks2mYg
筑前武功記か、いかにも幕府に阿っている感じの内容だな
97人間七七四年:2009/11/04(水) 09:45:03 ID:xlWOVoQQ
長政は、やたらと目立つはた迷惑な近親者のせいで実績の割りに評価の低い武将の括りではまだマシなほうじゃね。
北の伯父さんとか、信州のお兄ちゃんに比べて。
98人間七七四年:2009/11/04(水) 10:27:07 ID:sHS/gnEv
的確な判断で家を保ち領土を広げた英雄だというに兄たちばかりが有名で困る
父と伯父が有名すぎるために藩の基礎を築いた功績が無視されておる
そんなことより新付の家臣の妻にいい女はいないのか?

目立つ近親者をお持ちのお三方からコメントが届きました
99人間七七四年:2009/11/04(水) 10:51:37 ID:6P4sqNvO
高橋紹運、息子への最期の言葉。


天正十四年、九州制覇の野望を遂げるべく、島津軍が北上を開始した。
大友方の城は次々と陥落し、紹運の篭る岩屋城にも島津忠長の軍勢が迫っていた。

そうした折、岩屋城に、立花山城を守っていた宗茂からの使者が来た。

「地の利が悪い岩屋城に比べ、宝満山城は要害の地。
 かの城にて篭城すれば、秀吉公の援軍が到着するまで島津軍を食い止められましょう。」

紹運は、その使者に返事を与えて城へ帰した。

「宗茂の言うところは至極最もである。
 確かに宝満山城は要害であるが、地の利は人の和に如かずという。
 いくら堅固な城に篭ろうとも、人の心が一つにまとまらねば意味を成さぬ。
 それ以上に思うのは、我が家が今まさに滅びの時を迎えているということだ。
 時の流れにつれ、全てのものに栄枯盛衰があるのが世の習いである。
 滅亡の時が来たのなら、たとえ堅固な城に篭ったとしても逃れえぬであろう。
 なれば、多年の居城を枕とし、節を守って死ぬことこそ勇士たる者の本意である。
 ここにわしが篭れば十日は守られるであろうし、寄手の三千くらいは討ち取ってみせる。
 そうなれば、続けて立花山城に攻め入ったとしても、二十日は持ちこたえられる。
 三十日も稼げば、秀吉公の援軍も到着するであろうから、宗茂は生き永らえられよう。
 さすれば、わしがこの地に果てようとも、
 宗茂さえ無事ならば亡き道雪殿に対しても顔が立つし、宗茂の武運も開けよう。」


同年七月二十七日、紹運は自害し、岩屋城に篭った兵も全て討ち死にしたという。
100人間七七四年:2009/11/04(水) 10:52:35 ID:zUDCP1Ql
>>98

伊達
豊臣
101人間七七四年:2009/11/04(水) 12:12:21 ID:pVyir6ef
>>91
最後だけじゃなく出だしの最初四行目から“毛屋”が“家屋”になってんだがこっちはいいのか?
どういう経緯で毛が家に成り代わったのか興味はあるが、結局のところ「主水を武蔵に改めた」話でおkなの?

改名の話なのに何がどうなってんのか一読したとき?が頭の上に浮かんだYO
102人間七七四年:2009/11/04(水) 13:04:09 ID:LWQL6RJx
>>100
三行目はTERUじゃない?
103人間七七四年:2009/11/04(水) 13:13:53 ID:zUDCP1Ql
>>100
是正

森忠政
島津(二代目)家久
毛利輝元

こうだな
104人間七七四年:2009/11/04(水) 15:10:56 ID:9UlfxnFD
>>99
恥ずかしいけど泣いた
紹運大好きだ
105人間七七四年:2009/11/04(水) 16:09:09 ID:HpuQSZmQ
「武蔵守」って幕府を憚って使わないしきたりに
なってたとか何かで見たけど、江戸初期はあったんだね
106人間七七四年:2009/11/04(水) 18:48:04 ID:sToqLK5Y
真ん中も輝元じゃないの
ああ、父親g
107人間七七四年:2009/11/04(水) 20:43:28 ID:5oe5ngXI
隆元パパのことかーーっ!
しかし、改めて思うが隆元はもっと評価されてもいいと思う
108人間七七四年:2009/11/04(水) 21:15:43 ID:kwTPzrJ7
>>89
では甲斐と改めますと言うのかと思った。
109人間七七四年:2009/11/04(水) 21:52:59 ID:MIy7yVtU
>>89


その武蔵に居る将軍も『糞』に縁がある。

110人間七七四年:2009/11/04(水) 21:58:33 ID:VIYQzcSt
>>94
又兵衛を使いこなしていたら評価は数段上だったろうな
でも長政は又兵衛がいなくなったから
家来の話を聞くようになったんじゃなかろうかと思ってみたり
111人間七七四年:2009/11/04(水) 22:03:29 ID:z3zV7Z9K
>>105
だから「武蔵守」ではなくて、ただの「武蔵」なわけで。
112人間七七四年:2009/11/04(水) 22:05:05 ID:zUOfYpFh
しかし又兵衛とかメンドクサイ通り越して嫌味だろ、もう
使いこなせねぇって
113人間七七四年:2009/11/04(水) 22:06:15 ID:V6VbNumM
というか黒田家の家臣はなんで反骨精神旺盛なんだよw
主君なんだから面子や面目潰しちゃいかんだろw
長政はそれほど無能か?
114人間七七四年:2009/11/04(水) 22:09:35 ID:VIYQzcSt
>>109
違う味噌だ!

>>112
又兵衛も三河武士に混じれば普通だったのかも
個人的には徳川に又兵衛ついたらがどうなるか気になる
115人間七七四年:2009/11/04(水) 22:16:19 ID:h5Ks2mYg
現在の企業でも、創業社長には忠誠を誓えても二代目の息子には誓えないってパターンは多いでしょ
二代目が親父の地位を相続したら、古参社員に舐められないようにハッスルするけど苦々しく見られるだけって展開
116人間七七四年:2009/11/04(水) 22:20:37 ID:V6VbNumM
現代企業の世襲は健全じゃないが中世領主は世襲が当たり前なんだから意識違うんじゃね?
117人間七七四年:2009/11/04(水) 22:23:02 ID:z3zV7Z9K
黒田家の場合は、家臣の間に、官兵衛が幽閉されている間、自分達が黒田家を守った、っていう
一種の自負心があったように思う。
家康が人質にされている間に家を守り通した、徳川家臣団と似た感覚ですな。
118人間七七四年:2009/11/04(水) 22:24:15 ID:zUOfYpFh
長政「敵が放置したお酒の中に毒が入ってるかも知れないぞ!昔そういう話もあったし」
又兵衛「死んでもかまへんから酒のむわー」

反抗期だろ、ただのw
119人間七七四年:2009/11/04(水) 22:27:04 ID:h5Ks2mYg
又兵衛と長政は現在に生きてたら漫才師として上手くやっていけたろうなw
120人間七七四年:2009/11/04(水) 22:40:16 ID:3io0nrfB
又兵衛は心服させられればまさに股肱の臣なんだろけどなー。

長政とは相性悪すぎてw
お互い有能なのにそり決定的に合わない相手っているからな
121人間七七四年:2009/11/04(水) 22:45:26 ID:YU1ihEsJ
>>113
黒田家ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
福岡城の御殿に座った殿様といつ喧嘩が始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。
で、やっと殿さまにお目見えしたと思ったら、そいつが、
よーし殿さま謡曲披露しちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、謡曲なんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、先生に褒められた、だ。
お前は本当に謡をやりたいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、ウンウン唸りたいだけちゃうんかと。
黒田家通の俺から言わせてもらえば今、黒田家通の間での最新流行はやっぱり、
長政叩き、これだね。
軽薄粘着イノシシ。これが通の叩き方。
粘着ってのは奉公構い多め、これ。
でそれに軽薄イノシシ(武者)。これ最強。
しかしこれをやると次から殿様にマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。
122人間七七四年:2009/11/05(木) 00:45:13 ID:DIeIRco3
黒田家と蜂須賀家って細川家と前田家みたいに仲が悪いの?
123人間七七四年:2009/11/05(木) 00:54:49 ID:nJtUrTfR
>>113
もともと如水の部下は部下ってより小寺家の家臣団で同輩格だったのがぞろぞろいる。
親父には仕えるけど、実績のない息子のお前になんで従順に使えなきゃいけないのって感じじゃね。
124人間七七四年:2009/11/05(木) 11:00:47 ID:4G3X0I7g
>>122
いい話スレで聞くなw
よく知らんけど数十年〜の規模で絶交してたらしいとは聞いたことある
家康の養女嫁にもらうから秀吉の養女もういらねって返されたらそりゃ怒るよね
125人間七七四年:2009/11/05(木) 17:10:11 ID:9stDo1yt
黒田絶交録

長政「家康公の養女をもらうのでオタクの娘さんはお返ししますね」
蜂須賀至鎮「なめんなボケ!」

長政、小倉から福岡へ転封の時
「今年の年貢全部持ってくから頑張ってね」
後に小倉に入った三歳様
「ふざけんなカス!半分置いてって後で分割返済が礼儀だろ」

黒田忠之「黒田騒動で助けてくれなかったオタクとはもう付き合わん」
鍋島勝茂「ポカーン」(゜д゜)
126人間七七四年:2009/11/05(木) 19:51:30 ID:g+otbKk0
>>125
なんか仙台イーグルスのまーくんと仲良くなれそうだなー…
127人間七七四年:2009/11/05(木) 20:10:03 ID:witJ6kT3
>>125
黒田家と鍋島家が不仲になった理由には諸説あるらしい。

家臣:殿、御禁制の大船の建造がバレました!
忠之:禁制じゃねーよギリギリセーフだよ
家臣:江戸じゃえらい騒ぎらしいですよ、黒田家改易もありかもとか言われてるらしいっす
忠之:大丈夫大丈夫心配しすぎだって。今江戸には勝茂ちゃんがいるだろー
家臣:はあ…
忠之:そんなやばいことになってるのに勝茂ちゃんが俺に教えてくれないとかありえないっしょ。
    実際はそんな騒ぎになってないよお前ら焦りすぎ(`ー´)

※真面目に大騒ぎで大変なことになりました
※2「実際に見に行ってみたら噂ほど大きくなかった」という拍子抜けな事態でお咎めなしでした

忠之:なんで教えてくれなかったんだよ!勝茂ちゃんなんかもう絶交だヽ(`Д´)ノ
勝茂:ポカーン(゜д゜)

あるいは

勝茂:ごめん、帰りは一緒の宿に泊まろうって言ってたけど、あれダメになった
忠之:前から約束してたじゃん!勝茂ちゃんのバカッ!絶交だヽ(`Д´)ノ
勝茂:ポカーン(゜д゜)

こんな黒田家と鍋島家ですが、関ヶ原の時は黒田家が取り成してくれたというのでもとは仲が良く、
福岡城にも佐賀城にも、お互いの家中から手伝いを出して掘ったとされる堀があるのです。
…最後はいい話でしめようという努力を汲んでイイハナシダナーと言ってほしい。
128人間七七四年:2009/11/05(木) 20:49:14 ID:0s0bYqZT
( ;∀;)イイハナシダナー
129人間七七四年:2009/11/05(木) 21:29:16 ID:Xo76TRBe
「イイ!」は無しだな〜
130人間七七四年:2009/11/05(木) 21:40:49 ID:RaikqgB7
いい話と悪い話の両方で長政ネタになってるなw
131人間七七四年:2009/11/05(木) 21:59:05 ID:0q8+vEkN
藤堂高虎が徳川家康、秀忠が話した時、
家康が天下泰平の時に考えるべき事はなにかと高虎に尋ねた。

「それは人です。つまり上と下の間に生じる疑心が大敵でしょう。
特に上が下を疑ってはいけません。疑われれば下も上を疑い、
やがて大きくなった疑いが天下を乱すことでしょう」

高虎の言葉を聞いた家康は

「うむ。秀忠殿、よく覚えておくように」

と言った。
132人間七七四年:2009/11/05(木) 22:07:10 ID:Xo76TRBe
この三人がこんな話をしてると何か裏がありそうだw
133人間七七四年:2009/11/05(木) 22:12:19 ID:RaikqgB7
>>131
それはどう読んでも悪い話だろw
134人間七七四年:2009/11/05(木) 22:15:26 ID:W0UIxQ7Y
藤堂高虎ってホントに現場たたき上げで、字の読み書きもろくに出来ないくらいの
人だったんだよね。それが、確かに才能もまわりの環境もあったんだろうけど、
本当に努力して、最後には政権中枢のど真ん中で働くようになった。

卑賤な例えだが、中卒の工場労働者が最後は大企業の取締役になったような感じ。

そういう部分を知っておくと、高虎の言葉って非常に心に入ってくるものが多い。
135人間七七四年:2009/11/06(金) 01:46:10 ID:gbsjoLpS
>>127
>福岡城にも佐賀城にも、お互いの家中から手伝いを出して掘ったとされる堀があるのです。

きっと別のものを掘ったに・・・
おや、こんな時間に宅配業者が…
136人間七七四年:2009/11/06(金) 02:22:20 ID:kaR7xMBo
高虎の逸話は叩き上げた血と汗が感じられていいぬ
137人間七七四年:2009/11/06(金) 08:49:25 ID:hczs0qiz
そういや黒田はこの藤堂さんや細川とも仲が悪かったなあ
仲がいい大名が市松くらいしか思い浮かばん
138人間七七四年:2009/11/06(金) 10:13:09 ID:kymNvLNA
黒田忠之はいかにもありがちな三代目の馬鹿殿だからなぁ。
139人間七七四年:2009/11/06(金) 13:36:07 ID:wMyCTpJr
>>134
その例で言えば、最初と二番目のバイト先は問題起こして出奔。
三番目でようやく正社員になれるも、オーナー交代。
その新オーナーと「名ばかり店長」問題で揉めてまた出奔。
(手柄を上げて母衣衆に加えられたが、加増がなかったらしい)
10代の頃は「誰も俺の事を認めねえ!」という厨二入った脳筋ファイター。
それが晩年ではこんな事を言ってる。

高虎は漢字の読み書きが苦手だったので、人を招いて話を聞く事を好んだ。
そんな高虎が最晩年、当時一級の儒学者である如竹山人を招いた。
如竹は仕えるにあたり、高虎に条件を付けた。

「身共は田舎者で遠慮する事を知らない。
 殿様とてビシビシ教えるが役目と心得ている。
 それで良いか?
 嫌なら身共の方から断る」

これに高虎、応えて曰く。

「貴殿のそのようなところを尊敬しておる。
 媚びへつらう輩はお断りじゃ」

とまあ、最早揺るぎない地位を誇る高虎が、このように謙虚に述べている。
高虎の一番面白いところは、この成長っぷりにあると思う。
140人間七七四年:2009/11/06(金) 15:12:58 ID:Dfk9PAe4
> 「身共は田舎者で遠慮する事を知らない。
>  殿様とてビシビシ教えるが役目と心得ている。
>  それで良いか?
>  嫌なら身共の方から断る」

三河武士の儒学者verか
141人間七七四年:2009/11/06(金) 15:16:35 ID:FjaBdaIi
硬骨の学者にありがちなタイプよw

阿ると思われるのを嫌う
142人間七七四年:2009/11/06(金) 16:30:33 ID:08ux/uMQ
高虎から伊達への手紙が辿々しい感じで可愛かった
元和元年のだったけど、一文字一文字がでかいとこ見ると
もう視力が大分落ちて来てたのかな

つか内容が「遊びに来い」なのが微笑ましくて和む
招いた相手がDQN眼竜なので平和に帰ったのか否か少々気がかりだが
143人間七七四年:2009/11/06(金) 16:56:30 ID:hczs0qiz
>>142
政宗と高虎仲がいいよな
大坂の陣の後で、切腹した古田織部の屋敷を拝領した高虎が政宗に
「古田殿の屋敷を頂きました。これで俺もいっぱしの数寄者になっちまったというわけですよ」
っていう手紙書いてたんだが
いい屋敷を貰ったのを自慢してるっていうよりも
なんか虚しさを感じさせる感じだったんで印象に残ってる
144人間七七四年:2009/11/06(金) 17:28:07 ID:p+/l+QYm
へぇ、へうげものの屋敷は高虎に渡ったのか
屋敷を手にして喜んでいたのか、織部の死を悼んでいたのかどっちにも取れる文面だねえ
145人間七七四年:2009/11/06(金) 17:51:12 ID:0pNNjEsD
>>137
所領が近いからもあるだろうが宗茂とも仲良いじゃないか。
その友達の酒乱と天然の諍いの間に挟まれて頑張る長政は良い長政だったぞ。
146人間七七四年:2009/11/06(金) 19:03:21 ID:rekolfVt
>>144
確か高虎から娘婿の小堀遠州に渡ってるんだよね。
元々秀長配下だし、利休門下とも親しい仲だったのかも。
147人間七七四年:2009/11/06(金) 19:29:16 ID:08ux/uMQ
>>143
元和元年のも屋敷拝領で「いよいよ数奇の上手になり」云々って書かれてた
茶の湯でおもてなしするよ的な意味らしい@ずんだ市博物館

細川忠興から伊達への保春院お悔やみ手紙も撮ってた昔のわしGJ
しかしなんという濃いメンツ
148人間七七四年:2009/11/06(金) 19:44:47 ID:BQL+dmij
萩から彦根へ、「安政の大獄」和解の市民団
http://news.biglobe.ne.jp/social/273/ym_091106_2733469158.html
いい話かな?
149人間七七四年:2009/11/06(金) 21:33:32 ID:2tvhUJxm
細川忠興の心構え

かねてより温厚で柔和な三斎公であったから、領地替え以後気まずくなった隣国筑前の黒田長政のこと、
普段気にも留めていなかった。

そんな折、長政の重臣後藤又兵衛が主人と仲違いし黒田家を辞すると忠興が聞いた。
かねがね後藤又兵衛の武勇を聞き及んでいた忠興、直ぐにも又兵衛には高録で召し抱える旨を伝えたのであった。
が、又兵衛が応えて言うには、主人であった長政、執念深い気質、追手をきっと差し向ける故
果たして国境を越せるや否や定かでない、そのように細川忠興はきかされると即座の差配であった。

後藤又兵衛、細川家の封地豊前との国境に差し掛かった折に目にしたのは、百名もの鉄砲隊を従えた甲冑姿の細川家の軍勢、
まるでこれから合戦の如き気構えでの出迎えであった。
さすがあまたの戦場を経た忠興公である、と感心しきりであった、が、又兵衛の心中、暗雲がむくむくと浮かぶのでもあった。


150人間七七四年:2009/11/06(金) 21:37:11 ID:zAM043bb
観光対策で大昔の遺恨をほじくり返すのはどうかと思うんだよなあ
なんでもかんでもねぇ
151人間七七四年:2009/11/06(金) 21:40:39 ID:CukRqtZt
>>149
いい…話?w;
152人間七七四年:2009/11/06(金) 21:46:01 ID:iTGB/2yY
>温厚で柔和な三斎公

……はい?
153人間七七四年:2009/11/06(金) 21:48:43 ID:vwtgUS8O
>>152
そこは俺も心の中でつっこんだけどwww
154人間七七四年:2009/11/06(金) 21:52:21 ID:7HBXpPdl
>>152
>>153
同じくw
155人間七七四年:2009/11/06(金) 21:56:39 ID:dnSRx7Ls
Q. 「かねてより温厚で柔和な」という形容詞に続くにふさわしい人名を選びましょう。(複数可)
1.森長可
2.伊達政宗
3.細川忠興
4.島津忠恒
156人間七七四年:2009/11/06(金) 22:01:53 ID:CukRqtZt
>>155
リアルで茶を吹いたじゃねーかコイツめw
157人間七七四年:2009/11/06(金) 22:06:26 ID:SX2Jp8fS
>>155
え?正答無しだろ?
158人間七七四年:2009/11/06(金) 22:09:24 ID:08ux/uMQ
無茶振りすぎるw
159人間七七四年:2009/11/06(金) 22:10:44 ID:Uoo8BXIY
>>155
QMAみたいな問いだすなよ
160人間七七四年:2009/11/07(土) 00:26:39 ID:xjJlQvaE
え〜と・・・1です!
161人間七七四年:2009/11/07(土) 00:39:35 ID:pGVrFeWK
>>155
答えは福島正則だろ
162人間七七四年:2009/11/07(土) 00:51:57 ID:LMzi4+aF
ト、豊臣秀吉様デアルト回答イタシマス
163人間七七四年:2009/11/07(土) 02:19:41 ID:a01eWbMV
彼方越前より富田長繁さまがお越しのようで・・・ >>155
164人間七七四年:2009/11/07(土) 06:24:09 ID:MNzN/KSN
まとめるか。

Q. 「かねてより温厚で柔和な」という形容詞に続くにふさわしい人名を選びましょう。(複数可)
1.森長可
2.伊達政宗
3.細川忠興
4.島津忠恒
5.福島正則
6.豊臣秀吉
7.富田長繁
8.三河武士一同
165人間七七四年:2009/11/07(土) 08:24:10 ID:r9gPtfmf
でも後世に伝わるのはどうしても派手な話が多いから
実際の人格はどうなのかわからんな。そのときの世相も影響あるだろうし。
>>164にあがってる人も実際につきあってみればいい人なのかもしれない。
166人間七七四年:2009/11/07(土) 08:59:07 ID:j6w7X+i+
>164
家康だろう。狸の皮から言って。
167人間七七四年:2009/11/07(土) 09:05:41 ID:3J1oaGgG
>>164
つ第六天の魔王
168人間七七四年:2009/11/07(土) 09:09:25 ID:ZcAwnvq9
信長さんは、イライラしてない時は普通にイイ人だわな
169人間七七四年:2009/11/07(土) 09:15:51 ID:83wK4IzC
勝手な印象だが忠興は逆鱗に触れなければ大丈夫そう
政宗は気まぐれ、忠恒は陰険、長可は常時臨界状態
170人間七七四年:2009/11/07(土) 09:18:20 ID:4dhpskJb
宇喜多直家「俺も俺も。数年来の友になれるって」
171人間七七四年:2009/11/07(土) 10:37:15 ID:AxoQ/H2s
その数年後にはきっと草葉の陰にいるな
172人間七七四年:2009/11/07(土) 14:04:50 ID:JaAU3qN4
大量規制に遭ってもこのスレだけはいつも通りで嬉しいな。

んでもっていつもながらまとめサイトの管理人殿の仕事ぶりには頭が下がる。
生ける司馬遷と言った所か。
173人間七七四年:2009/11/07(土) 14:44:46 ID:ZcAwnvq9
>>172
>生ける司馬遷
そんな事書くと、まじめに歴史好きな人がキレるぞ。
管理人さん頑張ってるしすごいと思うけど、さすがにその例えは古人への冒涜だ。
174人間七七四年:2009/11/07(土) 14:46:49 ID:oDR7O8KT
規制中は流石にここも投稿減ってたなあ。
それでも1日に1つ2つ逸話が投下されてたのもすごいがw
175人間七七四年:2009/11/07(土) 14:47:02 ID:4dhpskJb
歴史好きの笠に被ってるだけでキレてんのはお前だろ
何マジになってんの?
176人間七七四年:2009/11/07(土) 14:50:18 ID:4dhpskJb
規制中に代投して貰ったけど長文だと分割して投稿しなくちゃならなかったからメチャクチャ面倒だった
俺は未だに規制中だがしばらく投稿は無理だな
177人間七七四年:2009/11/07(土) 14:53:51 ID:Qw42t5F3
生ける司馬遷、死せる孔明を走らす。

あれ?
178人間七七四年:2009/11/07(土) 15:07:24 ID:oDR7O8KT
関ヶ原の敗北により、島津義弘が逃走していたときの事である。

島津主従、伊賀山中において道に迷い、ついに進退窮まった。
ところが、ここで一人の老人が現れ、義弘らに道を教えた。このおかげで彼らは無事、
伊賀を抜けることが出来た。
義弘は老人に大変に感謝をし、彼に、十文字の紋の付いた猩々緋の羽織を与え、

「我らが無事に帰国したと聞いたら、これを持って薩摩に下ると良い。きっと褒美を取らすであろう。」

と、言い含めた。

さて、このような事があって義弘は薩摩に無事帰国したが、いつまでたっても
あの老人が薩摩に現れる事はなかった。
義弘と共に逃げ帰った者たちからも、だんだんとその事が忘れられた頃、
かねてから島津家の信仰の厚い、大隈の八幡宮の祭礼があり、そのため普段厳重に閉められている
宮の扉が開けられた。その社殿の中に、

あの時義弘が老人に与えた、羽織が置かれてあった。

これを見た人々皆、奇異の思いに打たれたと、伝わる。
179人間七七四年:2009/11/07(土) 15:24:15 ID:y3lSEvBj
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2328.html

↑の別バージョンか
どっちのオチも昔話っぽいな
個人的には義弘らしいと感じるけど
180人間七七四年:2009/11/07(土) 15:28:47 ID:4dhpskJb
狐に地蔵に八幡か
やたら神様に愛される気質だな義弘w
181人間七七四年:2009/11/07(土) 21:36:10 ID:b7VJhgcZ
では義弘の話をもう一つ。

義弘が隠居後に近習と出掛けたとき、加治木の城下ではお祭りをしていた。
義弘の父、貴久に由来する鈴懸祭りという大層賑やかなお祭りである。

お殿様のお出掛けと聞いて、町の者達は一旦踊りや囃子を止めてお通ししようとしたが
義弘は「よいよい、そのまま続けよ」と町人達の踊りの中を馬で通り過ぎようとした。
だが、先導の者の馬が太鼓の音にビクついたのか前に進もうとしない。

これを見た義弘は苦笑して「先導のものは若輩ゆえ馬の扱いに馴れて居るまい。誰か手本を見せてやれ」
左右を省みて年配の者達に先導を代わるよう命じた。
ところが年配の者達も馬を思うように扱えず、どうしても踊りの中を通る事が出来ない。
誰一人として馬を満足に扱えないのを見かねた義弘、ついに「もう良い!わしがやる!」と言い出した。

これには近習たちも驚き「殿ももはや80近く。そのお年ではどんな怪我をするか分かりません。どうかお止めください。」
と懇願したが「そこで見ておれ、わしが手本を見せてやる!」と言うが早いか先導の馬に乗り、
まるで無人の野を行くが如く踊りの中を通り過ぎてしまった。

これには町人も拍手喝采、近習たちも自分の主君に対する尊敬の念を新たにした。
だが義弘はこのことを誇るでもなく
「敵味方が喚きあい、矢唸りに鉄砲が鳴り響く戦場を往来するは武士として当然のことである。
 『治において乱を忘れず』じゃ。お前達も常々馬術や武芸の稽古に励むように」
と訓戒した。

このとき以降、加治木では馬術を競い合う「馬責め祭り」なる行事が行われるようになったとか。
182人間七七四年:2009/11/07(土) 22:37:33 ID:VA4mkiHs
立花宗茂も島原の乱の時に、
今時の武士は平和ボケになってるみたいなこと言ってるから、
戦国を知る歴戦の猛者から見たら、
江戸初期の武士はたるんでるように見えたのかな
183人間七七四年:2009/11/07(土) 22:46:30 ID:y3lSEvBj
「責め祭り」だけ見てカナマラ祭みたいなのを妄想した俺を誰か責めてくれ…
184人間七七四年:2009/11/07(土) 23:36:02 ID:tcx4268f
>>183
貴殿には馬より△木馬が相応しいようじゃのう
185人間七七四年:2009/11/08(日) 00:10:22 ID:Xqt4NdKH
>>182
フィクションですが「出星前夜」読むと大変 (ノ∀`)アイター な感じ

技術の衰退がどんだけ早いのかは、今ほとんどの人が炊飯器ないと
飯を炊けないのを考えてみると近いかも?
186人間七七四年:2009/11/08(日) 03:08:40 ID:ETBkntlF
近代の軍隊でも技術をいくら発展させても実際に指示したり前線で戦う人間が
実践を積まないとどんどん弱体化していくそうだね
模擬戦や災害救助程度しかほとんどしない国の軍隊がいきなり戦争に投入されると
かなり悲惨なことになっちゃうことも少なくないそうだし
187人間七七四年:2009/11/08(日) 05:30:57 ID:ZYwxz0kw
>>186
強い軍隊の維持という目的があるためなのか、アメリカやロシアはよく戦争をする。
関ヶ原→大阪の陣の教訓は、兵士にとって15年は長すぎるってこと。
日清戦争以降の日本はだいたい10年毎に戦争していたが、これもそういう理由があったのかもしれない。
188人間七七四年:2009/11/08(日) 06:20:47 ID:bSelRiWU
でも、旧日本軍の場合槍みたいに長いライフル銃に銃剣付けて突撃が基本だからなぁ・・
189人間七七四年:2009/11/08(日) 07:32:27 ID:ORPKO9Zx
西南戦争なんてヨーロッパの軍事教典通りの戦い方だったな・・・
日露戦争も火力でロシアを圧倒する場面も多々あったが。勝ってからおかしくなった
戦術的には日中戦争のころでもロシアの浸透戦術をマスターしとてもテクニカルな戦い方はしてたけど
190人間七七四年:2009/11/08(日) 07:36:23 ID:ORPKO9Zx
っていうか戦国時代って兵科別に整然とした部隊割がされてたんだよな。
みんなごっちゃになって戦ったわけじゃない。
長槍なんて槍の上げ下げまで号令で一斉にしてた。
191人間七七四年:2009/11/08(日) 08:41:38 ID:5uuyBCO8
>兵科別に整然とした部隊割

それは戦国時代末期限定の話だろう…
基本戦国時代は、寄親寄子制で直接の主人の下知で戦ったと思われる。

というか、実際の戦場での編成の史料って、ほとんど無いんだよね。
192人間七七四年:2009/11/08(日) 10:21:24 ID:YQaOk6bN
だいたい近隣の農民が高台に登っておにぎりを食べながら戦観戦してても安全なくらいにノホホンとしていたくらい戦の流儀通りにやってたし、敵方とすでに話がついての自作自演みたいな戦もあった。
そういや葦名義広の攻撃に敗走した片倉がパニクって高台で観戦してた農民達を敵と誤解して大量掃射しちまったなw
193人間七七四年:2009/11/08(日) 10:50:02 ID:OhGEv3i0
>>192
ソースは?
194人間七七四年:2009/11/08(日) 12:23:38 ID:UPXZF7aI
ここでソースの味見しても仕方ないな。
流れ悪くなるだけ。

田舎の地頭国人レベルの抗争では、実際ガチ勝負は稀で、
そこそこできり上げる大人の合戦だった、でないと双方滅亡まっしぐらだろう。

195人間七七四年:2009/11/08(日) 12:34:47 ID:OhGEv3i0
それだと妄想でも完全創作でも何でもありになるじゃん
まぁもう半分そうなってるけど
196人間七七四年:2009/11/08(日) 12:42:32 ID:01dUalmp
>>195
キミは何か勘違いしていると思う
197人間七七四年:2009/11/08(日) 13:06:40 ID:X9h4VHbR
前に日本史版で歴史は全て嘘、捏造って内容のスレあったけどね
残っている文献も遺構も現代人の創作、捏造だそうだ
198人間七七四年:2009/11/08(日) 13:24:23 ID:YQaOk6bN
そもそもだいたいが石戦で勝敗がついたから
199人間七七四年:2009/11/08(日) 13:35:44 ID:O6n35SUP
でもレスでさらっと嘘つくヤツとか普通にいるけどな。
いいor悪い逸話じゃないからスルー率も高いし
そのまま事実かのようにまとめスレに…w

しかし、ソースの真贋じゃなく
ソースを聞かれただけでこの反応とはw
200人間七七四年:2009/11/08(日) 13:53:00 ID:UPXZF7aI
ソースから、そもそも歴史とは?

ヘーゲルからマルクス、フーコまで繰り出して
大議論になるなあ。。
201人間七七四年:2009/11/08(日) 14:01:23 ID:xNtsNfYy
てゆうか「逸話」スレで史実議論とかスレ違いだからヨソでやってくれ
202人間七七四年:2009/11/08(日) 14:06:34 ID:OkRmF1fD
>>197
世界は5分前につくられたとか、実は俺以外は全員仕掛け人とか、
誰もが一度は通る道だな
203人間七七四年:2009/11/08(日) 14:15:23 ID:OhGEv3i0
ソース聞くことがタブーだとは知らなかった
じゃあ俺もほとぼり冷めた頃に完全創作の逸話とか投稿してみるかな
204人間七七四年:2009/11/08(日) 14:18:45 ID:01dUalmp
>>203
真贋についてはここ

【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/

創作はここでやれ

戦国ちょっと造り話
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1240454865/

これでもわからないならただの荒らしだ
205人間七七四年:2009/11/08(日) 14:39:40 ID:emhLv7v5
>>203みたいな、涙目で捨て台詞を残して逃走する姿はいつ見ても無様だな。
206人間七七四年:2009/11/08(日) 14:43:17 ID:drUskMk5
スレ違いのレスして叩かれてるのに理解出来ずに駄レスを繰り返す
挙げ句叩いてる奴らへの当て付けに自分がさっきまで忌み嫌った手段をやろうとする
mjktの眷属だろ
ここは2chであって悪意や虚偽が入り乱れる場
問いかけても真っ当な答えが返ってくるとは限らない
そんな場所の情報などに流されぬようにすべきであるし自らも積極的に悪意側に荷担しようなど持っての他だろう
メディアリテラシーを持て、他人が悪行やってても自分はやるな
207人間七七四年:2009/11/08(日) 15:55:40 ID:25YQh4KD
別に出典を聞いたっていいんじゃないか。
ソースって言い方がこの板に合わなかったか。
208人間七七四年:2009/11/08(日) 16:01:24 ID:ARwnZrfS
ソースといっても「本からです」でかまわんだろ
209人間七七四年:2009/11/08(日) 16:04:53 ID:drUskMk5
初めのレスより195が頂けない
飛躍し過ぎ
210人間七七四年:2009/11/08(日) 16:13:30 ID:dRFjB4ij
投下する側としてはソースの質問や間違いの指摘は全然構わないよ
むしろそれがこのスレに投下する醍醐味の一つだと思うんだ
俺が知らなかった補足や違った解釈のレスが付く度に嬉しかったりするw
ただ前にもそういう人いたが、このスレでわざと捏造投下する勇気は俺には無いな……
あんまり詳しくない武将の話投下する時でさえ冷や汗ものだしね
211人間七七四年:2009/11/08(日) 16:26:06 ID:sPs6gzLo
○○という本から〜でも、○○の地で伝わる〜でも、○○というサイトで〜でも、
なんとなく記憶にあるだけでわからない、でもいいから、1回レスするだけですむ話だろうに。

まあ聞き方ってものもあるが。

>>192
この話初耳なんだけど、出典とかわかります?
212人間七七四年:2009/11/08(日) 16:27:42 ID:YMFEuseV
この手の逸話って真贋気にしてちゃどうにもならんしな。
極端な話、「じっちゃんから聞いた」でもいいわけだし。
213人間七七四年:2009/11/08(日) 16:39:54 ID:UEk7YuFo
ちょっと前に出た学研M文庫「片倉小十郎景綱」にはこのエピソードがあった
ただし農民の騒ぎを鎮めるためにやったことになっていたが
あとがきの後に参考文献がいくつか載っているからそのどこかから引用したのだろう
214人間七七四年:2009/11/08(日) 16:43:29 ID:c9TyVLD0
性質上後世の創作が入るのは当たり前である事
逸話がどういう性質のものなのか知りたい人が判断出来るように尋ねられたらソースを示す事
これだけきちんと踏まえていれば問題ないはず
じっちゃんから聞いたならじっちゃんから聞いた、うろ覚えならうろ覚えでいいんだよ
ただそういうやり取り超えて信憑性の論争するなら他所でやれと
215人間七七四年:2009/11/08(日) 16:53:47 ID:CC7JEdeR
スレが終わるまでID:OhGEv3i0叩きは続きます
216人間七七四年:2009/11/08(日) 17:03:08 ID:01dUalmp
関ヶ原の折、石田三成の陣を壊乱させたのは黒田長政の部隊であった。
そのため、その頃関ヶ原あたりでは、女性が石臼を引く時に、

『黒田甲斐様、鳥取小鷹、石田冶部殿うずらの鳥よ、一つ蹴られて音を出さず』

と、唄ったそうだ。

黒田長政(世間の評判が)いい話
217人間七七四年:2009/11/08(日) 17:42:36 ID:yAKPOgci
片倉が農民に撃ち掛けた話、
わかりやすいところだと、小学館の小学館ウィークリーブック
週刊戦乱の日本史「摺上原の戦い」には、(ここから引用)

戦場近くの高台では農民たちが大勢集まって合戦を見物していた。
片倉景綱が追い払おうと鉄砲を撃つと、農民たちはわっと退去して逃げ出した。
この様子を見た葦名勢の佐瀬河内守隊、松本源兵衛隊が
味方の敗走と勘違いし、自らも敗走し始めた。

(引用ここまで)と書かれていて、葦名敗走のきっかけとして書かれてる。
風向きが変わって伊達勢が一気に攻勢に転じ、
葦名勢が乱戦の中押され始めてから起こった、と。

218人間七七四年:2009/11/08(日) 17:45:46 ID:yAKPOgci

>>217

退去× 大挙○
すんません・・・・・
219人間七七四年:2009/11/08(日) 18:46:51 ID:YQaOk6bN
>>217
出たw捏造伊達中心史観
もうね、笑えるよな。
講談話大好きな庶民向けの本ってさ、伊達や毛利や島津の負け話とか絶対に書かずにマンセー歪曲して話を逆さまにしたりさ。
謙信無敵とかもそうだけど、まーそうやってマンセーしなきゃ買ってくれないんだろうね。
220人間七七四年:2009/11/08(日) 18:54:45 ID:ETBkntlF
真偽がどうこう言いだしちゃうと幽霊や鬼とかが出てくる逸話は明らかにありない話だから
書くべきでないみたいな面白みのない話になるし適当でいいだろ
嘘は嘘と見抜け(ry
221人間七七四年:2009/11/08(日) 19:11:45 ID:qFM+Ewzz
>>216
こういうのって誰が言い出すんだろねw
222人間七七四年:2009/11/08(日) 19:12:21 ID:5uuyBCO8
幽霊が出てくるのをウソ・作り話と決め付けるのはどうかな・・・
中世の人は、現代人とは全く違う世界に生きていたことを忘れてやしないか。
幽霊が存在するのは、戦国時代の人にとって当たり前のことだった。
223人間七七四年:2009/11/08(日) 19:19:42 ID:dRFjB4ij
>>222
松永「ないない」
朝比奈泰勝「ですよねー、天狗ならともかくw」
224人間七七四年:2009/11/08(日) 19:21:15 ID:sPs6gzLo
>>220
それはちょっと違わないかい?
現代人が考えるところの鬼や幽霊ではなくとも、当時鬼や幽霊とよばれる存在がいたのかもしれないし。
鬼や幽霊と表現した、それ以外の何か(賊や病等)だったかもしれないし。
本当に鬼や幽霊だったかもしれないし。

現代人から見て有り得ないと思える描写が含まれても、それだけで逸話そのものの真偽をいうのはどうだろう。
225人間七七四年:2009/11/08(日) 19:51:50 ID:YQaOk6bN
島津の占いくじ引きとか元就と尼子の呪術合戦や、裏切り騙して敗死に追い込んだ陶の怨みを受けないように儀式やったりしてるくらいだから
少なくとも西国ではシャーマニズム的な霊験を恐れてる部分は濃い。
226人間七七四年:2009/11/08(日) 20:30:07 ID:yAKPOgci
>>219
ちゃうちゃう。
「その方が面白いから」
片倉がテンパって農民誤射したなんてみみっちい話より
それきっかけに葦名が総崩れしてった方が面白いじゃないか

勝つなら勝つでなおドラマティックに
負けるなら負けるでなお、お涙頂戴に

マンセーとかどうでもよくただ面白けりゃよい。
そういうもんじゃないのかな。

さて捏造伊達中心史観と言いきるなら
そうでない資料もご存知なのでしょう。
歴史にはまったばかりの若輩にそういう資料をご教示願えませんか。
煽りとかじゃなくてマジに。図書館辺りにある本なら読んでみたい。
227人間七七四年:2009/11/08(日) 20:46:29 ID:NgVcd0VD
>>226
そいつはこのスレでも有名な病人
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1247488347/
伊達や毛利や島津を叩くのが生甲斐
228人間七七四年:2009/11/08(日) 20:51:25 ID:yAKPOgci
>>227
そうなのか・・・(´・ω・`)ガッカリ
229人間七七四年:2009/11/08(日) 21:30:18 ID:Bt51UXnA
ま、そんなんで終わるのもシャクなんで

ソースは「会津合戦記」(蘆名家記)。江戸期に出回った作者不詳の軍記ものなんで
信憑性は薄いとだけ言っておく。

『…先陣猪苗代盛国会津の案内として三引両の旗一流ささせ二千余騎にて控へたり。
二陣は原田左馬助三千余騎、三陣は片倉小十郎四千余騎、本陣は政宗一万余騎にて
磐梯の腰八ヶ森に控へ給ふ後詰は伊達重実五百余騎にて控へたり…

…二陣の原田入替り戦ひけれども、富田(※隆実、蘆名家重臣)は今日を限と思ひ命を
惜まず一心にはげむ程に、原田が陣もこらへずしてくづれけり二陣もやぶれければ
三陣片倉入替て、追つまくつつ五六度まで戦ひけるが、三陣をもふみやぶられ片倉勢も
くずれ政宗の本陣さしてぞ引にける…(※この辺を「片倉がテンパッた」と捉えてるのかと)

…政宗これを見て「先陣富田将監は小勢を以て比類なき働き。これにつづいて会津勢
二陣三陣入替り戦ふものならば、味方大に利を失ふべし。殊に盛重が旗下勢躁がず備を
立るは、いか様なる軍法あらんも知れず。」
と暫し控へ給ふ処に、片倉小十郎鉄炮百挺計を揃へ敵をば打たず、会津方の軍見物に
出たる雑人共、ここかしこの山のはに居たりしを、ことごとく打せけり。

雑人共是を見て「あはや敵の方よりも鉄炮を打ぞ。逃よ!」とて、一度にどつと崩れけり。
盛重の勢は平田勢かけまけ落行と心得けん。又、内々心替に有るやらん、一度にどつと
崩れつつ、「ああ、佐瀬河内守・松本が勢共裏切するぞ。片時もはやく落行け。」とて
一度にどつとくずれ、一めんに引にけり。

時に何者かしたりけん、日橋を引落しける程に、つはもの共川中に馬を乗入或は飛込
水に溺れて死する程に侍七十五六騎雑兵八百人たちまちに死にけり…』

…は前・中・後略、(※)の中はオレ注。長文失礼。
という訳でこの話はここまでにして、いつもの当スレをお楽しみ下さい。
230人間七七四年:2009/11/09(月) 00:52:38 ID:KavXmEZS
読んでたらわくわくして来たw
231人間七七四年:2009/11/09(月) 00:59:54 ID:CcDseurv
>>229
これってあわや本陣までってピンチを機転で救った
片倉の良い話とも取れるんじゃない?まー農民には気の毒だけど
狙ってやったのか怪我の功名なのかの判断は無理だけど
(まぁSubの自己中心史観では答えが決まってるみたいだけどw)
他の武将なら「良い話」になってもおかしくない話じゃない?
232人間七七四年:2009/11/09(月) 01:30:11 ID:J/eC/k3y
単にテンパッた末の誤射だったにせよ神保さん同様目障りだったにせよ片倉の鬼謀が光ったにせよ、
本当にこれが蘆名勢敗走のキッカケになったのなら間違いなく(伊達軍にとって)いい話だよな。
というか片倉は何かと咄嗟の機転の利くイメージのある男だから、「テンパッて誤射した」では
むしろこの話が浮く気がするのだが…
233人間七七四年:2009/11/09(月) 03:44:52 ID:iBaVjtBo
>>232

> というか片倉は何かと咄嗟の機転の利くイメージのある男

前に出てた逸話で
火事の時逃げ出した奴を咄嗟に突き殺して檄飛ばしたとか
そんな話ありましたね
234人間七七四年:2009/11/09(月) 07:50:51 ID:BYEKC2Ug
>病人Sub
鮭さまで釣れなくなったから今度は政宗かw
235人間七七四年:2009/11/09(月) 11:02:39 ID:jUq/Sm82
天正の初め頃のこと。ある日、遠江を巡見していた徳川家康は、磐田見附宿で休息した。

「うーむ、疲れたの。どれ、あの家で何かもらうか…これ、誰かある!ノドが乾いた、
何か飲むものをくれ。」
「はいはい、そんな時はコレをどうぞ。」
「うん?これは冷や酒か?
………ウマイ!この辺りでも、こんな旨い酒が作れるとは!お主、名は何と言う?」
「へぃ、あっしは清兵衛と申しやす。」
「よし清兵衛、この家康、これからもおまえの冷や酒、ひいきにさせてもらうぞ。」

清兵衛の冷や酒がたいそう気に入った家康は、武田領との国境を巡見した後、見附宿で
休息し、清兵衛の冷や酒で良い気分になって浜松へ帰るのが習慣になった。

ところがある日、この巡見が武田方に漏れ、家康は高天神城からの襲撃を受けた。
何とか磐田まで逃げて来た家康だったが、追っ手がついに家康の後ろまで迫って来た
その時、見附宿から火が上った。
「すわッ!徳川の伏兵か、北条の乱入か?!」
警戒した武田軍は足を止め、その間に家康は天竜川を越えて逃れることが出来た。

「助かった…それにしても、あの火の手はいったい……?」
「おお殿様、ご無事で!あっしが無い知恵しぼった甲斐がありましたな!」
「おまえは清兵衛!あの火は、おまえがやってくれたのか?」
「へぇ、あっしと親類の家を焼き払ったんでさぁ。いや、武田も見事に釣られてくれまして。」
「何と!!…すまぬ、恩に着る……」

「それより、ずっと駆けて来てノドが乾いたでしょう?こいつをどうぞ。」
「これは…いつもの冷や酒か?今日は寒い、こんな時で悪いが燗にしてくれぬか?」
「いやいや殿様、こんな時こそ、冷やでやるもんですよ?」
そういうものかと半信半疑で冷や酒を飲み干した家康だったが、清兵衛の言葉通り
あとから効いてくる冷や酒のおかげで体を汗で冷やすこと無く浜松に帰りついた。

この功により、のちに「商い御免」の朱印状が与えられた清兵衛は自慢の冷や酒を売る
造り酒屋として財を成し、「冷酒清兵衛」と呼ばれるようになったという。

戦国の侠客・冷酒清兵衛の朱印屋敷は、今も磐田に現存する。
236人間七七四年:2009/11/09(月) 11:25:02 ID:Wg/aIyqk
>>235
> 戦国の侠客・冷酒清兵衛の朱印屋敷は、今も磐田に現存する。

これか
http://yukimura4.web.fc2.com/Toukaidou_1Shuku1Pan/28_Mitsuke/IMG_59600063.jpg

歴史が身近に息づいてて、いい感じですなー。
237人間七七四年:2009/11/09(月) 11:37:06 ID:V9BnBjmP
>「いやいや殿様、こんな時こそ、冷やでやるもんですよ?」
そこはかとなくめんどくさい臭が漂ってるな。
マイルド仕上げなのはただの領民だからか、遠州者だからか?
238人間七七四年:2009/11/09(月) 11:45:44 ID:Ng3E+MLn
>>237
冷で飲むものを燗したら風味が飛ぶんじゃない?
日本酒どころかアルコール一滴も飲まないんでそのへんはよく分からないが。

それに熱燗だと、下手したらアルコールと熱で汗が出て結果的に冷えるんじゃないかな。
239人間七七四年:2009/11/09(月) 11:54:26 ID:V9BnBjmP
まあなんというか、冷酒でいくのが道理でも、普通はただの領民なら殿の仰せのままだろうし
作左なら集落一帯に火をつけて燗にするだろうし、その中間だなと思って。
240人間七七四年:2009/11/09(月) 12:06:02 ID:zTyYl+7A
>>238
最近では日本酒はぬる燗が一番香りと味がいいというのが定説だよ。

ただ、この話の酒は、どぶろくだろうから、清酒と同じかどうか分からないけど。
241人間七七四年:2009/11/09(月) 12:07:20 ID:BYsuGNwB
>>239
家康に仕えるひとなら、当然屁理屈言いまくり
242人間七七四年:2009/11/09(月) 12:14:49 ID:BYEKC2Ug
>>235

>>238
鮭の身じゃないから風味はわかんないけど、科学的には
・アルコールは体内で、体温と同程度にならないと胃壁や腸壁から吸収されない
だそうなので、冷酒は時間たってから酔いが来るみたいよ?
243人間七七四年:2009/11/09(月) 12:16:59 ID:5rGFcqgl
冷や酒だと酒の匂いやクセが抑えられて飲みやすいけど、
燗をするとそれらが際立って飲みにくくなる場合もあるしね
244人間七七四年:2009/11/09(月) 12:20:38 ID:1Vspy64g
銘柄によって合う合わないあるべな。
でも…
市松なら。
市松なら関係なく飲み干して暴れてくれr
245人間七七四年:2009/11/09(月) 12:50:29 ID:a8Nj6PfS
>>225
日露戦争では伊予の喜左衛門狸を総大将に四国の狸軍団が出征してロシア軍相手に大活躍したそうだし、
日中戦争でも氏神さまが助けてくれたってな話は結構あるね。
詳細は「軍隊狸」でぐぐるよろし。
まして戦国時代なら魑魅魍魎怪力乱神が出まくりんぐだろうな。
246人間七七四年:2009/11/09(月) 12:59:37 ID:6GHAtoBw
>>231
>>232
>>233
>>234
必死な自演乙
なんで片倉が機転を利かしたとか根拠なくデタラメ書くんだよ。
明らかに混乱して農民を誤射しまくりなんだが。
だいたい蘆名敗走の決め手は風向き。
蘆名側に馬煙や鉄砲煙が蔓延して見通しがきかなくなったため。
それでも小高い丘にいた義盛(義広)は煙より上にいて戦域を見渡していて、蘆名軍が混乱撤退を始めたのを見て、伊達に突撃決断をしてる。
つうか相変わらず片倉の負けまくり弱クオリティ素晴らしいな。
毎回の戦で先陣で出てきては御約束通りに期待を裏切らず我先に敗走するから笑える。
247人間七七四年:2009/11/09(月) 13:02:46 ID:6GHAtoBw
訂正
○盛重
×義盛
248人間七七四年:2009/11/09(月) 13:05:57 ID:BYsuGNwB
農民ってシューティングゲームの的になってくれるために
居てくれているのだろう。
249人間七七四年:2009/11/09(月) 13:08:42 ID:D0e0+10b
今日はおでんで燗酒でもやろっと
250人間七七四年:2009/11/09(月) 13:15:21 ID:XBKYkDzq
農民を甘く見ちゃいけない
農民=ハゲタカ・ハイエナ
絶好の臨時収入を虎視眈々と狙って・・・
251人間七七四年:2009/11/09(月) 13:20:41 ID:BYEKC2Ug
まぁスルーで

>>243
そういや友達がワンカップとか安っすい酒は
燗にすると不味くて飲めないって言ってた
252人間七七四年:2009/11/09(月) 13:41:35 ID:+HphD8vH
>>248
でも実際にでてるゲームじゃ鎌投げて忍者殺してるだがな
253人間七七四年:2009/11/09(月) 13:53:42 ID:18GLh0Xh
鬼武蔵だったら退屈凌ぎに農民にヒャッハーしたらなぜか敵が退却したでござる。になったのにね。
254人間七七四年:2009/11/09(月) 15:07:46 ID:J/eC/k3y
>>246
自分のレスは>>232だけなんだが…
確かに葦名が優勢の時に農民が逃げたのを見ていきなり敗走をはじめるのはヘボすぎるから
葦名が劣勢になったのは風向きが変わったからなのかもしれんけど…
例えばそれで自軍が優勢になったのを見てとった片倉が、農民への発砲で敗走を誘い総崩れへと導く策に
出たのではないかと想像させる程、普段は冷静で機転の利くイメージの男だという話だよ。
そこまで詳しいわけではないし携帯厨だから具体的にと言われてもぽんぽんは出せんが、
>>233の話とか、最近市松との話もあったじゃないか。
デタラメというか推測ではあるけど、根拠がないわけじゃないし、そもそも軽く思った事を述べただけだ。
お前こそなんでそんな必死なの?
先祖がまーくんの被害者なのか?w
255人間七七四年:2009/11/09(月) 15:09:14 ID:Wg/aIyqk
>>254
ID:6GHAtoBwがただのキチガイなのはみんなわかってる。
スルーしましょう。
256人間七七四年:2009/11/09(月) 15:16:33 ID:BYEKC2Ug
だからスルーしろって

政宗と言えばドラグナーに「ギルガザムネ」って究極のMAがいてな…
257人間七七四年:2009/11/09(月) 15:21:16 ID:J/eC/k3y
ゴメンナサイ
自演扱いがこんな不愉快なもんとは思わなくてつい…
もう構ったりしない。
258人間七七四年:2009/11/09(月) 15:43:24 ID:BYEKC2Ug
>>257
まぁ時期に慣れる。いやな話だがw


>>256の他にもザンボット3も政宗モデルらしいけど
誰か他の武将でロボットのモデルになった武将とかって知らない?
ガンダムは甲冑を来た武者(特定の武将ではない)がモデルだとかは聞いた事あるけど

個人的にはゴ―ショーグン(ゴ―フラッシャー発射時)が秀吉の馬藺後立兜に似てる気がする
実際のところまったく関係ないんだけどw
259人間七七四年:2009/11/09(月) 16:30:53 ID:bbTfcFxY
小十郎は確かに戦は今ひとつだね。
そんな小十郎が出世した大きな要因はやはり機転。
>>245の為に片倉小十郎の咄嗟の機転が利く逸話を集めてみた。

・人取橋で本陣が崩れ敵に囲まれている政宗を発見した時、すぐにはそこまで行けないと思った小十郎は、
咄嗟に「ひるむな小十郎!政宗ここに見てあるぞ!」と叫んで自分が政宗の振りをして敵を引きつけ、
己の身を危険にさらして政宗の危機を救った。

・秀吉に三春五万石で家臣になれと言われた時、いきなり断っては秀吉の機嫌を損ねるかもしれないと
その場は受け、後から政宗への忠義を理由にやんわりと断った。

・秀吉に小十郎の刷毛の鑓印の由来を問われ、天下一撫での刷毛であると答えると、
自分も一撫でにするのかと咎められた。
小十郎は咄嗟に刷毛を半分切り落とし、秀吉は残し天下の静謐を保とうとする心意気を示すと、逆に褒められた。
(その後もそのまま片刷毛の鑓印を使っているので、小十郎的に残したのは恐らく秀吉ではなく政宗)

・米沢城下の火事と片倉小十郎景綱・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1449.html

・片倉小十郎相手に、いつもの市松。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3115.html


あとは咄嗟の話ではないが、
・幼い頃の政宗のコンプレックスだった醜く飛び出た右目を切り取って引っ込み思案を治したのも小十郎。
・家中が徹底抗戦に傾く空気の中、政宗に小田原参陣を勧め伊達家を改易から救ったのも小十郎。



局面を見極める目に優れ、その持てる智略を全て政宗に注ぎつくした揺ぎ無い忠臣、片倉小十郎景綱。
幼いころから仕えてくれたそんな大功のある忠臣を政宗がどれほど信頼し、大事にしていたかは想像に難くない。
そんな小十郎に政宗が報いた逸話がこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1505.html
260人間七七四年:2009/11/09(月) 16:31:53 ID:bbTfcFxY
間違えた。>>245ではなく>>254
261人間七七四年:2009/11/09(月) 19:12:48 ID:B2B0+2JQ
>>197
まじで!
262人間七七四年:2009/11/09(月) 19:17:57 ID:J/eC/k3y
>>259
なんかありがとう
て、ちょww最後www
263人間七七四年:2009/11/09(月) 19:25:17 ID:B2B0+2JQ
>・幼い頃の政宗のコンプレックスだった醜く飛び出た右目を切り取って引っ込み思案を治したのも小十郎。
無茶しよるで
264人間七七四年:2009/11/09(月) 19:49:38 ID:iBaVjtBo
>>259
咄嗟の話ではないが、に
病で床に臥せっていながら
大阪冬の陣・夏の陣の展開
「一度和睦して塀を壊すか堀を埋める。
しかし必ず再戦となる」を予想して、
息子に「一戦目(冬の陣)はほどほどにして力を温存しろ」と
アドバイスした話も入れて欲しい。
265人間七七四年:2009/11/09(月) 19:57:14 ID:kiTG+uEg
片倉さんやっぱりパネェな
266人間七七四年:2009/11/09(月) 20:51:49 ID:NzzQhLOY
>>258
スターウォーズのダースベイダーのヘルメットが三日月外したまーくん兜ってのを先日TVでやってた。
ジョージ・ルーカスならその辺はアリかもなあw
267人間七七四年:2009/11/09(月) 23:09:02 ID:a8k08j1L
ダースベイダーの格好=まーくんの甲冑がモデル

ここは有名な話だから。
当時のルーカスは有名じゃなかったし
「こんなヤツらに、我らがまーくんをモデルに使わせて大丈夫だろうか?」
と、政宗博物館だかなんだかの人も不安に思ったそうな。


微妙にスレ違いだからここらで終了しとかね?
268人間七七四年:2009/11/09(月) 23:37:10 ID:WB7kna5y
名奉行 兼山の森さん

かの高遠城攻めも一段落した時、三の丸で暴れまくり大手柄が確定した森家の家老二人、
各務元正と林為忠は、縁側に腰掛けてサボッていた。
そこへ織田信忠の母衣衆が駆けつけて来たので、元正は為忠に声をかけた。

「あー・・・ありゃ軍監だな。しゃーない、戦るか?」
「ん。でもオレの槍って長いから、これから本丸櫓入って屋内で暴れるのはなぁ・・・」
「じゃあ、そこの縁側に槍を立てかけてみ?」
「こう?」「おりゃー!!」
元正は縁側から飛び降り、為忠の槍をへし折った。
「どう?短くなったろ!さあ行く「・・・お先」「あっ、テメェ!!」
愛槍を折られてムカついた為忠は、抜け駆けして本丸櫓に飛び込み、一番首を挙げた。

おさまらないのは、二番首を挙げた元正である。
「オレがアイツに声かけたから、アイツ動けたんスよ!?だからアイツの功は無し!」
「戦場でそんな理屈通るか!抜け駆け御免だろ!!」
大名の筆頭家老と次席家老が争う内容ではない気もするが、裁定は主君の長可に
持ち込まれた。

「二人の槍を持って来い。」「「・・・はい。」」
「見ろ、折られた為忠の槍のほうが、元正の槍より短いだろう?短いのに、先に敵へ槍が
届いたんだから、抜け駆けの分を差し引いても為忠の勝ち。よって一番首は、そのまま
為忠とする。」
「「おおぉぉお!さすが殿!!」」 こうして家老二人のケンカは決着したそうな。
269人間七七四年:2009/11/09(月) 23:57:46 ID:jMBDBEjI
ある夜、武田信玄が側近たちに工夫と思案は同じかと尋ねた。
その問いに長坂長閑は同じですと答えたが、信玄は違うと言った。

信玄はその理由を「例えば『工夫は天地の深遠に通じるものだが
思案は仏典にある好堅樹のように地上にあるもので、まったく違う』
という意味の古語がある」と説明した。

別の夜、信玄は側近に「人には大身小身に関係なくその身をまっとう
する術がある。それはなんだ?」と言った。

しかし誰も思いつかなったので信玄は「自分のやりたいことをしないで
嫌いなことをすればよい。さすれば身分に応じて、その身をまっとう
できよう」と言った。
270人間七七四年:2009/11/10(火) 00:04:39 ID:cUmagg8G
>>268
なんか二人ともかわいいなあw
271人間七七四年:2009/11/10(火) 00:06:23 ID:xAJDWfbh
>>269
信玄自身は、自分のやりたいことをしないで
嫌いなことをしていた自覚があったのか。

というか、戦国大名なんて家臣や領民の利権やら突き上げやらで
がんじがらめで、好きなことなんかしてる余裕はなくて当然だな。
272人間七七四年:2009/11/10(火) 00:07:00 ID:awqU3z8s
>>269
好きなこともせずに身を全うしてなんになる・・・ってのは現代人の考え方なんだろうなあ。
これを見ても、やっぱり厳しい時代だったんだと思い知らされるね。
273人間七七四年:2009/11/10(火) 00:07:18 ID:T3O+VuWl
長可:25歳
為忠:27歳

かがみん:42歳


マジ大人げねぇっす、かがみん。
しかしまぁらしい裁定だなw
274人間七七四年:2009/11/10(火) 00:08:27 ID:o44HgSky
>>268
そもそもサボってたくせに抜け駆けも何もあるかw
275人間七七四年:2009/11/10(火) 00:24:34 ID:AvC0Pqdl
森家の話があると悪い話スレのほうだったかと勘違いしてしまう。不思議!
276人間七七四年:2009/11/10(火) 01:22:40 ID:husqC0Sk
>>265
ぜんぶ後世の人が考えた逸話で史実じゃねぇけどな。
片倉が機転がきくなんて完全な捏造。
秀吉は堀や直江や鍋島や小早川は非常に高く評価してるが片倉なんて評価してないし。
だいたいそんなに優秀なら政宗が死を覚悟して小田原へ行くほどにおいつめられる前に時勢を読んで手を打つはずだし、
惣無事違反した諸大名が不問にされる政治外交力と比べて伊達は杜撰かつお粗末すぎる。
政宗の目をえぐるとかまったくもって有り得ないし、
そもそも政宗は衆道友達小早川秀秋の家臣と片倉の子を交換しようして「素敵なやつがいるからもう約束した。父のお前からも説得しろなんて言ってるし」
政宗と片倉は美食超肥満主従で、大坂陣では、ついに太り過ぎて片倉が自分の鎧すらも着れなくなる体たらくゆえ、代わりに息子を出陣させたに過ぎない。
277人間七七四年:2009/11/10(火) 01:24:46 ID:zXWzEM6k
>>276
ハイハイ捏造捏造
278人間七七四年:2009/11/10(火) 01:25:59 ID:T3O+VuWl
触れたらさくざがしかる
279人間七七四年:2009/11/10(火) 06:53:57 ID:6Kv/42AM
三河の御家来衆がイラつきはじめた
280人間七七四年:2009/11/10(火) 07:27:34 ID:PZ12MDtC
他のスレでも妄想&虚言ばらまいてるし
よっぽど暇なんだろうなぁ
281人間七七四年:2009/11/10(火) 08:06:06 ID:2RTuaMpW
政宗がデブだったのだけ合ってるな
282人間七七四年:2009/11/10(火) 08:23:36 ID:q8EbqtXE
まぁこういう風(↑)にさらっと嘘をつくヤツもいるしな
283人間七七四年:2009/11/10(火) 08:28:28 ID:xAJDWfbh
>>282
実際肖像画デブだし。
趣味の美食で太ったという話もある。
284人間七七四年:2009/11/10(火) 08:34:35 ID:q8EbqtXE
>>283
肖像画って何歳の頃の政宗が描かれたと思ってんだよw
285人間七七四年:2009/11/10(火) 11:44:54 ID:i0/jovQz
両目があるし結構若い時の肖像画ですよね!
286人間七七四年:2009/11/10(火) 12:08:02 ID:2RTuaMpW
腐女に人気の武将は痩せてなきゃいけない決まりでもあるのか
たとえデブでもその武将の価値は変わらんよ、むしろ太ってる方が貫禄があって良いじゃん
287人間七七四年:2009/11/10(火) 12:18:26 ID:q8EbqtXE
ああ、なんだサブだったのか

>>285
だとすると大体4〜6歳だなw
大人びてるってレベルじゃ(ry
288人間七七四年:2009/11/10(火) 12:45:36 ID:cvaM4Gku
前に出た http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1451.html の話の補足を。
この時主君の腹に焼き鏝を押すよう命じられた片倉さんは考えた。
殿のお命にも関わる一大事、焼ききれないようなことがあってはならぬ!
そこで慎重な片倉さん、ひとまず焼き具合を試してみることにした。

ジュウウウゥゥゥゥゥ
( ;●Д゚)エエェェ

自分の腿で。

(#゚Д゚)「これだけ焼けるなら問題なし!殿、いきますぞ!!」
( ;●Д゚)「お、おうっやってくれ!・・!!!!!!!!!!!!ガクッ」

何でもこの時の治療、ただ焼くのではなく鉄棒で腫れ物に穴を開けて膿を出すという荒療治だったらしい。
もちろん麻酔なんてなし。そりゃ気絶もしたくなるってもんだが、

(#゚Д゚)「武家の大将がなにこの程度で気絶してるんですか!そんな子に育てた覚えはありません!
水でも飲んでシャキっとしなさい!」

たたき起こされた。

( ;●Д゚)「・・お、俺としたことがみっともなかったぜ・・」

この治療のあと政宗の傷は一月ほどで落ち着いたそうだが、景綱の傷は治るまで二月超かかり、その後も馬に乗るたび痛んだとか。
身をもって示した上に教育も忘れない、傅役の鑑の景綱さんでした。
289人間七七四年:2009/11/10(火) 14:14:44 ID:zXWzEM6k
片倉さんやっぱりパネェ
290人間七七四年:2009/11/10(火) 15:49:59 ID:nPWHMaYp
DQ眼竜があんなんなっちゃったのって、やっぱり
おかんの血だけじゃなくて片倉さんの教育方針が・・・w
291人間七七四年:2009/11/10(火) 16:19:18 ID:knv+8hQ0
オレも腫れ物が悪化して苦しんだ経験あるから痛さが蘇ってくるわ・・・
切開した上に膿を出す為にほじくり返されたよ。

麻酔しても痛くてしょうがなかったのに・・・・
292人間七七四年:2009/11/10(火) 16:31:38 ID:jU9medFe
政宗家臣………ヤキ入れ小十郎、新築クラッシャー成実
鬼武蔵家臣……かがみん他ヒャッハー軍団
忠恒家臣………やたら小知恵「は」回る伊勢貞昌など

えー、類は友を呼ぶと申しまして
293人間七七四年:2009/11/10(火) 18:32:31 ID:tHPdJy+M
>>292
精神年齢三歳さんのところは家臣団の話題はあまり聞かないなぁ。
294人間七七四年:2009/11/10(火) 18:33:03 ID:egVRj4hL
ところで、鏝をウナギと読み間違えて
「?」となったやつはオレだけではあるまい。orz
295人間七七四年:2009/11/10(火) 18:35:53 ID:JRW2rGsg
>>293
幽斎さんの時代から、エリート集団である室町幕府奉行衆を中核とした家臣団だったせいか、
非常に都会的でスマートな家臣団って感じがする>三斎さんのとこ。
296人間七七四年:2009/11/10(火) 18:41:12 ID:T3O+VuWl
そら家臣団までヤンデレだったら嫌だよ、そんなん
297人間七七四年:2009/11/10(火) 18:52:58 ID:giVbgekg
細川家臣で鉄砲名人のあのお方をお忘れですよ?
298人間七七四年:2009/11/10(火) 19:02:06 ID:v0TaOYIu
細川さんとこは家族が強烈だから家臣の陰も薄くなるわな
パパといい嫁といい妹といい…もちろん一番アレなのは(ry
299人間七七四年:2009/11/10(火) 20:18:25 ID:/gwDWtRv
嫁ラブな三斎殿や息子、旦那の仇討ちに燃える妹って夫婦仲を大事にするいい一族じゃないか
300人間七七四年:2009/11/10(火) 20:21:41 ID:JRW2rGsg
>>299
どいつもこいつも血の臭いさえしなけりゃねえw
301人間七七四年:2009/11/10(火) 20:40:40 ID:ofGIUPuR
>>293

細川家といえば米田監物。

細川家藤考以来、というか辛酸を父子とともになめた中。
宮津城での一色義俊の謀殺の際、細川忠興に刀を蹴って渡したのも彼。
降伏した一色家中を皆殺しにして妹を連れ戻したのも彼。

なぜか後年、忠興と大喧嘩して辞し大阪に引きこもるが、
大阪の役の際は、忠興の二男興秋とともに入城して大坂方として戦う。

落城時には逃げ延びて、興秋切腹、が米田、この時は片岡と改名、
なぜか細川家に復帰、家老に戻ってしまう。
謎の多い人物です。
三歳公が隠居していたとはいえ、何か血生臭いですなあ。
302人間七七四年:2009/11/10(火) 20:57:03 ID:ZB+TLXKr
大坂の陣が始まる少し前のこと。
関ヶ原の合戦の後、嫡子至鎮に家督を譲って隠居していた、蓬庵公こと蜂須賀家政が突然謎の言動を見せ始めた。

蓬庵「よーしパパ太閤様の神社を建てちゃうぞー」
至鎮「こ、この徳川の時代に何をやり出すのですかお父様(((゚Д゚;)))」

1614年、豊臣家が風前の灯と言うときに阿波国中田に豊国神社建立。

至鎮「お、お父様このようなことをしては幕府に……」

とりあえず豊国神社建立を問責はされなかった大坂の陣前夜。豊臣恩顧(笑)の諸大名に大坂方から合力の誘いが来る。

蓬庵「よーしパパ大坂城に行っちゃうぞー」
至鎮「ち、ちょ、それは本気で御家が潰れますから(((゚Д゚;)))」
蓬庵「大丈夫大丈夫、一人で行くからw」
至鎮「駄目ですってー(>_<)」

もちろんそんな話が徳川方に伝わったら大問題。改易されてもおかしくない。

至鎮「大坂に行ったらボク切腹しちゃいますからー!!(>_<)」
蓬庵「わかったわかった、じゃあ大坂やめて江戸までちょっと行って来るから」
至鎮「殺されにいくようなものじゃないですかー!!!」
蓬庵「もう決めたからw あと頑張ってねー」

1614年冬、大坂冬の陣勃発。蓬庵様は江戸にて留守居役と称して釘付け中。

至鎮「お前ら死ぬ気で戦え! 活躍しないと内通疑われて改易されるぞ!」
家臣「(((゚Д゚;)))」

かくして蜂須賀家は大坂冬の陣で家康、秀忠から七枚の感状をもらう大活躍を見せ、戦後には淡路一国を与えられて阿波淡路25万石の大大名となったのである。

蓬庵(……計算通り( ̄ー ̄))

この男、伊達政宗から「阿波の古狸」と呼ばれたという。
303人間七七四年:2009/11/10(火) 21:02:49 ID:5CTB59yb
>>302
一人ででも大坂城に入るって騒いだ後止められて
じゃあもういいよいっそ俺を人質にすればいいさ!って江戸行っちゃったんだよな
結果だけ見たら父親を人質に差し出すっていう無二の忠誠を示したわけで
しかも逆に世間から見たら豊臣の恩を忘れてないアピールにもなる
蓬庵様は本物の策士やでー
304人間七七四年:2009/11/10(火) 21:04:21 ID:qH8ZL9CX
>301


米田と言えば本能寺んときは明智の陣中にて話もありますなぁ・・。
305人間七七四年:2009/11/10(火) 21:49:49 ID:Xd3jPp8m
政宗、景綱、成実、喜多で一緒に虎哉宗乙、相田康安による教育を
受けてきたわけで、政宗(と学友たち)
の性格を形成した責任はこの教育役たちと
彼らを任命した輝宗パパにあるのではないか。
306人間七七四年:2009/11/10(火) 22:30:40 ID:2RTuaMpW
阿波国中田に豊国神社は今もあるのかな?
307人間七七四年:2009/11/10(火) 22:30:45 ID:xAJDWfbh
ああいうdqnは教育でどうこうできるものじゃないだろw
生まれつきだよ。
308人間七七四年:2009/11/10(火) 22:50:12 ID:AkElQg+O
>>305
片倉姉弟はやるこた凄いけどDQNじゃないだろう。
(成実は伊達の血だけあってDQN気ありだが)

でも輝パパはこの世に生み出した親である以上責任は免れられないよな。
・・・過分なほどの報いは受けたが
309人間七七四年:2009/11/10(火) 22:51:17 ID:fBqqvo9a
>>306
ぐぐったら三代目の藩主のときに廃絶して、その後明治時代になってから再建されたそうな。
310人間七七四年:2009/11/10(火) 22:53:33 ID:ZB+TLXKr
311人間七七四年:2009/11/10(火) 23:56:12 ID:JOaJ3xC3
大坂の陣のとき、徳川秀忠は戦場の様子を見るために城の近く
までやって来た。当然城からは敵兵がバンバン鉄砲を撃ってくる。
すると側にいた酒井忠世が

「この辺りは足場が悪いです。向こうへ行きましょう」

と言うと秀忠は頷いて向こうに行った。その後、また同じ状況に
なったときは側の者が忠世ではなかった。

「ここは弾がたくさん飛んできて危険です、向こうに行きましょう!」
「いや、ここで構わぬ」

秀忠は聞く耳を持たずにずんずんと進んで見て回った。幸い秀忠に
怪我はなかったが、側の者は肝を冷やした。両者の違いを見て
誰もが忠世の巧みさに感心したのであった。
312人間七七四年:2009/11/11(水) 00:36:16 ID:bKFmIyiS
>>311
気の強さは親父譲りなんだろうけど、
それが表面に出るところが、人質育ちの親父と違ってお坊っちゃんを感じさせるw
かっこいいけどね
313人間七七四年:2009/11/11(水) 02:15:41 ID:ieTuG4mv
めんどくせえwww
314人間七七四年:2009/11/11(水) 03:57:34 ID:m9AfCJav
怜悧なイメージのある秀忠もやっぱり三河武士だったか
315人間七七四年:2009/11/11(水) 06:48:23 ID:kTMu1D3Z
>>311
酒井?
316人間七七四年:2009/11/11(水) 07:40:08 ID:MuTz/ArE
大将が鉄砲に脅えたわけにはいかないから、怖くても動けないはず。
秀忠の当たり前のいい話でもあるし、側近の気の利かない話でもあるな。
317人間七七四年:2009/11/11(水) 09:08:54 ID:fkB8NRS8
>>315
大久保忠世はもうとっくに死んでる・・・
318人間七七四年:2009/11/11(水) 09:46:12 ID:h5onptcL
側の者!三河気質薄いよ何やってんの!

蛮勇の主君などに仕えてられんわ!下がってくれないなら今すぐ切腹すると騒いで主君根負けさせないと!
319人間七七四年:2009/11/11(水) 14:30:15 ID:ggOleSrM
一方、前田利常は老臣の遠回しの説得により本陣を下げていた

320人間七七四年:2009/11/11(水) 16:14:30 ID:sQBhTxLV
>315
雅楽頭だっけ、そういう家系の酒井さんでつよ
321人間七七四年:2009/11/11(水) 16:52:10 ID:qBqAneTO
>>318
めんどくさすぎる
322人間七七四年:2009/11/11(水) 20:04:35 ID:/ZUgAYTn
誰か土井利勝を>>318へ連れてこい!
323人間七七四年:2009/11/11(水) 22:26:00 ID:NqVSgsRX
>>318
ネイティブ三河人以外も側仕えに採用してたという
ちょっと良い話じゃないか(´・ω・)
324人間七七四年:2009/11/11(水) 23:00:57 ID:GYeg7xjc
作左なら「殿のおわす所が本陣だ」とか言って陣幕張らせて仮御殿造営の差配を始めて矢弾飛び交う中兵に作業をさせるだろうな。
で、殿が分かったから下がるからお願いだから作業止めてねってことになる。
325人間七七四年:2009/11/11(水) 23:21:28 ID:98mEZl3i
そうは言うが家康公も若い頃失敗して後があるんだぜ。

家康「信玄をこのまま行かせるくらいなら刀を踏み折って武門を捨てた方がマシだ!」

家臣「ウオォぉぉぉぉ!!」

三河武士たちの過熱した士気はついに危険な領域へ突入する!(暴発的な意味で)

信玄「いいのかいホイホイついて来ちまって」

家康「アッーー!!」
326人間七七四年:2009/11/11(水) 23:26:44 ID:X10HGj31
焼き味噌テクニックはよそでやっとくれ
327人間七七四年:2009/11/11(水) 23:37:33 ID:98mEZl3i
ごめん、表現方法が下品だった。
でも士気の管理って大変だよね。軍紀にも直結するし。
328人間七七四年:2009/11/11(水) 23:44:21 ID:80svrzi+
黒田家だったら、(バーカ)手前どもお先に!と
家来だけ帰っちゃうだろうなあ・・
329人間七七四年:2009/11/12(木) 08:46:52 ID:8pQyN4xn
じょうし「おーし飲みに行くか!おれのオゴリだ遠慮すんな!」
ぶか「すんません自分ら用事あるんで^^;失礼しまーす」

的な悲哀を感じた
330人間七七四年:2009/11/12(木) 09:19:17 ID:JP6TFsY8
ぶか「おい、あのあほ上司が酔って醜態さらすらしいぞ。高みの見物といこうぜ!」

黒田家の特定家臣ならこう
331人間七七四年:2009/11/12(木) 11:39:01 ID:dzoe8wWU
パターンB
『あんた人前で酒飲んで醜態さらしたらどうすんの?もしもの時考えて行動しろよ、こんな馬鹿な奴が殿様だと思うと悲しくて涙がでてきます』
332人間七七四年:2009/11/12(木) 12:12:01 ID:O+3dj5nH
女の子が一人で小田原城門前で昼食をとるのに誰も一緒に参加しないとかどうなの?ぷんぷん
333人間七七四年:2009/11/12(木) 16:08:02 ID:HeliphPS
恥部小
334人間七七四年:2009/11/12(木) 17:04:54 ID:VRa4pw0W
はじめてのご褒美

戦国の名物男の一人、渡辺勘兵衛了。
彼がまだ若年の頃、阿閉貞征に仕えて、謀反した荒木村重を攻撃する織田信長の軍勢の中にいた。

摂津吹田表にて戦闘があった折、阿閉軍二百は敵陣に突入し、敵将の首6つを取るという
戦果を得た。中でも渡辺勘兵衛は、真っ先に駆け入り、阿閉軍の取った六つの首の中の、
一番首を取った。

この手柄により勘兵衛は、この頃阿閉貞征が寄騎していた羽柴秀吉の黄母衣衆、
山葉文蔵と言うものに付き添って、信長の本陣へ派遣されるという栄を受けた。

さて信長、勘兵衛を御前に召し招き、

「お前の今日の働きは比類が無い。何か褒美を与えようと思うが、さて、なにがいいかな?」

と、周りをきょろきょろ

「お!これだ!」
信長が見つけたもの、それは、

『干し鮭』

勘兵衛の目の前に、間違えようも無い干し鮭が置かれた。

「これを与える!以後、ますます励むように!」

「は、はあ…」

こうして干し鮭をありがたく押し頂き、自陣に帰っていった。
渡辺勘兵衛、この時17歳。初めての御褒美は鮭であった。

勘兵衛は後年、自分の武功に対する評価に非常に過敏になるのだが、
それがこの経験のためであったかどうかは、定かではない。
335人間七七四年:2009/11/12(木) 17:06:40 ID:xfdiBb+y
しゃ鮭・・・・  ゴクリ・・・
336人間七七四年:2009/11/12(木) 18:00:04 ID:8I7aqHTI
>>334
何故そこにあったのだろう?
しかしなんだか可愛いご褒美だ
337人間七七四年:2009/11/12(木) 18:00:52 ID:Su+UcFzk
鮭って当時の価値はあったのかな?
338人間七七四年:2009/11/12(木) 19:01:50 ID:OZviHpjv
鯨ぐらいある鮭があったら城と交換してでも食べたいとかいったのは徳川光圀だっけ?
339人間七七四年:2009/11/12(木) 20:00:57 ID:8AiR92gt
時代がちょっと違うが確か徒然草に、干し鮭を宮中に献上した公家がいて、
それを周囲の公家に「そんな下卑た食べ物を殿上に差し上げるとは下品な……」
と陰口を叩かれた話があった
それで鮭を献上した公家が「鮎の干物はいいのに鮭はいかぬということがあろうか」
って反論したって話だったが、徒然草と戦国じゃちょっと時代が違いすぎるかな
340人間七七四年:2009/11/12(木) 20:03:48 ID:ymynUwsZ
>>334
普通こういう時って脇差とかじゃねぇのかなぁ・・・
いや待てよ信長は塩っ辛い物が好きだったとも言うしな干し鮭も好物かもしれん
本当に偉いと思ったから自分の好物を与えたのかもしれん
341人間七七四年:2009/11/12(木) 20:30:27 ID:JP6TFsY8
信長は手近なものを与えてほい、褒美ってやっちゃうことが多いって話があったような。

>>318
>>324
三河武士シミュレータが製作される日は近い
342人間七七四年:2009/11/12(木) 20:30:34 ID:600a1UFR
なぜか干し蛙に見えて???となったのは俺だけでいい
343人間七七四年:2009/11/12(木) 20:40:04 ID:2KQ5LXSO
そういや、草鞋を与えたこともあったな。

しかし、後々家宝に出来る草鞋と違って、食べてお仕舞いの鮭、
しかも偶々眼についたものをあげるなんてw
344人間七七四年:2009/11/12(木) 21:26:13 ID:M32K6vhE
改まった贈り物に海産物を選ぶ習慣ってあるじゃん
信長もそのつもりだったんだよ!…たぶん
345人間七七四年:2009/11/12(木) 23:03:16 ID:Oekl9kgM
右大将源頼朝に佐々木三郎盛綱が鮭を献上してるから
武家では喜ばれそうだがな
346人間七七四年:2009/11/12(木) 23:10:15 ID:+z7jO/GL
義光「それを与えるなんてとんでもない!」
347人間七七四年:2009/11/12(木) 23:43:28 ID:dzoe8wWU
あげ
348人間七七四年:2009/11/13(金) 01:13:06 ID:wdi53pWX
>>330-331
さらに特定家臣「酒に酔わせて逸物をお救いするよい機会じゃて!」
349人間七七四年:2009/11/13(金) 11:18:57 ID:NLbDYaw8
誰か「この干し鮭やるから帰れよ」のAAお願い
350人間七七四年:2009/11/13(金) 12:33:31 ID:5tz7iTSv
              ∩___∩
            /  ノ   \  ヽ
            | ●    ● |   なにマジになってんの?
          彡   (_●_)    ミ
           /、   |∪|    ,\   この鮭の切り身やるから帰れよ
          /.|     ヽノ    | ヽ
       ,,/-―ー-、, --、   .|_,|
    r-、,'''";;:;;:;::;;;;:;;::;:;:;;::;:;`'- /_,l,,__ )
   |,,ノ;;:;r'" ̄ ゙̄^"`Y'-、;;;::;:;::;:;:;:;::;:|
    .ヽ,′       ;   `"";;;;;⌒゙')
     ´`゙'''''''''''‐-‐'"`‐-‐'"゛  `゙´
              |  .‖ /
            ("___|_`つ
351人間七七四年:2009/11/13(金) 13:03:22 ID:Pj9T7SYA
切り身かよっw
352人間七七四年:2009/11/14(土) 12:10:31 ID:M7mkB4JE
森忠政の人探し

かつて、森家には可児秀行という剛の者がいた。
可成の代より家臣となったこの人物は長可の代になっても変わらず森家に仕えていたが小牧・長久手の戦いで討ち死にしてしまい、可児家も断絶。
そこで今まで森家の為に粉骨砕身した可児家を復興させるべく跡を継いだ森忠政は新しい可児家の当主にふさわしい人物を探していた。

そうして調べた所、実は秀行には治郎という息子が居たが秀行の嫁の実家、坂井家に跡継ぎが居なかったので養子に出されていた為に可児家の跡継ぎがいなくなり断絶したのだと突き止めた。

忠政「そうなりゃ話は簡単だ、さっそく治郎の子供辺りを跡継ぎにしよう。正真正銘の血の繋がった孫だし。」
ただ、坂井は森家の家臣ではなく細川忠興の家臣であったので忠政も確認をとるべく忠興へと手紙を書いたのである。

こうして忠政から手紙が忠興へと届いた。
忠興(どうせ今、思い出したんだろうなぁ・・・小牧・長久手とか31年前の話じゃん。)※実はこの時、大坂夏の陣も間近に迫った1615年
でもまぁ他ならぬ親友の頼み。細川家も色々と慌しい時期ではあったが文句も言わずに治郎の次男である盛行を森家に遣わすよう手配してやるのであった。

こうして森家にやってきた盛行は可児姓を与えられ可児家は31年ぶりに復興される事となったのである。この盛行は異常なまでの長寿であり隠居して津山藩の改易(1697年)を見届けるまで生きていた。
しかしながら津山藩の改易によって息子の忠左衛門も次の就職先を探す事となり、日頃から森家と親交深い池田家が彼を雇い可児家は森家の家臣ではなくなってしまう。
353人間七七四年:2009/11/14(土) 12:11:21 ID:M7mkB4JE
ただ、これで終わらないのが不思議な縁。

盛行には忠五郎という弟が居たが彼は「細川家→京極家→大坂方として大坂の陣に参戦→無職」という色々問題有りそうな経歴の持ち主であった。
どこに行っても長続きしない弟が哀れになったか盛行は「是非とも弟を雇ってやって欲しい!」と忠政に懇願し、忠五郎は可児姓と300石の所領を得て以後は忠節を尽くす。

この忠五郎の息子、可児正幸は津山藩から分家した津山新田藩(のち、三日月藩)の家老として起用される。
津山藩改易の際も分家の所領には手付かずであったのでこちらの可児家は森家を出る事無く、そのまま明治維新まで三日月藩に仕えたのであった。


色々、紆余曲折ありながらも復活した森家家臣可児家のお話
354人間七七四年:2009/11/14(土) 13:25:16 ID:N195qIml
マニフェストに載ってないことを何よりも先に実行しようとする民主党を法的に訴える方法はないのかね?
選挙活動中は、外国人参政権の重大性を日本国民に問うこともなく、子供手当、高速道路無料化、年金一元化等の

国民の生活が第一で日本国民をダマしまくり、政権をとったらマニフェストに載せていない国民の生活を脅かすような安全保障にかかわる
外国人参政権を日本国民の知らぬ間に法案成立させようとするのは詐欺じゃないのか。 外国人に参政権付与など明らかに憲法15条違反
である!

【注目!】この法案が通ると、尖閣諸島、対馬、竹島、沖縄、長崎、島根、鳥取などがまず、中国、韓国に乗っ取られます! いいんですか?
 
▼外国人参政権が非常に危険であることが簡単に理解できるよ! →プリントアウトするとビラになります!
↓PDFファイルの方をクリック!
http://sites.google.com/site/naoki1333nochottotoorimasuyo/home/9-27gaikoku-ninjin-seiken-hantai-demo-sanka-sokushin-chirashi

▼外国人参政権反対! ゆうこりんみたいなカワイイ声の普通の女の子も立ち上がってるよ!
http://www.youtube.com/watch?v=pBcSlmdcCZU

▼永住外国人への地方参政権付与「反対」圧倒的9割超 → これが現実なのよね。日本国民の9割超が反対している法案を成立させよう
とする民主党って、どうよ?
http://www.youtube.com/watch?v=e7kCfj44L58

▼日本女性の会 そよ風 のサイトでデモのスケジュールをチェックしてね!
http://www.soyokaze2009.com/news.php

▼あなたの地区でポスティングしてみませんか?
http://www.geocities.jp/www_nagatacho/

こんな法案、成立させるのおかしいよね? 絶対。
ブログでも、2ちゃんでも、ビラ配りでも、デモ参加でも、議員にメールでも、なんでも良いです。 
あなたが本法案の成立阻止に協力できることをやりましょうよ。 立ち上がれ、日本人!

▼現在生中継中!▼
http://live.nicovideo.jp/watch/lv6552804
355人間七七四年:2009/11/14(土) 14:57:54 ID:wO9RAmQV
>>350
中の人は黒田如水さんですね。
356人間七七四年:2009/11/14(土) 16:09:54 ID:D4tsbjvi
武士は相身互い

北方の関ヶ原こと慶長出羽合戦。
この時、直江兼続率いる上杉軍二万の襲撃を最初に受けたのが、最上義光家臣、
江口五兵衛光清が守る畑谷(幡屋)城である。

この時江口が、義光からの、山形城への退却命令を「敵を目の前に城を捨てるのは
武士たるもの末代までの名折れ」と拒否し、兼続からの降伏勧告も無視して見事に戦い、
ついに討死した事、これは有名である。

さて、この戦いにおいて江口光清の首を取ったのは、志賀五郎右衛門と言う男であった。

志賀は元々近江の武士で、はじめ蒲生氏郷に仕え、その後氏郷の息子秀行の代になって
領地が大きく削減されると牢人となり、その後上杉景勝に仕えた。
そしてこの軍に参加、敵城主の首を取るという大手柄を立てたわけだ。

関ヶ原の決戦が終わる。

志賀は会津領主に復帰した蒲生秀行に、五百石で召し返された。
やがて蒲生家が改易されると、志賀の息子、五郎左衛門は、九千石の大旗本、
植村忠朝の与力となり、志賀も息子について、江戸へと出た。
志賀、その江戸である人物を見つける。

志賀は息子に頼み、植村忠朝にその人物を推薦、志賀家と同じく、植村忠朝に
与力として仕えることになった。
その人物とは、志賀が首を取った、江口光清の息子であった。

植村忠朝の下で相番となった志賀家と江口家は、それ以後終始、仲睦まじい付き合いをした、
とのことである。
357人間七七四年:2009/11/14(土) 18:23:08 ID:V4eOibPe
これはいい話だなあ、本当に
358人間七七四年:2009/11/14(土) 22:28:02 ID:BGyKGwbH
ええ話や
359人間七七四年:2009/11/15(日) 01:40:53 ID:Em/Y2GP8
まっこと
360人間七七四年:2009/11/15(日) 08:10:44 ID:0WYMk4Hj
そういう気遣いは無用だ
361人間七七四年:2009/11/15(日) 20:48:26 ID:qDkhbvj/
茶人大名・桑山左近貞晴(宗仙)は同じ茶人の古田織部と仲が悪かった。
二人の共通の友人である細川忠興はこれを憂い、自分が織部の茶会に呼ばれたのを
幸いと、貞晴を相伴に連れ出した。
「いや、オレが行って良いか織部殿に聞いてから…」「いいからいいから!」

織部邸では、主人みずから出迎えに現れた。「やあ、これはこれは………桑山殿…」
「…本日は、かたじけなく……」(き、気まずい…失敗したか?)

表情も身動きもすっかり固くなった織部は、茶室に入った後も炉を整えるのに手間取り、
見かねた忠興は声をかけた。「えーと、お、織部殿…炉は適当でいいから…」
「いや、お構い無く。」
忠興の言葉に織部はかえって落ち着きを取り戻し、心静かに炉を整えて席を立った。
炉を覗き込んだ忠興は驚嘆した。
「桑山殿、これを…!見事に仕上がっている、何も言う事は無いな!?」
「いや、ごもっとも。驚いた、織部殿はまた数寄の腕を上げたわ。事の外、見事なり…」

「クックックック……(いかがかな?それがしの腕前は……)」
(原文:織部クツ々々トフキ出シ笑候也)
「………」
「…………」
「……………」
プッ  ;`;:゛;`(;゚;ж;゚; )ブフォオオオ
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
(*´д`*)「ちょ、別に笑うトコじゃないじゃん!忠興殿まで!!」
「だ、だって……オッサンなに突然、カッコつけて自慢げに笑ってんのよ……!」

一同爆笑して、和やかに茶会を終えたという。
362人間七七四年:2009/11/15(日) 22:15:36 ID:tYUz3efD
>361
とってもへうげてるオッサン3人カワユス
363人間七七四年:2009/11/15(日) 22:54:34 ID:yommjiEg
徳川家康は関東に移ってすぐの頃、治安のわるさに困っていた。
奉行をおいてはいたものの、土地の事情に疎く効果はイマイチであった。
そんなとき家康は奉行に一人でいいから盗賊の頭目を捕えよと命じた。

その後、奉行は苦労してスリの大物鳶沢を捕まえ、家康の前に引き出した。

「もしお前が賊どもを江戸に近づけなれば、命を助け屋敷をやっても
よいぞ。さあ、どうする?」
「造作もないことです。俺の手下どもを屋敷に住まわせ賊の監視を
させやしょう。しかし、仕事がないと手下どもが悪さをしかねやせん。
そこでどうか俺を古着買いの元締にして下せえ」
「よしわかった。お前の言う通りにしてやる」

こうして鳶沢が働くようになると江戸の治安はすぐさま改善されたという。
そんなことがあったので鳶沢の名は富沢町という形で長く残されたのだった。
364人間七七四年:2009/11/15(日) 23:33:51 ID:iK1wvvWS
>>361
笑いの力は強きもの。w
本人はキメているつもりでも、まわりが笑っちゃうことあるよな。
365人間七七四年:2009/11/15(日) 23:39:34 ID:mJDLftZu
>363
こうやって風魔の残党とかが消えていったんだよな
366人間七七四年:2009/11/16(月) 03:26:39 ID:80TV4IZU
>>363
これがイギリスだったら窃盗をする権利を認めたうえで他国に輸出されるんだなw
367人間七七四年:2009/11/16(月) 05:16:19 ID:1O/lLkeK
>>363
いいはなしだが掏摸の鳶沢噺は既出かも。
368人間七七四年:2009/11/16(月) 10:55:27 ID:lGIqsHIm
んじゃ、家康の別の話

ある日、徳川家康が伊達政宗を茶席に招いた。

茶釜の湯が沸く音が聞こえ始め、「そろそろか」と家康が湯を汲もうと釜の蓋に手を伸ばした
その時、湯気がシュッと立ち、家康は思わず手を引っ込め、見ていた政宗はガマン出来ずに
「( ●,_・・゚)プッ」と吹いてしまった。

それを聞きつけた家康は、ますます炉の火を起こすと、いきなり熱した釜の上部をガッと掴み、
釜の蓋を手に取ってグッと握り締めた。
「どうじゃ政宗、この家康は湯気の熱さにおびえて手を引く事など無いぞ?」
「( ;●д゚) ・・・・・・」

これにはさすがの独眼龍も何も言い返せなかったという、同じ茶室で吹く話でも>>361とは
だいぶオチの違う話。
369人間七七四年:2009/11/16(月) 12:11:31 ID:z1dHcWRZ
家康がそういう体をはったことをするかな?
家康なら「大将たるもの・・・云々」と屁理屈で言い負かすような気がする

てか、手は大丈夫なのかw
370人間七七四年:2009/11/16(月) 12:27:45 ID:91csl90+
なんといっても三河武士の棟梁ですから
371人間七七四年:2009/11/16(月) 12:28:18 ID:LpbQ/xP0
家康も根っこはめんどくさい三河武士だったということかも知れんw
372人間七七四年:2009/11/16(月) 14:15:31 ID:GGF8NMNw
なんか作左が熱湯風呂用意し始めてるんだけど
373人間七七四年:2009/11/16(月) 16:45:19 ID:gmDXNtiu
育ちが尾張や駿河ってだけでその血は完全に三河人だからなあ
生まれも育ちも三河なスーパー三河人と比べるとそうでもないだけで
よその土地に育った人と比べると結構めんどくさい性格してると思うよ
374人間七七四年:2009/11/16(月) 20:17:52 ID:ZZyeZ8VT
>>372
信長公がアップを始めました
375人間七七四年:2009/11/16(月) 20:44:58 ID:myy6Pbeg
関ヶ原の時のこと。

豊前中津の黒田如水が金銀を撒いて兵を集めた事、有名であるが、これが八月上旬になって
漸く3千5,6百に及んだ。これに如水

「来月9日に出馬し、近隣の敵を攻め討つ!」

と宣言する。
が、黒田家の重臣達は慎重であった。

「せめて、内府公が上方に到着されたと言う情報を得てから、
われらも出陣すべきではないでしょうか?」

「何を言っている?内府の出馬を待てば、我らの戦略は手遅れになる。
のみならず、周囲から日和見をしているように見られては適わん。
良いからわしの了見に任せるのだ。」

それでも重臣の者達、なんとか如水に考え直してもらいたい

「しかし、月の九日は悪日と申します。これは変えたほうが良いのではないでしょうか?」

如水、思わず噴出した
「ああ、月の九日が悪日である、などと言う俗説に迷わされて、そのような事を言うのか?
おぬし達は忘れたか?我らは月の九日に出陣して、合戦に勝った事などいくらでもあるではないか?
これを悪日などと言う道理は無いだろ?それでもまだ、悪日だから恐ろしいと言うのなら、
お前達は吉日を選んで、わしより後に出陣すると良い。」

これを聞いて毛利太兵衛、目を怒らして怒鳴った
「なんと口惜しき事を言われますか!?皆、あなたを大切に思っているからこそ、
こんな事を言っていると言う事、解っているはずです!
一体この中の誰が、自分の吉凶を気にして、主君より後に出陣いたすでしょうか!?
なんとも、情けない仰せでござる!」

これに如水、何も答えず、ただ「盃をもってこい」と言い、一座の者に盃を回し、
酒を飲ませた。その上で

「太兵衛はいま一つ呑め」

と、声をかけた。これは如水から毛利太兵衛に『これで仲直りをしてくれ』という印だったそうだ。

如水流、黒田家臣団の御し方のお話。
376人間七七四年:2009/11/16(月) 21:36:06 ID:9QW4Hutj
黒田家って家臣ともめたらとりあえず酒飲んでないか
377人間七七四年:2009/11/16(月) 21:43:30 ID:9QW4Hutj
最近工場長見かけないんで工場内の話を無理やり押し込むよ。


笠井大崎での合戦の時、
秀吉は佐久間備前、同内膳の兄弟に先陣の大役を命じた。
これに我らが工場長

「 ・・・( ・`ω・´)イラッ☆ 」

何故ってこの兄弟、もともと秀吉に属していたのを氏郷に賜った侍大将だったのだ。
そこで氏郷は

「明日の戦は、神田修理、外沼信濃、岡野佐内、蒲生源左衛門が先陣せよ!
 それから、佐久間兄弟は見物!」

と下知した。
先陣を命じられた6人の侍大将は、早速話し合った。

「これは佐久間兄弟の戦いぶりが悪いから我々に仰せ付けられたんだな。きっと。」
「うむ。ならば互いに討ち死に覚悟で戦うのだ!
 仰せを頂いた甲斐もないようでは御大将の恥辱になる!」
「それなら、進退駆引の仕方を内ならししておいたほうが良いな・・」

そこで、先陣の軍兵を連れて早速平野へ押し出す6人。そこで見たものは!

「・・・・・・。」
「これはひどいな(;゚Д゚) 」

駆引きの訓練を5度もやり、なお調わない残念な軍兵たち。困った六人。

「明日の戦は殊に大切だからかように訓練しているのだ!
 ところがお前達の進退は以ての外の不調である!よくよく魂を込めてかかれ!」

と再三くわしく申し聞かせた。
そして再び采配を取って下知すると・・・

「お、お前達!やればできるじゃないか(´;ω;`)ブワッ」

進退まことにあざやかに揃った兵たちに、これで明日の合戦は思うように戦えると喜び勇んだ。

翌日の戦では大いに敵を切りなびいて大勝。
秀吉の命令で陸奥国に来ていた浅野長政は、
「その戦の駆引きの見事さは前代未聞」と褒めたそうである。

氏郷もまた大いに喜んで、六人に感状と褒美の品を与えて賞賛した。


〜 蒲生再生工場・練兵編 完 〜
378人間七七四年:2009/11/16(月) 21:51:11 ID:LpbQ/xP0
>>376
だからこそ太兵衛さんが名槍日本号を呑み取った
なんて武勇伝(?)が生まれたとも言える

♪これぞまことの黒田武士
379人間七七四年:2009/11/16(月) 21:59:37 ID:Fmgs1Wkx
>>372

そういや上島の『押すな押すな』も

面倒くさい三河流かもよ。
380人間七七四年:2009/11/16(月) 23:03:40 ID:kmm31lTD
>>368
いい話なんだけど既出ですよ

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2598.html
381人間七七四年:2009/11/16(月) 23:30:28 ID:6Vqx4aCF
うぜえな
382人間七七四年:2009/11/16(月) 23:45:30 ID:JhGyGvZm
東北の超弱小大名の相馬家にも一つくらいいい話とか伝わってないですか?
383人間七七四年:2009/11/17(火) 02:23:28 ID:8gMOVh7w
宮本武蔵が諸国を廻っていた頃のこと
大坂の夜辻を歩いていると、物も言わずに斬りかかってきた男がいた。
武蔵が即座に男の腕を押えて一喝すると、男は悲鳴をあげて詫び始めた。

その時武蔵は男の刀がなかなかの業物であることに気が付いた。
武蔵が刀のことを聞くとそれは男は自分が打ったものだという。
男は下総の縄手の住人河内守永国という者であり
自分の刀の切れ味を確かめる為に武蔵に斬りかかったと話した。

武蔵は永国を自分の宿へと連れて行き、明かりの下でその作品が凡作でないことを確かめ
その後も何かと目をかけた。

後に武蔵が熊本に落ち着くと、永国も武蔵を慕って移ってきた。
永国は武蔵の推挙によって三十人扶持で細川家に召し抱えられ
以後代々藩の刀鍛冶として高田原楠町に居住したという。
3841/2:2009/11/17(火) 02:28:31 ID:FUBLtg/f
>>382

慶長7年(1602)5月、相馬家は佐竹家に連座して改易が決まった。相馬義胤は家臣を集め、
「このままではお家の破滅。佐竹殿から『1万石で仕えぬか』と誘われているがどうか?」
と広く問うた。義胤の嫡男、三胤が進み出た。

「私は反対です。ここは私が江戸に行って徳川殿の怒りを鎮め、少分なりとも天下人の
禄を受けられれば本望です。今、飢えを凌ごうと佐竹に仕えるなら、滅んだほうが良い。」

義胤もこの意見を容れ、三胤は14名の家臣を連れ江戸に向かった。途中、三胤のもとに
義胤に暇を出された鈴木金兵衛と志賀久内が現れた。
「お家の危機なれば推参。お許しあれば如何なる奉公でも勤め上げ、旧恩に報いまする。」
三胤はこの2名の同行を許し、さらに江戸へ急いだ。

江戸に着き、谷中瑞林寺を宿所とした三胤一行は、住職と懇意の旗本、藤野宗右衛門を
招いて相談した。
「お話は承った。して、その話を家康公に通せる要人など、ご存知かな?」
家督相続も済ませていない小大名の子の三胤に、徳川家中の知人などあろうはずも無い。
途方に暮れていると、同行の士の一人、門馬吉右衛門が突然ある事を思い出した。
3852/2:2009/11/17(火) 02:29:31 ID:FUBLtg/f
天正も終わり頃のこと、豊臣秀次の関白補任の儀式の際、相馬義胤も式典に参加した。
諸大名は殿中で式典を見守ったが、その従者たちは炎天下に晒されて白洲に控え、義胤の
すぐ下にいた侍も、フラフラになっていた。
見かねた義胤は、「これを笠にされよ。」と、その侍に自分が座っていた円座を貸し与えた。
「か、かたじけない。拙者、徳川家中の島田治兵衛と申しまする。」

この時、義胤の従者だった吉右衛門は、その男・島田治兵衛の名を挙げた。
「かの治兵衛殿、今や徳川家の執事に次ぐ職分とか聞きまする。ぜひ、お頼みなされ。」
「しかし関白秀次公の頃と言えば、10年以上も前の事であろう。その後、音信もない者が
覚えているものか?」
三胤は半信半疑だったが、吉右衛門の強い勧めにより治兵衛に書状を出した。

さて、島田治兵衛重次は2千石の大身旗本として伊奈忠次、次いで本多正信の下で
関東総検地を任される身であった。
(現在、心霊スポットとして有名な雄蛇ヶ池も、貯水池用に彼が造ったもの。)
書状を見た治兵衛は、「覚えておりまする。疎意あるべからず!」
と言い放ち、さっそく三胤の訴状を受け取ると、上司の正信に提出した。

かくて正信による家康への嘆願により、相馬家は旧領三郡の安堵を許された。
のちに三胤は「三成」に通じる名を蜜胤、さらに土井利勝より一字もらい利胤と改めた。

江戸行きに加わった14名はそれぞれ加増、鈴木金兵衛と志賀久内も再び召抱えられ、
瑞林寺の住職の甥を家老の一門に加えた。島田治兵衛と藤野宗右衛門は、利胤個人と
昵懇の間柄になったという。
386人間七七四年:2009/11/17(火) 02:40:50 ID:2CXzq1MA
まさに「情けは人の為ならず」。
いい話だなあ。
387382:2009/11/17(火) 04:31:02 ID:xZBsJ9XM
利胤公が江戸へ直訴へ赴いたことは存じていたけれど、
その経緯と陰にこのような良い話があったことまでは知らなかった。

実にいい話です。
>>384-385さん、ありがとう。
388人間七七四年:2009/11/17(火) 06:42:37 ID:yP2TS32M
傘地蔵を思い出した
389人間七七四年:2009/11/17(火) 08:44:16 ID:VjFJO42X
江戸時代は、何をするにも縁故社会だなぁ。
でも、賄賂も無しに奔走してくれるものなんだな。
390人間七七四年:2009/11/17(火) 09:33:14 ID:u1MkOVmt
小早川とか大津においといて大津攻めてた連中が来てたら目先の戦闘の破壊力は桁違いだったろうな。

後ろが不安すぎてまともに戦えるか分からんがw
391人間七七四年:2009/11/17(火) 09:33:59 ID:u1MkOVmt
誤爆でござる、森家に仕えて参る…
392人間七七四年:2009/11/17(火) 10:11:14 ID:lZShqV6i
笠地蔵ツボったw
393人間七七四年:2009/11/17(火) 10:18:26 ID:bViUwO1V
>>375
うまく受け流せる如水とマジレスで悪化させる長政

でもわはは、あの馬鹿駆け引き読めずに突進してったよ!と息子が危地に陥るの見て指差して笑う父だからなぁ。
家臣団がそういうの見てたせいという気もするし…w
394人間七七四年:2009/11/17(火) 10:55:51 ID:01ddWvS9
>>383
これ相手が武蔵だからいい話になったけど
刀の切れ味試すために通行人に斬りかかるって相当ひどいぞwww
395人間七七四年:2009/11/17(火) 11:16:28 ID:C7oliXZF
>>387
本多佐渡守正信に提出した訴訟の内容が、水谷式部が書いておいた福島への奇襲を前に夜間に捕捉された月夜畑での相馬戦死者150名の名簿リスト。
水谷式部が伊達と一緒に上杉領を襲うように提案したのも家康の天下になった場合の後難を恐れての言い訳アリバイ作りのため。
このリストを持たされた若い三胤(利胤)が上訴しに行ったが、このリストを披露する機会が訪れず難儀してたわけ。
そもそも水谷式部らが伊達との共闘を献策した際の義胤は、
伊達と内応してその下知を受けるのは不可だと顔色を変えるほど激怒していた。
そこでなだめて「三胤は若年なんで政宗に内通しちゃったとしても苦しくはないでしょ」なんて言うから
「あいつは若いからなぁ…まぁ兎に角もお前らにこの件の計らいは任せる。だが俺は家康に文句言われたら訴訟するから、政宗の下知なんざ絶対従わねーから!」
そこで三胤が政宗に福島攻撃を提案した。福島攻撃の際に政宗から受け取った書札は相馬改易への弁護の役にはたたなかったとか。
まーもともと政宗が盛胤義胤に「もう家康の天下だな。相馬はなんら家康に申しひらくことないよねw
いまさら我らに味方しても攻めるトコないじゃん。相馬だけで攻めて落とせる小城ないしな!後日、家康に咎められたらどうすんの?(俺の配下になれよwww)」
こういう風に言われたのが発端。
論功行賞で相馬改易確定だったから、政宗は相馬領が俺に貰えると思っていたから、かなりガッカリしたんだよな。
396人間七七四年:2009/11/17(火) 14:15:00 ID:t7uzerZj
>>395
…で、それは義胤の何気ない親切が「情けは人の為ならず」になったという
>>384-385の話の主旨とどう関係があるの?

最近テンプレ見てるんだかどうだか「史実はこうなんだぜ」
みたいなレスが増えてゲンナリする
397人間七七四年:2009/11/17(火) 14:52:43 ID:babuHj/0
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1247488347/587
長文あらし君です
構うだけ疲れるからほっとけ
398人間七七四年:2009/11/17(火) 15:40:19 ID:C7oliXZF
>>396
つかお前は文盲か?
義胤の何気ない親切が、「情けは人の為ならず」になった?
どこにそんな話が成立してんだよw
399人間七七四年:2009/11/17(火) 16:00:30 ID:AZMhIGqP
他人にいきなり「文盲か?」なんて言う人の話は誰も聞かないですよ
400人間七七四年:2009/11/17(火) 16:01:32 ID:2CXzq1MA
>>399
へんな人にさわっちゃいけませんよ。スルースルー。
401人間七七四年:2009/11/17(火) 16:05:03 ID:C7oliXZF
なんだ伊達厨が必死なだけかw
402人間七七四年:2009/11/17(火) 16:40:07 ID:AtKrPgvH
いろんな厨がいるんだなw
403人間七七四年:2009/11/17(火) 16:52:39 ID:C7oliXZF
こうやって1人のアホ厨房が
他人のレスに文句言い出す事が原因で
毎回荒れてるのに、
いまだに学習できないアホがいるんだな。
404人間七七四年:2009/11/17(火) 16:58:34 ID:kxPPlFwz
構ってちゃんだからほっとくべーや
根拠も脳内ソースなんだし
405人間七七四年:2009/11/17(火) 17:00:34 ID:Sp8oXjSj
>>403
すごいねくわしいんだね
わかったから>>350のシャケもらっておかえりボクちゃん
406人間七七四年:2009/11/17(火) 19:13:11 ID:2CXzq1MA
織田信長の御世の事

奥州岩城より、その地の小領主、白土摂津、車、久保田という三名のもの、伊勢参拝に出かけた。
その参拝の帰り、当代の実力者、織田信長の居城を見物しようと、安土に向った。

その頃安土では、信長主催の能興行があり、当代の名の知れた能楽師が皆集まると言うので、
この見物のため大変な人手であったそうだ。

東北から来た三人、宿の主人に案内してもらい、安土城内に建設された能舞台の、
その楽屋に出入りする人々を見に行った。

「あれは○○様、今出てきたのは○○様。…あっ、あそこにいらっしゃったのが、御当家
無二の出頭人、羽柴秀吉様です!」
「ああ、あれが羽柴殿!我らのような遠国のものでも、その名は聞き及んでおります。」

だがこの時、秀吉のほうもそのすばしこい目で、彼ら三人を捉えていた

「あの見慣れぬ風情の男達、一見安土の者のようだが、あの物騒ぐ様子、さては
どこか遠国からきたものだな。」

秀吉、見物の人々を掻き分け、その三人の側に出た

「お主たち、何所から参られた?」

三人、隠すほどのことでも無いと考え、「我ら奥州は岩城の、かくかくしかじか、このような者で
あります。」とありのままに語れば秀吉、

「なるほど、たまたまここに参られたのか。いやしかしこれも何かの縁、良ければ今後、
都鄙の遠路に離れても、互いに折に触れて、音信をしていただけるとありがたい。」

秀吉、貪欲である。未だ織田政権の影響下には無い東北に、いち早く知音を作ろうとしたのであろう。
この後、岩城に帰った後、他の二人は、遠き地にいる織田家の出頭人と、音信を取ろうとは
しなかったようだが、白土摂津だけは使者を立て、駿馬一匹を秀吉の元に届けた。


時は流れる。関白秀吉による奥州仕置き。
白土のことを覚えていた秀吉は、白土に対し、岩城一郡を下し賜わった、とのことである。

袖振り合うも多生の縁、などと言いますが、一度の出会いに縁を返し、思わぬ果報が帰ってきた、
白土摂津のお話。
407人間七七四年:2009/11/17(火) 19:51:37 ID:G0M9OKaB
秀吉の話だと他二名のその後が心配になるよ!ふしぎ!
408人間七七四年:2009/11/17(火) 19:52:41 ID:Dmi1gklk
>>384>>406
人との縁がいかに大切にされた時代だったか、だな
付き合い嫌いのおれなんか即滅亡だったろうな('A`)
409人間七七四年:2009/11/17(火) 20:22:39 ID:Nffg39hf
>>406
人脈の大切さは今も昔も変わらんな。
俺も気をつけんとw
410人間七七四年:2009/11/17(火) 20:41:15 ID:bViUwO1V
出来る人は些細なことも忘れないんだなぁ。

秀吉の些細なことも忘れないは後年悪い方向に向くことも多いんだが
411人間七七四年:2009/11/17(火) 21:12:34 ID:rtHC3azh
秀吉らしいエピソードだねぇ
412人間七七四年:2009/11/17(火) 21:27:30 ID:CZeCHsAK
>>406
秀吉の抜け目のない話ともいえるな
413人間七七四年:2009/11/17(火) 21:45:26 ID:ItEEcjaJ
>>406
現代の教訓にもなる
良い話だねぇ
414人間七七四年:2009/11/17(火) 21:53:21 ID:dwCVJUBw
秀吉ほどの人ならたくさんの人に出会っただろうに
よく覚えていたな。
415人間七七四年:2009/11/17(火) 21:54:46 ID:k2Y7OCed
>>406
やっぱおかしくなる前の秀吉はパネェw
416人間七七四年:2009/11/17(火) 21:57:09 ID:i9B3LNfv
>>406
いい話だ。
このスレは過剰におちゃらけて、読む気を無くす悪文が多いけど、
これは文章も読みやすくて解りやすい
417人間七七四年:2009/11/17(火) 21:57:43 ID:zN42Rjgo
でもそれで律儀に本当に東北から連絡来たらおお!と思うし結構印象深いべ?
これが近場だったら秀吉でも忘れてたかもしれない。

結局は白土さんのこまやかな心遣いの勝利だ。
418人間七七四年:2009/11/17(火) 22:00:25 ID:4adDEnYk
>>416
下の二行いらない
419人間七七四年:2009/11/17(火) 22:40:39 ID:LP3VMpt0
>>418
プロの2ちゃんレス批評家さまに文句を言うなど、恐れ多い…
420人間七七四年:2009/11/17(火) 22:46:20 ID:JN/eEN50
>>418
そういいつつ見に来てしまうツンデレ心を分かってやれよ
421人間七七四年:2009/11/17(火) 23:02:54 ID:91T4cORr
金の成る木

あるとき徳川家康が皆に聞いた。「金の成る木」を知っているか、と。
誰も答えられないでいると、家康は自ら筆を取り、三本の木を描いた。
「それはな、

よろづ程のよ木 (万事ほどほどに)
じひふか木   (慈悲深き)
しやうじ木   (正直)

の三つのことじゃ。これを常に守れば、必ず富貴を得られよう」

そして久能山東照宮(家康が始めに埋葬された地)には
この逸話をイメージした”金の成る木”の実物が、現在も立っている。
お祖父さま大好き三代将軍家光が植えたものと言われている。

また後に細川三斎忠興はこの木に左右の枝を添えてはどうかと言い、

あさお木    (朝起き)
いさぎよ木   (潔き)
しんぼうつよ木 (辛抱強き)
ゆだんな木   (油断無き)
ようじょうよ木 (養生よき)
かないむつまじ木(家内むつまじき)

と、書き添えた。
左右の枝が繁盛するならば、よりいっそう富むことであろうと。
家中の皆々にもこれを写し取り、伝えるように命じたという。
422人間七七四年:2009/11/17(火) 23:18:07 ID:I4Gv2tN0
>かないむつまじ木
さすが忠興さんww
423人間七七四年:2009/11/17(火) 23:20:05 ID:jRO3bPZ1
後世の「結婚生活に必要な三つの袋」スピーチの元ネタである
424人間七七四年:2009/11/17(火) 23:28:09 ID:bKeuNrr1
ホントに結婚式のスピーチネタになりそうな良い話だw
425人間七七四年:2009/11/17(火) 23:32:58 ID:01ddWvS9
>しんぼうつよ木
忠興さんの辛抱強さには敵わないなー憧れちゃうなー(棒
426人間七七四年:2009/11/17(火) 23:41:08 ID:Dwf5pSq4
やねぶ木
血しぶ木
うわ木
異様の数木
427人間七七四年:2009/11/18(水) 00:07:20 ID:ivetgnbL
>>421
ょぅι゛ょつよ木に見えた俺はどうすれば…
428人間七七四年:2009/11/18(水) 00:18:13 ID:ciy0YolS
>>427
畠山さん、畠山さんじゃないですか!
429人間七七四年:2009/11/18(水) 00:54:05 ID:DCSzJZSh
>>427
安心せい幼女を娶るは武士の習いじゃw
430人間七七四年:2009/11/18(水) 02:50:18 ID:9OAAh7Za
芥川流忍者・芥川義矩は雇主の城主に呼ばれて宴に出席していた。
その席で城主が「なにか術を見せてみろ」と言い出したのである。
承知した義矩は腰元七人を城主を囲むように座らせ、呪文を唱えだした。

するとどうしたことか、部屋中に甘い香が漂い始めた。
しかもいつの間にか家来たちは眠っており、腰元たちはもじもじしている。

城主「いったいどうしたの……お、おおぉ〜〜〜〜!」

よく見ると腰元たちは腰巻きを剥がされ、白い腿がまる見えであった。
義矩は甘いガスで腰元たちを朦朧とさせ、素早く腰巻きを剥いだのである。
しかも城主を風上に置き、家来たちを眠らせてその姿が城主にだけ見える
ようにしたのだ。これこそ義矩必殺の忍法・鬼火の術である。
431人間七七四年:2009/11/18(水) 03:15:52 ID:9OAAh7Za
>>430
ごめん今調べたらこの人江戸時代の人でしたorz
代わりにこれ

土井利勝のもとに蒲生忠郷の使者・安達内匠がやって来た。
安達は口上を伝えていたのだが途中で話をやめてうつぶした。

利勝「いかがした。体調がすぐれぬのか?」
安達「申し訳ありません。口上を忘れました。思い出す時間をいただけませぬか」
利勝「わかりました。ゆっくり思案なされ」

安達は次の間でしばし考えて思い出すと、改めて利勝に目通りし正確に
口上を伝えた。このことから利勝は

「私を訪ねる使者は多いが、安達のような使者はいない。普通なら忘れた
ことを隠してその場の首尾に合わせてしまう」

と語って感心し、忠郷にもそのことを伝えたという。
432人間七七四年:2009/11/18(水) 06:22:54 ID:80xLLI2A
思い出して良かったな
「屋敷を出る折、聞かずに参った」という落ちかとw
433人間七七四年:2009/11/18(水) 09:26:05 ID:LxvMaoOD
殿は「口上を伝えるのを忘れておった」というオチかw
434人間七七四年:2009/11/18(水) 11:03:51 ID:a+9B+5Cm
ん?三本の矢に続いて
毛利三つネタ資料の
人生には三つの坂がある…まさか
これもパクりだったのか?
435人間七七四年:2009/11/18(水) 13:25:40 ID:FE+WyjWu
ビック3コント

文禄二年(1593)10月、宮中において能の上演が行われた。いわゆる「禁中能」である。
この時の禁中能で特筆されるのは、時の豊臣政権の、名実共にトップ3、
豊臣秀吉、徳川家康、前田利家の三人によって、狂言が演じられた事である。

当時の狂言とは、今で言えばコントショーである。そう、この三人が帝の前でコントを行ったのだ。
なんと重厚この上ないコントであろうか。

で、この時三人が演じた曲目は、『耳引』と言うものなのだが、この『耳引』、タイトルだけが伝わり、
内容が残っていない。この三人がどんなコントを演じたか、よく解っていないのである。

が、「これではないか?」と推測される演目がある。それは今も演じられている
『居杭(いぐい)』という曲目。『耳引』とはこの『居杭』を改編したものであろう、というのだ。

この『居杭』の内容、とある旦那に可愛がられているのはいいが、いつも戯れに頭を叩かれる
居杭と言う男が、姿を消す「隠れ頭巾」を手に入れ、いつものように頭を叩こうとする
旦那の目の前で姿を消し、これを不思議に思った旦那が易者に占わせるが、
居杭は姿が見えないのをいいことにこの二人に悪ふざけの限りを尽くし、二人を喧嘩させる。
最後に姿を現したところを、怒った二人に追いかけられ逃げ回る、と言うドタバタ喜劇である。

おそらく主人公の居杭は、秀吉が演じたのであろう。とすると、耳引と言う改編タイトルから
考えるに、頭を叩くのは恐れ多いと、旦那は居杭の耳を引っ張る設定になったのだろう。

それでは、これの耳を引っ張る旦那、そしてドタバタに巻き込まれる易者はそれぞれ、
家康と利家のどちらかと言う事になるが、さて、どちらがどちらを演じたのか?そして秀吉は
この二人に、どんなの嫌がらせを仕掛けたのか?色々と想像は膨らむばかりなのである。

そんな、日本の歴史でも、おそらく最も重厚なコントショーのお話。
436人間七七四年:2009/11/18(水) 15:48:20 ID:aY06rVey
>>435
「耳引」でやほって見るとこんなの出るね。

ttp://www.sanriku-pub.jp/olive37.mahune.html

これは、「口真似」って狂言で、結局「居杭」かこれかのどちらからしい。
437人間七七四年:2009/11/18(水) 20:12:53 ID:8XF8hQm4
>>421
武蔵の森にはそんな木はないw
438人間七七四年:2009/11/18(水) 20:16:01 ID:3BO81Gtj
>>435
秀吉なんか芝居っけがありそうだし面白かったんだろうなw見てえw
439人間七七四年:2009/11/18(水) 20:17:18 ID:HLIXGlc6
440人間七七四年:2009/11/18(水) 20:17:46 ID:FE+WyjWu
>>437
> 武蔵の森

・殺る木(先ずは気持ちから)
・殺木(オーラに身を固め)
・殺人木(さあ実戦です)
441人間七七四年:2009/11/18(水) 20:27:52 ID:/Ynn8Ghp
>>435
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2427.html
では「口真似」に当たると思われるとあるね

これは確かに見てみたいよなあ
442人間七七四年:2009/11/18(水) 20:46:54 ID:ffVpavcZ
どこかで聞いた話なんだが出展は忘れた
関が原で石田軍が敗走した時旧蒲生家臣は踏みとどまって討ち死にした者が多く、旧小早川家臣は逃走した者が多かった。
人々は亡き氏郷の薫陶が生きていたのだろうと誉めそやした。って話
これだけだといい話なのか悪い話なのか難しいんだけど、秀秋はともかく先代隆景の薫陶が氏郷に劣るとは思えない
そこで小早川隆景と家臣のそんな様な話があったら教えてくだされ
443人間七七四年:2009/11/18(水) 22:46:15 ID:QO+HOX11
というか、関が原の時点で旧小早川家臣?

秀秋が継いだ後、隆景に仕えた旧小早川家臣団は隆景を慕って小早川家から離れたという話は聞いたことがあるが、
彼らが石田家に仕えたという話は聞いたことがない。

後世に秀秋を貶めるための作り話じゃね?
444人間七七四年:2009/11/18(水) 22:51:29 ID:FE+WyjWu
つーか小早川じゃなくて秀次旧臣じゃないかね?
司馬遼が関ヶ原でそんな事を書いてたような。
どっちにせよ事実無根だけど。
445人間七七四年:2009/11/18(水) 23:04:08 ID:Z+MzZm8t
名将のもとに弱卒なし
って仮に元上司の教育が悪くても、それを制御できなかったら三成の責任じゃないかな
446人間七七四年:2009/11/18(水) 23:21:20 ID:ccDW416H
実際は秀次系家臣の方が踏ん張っている
司馬遼は秀次嫌いだから、ホラ……
447人間七七四年:2009/11/19(木) 01:47:04 ID:192CIXq9
400年もの間あの手この手で貶され続ける秀秋カワイソス(´・ω・)
448人間七七四年:2009/11/19(木) 02:03:59 ID:ZuGxksJu
子孫がいないと貶し放題になりやすい
449人間七七四年:2009/11/19(木) 06:10:59 ID:hJ+LSkLN
許儀後という人物がいる。
明国江西の人であったが1571年に広東で倭寇に捕まり、彼は薩摩に売られてしまう。
その後彼は島津氏の御側医師となった。

1590年、許儀後は恐るべき噂を耳にする。
日本の関白が大明に侵入しようと船5000隻を造っているというのだ。
さらに翌1591年には薩摩内にいる唐人の総点検が始まり、唐人が薩摩から出港することが禁じられる。

この時薩摩に林紹岐という商人の船があった。
島津氏はこの船の出向も差し止めようとしたのだが
許儀後が『この船は商船であり、それを停めれば交易が途絶えてしまう。』と説いた為出港の許可を出した。
1592年1月16日は林紹岐の船に薩摩を出る。

許儀後が林紹岐の船が出港できるよう働きかけたのは理由があった。
彼はこの船に明への報告書を託した朱均旺という人物を乗り込ませていたのだ。

朱均旺は許儀後と同郷の人であり、福建で商売をしていたが1577年交趾に渡った帰路倭寇に捕まってしまう。
薩摩に連れてこられた朱均旺は島津氏の菩提寺である福昌寺の僧に売られ、そこで許儀後と出会った。
許儀後は同郷の朱均旺の事が気に入り、彼を引き取って薬書の筆写などをさせていたのだ。

大明への侵入という噂を聞いて以来許儀後と朱均旺は罰せられることを覚悟した上で明への通報を試みていた。
3度に渡って平戸の明人商人経由での通報を試みたがなんの音沙汰もない。
そこで朱均旺は自ら志願し、使者となるべく林紹岐の船に乗ったのだ。

すでに薩摩に売られてから20年近くがたち、許儀後は妻帯し、子も生まれていた。
許儀後は報告書の最後に朱均旺への詩を付している。

「遙かなる異境でめぐりあってから何年もの歳月が経った。ある朝別れて君は遠くへ旅立つ。
 忠君の事(日本警戒情報の提供)は君に懇ろに託したので、意を尽くして(秀吉の陰謀を)挫いてくれ。
 君は本国へ帰れば蘇武のように歓迎されるのだから、どうして(薩摩に残った私が)李陵のような境遇となることを心配する必要があろうか。
 霜台(弾正台)にもし日本のことを聞かれたら、ただ民草は苦しみ(それがし許儀後も)憂えているとのみと言ってくれ。」

2月28日朱均旺は無事福建省に到着、報告書を官吏へ提出し貴重な対日情報源となる。
450人間七七四年:2009/11/19(木) 08:43:10 ID:jqefHWkw
日本は島国だけにイギリス並みに海賊国家だったんだな
もっと海軍力あれば東南アジアの日本人町とか通して植民地も作れたろうに
451人間七七四年:2009/11/19(木) 09:24:16 ID:iXD0001X
イスラム商人を通さずに獣肉の長期保存のための香辛料を手に入れるため大航海時代に入り、
キリスト教国にない貴重品は高く売れる→加工したら高く売れる綿花とか原材料を現地労働者をコキ使って作らせる→反乱→金を援助したりする代わりに地元軍隊を利用して鎮圧→賠償を口実に割譲や自国民保護の軍隊駐留権をもらい地域を乗っ取る。
当時は領主が支配者で収奪される側も搾取する側も国民や愛国心なんて存在しなかったからね。
日本人は四海を海に囲まれてるから何となく日本人みたいな意識はあったんじゃないかな?
まあ日本人は四足動物をあまり喰わなかったから香辛料で保存なんて必要ないし、
中国自体が「茶を代表に中国に無いものはない」の国だから輸入にしても中国文化圏で生活する分には確かに中国からの輸入で充分。
それどころかキリシタンに影響される方が怖かったから鎖国してしまったんだろね。
452人間七七四年:2009/11/19(木) 09:59:17 ID:xS6kaY8N
>>451
ワロタ
もうちょい世界史勉強しなさい
453人間七七四年:2009/11/19(木) 12:33:47 ID:iXD0001X
>>452
君の御高説でも聴かせてくれないかな。
454人間七七四年:2009/11/19(木) 12:52:42 ID:LPqupQ3v
ID:iXD0001X
かっこいいIDだ
455人間七七四年:2009/11/19(木) 13:00:03 ID:CtQGbBX3
顔は真っ赤だろうがなw
456人間七七四年:2009/11/19(木) 13:09:41 ID:0qTId+QR
とはいえケチだけ付けて逃げるのは卑怯な気がする……。
具体的に反論しないとただの嫌な人だと思う。
457人間七七四年:2009/11/19(木) 15:18:08 ID:dRFGDL5h
卑怯も糞もスレ違いだし
458人間七七四年:2009/11/19(木) 15:32:14 ID:kudLSK+1
>>414
田中角栄も、一度言葉をかわした人間の顔と名前はずっと覚えてたらしいね。
出世に必要な才能だろうね。
459人間七七四年:2009/11/19(木) 15:46:37 ID:S/JiOFs6
いや、しょっぱなから間違ってるだろ
肉の保存のために金と等価値レベルの香辛料を使うわけ無いだろ
460人間七七四年:2009/11/19(木) 16:36:26 ID:wXh5VNjh
じゃ、香辛料は何のために求められたと思っているの?

そもそもそんなことを言ったら、アフリカでは塩と黄金が等価値で取引されたこともあるが、
黄金と同レベルだから肉の保存その他食用に使われなかったとでも?
461人間七七四年:2009/11/19(木) 16:42:08 ID:q2fLs0JL
ここに行け

香辛料の歴史。。。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1078557888/
462人間七七四年:2009/11/19(木) 21:44:06 ID:jTU24m2X
天下人となった秀吉は、ある日故郷の尾張中村に立ち寄る機会があった
地元の英雄の凱旋帰国に村は沸き立ち大いなる歓待を受けた
なじみだった者等と昔話に花を咲かせ上機嫌であったが、突然険しい顔になり
「そういえば仁王はどうした、仁王を連れて来い!」と叫んだ
仁王とは体が大きくガキ大将でいつもいじめられていた幼馴染のあだ名である
早速同行していた福島正則に見つけ次第引っ立ててくるよう命じた
正則は秀吉の従兄弟かつ同郷なので難なく居場所を見つけ出したが
そこにいたのはかつて仁王と呼ばれた姿とは程遠くやせ衰えたみすぼらしい老人であり
かつての行いを恥じて秀吉の前に顔も出せず、家族の者はお詫びと命乞いに
地面に額をすりつけていた。正則はその姿を見て哀れに思いそのまま立ち去り
陣に戻ると秀吉に「残念ながらかの者は一月ほど前に死んだそうです」と報告
秀吉は「そうか、自ら手打ちにしてやりたかったが残念だった」と言ったという
463人間七七四年:2009/11/19(木) 21:46:52 ID:q2fLs0JL
これはいい話。
しかし珍しく気の利く正則ですなw
464人間七七四年:2009/11/19(木) 21:58:28 ID:dRFGDL5h
基本的に情に厚いよな正則
牢に飯をコッソリ差し入れした男の義理に感動したり
改易を伝えられて家族殺して使者も殺した後自分も死のうとしたけど娘を手に掛けられず素直に改易に従ったり

その辺りがDQN四天王に入れない理由だし正則の魅力なんだろうな
465人間七七四年:2009/11/19(木) 22:09:22 ID:9eGDPdOv
ぶっちゃけその姿でも御大はあざ笑った末手打ちにしただろうからな…
466人間七七四年:2009/11/19(木) 22:30:34 ID:ezInUOmw
「墓に連れて行け」とか言われなくてよかった。本当によかった。
467人間七七四年:2009/11/19(木) 22:56:47 ID:Dpe2A+Sd
正則は酒飲まなきゃ普通にいい人
468人間七七四年:2009/11/19(木) 23:11:41 ID:0HwzXwkm
>>466
家康は墓から大久保長安掘り出して首をはねたんだよな。
現代なら病院に入れられてるレベル。
秀吉もそうだけど年取るとみんなおかしくなるんだな。
469人間七七四年:2009/11/19(木) 23:12:34 ID:uTzqLqwc
>>466
よろしいのをお見立てを願います、とw
470人間七七四年:2009/11/19(木) 23:14:30 ID:192CIXq9
>>462
「ああ、 韓信が昔股潜りをさせられたDQNを誉めた話の別バージョンかー」
とか思いながら読んでたら、秀吉まったく逆のことをするつもりだったんかいw
それともいつもの嘘っぱち発言か?
471人間七七四年:2009/11/19(木) 23:36:33 ID:D9iNuDTk
>>468
これって罪人として処分するためにやったのだから秀吉とは違うんじゃない
生きていれば同じように罪人として首をはねたと思う
472人間七七四年:2009/11/20(金) 00:05:51 ID:F8UjbCog
最初から恨み骨髄だったっていうよりは昔話してるうちに怒りが蘇ったんだろうな
そういうことってあると思うけど、それで連れてきて手打ちにしようって話になるん
だから権力者はこえーよ
473人間七七四年:2009/11/20(金) 00:25:50 ID:YGrJX/qP
>自ら手打ちにしてやりたかったが

そういえば秀吉って
自分の手で誰か殺した経験はあるの?
474人間七七四年:2009/11/20(金) 02:03:35 ID:NTQlLadG
倭寇に捕まり薩摩に売り飛ばされた許儀後
島津氏の医師となった後もその事を忘れることはなかった。

1585年倭寇は島津義久に倭寇討伐を訴える。
これを聞き入れた義久は陳和吾、銭少峰ら10名余りの倭寇の首領を殺害し
その妻子を奴婢に落とした。
散り散りになった残党は東南アジアに逃亡し、九州近辺は静まった。

1587年秀吉の九州征伐とともに倭寇は再び騒ぎ始める。
許儀後は義久に随行して関白秀吉に謁見、倭寇討伐を訴えた。
秀吉は命を下して倭寇の首領たちを捕らえさせて斬首し、首級を京に送った
こうして九州の海は平穏を取り戻したのである。
475人間七七四年:2009/11/20(金) 02:14:41 ID:1l2mm3HS
>>474
> 1585年倭寇は島津義久に倭寇討伐を訴える。

もしかして明?
476人間七七四年:2009/11/20(金) 02:36:10 ID:NTQlLadG
>>475
失礼、「 1585年許儀後は」です。
許儀後は朝鮮役で島津氏の代表として明側の使者と会談したりと
島津氏の中枢に近い位置にいたらしい。
477人間七七四年:2009/11/20(金) 07:14:48 ID:ESzb/RKF
>>474
せっかくの特殊技能持ちをもったいないなぁ、と思ってしまう俺はゲーム脳だろうか。
しかし大陸出兵を考えると抱き込んだ方が……。
478人間七七四年:2009/11/20(金) 09:29:18 ID:QfLL2FMQ
結果を知っているから言えるけど、俺も明と戦う事考えたら倭寇は取り込みたいな
中国沿岸の事情に詳しいし、何といっても渡海するのに海に明るい技能者は欲しい

倭寇を制御できるかは微妙だけど
479人間七七四年:2009/11/20(金) 10:16:43 ID:NB2wvH52
でも、倭寇を捕らえてみたら半分が高麗人だった、てな時もあったようだから統制が取れて組織として機能してるとは思えないし…。
480人間七七四年:2009/11/20(金) 13:03:17 ID:HMX+2DTa
李氏朝鮮を建国した武臣李成桂
倭賊が軍船500で朝鮮に上陸して朝鮮内陸部へ深く侵攻し、迎撃にでた7人の元帥のうち2人を敗死させた。
朝鮮軍を大破させた指導者は16歳の日本人だった。
李成桂は総司令として出陣し倭賊を大破し、王朝を纂奪し李氏朝鮮を建国した。
最近の朝鮮史ではこの倭賊はチェジュ島などに残留した元のモンゴル人主導で日本賊を率いたとする。
根拠は朝鮮内陸部に深く侵攻した際は軍馬を多数使用しており、チェジュ島にはモンゴルの馬を飼育する施設があったらしい。
また内陸部への地理が詳しいのもモンゴル人がいたからとする。
481人間七七四年:2009/11/20(金) 13:58:12 ID:yIGUwd5b
許儀後の動きも事前に察知されていたので
名護屋で島津が秀吉暗殺を狙ってるとか噂を立てられるんだよな
482人間七七四年:2009/11/20(金) 19:05:40 ID:hp9iF3FP
梅北もやらかしたし島津は肩身狭かったろうな
その分、大陸で活躍したけど
483人間七七四年:2009/11/20(金) 19:58:34 ID:gcbvPzKt
>>479
 そのほかに明国人やら琉球人やらその他色々と……はっ!!これぞまさしく東アジア共同体!!!
484人間七七四年:2009/11/20(金) 20:12:45 ID:x5IUdn2I
石田三成率いる軍勢が蜂起し、伏見城を落とした後の話である。

徳川方の武将の首は大坂で晒されていたが、間もなく鳥居元忠の首級が忽然と消えてしまった。
西軍の大戦果を知らしめる、敵大将の首である。
三成は慌て、なんとしても捜し出すよう、厳命を下した。
しばらくして、一人の男が石田方に出頭し、首を盗んだことを自白した。

男の名は佐野四郎右衛門。京の呉服商だった。
四郎右衛門はかねてより元忠と親しくしていたのだという。
伏見落城、そして晒し首になったという知らせを聞き、四郎右衛門はいてもたってもいられなくなった。
ついに大坂まで出向くと、番士を油断させて首を奪い、逃げたのである。
そして弟が僧だったのを幸い、彼とともに首を供養し、土中に深く埋めて隠した。
それが済んだため、どうせ発覚するだろうと踏み、覚悟を固めて自首してきたのだ。

四郎右衛門の話をとくと聞いた三成は、罪に問わず、彼を釈放した。
彼の義心に感じ入ったためだという。
485人間七七四年:2009/11/20(金) 20:19:23 ID:hp9iF3FP
正統派いい話だなー
出頭した呉服屋も、それを許した三成もいい漢だ
486人間七七四年:2009/11/20(金) 20:29:30 ID:HboCc++h
>>468
家康はむしろ若いころからこういう気性だろ
大賀弥四郎をのこぎり引きにしたり、処刑用の釜を持ち帰ろうとしてさくざにしかられたり
487人間七七四年:2009/11/20(金) 20:30:45 ID:TO97nCxg
まただよ(笑)
488人間七七四年:2009/11/20(金) 20:36:38 ID:gCZIuZNu
>>487
グランドヴァイパでトドメさすよ
489人間七七四年:2009/11/20(金) 21:06:30 ID:B3QAcWyn
>>485
石田三成と福島正則は似た者同士かもしれない。
490人間七七四年:2009/11/20(金) 21:22:14 ID:hVxAbUio
>>484
鳥居の首は公卿台に乗せてあったという
それなりに敬意を示していたと言えよう
491人間七七四年:2009/11/20(金) 21:49:42 ID:ESzb/RKF
>>483
通訳や工作員として重宝した可能性もあったかも?
やっぱりただ殺すにはもったいないなぁ。
492人間七七四年:2009/11/20(金) 22:02:35 ID:hp9iF3FP
>>491
捕縛して分散させて配置するとか、少数でもいいから地元を知る人間がいれば楽だと思う
それこそ工作員としてとか、倭寇を続けさせて明に嫌がらせさせるだけでもいいんじゃないかな
裏切らないよう金与えるとか、人質取るとか
493人間七七四年:2009/11/20(金) 22:03:16 ID:cC7zGh2B
今うちの大学の博物館で、元忠と一緒に死んだ松平家忠の日記展示してる
494人間七七四年:2009/11/20(金) 22:07:00 ID:1l2mm3HS
>>493
駒沢大学生乙
今度見に行くわw
495人間七七四年:2009/11/21(土) 00:35:37 ID:bzcbmfx5
>>491
秀吉の大陸情勢の情報源の一つは日本にいる倭寇の明人達だった。
明の官軍に追われた経験がある彼らはむしろ入明を煽りたかったらしく
「明は日本を虎のように畏れている。大唐を手に入れるのは手のひらを返す様に容易い」とまで言ったとか。

また明人商人達からも熱心に話を聞いている。
秀吉が「大陸の政治は乱れている!!」と言ったのも明人商人がそう言ったのを信じたからで
何の根拠もない発言ではないんだ。
496人間七七四年:2009/11/21(土) 09:44:22 ID:JblLH590
そういえば今日だっけか、宇喜多フェス
497人間七七四年:2009/11/21(土) 10:28:35 ID:KM09uo04
直家「宇喜☆宇喜フェスティバルは岡山城天守閣広場で本日13:00から!
鉄砲隊の撃ち方指南とかやるからみんな来てね♪」
498人間七七四年:2009/11/21(土) 10:36:41 ID:YJ7Pf1qs
大将を狙撃する方法指南gkbr
499人間七七四年:2009/11/21(土) 10:51:56 ID:K4Hl7i/W
特別ゲスト

遠藤又次郎・喜三郎兄弟
500人間七七四年:2009/11/21(土) 10:58:03 ID:/RJfE8WI
何故いい話スレでフェスティバルの宣伝をするんだw
501人間七七四年:2009/11/21(土) 12:02:17 ID:kgiw7Isc
13:00からのフェスティバルの宣伝を10:30にされても、間に合わないだろう。
せめて10:00にしてくれないと。
それだと近畿、北部九州の人間は間に合う。
502人間七七四年:2009/11/21(土) 15:36:11 ID:3B2GthLD
宇喜☆宇喜暗殺フェスティバル行った人いるんだろうか?
自分は遠くてとても行けないけど、いつか中国地方も言ってみたいな

というか、岡山は森家のイメージが強かったけど地元は宇喜多をプッシュしているのか
503人間七七四年:2009/11/21(土) 16:27:24 ID:C9Z6IAK2
うきうき行って来た。ちょっと風が強くて寒かった。
後楽園は紅葉の真っ最中。銀杏が綺麗だった。

……寒かったから、太鼓の実演だけ聴いて帰った。
そんな悪い話。

PS:ハッピ着て太鼓叩いてる外人さんや、甲冑着て火縄銃の解説してる外人さんなど、
割と外人率高めだった。
504人間七七四年:2009/11/21(土) 16:28:39 ID:wRuCMhhg
>>503
ちょっとした戦国祭りみたいな感じのものだったのかな?
505人間七七四年:2009/11/21(土) 17:26:40 ID:4uOlzr2d
Oh! UKI☆UKI FESTIBAL♪
506人間七七四年:2009/11/21(土) 19:01:03 ID:wRuCMhhg
某所に浮き☆浮きの写真が上がってた

> 246 名前:以下、VIPにかわりましてパー速民がお送りします[sage] 投稿日:2009/11/21(土) 18:21:47.31 ID:JRfhHpQo
> うっきー
> http://kita.kitaa.net/10/s/10mai346873.jpg
> あったまる
> http://kita.kitaa.net/10/s/10mai346874.jpg
> 天守をバックに
> http://kita.kitaa.net/10/s/10mai346875.jpg
> 鉄砲隊
> http://kita.kitaa.net/10/s/10mai346876.jpg

あったまるは
http://www.okayama-cci.or.jp/ukita/attamaru.gif
> ▲湯原 温丸(ゆばら あったまる)
> 湯原温泉郷キャラクター
> 湯原温泉の湯治場は
> 秀家の母「おふくの方」が開設した

らしいw
507人間七七四年:2009/11/21(土) 19:15:06 ID:VIG/3yKT
直家はほんとうは心のあったかい人だった説もあるね。
秀家に対してだけは…
いっぽう忠家は兄の手が及ぶところでは鎧を脱げなかった。
508人間七七四年:2009/11/21(土) 19:21:11 ID:kgiw7Isc
直家って貧乏していた頃、譜代の家臣を養うために
経費節減で毎月数日、断食していたんだろ。
謀略で領土拡大したのだって、戦いで多くの人を死なせたくなかったからでは無いか?
結果的には殆ど合戦の犠牲者を出していないのだから。
509人間七七四年:2009/11/21(土) 19:23:38 ID:WJ7076H9
ロマンチストだな
510人間七七四年:2009/11/21(土) 19:29:40 ID:LbP5KQPu
謀略は自分の戦力は減らないわ、敵の戦力をそのまま吸収できるわで上手く使えればおいしい。
ま、悪く言われるのは仕方ないよ。
燕雀いずくんぞ、ってね、民衆は分かりやすいほうを好むのさ。
511人間七七四年:2009/11/21(土) 19:45:33 ID:3B2GthLD
弱小勢力が生き残るためには、頭使って汚い謀略も使わざるを得ないと思う
滅んで困るのは、家臣と領民なわけだし

直家なんか浦上家の重臣の孫から没落を経験したから余計に生き残りに必死だったろうな
初めて城任された時、帰農していた家臣たちがかなり集まったんてね
512人間七七四年:2009/11/21(土) 19:49:19 ID:abA237d9
>>507
それは兄を自分のみを盾にして守るという心意気の表れに一票
513人間七七四年:2009/11/21(土) 20:04:09 ID:VIG/3yKT
>>512
無理やりいい話に持っていこうとしてないかww
助かるけどもw
514人間七七四年:2009/11/21(土) 20:39:16 ID:3B2GthLD
この話の流れなら大河ドラマ化可能じゃね?
毛利並みにキレイな謀略にすれば、一応信長と絡められるし
秀家加えて二代記にすれば三傑全員出せる
515人間七七四年:2009/11/21(土) 20:49:00 ID:WJ7076H9
対外戦争が少なく自身の権力確立の為の謀殺がやたら多いし
一般的にもっとも身近な存在のはずの家族が死んで怯えてるから無理
そういうロマンは嫌いじゃないけどな
516人間七七四年:2009/11/21(土) 21:58:38 ID:JtFA/qre
天正7年(1579)3月、宇喜多直家は美作三宮城を攻めたが、城主・村上勘兵衛はみずから
60騎を率い討って出る剛の者で、なかなか勝負がつかなかった。
直家は明日こそ城を落とさんと、若手の足軽大将ら4人を呼んで策を授けようとしたが、
隣室でこれを聞いていた、家老の岡平内利勝が進み出た。

「殿が弓を取られて以来、大事の謀を戸川、長船、そして私に明かされぬことはなかった。
しかるに此度、若い者どもと謀を成すとは、誠に心許なし。
この上は、明日我ら城に討ち入り、村上が首を取ってお目に掛けるべし。首を取らずんば、
生きて再び帰りませぬ!」

自陣に戻った利勝は、先駆けするには身軽でなければ、と思い家臣の半井原某を呼んだ。
「おい、オレの鉄の脛当ては重くていかん。お前の脚絆を貸してくれ。」
「お断りします。利勝様は、城中まで騎馬で行けばよろしかろう。私は徒歩で行くのです、
鉄の脛当てでは不自由です。」

翌日、仕方なく鉄の脛当てを着け出陣した利勝は首尾よく村上勘兵衛と遭遇して渡り合い、
勘兵衛を押さえつけた。
その時、勘兵衛の妹が長刀で利勝の足に斬りつけたが、鉄の脛当てのおかげで無事に
済み、そのスキに追いついて来た半井原が彼女の首をはね、利勝は勘兵衛の首を挙げた。

城将の首を見た直家は苦笑しつつ、「また利勝が手柄を立ておった。」と褒め、また、
「脚絆を借りず、長刀の難を逃れたのは運が良かったからだ。半井原は一人、利勝の供を
して難を救い、良く働いた。」と言い、二人に感状と褒美を与えた。
517人間七七四年:2009/11/21(土) 22:07:15 ID:3B2GthLD
従者の活躍って珍しい気がする、乙
518人間七七四年:2009/11/21(土) 22:32:03 ID:Jyfg9eSa
>>516
戸川、長船に岡で宇喜多三家老だったか。
直家も昔から苦労してるだけに、
その頃からの家臣との結束はそうとう固かったんだろうな。
519人間七七四年:2009/11/21(土) 22:37:37 ID:Zvk1uejw
直家は謀略見事に成し遂げて帰ってきた家臣にきっちり報いたり
切腹させた相手との約束守って子に扶持与え続けたり
いいところも多いと思うが…敵とか自分を脅かす可能性感じた相手とかへの対応は凄いからな。

まぁしゃーないところ。
520人間七七四年:2009/11/21(土) 22:47:30 ID:wRuCMhhg
ある時のこと

伊達政宗が本願寺の門跡より会食に招待された事があった。その後、能の興行が行われた。
政宗、その番組(演目表)を見て、

「杜若(かきつばた:能の演目の一つ)をやるのか!よし、ここの鼓はわしが打とう!」

座の人々、一斉に眉をひそめた。
『杜若なんて超難しい曲目じゃないか。プロでも大変なのに大名が打てる訳無いだろ!
あーあ、せっかくの能興行がぶち壊しだ。』

が、あにはからんや、政宗の鼓は見事であった。
物語の序破急節を、見事に表現した。

曲が終わって門跡、感に堪えたように
「政宗公は鼓の名手であられますな!」
と、声をかけると、政宗

「杜若に限らず、(難解な曲と言われる)獅子や姥捨の秘曲でも、打つ自信はありますよ?
まあ、そこいらの並みの能楽師じゃ、わたしの足元にも及びませんよ。」

門跡に向って自画自賛。このあたりいかにも政宗らしい。が、

「…ですがね、ふと思い出しましたが、細川幽斎なんて人は、鼓に限らず、もう
いろんなものの名人でした。ですが、その事を一生自慢しなかったそうです。

わたしがこんな大口を叩くのは、人柄も鼓も、細川幽際に及ばないからだ。
ま、そんな風に思ってください。」

案外謙虚な政宗公なのであった。
521人間七七四年:2009/11/21(土) 22:51:48 ID:kgiw7Isc
>>520
鼓の勉強する暇あるなら、戦の勉強もしろよ。と思ってしまった俺は
悪い話スレに毒されすぎ?
522人間七七四年:2009/11/21(土) 22:55:21 ID:pwW6tjBY
既に幽斎がこの世を去ってかなり経った頃と思われるので
戦の勉強しまくってると逆ににらまれるような時代の話かも知れんぜ
523人間七七四年:2009/11/21(土) 23:01:05 ID:rN/y1UD3
幽斎の話を持ち出して一歩ひいてみるが、自慢したい欲求は抑えない政宗
524人間七七四年:2009/11/21(土) 23:02:50 ID:wRuCMhhg
あ、この話はもう、家康も死んで政宗がフリーダムを楽しんでる時期の事ですねw
525人間七七四年:2009/11/21(土) 23:04:49 ID:OR3WbBW+
幽斎さん、完璧超人過ぎるからな
526人間七七四年:2009/11/21(土) 23:13:40 ID:3B2GthLD
結構名門の生まれで、腕っ節が強くて、天皇から助命嘆願来るほどの文化人てなんてチート
527人間七七四年:2009/11/21(土) 23:23:15 ID:WJ7076H9
油や柿盗むほど手癖悪いし自分の子の情操教育は失敗してるけどな!
528人間七七四年:2009/11/22(日) 01:29:36 ID:W56FUvRK
>>527
その息子さんも地雷さえ踏まなきゃ、親父ほどではなくてもかなりのチートだからなぁ。
529人間七七四年:2009/11/22(日) 09:10:57 ID:za4kshnW
珍しく謙虚でいい話なんだから誰かまーくんを褒めてあげてよw
530人間七七四年:2009/11/22(日) 09:39:40 ID:DADiwyYm
このスレって基本的に戦国後半の逸話が多い気がする
自分は戦国末期殆んど知らなかったから、新鮮なんだけど
ある程度平和になってから色々語り継がれるようになったのかな

といった訳で、どなたかの上杉謙信時代の家臣の逸話あったら聞きたいです
531人間七七四年:2009/11/22(日) 13:36:41 ID:Iu1K+i/s
>>530
謙信の家臣というには無名で微妙かもしれませんが。


ある時、謙信は使い番に欠員ができたので、
神保主殿という17歳の若者を新たに使い番とした。

が、すでに使い番として仕えていた者たちにはそれなりの自負があったのか、

「こんな右も左も分からんような小僧を我らと同列にするとは。」

と、内心面白くなかったようである。

これを知った謙信は、使い番の者たちを呼び出してこう言った。

「使い番といえば、わしの目とも片腕とも呼べるものでなければならん。
 よって、十分吟味した上でおまえたちを使い番に命じたわけだ。
 
 それで、新たな使い番のことだがな。
 新たな者を選ぶにあたって以前武役を務めたものが適任かと思ったが、
 中途半端な者を選べばかえっておまえたちの気分を害するかもしれぬ。
 
 そこで、全く経験の無い神保をわしの眼力を頼りに選んだのだ。
 おまえたちならしっかりと使い番として教育してくれると思ってな。」

その後、神保主殿は加賀尾山の城攻めで功を上げ、謙信から感状を賜ったという。


神保の才を見抜いた謙信、彼を一人前に育て上げた使い番仲間、
そして両者の期待に応えた一人の若者の話。
532人間七七四年:2009/11/22(日) 15:17:58 ID:6CYc0kIf
謙信って世間ではただの戦馬鹿的な印象広まってるけど
気を使うなかなか優秀な将だよね
533人間七七四年:2009/11/22(日) 15:18:40 ID:H6OV6i8D
おかん武将ですから
534人間七七四年:2009/11/22(日) 17:52:18 ID:l0C2BSWI
奇声を発する理由

池田輝政は時々一人で「ウォー」とか「ウワァー」とか奇声を発することがあった。
家臣たちが驚いて

「いかがなさいましたか?」

と訊くと、輝政は苦笑してこう言った。

「驚かせてすまない。今起きていることが昔俺が考えた通りのことなので、思わず俺もたいしたものだ、と嬉しくなったのだ。
今後もしばしばこういう声を出すと思うが、別に心配しなくてよい。
俺が奇声を発した時は、会心の声だと思ってくれ。
嬉しくてこういう声を出すのだ。」

話を聞いた家臣たちは納得し、胸をなでおろした。

その後も輝政はしばしば一人で「ウォー」とか「ウワァー」とか奇声を発し続けた。
だが、その声を聞くたびに家臣たちは

「いま、城の仕事が全てうまくいっているのだ。」

と安心した。
535人間七七四年:2009/11/22(日) 17:55:28 ID:HI5SoZ4G
なんか武断派の中心人物って全員、奇人変人だな。
奉行派がマシに思えてくる。
536人間七七四年:2009/11/22(日) 18:02:32 ID:xoOEf6+2
>>534
既出…かと思ったらオチが違うね
537530:2009/11/22(日) 18:36:54 ID:+Jkpt57T
>>531
ありがとうございます、神保性という事は越中神保氏の関係者かな
たしか佐々成政に仕えた神保氏がいた記憶はあるんですが

なんか血縁て意外な所で繋がってる事がある気がする
謙信の配下に真田と同族の海野氏とか見かけた事あるし
538人間七七四年:2009/11/22(日) 19:03:25 ID:hC8uUojw
>>537
軽く調べたんだけど神保主殿てのが何者かはよく分からなかった。
苗字が苗字だし、おそらく越中神保氏の縁者かと。

神保長職は1568年以前に謙信と何度か和睦してるし、
その時に人質にでも出されたのかもね。
539人間七七四年:2009/11/22(日) 21:05:22 ID:+Jkpt57T
有名な逸話ですが纏めてみました
「武田信玄と上杉謙信 お互いを認め合う話」

信玄は、遺言で有名な「自分の死を三年間隠せ」とともに、勝頼に宛てて遺言を残したといわれる。
内容は、「自分は謙信と幾度も戦ったが、お前は謙信とは和睦した方がいい。
謙信は義に篤い人物だから、きっとお前の助けになってくれる筈だ。」と書き残した。
その遺言の影響があったのか、後に勝頼は上杉景勝を支援し信玄の娘・菊姫を嫁がせ
信玄・謙信が世を去った後、武田家と上杉家は婚姻関係を結び同盟が成立した。

対して謙信は信玄の死が伝わると、「吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや」と
食事中にも関わらず号泣し、宿敵・信玄の死を惜しんだ。
家督交代に乗じて攻め込むのはよくある事で、家臣が武田攻めを進言したが
謙信は、信濃に兵を進める事はなかったという。

第一次川中島合戦から数えて、約二十年戦い続けた戦国時代の名将二人も
死を間近にしては、互いに戦を通じて親しみを感じていたのかもしれない。

そんな両雄の生まれが違えば仲が良かったのかもと思わせる、いい話。
540人間七七四年:2009/11/22(日) 21:08:53 ID:jah12rTx
謙信は女性でツンデレだからな。
541人間七七四年:2009/11/22(日) 21:26:21 ID:iwgDrwgp
>>539
これ出てなかったのかw
542人間七七四年:2009/11/22(日) 21:53:45 ID:XwbPxavF
>>539
この二人の互いに争いあったが、
一方で互いを認めてたっていう話は熱くていいわ。
これぞまさに天の配剤ってやつだな。
543人間七七四年:2009/11/22(日) 21:54:04 ID:LjaJH3t2
>>514
で、エンディングは泳いでいくんだなw

>>518
そいつらの子供の代も結束はしてたな
結束して宇喜多家の結束を崩した--;
544人間七七四年:2009/11/22(日) 22:18:16 ID:imWIl5DO
>>539
すでに矛盾しまくっているんですけどね
545人間七七四年:2009/11/22(日) 22:38:35 ID:V/RC7kng
しかし謙信、信玄が死ぬとすぐに関東の諸勢力相手に
信玄が死んだ今こそ力を合わせて武田勝頼と北条氏政を倒そうぜ!って手紙出してるよね
例の小田さんまでも貰っている
546人間七七四年:2009/11/22(日) 22:51:00 ID:O2wRiXwn
あんなに役立たずな小田さんにも書状が届くとは穏
やかな話ではないな。
547人間七七四年:2009/11/22(日) 22:56:33 ID:PwaR6ekd
ある時、島津義弘の家臣北山内助が義弘に早退したいと言ってきた。

「なぜ早退するのだ。理由を言え」
「実は家の馬が病気でして」
「うまぁ?馬ごときで早退か!?」

義弘が笑うので内助は続けて言った。

「はい。馬は足の代わり、ご奉公に必要なものです。
それがしの家にいる蟻や蜘蛛が病気でも、それが貴方のお役に立つなら帰ります」
「ううむ、さような心掛けであるか」

義弘は納得した。
548人間七七四年:2009/11/22(日) 22:58:14 ID:5iuTbFQt
小田さんの動員能力を甘く見るな!
ただ天才的に指揮能力がなかったんだ
549人間七七四年:2009/11/22(日) 22:59:46 ID:isdrZvRL
今月のシグルイの政宗さんは老成して良い感じだった。

戦国の気骨と円熟味が良く出ていた。
550人間七七四年:2009/11/23(月) 00:01:20 ID:wDQPfXoH
小田さん、こっちでも大人気だな。w
コーエイの箱庭とかやっていて、ダメダメ大名選択すると、まず配下の武将のせこさに泣いて、
その後、やっと落としたお城が片っ端から裏切り始める。
家臣や領民に慕われるって、実はかなりの能力なんだなぁって実感するんだけど。
551人間七七四年:2009/11/23(月) 00:04:21 ID:5H5fWEiz
正宗という刀をご存知だろうか。備前長船、来国俊に並ぶ大層有名な刀である。今回はこの刀に関するエピソードを1つ。
時は1598年、太閤秀吉が亡くなり、翌年の3月3日に加藤清正、福島正則を中心とする7将が石田三成を襲撃した。
この時三成は政敵の家康の下に逃れ、事なきを得た。しかし、三成は命の代償に奉行の職を失い、家督を譲り蟄居せねばならなくなってしまった。三成が領地の佐和山に戻る際、護衛を任されたのが結城秀康である。
結城秀康は三成を嫌う者が多い中で三成に反感を持たない数少ない男だった。秀康は三成を佐和山の目と鼻の先の距離まで送った。これに三成は感謝し、
「秀康殿、護送の御礼にこの刀を受け取って戴きたい。」と1本の刀を差し出した。これこそ、冒頭で紹介した正宗である。
この刀は元々、毛利輝元が所有していた物を宇喜多秀家が買い取り、それを三成に贈ったものらしい。この刀を秀康は大変喜んで受け取り、石田正宗と名付けた。秀康はこの刀を終生差し続け、家康に叱責されても
改める事は無かったという。後にこの刀は秀康から津山松平家に伝わる事になる。長文失礼。
552人間七七四年:2009/11/23(月) 00:05:18 ID:fpT2gtDA
>>545
あれ謙信、佐竹義昭が死んですぐ佐竹に攻め込んだ小田さんフルボッコにしてたよな
553人間七七四年:2009/11/23(月) 00:10:48 ID:5S0mREKn
>>552
多分謙信さん的には拳を交わしあえば皆友達なんだよ。
554人間七七四年:2009/11/23(月) 00:19:16 ID:yO/h8IYP
どこのサイヤ人だよww近くにいられたらすげぇ迷惑だ
555人間七七四年:2009/11/23(月) 01:26:34 ID:nqyZEqnP
男のどつきあい、略してお付き合いw
556人間七七四年:2009/11/23(月) 01:26:46 ID:e6f78wSG
謙信「俺の言うことは正しい、俺の為す事も正しい
   俺が天下に背こうとも天下の人間が俺に背くことは許さん」
557人間七七四年:2009/11/23(月) 01:39:58 ID:bmoKJX3N
H条さん「毎年、押し掛けられて迷惑しています。以前は自宅まで大勢引き連れてきました。」
T田さん「20年間もストーカー行為や誹謗中傷されています。一度、塩くれた事もありました。」
558人間七七四年:2009/11/23(月) 01:52:22 ID:GBeRK+qv
なんというジャイアニズム
559人間七七四年:2009/11/23(月) 01:59:32 ID:nNFtmYDG
謙信=悟空
信玄=ベジータ
氏康=くりりん
こんな感じ?ヤムチャは誰だ・・
560人間七七四年:2009/11/23(月) 03:07:47 ID:nPn4V2DX
U杉憲勝「俺の許しを得ずに開城降伏とは許せんと援軍に間に合わなかったことを
      棚に挙げられ息子を殺されました。庇ってくれた太田さんには感謝してる」
O田さん「人を見る目が無いと罵られ危うく切り殺されるところだった」
N田さん「その八つ当たりで城を攻められ、詳しい被害は不明だが一部報告によれば3000人切り殺された」
561人間七七四年:2009/11/23(月) 06:56:08 ID:w59Gbmlw
>>552
信玄・氏康という昔からの抗争相手が死んで、
なんか自分の死も間近に感じて最初は悲しんだけど

後になったら、やっぱ攻めた方がよくね?って心変わりでもしたんじゃない
562人間七七四年:2009/11/23(月) 08:31:48 ID:jhImjQOs
いやあれは攻める攻める詐欺だな。
越相同盟の時も武田を攻めるぞ攻めるぞと言いながら攻める気なしで武蔵国の利権だけゲットして北条との緩衝地帯を作ったし。
実は密約で越甲同盟がすでに成立してたとする研究者も多い。
そして北条武田の直接脅威を無くしてから謙信ちゃんは北陸方面に力を入れ始め織田と敵対してる。
実は脳筋バカから外交に目覚め始めた謙信ちゃん。
やはり足の自由が利かなくなってくると山勘や黒勘みたいに暗黒軍師化する戦国ではお約束設定なんだろう。
563人間七七四年:2009/11/23(月) 09:25:08 ID:w59Gbmlw
>やはり足の自由が利かなくなってくると
って謙信足悪かったんだ、知らなかった
調べていたら、謙信と爆弾正の邂逅についての逸話があったから書いてみる

1559年 謙信は二度目の上洛をしていた。
まだ正式に上杉家を継ぐ前であり、その事についての打ちあわせがあったと思われる。

当主を辞めて出家しようとした謙信だけに、京都観光は楽しみにしていたのか街中を練り歩いていた。
(この直前、腫れ物が出来て家臣たちが膿を吸いだしたり一騒動だったらしい)

すると、ばったりと当時の近畿で三好の重臣として辣腕を揮っていた松永久秀と出くわした。
ここで、どのような会話がなされたかは分からないが謙信は久秀に対し、気後れする事もなく振舞ったという。
久秀は将軍に気に入られている程度の田舎大名が、尊大に振舞うので内心面白くなかったのかもしれない。

それを感じとったのか、久秀の家臣二名が謙信に対し無礼を働いくと、
謙信は、この二人を三条橋のあたりまで連行して首を切り落としてしまった。

この事に対し、三好も久秀も事を荒立てたくなかったのか講義は無かったという。

そんな上洛してのやんちゃが多い謙信公の度胸のいい話。
564人間七七四年:2009/11/23(月) 09:43:04 ID:jhImjQOs
その時のトラウマか、義輝暗殺を実行スイッチを押させたのが、
義輝のために謙信が上洛して三好や松永を討ち滅ぼす為に近々上洛という風聞だったらしい。
565人間七七四年:2009/11/23(月) 09:45:53 ID:jhImjQOs
謙信が商人とのトラブルで堺に火をかけたりと暴君ぶりを発揮したが長慶が不問にしてあげたり…越後兵の上洛とかそんなに怖いんかな?
566人間七七四年:2009/11/23(月) 09:48:20 ID:YDvqbEiK
>>563
その上洛の時って確か最初は長慶にもシカトされたんだよな。
そんでキレた謙信が長慶を襲撃しようとしたらしい。

日本の副王も爆弾正もさすがに相手が悪かったか…
567人間七七四年:2009/11/23(月) 10:00:20 ID:9XbKkv2U
>>563
上洛した時、謙信は時の将軍義輝に
「お望みならば手前の兵で逆賊共(三好・松永党)を討ち滅ぼしてご覧に入れましょう」と口上
将軍様はなんとかなだめて謙信の暴走を抑えたみたいだが

スゲー自信だなと思うけど、謙信なら本気も本気なんだろうなあw
568人間七七四年:2009/11/23(月) 10:41:24 ID:queEP3ux
謙信なら仕方ない
569人間七七四年:2009/11/23(月) 10:59:29 ID:vkfgOXR8
>>568
ちょっと待て
その言い方だと富田さんや鬼武蔵と同レベルに聞こえるぞw
570人間七七四年:2009/11/23(月) 11:05:50 ID:2U1mrchE
スケールが違うだけで方向性は同じだと思うw
571人間七七四年:2009/11/23(月) 11:18:45 ID:vkfgOXR8
謙信ヒャッハーか
ラスボスみたいにDQN四天王とは別格な気がする
572人間七七四年:2009/11/23(月) 11:32:15 ID:zuZxf8Xf
でも暗殺に関しては義輝の方が先にやってるんだよな。
爆弾正も、義輝みて暗殺に開眼したんじゃね?
573人間七七四年:2009/11/23(月) 11:54:10 ID:NUD/Uvib
久秀「暗殺!そういうものもあるのか」
574人間七七四年:2009/11/23(月) 11:56:28 ID:vkfgOXR8
その二人が対織田では対織田包囲網に同時期参加してるし
人生なんて先がわからんな
575人間七七四年:2009/11/23(月) 12:40:53 ID:ov8YGJKg
久秀「それでも謙信なら・・・謙信ならきっと何とかしてくれる」→謀反へ
576人間七七四年:2009/11/23(月) 12:58:44 ID:jhImjQOs
ウンコ中にアナルプレイが元で切れ痔が悪化して死亡しました→報告を聞き弾正爆死
577人間七七四年:2009/11/23(月) 13:07:54 ID:I6DcXTcM
謙信ちゃんがウ●●なんてするわけないだろ!


●●に当てはまるものを答えよ
1.ンコ
2.ワキ
3.ホッ
578人間七七四年:2009/11/23(月) 14:01:20 ID:v+0K+ESq
それだと正解がないような気がスル
579人間七七四年:2009/11/23(月) 15:51:11 ID:8BZXFbvc
>577
>1コン
に見えて
「そうだよなーあの飲んだくれがウコン飲んで肝臓労わる訳ないよなー」
などと思ってしまったのは本当
580人間七七四年:2009/11/23(月) 16:31:08 ID:queEP3ux
なんかの本に「謙信は梅干し肴に酒ばっか呑んでたから脳卒中で死んだ」って書いてあったな
581人間七七四年:2009/11/23(月) 16:57:06 ID:ftJB0CC0
>>580
馬乗った時用の愛用の馬上杯まで残ってるぐらい、
謙信は酒大好きだからなw
肴は梅干以外にも塩だけっていう時もあったらしい。

どうでもいいが、
日本酒で「越乃景虎」って酒がある。
そう高くもなくなかなか美味なので、
日本酒好きは機会があったら是非どうぞ。
582人間七七四年:2009/11/23(月) 17:03:22 ID:kdhVe94R
ひいいい、酒に梅干なんて高血圧を誘発させるようなことしてたら
脳卒中になるのも当たり前や!
583人間七七四年:2009/11/23(月) 17:25:40 ID:XzE7mT1p
でも日本酒は糖度が高いから塩辛い物がホント良く合うんだな
584人間七七四年:2009/11/23(月) 17:48:18 ID:9XbKkv2U
謙信のひと味違うラスボスぶりは酩酊している時に発動したものだったりして
酔ってないときは優しくて虫も殺さないのかも
585人間七七四年:2009/11/23(月) 18:00:12 ID:YtjmM3th
>>581
清酒・越乃景虎もうまいけど、当時の気分に浸るなら濁り酒もいいよ
新潟なら五郎八はうまい

謙信が肖像画を描かせた時、絵師が後姿も描かせてくれと言われると
盃をおいて、これが俺の後姿だと言ったといわれる って逸話もあるし

謙信にとって酒は自分の半身みたいな気分だったのかも
体は水分多いし
586人間七七四年:2009/11/23(月) 18:05:09 ID:e6f78wSG
>>584

それってただ酒(エネルギー)が切れて
_ノフ○ グッタリしてるだけじゃねーのw
587人間七七四年:2009/11/23(月) 18:37:15 ID:2aS1b73g
謙信に限らず武士に酒はもう付きものだよねえ
588人間七七四年:2009/11/23(月) 18:42:49 ID:YtjmM3th
福島正則と謙信の飲み比べ
正則はなんか一歩及ばない感がある
589人間七七四年:2009/11/23(月) 18:44:51 ID:fpT2gtDA
>>587
岡部「いや、もう正直見たくもないかな」
元就「うんうん、控えた方がいいって」
590人間七七四年:2009/11/23(月) 18:50:10 ID:/ddIaKoD
家久(善)「過ぎた接待は戦より恐ろしい」
591人間七七四年:2009/11/23(月) 18:52:05 ID:AIbwlrLJ
>>563
小さい頃に左足を怪我し、戦でも左足に矢傷を受けた。
三十代中頃にリウマチ(もしくは通風)にかかって完全に左足が不自由になったとも、
同じ頃に熱病を患い、急性関節炎を併発して不自由になったとも言われている。
592人間七七四年:2009/11/23(月) 20:24:04 ID:M0ok+of3
影虎って寒梅の兄弟蔵だよね

いちど飲んでみたいと思ってるんだけど、やっぱ新潟いかないと無理かな
593人間七七四年:2009/11/23(月) 20:28:28 ID:jgdlniVm
594人間七七四年:2009/11/23(月) 20:30:05 ID:b/U49Hu+
ほんの小ネタ。

天正一三年、大坂城に諸大名を集めて行われた年賀の宴席に、
ニンニクを使った鳥の焼物、現代で言うならローストチキンが
出たという記録がある。
595人間七七四年:2009/11/23(月) 20:30:58 ID:DWKDd+dv
謙信はガチでアル中だからな
神社に参るために酒をたったら幻覚見る位だもの
596人間七七四年:2009/11/23(月) 20:42:48 ID:YtjmM3th
>>592
越乃景虎でぐぐったら関東でも買えるみたい

「にいがた酒の陣」てイベントだと新潟のいろんな酒が楽しめると思う
今年は天地人関連の酒作ってたみたいで、来年の三月のイベントも似たような事やるらしい(↓アドレス)
ttp://www.niigata-sake.or.jp/sakenojin/
597人間七七四年:2009/11/23(月) 20:54:19 ID:queEP3ux
不許葷酒入山門
598人間七七四年:2009/11/23(月) 21:04:58 ID:lyg70M4n
お酒じゃなくて般若湯だから大丈夫だもん
599人間七七四年:2009/11/23(月) 21:53:40 ID:9XbKkv2U
酔えば〜酔うほどに強くな〜る、それが軍神様の軍略だ〜
負けた戦は全て〜酒を切らしたせいさ〜それいけそれいけKE・N・SI・N!
600人間七七四年:2009/11/23(月) 22:18:04 ID:YtjmM3th
>>567
謙信って上洛した時に近江の人をスカウトしてたりするし
上方で兵でも募って殴り込みかけるつもりだったんじゃない?

この頃、信玄の親父の信虎も義輝に伺候したりしているし
義輝・謙信・信虎で幕府再興とかやっていたら面白い事になっていたのにな
601人間七七四年:2009/11/23(月) 22:21:30 ID:MSpzh8TM
>>596
北海道でもイオンで普通に買えます。
そんなに上戸じゃないけど、正月とか、ちょっとした祝いごとのときに飲んでる。
個人的には寒梅より好き。
602人間七七四年:2009/11/23(月) 22:26:01 ID:57/Qum8u
そもそも越後酒専門の飲み屋とかあるから東京でならいくらでも呑めるぞい

さあ塩と梅干で景虎のんでレッツ脳溢血
603人間七七四年:2009/11/23(月) 22:32:50 ID:+fjkIjsR
>>602
梅干は謙信のマネでちょくちょくやるが、
塩はけっこうしんどいぜ…w

にしても酒好きは謙信以外にもごまんといただろうが、
他の当時の酒豪は何を肴に飲んでたんだろうな。
山科言継とか今川義元とかの肴ってけっこう気になる…。
604人間七七四年:2009/11/23(月) 22:40:48 ID:YtjmM3th
謙信は味噌を舐めながら飲んだとも聞いた事がある
これはポン酒でやってみたら結構いけた
605人間七七四年:2009/11/23(月) 22:43:45 ID:fpT2gtDA
今川義元は生の魚を塩付けて食べてたって聞いたことあるなあ
606人間七七四年:2009/11/23(月) 22:44:07 ID:57/Qum8u
味噌は鎌倉時代から肴として愛好されてたという話があるな
607人間七七四年:2009/11/23(月) 22:53:38 ID:jhImjQOs
裸の男の子を肴に…
608人間七七四年:2009/11/23(月) 22:54:50 ID:LIuzhAJO
肴は怨敵の頭蓋k
609人間七七四年:2009/11/23(月) 23:06:15 ID:8BZXFbvc
なんか自分で酒の話振っておいてあれだが
スレの内容が「戦国ちょっと酒癖の悪い話」になっているような
610人間七七四年:2009/11/23(月) 23:29:41 ID:queEP3ux
>>606
『徒然草』の時頼にそんな話があったね

鎌倉ちょっといい話スレだったら誰か書くだろうけど
611人間七七四年:2009/11/24(火) 00:40:46 ID:Ys6lr4ja
酒の肴には焼き味噌が一番だよな
612人間七七四年:2009/11/24(火) 00:59:27 ID:v52vudoH
長尾家から武田へと移り、忠節を尽くした武将「大熊朝秀」

謙信の家出騒動で有名な大熊朝秀。
事の発端は(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-431.html
こちらを見てもらえば分かるように、最初は大熊の言い分が認められたのが周囲の不満となり
謙信の出家騒動へと繋がった。この責任を取らせるためか
大熊は、政権中枢から追われ立場が無くなり燻ぶっていた所
武田に誘われ、いつもの越後国人のようにホイホイ反乱を起こしてしまった。

反乱の結果はいつものごとく鎮圧され、武田に招かれ赤備・山県昌景の元で働くこととなる。

ノブヤボ等では官吏のイメージがあり、長尾家でも代々金を扱う仕事を任されていた朝秀だが
武勇にも秀でていたらしく信玄の西上野遠征では、後の剣聖・上泉信綱と一騎打ちし無傷で引き分けた逸話もある。
後に、直臣に取り立てられ長尾家との交渉にも携わったという。

時代は流れ、かつての主君・謙信、信玄も亡くなり、1582年 武田滅亡の時がやってくる。

天目山へと向かう際中の勝頼一行の中に大熊朝秀の姿もあった。
武田の親族までが寝返りをうつ中、越後人の朝秀も
土屋昌恒などとと肩を並べ刀を振るったのかもしれない。
行く当てのない所を拾ってもらった恩なのか、武田最後の瞬間まで朝秀は忠を尽くした。

謙信の元から、信玄に誘われ謀反を起こした武将は多いが大部分が帰参を許され帰参しているが
景勝と勝頼が和睦した際も、帰参することはなかった。
長い間、武田に仕えた為か小幡虎盛から娘を貰うなど、かなり重用されていたように見受けられる。

蛇足になるが彼の子孫は、真田家へ仕えることとなり信之の代には家老まで出世したという。
613人間七七四年:2009/11/24(火) 01:10:09 ID:QzUJ3Rdr
朝秀自身が真田家臣と扱われることもあった気がする

もともと越後上杉家の官僚なんだっけか
614人間七七四年:2009/11/24(火) 01:23:50 ID:nnLgpXNq
>>613
先方衆の一員だったから信州で働いているだろうしね。
615人間七七四年:2009/11/24(火) 02:07:22 ID:noLGiUYX
朝秀はみんなに金を貸してたからね。
まあ貿易の融資みたいなもんだったらしいが
616人間七七四年:2009/11/24(火) 07:27:43 ID:BAqI4zBN
>>269
信玄、深すぎるな。
誰か「思案」の方について解説頼んます。
617人間七七四年:2009/11/24(火) 08:10:16 ID:A7W+/8G9
答えがあるのが思案

答えがあるようでないのが工夫
618人間七七四年:2009/11/24(火) 08:21:59 ID:Di4OTxPP
>>615
貿易の融資って越後時代?
どっちにしても上杉なら貴重な内政官だったんだろうな
619人間七七四年:2009/11/24(火) 08:52:53 ID:2wKAm9C/
>>574
手取川戦の後、謙信が後退したのは信長に久秀を討たせるため行った策略である。
と、昔考えてたことがあったなあ

620人間七七四年:2009/11/24(火) 10:21:32 ID:U/BRIMls
謙信って結構人を嫌ったりな面あるけど、一方では認めてたりするし
単純に遠征能力の限界だったと思う、関東への出兵要請もあるから

年食ってからは結構計算して動くようになったイメージ

多分、将軍暗殺の場に居合わせていたら単騎突撃かましそうw
三好・松永皆殺しヒャッハー!
621人間七七四年:2009/11/24(火) 12:33:33 ID:iqU2o4Zy
謙信の逸話を読むとごついオカマに脳内変換される。
IKKOとか。
622人間七七四年:2009/11/24(火) 12:42:53 ID:0M3NdICQ
>>621
おにゃのこで脳内変換してた俺に謝れ
623人間七七四年:2009/11/24(火) 13:16:54 ID:2ZC0P+mM
謙信は女性ですがなにか?
624人間七七四年:2009/11/24(火) 13:22:49 ID:T9jhw6Pl
よし!
間を取ってごついオカンということで
625人間七七四年:2009/11/24(火) 13:48:45 ID:vVFnjvlD
新潟のごついオバチャンというと(友愛されました__
626人間七七四年:2009/11/24(火) 15:21:00 ID:yPrFSWkx
拡声器付きブルドーザーか・・・
627人間七七四年:2009/11/24(火) 15:56:17 ID:mpINyi4b
ある年の事、最上義光が、「領内の天堂原において家中の馬揃えをする。
国境警備の将兵を除く家中、陪臣まで、馬を持つほどの者は残らずまかり出でよ!」
と、宣言した。

これに家中の者達、大身、小身、陪臣を問わず皆、馬武具を新調し、日限を違えることなく
天堂原に集結した。その数、三千七百二十騎に及んだと言う。

さて、この馬揃え、前より沙汰のあったため、当日は領内のみならず他国からも、
幾千と言う見物人が押しかけた。
義光も近習、小姓、旗本のうち、器量の優れた30人を選び出し、同じ柄の
唐織の羽織を着せ、自分の左右に並べた。

かくして、煌びやかな馬武者達が、いよいよパレードに進もうとした、その時である。
義光は突然、「今日の馬揃えは中止する。」と、山形城に帰ってしまった。

家中の者達は「何か殿の機嫌を損ねることがあったか?」と心配し、義光の後を追って
尋ねたが、格段機嫌が悪いというわけでもなく、「気にしないで帰宅するように」と言われ、
彼らも仕方なく帰って行ったそうだ。

後で
「義光様は近年、天下が治まっている事により、家中の将兵の中で武備に怠る者も
出てきているのではないかと心配し、馬揃えをすると言って、武具、馬具を改めさせ、
また行列の様子も観察したのだ。

又、パレードの前に帰宅させたのは、他国の人々も多く見物に来たが、その中に
他国のスパイも混じっていることが解り、このパレードで人馬の数を知られてはいけないと考え、
それを中止し帰城したのだ。」

この日の事、このように言われたそうである。

最上義光、馬揃えのお話。
628人間七七四年:2009/11/24(火) 16:28:41 ID:C7KkrqDp
もろまるまんま以前見た気がするが、
気のせいだったろうか
629人間七七四年:2009/11/24(火) 17:25:52 ID:mpINyi4b
言われて調べてみたら既出でした。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1463.html

すいませんorz
630人間七七四年:2009/11/24(火) 17:36:44 ID:noLGiUYX
まあ実際は不穏な空気満載で義光は暗殺を恐れ、急遽山形へ逃げたと言う話なんだけどな。
631人間七七四年:2009/11/24(火) 17:50:04 ID:CCcoYw8E
>>630
これが察しの悪い小田だったら・・・いや家臣が二人くらい亡くなっても守るか
632人間七七四年:2009/11/24(火) 17:51:35 ID:G4atDKay
>>630
見てきたのか?
633人間七七四年:2009/11/24(火) 19:04:45 ID:GGCtFUx1
>>611
俺の焼き味噌を食べないか?
634人間七七四年:2009/11/24(火) 21:08:48 ID:qA7OD1fx
>>589
政宗「ヒャッハー!酒飲んでぶっ倒れるなんて情けねー!」

635人間七七四年:2009/11/24(火) 21:58:29 ID:x7JXMpig
今、鑑定団見てたが三斎の寄進した鰐口が150万だった。
たまにとんでもない名前が出てくるから鑑定団は侮れないぜ……
636人間七七四年:2009/11/24(火) 22:05:03 ID:7YlOKvOH
本物だったら高いだろうなとは思ったがさすが三斎様じゃ
637人間七七四年:2009/11/24(火) 22:06:56 ID:Mh/wFZQz
>>632
政宗「実際見て来たけど俺の方がもっと凄いのができると思った」
638人間七七四年:2009/11/24(火) 22:19:16 ID:6/Z/C6bW
センスが無いヤツが武将しゃべらせてもつまらんな
639人間七七四年:2009/11/24(火) 22:46:48 ID:E/1rkV7F
佐竹配下の猛将、真壁道無は、新たに佐竹家に参じた太田資正の連れている若者が
気になり、何者であるのか、資正本人に尋ねた。
「ああ、あれは私の息子です。名門梶原家を継ぎ、梶原源太と名乗っております。」

名高い三楽斎の息子と聞き、ますます気に入った道無は、源太に申し入れた。
「わしの娘に、おぬしに似合いの年頃の者がおる。もらってはくれまいか?」
「せっかくですが、お断り申し上げる。」
「なにぃ!わしの娘が気に入らんと申すか!」
「…そういう訳では、ありませぬ。とにかく、お断り致す。」

その後、源太は手這坂の戦いで百人力を誇る道無の息子、氏幹に勝るとも劣らぬ手柄を
立てた。家中の賞賛の中、源太は道無のもとを訪れた。
「どうか、娘御を私に下され。」「はて、今のおぬしなら、嫁など家中に引く手あまたじゃろう。
なぜ一度は振ったわしの娘など欲しがる?」
「逆をお考え下さい。あの時、新参者の私が他国にも知られる道無どのの娘御を娶れば、
家中の者に何と言われたか。
私は道無どのの婿たるべく名を揚げるのを、ひたすら待っていたのです。」
大いに感心した道無は、喜んで娘を源太に嫁がせた。

ある日、鰯をオカズに食事を取っていた道無のもとに、梶原源太改め美濃守政景の使者が
やって来た。道無はあわてて鰯を膳の下に隠し、使者と会った。
それを見ていた道無の家臣は、政景の使者が帰った後に、あきれて道無に訊ねた。
「常陸にその人ありと知られる真壁道無ともあろうお方が、何故そのようにうろたえた真似を
なさるのですか?」
「まぁそう言うな。梶原美濃は、わが婿ながら見事な男じゃ。あの男は、鰯を食うなら半分ずつ
食って金を貯め、武具を買う。
この道無が、鰯をまるまる一尾食っていたなどと聞けば、『贅沢である』と言うに違いない。
わしには、それが耐えられん。」

姉妹スレの天庵様ブームに対抗してみますた。
640人間七七四年:2009/11/24(火) 23:03:21 ID:NB8Ta7c3
>>639
真壁は内陸だし
当時いわしは大変な贅沢だったと思われ。
641人間七七四年:2009/11/24(火) 23:20:39 ID:F+Ax3MK9
鮮魚は日持ちしないからね。
この鰯も干物かも。
642人間七七四年:2009/11/24(火) 23:35:22 ID:9My1oxhx
天日干しなんじゃないかなぁ。
すでに地域によっては肥料としての干鰯の利用も
始まっている時代なので、高級品ではないと思うけど。
643人間七七四年:2009/11/24(火) 23:37:26 ID:03JHB4CK
>>640
当時どころか、40年ほど前まで海の魚はご馳走だったw
普段は鯉とか鮒とか公魚とか、そんなのばっかり
644人間七七四年:2009/11/25(水) 00:14:12 ID:F5ev576K
ある日、酒井家次が年賀の使いとして駿府の徳川家康を訪ねた。
その時、家次は寒いので折烏帽子の下に綿帽子をかぶっていたのだが
ちょっとしたはずみで鳥帽子が脱げて綿帽子が見えてしまった。
家康はこれが気に入らず、家次を叱った。

「本多佐渡のような者は老体だし、おどけているから綿帽子をかぶるかもしれん。
だが、お前のような若者がそんなことをせんでもいい。わしだからよいものを、
諸大名列座の前でそれでは将軍家の恥ぞ」

ここですかさずフォローしたのが家康の側室阿茶であった。

「実は昨夜、家次殿は風邪をひかれまして、これでは今朝の拝謁ができない
と申しますので私が厚着をしてもよい、綿帽子をしてもよいから初春の挨拶
はなさいと申したのです。これは全て私の一存で家次殿のお考えではないのです」

阿茶にそう言われては何も言えないのか、家康は機嫌を直し、

「ふむ、まあそういうこともあるか」

と言ったので家次は家康の前から下がることができたという。
645人間七七四年:2009/11/25(水) 00:35:01 ID:CzyptNcU
ここにも、めんどくさい対応係が
646人間七七四年:2009/11/25(水) 01:57:17 ID:BqA7u7/f
>>617
いんにゃ、

「工夫」の方は明らかに
自然科学を用いた発明、発見を指してるんで

「思案」の方にも
何か含蓄があるんだろうと思ったもんでして。
647人間七七四年:2009/11/25(水) 07:31:03 ID:KhORnkew
>>639
当時の嫁取りってホントに家との結婚なんだな
吉川元春みたいに、相手の父親の武勇にあやかったり

凄いと思ったのは賤ケ岳で討死した中川清秀の息子が
父の仇の佐久間の娘を懇願して貰い受けたってのはハンパないと感じた
家中の反対は現代の比じゃなかったみたいだし
648人間七七四年:2009/11/25(水) 08:24:56 ID:+B7Ctk4V
>>644
どう変換したら鳥帽子になるんだ?
649人間七七四年:2009/11/25(水) 08:47:51 ID:yy5t41lK
とりぼうしとな!?
650人間七七四年:2009/11/25(水) 11:55:02 ID:205lxD7w
>>647
中川秀成と虎姫の話は、マトメを探しても無いようなんだが・・・・
いい話だよなァ
651人間七七四年:2009/11/25(水) 13:55:02 ID:334STi7h
よくPCの画面で烏と鳥の区別がついたな。すげえ。
652人間七七四年:2009/11/25(水) 14:51:46 ID:S3KNHXkD
>>647
ロミオとジュリエットみたいな話だな
その話知らないので、どうかkwsk
653人間七七四年:2009/11/25(水) 14:57:38 ID:31AXLFR+
これか
http://ansokuwww.blog50.fc2.com/blog-entry-629.html

秀成と虎姫の話
2chのどっかで見た筈とおもってたら意外なところにあった
654人間七七四年:2009/11/25(水) 15:58:07 ID:bLofNM9w
>>653
脇からd
コメにあったけど三斎様みたいに敵の娘って立場無いだろうに
愛(?)妻家だな
655人間七七四年:2009/11/25(水) 18:01:14 ID:legBTp/t
>>654
一瞬誰だっけ?とか思ってしまったw
でも、たまの場合は味方のはずが静観決め込まれてお家滅亡だから、虎姫とは逆の立場だね

ところで三歳→たまはアレだけど、たま→三歳はどうだったんですか?
只只三歳からの愛を受け入れるだけだったんでしょうか?
656人間七七四年:2009/11/25(水) 19:11:40 ID:hJKQ2rJ5
ガラシャの内面までは分からないけど
キリスト教になんらかの救いを求めていたのは事実だし
657人間七七四年:2009/11/25(水) 19:40:00 ID:4v4PSgvW
>>644
年賀、つまり元旦に月代を剃った昔の人は
頭がすごく寒いわな。
無理もない話。
658人間七七四年:2009/11/25(水) 21:55:57 ID:fF6MnsCe
>>657
讃岐の鬼はそれで有馬温泉に湯治に行ったんだなw
659人間七七四年:2009/11/25(水) 22:06:34 ID:zeFtlztX
>655
「離婚したい!」て訴えてたって宣教師の報告書に書いてあるって
何かで読んだことが・・。
660人間七七四年:2009/11/25(水) 22:24:12 ID:hJKQ2rJ5
>>659
忠興公の愛は重すぎたのか
661人間七七四年:2009/11/25(水) 22:34:57 ID:MVXIvsu8
>>647
中川で思い出したけど池田輝政も家康の娘を貰ってるよな。
清秀の娘と輝政は死別?それとも離縁?
離縁だった場合は秀吉の仲介で泣く泣く離縁したのかな?
嫡男は利隆だけど。
中川家と池田家の仲は前田家と細川家みたいなのになったのかな?
662人間七七四年:2009/11/25(水) 22:44:27 ID:YMiJXDt8
>>653
重い人用にはこっち。

http://gnusoku.blog41.fc2.com/blog-entry-410.html

あの人はここ向きのネタを投下するわな。
岡部の黒鬼とか。
http://gnusoku.blog41.fc2.com/blog-entry-884.html

昨日の投下分では広瀬美濃を題材に徳川軍の悪い話を展開していたしw
663人間七七四年:2009/11/25(水) 22:59:04 ID:SLQraHzo
>>662
 だって、主人公からして……

 時々「やる夫で学ぶ戦国マイナー武将」になってる。
664人間七七四年:2009/11/25(水) 23:01:51 ID:hJKQ2rJ5
>>661
軽く調べてみたけど、正室・中川清秀娘、経室・家康娘で
清秀娘が生んだ利隆が跡目を継いでるし特に問題はなかったんじゃないかと思う

こいつも親父の仇の一人である家康の娘を貰っている上
親父を直接討ったヤツ認めているんだよな

逸話見ているとかなり出来た人物みたいで好きになれた
665人間七七四年:2009/11/25(水) 23:23:55 ID:Q1ZZOmQ/
>>661
瀬兵衛の娘・糸は1584年に利隆を生んだ後、病を理由に実家に戻り
そのまま離縁。(1615年死亡)1594年に輝政は督姫と再婚してる。

好意的に見れば、産後の肥立ちが悪すぎて妻の役目を
果たせないから身を引いたのかな、と…
666人間七七四年:2009/11/26(木) 01:27:28 ID:/FrVgjHR
長宗我部元親のパパ、国親さんの幼少のお話

1511年、千雄丸(国親)7歳の時、長宗我部家は周辺の豪族からボコられて城を失い
中村の一条房家の元に身を寄せていました。

ある日、一条家のみなさんが高桜(2〜3階の高層建築かな?)で酒盛りをしています。
房家「う〜い、良い気分だね、ほんっと。お〜、そこにいるのは千雄丸か〜。
  オイ千雄丸、今ここから庭に飛び降りたら家を再興してやるぞ〜ゲラゲラゲラ」
家臣A「房家様、そりゃムリってもんっスよ、どれだけあると思ってるんスか、ゲラゲラゲラ」
家臣B「あ、あの・・・房家様・・・・・・」
房家「ん〜、どうしたよ?」
家臣B「千雄丸のヤツ、飛び降りちゃいました・・・」
房家「ウソっ、マジ!?」

千雄丸はすぐに飛び降りた様です。子供で体重が軽いのが幸いしたのか、命は無事だった様ですね。
1518年、その時の約束かどうかは知りませんが、一条房家の助けもあり長宗我部家は
岡豊城に復帰します。
667人間七七四年:2009/11/26(木) 08:00:57 ID:GyLFU62o
>>666
ツに女ではなく米に女の楼ですな
でも家2,3階分の巨木の桜もあるかもしれないw
7歳ともなれば立派に跡取りの意識ができとるんやねぇ
(親が常日頃愚痴っていたのかも試練が)
668人間七七四年:2009/11/26(木) 08:15:32 ID:n4jwJw5C
直家と同じく没落した家を再興して、四国の雄に育て上げる土台作ったからね
やっぱりつき従ってくれている郎党の事を考えると、早熟になるんだろうな
669人間七七四年:2009/11/26(木) 08:51:16 ID:PWxql8Iv
親父さんは討たれてなかったっけ

このころには守護の細川は名ばかりだったのかな?
それとも阿波の系統が兼ねていたのかな

山名や畠山、斯波なんかもそうだけど、転換期に勢力が大きいと変化についていけてないよな
670人間七七四年:2009/11/26(木) 08:57:49 ID:KnUwCVHN
応仁の乱に深く関与したので衰退したんだろう
>細川、山名、畠山、斯波、佐々木、土岐
671人間七七四年:2009/11/26(木) 09:03:48 ID:n4jwJw5C
国親の父・兼序は守護の細川の権威を頼りに土佐で有力視されていたらしいけど
細川の没落に合わせて、他の国人たちに討たれたって流れだったと思う
672人間七七四年:2009/11/26(木) 09:28:26 ID:fHQQhh+b
そういえば秀次のいい話とかないのかなぁ。
やっぱラスボス周辺によって抹殺されたり、豊臣系大名が由緒書くときに小牧長久手関連でボロクソ
いったりしてるせいなんだろうか。
673人間七七四年:2009/11/26(木) 10:21:00 ID:MLKVud2f
豊臣秀次が百人一首の元祖である藤原定家筆の『小倉色紙』を手に入れ、聚楽第の茶席に
千利休らを招き、色紙披露の茶会を開いた。

時は旧暦初夏の早朝、まだ日も出ぬうちに利休らは茶席に入った。室内は亭主たる秀次が
いるだけで灯りも無く、ただ茶釜の煮える音がするばかりで、何とも言えぬ寂びた席だった。

「さて今日の秀次様は、どんな趣向であろうか?」
客たちが考えていると、利休の座った席の背後の障子が、ほんのりと明るくなってきた。
不思議に思って障子を開けてみると、残月の光が冴え冴えと茶席の床の間に差し込んだ。
「・・・さては!」
思い当たった利休が床の間の掛け物を見ると、果たして小倉色紙の一つが掛けられていた。

ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる
(ホトトギスの鳴き声が聞こえた方を見れば、その姿は既に見えず、ただ明け方の月が
空に残っていたよ。 ※ホトトギスは初夏の季語)

季節と時間を踏まえた演出に感嘆せぬ客はいなかったという、殺生関白、実は茶聖をも
驚かす数寄者だった話。
674人間七七四年:2009/11/26(木) 10:36:17 ID:YjTCLmFC
歴史的に見れば及第点を挙げられない為政者だったかもしれないけど、
豊臣家としては大事な中継ぎをトップの意向で消してしまったよなあ

実際に帝の喪中に殺生していたのだって秀吉だし・・・
675人間七七四年:2009/11/26(木) 10:40:58 ID:6OwAcq2l
>>673
公家的な感じも受ける話だけどラスボスはこういうの気に入らないだろうなあ…
676人間七七四年:2009/11/26(木) 10:48:58 ID:cA7z6Uvt
確か唐入りの時は朝廷と一緒になって中止を求めたんだっけ?
秀次が秀吉弟に変わるストッパーになれていたら
677人間七七四年:2009/11/26(木) 15:24:46 ID:rx4PgaG3
 細川は応仁の乱では没落してないよ。

 守護大名にありがちなお家争いもなく四国をがっちり支配、勝元の子・政元は幕府権力を独占してむしろ強くなってる(幕府自体が小さく、弱くなったから強いとは言えないかも)

そのままやってればいいのに、政元は変なことを言い出した。
「俺、魔法使いになる」

断食したり、とびあがったり、やおら真言を叫んだりと奇行をするようになった。政務を怠ったわけではないが、その影響は政元が死ぬと現れた。

「女とすると魔法が使えなくなるのか。じゃぁ俺生涯童貞!」
といっていたからだ。

さあー、四国にも戦国時代がやってきた。
政元の後継者の座をめぐり、南北朝以来四国を支配し強い団結力を示した細川家も分裂と凋落の時。

その後は家宰の三好、さらにその家中の松永が台頭するのはご存知のとおり。
678人間七七四年:2009/11/26(木) 15:27:06 ID:rx4PgaG3
すまん、悪い話スレに書くべきだった
679人間七七四年:2009/11/26(木) 16:47:19 ID:LEXgusa9
そういえばその伝説は戦国時代からの伝統だったなw

細川政元「魔法使いに俺はなる!」
上杉謙信「毘沙門天に俺はなる!」

北条氏照「そんな二人に憧れたら嫁がキレました」
680人間七七四年:2009/11/26(木) 16:50:49 ID:7FiLlgLs
実はリアルに、「上杉謙信は細川政元の影響を受けている」って説があるなw
681人間七七四年:2009/11/26(木) 17:12:39 ID:Fiq7Ik2Y
謙信は戦に勝つ魔法が使えたわけだが、政元はなんの魔法が使えたんだろう?
682人間七七四年:2009/11/26(木) 17:13:58 ID:sPvveicN
細川政元が信仰したのが愛宕権現の飯綱法で、謙信も愛宕権現を信仰していた可能性があるんだっけか?

あと>677 の説明は、「女とヤらずに子供が出来なかったから養子を取り捲った結果、政元死後に分裂した」
の解説の一文が欲しいな。

ちなみに、政元死後から信長による将軍義昭追放まで、畿内での戦争の根本原因は、
この分裂した政元の養子たちによる相続争いまで遡れる。
ほんっとハタ迷惑なことしたもんだ。
683人間七七四年:2009/11/26(木) 17:21:15 ID:b7Qr5cQ7
それでいて本人は優秀なものだから余計にたちが悪い
684人間七七四年:2009/11/26(木) 17:24:15 ID:7FiLlgLs
>>681
実は政元も戦争はかなり強かったし、配下の武将も強者ぞろいだった。
ただ異常に気分のむらの激しい人だったが。

あと、政元暗殺の後の京兆家分裂は実は、養子の澄之と澄元の戦いの結果、
澄元の勝利で一旦は収束したんだが、分家であり、澄元の勝利に非常に
大きな役割を果たした野州家の細川高国が突然

「実は俺政元様の養子だったんだよ!」
「ナ、ナンダッテー!?」

って、京兆家の家督を宣言して、これで畿内がしっちゃかめっちゃかになった。

ちなみに謙信の父親の長尾為景は、この高国のバックアップで
越後支配が出来た。
高国さんはこの為景に限らず、全国いろんなところに手を出して
戦国の混乱が深化する手助けをしてたw
685人間七七四年:2009/11/26(木) 17:46:17 ID:LEXgusa9
>>681
なんか「空も飛べるはず」って言って屋形の屋根から飛んでたらしい
魔法使いだし飛べたかもな
686人間七七四年:2009/11/26(木) 17:51:10 ID:uYeCOPoN
⊂⊃                      ⊂⊃
        ⊂ \        /⊃
          \\ /政ヽ//
   ⊂⊃  ((   \( ^ω^)    ))
            /|    ヘ       空も飛べるはず
          //( ヽノ \\
        ⊂/   ノ>ノ    \⊃
             レレ   スイスーイ   ⊂⊃
           彡
\____________________/

                 (⌒)
                   ̄
                O
               。
          /政ヽ
   ⊂二二二( ^ω^)二⊃
        |    /       ブーン
         ( ヽノ
         ノ>ノ
     三  レレ
687人間七七四年:2009/11/26(木) 17:55:40 ID:fHQQhh+b
>>673
おお、いい話あるんだthx。だけど、大名っぽくないいい話具合が>>675もいうようにラスボスに受けなかった一因かもしれないネェ
>>674近江八幡での治世は結構いいものだった、とかいう話もどっかで聞いたし秀忠くらい世の中が安定した状況で跡継ぎに
なったらもっとマシだったんじゃないかと思うんだ。評判とか末路とか。
688人間七七四年:2009/11/26(木) 17:56:48 ID:Nr24p3OJ
政元さん未来に生きてんな
689人間七七四年:2009/11/26(木) 18:38:50 ID:pifZ1gKr
>>684
高国さんの行動力は凄いよね。良いか悪いかはともかく・・・
690人間七七四年:2009/11/26(木) 19:01:38 ID:6xDQyVQp
花の乱での勝元って
山名宗全が死んだあとの勝元の最後の描写では死なずに、
なにかを悟ったのような表情をしたあとに、
ゆっくり目を閉じてあぐらをかいたまま宙に浮かんで解脱したのか?
いきなりこの世から消えたよねw
野村万斎の演技力すげぇ。
691人間七七四年:2009/11/26(木) 20:31:11 ID:onk/wupr
>>682
直江兼継の愛の前立も愛宕権現の愛じゃないかって話があったけど
そういう事情があったんだね。
692人間七七四年:2009/11/26(木) 20:37:44 ID:PWxql8Iv
愛染明王よりもらしいよね
693人間七七四年:2009/11/26(木) 20:42:45 ID:7FiLlgLs
あの愛の兜は、もともと景勝の所有していたものを、直江に
下賜されたものらしいそうで。
そう言う意味では愛宕権現のほうがそれらしいだろうね。
694人間七七四年:2009/11/27(金) 01:15:12 ID:spw/bAjP
景勝の気持ちをこめたプレゼントだったんだな
景勝も意外とだいたんだな…
695人間七七四年:2009/11/27(金) 01:43:02 ID:a3yT9WGX
細川家は阿波とか野洲とか分家が多すぎてわけわからん
幽斎は分家の出身だけど養子で細川の血は入ってないんだったっけ?
696人間七七四年:2009/11/27(金) 01:56:08 ID:kxQ15inE
いや、幽斎の父が細川和泉上守護家から三淵へ養子に入って生まれたのが幽斎
その幽斎の長男である忠興は奥州家へ養子に入った。
697人間七七四年:2009/11/27(金) 05:27:43 ID:e44G+zZi
書きかけで放置してたら、姉妹スレで関連逸話が出てたから急遽仕上げた


宮崎城攻防戦あれこれ

世間では政宗と氏郷のやり取りや、秀吉と政宗の鶺鴒の目問答ばかりが注目される葛西大崎一揆
その中でも激戦だったと伝わるが、あまり知られていない宮崎城攻防戦に関するお話


宮崎城は東と南が川に面した断崖上にある堅固な山城であり
そこに籠るは旧大崎家中でも武闘派で知られた笠原党で、旧主・大崎義隆の子も迎えていよいよ士気も高まっていた

これに対し政宗は降伏を促すが、士気の高い笠原党は拒否

一揆への関与が疑われていた政宗は、早々に宮崎城に攻め寄せ銃撃戦が始まり、断崖上で有利な宮崎勢は休み無く撃ちかけた

撃ち続ければ当然に銃身が熱をもち撃てなくなるが、笠原党を率いる嫡流の宮崎隆親は
「鉄砲焼ければスズメのはかま(カタバミ)という、草を揉み、それで拭えば冷めていつも通りだ」
と、兵を励ました

そんな勢いで撃ちかけられた伊達勢も無事ではすまない
政宗は狙撃されたが、馬取りに当たり寸でのところで難を逃れた

これに怒った政宗は
(♯●Д゚)「大将を狙うとは!目に物見せてやる!」
周囲の兵を励ますと、城の東の沢に向かって一文字に突撃したが、跡に続いた家臣に
「大将の深入りは無益です!もし怪我したらどうするんですか!?」
と、諌められた
698人間七七四年:2009/11/27(金) 05:29:01 ID:e44G+zZi
このように膠着した戦況を打開しようとしたのが、歴戦の知将・浜田伊豆景隆である
景隆は大手口の水掘を切って攻め寄せようと、土塁に取り付き指揮を執った

これを見た政宗は
(;●Д゚)「浜田が深入りした、危ない!」
と呼びかけたが、景隆は城中より狙撃されて弾が鎧を貫き落馬してしまった
従者達は介抱しながら後方に引いたが、傷は致命傷だった

景隆は
「我、主の為に死ぬのは武士の常だ。急所に当たったので死は間違いない。
 だが、敵が果てるのを見ずして死ぬのは口惜しい。
 今、死を遂げたなら、鎧を帯びたまま城と真向かうように立った姿で埋めよ」
と、言ったかと思うと息を引き取った

景隆は遺言通りに鎧を着て立った姿で埋葬されて、墓は現在も宮崎の地にある
また、その時に着ていた血染めの鎧下着が仙台市博物館に保管されている

これに奮いたったのは、良きライバル関係にあった原田宗時と後藤信康である
信康は夜中に抜け駆けして城中に侵入したのだが
「随分と早駆けだな」と声を掛けられた
振り返れば、なんと宗時も抜け駆けして城内に侵入していたのである
二人は門を破り味方を引き入れ、遂に宮崎城は落城したのである

まーくん的にちょっと格好悪い話なので、どちらのスレに書くか迷ったけど
全体的には死しても城に対する浜田伊豆や、大崎家中の意地を見せた笠原党等
いい話寄りなのでこちらに
699人間七七四年:2009/11/27(金) 09:54:13 ID:MdkkdCPv
原田宗時と後藤信康のいい話でもあるな。
どうせ死ぬなら御家のためってか。
700人間七七四年:2009/11/27(金) 09:59:53 ID:nfl8w+l/
藤孝は藤孝で、将軍御落胤の噂があるよな
ある意味しっちゃかめっちゃかになった後で育ってよかったな>藤孝
701人間七七四年:2009/11/27(金) 10:41:48 ID:0hj68T+E
顔文字があるだけで読む気がしない
702人生七十四年:2009/11/27(金) 11:31:45 ID:0Aaw2FHC
こないだ、天地人巡りで雲洞庵に行ってきたんだが、ここって武田とも関係があったんだな。
ってことで武田信玄から雲洞庵への書状

龍雲寺の道場開きの様子が聞きたいと思っていたやさき、おつかえの僧がこられ、
特に修行参加僧が五百人余もあつまったとのこと。
まことに和尚の優れた得によるのはいうまでもないことであります。
当国の宗門の規則どおり修行工夫をきわめ、又毎日の夏季の修行を通し、
禅の規則を怠らぬよう、修行僧達をおしかりくださるのがよろしいかと存じます。
くわしいようすは又書状でおしらせいただきたいと思います。

雲洞庵末寺龍雲寺を開いたときの信玄の書状らしいです。
雲洞庵との心温まるいい関係がのぞける話です。

まあ謙信と仲が悪かった長尾政景とよしみを通じるためって理由があるんですがね。
宇佐美ダイブの理由のひとつなのかも。
703人間七七四年:2009/11/27(金) 11:40:35 ID:TW+PMfzV
>>701
読むか読まないかは自由なんだから、いちいち報告すんなよ。
黙って読むな。
704人間七七四年:2009/11/27(金) 14:20:06 ID:4mEi3P7V
読まないとか読んで貶すとかはともかく読まずに貶すのはどうかと思う
まあ読んで貶すを繰り返すとだいたいのスレは廃墟になりますが
705人間七七四年:2009/11/27(金) 20:19:41 ID:8Lwsyyq/
>>684
将軍復位なんてレアな偉業?がどうでもよくなるくらい、管領の血筋がデタラメやっとるンだよなーw
706人間七七四年:2009/11/27(金) 22:09:02 ID:tFCTGvlQ
でも顔文字つかった、はしゃいだ文章はたいてい内容もつまらない
707人間七七四年:2009/11/27(金) 22:33:58 ID:8OdEgxaF
>>706
だからお前の為に書いてるわけじゃないし、お前個人の書き方に対する
感想なんて誰も聞いてないから。

気に入らないなら黙ってスレから離れてブログでも始めて好き勝手やれば?
708人間七七四年:2009/11/27(金) 22:46:08 ID:WKQPHAOM
無駄な言い合いはその辺にしとこーや、不毛だから
709人間七七四年:2009/11/27(金) 22:46:46 ID:A6oloCxG
ただのレス乞食なんだからスルーしろよ
710人間七七四年:2009/11/27(金) 22:51:34 ID:I9fbLxhZ
まあちょっと同意だな
妙にウケ狙いしないで普通に書けばいいのにとは思うな
711人間七七四年:2009/11/27(金) 22:53:03 ID:IiICFUvM
終わった話題を続けようとするのもスレ乞食の同類な。
712人間七七四年:2009/11/27(金) 22:57:41 ID:Gi/Y6tUi
歴女ってやつなんかね?
713人間七七四年:2009/11/27(金) 23:25:32 ID:IiICFUvM
ある時前田利家の元に、福島正則より鯉二尾が送られた事があった。

利家は家臣、江守平右衛門に命じ、これへの礼状を書かせた。
江守はそれを

『鯉二尾到来いたした、満足である』

と、書いた。利家はこれを見るとたちまち顔を曇らせ

「正式な書状には故実などがあるのだろうが、こういったものは、
なるべく先方を敬い、『御意に架けられ忝く』と書くべきだ。
同輩より下の者に書状を出すときは、慇懃に書いておくほど、それを受け取った
先方では、いっそう忝く思うものである。

下輩であるからといって相手を見下すような文章を書けば、
『こちらとそちらとでは、これほど位が違うのですよ』と言っているのと同じ事であり、
相手にいらぬ推量をさせてしまうだろう。
そのような、自分の位をひけらかすようなことは、小身で、しかも愚かな者が
好むものだ。」

そう言ってこれを書き直させたそうである。
714人間七七四年:2009/11/27(金) 23:30:28 ID:WKQPHAOM
江守使えなさすぎだろうw
715人間七七四年:2009/11/28(土) 00:26:38 ID:S1a8om8X
>>713
さすが出世する人間は違うな
やっぱりこういう簡素な文が読みやすくていいわ
716人間七七四年:2009/11/28(土) 00:50:47 ID:4ddL+kNJ
一筆啓上
御意架け忝
鯉二尾到来
満足也
717人間七七四年:2009/11/28(土) 01:07:25 ID:aIzK7CbD
新説:江守=本多作左衛門となw
718人間七七四年:2009/11/28(土) 02:38:20 ID:F8aso/j4
相手が福島正則だし、読む人の頭に合わせてあげただけなんじゃ?
719人間七七四年:2009/11/28(土) 08:18:08 ID:zp6qLNeM
真説?三成と干し柿

捕縛された石田三成に茶が饗された。

この時、そこの給仕係の老婆が気を利かせて
「デザートに、良かった干し柿でもいかがですか?」と
聞いてきた。

これに三成

「お主がそうして気を使ってくれるのはありがたいが、先日以来腹を壊してな、
まだ回復しきっていないのだ。こう言う時に柿は禁物だと言う。
すまんが、結構だよ。」

と、柿を断り茶ばかり飲んでいたそうだ。
後で小西行長がこれを聞いて

「どうせ首を斬られる身ではないか?その老女の気持ちを汲んで、
柿を食えばよかっただろうに。」

と言った。これに三成

「お主は解らん事を言う奴だ。『今日刑場に引き出され首を打たれる』と言う瞬間まで、
世間がどう変化するか予測のつくものではない。
それ故に、わしは未だ、身の養生をするのだ。」

そう、答えたとのことである。


どうもこれが、この逸話の一番古い形のようですね。
720人間七七四年:2009/11/28(土) 08:44:57 ID:PFlDhZ3u
福島も家臣に命じて読み上げさせるんじゃね?
字が読めないかもしれないんだし
721人間七七四年:2009/11/28(土) 08:50:43 ID:1j481UZF
痰の毒になるとかいう気の長い話ならともかく、腹壊してる時に
消化の悪い柿は良くないという話なら、単純に食べたら即悪化して
首を切られるまでに辛い思いして見苦しい事になるかもしれない。
断って当然の話になってしまうじゃないか。
小西行長とのやり取りの意味も不明になってしまうぞ。
722人間七七四年:2009/11/28(土) 10:49:16 ID:pqUb+cO2
最後のセリフを本心とするなら、腹を壊しているからという理由は
老婆への気遣いで、断った本当の理由は違うところにあるという話では。
それであれば「痰の毒」への変化もわからんではない。
723人間七七四年:2009/11/28(土) 12:33:57 ID:IRrEQsC8
>>722の解釈が当然だろうに。
724人間七七四年:2009/11/28(土) 15:15:59 ID:Ox4vkaGz
内政でちょっとイイ話?
三好長慶 用水水論の裁定

摂津国や山城国の国人達が水論の裁定を求めて、何度も芥川山城へ文書を提出していた
芥川山城は地元の水論の裁定場となっており、政庁としての側面も帯びつつあった。
天文23年頃より村同士で用水水論が起こっており、長慶は最初、地元の国人・土豪の判断を尊重したが
両村では長慶の被官クラスや土豪の裁定では納得しなかった。
三好家奉公・多羅尾綱知の書状によれば、長慶の裁定を仰ぎたいとの村側の意見であったと言う
当時の村々が相論の裁定者として地元の土豪達ではなく上位権力の三好長慶に期待していた事が理解出来る
このような大名が用水水論に介入して裁定した例として北近江の浅井氏などがある

また芥川下流の2つの村で水論が発生した。芥川の取水口をどこに置くかで川を挟んだ隣村間で争っており
これに対し長慶は裁定を下し両村には長慶の裁許状が残っており、勝訴した村は後世の水論の際にも根拠にしていた。
その資料は村を統治する権門側ではなく両村が大切に保管し、高槻歴史資料館に展示されている
そして現在も長慶を「水の神」と称し芥川山城の主郭に彼を祀る祠を置いている

祠は1820年に築と時は経ってるけどね
725人間七七四年:2009/11/28(土) 17:44:15 ID:zp6qLNeM
>>724
こう言うところからも、三好は既に幕府から独立した畿内の上位権力として
成立していたんだよねー。
それもほぼ確立していたのに、三人衆と松永の分裂が台無しにしてしまった。
726人間七七四年:2009/11/28(土) 20:51:21 ID:1j481UZF
>>722 >>723
いや…書き方おかしかったか。腹壊してるなら断って当然なのに、
なんで小西は食えば良かったのになんて言うんだという意味だったんだが…
ごめん。後世の創作だって前提で作り方おかしいだろとツッコミしてた。
727人間七七四年:2009/11/28(土) 21:00:57 ID:zp6qLNeM
>>726
小西は
「例え腹を壊していたとしても、どうせ死ぬ身なんだし、せっかくの
老婆の好意なんだから、むげに断らず好意としてそれをありがたく
受ければよかったじゃないか。」

と言っていて、三成は
「死ぬギリギリまで何が起こるのかわからないのだから、
そのためにも体調は保っておかないといけないものだろ。」

と言っている。

他人の好意と言うものは多少無理してでも受け入れるべきものだ、と言う小西と、
あくまで自分本位、目的本位であろうとしている三成、と言う対比で見ても面白いかと。
728人間七七四年:2009/11/28(土) 21:51:46 ID:z6Z7rYyI
相手の立場で物事を考えるのが苦手だったのか、
相手の言動の意を汲み取ることが下手だったのか…
どちらにせよ三成は、コミュニケーションに必要な何かが欠けている印象を受ける
729人間七七四年:2009/11/28(土) 23:34:07 ID:5V6x/er1
>>443
亀な上にスレの趣旨からちょい離れるがレスしてみる。
もし誰か話続けるなら適当なスレに誘導お願い。

隆景系の小早川旧臣が石田家にいたのは確かっぽい。
秀秋の越前転封のごたごたの時、筑前の代官が三成だったことと、
隆景の急死で遺領と遺臣の処遇が問題になった関係と思われる。

ただ、石田家臣になったのは高尾又兵衛とか神保源右衛門とか筑前の隆景隠居領の
現地統括者なのでそもそも武辺者ではなさそうだし、関ヶ原に参陣してるかどうかは知らぬ。
萩藩の曽根氏の所にも石田家に仕える話に関わる文書が残っているとのことだが、
実際には当主高房は毛利に戻っており、関ヶ原の際に伊予で討ち死にしている。
ググると曽根高光という小早川家臣が石田家に仕えたと出てくるが、実際に石田に仕えた高房の縁者がいたか
もしくは何かの記録から変な伝承だけが残ったのかも。

ちなみに関ヶ原時も秀秋の所に残っていた国司、日野、草刈あたりは改易後に毛利に戻ったらしいが
石田家中の隆景旧臣はどうしたんだろ。
730人間七七四年:2009/11/28(土) 23:38:52 ID:D9+mQiCX
三成「腹壊してる時に柿なんか食べて家康みたいに糞漏らしたらどうすんだ。
731人間七七四年:2009/11/29(日) 07:37:08 ID:/GFuqt/E
石田三成は2ちゃんでは評価低いが治績や逸話から判断しても意外に名君だと思う。
732人間七七四年:2009/11/29(日) 08:24:53 ID:DPSys49T
人との軋轢を起こしやすいから性格的なものに関しては評価が低いが、
内政能力に関しては戦国時代を通してもピカイチだ罠
733人間七七四年:2009/11/29(日) 08:59:49 ID:sOt9bh1S
2ちゃんでの評価は低くても歴女にはツンデレとして大人気
734人間七七四年:2009/11/29(日) 10:10:26 ID:CJ8dkeAg
官僚としちゃ一流
武将としちゃ贔屓目に見て二流から準一流
ただし戦国人としちゃ三流
って人だよな三成
皮肉だが江戸時代に生まれてたら良かっただろうなあと本当に思う

ただ栗山大膳みたいなやつになっていた可能性もあるけど
735人間七七四年:2009/11/29(日) 10:13:50 ID:spyHpnBR
このスレでさんざん言われてるが一番似てるのは本多正純だよな。
736人間七七四年:2009/11/29(日) 11:00:13 ID:ED1iOR/V
本多正純のイメージって

大坂城をぶっ壊し
広島城無断修築をでっち上げ
宇都宮城を魔改造した

城郭マニア
737人間七七四年:2009/11/29(日) 12:28:04 ID:bNEmwE/r
本多正純をスケールでかくした感じかな
正純じゃ到底、天下分け目の戦いまでもってこれそうにない
なんだかんだ言われつつも、十九万石ぽっちの分際で天下まであと一歩だったのは大したものだ
もっとも三成が勝てば勝ったで、家康同様に嫌〜な政権だったろうな
738人間七七四年:2009/11/29(日) 13:09:55 ID:YwegwTl4
2ちゃんで評価低いのか?意思疎通障害の同族嫌悪かのう・・・
739人間七七四年:2009/11/29(日) 13:18:21 ID:m9aNkWtl
>>735
確かによく見るが、先代の為に働いて次代におとなしく潰された、ある意味
最初から最後まできっちり仕事した本多正純を外様担いで内乱起こした
石田三成といっしょにするのはどうかと思うの
740人間七七四年:2009/11/29(日) 13:27:56 ID:mhLnZq6g
みんな馬鹿なんだもん
741人間七七四年:2009/11/29(日) 13:39:30 ID:VRoN2tnx
>>738
好き嫌いと評価は別。
意思疎通能力をとやかく言う以前の問題だ。
742人間七七四年:2009/11/29(日) 13:40:38 ID:aA4Q8/++
石田三成は融通の利かないまっすぐな人って感じかな
743人間七七四年:2009/11/29(日) 13:43:13 ID:r16XvdFn
オレも本多正純と石田三成を一緒にしてほしくないな
正純が天下分け目の戦なんてできないってのは同意だけどね
そんな野望もないだろうし、何より自分が矢面に立つタイプじゃない
744人間七七四年:2009/11/29(日) 14:17:10 ID:YwegwTl4
>>741
いみふ
おまいも三成か・・
745人間七七四年:2009/11/29(日) 14:24:20 ID:hDvGIcEB
気持ち悪いのが一匹いる
746人間七七四年:2009/11/29(日) 15:31:33 ID:HDFqLx4N
あれっ?
悪い話のスレがふたつあるぞ???
747人間七七四年:2009/11/29(日) 16:11:47 ID:/GFuqt/E
>>743
三成の野望か。関ヶ原で勝ってたらこのスレ的にもおもしろい逸話たくさん出てきたろうな。
748人間七七四年:2009/11/29(日) 16:23:04 ID:VkH8XPCg
スケールの大小はともかく、空気読めないという点で三成と正純とついでに兼続はよく似てる。
749人間七七四年:2009/11/29(日) 17:00:56 ID:uRg4LvjV
鍋島直茂公が、ある時こんな事を語った。

「世の中の人ってみんな、自分と気の会う人間とばかり一緒にいようとするよね。
だけそ、そう言う人との付き合いがいつも思い通りになるかと言うと、そう言うわけじゃ
ないだろ?

一度試しに、気の会わない人間とも親しくしてみようよ?
絶対何か、お互いに得る物があるはずさ。

これは友達付き合いに限った事じゃなくて、そもそも仕事だって、最初『これは辛い仕事だ』
って思えるものほど、やり遂げれば身の為になるだろ?それと一緒なんだ。
人との付き合いも、最初にどうにもとっつき辛いと思う人と、かえって長年にわたって
いい関係でいられたりするものなんだよ。」


そんな直茂公の、対人関係についての心得。
750人間七七四年:2009/11/29(日) 17:27:08 ID:MkG/fVtm
>>749ひょっとして
『おれ本当はクマー隆信兄貴とあんまし気が合わなかったんだけど、
仕事きっちりして竜造寺一門とも信頼関係を築いてきたからこうして藩政を預かっているんだぜー』

って意味かね。穿ちすぎか
751人間七七四年:2009/11/29(日) 18:11:41 ID:r16XvdFn
よーし、三成・正則ペア、政宗・兼続ペア、正信・忠隣ペアでトリプルデートだ!
752人間七七四年:2009/11/29(日) 18:30:34 ID:bNEmwE/r
アッー!
753人間七七四年:2009/11/29(日) 18:34:20 ID:ED1iOR/V
>>751
それだけ揃ったら閻魔大王でも生き延びることは出来ないだろ。
754人間七七四年:2009/11/29(日) 18:37:26 ID:wwalKvEl
クマー兄貴と気が合いすぎるヒャッハーな奴ばかりだと困る気もする。
百武さんも泣いて出陣しないぐらいだし。
755人間七七四年:2009/11/29(日) 19:54:53 ID:wnNjsD+u
三成に足りない点はダメな事をする主君にドロップキックをかます
三河武士的ガッツ
756人間七七四年:2009/11/29(日) 19:58:36 ID:ED1iOR/V
>>755
夏目は家康を蹴ったんじゃなくて、ぶん殴ったはず。
それで家康は脱糞した。
757人間七七四年:2009/11/29(日) 20:01:01 ID:r16XvdFn
三成に三河武士属性が加わったら、半端じゃないめんどくささになるぞ
758人間七七四年:2009/11/29(日) 20:24:44 ID:YyiG/E5Y
悪い話でもないと思ったのでこちらに投下。


千菊姫への形見


千菊姫は、伊達政宗六十歳の時、最後に生まれた子供である。
後に京極高国に嫁いだが、
父である政宗の死が迫っていると知り、
再三会いたいと書状を出した。千菊姫、わずか10歳の頃である。
病床にあった政宗は、千菊姫からの書状を見、
まだ幼いのに良い文だと褒め、またその気持ちがわかるだけに不憫だと思った。
同時にしとやかに育っていると聞く娘の成長を喜んだ。
かわいい末の子供である。やはり会いたい気持ちは父にしても同じ。
だが、病床の自分の事を思うに、やはり会う訳には行かない。
そのため、返事を書くことにして、硯を引き寄せた。
しかし、側の者に体を支えられてようやく筆を取るが、思うように筆が進まない。

「どうしても書けぬ。一字を書くのさえやっととは、無念だ。
会いたいが、会えぬ訳がある」

そう言って、書きかけの書状をそのままくるくると巻いて側近に渡し、
それを形見として千菊姫に渡すように伝えた。

老いて病床にある姿を子供に見せるのは忍びなかったのだろう。
ある時には刀に手をかけ、「今天下に大乱あれば、
子供達に戦の作法を見せてやるのに」と涙をこぼした政宗は、
寛永十三年五月二十四日卯の刻、息を引き取った。
その日ホトトギスが何処からか飛来し、ずっと鳴き続けていたという。
759人間七七四年:2009/11/29(日) 21:09:03 ID:mACfveO9
これは・・・ちょっと泣けたぜ(´ぅω;`)
760人間七七四年:2009/11/29(日) 22:06:20 ID:Y6kQuQK/
たまに妻を寄せつけずに小姓を侍らせて云々て言われるけど、やっぱそういうのじゃなかったのかな。
761人間七七四年:2009/11/29(日) 22:07:28 ID:n37auJma
>>732
領地の民政を取り仕切っていたのは三成の父で
領民と親しく言葉を交わすような人格者だったそうな。
関が原では佐和山に篭城し、自刃。
友情云々よりも父兄の恩のほうが、三成には大きかったんじゃないだろうか?
762人間七七四年:2009/11/30(月) 07:58:06 ID:HYZx5eMd
六十歳になっても娘を作れた政宗の精力におっきした
763人間七七四年:2009/11/30(月) 08:27:09 ID:kdO7xvV7
毛利元就「わしも負けられんな!」
764人間七七四年:2009/11/30(月) 09:08:56 ID:OcqpXmC1
徳川家康「やれやれ、エロジジイにもほどがあるぞ」
765人間七七四年:2009/11/30(月) 09:44:52 ID:KF1Eqhhi
小十郎Jrの嫁に「もう少し若けりゃワシが仕込んでやるのにのう」とか
おどけてたくせに現役かよ、食えない爺さんだなw
766人間七七四年:2009/11/30(月) 09:47:34 ID:0Njn8Y0t
>>765
この年では今の側室だけで手一杯じゃ、

という意味で打ち止めだという意味ではありませんということだろう
7671/2:2009/11/30(月) 10:54:43 ID:1FAFCs1K
少年が主君に従って戦い退こうとした時、敵の老武者が傷つき倒れているのを見つけた。
「陣屋までお送りしよう。お名前は?」
「・・・名乗るほどの者ではない。敵の情けは受けん、斬れ!」

少年がこれを聞かず老武者を敵陣まで送り届けると、老武者の甥と名乗る者たちが現れて
丁重に礼を述べた。重ねて少年が名を聞くと、彼らは腰に帯びた瓢箪を外し、
「叔父の名誉のため、我らからは名乗れん。これを持って貴殿のご主君に見せれば良い。」
と言って少年を帰した。
主君に瓢箪を見せると、主君は「これは勇士、牛久隆直のものだ。大切にせよ。」
と少年に教え、瓢箪を渡してくれた。

少年は瓢箪を馬印にして奮戦するようになり、敵は瓢箪の馬印を避けるようになった。
ある日、馬印を失った少年は、敵の武者と渡り合い、組み伏された。
まさに敵の刃が振り下ろされるその時、少年の顔を見た敵は、みずから首を刎ねた。
不審に思った少年は、起き上がって敵の顔を見て驚いた。

かの老武者の甥、牛久隆直その人だった。
7682/2:2009/11/30(月) 10:55:28 ID:1FAFCs1K
成長した少年は原美濃守虎胤と名乗り、甲斐の武田晴信に仕えた。
天文23年(1554)、駿河加島で武田と北条が対峙した時、虎胤は故あって北条軍にいた。

味方の苦境を見た虎胤は、太田氏資を連れて敵陣に駆けこみ、小畠虎盛と挨拶を交わし、
馬場民部の備えを素通りし、小山田弥三郎の備えに突っ込んだ。
氏資が例の棒で当たるを幸い、武田の騎馬武者を七、八騎もなぎ払っている間に、虎胤は
無事に傷ついた味方を救い出して退いた。

小山田はかつての同僚に敬意を表して、「美濃守が敵前での馬の乗りよう、しかと見よ。」
と部下に言って深追いしなかったが、近藤右馬丞という侍が名乗り出て虎胤に迫った。
虎胤は「殊勝な心掛けよ。」と言いながら太刀を抜くと、あっという間に近藤の首を二度三度と
みね打ちして落馬させた。

そこへ氏資が「さあ、見せしめにしてやる!」と叫んで近藤に棒を叩きこもうとしたが、虎胤が
これを止め、
「この者は、甲州でわしの所にも出入りしていた者だ。命だけは助けてやってくれ。」
と言うので、氏資もしぶしぶ引き上げた。

当時、『鬼美濃の眼にも涙』として、評判になったという。
769人間七七四年:2009/11/30(月) 14:14:40 ID:E7Mcu0ml
戦場の混乱の中、甲冑つけて顔が血と埃で薄汚れていても
同じ釜の飯を食った同士は見分けられるものなんだなあ。
770人間七七四年:2009/11/30(月) 14:27:28 ID:cMaf4noL
おお、舅殿ではござらんか!
挨拶代わりの鉄棒クラエ!!!な康資と氏資ほとんど思考回路一緒じゃんw
制止出来た原さんカコイイ!!!
771人間七七四年:2009/11/30(月) 14:43:27 ID:5ektwmHw
太田ヒャッハーを止めるって初代鬼美濃どんだけ強いんだよw
772人間七七四年:2009/11/30(月) 17:37:50 ID:1sj8AJ1X
>>770-771
鬼とも云え夜叉とも云え、豆撒くが本にて候

自分が鬼だからこそヒャッハー太田一族のあしらい方も身に付けていたんだろうか
773人間七七四年:2009/11/30(月) 21:18:16 ID:6pwbTB9p
北条氏康が隠居をした後の事、
彼がある時、北条を継いだ息子、氏政に尋ねた事があった。

「氏政、お前は今、何を以って楽しみとしているのか?」

「は。私は今家臣の中から、能力のあるものを選び出す事を楽しみとしております。」

氏康、うなずいて
「それでいい。…が、一言忠告しておこう。
大将たる者が家臣を選ぶのは普通にあることだが、家臣が大将を選ぶ、と言う時もある。

普段から氏卒を愛し、諸近に憐れみの心を施していなければ、いざ合戦と言う時必ず、
士民は領国から逃げ出し、他国のより良い将の元へと行ってしまうだろう。
だからこそ、士卒を愛し、庶民を憐れむ事を、大将の職分と言うのだ。

氏政、お前は良くこれを守り、この職分を家老に任せるようなことは絶対にしてはいけない。
いいな?人心が自分から離れてから、俄に甘言を振りまいても、
誰も付いては来ないものだぞ?

士卒に少しでも功があれば、それを忘れる事無く、即座に褒美をし、ますます
励ませるようにするのだ。
下々の功績を正当に褒賞する事無く、功績だけを我が物として盗むような真似だけは、
絶対にしてはいけない。」

北条氏康の、人を使う者としての心得である。
774人間七七四年:2009/11/30(月) 22:43:17 ID:monIG+mO
>>762
戦国最高齢子作り記録って誰だろ?
775人間七七四年:2009/11/30(月) 22:53:38 ID:MbcfMkHq
金森長近の82歳かなぁ?
776人間七七四年:2009/11/30(月) 23:51:49 ID:yuqhCGsd
それで、母親が10代とかだったらどうしやう
777人間七七四年:2009/11/30(月) 23:58:02 ID:6kk7IQqH
     |┃三          /::::::::ハ、\、::::::::\\::::::::::::',
     |┃            i:::::::イ  `> ー─--ミ::::::::::::|
     |┃            {::::::::|    ::\:::/::::  \:::リ-}
 ガラッ. |┃            ',::r、:|  <●>  <●>  !> イ
     |┃  ノ//        |:、`{  `> .::  、      __ノ
     |┃三          |::∧ヘ  /、__r)\   |:::::|
     |┃            |::::::`~', 〈 ,_ィェァ 〉  l::::::》
     |┃            |:::::::::::::'、  `=='´  ,,イ::ノノ从
     |┃三         ノ从、:::::::::`i、,, ... ..,,/ |::::://:从
778人間七七四年:2009/12/01(火) 00:06:46 ID:WCciK+hr
>>773
氏康はほんとに小言が多いなw
それくらい氏政をかわいがってたんだと思うが
779人間七七四年:2009/12/01(火) 12:54:09 ID:sIM0CEiN
これは本当だろうか? そうだとしたら学問を普及させた家康のいい話なんだが。

583 人間七七四年 :2008/10/18(土) 15:16:40 ID:fgpTngI3

学問のこと

慶長八年ごろのこと、林羅山や遠藤宗務、松永貞徳といった人々、がそれそれの研究している
「四書新注」「太平記」「徒然草」などの、一般の人々への公開講義を行う事を企画した。
人々の間に、学問を広める事を目的とした者である。

ところがこれに、儒学を家学とする清原家などの、京の伝統的な学派が異議を唱えた。
そして彼らはこれを禁止させるため、家康の元に、今川氏真を派遣した。

氏真は言う、
「学問とは、代々それを受け継いだ師が、その伝統の秘伝を含め弟子に教え伝えることで始めて成就するものです。
それを公開し誰にでも学べるようにする、などと言う事は、学問そのものを破壊してしまいます。」

家康はこう答えた
「師につかなければ、学べないようなものは、学問ではない。芸だ。
学問とは、何から学ぼうが、学ぶ者の努力次第で、天下万民、誰でも会得できるものでなければならない。」

こうして、公開講座は無事開かれた。さらにこの講義内容は出版され、日本全国に知的な興奮を巻き起こした。
一部の人々にのみ伝わっていた「徒然草」が、日本人に「再発見」されたのも、この時である。

学問の世界が、中世から近世的なものへと切り替わった瞬間とも言われる、有名なお話。
780人間七七四年:2009/12/01(火) 13:56:12 ID:voEUVQZC
家康自身がいろんな師匠からさまざまな知識・技術を
学んだ人だからそういう事はあったかもね

まあ深くツッ込みたいなら
http://orz.2ch.io/p/-/gimpo.2ch.net/sengoku/1196778610/
781人間七七四年:2009/12/01(火) 16:41:52 ID:9V/1fvDv
松永久秀の人質


人質と言えば、現代人の感覚からすれば穏やかな話ではないが、
この時代においては降服の証として人質を差し出すのがごく当たり前であった。

爆弾正こと松永久秀もその例外ではなく、
信長に降服した際には人質を差し出していた。

さて、この人質である。

久秀の息子か孫かははっきりとしない。
いつ信長の下に差し出されたかも特定はできないが、
仮に1568年のことだとしたら、
久秀の一度目の叛逆の際には、見逃してもらえたことになる。

信長も久秀には随分と甘いところがあるが、
二度目の叛逆の時はそうはいかなかった。

松井友閑の説得にも応じなかった久秀についに激怒したのか、
息子の信忠を討伐軍として派遣すると同時に、
人質を京都で処刑するよう命じた。

この時、佐久間家勝のもとにいた二人の人質は、
12歳と13歳の少年だったという。
彼らはひとまず京都の村井貞勝のもとへ護送された。

貞勝は彼らを不憫に思ったのか、宮中に助命を訴えようとした。

「すぐに参内し、助命してもらえるよう頼みましょう。
 君たちもすぐに身なりを整えなさい。衣装はこちらで用意しますから。」

だが、彼らは貞勝の申し出を断り、
手紙を書きたいから筆と硯を貸して欲しいと言った。

手紙を書き終え、それを必ず届けて欲しいと頼んだ後、
彼らは六条河原で首をはねられた。

最後まで臆する様子も無く、西に向かって念仏を唱えていたという。


後日、佐久間家勝は二通の手紙を受け取った。
そこには二人の、世話になったことへのお礼が丁寧に書かれていた。
782人間七七四年:2009/12/01(火) 16:56:41 ID:BggSIZaL
>>781
もしかして偽者?
とても久秀の子か孫だとは思えない。
783人間七七四年:2009/12/01(火) 17:03:06 ID:HvGbBaCr
>>779
清原「氏真も笑うとったわ」

まぁ、それで食ってる貧乏貴族からしたら「メシの食い上げで俺ら涙目」な感じだったんじゃないかな。
784人間七七四年:2009/12/01(火) 17:48:29 ID:rEu2Zko3
>>781
出典は信長公記か。
筆者の牛一も少年の最期に同情した叙述になってるね。
785人間七七四年:2009/12/01(火) 18:13:34 ID:A3ciH4YF
誰よ清原って気になるぞ。
少なくともまとめサイトに清原なんて武将いないし。
それとも誰かの別名か?宇喜多詮家が坂崎直盛を名乗ったように。
786人間七七四年:2009/12/01(火) 18:18:37 ID:WCciK+hr
>>785
公家や公家、記事に書いてあるじゃん
儒学とかの学者の家系
先を辿ると清少納言の家だ
787人間七七四年:2009/12/01(火) 18:25:50 ID:y2x6HkrF
宮中に助命嘆願ってのがおかしいよな
788人間七七四年:2009/12/01(火) 18:34:01 ID:A3ciH4YF
>>786
すまんよく見たら書いてあるな。その上詳しく解説ありがとう。

789人間七七四年:2009/12/01(火) 18:38:03 ID:AgWIzT4N
ただまあ、学問を生業とする人々にも言い分はある
書籍自体が手書きで増やすしかなく、古びれば補修か書き直しもする
虫や湿気に弱い紙を、先祖代々守って伝えてきたわけで
それを家の外に出すからには、相応の覚悟が必要だよ

江戸時代、木版印刷で書籍が大量に出回るようになると、
売上のために相伝だの伝授だの全部ぶっちゃける暴露本が横行するけどね
790人間七七四年:2009/12/01(火) 19:50:19 ID:78WsVvwN
普通に元巨人の番長かと思ったわ>清原
791人間七七四年:2009/12/01(火) 20:56:47 ID:er5kg9hW
奥州藤原氏の祖先を出した家でしょ?>公家清原氏
792人間七七四年:2009/12/01(火) 21:00:39 ID:7W8RQaW/
奥州と豊後に根付いた家だね
意外に交流があったらしく前九年の役とかで豊後の一族が奥州まで行ったりしてたらしいが
793人間七七四年:2009/12/01(火) 21:42:31 ID:4FHEg6Vj
豊後から奥州へ行くのに、当時は何ヶ月掛ったかな
着いた時には戦が終わってたりして
794人間七七四年:2009/12/01(火) 22:01:18 ID:Klg78ApQ
江戸時代を参考にすると、仙台まで10日、京都まで20日強だから、歩けば二ヶ月〜三ヶ月くらいかと。
ただ、船を使えば別。
伊勢湾から江戸まで四、五日というから三倍以上の短縮になる。

日本海廻りで船を使えば、一月以内に着くと思う。
795人間七七四年:2009/12/01(火) 22:50:56 ID:E4dlJ3tN
清原マリア
796人間七七四年:2009/12/01(火) 22:53:01 ID:c98H24kp
竹中半兵衛が参加した合戦では珍妙な光景を見ることができた。
「なあ、あれ半兵衛殿だよな?」
「ああ…なんで牛に乗ってるんだろう…」

半兵衛は周りが馬に乗った者ばかりでも、周りがどんなにうるさくても
平気な顔をしていた。こういう時は必ず茶化す者が現れる。
「やあやあ半兵衛殿。このクソ忙しい時に、呑気に牛に乗ってどうなされた?」

そういう者に半兵衛はこう答えた。
「忙しいからこそ、よい策を考えるために、牛に乗って心を鎮めている。
君たちみたいに忙しがっていては、よい策が浮かばん」
797人間七七四年:2009/12/01(火) 23:03:28 ID:ZW6qhzih
後の牛歩戦術である
798人間七七四年:2009/12/01(火) 23:12:19 ID:J448pHGI
現代の牛歩戦術使用者もよい策を考えてくれてると信じたい。
799人間七七四年:2009/12/01(火) 23:17:40 ID:BggSIZaL
牛の角に松明つけて敵に突入させる
800人間七七四年:2009/12/01(火) 23:18:10 ID:/JR/A8DS
これは半兵衛が光武帝に准えられる人だったってこと?
801人間七七四年:2009/12/01(火) 23:25:59 ID:MVt9hcxQ
インテリだし中国の故事かなんかに影響されてるっぽいなw
802人間七七四年:2009/12/01(火) 23:39:33 ID:Qtri8c4r
>>800
光武帝は金無くて牛に乗って挙兵したと聞いた
803人間七七四年:2009/12/02(水) 00:08:16 ID:l7q2tssH
戦場に出れば光武帝のように牛に乗り、
登城すれば范雎のように小便をかけられ、
隠居すれば孔明のように召し出しを断る…

単なる中国かぶれじゃね?
804人間七七四年:2009/12/02(水) 00:29:28 ID:F9SVT6nX
まあぶっちゃけると、江戸期に成立した「竹中半兵衛」像は、古代中国の軍師たちを
モデルに作られたものなわけで。
805人間七七四年:2009/12/02(水) 02:04:16 ID:RQng0zlK
>>779
なんかどっかで見たことある…
って思ったら、まんまこのスレのレスじゃねぇかw

新しい逸話と混同しちまうから、一言添えて欲しかった。
というか、真偽の検証が目的だったなら>>780のスレか。
806人間七七四年:2009/12/02(水) 08:50:51 ID:BOtOGdIq
秀吉が天下を統一した後の話。
伏見城で諸大名が集まって秀吉に能を披露することになった。織田信雄が見事な能を舞った後、家康が舞うことになったが
その舞い方はあまりにも下手だったため、秀吉の周囲の者たちがくすくすと笑った。すると、秀吉が激怒して、「舞うのが上手な
奴にろくな奴はおらん! 家康殿は舞うのが下手だったから海道一の弓取りになれたのだ!」と叱りつけた。

笑われた家康を秀吉がかばったちょっといい話。
807人間七七四年:2009/12/02(水) 09:01:04 ID:rOR311ii
信雄w
808人間七七四年:2009/12/02(水) 09:11:57 ID:K7nOHoiD
信雄カワイソス(´・ω・)
809人間七七四年:2009/12/02(水) 09:24:49 ID:/JYzQnus
信雄の立場ねーよw
810人間七七四年:2009/12/02(水) 09:29:34 ID:8PSoMSZy
なるほどな
太閣もろくな奴じゃないってことか
811人間七七四年:2009/12/02(水) 09:42:30 ID:bcxOXIw7
問1.信長は敦盛をよく舞ったと言われてるが
その時の猿の気持ちを答えなさい

(1)へったくそな舞だな、毎回見せられて迷惑なんだけどw
(2)舞は上手いけど、この人ろくな人間じゃないよねw
812人間七七四年:2009/12/02(水) 09:57:27 ID:zELLV4HW
信雄の悪い話にしか見えんww
813人間七七四年:2009/12/02(水) 10:03:11 ID:kL0V0Lc9
……秀吉も自分で能を舞ったりしてなかったっけ?
814人間七七四年:2009/12/02(水) 10:04:18 ID:BAwvYuSA
まぁ実際、秀吉の信雄の扱いを見るに、ろくなやつじゃないと思ってたのは明らかだなw
815人間七七四年:2009/12/02(水) 10:05:39 ID:tBOAUZ2N
織田のぶおw
816人間七七四年:2009/12/02(水) 10:15:46 ID:jVMgFxCW
これは流石に信雄に同情するわwww
817人間七七四年:2009/12/02(水) 10:26:22 ID:tZ8Zpm7r
>806
隆慶の一夢庵で使われてたっけな、この話。
秀吉と慶次郎が対面(猿舞い披露)した後
家康が下手な舞いを平然と披露して、座を和ませるの
818人間七七四年:2009/12/02(水) 13:18:32 ID:Pojavzf9
>>806
これは言われた家康にとっても、信雄にとっても微妙な話だなw
819人間七七四年:2009/12/02(水) 13:22:22 ID:Zl7E7MtZ
>>803
独眼竜も大陸発祥だし、そんなもんじゃね?
820人間七七四年:2009/12/02(水) 13:37:29 ID:zrIfoRDS
信雄「こりゃまいった」
821人間七七四年:2009/12/02(水) 13:48:20 ID:fAw6DGM3
こんな事いったり改易したり色々な仕打ちくれときながら
常真殿、大坂方総指揮官お願いします!
とかやるんだからなぁ、豊臣家の考えることは分からんw
822人間七七四年:2009/12/02(水) 13:49:14 ID:bcxOXIw7
>>819
もともと「独眼竜」は李克用のあだ名だったとか言う話だな
823人間七七四年:2009/12/02(水) 14:08:37 ID:70qxLt30
まあかの御仁の場合ここで新たにDQがN竜に進化したわけでw
824人間七七四年:2009/12/02(水) 16:45:53 ID:rM3daNrx
秀吉、まさか「よく踊るやつ」というオヤジギャグを言いたかっただけなんじゃ…?
825人間七七四年:2009/12/02(水) 17:10:42 ID:rOR311ii
信雄の子孫は現代も氷の上で舞ってますもんね
826人間七七四年:2009/12/02(水) 18:21:05 ID:4CGBNMzp
>>811
もちろん 2でしょw 親父もあれなら息子もあれだなって感じで
827人間七七四年:2009/12/02(水) 18:22:40 ID:dXTX0Xlz
「殿は舞がお好きだなあ。とてもほほえましい光景だなあ。ヘタクソだけど!!」
828人間七七四年:2009/12/02(水) 18:47:14 ID:a5hq+h1g
>>827
黒田長政「・・・・・・」
829人間七七四年:2009/12/02(水) 19:44:46 ID:z+YVjJ9L
奥州仕置後に上洛した南部信直、ホームシックになってしまった↓
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-181.html

一方で、信直は意外な人物と交流している。
父祖代々の因縁があり、先代同士は血で血を洗う合戦を繰り広げた、秋田実季である。
名護屋滞在中、信直と実季は語らう機会があり、互いの人品に感心した。
二人は両家の争いを不毛と確認しあい、また、今後は懇意に付き合っていくことを約束したという。
後に、信直は次女を実季の弟に嫁がせており、この友好を形に表している。

天下統一がもたらした、思いがけない友人関係のお話。
830人間七七四年:2009/12/02(水) 20:00:40 ID:WINSjjG/
例の木像の材料も青森産だったりしてな
831人間七七四年:2009/12/02(水) 20:13:22 ID:Vq5wZ1+Y
明らかに仮想敵が津軽な件
832人間七七四年:2009/12/02(水) 20:19:30 ID:Ckw5lth9
>>810
いじめだよな
833人間七七四年:2009/12/02(水) 20:21:51 ID:/RVohN/K
信直「あのヒゲむかつくよね〜」
実季「わかるわかる」
834人間七七四年:2009/12/03(木) 04:23:19 ID:zmh/2Q7g
鍋島家の武将、成富兵庫茂安のいい話


龍造寺家の武将、成富信種の息子、茂安。
幼いころは、性格が粗暴で大人でも手が付けられないほどの暴れん坊だった。

ある時、茂安は遊び仲間と博打をしたが、負けてしまった。
茂安はこともあろうに、家の籾倉まで博打のかたにしてしまった。

親戚連中はさすがに茂安の勝手な振舞いに激怒した。
「なぁ、信種よ、あんな奴、生きていたってしょうがないよ。ばっさりやっちまおう」

だが、父親である信種は集まった一堂にこういった。
「たしかに、わが息子の凶状は申し訳ない。
だが、今一度、機会をくれ。
それでも行状が改まらない時は、わが手にかけて討ち果たそう」
こういって説得した。

そしてその日から、父と子のマンツーマンの日々が続いた。

信種の甲斐もあって、茂安は心を入れ替えることができた。

のちに佐賀の水神とたたえられる成富兵庫。
彼が多くの人々から慕われたのも、父親が親身になって和を説いたことだからかもしれない。
835人間七七四年:2009/12/03(木) 04:48:24 ID:zmh/2Q7g
成富兵庫のいい話 大坂冬の陣


慶長19年(1614年)徳川家康は豊臣秀頼の居城、大阪城を攻めようとした。
いわゆる、大坂冬の陣である。
鍋島家も出陣するために兵庫を先に使わした。

兵庫は地面に材木を打ち込ませ、陣を構えさしていた。
ところが、伊達政宗の手の者が後からやってきて、それを空き地と思って自分の陣地にしてしまった。

さぁ、相手はあの伊達政宗。一筋縄でいく人物ではない。
交渉人、成富兵庫はさっそく政宗のところへ行く。

まず、兵庫は朝鮮の役での思い出話と、白馬をいただいたお礼を申し上げた。
昔話に花が咲き、政宗公が気分良くなってきたころ、

「この陣場は信濃守(勝茂)より申し付けられ、某が材木を打ち込んで鍋島陣としておきました。
遠国のため、いまだ軍勢そろわず空き地のようにも見えたことは確かです。
ですが、どうぞ陣をお替えください」

政宗公も納得し、陣所を変えることを了承してくれた。

機転が利き、人の扱いが上手かった成富兵庫のいい話でした。
836人間七七四年:2009/12/03(木) 05:10:22 ID:zmh/2Q7g
成富兵庫のいい話   欠け茶碗


江戸城に登城した時、成富兵庫も勝茂のお供をした。
控えで待っているとき、気分を悪くしたものがいたので、兵庫は茶坊主に水を持ってきてくれるよう頼んだ。

坊主はもってきてくれたが、ふちが欠けた粗末な茶碗をもってきた。
「俺たちが田舎者だからなめているのか」
兵庫は意趣を返すことにした。成富兵庫らしいやり方で。

兵庫はその茶坊主の名前と住所をたずねた。
いきなりだったし、不審に思って躊躇していたが、あまりにしつこく聞いてくるので、坊主は仕方なく教えた。

翌日、兵庫は茶坊主の家へ家来数十人とともにお礼にうかがった。
そして、その茶坊主には、紗綾の生地10巻を贈った。
茶坊主も、あれだけのことでここまでしてくれることに驚きをかくせなかった。

それ以来、鍋島家中が登城すると、茶坊主は
「兵庫殿のお供でしょうか?」
とつき合いをよくしてくれる。湯茶までサービスしてくれる始末だった。
また、茶坊主の仲間も兵庫のところへと連れて行き、兵庫はその者たちにも贈り物を配った。

気をよくした茶坊主たちは、兵庫のところへと通うようになり、色々な噂話をするようになった。
こうして、鍋島家は江戸城内の情報を手に入れる手段を得ることができた。
諸大名もこれを見習って、茶坊主を求めたという。

837人間七七四年:2009/12/03(木) 18:57:11 ID:+KKfKB+P
晩年の徳川家康は壮年の頃に比べて非常に子煩悩だったという。
六十九歳の時に生まれた最後の子は於梶の娘市姫だが、彼女はたった
四歳で死んでしまった。

家康は市姫の死で動揺したのか、翌年に予定されていた
後陽成天皇譲位の式日を、市姫の死を理由に延期してもらいたいと打診し、
宮中から「公私をわきまえないとは思い上がりが過ぎる」と怒りの返書を
受けとった。愛娘の死はそれほどショックだったということだろうか。
838人間七七四年:2009/12/03(木) 19:04:22 ID:+KKfKB+P
>>837
ごめん六十九歳じゃなくて六十六歳だった
839人間七七四年:2009/12/03(木) 19:06:31 ID:hjHTzJBv
皆さんは1月11日が『塩の日』である事をご存知だろうか?
これには、戦国時代のとある出来事が係わっている。

永禄十一年(1569)、武田領の人々は、今川、北条による「塩止め」に苦しんでいた。
塩が全く無い、と言うわけではない。が、周辺諸国から来た商人たちはこの期に付け込み、
塩の値段は暴騰していた。

この事を知ったのが信玄のライバル、越後の上杉謙信である。

「塩は民が生きていくために必要なものである。塩を止めて民を苦難に追いやってはならない。」

謙信は、敵対国にもかかわらず、武田の塩商人に塩を売ることを許可した。
しかも「正当な値段」で。
そう、『敵に塩を送る』の故事である。

この打診を受けた信玄は、高野孫左ヱ門を始めとする五家の商人を派遣。
大量の塩を買い取ると直ぐにこれを運んだ。

その1月11日、武田領の前線、信州松本に、高野孫左ヱ門の運ぶ最初の塩が届いた。
人々の歓喜、この上もなかったと言う。
この事を記念して後世、1月11日を、塩の日としたのだそうだ。

ちなみにこの時、塩を運んだ高野孫左ヱ門の家は、この時塩を運んだ功績から
屋号に甲州金に刻まれた「吉」の字の使用を許され、『吉字屋』を名乗った。

吉字屋はその後も、塩商人として甲斐で栄え、
この度、吉字屋本店社長、高野総一氏が、18代目「高野孫左ヱ門」を襲名された。
http://www.sannichi.co.jp/local/news/2009/12/03/9.html

歴史は生きている。そんな事を感じさせてくれるお話である。
840人間七七四年:2009/12/03(木) 19:18:54 ID:4A/FIjBS
        ,/`  : : __,,,,,,,,,,,,,,_: : `'ヽ,、
      .,,i´_,,,,―'''"^:    : `゙゙゙''ー、,,\
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    ,〆` : : : :  :   :    :    :   :;: .゙ヽ
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  l゙.,/、/`、: : .;;;`''ー、,,,,,,/`;;;;;;:: ;;;;;;;;;;;:トi、ヽ .|    上杉テンキュー
 .|";;;;:ili|゙l;;;;;;`;;;;;;;;;;;;;;;`/゙゙゙゙゙ヽ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;゙「″;ヽ |    ファッキン今川!ファッキン北条!
 .|;;;;: !.|゙l、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;/、 : :,゙l、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;‐ ゙l : ;;;゙'|
 .|;;;: : : | `'-、;;;;_,,,、-"l゙   ゙l,゙'―--.-/  ‖: ;;;;|
 .|:;;: : ; |  `''"゛  : ,r: : ..'-,,゙l、         |゙l : │
  |;;;  |      ..l゙::,ii,: :,ii,,‘,!:     : : : .|゙゙l ィ゜
  ゙l;;: : ;│: :      ゙-゙”'''"~.┘     : : : } ゙l  l
: .i,,i´: : ゙l゙l: : :    :  ,,―-―、、 :    : : │,l゙: : 'l,,,
'"゙!li,,  `彳:    : .-'゛: : : : : : :゙'' :    : : ナ'′: .,,ll
: ,l,,:'゙ll,, : : ゙l    : `'" ̄ ̄ ̄~"     ,l゙:;:  ,,ll゙゙,
: ::゙!l,,.:゙lll,,, .\、     ゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙^      l゙ : ..,ill゙.,,i!°
: ,,_::'゙ll,,,_゚゙lll,,,,`'-,、           ,/ ,ill゙`,i!゙、
: ゙゙゙lll,,,,゙゙゙llli、゙゙゙lllll,,,,'゙l、: : : : : : : : : .,!_,/ ,,,lll゙゙,,lllll゙,il゙゜
841人間七七四年:2009/12/03(木) 19:58:39 ID:sDfQ0fZJ
塩止めも、今じゃ否定論も出ているってのに
842人間七七四年:2009/12/03(木) 20:08:25 ID:QgBwBZKU
>>839
有名だけど、資料的な裏付けは無いんだよね。
運ぶとすればやはり信濃川の水運かな。
843人間七七四年:2009/12/03(木) 20:16:40 ID:a9wwzpMk
まあ、事実はどうあれ
信玄のせいなんだけどな
844人間七七四年:2009/12/03(木) 20:22:33 ID:Nhiokifp
>>835-836

三河武士とは正反対な御仁だなw
家康殿も、こういうのを直臣にしとけば苦労も減っただろうにw
845人間七七四年:2009/12/03(木) 20:32:57 ID:yUK1QyVM
高野総一氏が証人
846人間七七四年:2009/12/03(木) 20:35:19 ID:ouQkfAov
まあ今川・北条の「塩止め」の真偽はともかく、「敵に塩を送る」は謙信ならやりそうな温情措置ではあるし
847人間七七四年:2009/12/03(木) 20:57:34 ID:sDfQ0fZJ
>>846
>謙信ならやりそうな温情措置
おいおい冗談にしても笑えないぞ
848人間七七四年:2009/12/03(木) 20:59:53 ID:eNOg242s
審議と喧嘩ははよそでやってやー
849人間七七四年:2009/12/03(木) 21:24:24 ID:W3CdZrDa
>>839
どうせ塩の日を決めるんだったら、もっと古代の故事とかがよかったんじゃ・・
製塩の協会とかが決めたんだろうから、そこに戦国オタがいたんだなw
850人間七七四年:2009/12/03(木) 22:25:51 ID:gz12Gg9j
天正13年(1585)6月、正二位内大臣に任官された羽柴秀吉は四国の長宗我部氏攻討伐を
決定し、宣戦を布告するため片桐助作且元を派遣した。
長宗我部の前線基地、伊予大浜城の前までわずかな供を率い、徒歩でやって来た且元は
「それがしは内大臣家の家人、片桐助作にござる。城の御大将に申すべきことあって
参上いたした。この旨をもって開門されたし!」と、堂々と言い放った。

城兵は敵の来訪に色めきたったが、城将の長宗我部信親は
「使者の作法、故実にかなって見事なり。失礼あらば『南海の田舎者、礼節を知らず』と
笑われよう。そうなれば、死後までの恥辱となるぞ?」と言い、門を開けさせた。

且元と対面した信親は、彼を上座へ導いた。
「貴殿は、仮にも内大臣のお使者。無位無官の信親と対座は、はばかりがあります。
どうぞ、こちらへ。」
且元は一礼してこれに応じた。
「ただ今、秀吉公と長宗我部殿と一戦仕る上は、まず互角の応対あるべきでしょう。
しかしながら助作は大臣家の家人である以上、長宗我部殿の上座など神罰が当たらぬか
恐ろしくはござるが、御免を被って口上を述べさせていただく。」

城兵みな、二人の礼節に感心せざるは無かったという。


内容的には且元のいい話でもありますが、悪い話スレの804と合わせてまとめ管理人様に
信親タグを作っていただきたく・・・(´;ω;`)
851人間七七四年:2009/12/03(木) 22:40:22 ID:HfqsS2Hr
短命だから逸話も少ないんだろうなぁ
まぁ四国自体逸話が少な(ry

それはそれとして礼儀礼節を理解出来るんだから城兵も大したもんだ
最近の若僧に煎じて飲ませたい
852人間七七四年:2009/12/03(木) 23:00:54 ID:K9HrDQes
秀吉の四国攻め前だから二十歳前後で最前線の城主が
勤まってこれだけの対応ができる息子に先立たれる
そりゃ元親もおかしくなるわ
853人間七七四年:2009/12/03(木) 23:37:27 ID:MQ6313Ux
>>851-852
元親自身に田舎者コンプレックスあったのか、家中ですごい有識故実の勉強させてんだよな。
土佐一国の貧乏領主が、わざわざ京大阪まで家臣を派遣して習わせてんの。

四国内の最大敵手、三好一党が小笠原流の支族で教養人も多かったから、
阿波や讃岐の慰撫にもそういうソツのなさが必要だった、て実利もあっただろうけど。

んで息子も手塩に掛けて育てたからこんなだった戸次川の死に様も見事だし……
潔すぎるのは戦国武将としてはむしろ弱点なんだけどね、そこが若さだよな。
854人間七七四年:2009/12/03(木) 23:59:27 ID:a9wwzpMk
信忠もそうだけど、若いときにはもがいて一縷の望みに掛けてほしかったな


勝頼の追い詰められた上での自害を見たばかりだから、ああいうのは嫌だというのがあったかもしれないけどさ
855人間七七四年:2009/12/04(金) 00:24:06 ID:rAiR0wW/
土佐物語より、長宗我部信親はこんな人!

・背丈は6尺1寸(約185センチ)、色白で容貌は柔和
・言葉は少ない。
・礼儀作法を心得ているが、だからと言って厳しくは無い
・馬鹿な話にも付き合うけど、猥雑ではない
・家臣たちを愛し、家中の者達も父母のようになついていた

・手習いは吸江庵の真蔵主、恩蔵主を岡豊に呼んで学んだ
・謡は藤田宗印を京から呼び寄せて学んだ
・鼓は勝部勘兵衛を泉州堺から呼び寄せて学んだ
・笛は京で玄笛の伝授を受けた小野菊之丞に学んだ
・太鼓は頭我惣右衛門親子を京より呼び寄せて学んだ
・蹴鞠は飛鳥井曾衣が下向された時に指導を受けた
・碁は京で本国坊の元に学んだ大平捨牛、森勝介に学んだ
・礼儀作法は京で小笠原家より伝授を受けた桑名太郎左衛門、大平市郎右衛門に学んだ

・馬術は産方休少に学んだ
・槍、長刀は真道流の大平市郎右衛門、また京より甲藤市之丞を呼んで学んだ
・太刀は須藤流、また伊藤武右衛門と言う精参流の名人に学んだ
・弓は大蔵才八に学ぶ。岡豊城の的場で毎日夕暮れに的を射た
・鉄砲は近澤越後に指南された。毎月1日に鉄砲揃をして射撃の腕を見た。

・和歌は小松谷寺覚桜に私事
・連歌は蜷川新右衛門入道道標を宗匠とする

・このような教育を受けた信親であったが、武道のほかは雑事であると、
 それほど熱心には学ばなかった。
 しかし生来器用だったため、なにをやっても見事にこなした。

・常に軍書を研究し、戦略戦術について議論をし、剣術、体術の習得に熱心であった。


まあ早くに、しかも悲劇的な死に方をしたせいでだいぶ理想化されすぎているきらいはあるが、
ともかく、長宗我部家中にとって信親は、大事に大切に育てられ、本人もそれに大いに答えて
成長し、家中の期待を一身に集めた、パーフェクト嫡男だったのです。
856人間七七四年:2009/12/04(金) 00:47:43 ID:LxFIJ8o/
信親の母は奉公衆石谷光政の娘(斎藤利三の異父妹)だけど、元親が自ら上洛して
娶った女性なんだよな。近隣の豪族では無く中央との繋がりを考慮しての嫁取りに
元親の考え方が伺える。
857人間七七四年:2009/12/04(金) 00:48:24 ID:PR7Hnd6g
>碁は…森勝介に学んだ

「森勝蔵に学んだ」に見えたいい悪いスレに毒されたバカは俺だけでいい…
858人間七七四年:2009/12/04(金) 01:08:33 ID:mDZa7cBY
>>855-856
連歌は“あの”蜷川新右衛門さんの裔に学んだってか……
 斉藤内蔵助、石谷兵部は知ってたが蜷川氏も巡り巡って長宗我部の親戚だったんやねーなるほど

ttp://www.rekishi.info/library/yagiri/scrn2.cgi?n=1118
859人間七七四年:2009/12/04(金) 01:27:44 ID:wdfRKWyq
>>858
蜷川家の当主は代々新右衛門を名乗るんじゃなかった?
860人間七七四年:2009/12/04(金) 04:43:05 ID:E5eRvgjz
>>853
関東や甲信越、九州ならともかく、
土佐からなら「わざわざ京大阪まで」何て書き方するのは変じゃないか?
長曾我部は水軍だって持ってるし、大阪との交易も盛んだったはず。
861人間七七四年:2009/12/04(金) 07:43:58 ID:BICm9q/l
>>855
あまりに完璧すぎて泣けた、生きてたら五大老も務まりそうだ
これだけの男を仙石ふぜいの指揮下に入れてたのが失敗だったか
862人間七七四年:2009/12/04(金) 08:32:06 ID:rfM1A1r9
後世に作られたから完璧なんだろ?

863人間七七四年:2009/12/04(金) 09:31:41 ID:lDxo0nF3
戸次川で信親を守って死んだとされる死体の頭蓋骨を調べたら、刃物で斬られ過ぎて何回斬られたか分からないありさまだったとのこと
864人間七七四年:2009/12/04(金) 09:36:00 ID:XXqInJgu
それって、なかなか死なずに奮戦したというよりも
敵兵がしっかりトドメをささず、倒れた相手を滅多打ちにしていただけでは?
865人間七七四年:2009/12/04(金) 09:45:45 ID:lDxo0nF3
かもね

どれだけ混沌とした戦場だったんだろう
信親隊の遺品とされる甲冑はぐちゃぐちゃでなんだかよく分からない事になってるし
866人間七七四年:2009/12/04(金) 11:26:12 ID:xyyxCiJ9
まとめブログのトップふっとんでる
867人間七七四年:2009/12/04(金) 11:37:41 ID:qX/azpga
壊乱状態で、かつ完全に多勢に無勢
それでいながら島津は味方の負傷率が跳ね上がるのも無視して押し包み殺る
ってな感じ?
868人間七七四年:2009/12/04(金) 12:09:32 ID:NLC0CTdn
>>861
もとから潰すために仕組んだとかね
無能の下で壊滅してくれたら万々歳じゃん
869人間七七四年:2009/12/04(金) 12:34:00 ID:ieQFlP1g
まあ秀吉にしてみりゃ四国の弱体化は
かえって好都合かもしれんからな
870人間七七四年:2009/12/04(金) 13:28:08 ID:BICm9q/l
当時は四国の弱体化なんかよりも、秀吉軍が島津軍に負けてしまったダメージのほうがでかいだろう
長曽我部が四国の雄だといっても、すでに牙は抜いたんだし
871人間七七四年:2009/12/04(金) 13:31:41 ID:G0P1FXoT
長宗我部の流れに便乗

「大きなお友達」

長宗我部元親は、長男の信親がたいそう自慢であった。
そんな元親が、秀吉に降った時の事。
取次ぎ先の秀長のところで、元親は自慢の長男にひけを取らぬ大男を目撃する。
それは、当時秀長の家臣であり、戦国有数の巨漢である藤堂高虎であった。
「ワシのせがれ以外にも、こんな大きな男がいたのか!?」
以来両者は誼を結ぶ事となり、人質に出された元親の三男も高虎が預かった。
九州征伐で信親が死んだ時も、高虎が弔問の使者として元親の下に出向いている。

後に大阪の陣まで続く長宗我部家と高虎の因縁だが、最初は友誼から始まったのだ。
872人間七七四年:2009/12/04(金) 13:43:20 ID:kwW8ePUF
>>862
後世だったら山内だろう?
長宗我部のいい話など作るわけがない気がするぞ
873人間七七四年:2009/12/04(金) 14:12:03 ID:NLC0CTdn
>>872
領主の話題だからって作るのも領主って事じゃないでしょ
今のがアレだから以前のを持ち上げて〜ってのは大昔からある話だし
874人間七七四年:2009/12/04(金) 14:32:18 ID:PR7Hnd6g
「判官贔屓」で亡んだ旧領主を顕彰する事は考えられるよね
「火のない所に煙は立たず」だから信親が勤勉だったのは確かだろうけど

まあこれ以上は検証スレでやらないか?
875人間七七四年:2009/12/04(金) 14:44:36 ID:pLyTOpW7
弟が酒井家に使えてるよね>長曽我部
876人間七七四年:2009/12/04(金) 15:27:22 ID:/+gjK+Xr
>>855
ちょっと関係ないけど、馬術弓術と並んで鉄砲が教育に盛られてくるあたりが面白いね

>>871
その後の高虎と長宗我部の転変を思うと、感慨深いな
877人間七七四年:2009/12/04(金) 16:58:19 ID:Eh0xSE3j
信忠やら信康やら隆元やら、早く死んだ嫡男は必要以上に持ち上げられる傾向があるよね

そして実際に後を継いだ大名は必要以上に無能にされる
878人間七七四年:2009/12/04(金) 17:04:26 ID:V7EwplfT
輝元はともかく、秀忠はちゃんと評価されてるだろ。
そして秀信が低評価なのはむしろまっとうに評価されてる。
879人間七七四年:2009/12/04(金) 17:25:04 ID:BICm9q/l
>>877
ケースが少なすぎてどうとも言えんな
880人間七七四年:2009/12/04(金) 17:42:04 ID:KU8km0SS
早死にした人は可能性だけで評価されるから、
早く死んだ嫡男が評価されやすいのは仕方ない
まぁ>>877のくくりはやや乱暴だと思うけどw

毛利隆元はかなり長年家中で采配を振るった人で実績もあり、若死にとは言えない
織田信忠や長宗我部信親、三好義興、葦名盛興あたりはそのような例かもしれないけど
尼子政久もその手の例かな
881人間七七四年:2009/12/04(金) 18:38:36 ID:Yii3TaVp
隆元は影が薄いだけだからな
882人間七七四年:2009/12/04(金) 18:42:33 ID:n9cuFt5R
武田義信が生きてれば老臣と対立しないで上手くやれたとかよく言わね?
883人間七七四年:2009/12/04(金) 18:48:51 ID:0E6Ij64X
羽柴はあまりそういう話にならないな。
若死ににも限度があるか。
884人間七七四年:2009/12/04(金) 19:11:32 ID:RHSNoiWe
>>883
秀吉の子育て下手には定評があるからだと思う
いくら先天的に英傑の資質があってもあんな育て方じゃ
間違いなく名君は育たないよ
885人間七七四年:2009/12/04(金) 20:04:38 ID:lDxo0nF3
信康の評価の低さはガチ
886人間七七四年:2009/12/04(金) 20:43:08 ID:BICm9q/l
秀吉よりも、淀君の秀頼育成のほうがよっぽどアレだ

逆に家康の我が子への冷血ぶりは息子の自立には良いけど、
その結果、秀康や秀忠や忠輝のように色々と苦労する息子を持ってしまったり
887人間七七四年:2009/12/04(金) 20:50:32 ID:d1vRxQnY
宮本武蔵が熊本に招かれた後のこと
武蔵のもとに細川家の旗奉行がやってきて、数十本の竹を見せた。
「この中から旗指物に使う丈夫な竹を選んで欲しい。」

これに答えた武蔵は竹を片っぱしから振り回し始めたが
片手で刀剣を使いこなすほどの武蔵の強力によってほとんどの竹は割れてしまった。
武蔵は残った数本を差し出すと「これぞ八幡大丈夫と存じます。」と言ったという。
888人間七七四年:2009/12/04(金) 21:42:24 ID:B90CHZ4q
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>>877
世の中には生き残った嫡男より死んだ次男の方が
必要以上に持ち上げられることもある訳でして・・・
889人間七七四年:2009/12/04(金) 22:05:45 ID:Hn5yT75d
>>888
苦労が絶えませんな。長生きできるといいですね!
890人間七七四年:2009/12/04(金) 22:39:21 ID:uh6mrcPg
黒田長政は豊前一揆に敗れた。そのことで長政は父如水の怒りを買ってしまう。
「申し訳ありません…」
長政は頭を丸めて謹慎した。

ところで一揆鎮圧には後藤又兵衛も従っていたのだが、又兵衛は長政が
頭を丸めたというのに平然としている。
見兼ねた者が長政様が頭を丸めまでしたのにお前はなんだ、と言うと又兵衛は言った。
「一揆ごときに一度負けたぐらいで、いちいち頭を丸められんわ。
要するに次に勝てばいいのであって、その程度のことを気にして戦が出来るかよ」

これを聞いて如水はもっともだと思い、既に坊主になった長政を許した。
891人間七七四年:2009/12/04(金) 23:14:01 ID:Yq33Nbw8
又兵衛が長政を助けた、、だと、、?
892人間七七四年:2009/12/04(金) 23:31:06 ID:4ioZWZbQ
自分が坊主頭になりたくなかっただけだろう
893人間七七四年:2009/12/04(金) 23:32:57 ID:SNkePOVb
単に空気読んでないだけな気も
894人間七七四年:2009/12/05(土) 00:31:22 ID:7K24vm+G
>>891-893
あの若殿はその程度のこといちいち気にするから戦が下手なんだよHAHAHAHAHA!!!
895人間七七四年:2009/12/05(土) 01:09:23 ID:WD4FNGeI
>890
長政を見下してるようにしか思えんw
896人間七七四年:2009/12/05(土) 01:19:05 ID:3un3gnyK
>>888
あんたの父親は若死にした兄たちよりも評価の高い弟だな。
897人間七七四年:2009/12/05(土) 08:33:31 ID:p9HRK2CO
>>891
長政が頭を丸めた後で言う辺りいつも通りの又兵衛です
898人間七七四年:2009/12/05(土) 10:52:10 ID:RdNp/Nt5
>>882
まあバカな跡継ぎが名将だった老臣達と対立して〜○○が生きてたら〜は講談等で
バカだったから奸臣に惑わされてとかにされてたけど
最近は中央集権化を目指しての行動の末と
評価(失敗した場合でもその必要はあったのだろうとかと)されてる場合も多いのではないかな
尼子晴久、武田勝頼、宇喜多秀家とか
899人間七七四年:2009/12/05(土) 11:24:17 ID:istPsqm5
晴久は寿命が足りなかったのだけが問題だった

ところでこのスレには三河武士シュミレータとか又兵衛シュミレータとかが存在してる気がするんだが
900人間七七四年:2009/12/05(土) 11:30:44 ID:wGIClNDb
兵法戸田流の達人、林田左門は黒田長政に仕えて西国で剣名が高かった。
林田は黒田家の若侍を集めて武術論を交わすのが日課だったが、ある日、大力が自慢の
若者が言った。「兵法など習わなくても、心さえ臆していなければ、功名は出来るでしょう?」
林田は答えた。
「それも道理だが、心身を鍛え、さらに兵法に優れていれば鬼に金棒ではないかな?」
若者は納得しない。
「いや、心さえ動じなければ、そう負けますまい。試しに、仕合を致したきものです。」
「それは良い心掛け、しからば、すぐに参ろう。」

庭先に出た二人は木刀を持って向かい合い、若者は上段に構えて一歩踏み込んだ。
その瞬間、二人は交差し、若者は林田に額を打たれていた。
「いかがかな?」「……拙者が一本取られたようですな。」
「納得がいかぬなら、もう一手参ろうか?」「い、いや!とても拙者の及ぶ所ではござらん。」
「ならば、今後は我を折るようになされた方が良い。」「う、承った。」

観戦していた一同は、このやり取りにどっと笑い、若者は恥辱に消え入らんばかりになった。
この話、当日のうちに主君の耳に達し、その夜、長政は若者を呼び出した。
「そのほう、林田に仕合を仕掛け敗れたとは、まことか?」
「…仰せの通りにございます。」

「家中一の使い手に挑むとは、見上げた志である。若いうちは、その位の血気がなくては
物の用に立たぬ。
林田は世に聞こえた名人、若い素人が負けるは当然じゃ。わしも若い頃は、柳生但馬守や
疋田文五郎に我流で挑んで打たれたものだ。
戦場では確かに兵法の上手が勝つというものではなく、下手でも功名は立てられる。
が、だからと言って兵法を修行せぬのは事に備える武士道に背く。そのほうも、これから
林田の弟子となり、兵法に励むが良かろう。」

長政の教えに涙を流して感謝した若者は、その足で林田のもとに行って弟子となり、のちに
家中有数の使い手になった。


思い上がった心を折られた若者を諭した、長政のいい話…ではあるのだが、
徳川家臣の柳生さんと長政が顔を合わせるなんて秀吉の死後だろうから、三十台半ばの
大大名が天下の剣豪にタイマン仕掛けたことになる。……NGMSなにしてんのNGMS。
901人間七七四年:2009/12/05(土) 11:39:24 ID:6nw1vbA+
長政のエピソードはなんだかいつも子供っぽいよな
902人間七七四年:2009/12/05(土) 12:09:01 ID:PBN5efBO
家中有数の使い手になったわりには
名前は伝わってないんだね
903人間七七四年:2009/12/05(土) 15:35:57 ID:iWGKsJJD
>>902
黒田家家中の使い手ってのはせいぜい根岸兎角レベルだからな
904人間七七四年:2009/12/05(土) 15:43:34 ID:aSIjGQKS
>>900
53歳の家康が68歳の柳生石舟斎に勝負を挑んで
無刀取りでフルボッコにされたこともあったぐらいだから。
戦国人としては大身になっても武を怠らないというのは素直にいい心がけだと思う
905人間七七四年:2009/12/05(土) 15:47:00 ID:+7/Rvd2t
山岡の「伊達政宗」では、政宗が柳生宗矩にタイマンしかけたことになってるね
906人間七七四年:2009/12/05(土) 16:14:38 ID:8XGd/k5z
さすがは寛永御前試合出場者だな>伊達政宗
907人間七七四年:2009/12/05(土) 16:32:00 ID:EZM9A6O3
作家としては、主人公には華やかなエピソードを付けたくなるものだ。
そうしないと本が売れないからな。
どうせ小説だから本当か嘘かなんて二の次だし、
読者も楽しく騙されれば文句ない。
908人間七七四年:2009/12/05(土) 17:56:54 ID:96dU5KWp
↑何か嫌なことでもあったのか心配になった
909人間七七四年:2009/12/05(土) 23:11:32 ID:XhhYT1DD
秀次のちょっといい話があるけど、抜粋するにも長すぎて面倒だし
今の所悪い話しかない秀次に悪いから止める
910人間七七四年:2009/12/05(土) 23:28:33 ID:CAEnt+Ie
ある夜、武田信玄は柿を例に出して語った。
「渋柿を甘柿に接ぐのは小身のやることだ。中以上の武士なら、渋柿を
接ぐときは渋柿を使うだろうな。
だが、渋柿がよいからって、既に接ぎ木してある甘柿を切って渋柿を接ぐ奴は馬鹿だぞ。
これは他のあらゆる物事にもいえることだ。」
911人間七七四年:2009/12/05(土) 23:48:24 ID:JNxboHWb
>>909
次スレまたいでもいいので書いてください。










イヤまじで
912人間七七四年:2009/12/05(土) 23:59:09 ID:irZ/5Kbc
接ぎ木つながりで


ある時鍋島直茂が、城の木に接木をさせた事があった。
ふと、側にいた老臣に向って、「お前も庭の木に接木をしないのか?」と聞く。
すると老臣

「いえいえ、私はもう歳ですから、今更接木をしたしたところで、それが付くまで
私のほうが生きていないでしょう。ま、枯れるに任せますよ。」

直茂、これを聞くと
「お前は変な事を言うな?お前が見るべきためにする事ではないだろう。
庭の木々を、子孫に伝えるのだと何故考えないのだ?
どんな事でも、物事と言うのは自分の為のみにするのではない。はるか後世の、
未だ見ぬ他人のためにする、と言う心がけこそが大切なのだ。」

何であれ物事を成す時は、自分のため、今のためではなく、
人のため、未来のためと言うことを考えるべきだ。
それが直茂公の考え方である。
913人間七七四年:2009/12/06(日) 00:02:32 ID:0W0OIqqg
>>910
渋柿に渋柿を接ぐってどういうことなんだろう。
渋柿の根が丈夫だから、渋柿を台木にして甘柿を接ぐという方法はあるけど、
渋柿に渋柿を接いでも甘くなるのか?

つか、自分が知ってる信玄の逸話はこんな感じだった。

渋柿に甘柿を接ぐ必要はない、
しかし、 接いでしまったらそれはそれで切る必要はない、
渋柿は渋柿で甘柿は甘柿で利用方法がある。
人も同じである。それぞれの個性を生かすことこそ大事である。
914人間七七四年:2009/12/06(日) 00:24:40 ID:D3kYGRRw
>>913最後の一文がいつもの信玄だったw

単純に根を強くするために接ぎ木することもあるんだけど、柿はどうだったっけな?
915人間七七四年:2009/12/06(日) 01:03:05 ID:zOU8kOJk
>>911
相解った、明日に載せるわ
秀次関連と言った方が良いかもしれん
議論が湧き上がりそうな内容だからそこの文面全部載せるわ
916人間七七四年:2009/12/06(日) 13:44:56 ID:wLRHej/G
>>900
つーかそもそも柳生を家康に推挙したのが黒田長政じゃなかったっけ
だからたぶん柳生但馬守とは兄弟弟子くらいの関係
917人間七七四年:2009/12/06(日) 13:55:20 ID:wLRHej/G
>>916
書き込む前にぐぐればよかったわ
黒田長政は疋田文五郎に新陰流組絵図とかいうのをもらった関係だってさ
疋田文五郎と、柳生但馬守の父親の柳生石舟斎が上泉信綱に師事してたから
その関係で石舟斎を推挙したんだろう
9181/5:2009/12/06(日) 15:24:11 ID:2f3LoAlx
秀次(と蜂須賀・ねね?)のちょっと良い話 生存end  
本を書いた著者がこの事に詳しい方から加筆してもらった様です。逸話と新説がまじってると思います。
秀次は高野山に追われ切腹させられたと言われている。
しかしそれは表向きの事で、事実は秀次は切腹したと見せかけて阿波に救出され
丹生氏を名乗って岩脇の政所(後の庄屋)になった。秀次の娘重子は、阿波藩主2代目
蜂須賀忠英の正室(名は繁)になって三代藩主光隆を生んだ。
秀次の子孫丹生氏は幕末まで代々庄屋を勤め現代まで存続している

 秀次救出は秀吉正室北政所と蜂須賀家政によって極秘で行われたが、秀次・北政所・家政は
血縁・姻族で数代にわたる相互扶助など、強い絆で結ばれていた。
蜂須賀家政の生母マツが北畠具教の側室であった頃、具教の正室に殺されそうになった時
マツを助けて匿ったのがマツの叔父で秀次の父三輪(三好)吉房であった。
やがてマツは蜂須賀正勝の正室になり、家政を生んだ。
秀次は吉房と秀吉の姉智(瑞龍院日敬)との間に生まれ、北政所の甥に当たる
そして秀頼が生まれ秀吉は関白を秀次に譲った事を後悔し、秀次は悩む
こうした時期に、秀吉子飼の武将達と側近官僚との間で対立が厳しくなっていた。
中でも武将派の宿将蜂須賀家政と官僚派の首謀石田三成との間には人間的反目があった。
朝鮮出兵によって武将達が出陣させられた後、石田三成以下五奉行を中心とする若手官僚派は
秀吉没後を睨んで、自分達が実権を握りやすい幼君秀頼を担ぐため、淀君・大野治長と結託した
9192/5:2009/12/06(日) 15:25:31 ID:2f3LoAlx
阿波に救出された秀次は、高野山丹生神社神宮の一族というふれこみで五人の家来と
別に救出されていた側室池田信輝の長女と共に、須賀郡岩脇村政所としておちついた。
世を忍ぶ名は与兵衛で、蜂須賀家政が全面的に庇護した。
蜂須賀領内では武士、領民すべて家格身分が細かく分けられ、それぞれに家役、賃祖が定められていた。
もと左大臣、関白で藩主の主筋の秀次に、不敬にならず将来にまで秘密が漏れない身分をつけるのに苦慮した。
その結果異例の「身居(家格・身分)なし」とした。身居なしとは郡奉行どころか家老の支配さえ受けない事であった
実際には内々で藩主の最高賓客待遇であった。
 初代政所与兵衛こと秀次は家政の格別な恩顧筋であり、二代藩主忠英の岳父である。
二代目政所平十朗は藩主の義兄になる。この二代の間は蜂須賀家の一族として生活の一切を蜂須賀が保障した。
平十朗の子供たちが成長しかかった頃、将来自立できるようにと田畠を持たせた。
幕府の命令で全体的に検知が行われて「検知帳」が作られたのが1603年〜04年である
それが岩脇村に限って1634年で三十年遅れている。
土地は売買が許されず、開墾して検地を受けた物しか名義人になれない制度の中で
年貢で生活できるほどの土地を新しく持たせるため、名義人を変えた検知帳を新しく作ったもので
それは藩主の命令でしかできないことであった。
特別に作られたこの検地帳に平十朗名義の土地は、屋敷地と土蔵敷地合計二反六畝余があって田畠はない
従って収入はない。一二歳の子供とその弟は合計三町六反余の田畠があり、年貢で生活ができる。
ここに「秀次と平十朗の二代は蜂須賀家が丸抱え、以後は自立」とした方針が確認できる。
しかも帳簿の平十朗の部分は最上級の敬語を使って書かれていることも異例である。
920こっちが2/5!↑は3/5:2009/12/06(日) 15:27:31 ID:2f3LoAlx
阿波に救出された秀次は、高野山丹生神社神宮の一族というふれこみで五人の家来と
別に救出されていた側室池田信輝の長女と共に、須賀郡岩脇村政所としておちついた。
世を忍ぶ名は与兵衛で、蜂須賀家政が全面的に庇護した。
蜂須賀領内では武士、領民すべて家格身分が細かく分けられ、それぞれに家役、賃祖が定められていた。
もと左大臣、関白で藩主の主筋の秀次に、不敬にならず将来にまで秘密が漏れない身分をつけるのに苦慮した。
その結果異例の「身居(家格・身分)なし」とした。身居なしとは郡奉行どころか家老の支配さえ受けない事であった
実際には内々で藩主の最高賓客待遇であった。
 初代政所与兵衛こと秀次は家政の格別な恩顧筋であり、二代藩主忠英の岳父である。
二代目政所平十朗は藩主の義兄になる。この二代の間は蜂須賀家の一族として生活の一切を蜂須賀が保障した。
平十朗の子供たちが成長しかかった頃、将来自立できるようにと田畠を持たせた。
幕府の命令で全体的に検知が行われて「検知帳」が作られたのが1603年〜04年である
それが岩脇村に限って1634年で三十年遅れている。
土地は売買が許されず、開墾して検地を受けた物しか名義人になれない制度の中で
年貢で生活できるほどの土地を新しく持たせるため、名義人を変えた検知帳を新しく作ったもので
それは藩主の命令でしかできないことであった。
特別に作られたこの検地帳に平十朗名義の土地は、屋敷地と土蔵敷地合計二反六畝余があって田畠はない
従って収入はない。一二歳の子供とその弟は合計三町六反余の田畠があり、年貢で生活ができる。
ここに「秀次と平十朗の二代は蜂須賀家が丸抱え、以後は自立」とした方針が確認できる。
しかも帳簿の平十朗の部分は最上級の敬語を使って書かれていることも異例である。
921(;ω;):2009/12/06(日) 15:29:09 ID:2f3LoAlx
すんません919と920は無視してくださいorz
9222/5:2009/12/06(日) 15:30:39 ID:2f3LoAlx
秀吉・北政所血縁者のうち、弟秀長・秀次の弟秀勝・秀保の3名は1591年の5年以内に次々死亡している
北政所の甥秀秋は小早川家に養子に、淀君や官僚派にとって最大の強敵秀次を倒すため奸策を続けた。
秀次は官僚派包囲網によって、秀吉との間をしだいに隔たれていった。
謀略と讒言によってあらゆる悪評が立てられ、あらぬい悪事の嫌疑がかけられ、しかも弁明の機会は与えられなかった。
官僚派が不得意な合戦でなく謀略で天下を取ろうというのであるからその悪(辛束)さは凄まじいものであった←漢字ワカラナカッタ
秀次が頼みとする武将達は朝鮮での悪戦と領内の疲弊に苦しんでいて、孤立無援の中で秀次は高野山に追放され、切腹命令が出された。
 その直前まで、叔母北政所を母と慕う秀次は京都○楽第にあり、秀吉の側室16人中淀君を除く全ては
伏見城において北政所と同居していた。淀君だけは秀頼とともに官僚派の本拠大坂城にあった。
秀頼の父は秀吉でなく大野治長の疑いがあり、関ヶ原で豊臣子飼・豊臣恩顧の大名・秀秋が寝返った動向の全ては
「秀頼は秀吉の子ではない」と知っての北政所の指令によるものだった。
細川・三好両氏が阿波(平島)公方を庇護してきた。家政も阿波に就封するとすぐ
阿波公方の阿波国退去を慰留した。家康をして「阿波の狸」と警戒させた家政が秀次を救出して
自領にかくまうには風雲を望む下心がなかったはずはないだろう。
 秀吉・秀次について書かれた史書は数多く、「太閤記」だけでも四、五にとどまらない。
9233/5:2009/12/06(日) 15:32:55 ID:2f3LoAlx
それらの中の秀次切腹の記事のほとんどは、官僚派の公式発表のままに書かれている。
しかし「川角太閤記」は少し趣が違う、特に秀次切腹については秀次の傘持ち吉若(改名して服部吉兵衛)
と長年親交のあった筆者が吉兵衛から詳しく聞いて書いている。
吉兵衛は秀次、実は身代わりの切腹のあと自分も切腹しようとしたが押しとどめられて生存し
別の大名に召し仕えられた。その太閤記に書かれた切腹の場面はこうである。
まず秀次の小姓三人が切腹し刀法にすぐれた秀次が解釈した後、秀次に大恩のあった僧西堂玄隆が、
頭を丸めた秀次ち向かい合って着座した。2人で掛声をかけ、玄隆が切腹した。吉兵衛が秀次の愛刀
「波泳兼光」で玄隆を介錯したが、一刀目は誤って肩に切り付け、玄隆が床机に倒れこんだ。
二刀目も誤って頭に切り込んだ。秀次が「よう心を鎮めてせい!」と励まし三刀目は成功し
秀次の近臣篠部淡路守が、その首を桶に入れて福島正則・池田伊代守両検死役に渡した。
この両人は挨拶して『後小姓たちを御介錯なさった時は、検死役として確認しました。
関白様御切腹の時は、私ども二人は少しも頭をあげておりません。その上涙がとめどなく溢れ何も見ておりません」と言った。
その後淡路守が切腹したのに続いて、吉兵衛が切腹しようとしたが検死役2人に押しとどめられてしまった。
 福島・池田両人は翌日夜には伏見城に帰り着き、秀吉の前に出ている。詰蓋された首桶を差し出して
『秀次公の御首はどう致しましょうか』と伺った。秀吉はこれに対して返事は与えず
『木食上人はあえなくも切腹させ侍るなよ』と言って涙を流すばかりであった。
高野山には興山上人と称えられ、秀吉、秀次と親しかった木食上人がいたのである。
その上人が秀次を助けてくれると期待していたのにと、嘆いて見せたのは秀吉一流の芝居で、結局首実験は行われずじまいであった。
こうして北政所と蜂須賀家政による秀次救出策戦は、秀吉・福島・池田・木食上人たちの暗黙の了解による行動
肚芸によって成功し、秀次を蜂須賀領の阿波国内で生き長らえさせたのである。
9244/5:2009/12/06(日) 15:35:13 ID:2f3LoAlx
阿波に救出された秀次は、高野山丹生神社神宮の一族というふれこみで五人の家来と
別に救出されていた側室池田信輝の長女と共に、須賀郡岩脇村政所としておちついた。
世を忍ぶ名は与兵衛で、蜂須賀家政が全面的に庇護した。
蜂須賀領内では武士、領民すべて家格身分が細かく分けられ、それぞれに家役、賃祖が定められていた。
もと左大臣、関白で藩主の主筋の秀次に、不敬にならず将来にまで秘密が漏れない身分をつけるのに苦慮した。
その結果異例の「身居(家格・身分)なし」とした。身居なしとは郡奉行どころか家老の支配さえ受けない事であった
実際には内々で藩主の最高賓客待遇であった。
 初代政所与兵衛こと秀次は家政の格別な恩顧筋であり、二代藩主忠英の岳父である。
二代目政所平十朗は藩主の義兄になる。この二代の間は蜂須賀家の一族として生活の一切を蜂須賀が保障した。
平十朗の子供たちが成長しかかった頃、将来自立できるようにと田畠を持たせた。
幕府の命令で全体的に検知が行われて「検知帳」が作られたのが1603年〜04年である
それが岩脇村に限って1634年で三十年遅れている。
土地は売買が許されず、開墾して検地を受けた物しか名義人になれない制度の中で
年貢で生活できるほどの土地を新しく持たせるため、名義人を変えた検知帳を新しく作ったもので
それは藩主の命令でしかできないことであった。
特別に作られたこの検地帳に平十朗名義の土地は、屋敷地と土蔵敷地合計二反六畝余があって田畠はない
従って収入はない。一二歳の子供とその弟は合計三町六反余の田畠があり、年貢で生活ができる。
ここに「秀次と平十朗の二代は蜂須賀家が丸抱え、以後は自立」とした方針が確認できる。
しかも帳簿の平十朗の部分は最上級の敬語を使って書かれていることも異例である。
9255/5:2009/12/06(日) 15:36:57 ID:2f3LoAlx
秀次の子は、平十朗の後1610年に娘重子が生まれた。重子は家政の子初代藩主至鎮正室の
実家小笠原忠脩家で繁姫として養育されたが忠脩は大坂の役で討死した
繁姫は忠脩の弟忠真の養女となり、寛永6年二十歳で蜂須賀2代藩主忠英に嫁ぎ
3代藩主光隆を生んだ。
〜重子時代の乳母豊について付記しておきたい〜
岩脇の隣古庄村の岡本助兵衛の娘豊は、家老牛田監物の側室となり、男児小伝次を生んだ。
まもなく秀次の丹生家に重子が生まれたので、この豊が乳母として召しだされた。
助兵衛の本姓湯浅氏は、後醍醐天皇の昔大塔宮護良親王の乳母を出した家柄であることを、
監物を通じて知った家政の推挙によるものであった。
前述したとおり丹生家は身居のつかない特別の家柄として、夫役御免で労役義務免除・毎年の藩主謁見
須賀川での漁業。苗字帯刀などの数々の特権を与えられてきた。
室町将軍直系の阿波公方でさえ身居は『浪人』であった。
丹生家は秀次来国以来二百五十年、九代目になっての天保一四年に初めて浪人の身居がつけられ、御奉公の支配下に入る
なお、丹生家五代目作之丞の二男が西玄隆を名乗って分家独立し、家老長谷川近江の用心になった。
西玄隆を名乗ったのは、高野山で秀次の身代わりとなって切腹した西堂玄隆に感謝し、永くその名を伝える為であった。
926人間七七四年:2009/12/06(日) 15:42:45 ID:2f3LoAlx
以上です、最近の三成評価に覆し追い打ちをかける内容になっていますね。
この著者があった方(名前は伏せますが)は阿波の郷土史とかから探したっぽいですね。
著書の方は三好(阿波)一族を研究されてる人ですがまさか秀次と交差するとはね〜
地元でないとこういう細かいのはのは解りませんよね。
蜂須賀家とねねの株が上がるのは解るとして、福島正則の株がこう言う形で上がるのは珍しいですねw
秀次ファンの方には朗報?なんでしょうかね…生きていたら良いですねー!
927人間七七四年:2009/12/06(日) 16:53:00 ID:dPNhTZig
大作乙でした。
事の真偽はともかく、蜂須賀藩に実際に政所与兵衛、平十朗と言う存在がいたとすれば、
いろいろ伝奇的な想像力をかきたてますな。
928人間七七四年:2009/12/06(日) 17:47:33 ID:WlENEcz8
大作おつです。
秀次生存エンドとは新しい。秀次も三成も好きな私としては三成が悪役なのが悲しくもありますが
まぁ、家康と並んで武断派から頼りにされていたらしいという話は聞いたことあるので他にも逸話あると面白いですね。
929人間七七四年:2009/12/06(日) 18:28:12 ID:O1yWnnv7
あれだけ秀次の縁者に酷な処置をした太閤が秀次を生かしておくとは思えないね
でも面白い異説だと思います
930人間七七四年:2009/12/06(日) 18:35:37 ID:epUd1+L0
乙でした 面白かったよ
>>929
秀次妻子のひどい扱いはカムフラージュだったのだよ(AA略
931人間七七四年:2009/12/06(日) 21:30:07 ID:HH3ABR1c
>>929
縁者に酷な処置をして多少溜飲が下がり、落ち着いて考えてみたら急に憐憫の情がわいてきたとか
932人間七七四年:2009/12/06(日) 21:38:35 ID:5KB65IlT
> 最近の三成評価に覆し追い打ちをかける内容になっていますね。

というかかなり古臭いタイプの話だとおもいますよ。

徳川についた豊臣恩顧の大名たちの言い訳になりそうな
筋立てを並べているだけでしょう。
豊臣家を裏切った大名たちとしては、石田三成や大野治長が奸臣で、
秀頼が秀吉の子ではなく、さらに北政所のお墨付き。


むしろ北政所が関ヶ原西軍に近かった、とかいう話のほうが興味深い。
933人間七七四年:2009/12/06(日) 23:58:23 ID:EONp6lY1
徳川秀忠は二条城の建築について藤堂高虎に案を求めた。
このとき、高虎は案を二つ用意したので、不審に思った高虎の家来が
「よいと思う案一つでよろしいのでは?」
ときいた。

すると高虎は
「それはな、一つだと秀忠様はわしの案に賛成したことになるが、
二つなら秀忠様が御自身で御選びになったことになるからだ」
と答えた。家来は、まことに慎重なお方だ、と感心したという。
934人間七七四年:2009/12/07(月) 00:02:49 ID:JwA11zoq
確かに一つしか案を出さないでそれが気に入らぬ、と蹴られたら第二案も出す間も無いよな
両方蹴られたら・・・まぁ仕方ない
935人間七七四年:2009/12/07(月) 00:31:34 ID:P+BDU6oc
>>933
その二つの案ってのが
片方がかゆいところに手が届く精緻な出来のもので、もう片方があまりにも大雑把なもので、
精緻なものだけでいいのでは?って家臣の進言に対しての返答
っていう話だった気がする。
936人間七七四年:2009/12/07(月) 05:44:26 ID:8fDcYcSk
>>935
アリバイ作りに二つ用意しただけで、本当はいい図面(案)がどっちかすぐわかるようになってたんだねw

秀忠もすぐ気付くだろうし
937人間七七四年:2009/12/07(月) 11:54:08 ID:P2CSYlB4
新キャラの声優はどうなるんだろうな?
938人間七七四年:2009/12/07(月) 11:55:09 ID:P2CSYlB4
誤爆した
939人間七七四年:2009/12/07(月) 13:58:52 ID:t3TdzX2P
森武蔵に田村ゆかり
940人間七七四年:2009/12/07(月) 17:11:37 ID:Z8LQaSAg
>>930
最上義光が挙兵しました!
941人間七七四年:2009/12/07(月) 20:12:31 ID:E+LVMVIK
>>93.9
おまいのセンスに嫉妬
942人間七七四年:2009/12/07(月) 22:42:37 ID:jUCUPUif
下総国に、生田目という一族がいた。のちに常陸に移って佐竹家に仕え、戦国時代には
佐竹(東)義久の重臣として「生田目大蔵丞」の名も見える。

さて、この生田目氏の移動の際、分家の一部は甲斐に行き、武田家に仕えた。
しかし天正10年(1582)3月、武田家は勝頼の代に及んで天目山に滅び、生田目分家は
その最期に立ち会うことが出来ず、涙を呑んだ。

「いや、武田は滅んでおらん。天目山から生き延びておる。いつの日か、必ずや当家が
武田を再興せん!」
彼らはその姓を、「天目」山から「生」きている願いをこめ、「生天目」と改めた。

声優・生天目仁美氏は、この生天目家の子孫であるという。


トリビアっぽいけど一応声優ネタってことで・・・
943人間七七四年:2009/12/07(月) 22:52:25 ID:3gJfXktR
>>912 んじゃ、直茂公の破壊と再生の話をば。


鍋島直茂は、孫である三平(勝茂の長子元茂)に家の話題をしたことがあった。

「身分の上下に関わらず、時節が来ればどんな家でも滅ぶものである。
滅ぼすまいと無理をすれば、汚い滅び方をする。

その時が来たら、いさぎよく滅ぼした方がいい。
その方がかえって、立ち直すことがあるものだ」

出典は葉隠。
鍋島は龍造寺家のかわりに佐賀の主となったわけだけど、特別ないざこざもなく替わることができたのは、佐賀の人々はこんな考え方をもっていたからかもしれない。
944人間七七四年:2009/12/07(月) 23:56:07 ID:Ame+sv9Y
徳川家康の側室、於梶の方の話。

侍女が垢のついた白小袖を洗って指を痛めているのを気の毒に思った人が、
「衣裳は多いですし、わざわざ洗濯せずにいつも新しいものを着るように
しませんか」と於梶の方に言った。

すると於梶の方は不愉快になった様子で、侍女たちを集めた。そして
「わたくしはいつも天道を恐れるように心掛けています。天道は贅沢を嫌います。
お前たちは駿河の財は多いと考えますか」
「多いと思います」
「徳川家の財は駿府だけではなく、京、大坂、江戸は金銀で満ちておる。
よって衣裳ぐらい毎日新調しても困りはしない。

されどその蓄えは天下の人々に施すため、末代まで残して国用に不自由
しないためにあるのです。どうして一枚の衣が無駄にできよう」と侍女たちを
戒めたという。徳川家は側室もケ…倹約家なのである。
945人間七七四年:2009/12/07(月) 23:57:01 ID:Z8LQaSAg
>>942
( ゚Д゚)⊃∩へぇー
「生田目」も「なばため」?
いい話だけど、いつの間にか字が変わったのを後付けで説明した話な気がすゆ。
946人間七七四年:2009/12/08(火) 00:04:47 ID:ymQL3Y+D
>>945
チョウソガベ チョウスガメ? なんてのもあったし
音さえ有ってりゃ漢字の当て方はけっこういいかげんな時代だったから別にいんじゃね?

……水原親憲さんみたいに迷惑被った一方の人もいるけどw
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1355.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2044.html
947人間七七四年:2009/12/08(火) 00:34:20 ID:HMi3oHHd
なんせ武士一般が知識階級になったのは、江戸時代からですからな。
鎌倉時代の武士なんて、今の小中学生レベルの漢字も書けないレベル。
948人間七七四年:2009/12/08(火) 08:57:50 ID:vl2Ezg1Y
>>942
生天目に声優武田軍を再興してもらわんとなw 
949人間七七四年:2009/12/08(火) 11:58:12 ID:fZGfW5QG
>>948
武田家臣系姓の声優って誰がいるんだ?
950人間七七四年:2009/12/08(火) 12:17:56 ID:/05OCmQu
再興というからにはかつて存在したことがないといかんわけだが。
951人間七七四年:2009/12/08(火) 15:36:10 ID:WyJkm6aO
>>949
玄田さんとか保志とか
952人間七七四年:2009/12/08(火) 15:50:02 ID:OqlVQ5SD
>>910
すまん、最初柿が姉に見えた。
953人間七七四年:2009/12/08(火) 16:35:18 ID:oz2nk6L+
>>951
こらこらこらww
954人間七七四年:2009/12/08(火) 16:38:28 ID:sLmJAuhK
秀吉「もしも兵五千を率いる信長公と兵二万の氏郷のどちらかと戦をするならワシは氏郷の方を選ぶ
氏郷の軍は先鋒を百人も倒せばその中に氏郷自身がまじっているからだ
対して信長公は軍を全滅させても一人生き残っておられるだろう」

秀吉の慧眼がちょっといい話?
955人間七七四年:2009/12/08(火) 17:31:58 ID:+3/IK/Fu
>>942
お前武田が日蓮宗に身延山を明け渡して比叡山に譲れとか言ったり、
(つまり武田は日蓮宗の敵)
創価学会員は今は北條伸作さんが当主(池田大作と山本伸一から来ている)とか、
(つまり北條は勝頼の敵)
>>948
「生天目に声優武田軍」なんて皆創価学会に入れということなのか?
しかも弟は身体障害者だったと思ったぞ。(聖教新聞より)
そんなんじゃ戦えないだろ。
956人間七七四年:2009/12/08(火) 17:35:59 ID:+3/IK/Fu
すまん自閉症だか脳障害だったかも。
いずれにしろ戦国では生きられん。
もうかなり前の聖教新聞だから。
>>942のネタも乗ってた)
957人間七七四年:2009/12/08(火) 17:52:26 ID:/05OCmQu
>>955-956
何が言いたいがわからんがシャレ半分の声優ネタいつまでも引っ張るのやめようよ。
あんたが聖教新聞の愛読者ということはよくわかったからさ。
958人間七七四年:2009/12/08(火) 18:04:01 ID:i+g1lzNh
チェ・ゲバラの人間的魅力について語ってる時に、右翼に共産主義が如何に悪かを、『資本論』の論理的矛盾を軸に論じられたり、

東條英機の官僚時代の功績について話している時に、左翼に靖国参拝批判を、
神道学、國學における位置付けのいびつさから行われたりするのに近い気分。

端的に言うと
「んなことよく知ってるな、俺は知らなかったよ、だけど正直場違いだから布教はよそでやってくれ」
って気分になる。
959人間七七四年:2009/12/08(火) 18:39:39 ID:yfcwhmt0
おまいらが何を語ってるか サパーリわからん俺は 普通の日本人だと認識させられた初冬の夕暮れ

クリスマスイルミネーションか綺麗だ
960人間七七四年:2009/12/08(火) 19:22:04 ID:wdYZdNZh
桶狭間の戦で今川義元は討ち取られたが、その知らせを聞いても
信長と戦い全滅した部隊があった。
他にも孤立した砦に籠って降伏を拒んだり、主君の遺体を取り戻す
まで退こうとしない者もいた。
これは平生の今川代々の教養がそうさせたのだろうといわれた。
961人間七七四年:2009/12/08(火) 20:03:27 ID:i2nz+PhE
>>954
お前殿いつ4巻買っただろ
962人間七七四年:2009/12/08(火) 20:20:19 ID:HMi3oHHd
土井利勝がある時、藤堂高虎について語ったことがあった。

「世の中の人と言うもの、たいていは、言っている事とやる事が違うものだ。
そう言う、言行が一致しない所に色々付け込まれる隙が出来て、悪口、讒言なども
言われるのだが、藤堂の親爺様、あの人は違う。

あの親爺様はいやしくもその口で言った事は、必ずやってのけた。
それが簡単な事であっても、難解な事であっても関係なかった。
そう言う風だから、あれほど何度も高名を立てても、嫉妬から讒言をされるようなことは
無かったし、家康公や秀忠公からの信頼が衰えることも無かった。

秀忠公などは本当にあの藤堂の親爺様を信用されていて、家康公に何か言上する時も、
その殆どで『これは高虎を通して言上するように』とおっしゃっていたものだ。」

高虎と言う人が、あれだけの信頼を得ていた理由である。
963人間七七四年:2009/12/08(火) 21:29:11 ID:VRxzjhpC
>>962
それ「オレから父上に言っても聞いてもらえんけど藤堂さんなら…(´・ω・`)」
ってことじゃないのかw

うん、まぁ信頼できる人がいるのはいいことだよね
964人間七七四年:2009/12/08(火) 21:37:23 ID:ZOwLCpnc
>>944
山名某「俺だってわざわざ押入れの中から足利将軍家のry」

>>962
今で言うとアルバイトから県知事or大企業社長にのし上がった人だからなあ
有言実行を地で行ってる人は違うな
965人間七七四年:2009/12/08(火) 21:45:26 ID:xsa9mezJ
藤堂高虎も一部の小説家に陰険な策謀家にされちゃってるけど
実際はこういう人なんだね
966人間七七四年:2009/12/08(火) 21:50:24 ID:vuzGuufi
逸話投下は17日後でもいいけど大友宗麟はクリスマスやってたっけ?
まとめにイースターの逸話はあったが。
967人間七七四年:2009/12/08(火) 22:02:23 ID:vOrAGgrd
日本初の西洋音楽だったか西洋劇だったかが
府内で行われたんじゃなかたっけ?>大友宗麟はクリスマス
968人間七七四年:2009/12/08(火) 22:04:11 ID:XFK9gMy2
高虎はころころ主を替えてるだけで、仕事ぶりは至って誠実で、しかも超有能なんだよね
朱子学的な面からは評価できない男だろうけど
969人間七七四年:2009/12/08(火) 22:24:49 ID:imevGvIx
>>968
それも殆ど旧主が滅亡したりしてるからじゃないかなあ。
970人間七七四年:2009/12/08(火) 22:28:41 ID:KyVP8JRB
少なくとも戦場で敵味方取り違えたことはないんだから、非難されるようなことはないと思うのだがな。
971人間七七四年:2009/12/08(火) 22:31:52 ID:VRxzjhpC
てか、二十年仕えた主家(大和大納言家)取り潰しで高野山に行ったら
潰した男が再雇用するとか言うんで下山すれば、今治七万石もらったは良いが
二年足らずで「朝鮮へ行け」

これでも秀吉恩顧に見られて裏切り者扱いとか高虎こそいい面の皮だろ
972人間七七四年:2009/12/08(火) 22:33:43 ID:c9tcgffN
浅井長政とか磯野員昌とか豊臣秀長・秀保とかか。
973人間七七四年:2009/12/08(火) 22:43:38 ID:Ubc7JPAE
高虎さんは最初期は普通に戦国武将的な世渡りしてると思うんだ。
でもそういう癖もあり、一筋縄ではいかないような所もありながら、
忠実な面も有るからこそ魅力的なんだと思うよ。
高虎さん弁護は良いけど、行きすぎた先日の大河の主人公のような美化は微妙に思う。
974人間七七四年:2009/12/08(火) 22:48:56 ID:P9AN6FMf
主を変えたってより、主家が潰れたから他家に再仕官を繰り返したってところじゃね

潰れた原因も、高虎の策謀とか失態という訳でもないのだし
975人間七七四年:2009/12/08(火) 23:13:51 ID:XC0P3xd+
>971
藤堂家の文書だと秀長が死んでから大和郡山豊臣家を出て高野山にいって、
その後秀保後見のために引っ張り出されたみたいだけど。
秀保は病死説と心中(?)説があるがどっちだろうね。
なんにしろつぶされちゃうんだけど。
976人間七七四年:2009/12/08(火) 23:47:41 ID:6L3D26vZ
>>968
変えた訳じゃなく変えざるを得なかったというか潰れちゃったんだから仕方がないよ

積極的に乗り換えまくった人ってなんだかんだであまりいない気がするんだけど
977人間七七四年:2009/12/08(火) 23:58:51 ID:7AP53pJw
真田昌幸はその典型例かな
978人間七七四年:2009/12/09(水) 00:11:36 ID:RQYThIHe
真田や毛利は乗り換えまくったけど
もとが豪族というか国人領主で独立した勢力の長だったわけだから
高虎の場合とは微妙に異なる気がする。
979人間七七四年:2009/12/09(水) 00:13:51 ID:wQax6Wet
比較するなら可児才蔵だな
980人間七七四年:2009/12/09(水) 00:14:18 ID:EKV//nzU
まあ主をどんなに変えようがかまわんと思うけど。
戦国時代だし。御家存続させられればいいわけで。
つうかキレイな武将なんて江戸時代以降の妄想みたいなもんだし。
981人間七七四年:2009/12/09(水) 00:20:12 ID:i/XU3ymu
高虎は「主を七度変えてこそ…」が先行してイメージが付いた希ガス
982人間七七四年:2009/12/09(水) 00:33:32 ID:jTkfly+u
>>980
元親が一条家に情けかけようとして弟にガチ説教食らった話もあったな
983人間七七四年:2009/12/09(水) 00:45:21 ID:B2Y5Nb5x
可児才蔵と渡辺勘兵衛あたりじゃないか
984人間七七四年:2009/12/09(水) 01:08:20 ID:UvIwibG2
本多政重…ちと違うか
彼の場合は、スパイ兼お目付け役だからなあ
お目付け役として、きちんと機能していたのかは分からないけど
985人間七七四年:2009/12/09(水) 01:14:22 ID:VIsuXyu+
そろそろ新スレ…、と思ったらもう立ってた

戦国ちょっといい話16
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1260254478/

宣言無いけど、次はここでいいのかな?
986人間七七四年:2009/12/09(水) 01:19:28 ID:BwEN/cFf
>>976
いや、それも微妙に違ったりするんだ。
地元の浅井家を二年で出奔。
浅井家滅亡はその翌年。
次にご近所の阿閉家に仕えるも一年で出奔。
阿閉滅亡は本能寺絡みだからその九年後。
次にまたまたご近所の磯野家に仕えるが、ここは翌年に主君が出奔w
そのまま養子の津田信澄に仕えるが、翌年に出奔。
信澄滅亡も本能寺絡みだからその七年後。
若い時の高虎は、本当にただの渡り奉公人だよ。
主家が滅びたから移った訳でも、先見の明で移った訳でもない。
逆に言えば、そのまま仕えてたら主君と共に滅びていたかもしれんから、
物凄く運がいい男なのかも知れないw
987人間七七四年:2009/12/09(水) 01:21:17 ID:UvIwibG2
本多政重さん
徳川→大谷→宇喜多→福島→前田→上杉→前田

ちなみに、上杉を出奔した後、前田への帰参を取り成してくれたのが藤堂高虎さん
988人間七七四年:2009/12/09(水) 01:29:51 ID:tsk97om3
でも、下克上はしたけど旧主を完全に滅ぼすって、余りないことでもあるんだよね。
三好長慶も斉藤道三も、旧主と敵対しながらも何度も和睦して保護したりしている。
朝倉や浅井は無力化させた旧主一族を、領内で保護したりしている。
能登畠山家や陶に担がれた大内家のように、傀儡としてでも残される場合もある。
信長は尾張守護斯波家の当主を最初は保護し、後に謀反を企んだと追放したが、
その息子たちは保護して家臣団に編入した。
秀吉も敵対した信孝らはともかく、他の織田一族は力は奪ったが保護し大名として
存続もさせている。
家康も、今川家に反逆したが、後には氏真を保護したりもしている。
もちろん政治的な効果を狙ってのことだが。
989人間七七四年:2009/12/09(水) 01:34:06 ID:VIsuXyu+
>>988
そんなだから、今は戦国時代を「下克上」で説明するような事は無くなっているね。
最近の歴史書はおおむね、「一揆」を軸に戦国を解説してる。
990人間七七四年:2009/12/09(水) 02:24:38 ID:ZNWMVjhj
>>982
どんなエピソード?
991人間七七四年:2009/12/09(水) 04:35:01 ID:YeyyB+My
>>988
じゃあ下克上を果たしたのは直家さんくらい?
992人間七七四年:2009/12/09(水) 07:10:02 ID:bfHhDbsU
>>989
ねーよ
なんでも今までの説明を否定すればいいって物じゃない
993人間七七四年:2009/12/09(水) 07:37:30 ID:qehNjLrl
言ってみれば、家康による豊臣家潰しが戦国最後の下克上だな
994人間七七四年:2009/12/09(水) 08:39:16 ID:qUHHQOPV
それは既に逆転しおわった後でね?
995人間七七四年:2009/12/09(水) 08:42:35 ID:o6XtqHIv
高虎は幕末で子孫がやらかさなきゃもうちょい違った評価になっていたんじゃないか。
996人間七七四年:2009/12/09(水) 08:52:41 ID:wQax6Wet
蛤御門の変で先鋒を務め大活躍し、長州征伐でも先鋒を務め大敗北を喫した
彦根藩井伊が、鳥羽伏見の戦いに参加していない時点で、徳川は世間から
見捨てられたも同然だろう。藤堂が見捨てても問題ない。
997人間七七四年:2009/12/09(水) 09:01:41 ID:6+ORYjDZ
>>988
為景さんあたりはどうだろうか
998人間七七四年:2009/12/09(水) 09:16:30 ID:wQax6Wet
北条早雲 関東公方を殺す
松永久秀 将軍を殺す

完全に下剋上を成し遂げたのはこの辺りだな
999人間七七四年:2009/12/09(水) 09:18:55 ID:VIsuXyu+
>>998
> 北条早雲 関東公方を殺す

殺してない殺してない。
1000人間七七四年:2009/12/09(水) 09:20:33 ID:02rRVZjx
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