【古都】鎌倉北条家VS小田原北条家【戦国城下町】

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236人間七七四年
鎌倉北条氏って時政以前の系図なんかは良く判らないらしいが、案外伝承どおり、
平直方流じゃないのかな?と思える。

平直方-平維方-平盛方の直方流三代は、貞盛流の嫡流であり、
従五位下の京の軍事貴族として公卿の警護みたいな仕事をしていた。

平盛方が活躍する時代は、同族伊勢平氏(貞盛流)の平忠盛(清盛の父)が台頭
し活躍している時期でもある。当然、平盛方と平忠盛はライバル関係に有り
新興勢力の忠盛は、平貞盛流の嫡流の座を狙い始めていた。

平盛方の子供と言われる熊谷氏の伝承によると朝廷で平忠盛襲撃事件があり、
その一味に同族である平盛方が加わっており、その罪により処刑されてしまう。

事実、平忠盛は当時は異例の高待遇である内昇殿を許可された。
『平家物語』では武士である忠盛が殿上人となったことを憎んだ公卿たち
による闇討ちが企てられるが、事実忠盛は銀箔の木刀によって公卿たちを脅す
機転によって彼らの襲撃を防ぎ、鳥羽上皇から賞された事(殿上闇討事件)が有った。
それ以外でも武士でありながら出世を重ねる忠盛に対して公家による襲撃事件が多数あった。

この平盛方処刑により盛方流は没落、これで貞盛流嫡流だった直方流の都での評価は地に
落ちたと思う。盛方流は、都に居られなくなり、盛方の弟である阿多美聖範の家筋に平直
方流の当主の座は移ってしまう。そしてこれが伊豆北条氏の直接の家祖として考えても良
いのではないだろうか。

処刑された盛方の弟の阿多美聖範は伊豆阿多美郷に土着し開発領主としてこの地域を開発した。
阿多美四郎を名乗り伊豆北条氏の通字である四郎が始めて登場する。罪人となった平盛方の
実子は聖範が引き取り、阿多美郷の領主を引継ぐ。

聖範の実子である平時方は、当初は阿多美郷和田里に居住して和田太夫四郎と名乗っていたが、
処刑された盛方にかわって直方流を継ぐ為に都に上がり宮仕えを始める。
平時方は、処刑された盛方とは違い、順調に出世し上総介や肥後守を勤めた。そして晴れて
伊豆守に任命され伊豆の国司となる。この時期の国司は国元には赴任せず代理人を派遣して
国司業務を代行させたが、平時方は父の聖範や盛方の子らが居る伊豆に赴任して在国の国司
として三島の国府庁舎で国司業務をこなした可能性が高い。またその方が地元の事情が判り
国元での影響力を行使し易く、国司業務がはかどる、という事もあったであろう。

国司任期終了後の平時方は、都に帰らず三島国府庁舎の直ぐ近くにある北条郷
に土着し氾藍原の開発領主となってしまう。俗姓も平から北条に改め、都での
平直方流軍事貴族としてのキャリアを捨て東国武士として伊豆北条氏の歩みを
始める。

もっとも自分の故郷の近くであり、任国として実際に数年間統治し、父や盛方
の実子が居る伊豆でのんびりやっていた方が、都での軍事貴族として出世競争
にあせくせするよりマシだ。 と言う判断が、時方に有ったのかもしれない。

また平直方-平維方-平盛方の直方流三代は、貞盛流の嫡流の地位を継承してきたが、
盛方の忠盛襲撃事件関与により直方流の没落が決定的となり、忠盛-清盛流が貞盛
流の嫡流の座を引継ぐ事になった。
その為に盛方処刑後に直方流を継いだ時方は、貞盛流の嫡流の座を忠盛に明け渡し
平の姓を捨てて北条を名乗り伊豆に土着し東国の御家人としての歩を始めたのだろう。