【東播磨】別所氏を語る【三木城】

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1人間七七四年
東播磨の三木城を本拠とし覇を競ったものの毛利と織田の間に揺れ、
最後は秀吉に兵糧攻めされて滅んだ別所氏について語りましょう。

別所長治 辞世の句
「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」

■武家家伝_別所氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/besyo_k.html

■関連スレ
播磨赤松氏について語るスレ
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1153399640/
ザ・浦上氏
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1154943603/
2人間七七四年:2009/10/23(金) 01:39:37 ID:uXI/5g0i
讃岐国絵図:最古の絵地図を公開 「当時の様子詳細に」田中・香川大教授鑑定 /香川
http://mainichi.jp/area/kagawa/news/20091003ddlk37040682000c.html

>大きさは縦約80センチ、横約215センチ。和紙に日本画の顔料で描かれている。
>所有者は、印章から、二代将軍・徳川秀忠に仕えた旗本の別所信治と考えられる。


この旗本の別所信治って、やっぱり一族だよね?
3人間七七四年:2009/10/23(金) 23:11:09 ID:sUYj7nxC
東播磨地域住民なんで気にはなるスレだが…落ちるかなw

ネタ持ちの人はいないのか。
4人間七七四年:2009/10/24(土) 02:34:40 ID:c5LbUXY0
長期間籠城出来るほど三木城の付近って、険しい場所だったのか?
すぐ横に川が流れてるから、そこから兵糧を逐次補給出来そうだが。

>>2
信治が誰の系統か分からん。

>>3
東播磨って別所以外だと、どんな連中がいる?
「明石」「魚住」「孝橋」とかぐらいか。
5人間七七四年:2009/10/24(土) 15:04:14 ID:g65EyX2k

宮本武蔵生誕地の異説が播磨別所領にあったらしい。
6人間七七四年:2009/10/25(日) 03:20:17 ID:ztwDNSpz
>>2
おそらく別所長治の叔父で秀吉側についた重宗の系統でしょう。子の吉治は実は長治の子、とかって嘘くさい説がある。
吉治は関ヶ原の後丹波だか但馬あたりに3万石程度もらって大名になるけ参産勤交代さぼるかなんかやって改易になったんだっけ?

以上通りすがりのおぼろげ情報でした。
7人間七七四年:2009/10/25(日) 03:29:22 ID:ztwDNSpz
>>4
行ってみると分かるけど意外山も低いし険しいって程じゃないんだけど何か守りやすかったみたい。
川は上流を秀吉に押さえられてるので使えないでしょう。明石の方からこっそり山越えて兵糧運びこんでたみたいだけどかなり命がけ。

これもおぼろげな記憶なので信憑性は問わないで下さい(^_^;)
8人間七七四年:2009/10/25(日) 04:30:32 ID:x9nfmvW+
別所長治の「長」が、信長からの一文字拝領って本当かな?

>>6-7
お主、詳しいですな。三木付近に住んでた人?
9人間七七四年:2009/10/25(日) 06:50:44 ID:ztwDNSpz
>>8
へい、ちょっとだけ住んでた時期がありました。

長治の長、ですが長治が成人した時はまだ毛利側についてたはずだから違うんじゃないでしょうか?
10人間七七四年:2009/10/25(日) 21:18:20 ID:x9nfmvW+
>>9
これは即レスありがたやm(__)m

三木在住時代のネタとかあれば、また投下をお願いします。
11人間七七四年:2009/10/25(日) 21:58:06 ID:ztwDNSpz
>>10
へっへっへ、旦那に喜んで貰えるならそりゃあもう…!

ところでこんなん見つけましたよー。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/別所長治
12人間七七四年:2009/10/26(月) 07:49:42 ID:79upCue1
そろそろ即死ラインを越えた?

>>11
毎度ながらアンサイの記述wwww

「別所公 春祭り」はメモメモφ(`д´)っ
13人間七七四年:2009/10/26(月) 12:21:40 ID:bWn2M+9s
>>12

三木市は市長が若い人に代わってから財政難を理由に別所ハム春まつりへの補助金を今年からカットしたらしいです。
ただでさえ自治会のお祭りに毛が生えた程度の祭(^_^;)だったのに市の援助がなくなったら武者行列とかもできなくなるのかなぁ…。
14人間七七四年:2009/10/26(月) 17:21:03 ID:bWn2M+9s
アンサイクロペディアにもネタにされてましたが、三木の山中にはペットとして飼われてたと思われるアライグマが捨てられ異常繁殖して近隣の農家を困らせまくってるとか。
アライグマって凄い繁殖力なんだって。天敵もいないだろうからやりたい放題らしいです。
15人間七七四年:2009/10/26(月) 17:52:07 ID:bWn2M+9s
>>14
すいません別所氏とは全く関係ない事書いちゃいました…
16人間七七四年:2009/10/27(火) 18:09:26 ID:uOu08QUk
別所滅亡の原因は2人のアホな叔父さんのせい
長治パパがもうちょっと長生きしてたらなぁ…
17人間七七四年:2009/10/27(火) 18:36:31 ID:uOu08QUk
>>14

あのアライグマネタは地元民しかわからんでしょ。ブッ飛びすぎ。
18人間七七四年:2009/10/28(水) 00:35:43 ID:krAMojek
>>13-15
ローカルな事情も含めて乙w
大学時代の友人が三木の近くに住んでるから、今度会ったら聞いてみるよ。

>>16
別所吉親ですか……。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A5%E6%89%80%E5%90%89%E8%A6%AA
http://sx.sakura.ne.jp/~bessy/bessyo/hideyosi.html
秀吉との個人的不和から毛利方に付いたのは信じがたいですが、
何か別の理由でもあったんでしょうかね?
19人間七七四年:2009/10/28(水) 02:31:04 ID:IlX4Tek6
しかし「秀吉との個人的不和で毛利方に」ってのは、別所に限らず中国戦線のいたるところで
聞かれる話だな。秀吉はよほど、地元豪族に占領軍然とした高圧的な態度で接していたようで。
20人間七七四年:2009/10/28(水) 02:58:20 ID:YdvoQeV1
地元豪族で思い出したけど、淡河城の淡河氏って、別所一族なの? 自分の城を捨てて、三木に合流するなんて従順だな
21人間七七四年:2009/10/28(水) 12:21:43 ID:q5Kt7tsh
>>19

長治の叔父、吉親と重宗は仲が悪く、重宗が織田に接近したのも先見の明があったというよりは、元々親・毛利派の兄を出し抜いてやろうとしただけでしょう。
重宗の説得で織田につく事が決まった事が内心面白くない吉親が加古川評定での秀吉の態度の悪さを理由に反旗を翻したのではないでしょーか?
22人間七七四年:2009/10/28(水) 12:25:18 ID:q5Kt7tsh
ちなみに吉親のヨメは巴御前ばりの女豪傑で戦場で大活躍したらしいっス
23人間七七四年:2009/10/28(水) 18:22:54 ID:q5Kt7tsh
>>20

淡河定範は別所家一の知恵者と言われた人物で祖先は北条氏ですが別所に従属してました。
馬を沢山集めて織田軍に向かって放つ奇襲で緒戦は大勝したものの、淡河城ではとても支えきれないのでさっさと火を放って三木城に引き上げました。
合流後の戦いですぐ死んでしまったのがもったいない…。
24人間七七四年:2009/10/28(水) 23:40:46 ID:YdvoQeV1
>>23 ありがとう。 牝馬を放して敵を混乱させたって話は聞いた事ある。 で、北条氏って執権の? 出先機関の長ってことかな。元々は、別所氏より格が上だったのかも。
25人間七七四年:2009/10/29(木) 18:21:56 ID:96JyT1HY
>>24

淡河氏は北条一門で淡河の地頭職でした。鎌倉末期ごろの播磨は北条氏のテリトリーでした。
その頃、別所氏の祖先赤松氏は悪党とよばれた反権力武装ゲリラみたいな存在で淡河氏も散々苦しめられました。
鎌倉幕府滅亡後はジリ貧状態になりましたが、大出世した赤松円心と姻戚関係を結び一安心、
と思いきや赤松満祐が嘉吉の乱を起こし滅亡したとばっちりでまたもジリ貧状態に舞い戻りました。
それでも粘り強く生き残り戦国期には別所氏に従いました。

…て、なんだか救われない一族ですね(T_T)
26人間七七四年:2009/10/29(木) 22:30:06 ID:1kjwqViu
淡河城行ったことあるけど、内堀とか残ってて良い感じだったなぁ。二回目行った時は、変な櫓が建ってたけど… 三木城も行ったことあるけど、遺構的なものは見つけられなかったけど、何か残ってるのかな…
27人間七七四年:2009/10/30(金) 00:05:59 ID:NFogshcj
三木城跡は行った事ないのに、平井山本陣跡には行った事がある。
なんかプラスチック製ベンチと灰皿があって、地元老人の憩いの場なのか?って思った。

あとはその近所の半兵衛重治墓か。
28人間七七四年:2009/10/30(金) 17:51:26 ID:nBhLLQyz
>>26
淡河城ってひょっとして道の駅の上のところですか?

>>27
平井山や半兵衛のお墓のあたりは今やすっかり葡萄畑ですねー。
29人間七七四年:2009/10/31(土) 19:29:45 ID:JNuwOpsf
別所重棟に福島正則の姉が嫁いで生まれたのが福島正之というのが定説だが
嫁いだのは姉じゃなく妹だとか嫁いだ相手も重棟ではなく別の人物だとか
生まれたのも正之じゃなくて別人だとか色んな説があるらしい
30人間七七四年:2009/11/01(日) 05:35:25 ID:fPR64DMt
>>29
別所重棟(宗?)って三木落城後も秀吉に仕えたそうだけど、主家を滅ぼした裏切り者、みたいに白い目で見られて肩身が狭かったりしたのかなぁ?小早川秀秋みたいに。
31人間七七四年:2009/11/01(日) 07:44:55 ID:7JEyIacZ
別所って毛利と似ているよね。
当主を補佐する二人の叔父が、兄反織田羽柴、弟親織田羽柴に分かれて
主導権争いしている。
32人間七七四年:2009/11/01(日) 18:48:09 ID:fPR64DMt
>>31
そういえば似てますね。小早川の水軍は別所を助けようと何度も上陸しようとしてたらしいけど、陸路からは援軍来なかったんですよね?上月城の尼子勝久を滅ぼしてそれきり?
33人間七七四年:2009/11/01(日) 18:52:33 ID:fPR64DMt
>>32
あれ?これじゃ逆だ。何で毛利は陸から援軍送らなかったんだろ?一回裏切った別所を本腰入れて助ける気がしなかったのか、それとも織田との直接対決を先延ばしたかったのか…?
34人間七七四年:2009/11/01(日) 18:55:06 ID:7JEyIacZ
>>33
味方の宇喜多が一番怖いから
宇喜多が裏切って織田に付いてから、
安心して陸路、戦えるようになった。
35人間七七四年:2009/11/01(日) 19:07:24 ID:fPR64DMt
>>34
即レス大感謝です。別所も織田を裏切らずに秀吉の下で上手くやっていってたら宇喜多みたいに五大老クラスになれたかも?

あ、でもそれじゃ本能寺の変が起こらないや…。
36人間七七四年:2009/11/01(日) 19:29:34 ID:7JEyIacZ
別所が織田に敵対した理由として、長治の妻の実家である波多野氏が
滅ぼされかけていたのも大きいかもしれない。波多野を支援するため、
あるいは波多野の情状酌量を求めるためとか。
37人間七七四年:2009/11/01(日) 20:59:02 ID:fPR64DMt
>>36
丹上山と淡河城が健在の時点では波多野秀治と連携できたんだろうけど、地元の勢力だけじゃ織田を相手にするのは難しかったでしょうね。やっぱり目当ての毛利の援軍が来てくれないと…。
38人間七七四年:2009/11/01(日) 23:08:05 ID:AJmB19yZ
>>28 遅レスですが… そうです。道の駅の裏の山です。山って言ったけど、上に上がると台地みたいな感じかな。全体の規模はよくわからないけど、内郭はホント小さな城です。
39人間七七四年:2009/11/02(月) 19:29:46 ID:JMZguzYR
懐かしの『信長の野望全国版』では1ターンめの内政画面にたどり着く前に滅亡する
40人間七七四年:2009/11/02(月) 20:32:34 ID:JMZguzYR
ちなみに別所長治享年2才…(T_T)
41人間七七四年:2009/11/03(火) 10:21:07 ID:MSkxk51O
ちょっと古いネタですが。

別所長治公の子孫、三木毅さんの寄贈図書3千冊に
http://www.kobe-np.co.jp/news/touban/0001712796.shtml

『市教委教育振興部によると、三木さんは三木城主の別所長治公の子、則光の子孫に当たる。則光は三木城が落ちた後、佐用郡に逃れて三木姓を名乗っており、三木さんの父親の代で北海道へ移住したという。
 図書館は、寄贈された本を「長治文庫」と名付けて整理してきた。』
42人間七七四年:2009/11/03(火) 10:47:04 ID:MSkxk51O
>>38
淡河城は内郭は小さいけど、地形を利用したかなり広大な堅城だったらしいです。
今ではまったくピンと来ませんが(失礼!)当時は播磨と摂津の国境に位置し街道沿いの交通の要衝だったそうです。
43人間七七四年:2009/11/03(火) 11:40:00 ID:aNUBcRtC
>>41
こうやって末裔が健在ってのは凄いな。
44人間七七四年:2009/11/03(火) 13:27:48 ID:MSkxk51O
>>43
いやいや、そこは別所長治公の子、則光って誰だよw

て、ツッコミを頂きたかったのですが…。
45人間七七四年:2009/11/03(火) 13:32:12 ID:klNY2fvT
子孫がいるというのが不思議だな。
死後、養子でもとったのかな。
46人間七七四年:2009/11/03(火) 13:40:32 ID:MSkxk51O
まあ案外殺した事にしてこっそり子供だけ逃げさせた、ってのはあり得るでしょうけど。落ちのび伝説なんて全国津々浦々にありますからねぇ。
47人間七七四年:2009/11/03(火) 15:15:40 ID:Xj90Mzqe
それこそ別所重宗の子の吉治が実は長治の子なんて伝承もあるわな
48人間七七四年:2009/11/03(火) 16:30:52 ID:MSkxk51O
毎年別所公春まつりの日(ゴールデンウィーク)に城趾の中にある寺で『別所公一族会総会』てのが催されてる(どんな事やってんのかは知らない)。
直系子孫かどうかはともかく一族の生き残りの子孫は結構いるんでしょうね。
元巨人の別所毅彦も三木城の別所の末裔だったらしいし。
49人間七七四年:2009/11/03(火) 21:12:39 ID:MSkxk51O
しかし2年近くも籠城してたら絶対気が変になるよな…。
50人間七七四年:2009/11/04(水) 08:15:35 ID:Zakg9zmI
俺だったら飢えに耐えかねて自害しちゃうな。
51人間七七四年:2009/11/04(水) 08:26:10 ID:zUDCP1Ql
しかしよく考えてみると別所氏って少し情けないよね。
秀吉に反乱起こしたまではよいが、あとは只管引き籠っていただけ。
兵糧搬入のときだけ出撃して、積極的に秀吉を倒す気がない。
初期の段階だと、充分に秀吉と戦える戦力はあったのに、
神吉や志方を見ごろしにしている。
52人間七七四年:2009/11/04(水) 17:49:46 ID:Zakg9zmI
>>52
織田についたと思ったらまた毛利側、って優柔不断ぶりでは別所氏が戦国の世を生き残るのは無理。
53人間七七四年:2009/11/04(水) 17:53:08 ID:Zakg9zmI
すいません>>51でした。
54人間七七四年:2009/11/04(水) 21:32:28 ID:Zakg9zmI
かの楠木正成は籠城して粘りまくってるうちに足利高氏が六波羅滅ぼしてくれたおかげで勝利したけど、
別所は2年も耐えぬいたのに何にも状況が変わらなかったね。なんかカワイソ…(T_T)
55人間七七四年:2009/11/04(水) 21:40:26 ID:4S5fDQUF
結局、毛利の領地じゃないし、毛利としては、真剣に支えるつもりはなかったかもな。最前線過ぎたのかなぁ。
56人間七七四年:2009/11/04(水) 21:44:45 ID:Zakg9zmI
がんばっても報われないって事の代表例ですね…
57人間七七四年:2009/11/04(水) 23:43:45 ID:hMVBSLf8
>>52
真田も毛利も藤堂も頻繁に変わってるけどな
要は時勢を見極められてるかどうかが大事なのであって主変えるのは普通のこと
58人間七七四年:2009/11/05(木) 00:11:33 ID:9GdlDbQU
>>51
神吉は真面目に戦って死んだけど、志方の櫛橋は戦わずにとっとと三木に逃げたんじゃなかったっけ?
59人間七七四年:2009/11/05(木) 15:50:50 ID:9GdlDbQU
>>55
毛利に天下獲りの野心があれば大軍引き連れて三木で天下分け目の合戦が行われたかもなぁ。
60人間七七四年:2009/11/06(金) 07:49:12 ID:+zD62u2f
戦国期だと東播は三木、西播は赤松って理解で良いのかな?
61人間七七四年:2009/11/06(金) 21:21:27 ID:Rpp05ITh
>>60
う〜ん、西播磨は一応赤松が殿様だけど豪族たちの統制ってとれてたのかな?
黒田官兵衛の“本来の”主・小寺氏も大名って呼ぶ程じゃないし…。
62人間七七四年:2009/11/06(金) 21:33:49 ID:POYfWwF0
郵政氏の居城グリーンピア三木
63人間七七四年:2009/11/06(金) 22:16:45 ID:Rpp05ITh
>>62
グリーンピア三木は全国のグリーンピアの中で唯一黒字経営だったんだっけ?
64人間七七四年:2009/11/06(金) 22:34:58 ID:Rpp05ITh
別所の織田離反の理由の一つに東播磨には一向衆門徒が多かったから、って聞いた事があるな。
65人間七七四年:2009/11/06(金) 23:09:00 ID:7eEmsBvI
>>4
別所氏の長年のライバル依藤氏。三木のお隣、豊地城主。
赤松家中での勢力争いから、主家が内紛状態になると武力衝突に発展し、
依藤氏は浦上村宗・細川高国と組み、別所氏を三木城から追い出した。
三木城が落城したのはこの時と、秀吉の二度だけ。
66人間七七四年:2009/11/07(土) 01:20:31 ID:Tq7B5BiZ
>>65 普通一度落城したら、その家は滅びるもんだと思っていたが… どこに潜んでいたんだろう
67人間七七四年:2009/11/07(土) 01:52:20 ID:PZ0oh3lo
取られても取り返すですよ。小田氏治(天庵)とか何度もやってる。
68人間七七四年:2009/11/07(土) 06:25:35 ID:0bgXfQXc
>>65
確かその当時の赤松さんは四国に逃亡したんだっけ?浦上村宗はなんとか崩れの戦いでまさかの敗死して赤松さんも三木さんもホクホク失地回復した、とかそんな感じでしたかね?
69人間七七四年:2009/11/07(土) 07:34:30 ID:0bgXfQXc
>>68
三木さんじゃない別所さんだ。巨人贔屓の。
70人間七七四年:2009/11/07(土) 09:11:02 ID:ucRm6jPp
>>63
マジで黒字なの?
仕事で昔、泊まった時に
あそこゴルフ場だから
まわりに食事するトコなくて
夕飯の選択肢が5000円のしか無かったから泣いた。
フロントで「ここら辺りは他に食べるとこないから、これ食べるしかないです!」とか高飛車に言われたし。
しかもやたら早い時間に終わってしまうから、冷えたもんを喰わさせるハメになるクソホテルだった。
71人間七七四年:2009/11/07(土) 10:38:36 ID:0bgXfQXc
>>70
マジですよ。いまだに地元住民の憩の場になってます。
72人間七七四年:2009/11/07(土) 20:04:18 ID:JGq+3uXy
光栄のゲームやとかなり能力的に冷遇されとるよね播磨武将って。
73人間七七四年:2009/11/07(土) 21:32:54 ID:0bgXfQXc
>>72
信長の野望は天翔記しかやったことないけど、なぜか別所長治配下に小寺や黒田官兵衛(重宝する)がいたり、本物の配下は別所重宗(裏切り者)だけだし、扱い酷過ぎだったなぁ。
74人間七七四年:2009/11/07(土) 21:49:35 ID:JGq+3uXy
革新だと姫路城に赤松の直臣として長治いるよ。
75人間七七四年:2009/11/07(土) 21:55:34 ID:0bgXfQXc
>>74
んなアホな!
最近のは知りませんが光栄開発陣は絶対播磨の事よく調べてないですよね。
76人間七七四年:2009/11/07(土) 22:02:07 ID:0bgXfQXc
しかも姫路城に赤松て!当時の姫路城は小寺の配下だった黒田官兵衛の居城で小城のはずでは…?
77人間七七四年:2009/11/07(土) 23:15:31 ID:JGq+3uXy
小寺も黒田も別所もみんな姫路城で赤松の家臣ですよあのゲームは。
ゲーム上、一国一城だからそないなるよね。
78人間七七四年:2009/11/07(土) 23:51:09 ID:0bgXfQXc
>>78
ひょっとしてソレ、ファミコンゲームですか?ならしょうがないですよね。
基本播磨の城は北に置塩城(赤松)、西に上月城(赤松支城→尼子勝久)、南に御着城(小寺)、東に三木城(別所)の4つがあれば十分だと思います。
79人間七七四年:2009/11/07(土) 23:56:21 ID:JGq+3uXy
>>78
プレステの革新だよ
80人間七七四年:2009/11/08(日) 00:08:38 ID:dky11spS
>>79
78です。どんなゲームか知りませんがやりたくないですねー。
あ、そーいや巨人日本一ですね。別所さんもあの世で大喜びでしょう。
81人間七七四年:2009/11/08(日) 00:56:11 ID:dky11spS
そーいえば司馬遼太郎のご先祖も三木の別所だって自分で書いてたな
82人間七七四年:2009/11/08(日) 04:23:18 ID:7XfdcZJ2
光栄は知名度とイメージ優先で、考証とかは適当だからw
史実優先なら「天下統一」や「戦国史」だな。
別所もしっかり選べるし。
83人間七七四年:2009/11/08(日) 07:31:59 ID:WKbBHlh0
ゲームの話は三戦行けカス
84人間七七四年:2009/11/08(日) 10:04:35 ID:dky11spS
別所長治のおじいさん就治は出雲の尼子晴久の上洛軍を食い止めた凄い人らしいね。播州諸城がさっさと降参する中すげえぜ別所!
85人間七七四年:2009/11/08(日) 15:35:17 ID:JrEb2+Cd
ハムの人
86人間七七四年:2009/11/08(日) 18:30:43 ID:dky11spS
>>85
別所哲也は子孫なんかね?芸名?
87人間七七四年:2009/11/08(日) 23:26:08 ID:T/mwZTr8
播州武者は基本ヘタレでしょう。所詮は田舎侍ですから
88人間七七四年:2009/11/09(月) 00:11:38 ID:IEp4dl5e
>>87
酷い事言うなぁ…

でも播磨って畿内に近いのに中央の情報には疎いし田舎くさいと言うか考え方が古くさいとゆーか。そういう印象は感じるね。
89人間七七四年:2009/11/09(月) 00:20:19 ID:+507dMFJ
>>88
どういうとこから?
90人間七七四年:2009/11/09(月) 08:43:19 ID:xRtdq+xr
播州出身で名前の通った武者って誰がいるの?
メジャーな別所、黒田やその家臣以外で。
南北時代以降の播磨は影が薄いよね。中国方と機内方に強姦されてるだけじゃん
91人間七七四年:2009/11/09(月) 09:27:25 ID:BYsuGNwB
糟屋武則
92人間七七四年:2009/11/09(月) 11:00:00 ID:IEp4dl5e
>>89
当時の播州は官位とか中央の権威に弱く、足軽上がりで風采のあがらない秀吉が総大将なことに馬鹿にされたと思ったらしい。
また余所者を警戒して閉鎖的な気風は未だに続く播州地方の特徴。
93人間七七四年:2009/11/09(月) 14:33:53 ID:IEp4dl5e
>>90
後藤又兵衛の父・基次は長治の家臣で又兵衛自身も少年時代三木の干殺しを体験したとかしないとか。
94人間七七四年:2009/11/09(月) 21:01:56 ID:IEp4dl5e
>>93
あ、別所の家臣はダメなのか。いやでも又兵衛自身は別所家には仕えてないからアリ?
95人間七七四年:2009/11/09(月) 21:36:01 ID:QfaWzOHD
播磨はもともと豊かな土地だから、何かあっても適当に強そうな方に合わせとけばええやん
まあ、何とかなるやろって感じだろw
96人間七七四年:2009/11/10(火) 05:32:21 ID:Y566aRu7
>>95
何とかなってないやんw
97人間七七四年:2009/11/12(木) 09:55:07 ID:lgn8Mkvp
完全に侵略されましたね。本当にありがとうございました。
98人間七七四年:2009/11/12(木) 12:04:52 ID:/MTj0o5M
>>95
>>96
田舎者なので中央情勢に疎く、
強そうな方でなくて、弱そうな方に合わせてしまったから。
99人間七七四年:2009/11/15(日) 07:32:05 ID:strquWdr
最近目にする「別所就治が尼子に降った説」の典拠がさっぱりわからん。
何か新史料でも出たんでしょうか?
100人間七七四年:2009/11/26(木) 10:09:04 ID:YjTCLmFC
>>99
上月に義久の墓があるとかそんなことからじゃないの?
101人間七七四年:2009/11/30(月) 11:35:53 ID:MSvkBMkX
>>99
三好侵攻と尼子が志方まで瞬間最大風速でやって来たのがごっちゃになってるんだろう。
尼子城の将監墓は遠すぎてたぶん関係ない。
102人間七七四年:2009/12/02(水) 00:05:42 ID:3onAgH/R

山口の大内

広島の毛利

島根の尼子

岡山の宇喜多

阿波の三好

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

鳥取の山名、武田、南条

兵庫の赤松、別所、宇野

香川の香川、十河、




103人間七七四年:2009/12/02(水) 12:20:00 ID:pvlyIWQi
志方の城山シラミが四匹
104人間七七四年:2009/12/05(土) 12:08:26 ID:qDFyKcFE
律令制度の下では大国に分類されるんだけどな。
105人間七七四年:2010/02/09(火) 16:03:18 ID:AfPj8t8i
志方の城山か、今度登ってみようかな。
106人間七七四年:2010/03/11(木) 23:09:47 ID:LH8AOivN
保守
107人間七七四年:2010/03/18(木) 16:00:29 ID:BxIshRnX
>>99
多分、得平定阿の『赤松記』の新解釈。
晴政が摂津瀧山に避難した際のくだりを、読み込んで解釈したんだろうて。


それより、いつまでたっても「就治」の表記が改まらないのはなぜだろう。
108人間七七四年:2010/03/21(日) 09:16:20 ID:4IzI2PTf
週間ヤングマガジンで連載しているセンゴク天正記が
ついに播磨編に入りましたよ。
先生なら三木合戦も熱く書きそうだし楽しみですね。
109人間七七四年:2010/04/27(火) 02:19:50 ID:Fhhz+wgO
三木に長い事住んでましたよ
保育所は城址の本丸にある保育所でした
昔は塀とかなかったのですが今は長治像や銃眼付きの塀が建ってます
釜山と言われる本丸からかなり離れた大宮八幡宮あたりまで城だったらしく規模はかなりの大きさですね
淡河城もそうですが典型的な中世の山城です
蓑川沿いが再開発で住宅地になった時に三木合戦の遺骨が沢山出たらしいですよ
110人間七七四年:2010/04/27(火) 02:48:20 ID:MWoddpfk
今度の休みにドライブがてら淡河あたりに行ってみようかな。
111戦国乙女:2010/05/27(木) 19:06:14 ID:cmQv91lj
渡邊大門『戦国期赤松氏の研究』岩田書院(2010年5月刊行/定価 7,900円・税別)

<目次>
序 章 赤松氏研究の現状と課題
第一部 赤松氏と守護代・国人層
第一章 西播守護代赤松政秀の権力形成過程
第二章 東播守護代別所則治の権力形成過程
第三章 戦国期における播磨国一宮伊和神社と宇野氏
第四章 赤松春日部家の基礎的研究
第五章 美作地域における奉公衆の研究
付論1 戦国初期の宇喜多氏について
付論2 中近世移行期における宇喜多氏の権力構造
第二部 戦国期赤松氏の領国支配構造と展開
第一章 戦国期赤松氏の領国支配の構造
第二章 戦国期赤松氏の領国支配の展開
終 章
あとがき
112人間七七四年:2010/06/12(土) 23:47:51 ID:mdDBNAr4
別所就治┳安治┳長治┳竹姫
    ┣吉親┗友之┣虎姫
    ┗重棟━吉治┣虎千代
          ┗松千代
113人間七七四年:2010/06/12(土) 23:52:59 ID:KXsU4IeU
乱交してるようにしか見えん
114人間七七四年:2010/06/13(日) 21:45:58 ID:H33fW5De
天文5年から9年にかけての尼子詮久の備前・播磨への大遠征。
いずれも敵はなく候(大館常興日記)。
赤松晴久は、命からがら淡路に逃亡。
しかし別所村治のこもる三木城が攻略できず撤退。
村治とは、就治の父??
115人間七七四年:2010/06/13(日) 22:53:51 ID:Z5+xYqk1
村治=就治では?
則忠─則治─就治(村治)─安治─長治なんじゃあ?
116人間七七四年:2010/06/13(日) 22:57:45 ID:Z5+xYqk1
連投申し訳ない
武将の家紋-戦国大名家一覧というところが詳しい
117人間七七四年:2010/06/17(木) 18:35:53 ID:VWsieBrQ
>>114
  赤松晴政(政村)でした
118人間七七四年:2010/06/19(土) 17:28:03 ID:K8dV2kAG
【長治が信長に謀反しなければ…】
本能寺の変のとき秀吉・長治(村重もかな)は安芸・石見まで侵攻
秀吉は長治に侵攻を任せて中国大返しをして明智を滅ぼす
清洲会議までに長治は毛利を滅ぼし三木から防・長・芸90万石?へ転封
賤々岳・長久手には九州の抑えのため不参加
九州攻めは筑前方面から攻撃。功により豊前を加増され100万石に
朝鮮攻めに参加して5万石加増
関が原に西軍として参加、勝利
備後20万石加増される

119人間七七四年:2010/06/19(土) 17:45:33 ID:K8dV2kAG
そして豊臣政権一の大大名となりましたとさ
120人間七七四年:2010/08/20(金) 00:32:42 ID:YbjY2j48
三木城跡の総合報告書、買ったやついる?
一般販売を知った頃にはもう売り切れだったんだが・・・

増刷してくれねえかなあ。全コピーはかさばっていやなんだよなー。
121人間七七四年:2010/08/26(木) 10:35:22 ID:+5EnV2Bd
test
122人間七七四年:2010/10/03(日) 04:01:20 ID:wzA8J76t
うちのご先祖だけど人気ないなー
イケメンだったとかネタがないからかな?
123人間七七四年:2010/10/03(日) 13:58:14 ID:WwZn6Gjx
>>122
重宗叔父さんの子孫ですか?
124人間七七四年:2010/10/04(月) 00:59:39 ID:9xZgusM+
>>122
はやく由来書や古文書を公開するんだ!
別所は良質な史料が少なすぎるからマジ困る。
125122:2010/10/04(月) 11:56:54 ID:ZKhjzP+U
「女中(と言っても少女)が赤ん坊だったご先祖を
抱えて城から逃げた」
ってな話を小さい頃祖父から聞かされてたけど、うちの母(嫁いで来た)は
「そんな非現実的な話ある?どうせ寝返ったんだよ」
って言ってる。

古文書は知らない。家図は見たことあるけど上のような理由であまり信じてない。
お取り壊しになった後もうちの一族は代々裕福だったらしいとのことです。
126人間七七四年:2010/10/11(月) 00:48:50 ID:y13SOINb
>>125
レスさんくす。

別所に「味方した」家の子孫って名乗る人たちは結構いる。
赤松の一族って名乗る人たちもたくさんいるけど、
別所の子孫って名乗る人たちって、あんまり聞いたことないんだわ。

それだけに>122さんの家の話がすごく気になる。
案外、本当だったりするかもよ。

裕福なうちだったということだけど、庄屋とか肝煎とかやってたのかな。
差し支えなければ、どのへん(郡名くらいでかまわないから)に住んでたかを教えてもらえる?
127人間七七四年:2010/10/12(火) 22:37:15 ID:NVi4RfRP
江戸で呉服商をやっていたそうです。
詳しく書くと親戚に怒られそうだからこれくらいで。
128人間七七四年:2010/10/12(火) 23:53:27 ID:0AZcrV53
ごめんね。根掘り葉掘り。
それくらいに興味深かったもんで。

武士として潰れても、子孫が幸せに暮らせたんだから、
家としては成功した方っていえるのかな。
赤松惣領家みたいに行方不明同然に消滅するより…。

ともかく、おもしろい話をありがとう。
129人間七七四年:2010/11/21(日) 22:31:59 ID:hPKXkv0z
どーも、三好氏スレのモンですが
ここの人達は勿論別所氏関連の資料を持ってると思い伺いました。
三好氏の播磨攻めに関して何か別所氏側で三好氏に関係する事柄が載っていたら教えて欲しいです。
相手側の資料に新記述があったりすることも案外あり得ると思うので
130人間七七四年:2011/01/15(土) 15:41:03 ID:N8YRV6Gv
一応すでにご存知の人もいると思いますが置いていきますね
http://www.8000.gr.jp/kyoto/bessyo.htm
131人間七七四年:2011/01/31(月) 14:10:51 ID:1tzKqydz
渡邊大門『戦国期赤松氏の研究』岩田書院(2010年5月刊行/定価 7,900円・税別)に別所氏の論文が載っているが、これがなかなか参考になる。渡邊大門『宇喜多直家・秀家』ミネルヴァ書房(2011年1月10日刊行/定価3,000円・税別)を読むと、もっと当時の情勢がわかるぜ。
132人間七七四年:2011/01/31(月) 16:13:15 ID:CUA6DQ4q
俺はむしろ別所氏など自立傾向に発展した国人とは逆に、
領地が分散点在してしまい集約出来なかったのが原因で、
赤松氏権力に頼らないと維持できず、
赤松氏の政治機構を守る側についた上月氏について詳しく知りたい。
133人間七七四年:2011/01/31(月) 16:55:19 ID:1tzKqydz
そういえば、『年報赤松氏研究』という雑誌がある。参考になるぜ。http://www.rak2.jp/hp/user/akamatsushi/
134人間七七四年:2011/01/31(月) 19:33:49 ID:Dqk9TcH9
別所の子孫てサボりで改役ごもいるの?
135人間七七四年:2011/02/10(木) 14:48:42 ID:Djcax0Zp
>>81
英賀城にも籠城してるんだけど、どっちが先なんだろう。
三木城落城後に英賀城下の広に居住したとあるけど、時間的に可能?
136人間七七四年:2011/02/18(金) 15:24:41 ID:EtlsUktB
情報提供だぜ。

 『年報赤松氏研究』第4号(98ページ)が刊行されました。申込方法は、次の2種類になりますので、よろしくお願い申しあげます。なお、この機会にバックナンバー(3号のみ在庫あり)を同時にご購読いただけると幸いです。

【誌代+送料】
 誌代1,000円+送料180円=1,180円

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 銀行振込で「年報赤松氏研究」購入希望の方は、私までメールをください<wdaimon■hotmail.com(■を@に変更してください)>。折り返し銀行の口座番号をお知らせします。振り込まれましたら、私までメールをいただけると幸いです。

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 申込に際しては、@必要な号数を記したメモ、A180円分の郵便切手+郵便小為替1,000円分を同封し、下記まで郵送しててください。

■送り先
 〒341-0037 埼玉県三郷市高州3-458-1-21 渡邊大門

【複数冊の購入】
 @4号を2冊購入される場合は、誌代2,000円+送料290円となります。
 A3号と4号を購入される場合は、誌代2,000円+送料290円となります。

 なお、上記以外で複数冊を購入される場合は、郵便料金が変わりますので、あらかじめご連絡をお願い申しあげます。

【『年報赤松氏研究』第4号(2011.3)目次】在庫あり

論 文
 中 脇  聖 戦国期一条氏の家領維持政策に見る福原荘と幡多荘
 畑  康 明 戦国期播磨国における「地域権力」の形成過程
          ―播磨国清水寺を通じてみた依藤氏を中心に―
 渡邊 大門 美作国後藤氏の権力構造
書評と紹介
 片山 正彦 大西泰正著『豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家』
 中村 直人 渡邊大門著『戦国史研究叢書7 戦国期赤松氏の研究』
文献目録
 渡邊 大門 赤松氏文献目録稿(2010年1月〜12月分・補遺)

投稿規定・バックナンバー

【『年報赤松氏研究』第3号(2010.3)目次】在庫あり

論 文
 大西 泰正 宇喜多秀家と豊臣政権
 苅米 一志 明応五年備前国金岡県西大寺化縁疏并序の成立 ―龍澤天隠をめぐる人々と観音信仰―
 光成 準治 中・近世移行期における村落統治と法 ―備前・美作国を中心に―
 渡邊 大門 戦国期依藤氏の存在形態
研究動向
 片山 正彦 近年の宇喜多氏研究をめぐって
書 評
 森脇 崇文 濱田浩一郎『播磨 赤松一族』新人物往来社
文献目録
 渡邊 大門 赤松氏文献目録稿(2009年1月〜12月分・補遺)
137人間七七四年:2011/03/28(月) 02:57:00.69 ID:+gVqz/RQ
別所吉親の吉って、秀吉から一文字もらったと思ったが、
不仲だったことを考えると別の由来があるのかな?
138人間七七四年:2011/03/28(月) 09:13:26.36 ID:UiBQbyjz
へ゛っしょさま はんけ゛きをくらった
139肥後守:2011/05/25(水) 23:20:36.64 ID:sghODTmX
別所吉親内室お波の畠山総州とはいったい誰でしょう?
140肥後守:2011/05/25(水) 23:23:31.70 ID:sghODTmX
あ、言葉たらずでした。お波の父親は誰?
141人間七七四年:2011/05/26(木) 00:03:05.08 ID:tk/DawRP
畠山昭高かな?
142人間七七四年:2011/05/26(木) 00:09:11.90 ID:RiNGRB+7
畠山政国
ソースはwikipedia
143肥後守:2011/05/26(木) 17:46:26.72 ID:rXEwBDsU
畠山には総州家と尾州家があったようで、二人とも尾州家の人なので
違うと思います。年齢的には尚誠かと思うのですが何の根拠もありません。
詳しい人いませんか?

144人間七七四年:2011/05/26(木) 19:27:59.25 ID:v0SqI8VD
総州家なのは間違い無いのでしょうか?
ネットで調べた限りでは政国とか昭高と書いてあったりします。
私がちょこっと調べた事なんて、当然調べてらっしゃるんでしょうが^^;
145人間七七四年:2011/05/26(木) 22:04:00.14 ID:wGtAK5P6
wikiだと安治の生年が1532年で重宗の生年が1529年になってるな
146人間七七四年:2011/05/26(木) 22:27:39.52 ID:v0SqI8VD
と言う事は、wikiはあまり当てに出来ないみたいですねー
147人間七七四年:2011/05/27(金) 02:39:37.76 ID:RzEagmrW
どっちにしろ畠山も落ちたね
赤松一族とはいえ相当遠い分家の庶子の嫁とは
148人間七七四年:2011/05/27(金) 20:49:13.86 ID:cHgdL/QD
公家の娘が三河の土豪の家臣の、そのまた分家に嫁に行く時代だからねえ
149肥後守:2011/05/27(金) 22:11:51.26 ID:kapNVNg8
「三木戦史」によると、新城の戦いでお波が「女と思い侮るな。畠山総州が
娘なるぞ、我と思わん者あれば、いざ組まん」と鬼神の如く立ち働いたとある。
 でも「三木戦史」自体が事実と違う可能性もあります。お波が自刃したのが
1580年1月17日、当時23歳説、28歳説があり、政国は1550年没説、1552年隠居説が
あり、少しむりがあるようです。昭高は時代的には合うようです。この件はもう少し
研究します。皆さんも新情報があれば教えてください。
150人間七七四年:2011/05/27(金) 23:00:45.89 ID:cHgdL/QD
畠山総州と名乗ってるわけだからやっぱり尚誠じゃないのかね
当時は尾州家の家臣みたいなとこにまで落ちてたみたいだし、
娘が地方豪族に縁付いても不思議はない
つか吉親ともそうとう歳の差あるな
151人間七七四年:2011/05/28(土) 00:09:42.62 ID:zZge/lgI
細川管領家も高国娘が赤松有馬の分家に嫁いでいるからな
同族争いで味方作るためには手段は選らばないのでは
152人間七七四年:2011/05/28(土) 00:16:09.39 ID:cwmnZHGX
いっそ総州(ふさくに)と訓んで台無しにしてみる
153人間七七四年:2011/08/15(月) 10:58:34.20 ID:TgoJSvbg
へ゛っしょは しほ゛うしました
154人間七七四年:2012/04/28(土) 11:51:15.84 ID:X2RSs+o/
 
155人間七七四年:2012/05/24(木) 04:27:49.55 ID:cXovVZOk
別所に滅ぼされた依藤氏の事ってどのスレにおいてもほとんど語られた事無いね
まあ単なる一地方国人レベルだけど戦国初期の東播磨ではそれなりの勢力だったのでは?
156人間七七四年:2012/05/27(日) 20:30:14.49 ID:qiO9ryYh
三木城の最後は悲惨
157人間七七四年:2012/05/29(火) 02:09:35.28 ID:xmbhmWeO
鳥取城はもっと悲惨だったらしいね。
158人間七七四年:2012/07/18(水) 16:50:57.19 ID:B6v082Bc
別所就治に子どもは何人いますか?
159人間七七四年:2012/09/11(火) 16:27:49.30 ID:83gdTF0d
>>126別所の子孫は3系統あるよ。一つは八木藩の別所吉治の系統。参勤交代をサボって八木藩お取りつぶしの後は、
旗本になっている。あとは、三木姓で水戸藩の家老になっているよ。そして、水戸光圀が父親から
殺せと言われたのだけど、こっそりわが子として育てているよ。そして、水戸には三木神社がある。
そして、その一族の子孫は、三木啓次郎という人で北辰一刀流の達人で松下幸之助の暴漢から
すくって、二股ソケットの話を聞いて資金援助した。それで松下が大成功して三木神社は松下の
資金で建てられている。あとこの縁で松下が水戸黄門をスポンサーで始めた。三木啓次郎は
このあたりの経緯を堺の南宗寺の家康の墓を再建した時書いている。あと、別所の一族で
黒田藩に使えて、黒田騒動に連座して京都で豪商になった三木清閑という人もいる。
この一族の一派は幕末まで黒田藩で300石ぐらいで藩の勘定方などをしていた。
どうもこの一族は以上に意地張りで主君といまいち反りが合わないことあるけど
理財の感覚はあるみたい。
160人間七七四年:2013/04/30(火) 03:58:23.86 ID:w7aw6uCd
三木城は1617年まで存在していたわけで、豊臣政権下では大名の居城で、
徳川政権下では姫路城の支城ながら伊木氏3万7千石の居城だったわけなので、最終的には近世城郭で天守もあったと思いますが、
6年ほど前の本丸跡の発掘調査では、伝天守台は天守台ではなく、廃城後に作られた土盛りとのことです。
で、あるならば、本当の天守台はどこにあったのか、ぜひ調べてほしいです。
絵図が残ってないので天守の姿はわかりませんが、天守台の跡が例え基礎部でも見つかれば、おおよその規模がわかるので、予算があれば、模擬天守を建てることができます。
なぜ模擬か?と言うと、史料が無いので復元が無理だからです。
それに、三木城跡が既に土地開発されすぎてしまっているため、いまさら復元なんて虫が良すぎます。
なので、三木市のシンボルとして、模擬であることを前提に天守らしい建物を建てるのがいいと思います。
161人間七七四年:2013/05/06(月) 15:15:00.21 ID:HKwI8vID
播磨に織田勢力を引き込んだ張本人は別所氏なのだが、大抵の小説では
黒田官兵衛が別所を織田に引き込んだことになっている。
162人間七七四年:2013/06/11(火) 14:22:55.04 ID:po7Ld1+T
諸篭りで約7500人だったから、別所氏は吉田郡山城の戦い時の毛利と同規模と思っていいのかな
163人間七七四年:2013/06/16(日) 22:38:26.18 ID:PDr2rFqQ
>>162
領外の勢力も多いので,比較できない。
例えば英賀の三木氏も400人くらい派遣している。
164人間七七四年:2013/06/20(木) 19:04:01.64 ID:3EcS8lCS
>>161
別所「長」治
黒田「長」政

一文字拝領的には同格なのか?
「長政」は随分後になってからだがw
165人間七七四年:2013/06/22(土) 01:33:06.37 ID:NYajIOSF
長政

木沢長政(高屋畠山氏の重臣)・・・河内国の守護代。左京亮。河内飯盛山城主
三好長慶と争い敗れ、討ち死
木造長政(木造具政の子)・・・織田信雄に仕えていたが没落すると、
織田秀信の家老関ヶ原敗戦後、福島正則に仕えた
市橋長政(織田信長に仕えた市橋長勝の養嗣子)・・・越後三条藩の第2代藩主
池田長政(池田恒興の四男)・・・関ヶ原の戦いでは兄・輝政と共に東軍に与して
上杉景勝攻めで軍功を挙げ1万5000石を加増、播磨赤穂城主に任命された
その後、さらに1万石の加増を受け、最終的には3万2000石の領主となる
早川長政(豊臣秀吉の馬廻衆)・・・豊後国府内城主2万石。関ヶ原敗戦後改易。
大坂の役の際、大坂城入城後消息不明
織田長政(織田有楽斎の四男)・・・大和国戒重藩1万石初代藩主
織田長政(宇陀松山藩主織田高長の3男)・・・高家旗本織田家第1代当主
関長政(美作津山藩主森忠政の重臣・関成次の次男)・・・兄・森長継が
第2代美作津山藩主として後を継いだため、兄より1万8700石を分与されて
津山藩の支藩である宮川藩を立藩
上杉長政(徳川家旗本上杉長員の長男)・・・高家上杉家第2代当主
下記参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5:Search?search=%E9%9..
166人間七七四年:2013/06/22(土) 06:59:21.84 ID:MdBLeVjP
長政大杉
167人間七七四年:2013/06/25(火) 10:04:32.70 ID:UIyDiNcc
>>165
信長からと、長慶からが混じってるぞw
168人間七七四年:2013/07/21(日) NY:AN:NY.AN ID:TUbMk0g4
「のぼうの城」を観て思ったんだが、三木合戦の映画かTVドラマを作れば
おもしろい作品になるんじゃないかな?

別所長治が「のぼう」みたいなやつという設定で、
実際に若かったし、百姓・町人から好かれていたとすれば、町おこしにもなる。

毛利と織田から次々と使者が来て、あの手この手で味方に誘うんだけど、長治
がアホな返答ばっかりする。

業を煮やした2人の伯父・吉親(賀相)と重棟(重宗)が長治抜きで相談する
が物別れになり、吉親は毛利に、重棟は織田に通じてしまう。

加古川での会議で、秀吉の態度に激怒した吉親が開戦を主張し、長治も開戦に
同意してしまう。

最初の戦闘で別所方が羽柴方を撃退。まぁ緒戦なので羽柴方も本気でなかった
ろうが、「のぼうの城」のようにオーバーに「勝った」ことにする。
さらに淡河定範が羽柴秀長を撃退して、三木城に入るシーンも入れれば、盛り
上がる。

そして、兵糧攻め。ズル賢い秀吉の汚い手だと、観衆を怒らせるための演出を
盛りだくさんに入れる。

平井山の戦い。これは決死隊を組んで秀吉の本陣を急襲した戦い。
別所方の視点で描けば感動のシーンになる。

大村の戦い。三木合戦の中で最大の戦い。別所方は最後の出撃。
淡河定範とか有力武将が討ち死に。泣ける。

随所に秀吉と信長のズル賢さ、性悪さを表すシーンを織り込む。

この時点で、観衆は「この世に秀吉と信長ほど悪いヤツはいない」と完全に
洗脳される。

籠城が1年8か月たち、ただの飾り殿様だった長治が、自身の切腹と引き換
えに城兵の助命を願い出る。
このシーンをことさらオーバーに描けば、観客は大泣きする。

どうだろうか?
「のぼうの城」の真似だって叩かれるだろうかね?
169人間七七四年:2013/07/22(月) NY:AN:NY.AN ID:YXuJ9p4I
つまらなそうだな
170人間七七四年:2013/07/28(日) NY:AN:NY.AN ID:5kc0DlDT
>>168 
別所は信長上洛の段階から信長方だけど。

いち早く信長についた別所安治(長治の父)が死んで、安治の弟の親信長方の重宗と反信長方の
賀相の兄弟ケンカが始まったのが最大の原因。

安治がもう少し長生きするか、長治が祖父就治並の能力があれば、三木合戦は無かったと思う。
171人間七七四年:2013/07/30(火) NY:AN:NY.AN ID:NkBwPS4c
別所安治って兄弟姉妹、何人いるの?
172人間七七四年:2013/08/23(金) NY:AN:NY.AN ID:bD6c0KW+
名字が別所って人は子孫なのか?あんまり聞かない名字だが。
173人間七七四年:2013/08/23(金) NY:AN:NY.AN ID:KoNkC84j
>>170
赤松氏時代から別所と浦上は同格だったのに
信長へワイロを贈ったために浦上の下に別所が帰属する方針となったために
別所が親織田派と反織田派に分裂したの過ぎない。
174人間七七四年:2013/11/04(月) 17:34:05.68 ID:+X+4DYMF
別所氏の登場って謎に包まれてて、気になる
175人間七七四年:2014/01/01(水) 20:49:49.14 ID:lwAt7hj/
>>172
確かどっかの大学教授のじいさんのはず。
苗字も別所じゃなかったような…
別所長治自体の直系子孫はいないはずだから、血縁者の中から代表立てて子孫名乗らせてるんじゃないかなあ。
176人間七七四年:2014/01/05(日) 22:30:29.66 ID:6c6iN48m
別所重宗や別所甚太夫とかは子孫が生き延びてるだろ
177人間七七四年:2014/01/06(月) 09:58:34.81 ID:o8BqYMkr
黒田官兵衛始まって盛り上がってくれるといいのだけれど。
三木城、三木合戦とかって全国的にどのくらい有名なんだろ?
地元に住んでると別所長治の辞世の句が空で言えたり3時のおやつは長治煎餅だったりするんで(嘘)有名かどうかよくわからん。
178人間七七四年:2014/02/23(日) 19:48:12.79 ID:sJb6FpIa
ほぼ太閤記の時価と連動するから、韓国がうるさくて昔ほど秀吉を庶民のヒーロー的に持ち上げられない今は、
良い敵役としての別所氏の知名度も下がってるだろうな。昭和の末ごろは大人なら誰でも知ってたんだが。
179人間七七四年:2014/06/22(日) 01:22:11.13 ID:RzQ1d/5P
三木合戦って太平洋戦争に似てない?
最初はいいけど、すぐに防戦一方になり、だんだん包囲網を狭められて、兵士は餓死。
180人間七七四年:2014/06/22(日) 23:53:23.70 ID:VSZdImlo
別に
181人間七七四年:2014/08/24(日) 10:50:27.66 ID:XTTWPVG6
>>177
別所長治は、2人の叔父が全てをやってくれるおめでたいおぼっちゃんで、
優柔不断な性格に育ったせいで、お家の一大事にまともに状況判断できず、
最後は腹がへって降伏して自害しましたということを、大河によって全国
に知らしめたわけだな。
182人間七七四年:2014/08/24(日) 10:58:21.56 ID:XTTWPVG6
城兵の命と引き換えに切腹した別所長治は、今でも三木市民の誇りと言われ
るが、その話自体、戦いの後に治めやすくするために秀吉側が流布させた可能
性があるという説があるらしいね。
183人間七七四年
死に様が清水宗治に似てる