1 :
人間七七四年:
神奈川県いや世界を代表する歴史文化都市鎌倉市と小田原市。
文化保存都市として指定を受けるのはどちらが適切なのだろうか。
ともに海や山に囲まれた歴史上栄えた町である。
予算の関係上重点的に世界遺産として残すならどちらに
軍配があるんでしょうか。
歴史 鎌倉>小田原
人口 小田原>>鎌倉
隣接地 箱根>>葉山
知名度 鎌倉=小田原
面積 小田原>>鎌倉
都心アクセス 小田原>>鎌倉
武士勢力 小田原>鎌倉
ってとこですが神奈川県の歴史文化保存予算をどちらに重点的に配分するべきか?
2 :
人間七七四年:2009/10/15(木) 04:10:13 ID:syKWiyl0
物価 鎌倉>小田原
たそがれ 鎌倉>小田原
歴史的街道として小田原は魅力だけど、
やっぱり古都 鎌倉には勝てないなあ。
3 :
人間七七四年:2009/10/15(木) 06:33:51 ID:MEah6s5C
神奈川出身なんだけど、知名度なら鎌倉が圧倒的じゃない?
4 :
人間七七四年:2009/10/15(木) 07:27:42 ID:R3zGcC1M
鎌倉に勝てるわけねーだろバカじゃね。
だいたい小田原城自体がコンクリートじゃねぇか。
都心アクセスが小田原が上とか行ったことすらないだろ?
小田急しか知らない無知は横須賀線を知らないと見える。千葉から東京経由で乗り換えなしで行けるし。
東海道線でも大船乗り換えで二駅だし。
大船は長尾氏の聖地たる長尾郷や玉縄城跡が近くにあるし。
5 :
人間七七四年:2009/10/15(木) 10:34:40 ID:mR0jhFWj
小田原は京都まで直通だぜw
そんな話はともかく
美味しさなら
月のうさぎ>鳩サブレ
6 :
人間七七四年:2009/10/15(木) 10:52:19 ID:mGLzZLhf
小田急はメトロ乗り入れだし
湘南新宿ラインもあるし
東海道、新幹線とどれを
取っても鎌倉より上だろwww
7 :
人間七七四年:2009/10/15(木) 12:03:14 ID:R3zGcC1M
都心アクセスで新幹線とか京都を持ち出すとかどんだけ低脳なんだよwww
つか都心アクセス意外には触れられない負け犬小田原w
8 :
人間七七四年:2009/10/15(木) 12:06:22 ID:mR0jhFWj
9 :
人間七七四年:2009/10/15(木) 12:12:02 ID:7PnoQiHg
大体、戦国武将って鎌倉武士のパクリだろ・・・。
イエスキリストとローマ教皇くらいの差があるっちゅーの。
10 :
人間七七四年:2009/10/15(木) 12:16:10 ID:mGLzZLhf
ん?おまえも都心アクセスで千葉を持ち出してるが
リーマンも小田原から都心に普通に新幹線通勤してるぞ
まぁ、小田原の事は全く興味ないからどうでもいいけどな
11 :
人間七七四年:2009/10/15(木) 14:09:21 ID:syKWiyl0
君らはわかってないよ。
小田原の考察範囲は箱根・伊豆も多少含まれる。
だから、総合的な歴史では結構重みあるだよ。
12 :
人間七七四年:2009/10/15(木) 14:18:45 ID:WNw8ZfsB
新幹線通勤なら長野、新潟、郡山の都民もいるが
13 :
人間七七四年:2009/10/15(木) 14:28:46 ID:syKWiyl0
執権北条が小田原を本拠地にしていたら
新田に負けなかった。
関東武士を抑えるためには
箱根山を背にするのが一番よい
14 :
人間七七四年:2009/10/15(木) 14:40:03 ID:syKWiyl0
箱根・伊豆・相模湾という天然要塞に囲まれた小田原。
西国勢はこの天然要塞に足止めを喰らい、
関東武士の侵攻ルートも限定される。
さすが後北条。
15 :
人間七七四年:2009/10/15(木) 15:42:04 ID:etif6bTY
信者を装ったアンチ活動はやめていただきたい
16 :
人間七七四年:2009/10/16(金) 00:04:56 ID:Z8IaL9XB
同じ時代に二都市が存在したら
どっちの武士勢力がつよかったんだろうね?
17 :
人間七七四年:2009/10/16(金) 14:03:02 ID:fJyr4K5L
>>14 防衛力なら鎌倉の方がはるかに上なわけだが
新田義貞が鎌倉に討ち入るのに苦労した話すら知らんのか?
そもそも鎌倉から全国支配してたのと
一地方都市の小田原じゃお話しにもならない。
18 :
人間七七四年:2009/10/16(金) 14:59:58 ID:jAV7hNeo
箱根って役に立った事あるの?駅伝以外で。
19 :
人間七七四年:2009/10/16(金) 15:23:05 ID:fJyr4K5L
仙石氏にとっては鈴がこだまする聖地w
20 :
人間七七四年:2009/10/16(金) 16:07:04 ID:Vn5vfp7U
>>17 小田原城のほうが防衛実績があるんだけど。
交通要所であり、小田原城が成立可能な小田原地形は優れていると思うだよ
鎌倉は小さい山や丘陵があって、
とても小田原城のような築城は無理。
新田義貞は多摩で苦戦したのであって
鎌倉はあっけなかったんだけど。
重要視するなら小田原。
家康もそうした。
21 :
人間七七四年:2009/10/16(金) 17:06:37 ID:fJyr4K5L
バカだな。
鎌倉の主力軍がいなかったのにあの防衛力だったわけだが。
だいたい鎌倉と京の2カ所は足利側と南朝側が再三に渡り争奪戦をしてた要地だったのも知らんのか。
南朝側が同時軍事作戦で同時占領をした時もあった。
22 :
人間七七四年:2009/10/16(金) 17:26:40 ID:7StbbUgb
>>21 当時の鎌倉は名実ともに重要拠点だっただろうが、それと防御力は関係無いだろ
再三争奪戦をしてたということは、何度も落とされてるわけだし
23 :
人間七七四年:2009/10/16(金) 18:01:08 ID:GR/V4+qN
鎌倉は城じゃないのに小田原城と比較するのはナンセンス過ぎる
そもそも鎌倉時代には行政地+防衛拠点という意味での城郭の概念がない
鎌倉は単に「町」としての防衛力に優れていたにすぎない
24 :
人間七七四年:2009/10/16(金) 23:16:45 ID:Z8IaL9XB
逆に不思議なのはあの狭い鎌倉に都市があったってことが不思議。
鶴岡八幡宮あたりに首都があったとしても小さすぎ。
奈良京都と比べても立地が悪すぎた。
小田原は歴史のある都市のわりにとてもきれいですね。
25 :
人間七七四年:2009/10/17(土) 04:35:29 ID:wsjYTZd4
小田原人必死すぎ
26 :
人間七七四年:2009/10/17(土) 04:57:09 ID:DhaOGc6j
ID:wsjYTZd4=ID:fJyr4K5L
27 :
人間七七四年:2009/10/17(土) 13:26:47 ID:+WcyxTCI
小田原城は町を包容した巨大都市城
旧来の「砦」概念から脱却している。
東国では小田原が最先端。
だから、西が大阪・京都なら、東は鎌倉でなく小田原が対置するわけ。
戦国スレ的には小田原のほうがが高級なのは当然でしょ。
28 :
人間七七四年:2009/10/17(土) 13:35:49 ID:hmu3c+Em
鎌倉原人馬鹿過ぎ
29 :
人間七七四年:2009/10/17(土) 14:12:02 ID:WzRZ/As9
小田原が最先端とかアホじゃねw
後北条厨ってそうとうなバカだな。
鎌倉は都市自体が城郭で覆われているようなもんだ。
惣構えの走りと言ってもいい。
東・北・西の三方が山
南は相模湾に面した天然の要害である。
東・北・西のいずれから鎌倉に入るとしても鎌倉七口と呼ばれる
山を切り開いた狭い通路(切通し)を通らねばならない
30 :
人間七七四年:2009/10/17(土) 14:19:34 ID:+WcyxTCI
秀吉の小田原攻めは本当は紙一重だったんじゃないか、と最近よく思うんだ。
まず、秀吉最盛期であり、北条以外の日本全国の大名を相手にして
瞬殺されなかった事は立派。
秀吉が力攻めをしなかったのは、小田原城攻めにしくじったら
離反する大名がででくる可能性を含んでいたからじゃないかい。
茶々をよんで宴会したのも、内部に対する「余裕」の演出の可能性すらある。
秀吉は内心それなりの危険を感じていたと思うんだよ。
31 :
人間七七四年:2009/10/17(土) 14:35:34 ID:+WcyxTCI
>>東・北・西の三方が山
小学校低学年が遠足に行くようなチッチャイ、チッチャイ山でしょ。
関所の設置には便利かもしれないけど。
近年の小田原城の研究では、
堅城だけでは収まりきれない壮大な設計なんだけど。
32 :
人間七七四年:2009/10/17(土) 18:52:59 ID:wsjYTZd4
壮大な設計も何もそれだけ巨大化したのは滅亡数年前だけな件w
頼朝公や北条執権以上とか妄言たれる偽北条の賊伊勢氏なんて足元にも及ばんわ。
33 :
人間七七四年:2009/10/17(土) 23:54:14 ID:i3xU3FwH
つうか城郭の概念もなかった鎌倉時代に整備された都市と400年後の城郭を比較するのが無理なんだって
20世紀の要塞と小田原城比較して、小田原城の防衛能力が低いといってるのと同じ
34 :
人間七七四年:2009/10/18(日) 00:25:13 ID:Y4pw7gEV
その400年後は鎌倉は
小田原後北条家の支配下。
35 :
人間七七四年:2009/10/19(月) 08:29:02 ID:dV/0JqdE
つか小田原に文化遺産なんてあるのか?ねぇだろw
36 :
人間七七四年:2009/10/19(月) 12:35:36 ID:2kK4A2F3
小田原に住んでた事もある神奈川人だがあきらかに鎌倉だろ
格が全然違うと思うんだけど
37 :
人間七七四年:2009/10/19(月) 13:41:36 ID:FNOxGIxh
あなたがもし相模を統治するとしたらどこを本拠地にしますか?
小田原は確かに遺構・遺産は少ないです。
しかし政を行う場所として優れていたから、
時代とともに町は進化、開発されていったのです。
一方、鎌倉は行政地として向いていなかった。
だから、文化財が残る要因にもなったのです。
重要な事は頼朝を崇拝しているはずの家康が、
東国の抑えの地としては、小田原を位置つけているのです。
小田原藩は名だたる藩主が務めました。
相模の歴史を志向するならば、
文化財にこだわるのではなく、小田原という土地を愛するべきです。
38 :
人間七七四年:2009/10/20(火) 01:48:17 ID:Sy2ROMQL
小田原の住民は先祖代々小田原で過ごした人が多くかなり地元に誇りを持っている感じがします。
かつて関東エリアを支配していたというプライドがあるような気がします。
一方鎌倉市民は古都ということもあり地元民のプライドは高いのですが
他の地方からの移住者もかなり多いにも関わらずよそ者が地元を語る傾向がありますね。
39 :
人間七七四年:2009/10/20(火) 07:45:47 ID:i7+5X/b7
小田原は都市
鎌倉は文化地
40 :
人間七七四年:2009/10/20(火) 09:01:59 ID:/ouTYxUM
他国の凶徒伊勢の小田原なんて神奈川県にはいりません。
あそこは伊豆に合併されろ
41 :
人間七七四年:2009/10/20(火) 09:11:08 ID:60wEbdEj
鶴岡八幡宮を治してもらった奴らが何を言ってるんだか。
42 :
人間七七四年:2009/10/20(火) 10:58:41 ID:tzF3/kDZ
住人から金まきあげて造っただけだろ
だいたい伊勢の賊徒が侵略してきたから戦火に巻き込まれたわけだし
貴重な文化財どうしてくれるんだ
模造品じゃなくてオリジナル返せやタコ
43 :
人間七七四年:2009/10/20(火) 11:04:48 ID:ttLtN/h6
落ち着けよ基地害
44 :
人間七七四年:2009/10/20(火) 11:19:17 ID:/ouTYxUM
45 :
人間七七四年:2009/10/20(火) 12:09:55 ID:oGEd2ugx
鎌倉は爺婆が住みたい都市トップ3に常に入ってる
小田原は蒲鉾が有名
ぐらいしか知らん
46 :
人間七七四年:2009/10/20(火) 12:30:30 ID:yd8CTSji
神奈川県人にしてみれば、どっちでもいい話じゃないか?
時代が違いすぎて、比較する対象にならんだろ。
日本史的には有名な比企氏の乱とか、一族郎党、計何人くらいで八幡宮で騒いだか知ってるか?
当時はその程度なんだよね。
古都と言えば鎌倉、戦国と言えば小田原。
つか、地元的には玉縄城かな。
47 :
人間七七四年:2009/10/20(火) 14:16:30 ID:ZovKAPbz
北条氏政って執権北条の事をぼろカスいってたらしいね。
48 :
人間七七四年:2009/10/20(火) 23:34:34 ID:Sy2ROMQL
鎌倉原人は書き込みマナーが悪いですね。
神奈川県同士仲良くしなよ。
49 :
人間七七四年:2009/10/21(水) 00:57:28 ID:CWzd2miW
小田原は超絶ガッカリ名所
50 :
人間七七四年:2009/10/21(水) 01:51:53 ID:F3bWDKYO
↑どこが?
小田原に遺構がないとかいってるけど
埋もれてるんだよ。それを少しでも復元できるように力入れてる。
51 :
人間七七四年:2009/10/21(水) 08:10:21 ID:IG5kg9PT
後北条厨って小田原市民しかいないのバレバレだな
52 :
人間七七四年:2009/10/21(水) 10:31:41 ID:DXAXSag8
>>51 はい小田原市民の後北条ファンです
しかしながら小田原は特に際立っていいとこは無いなぁw
53 :
人間七七四年:2009/10/21(水) 10:46:53 ID:hyemnrzP
小田原は箱根、湯河原、真鶴、伊東と観光名所が近くてええやん
54 :
人間七七四年:2009/10/21(水) 11:47:47 ID:IG5kg9PT
じゃあ伊豆県を作ってもらえよ。
マンセー小田原チョンは神奈川県から出ていけ。
55 :
人間七七四年:2009/10/21(水) 13:19:35 ID:jDa6reVU
むしろ旧武蔵部分を返却しろよ、神奈川は。
人の領域取っといてでかい面してんじゃねーよ。
他国の凶徒もびっくりなくらい厚顔無恥だな、神奈川県民は。
56 :
人間七七四年:2009/10/21(水) 13:33:08 ID:i7ACKCgO
こいつは何を言ってるんだ
57 :
人間七七四年:2009/10/21(水) 15:02:35 ID:IG5kg9PT
なら東京都民の水源である多摩を早く神奈川県に返却しろよwww
58 :
人間七七四年:2009/10/21(水) 19:57:54 ID:2lAOq21e
小田原は相模原市民の私にとって憧れですよ。
鎌倉は遠い。
横須賀なんて遠足ですよ。
足柄には風魔小太郎に関する史跡があるのかな?
もしあったら、関東制覇大名+伝説の忍者で小田原勝利。
59 :
人間七七四年:2009/10/21(水) 20:19:45 ID:G157sTfE
小田原・・めぼしい物残ってないやんw
観光地としても寂れてるし
60 :
人間七七四年:2009/10/21(水) 20:43:50 ID:2lAOq21e
私なんか東名高速の足柄地域の山々を通過するたびに、
風魔小太郎が飛び跳ねている光景を想像しますよ。
鎌倉はどうやら白旗のようですね。
まあ、忍者対決でも西の伊賀・上野と東の小田原じゃあ比べ物になりませんよ。
小田原地方はバランスがとれていますね。
61 :
人間七七四年:2009/10/21(水) 23:18:43 ID:F3bWDKYO
小田原は都市として今後栄える要素(立地・交通など)あるでしょう。
鎌倉はこれ以上はないんじゃないか?
62 :
人間七七四年:2009/10/21(水) 23:42:03 ID:DXAXSag8
足柄は風魔より金太郎を全面的に押し出してます
63 :
人間七七四年:2009/10/22(木) 00:08:50 ID:/2EjebT0
小田原に今後栄える要素なんてねーよ
だいたい南米やアフリカで取れた魚を干物にしたりして売ってんじゃねぇよ。
64 :
仙台藩百姓:2009/10/22(木) 11:00:53 ID:PwFzkkxT
と言うかどちらの方が古都としての文化価値があるかと言う話しだから
中途半端な都市化はマイナス要素でしかないお( ^ω^)
よくあるただのベッドタウンなんかに何の価値もないお┐ (´ω`) ┌
奥多摩あたりのほうが価値あるお( ^ω^)
65 :
人間七七四年:2009/10/22(木) 11:27:10 ID:QvrLvhBW
じゃあ、その文化価値の定義は何?
現代神奈川の古を築いた実体を文化価値、あるいは文化価値をもたらす物とすれば、
明らかに後北条に付属するもののほうが価値ある
現代の都市状況の考察は重要。
過去と現在は連続的。
それとも仙台百姓は考古学をしているのかい?
66 :
人間七七四年:2009/10/22(木) 12:36:15 ID:/2EjebT0
頼朝の定めた武士の都鎌倉〜執権北条〜足利幕府において京と並びたって存在した鎌倉府〜奥羽から伊豆甲斐まで鎌倉府指揮下で、しばしば京の将軍にとって代わろうと野望を抱いていた。
いまなお頼朝公にあやかり鶴岡八幡を勧請した寺社は多い。
仏法学業から古刹寺社といった歴史的文化景観で比較したって伊勢氏の小田原なんて足元にも及ばんわw
67 :
人間七七四年:2009/10/22(木) 12:52:01 ID:/Sz2K3MN
小田原なんて世界遺産の候補にもならんわな
鎌倉がいつ世界遺産になるのは時間の問題
68 :
人間七七四年:2009/10/22(木) 14:35:29 ID:bINwOizX
鎌倉は北鎌倉だな、こじんまりしているが風情がある
鶴岡から小町通などを通りつつ海までのエリアは、ちゃちさが目立つ
古都の表の顔を名乗るにはいかがなものか?
小田原は城の周りだけ観光地って感じだ
ムース状の超絶美味かまぼこを期待して行ったのに、普通の練り物しかなかった
基本がっかり名所だが、城の天守閣からの眺めは素晴らしかった
69 :
人間七七四年:2009/10/22(木) 16:02:27 ID:/2EjebT0
その天守閣が鉄筋コンクリートだけどなw
城のまわりは駅と競輪場しかねーし観光地ですらない。
70 :
仙台藩百姓:2009/10/22(木) 17:51:30 ID:PwFzkkxT
鎌倉は人気あるおね( ^ω^)
小田原なんて横浜や鎌倉に住めない落ちこぼれの住む街だお( ^ω^)
都会でもなければ歴史的景観が多いわけでもなく何の魅力もないお┐ (´ω`) ┌
71 :
人間七七四年:2009/10/22(木) 18:24:46 ID:5yQw5oBt
仙台の東夷がなんかいってるけど、それ無視しても知名度は鎌倉が上だろ。
まあ、世界遺産とか、いい夢みてろよって言いたくなる程度の観光地だけど。
ぶっちゃけどっちもイマイチだわ。
関東以東にに文化遺産になるような物はない。
中尊寺がなんとか候補になるくらい。
72 :
人間七七四年:2009/10/22(木) 21:42:41 ID:QvrLvhBW
近代偉人の別荘地が小田原なんだけどね。
たぶん世界遺産で訪れる外国人が好むのは小田原だと思うよ。
隠れスポット満載なんだけどね。
ここの小田原イメージは小田原市街だけだもん。
鎌倉?小汚いところあるよね。海なんて最悪。
江ノ電が一番まとも。
73 :
人間七七四年:2009/10/22(木) 22:25:45 ID:1VUeVikG
国府津の山から見る夕焼けは絶景
74 :
人間七七四年:2009/10/22(木) 23:13:49 ID:e0dtWzIh
鎌倉は古い都市で晴れた天気散歩するにはいいんだけど
夏場の海行ったことあるか?
すごいぞ。色黒茶髪に刺青を入れた老若男女が騒いでる。
本当に年寄りが住みたがる町なのか?
申し訳ないが
書き込みのレベル内容もレベル低いし。
反対に小田原にかつて移住した政財界や文化人の面々はすごいと思うな。
一度行けば分かると思うが静かに住むには最高じゃないかな。
正直海水のきれいさじゃ比較にならん。
小田原>>鎌倉
湘南をハワイと勘違いして「きれいな海最高です。」とかいって泳いでるやつの気が知れんわ。
75 :
人間七七四年:2009/10/23(金) 01:05:21 ID:Wb1BwCRs
内政は後北条>北条だな
76 :
人間七七四年:2009/10/23(金) 08:04:02 ID:vxyv2GqE
執権北条はちょっとグダグダすぎるからなあ。
77 :
人間七七四年:2009/10/23(金) 15:29:18 ID:ftypxdFB
小田原に住んだ大物って誰だ?
西園寺公望=興津、吉田茂=大磯、近衛文麿=荻窪
このあたりは有名だが…
鎌倉には侯爵前田家の別荘があり、文学館として公開されてる。
戦前のモダニズムが感じられてなかなか良いよ。
78 :
人間七七四年:2009/10/23(金) 17:59:32 ID:G3/Iq0iB
つか葉山の御用邸には天皇の別荘あるわけだが。
江ノ島の風景といい、どれをとっても小田原なんて足元にも及ばないわけだがw
だいたい執権北条は16代も続いてるのに、グダグダってw
79 :
仙台藩百姓:2009/10/23(金) 20:07:13 ID:pjcFHPBF
>>72 確かに在住の外国人は
鎌倉市 1236人
小田原市 1901人
と小田原の方が多いお( ^ω^)
国籍別に人口の多い順に見ると鎌倉市は
1朝鮮・韓国 367人
2中国 213人
3アメリカ 167人
4フィリピン 88人
5イギリス 64人
6ドイツ 39人
7タイ 36人
8カナダ 26人
その他
と、割りと欧米人が上位に入っている
一方小田原市は
1中国 506人
2朝鮮・韓国 396人
3フィリピン 367人
4ブラジル 260人
5ペルー 51人
6タイ 45人
7ベトナム 43人
8アメリカ 40人
その他
殆どアジアと南米の労働者ばかりだお( ^ω^)プ
さすが下層労働者が集まる田舎街だお( ^ω^)ププ
80 :
人間七七四年:2009/10/23(金) 20:08:56 ID:vprLtaTO
小田原は部落なんじゃ…
81 :
人間七七四年:2009/10/23(金) 20:45:20 ID:dWBZ9ZtF
小田原は唐人町 って地名があって
北条時代から移民者がいた
82 :
人間七七四年:2009/10/23(金) 22:49:35 ID:9NTfLgEP
人口総数(人) 刑法犯認知件数(件)
地域名 2005 2007
神奈川県 鎌倉市 171,158 1,254
神奈川県 小田原市 198,741 2,599
83 :
人間七七四年:2009/10/23(金) 23:27:11 ID:wjxndwuZ
『海道記』
抑相模国鎌倉郡ハ、下界ノ鹿渋苑、天朝ノ築塩洲也。
武将ノ林ヲナス、万栄ノ花万ニヒラケ、勇士ノ道ニ昌ヘタリ、
百歩ノ柳百タヒ中ル。
弓ハ暁ノ月ニ似タリ、一張ソハタチテ胸ヲ照ラシ、
剣ハ秋ノ霜ノ如シ、三尺タレテ腰ススシ。
勝闘ノ一陣ニハ爪ヲ楯ニシテ寇ヲ此ニ伏ス。
猛蒙ノ三兵ハ手ニシタカへテ互ニ雄称ス。
干戈威厳シテ梟鳥敢テカケラス。
誅戮罪キヒシクシテ虎狼永ク絶タリ。
此故ニ一朝の春ノ梢ハ東風ニアフカレテ恵ヲマシ、
四海ノ潮ノ音ハ東日ニ照サレテ波ヲ澄セリ。
貴賤臣妾ノ往還スル多駅ノ道隣ヲシメ、
朝儀国務ノ理乱ハ万諸ノ機カタカタニ織ナス。
84 :
人間七七四年:2009/10/23(金) 23:28:31 ID:wjxndwuZ
(新日本古典文学大系)
鹿渋苑→麁渋苑。帝釈天の城外にある武器庫のごとき園
築塩洲→塩洲。唐代ここに築かれた城壁が匈奴の侵攻を防いだ
万栄ノ花万ニヒラケ…→養由基のような弓の名人がたくさんいる
勝闘ノ一陣ニハ爪ヲ楯ニシテ寇ヲ此ニ伏ス→死物狂いの白兵戦で敵を降伏させる
一朝の春ノ梢ハ東風ニアフカレテ恵ヲマシ→朝廷は幕府の威光によって栄え
四海ノ潮ノ音ハ東日ニ照サレテ波ヲ澄セリ→天下は幕府の威光によって平穏である
朝儀国務ノ理乱ハ→朝廷の儀式や政治の治乱は
万諸ノ機カタカタニ織ナス→機が多くの糸をさまざまに織るように、政務万端が見事に採られている
85 :
人間七七四年:2009/10/24(土) 01:11:05 ID:QlSliNG9
>>72 市街地以外に一般観光客が行くようなスポットがあんの?
86 :
人間七七四年:2009/10/26(月) 00:01:16 ID:dUy85vd8
神奈川県民だけど
文化的には鎌倉が上でしょう。中学あたりの修学旅行もみんなそこだし
でも現代都市としては圧倒的に小田原なだよなぁ
暮らしやすい都市設計だし、近くにいい温泉いっぱいあるしな
世界遺産云々はおいといて、予算落とすなら小田原だね
87 :
人間七七四年:2009/10/26(月) 04:12:09 ID:I/M3Sf19
>中学あたりの修学旅行もみんなそこだし
がっかりしちゃうんだよね。
大仏?奈良に比べるとちっこいよ。
鶴岡八幡宮?日光東照宮が放つ崇高が少しでもあるというのか?
要するに鎌倉って中途半端、少しは幻想与えてほしいもんだ。
神奈川県民は学校行事でほとんどの人が鎌倉行くけど、
がっかり度はかなりのもんだよ。
幕府があったはずなのに、
それを感じさせる風情がない。
なぜだろうか?
現代鎌倉は鎌倉幕府文化が死んでいる(没落)しているんだよ。
生きていない文化を自治体が何か勘違いして掲げている。
なぜだろうか?
それは湘南が鎌倉を吸収してしまったからだ。
もはや古都鎌倉は存在してはいない。
存在しているのは湘南だけだ。
その湘南の中に鎌倉というひとつのスポットがあるにすぎない。
88 :
人間七七四年:2009/10/26(月) 08:39:06 ID:JG55OZsU
小田原人が必死過ぎてワロタ
小田原なんて何もないじゃん。
観光する場所すらないから小田原なんか宿泊する価値すらまったくない。
しかも年々、湘南海岸と呼ばれるエリアが拡大してて小田原近くまで侵略されてるしw
小田原の海水浴場じゃ誰もが田舎臭くて敬遠するから必死にうちも湘南海水浴場だって主張して誘致ねw
89 :
仙台藩百姓:2009/10/26(月) 09:13:27 ID:WoPdxCUH
国宝
鎌倉市 15件
小田原市 0件
国指定有形文化財
鎌倉市 166件
小田原市 3件
国指定無形文化財
鎌倉市 0件
小田原市 1件
国指定史跡
鎌倉市 30件
小田原市 0件
国指定名勝
鎌倉市 3件
小田原市 0件
国登録有形文化財
鎌倉市 9件
小田原市 13件
国指定文化財合計
鎌倉市 223件
小田原市 20件
これはひどい┐ (´ω`) ┌
小田原人は何をもって勝った気でいるのか謎だお( ^ω^)
勝ち負け以前に勝負にすらなっていないお┐ (´ω`) ┌
90 :
人間七七四年:2009/10/26(月) 09:32:09 ID:JG55OZsU
小田 原人は文化を知らない蛮族
91 :
仙台藩百姓:2009/10/26(月) 09:57:31 ID:WoPdxCUH
訂正
一項目抜けてたお( ^ω^)
国宝
鎌倉市 15件
小田原市 0件
国指定有形文化財
鎌倉市 166件
小田原市 3件
国指定無形文化財
鎌倉市 0件
小田原市 1件
国指定史跡
鎌倉市 30件
小田原市 0件
国指定名勝
鎌倉市 3件
小田原市 0件
国登録有形文化財
鎌倉市 9件
小田原市 13件
天然記念物
鎌倉市 0件
小田原市 1件 ←小田原原人?
国指定文化財合計
鎌倉市 223件
小田原市 20件
92 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 01:23:47 ID:zLLrud4W
時勢が読めない盲目で秀吉に蟷螂の斧を振りかざし
無謀な戦に駆り立てて関東を荒野にした永久に糾弾されるべき
許さざる悪人にして高利貸しヤクザ他国の凶徒伊勢
93 :
人間七七四年:2009/10/28(水) 12:27:10 ID:9g3mRqlr
>>86 神奈川の中学だけど市内市立の修学旅行は日光だったよ
文化財って大きさや数の問題、というか勝ち負けのじゃないと思うけどね
もっと鎌倉や戦国前、初期の三浦上杉の歴史研究はして欲しいと思う
小田原は・・親戚いるから良く行くけど何もないよ、本当に。
休日は小田原城にボランティア?の武者さんがいて写真一緒に撮ってくれるw
鎌倉は今日みたいな天気の日は人だらけ、小町なんて人の渋滞でウンザリ。
ただ外国人観光客は異様に多い。外国にアピールなら鎌倉はありかも
94 :
人間七七四年:2009/10/28(水) 14:14:58 ID:C6F7/kbi
あるある
ってーか小田原ってベッドタウンじゃん比較自体おかしい
あ、ここは釣堀でしたね^^
95 :
人間七七四年:2009/10/29(木) 10:30:25 ID:XCqHxA36
小田原のソーセージ屋うまいよ
名前忘れたけど
96 :
人間七七四年:2009/10/31(土) 22:17:15 ID:AI8oV5DA
小田原のあんパンって有名じゃなかった?
まーそれだけの為に小田原なんて行きたくねーけど。
つか小田原って過疎ってるよな。駅前もヤバそうだし。
97 :
人間七七四年:2009/11/01(日) 07:53:35 ID:2GOkY3t0
>>93 大きさや数以前に文化財が無いんじゃ話にならんだろw
98 :
人間七七四年:2009/11/10(火) 02:19:58 ID:mTr3aacq
99 :
人間七七四年:2009/11/10(火) 02:41:58 ID:pWgeFAeE
本当に最近の奴は歴史的物質や権威の基礎づけに弱いんだね。
非物質を評価できるほどの美学の経験値が足りないんだね。
いいかい、大切なのは相模の風土は優れた統治機構を生んでいろ事なんだよ。
本当は鎌倉幕府ではなく相模幕府とよんでもいいはずだ。
じゃあ、今の鎌倉は相模の面影を残しているか?
東京にスポイトされた横浜・湘南。
湘南にスポイトされた現代鎌倉。
よって、東京にスポイトされてしまった鎌倉。
ああ、悲しいかな。
もはや、相模の面影を残しているのは小田原のみなんだね。
100 :
人間七七四年:2009/11/10(火) 03:50:11 ID:JWfgXZzU
小田原のどこを指してそれ言ってんの?
101 :
人間七七四年:2009/11/10(火) 04:27:26 ID:husqC0Sk
伊豆国の観光的影響を受けまくってる小田原w
鎌倉こそ相模国の古都であり交通路の始発点。
金沢文庫を始めとした文芸や、柔らかい鎌倉石を使っているがゆえに、磨耗し形を変じ苔むす悠久の時を刻みこむ古都。
武家の都ゆえ攻めこまれにくく、迷いやすく頼朝公が鎌倉市内に縦横に作られた数多の古地図に記されない町の裏道の数々を散策する楽しさ。
京都と違い窪地が多く日照時間が少ないために大木が育たない為に花草が愛でられた寺社の箱庭文化。
小田原なんかにそんな華やかな薫りがあるなんて聞いたことがない。
102 :
人間七七四年:2009/11/10(火) 07:02:24 ID:ojdOezio
先祖10代遡っても相模人の俺が通りますよ。
黙って聞いてりゃどっちが優れてるとか何だよ?。
どっちも素晴らしいに決まってるじゃないか。
文化の薫りゼロの田舎武蔵人が嫉妬してんだけじゃんw
103 :
人間七七四年:2009/11/10(火) 10:12:57 ID:husqC0Sk
104 :
仙台藩百姓:2009/11/13(金) 14:40:12 ID:bqVL82vM
結局小田原が鎌倉に勝っている歴史遺産とは何だお?( ^ω^)
105 :
人間七七四年:2009/11/13(金) 23:43:20 ID:blkHUWse
名産の菓子が、ういろうと、鳩サブレーだが、
どっちも名古屋と東京土産だと思われているから引き分け。
106 :
人間七七四年:2009/11/14(土) 00:26:26 ID:hbB5EWS8
鳩サブレを東京みやげだと思ってるほど無知なやつなんていないだろw
ひよこが東京が元祖だと思ってるやつはいるだろうが。
107 :
人間七七四年:2009/11/14(土) 01:32:21 ID:GuEXKT0S
小稀庵へ
広大な海を眺めながら石橋山古戦場へ
ウメ子追悼へ
108 :
人間七七四年:2009/11/14(土) 13:10:05 ID:uuCQoFJW
109 :
人間七七四年:2009/11/14(土) 18:13:01 ID:R8BVIVyM
小田原提灯忘れないで
110 :
人間七七四年:2009/11/16(月) 10:24:34 ID:dhW+NdB7
久しぶりに鎌倉行った
あらためて地図みると、寺、寺、寺、寺跡、寺跡、寺跡、いくつ寺あんだよw
時代的にあんまし知識ないから由来とかサッパリだけども
111 :
人間七七四年:2009/12/20(日) 00:17:46 ID:MgQsdXeB
鎌倉VS小田原
鶴岡八幡宮VS小田原城址公園
鳩サブレVSかまぼこ
江ノ電VS箱根登山鉄道
葉山VS箱根
って感じでいい勝負だと思います。
112 :
人間七七四年:2009/12/20(日) 00:19:36 ID:MgQsdXeB
っていうか八幡宮って後北条氏の尽力がなければなかったんだよね。
113 :
人間七七四年:2009/12/20(日) 10:46:48 ID:C0sHDuem
里見もお金出してたりしなかったかな?
焼き討ちもやったけど
114 :
仙台藩百姓:2009/12/20(日) 22:26:38 ID:3KIH1+0n
そもそも後北条がいなければそこまで戦火が拡大することなかったお( ^ω^)
後北条は本来存在してはならない関東の癌だお┐ (´ω`) ┌
115 :
人間七七四年:2009/12/20(日) 23:10:56 ID:motJ3TQ1
政宗が居なければ南奥州の戦火が拡大することもなかっただろうし、
謙信が居なければ関東や信濃の騒乱があんなに長期化することもなかっただろう。
いろんな武将に当てはめて使える汎用性が高すぎる言葉だな。
116 :
人間七七四年:2009/12/21(月) 00:36:23 ID:cV/rLg9z
117 :
仙台藩百姓:2009/12/21(月) 17:06:12 ID:Ju1ZNp4q
>>115 全く違うお( ^ω^)
伊達や上杉は弱体化した家の復権を図っていたのだお
他の守護や豪族国人もそうだお( ^ω^)
だが、伊勢は違う
関東に伊勢の拠るべき土地など存在しないお( ^ω^)
関東の争乱は関東管領(将軍)と関東公方の争いに始まり
諸氏もそれぞれ公方側と管領側に分かれて争ったお
いずれが勝とうがそれは室町体制の枠組みにあるものだけど
伊勢はそのどさくさに紛れて乱入した無関係な火事場泥棒に過ぎず
いたずらに戦乱を煽る存在でしかないお( ^ω^)
118 :
人間七七四年:2009/12/21(月) 20:30:43 ID:mYUeKghk
せれが戦国だろうて
雑魚の言い分など聞き耳もたんわ
119 :
仙台藩百姓:2009/12/21(月) 22:19:19 ID:Ju1ZNp4q
戦国だろうと伊勢以外の諸氏は一定の秩序の枠組みから外れる事はなかったお( ^ω^)
大義を欠く伊勢が滅びたのは自然の成り行きだお( ^ω^)
120 :
人間七七四年:2009/12/21(月) 22:29:28 ID:fpxUx4oS
過去に伊達と後北条の関連を語れなかった土ン百姓はすっこんでろよ
ただの煽り屋は要らん
121 :
人間七七四年:2009/12/22(火) 01:29:31 ID:ZZ6yxcCv
執権北条の理想的政治と
後北条の高利貸し悪徳政治
122 :
人間七七四年:2009/12/24(木) 10:41:16 ID:/S9WoceS
文化保存を受けるなら鎌倉、住むなら小田原。
123 :
仙台藩百姓:2009/12/24(木) 11:33:47 ID:2YTEGGZh
伊勢は関東を広く支配したのに小田原の文化がろくに発展しなかっとは
伊勢の統治が悪く貧しかったのは事実だおうね( ^ω^)
124 :
人間七七四年:2009/12/25(金) 14:00:10 ID:LyO+QpNJ
┐ (´ω`) ┌
125 :
人間七七四年:2009/12/25(金) 18:01:26 ID:l/2sNPWZ
鎌倉は住む場所によっては気位の高い人が多く居て、
近所付き合いとかがしんどい場合もある。
まあ、そんな高そうな場所には住めないだろうけどね。
126 :
人間七七四年:2009/12/26(土) 04:08:43 ID:w39PaczE
127 :
人間七七四年:2009/12/29(火) 13:57:24 ID:4ZFjokV+
>>125 気位が高いのは、それこそ他から移ってきた連中じゃないかなぁ。
山肌に家とかを持っている人に多そう。
128 :
人間七七四年:2009/12/29(火) 23:25:20 ID:kpGe/AD6
それより
神奈川県内で多発している。
連続重要文化財放火魔を逮捕してください。
お願いします。
129 :
人間七七四年:2010/01/31(日) 01:41:52 ID:rIBe9zQh
北条ファンは多いはずだじょ
130 :
仙台藩百姓:2010/01/31(日) 09:25:25 ID:aYtgkyM0
いまだに後北条ファンというものに会った事がないお( ^ω^)
神奈川出身の人に話題振って見ても皆知らないか興味無しだったお( ^ω^)
131 :
人間七七四年:2010/01/31(日) 09:39:42 ID:q5tPUJkb
領内統治の資料がどの大名よりも多く残されているので、史学者には人気らしい。
しかし一族支配が強すぎて、誰が誰やらわからんとか、立志伝がないとか、
血筋だけでポストも発言力も決まってたっぽいイメージとか、魅力に欠けるんだよなあ。
132 :
人間七七四年:2010/02/03(水) 00:10:30 ID:cVH2s2nR
後北条は地味だからあんまり人気ないだろ
三国志で例えるなら孫堅や孫策、周瑜等がいない呉
133 :
人間七七四年:2010/04/13(火) 14:48:55 ID:SxR1bS7f
鎌倉よりは小田原のほうが、近くに温泉もあるし明るくて開放的で好きだけど、
鎌倉のほうが由緒が古いんだから仕方ない。
坂の多い街で、海の湿気がそのまま陸に上がってくるみたいで、
あんまり湘南の人間が好きそうでもない街なんだけどね。
134 :
人間七七四年:2010/04/13(火) 14:50:28 ID:SxR1bS7f
まあ最後に自害するなら小田原のほうがいいよ。
あんな閉鎖的な鎌倉で自害するなんてうんざりだ。
135 :
人間七七四年:2010/05/31(月) 23:18:26 ID:mPW8kPYV
オカルティックな話は鎌倉が多いなぁ
霊感あるのかな?って子は一緒に行くの嫌がるし
引越しのときに占いやってもらった知り合いは
そういう意味で鎌倉のとこが一番初めに候補から外れたそうな
あと色々便が悪いのに人気だけはあるせいか物価高すぎだ、鎌倉
136 :
人間七七四年:2010/06/22(火) 18:59:50 ID:1Tj9bvlZ
北条は金沢文庫を作り、その文化事業は後世に残され
家康も金沢文庫の収蔵された文献を保護した。
一方、後北条はなんら文化事業や土木治水をやらず、
後世になにひとつ遺さなかった単なる略奪者でしかなかった。
137 :
人間七七四年:2010/06/25(金) 06:18:28 ID:pM28CeUj
武士勢力 小田原>鎌倉
いや、執権北条氏は鎌倉政権のトップだぞ。
本来は日本の全武士の指導者なのだが。
滅びる時はあくまで反逆によって滅びただけ。
新田も足利も本来は配下の筈。
138 :
人間七七四年:2010/09/24(金) 18:30:58 ID:zSYx9ddr
>>137 配下とは違うだろ。
鎌倉殿の前では同じ御家人だし。
北条と他の御家人では、
きっとそのあたりの意識が違うんだろうね
139 :
人間七七四年:2010/09/27(月) 11:40:42 ID:zS/JhkyO
長く権力の座についていれば、同輩なんて意識は薄らいでくるだろうね
140 :
人間七七四年:2011/02/23(水) 07:19:36.05 ID:G/qfPngt
鎌倉北条氏って時政以前の系図なんかは良く判らないらしいが、
案外伝承どおり、平直方流じゃないのかな?と思える。
平直方-平維方-平盛方までは基本的には京に居て、従五位下だから公卿の警護みたいな事していたらしい。
平盛方の代の時は、同族伊勢平氏(貞盛流)の平忠盛(清盛の父)が台頭している時期。
平盛方の子供と言われる熊谷氏の伝承によると平忠盛襲撃事件があり、
その一味に同族である平盛方が加わっており、その罪により処刑されてしまう。
事実、平忠盛は当時は異例の高待遇である内昇殿を許可された。
『平家物語』では武士である忠盛が殿上人となったことを憎んだ公卿たち
による闇討ちが企てられるが、忠盛は銀箔の木刀によって公卿たちを脅す
機転によって防ぎ、鳥羽上皇から賞される(殿上闇討事件)事が有り、
それ以外でも武士でありながら出世する忠盛に対する襲撃事件が多数あった。
この平盛方処刑の為に盛方流は都に居られなくなり、盛方の弟である阿多美聖範の
家筋に平直方流の当主は移ってしまう。そしてこれが伊豆北条氏の直接の家祖として
考えても良いのではないだろうか。
阿多美聖範は伊豆阿多美郷に土着し開発領主としてこの地域を開発した。
阿多美四郎を名乗り伊豆北条氏の通字である四郎が始めて登場する。
罪人となった平盛方の実子は聖範が引き取り、阿多美郷の領主を引継ぐ。
聖範の実子である平時方は、当初は阿多美郷和田里に居住して和田太夫四郎
と名乗っていたが、処刑された盛方にかわって直方流を継ぐ為に都に上がり
宮仕えを始める。
平時方処刑された盛方とは違い、順調に出世し上総介や肥後守を勤めた後に
晴れて伊豆守に任命された。伊豆の国司である。この時期の国司は実際には
国元には赴任せず代理人を派遣して国司業務を代行させたが、平時方は父の
聖範や刑死した盛方の子が居る伊豆に赴任して在国の国司として三島の国府
庁舎で業務をこなした可能性が多い。
国司任期終了後の平時方は、都に帰らず三島国府庁舎の直ぐ目の前にある
北条郷に土着し氾藍原の開発領主となってしまう。俗姓も平から北条に改め
都での平直方流軍事貴族としてのキャリアを捨て東国武士として伊豆北条氏
の歩みを始める。
もっとも自分の故郷の近くであり、任国として実際に数年間統治し、尚且つ
父や盛方の実子が居る伊豆でのんびりやっていた方が、都での出世競争で
あせくせするよりも良いw
と言う時方の判断も有ったかもしれない。
141 :
人間七七四年:2011/02/23(水) 08:02:40.94 ID:rbD34aF5
北条氏って、中村党だと聞いた気がするけど、違うのかな?
中村党なら、平直方系じゃないよね。
142 :
人間七七四年:2011/02/23(水) 09:54:14.58 ID:G/qfPngt
中村党だと桓武平氏良文流になりますね。
平常遠(武蔵押領使)-平常宗(笠間押領使)-中村(平)宗平(中村荘司)-中村重平-中村景平
と言う系譜になる。
同じ桓武平氏だけど直方流じゃなくて、伊東氏に近いし姻戚関係もありますね。
北条時政も始めての妻は伊東氏から来ているようですので、それで北条家と
中村党が関係が有ると言う事になったのでしょうか?
中村党は本宗である中村氏は振るわず、分家筋の土肥・土屋一族がその中核を占めるとの事。
私は、北条が中村党の可能性がある事を初めて聞きました。
山木館襲撃や石橋山の戦いに中村党が多数参加しているようですが、
その為に北条氏が中村党だという事になったのでしょうか?
143 :
人間七七四年:2011/02/23(水) 20:47:50.53 ID:G/qfPngt
>父や盛方の実子が居る伊豆でのんびりやっていた方が、
>都での出世競争であせくせするよりも良いw
>と言う時方の判断も有ったかもしれない。
平将門ならともかく、時方の場合は、忠盛-清盛の台頭が著しく、
盛方による忠盛襲撃事件の影響で次第に都での宮仕えもやり難くなって行ったのでは?
直方流は、本家は京で宮仕え、分家筋は伊豆に土着、って感じだと思うが、
本家筋も盛方の処刑の影響で都での出世を諦めざる終えなくなった、と思う。
逆に言えば、それだけ忠盛-清盛の権威が高まってきた、とも言える。
その為に盛方流は阿多美郷に土着、本家筋になった時方流は北条郷に土着って事になったと思う。
結局時方は、都での出世はダメでも伊豆でなら自分も国司をやったし、
同族盛方流が阿多美郷に居るし、父聖範が阿多美の走湯山権現で僧侶をやっているし、
都よりもやっていける条件が整っていると判断したと思える。
そういう意味では、伊豆北条氏は、後に敵対する山木兼隆が伊豆に土着した経緯と良く似ている感じがする。
また、伊豆北条氏は同じ三つ鱗紋を用い、北条氏のように大蛇伝説を持つ
九州緒方氏の祖でもある大和国大神氏の一族ではないかと言う人もいるが、
伊豆北条氏と大和には何の接点も無く、信憑性に乏しい話かと思える。
144 :
人間七七四年:2011/02/23(水) 22:12:01.89 ID:L3ISHc2D
インチキ学者の言うことなんか真に受けるなよ。
伊豆北条氏が平直方流だなんて嘘八百に決まってるだろ。
145 :
人間七七四年:2011/02/23(水) 22:50:27.70 ID:pFjyuf5w
sbuuuuuuuuuu
146 :
人間七七四年:2011/02/23(水) 23:22:39.07 ID:G/qfPngt
>伊豆北条氏が平直方流だなんて嘘八百に決まってるだろ。
直方流の系譜を示した文章は有るよ。
問題なのは、微妙に親子や兄弟が違うだけ。
伊豆北条氏が、接点もないのに大和大神氏だとか言う方が変だよ、中村党なら一応桓武平氏だけど。
元々伊豆や相模には(南関東全域だが)桓武平氏がウジャウジャ居る場所。
時政以前の伊豆北条氏の動向が判らないのは、北条郷に土着してから
そんなに時間が経過していないからだろう、京から伊豆に来てそれほど
時間が経過している訳でも無く、記録すべき事件や事柄がまだ少なかった、
と思われる。
147 :
人間七七四年:2011/02/23(水) 23:52:35.75 ID:L3ISHc2D
148 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 01:47:26.44 ID:WGMLuMSy
>>140 俺も北条氏は本当に直方流の可能性があると思ってるけど、これだけ整合性とれた説は初めて目にしたよ。
149 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 01:58:13.93 ID:6gilIFXj
150 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 02:04:58.71 ID:/vivK/BL
つうか北条氏の都合のいいように資料を解釈し過ぎ。
151 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 02:08:42.17 ID:WGMLuMSy
むしろ今までがおかしすぎたね。
どこの「馬の骨」とも知れない者があの時代に在庁になどなれる訳がないし、いくら流人とはいえ頼朝を婿になんか迎えられる訳がない。
152 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 02:12:59.05 ID:6gilIFXj
153 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 02:18:50.33 ID:/vivK/BL
少しでも目立とうとして、わざと今までとは違う説を唱える研究者がいるよな。
154 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 02:21:38.32 ID:WGMLuMSy
155 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 02:25:47.76 ID:6gilIFXj
むしろ北条氏はその「馬の骨」から成り上がったわけだろ。
156 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 02:30:02.97 ID:/vivK/BL
>>154 どこの馬の骨かも分からない北条氏の子孫乙
157 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 02:31:40.39 ID:WGMLuMSy
ま、自分なりにもいろいろ検証してみるけど、
北条、熊谷両氏の系譜については
>>140氏の唱えた説がなんとなくこれから基本に据えられるようになっていく気がする。
158 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 02:34:51.56 ID:6gilIFXj
>>157 所詮は目立ちたがり屋な素人が勝手に唱えてるだけだろ。
159 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 02:35:50.37 ID:WGMLuMSy
系譜っていうより出自と言った方が正確だったな。
160 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 02:38:41.99 ID:/vivK/BL
北条氏の出自は被差別民
161 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 02:51:46.93 ID:6gilIFXj
北条氏は土民上がり
162 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 03:20:30.36 ID:+NtRtnVR
伊豆国司平時方は、退任後の為に三島国府庁舎の直ぐ目の前の北条郷に狩野川
が洪水した時に浸水し易い野原を見つけ、そこを開墾し田畑を拓き、館を築い
て土着してしまう。俗姓も北条に変える。
このような河川の近くの水没しやすい野原は、上流から粘土や植物の種などが
流れ着き、植物が繁茂しやすい。そして平地で水の入手が容易であるため、湿
地帯を除き、農業には適している。
ただし奥富敬之氏によると時方が土着した棘原郷には既に南条、堤、奈古屋など
の諸氏が居て、時方が所領として稲作が出来た広さは、一〜三平方キロしかない
と言うが、一平方キロは30万2500坪、三平方キロなら100万坪近くになる。
時方が土着した狩野川沿いの野原なら稲作可能農地はかなり広いだろう事から、
それなりの量の米が収穫出来たのではないかと思える。
伊豆の武士は、水軍として船を数隻程度保有しており、この船を使い漁業にも
乗り出していたのでは?という説を奥富氏は掲げておられる、北条に限らず、
伊豆の武士は、この水産物の水揚げも食料や収入源になった、と思われる。
また伊豆の武士達は、自分で食べきれない余剰生産物は、三島国府近くの市場
で売却し現金収入にしていたかもしれない。ソロソロこの時期には貨幣経済も
東国に浸透し始めていると思われるので、市場での現金収入は武士の家を維持
する為には必要不可欠なモノとなっていた。
163 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 03:29:14.81 ID:6gilIFXj
ここは戦国時代板です。
妄想はチラシの裏にでも書いてください。
164 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 03:41:08.43 ID:WGMLuMSy
>>146 > 伊豆北条氏が、接点もないのに大和大神氏だとか言う方が変だよ
伊豆で大三輪氏だと、役行者(大三輪一族賀茂氏)が思いつくけどね。
この賀茂一族は古代に伊豆に根拠地を得て在地豪族化しており、そこに直方流平氏(北条氏)が婿入りした可能性は考えられないかね?
あと、伊豆には鈴木姓(熊野系)が多いことや三島大社も気になる。
165 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 03:44:10.26 ID:6gilIFXj
多分仮冒なんだろうけど、どっちにしろこの板で議論することじゃないだろ。
166 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 03:58:58.36 ID:WGMLuMSy
>仮冒
かどうかは分からないよ。
でもたしかに史板の範疇ではあるね(実際普段は史板にいるもんで)。
戦国板に来たのは久しぶりだったけど、
>>140の意見は強烈な印象だったよ。すごく参考になった。
上にも書いたけど多分これからは自分の北条氏、熊野氏を考える上でのベースになっていきそうな感じ。
こんな見解は史板でも出たことないんで。
あと、古代、中世氏族の出自を考える上では招婿婚っていう観点は大事だよ。
古代は母系制、あるいは双系制社会だから(これも板違いかもしれないけど)。
167 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 04:02:19.26 ID:6gilIFXj
>>166 あんたの妄想は良く分かったから、戦国時代の話をする気がないならとっとと日本史板に帰ってくれ。
168 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 04:06:20.14 ID:WGMLuMSy
歴史は繋がっている
169 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 04:08:07.61 ID:6gilIFXj
歴史は繋がっている(キリッ
170 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 04:12:32.38 ID:/vivK/BL
アスペが紛れ込んでるみたいだな。
171 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 04:27:29.95 ID:ovUIIKHX
172 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 04:31:42.92 ID:/vivK/BL
173 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 04:41:54.25 ID:/vivK/BL
頼朝がいなかったら、単なる田舎の地侍。
それが北条氏。
174 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 05:27:01.32 ID:+NtRtnVR
>>164 >直方流平氏(北条氏)が婿入りした可能性は考えられないかね?
入り婿の記録が無いんですよね。
時方の土着の仕方は、国司の力を背景に国府庁舎の目の前に無理やり居座った、って感じです。
狩野川沿いのこの野原(北条郷)は、農地としてかなり良質みたいです。
退職する税務署長が、税務署の目の前に自分の税理士事務所を開く様なモノです。
当然税務署OBとして影響力を行使出来るでしょうw
時方は、自分の退任以後も伊豆国府の業務に関るか、影響力を行使しうる為に
国府庁舎の近くに土着したと思えてなりません。
また時方の子である時家や時兼も伊豆介や史料によっては伊豆守や伊豆権守に
任官しており、伊豆北条氏は伊豆国司や伊豆介を輩出する家筋と認められて
いたのかも知れません。
伊豆権守の伴為房の娘(時政の母)が時家と結婚している事もそれを補強する事
実であり、伊豆北条氏は規模は小さいくとも国府との太いコネや伊豆守や介の
家筋として認められていた武士だったと思えます。
あと時方が土着した田方郡北条郷には、父聖範が僧侶と勤める阿多美の
走湯権現の神領があり、それも時方の北条郷の土着に関係していると思われる。
平清盛が伊豆北条氏や伊東氏に頼朝の監視を頼んだのも、従来から中央との
接触が有り目立っていたからではないでしょうか?
>>165 北条は仮冒ではないでしょう。
今まで言った様に平忠盛の台頭に反発した盛方が暗殺未遂事件を起こして
刑死し、それをごまかす為に系図が入り組んでいるだけでしょう。
北条が土民や被差別部落出身とも思えません。
それにしては、時方、時家、時兼の地位が高杉ます。
175 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 05:31:24.85 ID:6gilIFXj
176 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 05:46:23.89 ID:+NtRtnVR
>>173 伊東氏は鎌倉殿後外戚になれる可能性はあった。
しかも伊東氏の規模は北条氏の5〜6倍
しかし、何故か頼朝を助けたのは北条氏、
これは如何に?
177 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 05:47:40.15 ID:/vivK/BL
織田信長は平清盛の子孫。
徳川家康は新田義重の子孫。
これと同レベルの話だろ。
178 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 05:52:29.15 ID:6gilIFXj
>>176 伊東氏はまさか頼朝が平家を滅ぼせると思ってなかったからじゃないの?
身分の低い北条氏は一発逆転を狙って頼朝を援助した。
ただそれだけの話。
ていうか板違い。
179 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 05:52:34.35 ID:+NtRtnVR
信長や家康の仮冒はちゃんと判っていますよ。
本人も認めているじゃないですか?
180 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 06:07:25.98 ID:+NtRtnVR
>伊東氏はまさか頼朝が平家を滅ぼせると思ってなかったからじゃないの?
だから、どうしてそういう見込み違いをしたのか?
三浦氏、千葉氏、上総氏も頼朝の蜂起にかなり早い時期から検討していた。
>身分の低い北条氏は一発逆転を狙って頼朝を援助した。
身分が低いと普通諦めますわね。
北条の所領は只でさえ一つしかないのに。
181 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 06:14:53.75 ID:6gilIFXj
>>180 伊東氏は平家政権で満足してたから。
三浦氏、千葉氏、上総氏、北条氏は平家政権に不満があったから頼朝を神輿に担ぎ出した。
>身分が低いと普通諦めますわね。
つ大坂の陣
182 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 06:41:25.20 ID:+NtRtnVR
>>181 そんなにハッキリした史料はないですよ。
畠山なんか当初は平氏側だったんですから。
183 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 06:48:04.16 ID:6gilIFXj
>>182 畠山氏は長い物に巻かれろを地で行ったんだろ。
184 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 08:27:10.88 ID:NUURJ3ma
畠山氏は、上総氏一族(って、何党だ?)が頼朝についた事でついたんじゃないかな?
河越氏に対抗してってのもあるのかもしれない。結局は秩父党の殆どが味方しちゃった
ようだけど。
>>142 あくまでも個人的な意見なんだけど、べつに平氏でもなんでもなくて、鎌倉北条氏は
土着の勢力だったのではないかと。
そこに中村党や工藤氏が入ってきた事で、それと縁戚関係を結び、平氏出身を自称し
たのではないかと思っている。
流石に、中村党と同じ系列とは言い難かったのかも?
でも、勢力的には中村党として見られていたのではないかと。
ただ、頼朝に早くから味方した経緯からして、平直方流の傍系が土着した事も考えら
れなくもないので、平直方流だった可能性も否定する事も出来ないと思っている。
185 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 10:15:09.34 ID:+NtRtnVR
時政時代の伊豆北条氏は、中村党じゃなくて伊東氏の傘下として見られていたらしい。
時政の始めての妻は、伊東氏の娘(宗時、義時、政子の母)でソ。
伊東氏が鎌倉殿外戚のチャンスを逃がし、逆に北条氏がなれたのは、情報量や分析力の差と都志向の有無じゃね?
まあ伊東氏も北条氏も三浦氏も千葉氏も京都大番しているけど
単に警備の任務をこなしている武士とロビー活動や情報収集も兼ねてやっていた武士の差だと思う。
伊東氏は、自分なりの中央政局の情報収集や分析が出来ていなかった。
単に平清盛政権の言う事を聞いていただけって感じがする。
特に後白河法皇と平氏政権の対立が始まっていた事を正確に理解していた武士は
頼朝の武装蜂起には、参加するだろう。
伊豆北条氏は、一応土着しているし規模は小さいが、都志向が強い武士。
これは三島国府との強いパイプがそうさせたし、北条時政は中堅の牧氏に従者でもある。
牧氏からも色々聞いていたと思う。
186 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 10:49:25.45 ID:+NtRtnVR
>北条時政は中堅の牧氏に従者でもある。←×
北条時政は中堅公家の牧氏に従者でもある。←○
187 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 13:04:08.67 ID:+NtRtnVR
三浦氏、千葉氏、上総氏、北条氏の中で公然と平家政権に不満をぶちまけていたのは、
上総氏だけで、あとの武士は政局や大庭景親の軍勢の動向をにらんでの対応だった。
三浦氏なんかは、関東に武士の為の政権を作ろう、と言う意識などは全然無くて
単に恩賞としての所領の増加や再度源氏の貴種を担いで合戦に参加するのが目的
と化していたようだ。
188 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 16:29:07.25 ID:p8ddsOgA
板違い
189 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 21:51:31.75 ID:PsgFC6Ab
鎌倉も小田原も観光地としてはしょぼい
190 :
人間七七四年:2011/02/25(金) 01:25:37.53 ID:YPuRQ0Ir
伊豆北条氏が、平氏じゃない土着系の武士は史料的に無理だと思う。
そんな系譜の史料はないし、平氏じゃない土着系の武士だと国造系になるけど
伊豆国造だとすると北条氏は元々は日下部氏だって事?
確かに鎌倉党は実は平氏系統じゃなくて国造系だって話は有る、
あの辺は、染屋太郎時忠(漆部直伊波?)とか色々居るし。
相武国造の漆部氏や壬生氏が平安時代になり姓を変えて武士団化しててもおかしくはないが…
ただ現実には古代豪族が武士化した例はあまりないし、第一そういう史料がない。
国造の子孫は、ほとんどが武士にはならない(なれない?)で地元の神社の神主に
なっているケースが多い、と思う。
酷いのになると坂東八平氏(桓武平氏)のほとんどが仮冒だ!と主張している人もいるけどw
191 :
人間七七四年:2011/02/25(金) 01:55:57.86 ID:Rk19DXxn
出雲臣族・漆部直氏は相模(相武)国造ね。
武蔵国造と同族。
その支族に御浦郡司代・太田部直氏(三浦氏の祖である可能性大)がある。
鎌倉なら日本武尊後裔の足鏡別命のそのまた後裔の鎌倉別(鎌倉氏の祖である可能性大)だね。
師長国造は中村氏の祖(母系氏族)だろう。
192 :
人間七七四年:2011/02/25(金) 04:15:18.51 ID:1FGfmqVi
しかしそうなると平良文(村岡五郎)の存在がまったく否定される事になる。
記録にちゃんと記載が有るのに否定しちゃうわけ?
高望王が、国香、良兼、良将、良文を伴ってに上総の任地に赴いたのは事実だと思うし
関東に土着したのも事実だと思うよ。
土着後に婚姻などで国造系の豪族との関係は深めたとは思うけど。
193 :
人間七七四年:2011/02/25(金) 04:24:55.64 ID:nfJjDkaa
記録をむやみやたらに否定するのもどうかと思うけど、
記録を鵜呑みにするのもまた危険。
ていうか、これ以上はここでどうこう言う問題じゃないと思う。
194 :
人間七七四年:2011/02/25(金) 07:17:26.66 ID:1FGfmqVi
伊豆平氏は一応直方流だと思うけどね。
他にも、家紋が似ているから大和大神氏と同族、と言われても
それじゃカギ十字やトーテンコフのマークなら全部ナチスなの?って事にも成りかねない。
重要なのは他の史料と付き合わせることだろう。
記録を無視したり鵜呑みにしない為に他の資料と併行して見ていくべき。
一番良いのは年表を作るのが良いのだと思う。
CIAは、ある国のある政治的出来事を分析する時には、まず年表を作るという。
この頃の日本史の問題を分析するなら、畿内と関東双方で起きた事を簡単に年表にして
両方を比べながら検討すべきだと思う。
伊豆北条氏についていえば、
平盛方の忠盛襲撃事件関与による処刑が、やはり政治的にダメージが大きかったと思う。
これで貞盛流嫡流だった直方流の都での評価は地に落ちたと思う。
直方流は貞盛流の本家であり、平直方-維方-盛方で蔵人所雑色、検非違使、左衛門尉
などの重要な京官に任官しているが、盛方処刑以後に直方流を継いだ時方は、結局
外官(地方官)である上総介や肥後守にしか任官出来ていない。
やはり時方は、京での猟官運動に失敗しているのだと思う。
忠盛の急速な台頭により貞盛流の嫡流の地位が、直方流から奪われ、盛方の襲撃事件関与がそれを決定的にした、と思う。
時方は直方流を継いで京で猟官運動をしたものの忠盛台頭に圧倒され、有る意味、
時方の京官猟官運動は忠盛にサボタージュされたのかも知れない。
結局、外官にしか任官出来ていない時方は、京官任官は諦め伊豆守を受任し伊豆に土着する訳だが、
ひょっとすると、時方と忠盛は、時方の伊豆守職斡旋を条件に貞盛流(伊勢平氏)嫡流を忠盛に明け渡す
と言う交換条件があったのかも知れない。事実、台頭した忠盛-清盛流は、伊勢平氏嫡流として振舞い始める。
時方の伊豆土着さえも忠盛の要請により行われたモノかもしれない。
平時方の伊豆土着は、伊勢平氏内部の争いによって京を弾き出された結果起きた現象だと思う。
195 :
人間七七四年:2011/02/25(金) 08:10:07.12 ID:sASTJCue
>>190 >確かに鎌倉党は実は平氏系統じゃなくて国造系だって話は有る
鎌倉党の大庭御厨で百姓をしていた子孫らしいので、親方様は平氏出身であって
ほしい気持ちはあるけど、個人的にはそっちの説が正しいのではないかと思う。
ただ、藤沢にも村岡という地名はあるし、縁戚関係を結んでいた可能性は否定出
来ないと思う。
と言うか、秩父党(ちょっとあやしいかな?)と上総介以外は、ホントに平氏出身
か疑問があるよね。
まあ、スレ違いか。
>>194 >平時方の伊豆土着は、伊勢平氏内部の争いによって京を弾き出された結果起きた現象だと思う。
伊豆に土着と言うけれど、自称北条氏以外に直方系列っていたんだっけ?
伊豆は、中村党と工藤系伊藤氏以外思いつかないのだけど。
196 :
人間七七四年:2011/02/25(金) 12:09:51.62 ID:Rk19DXxn
直方自体は頼義を娘婿に迎えて八幡太郎が誕生
197 :
人間七七四年:2011/02/25(金) 12:19:28.62 ID:Rk19DXxn
>>192 >そうなると平良文(村岡五郎)の存在がまったく否定される事になる。
否定なんかしていないよ。
中央貴族が地方に「土着する」っていうのは、早い話が在地豪族の婿に入るっていうことだから。
198 :
人間七七四年:2011/02/25(金) 14:00:23.25 ID:7bXKWWsa
>>185 北条氏についてかいかぶりすぎじゃないかなぁ。
時政にしてみれば行き遅れた娘が流人とくっついちゃった。 =アレ、どうしよ?
でもまあ流人といっても貴種だし、比企とか関東の大族とも縁もあるし。 =んー、好み結ぶにはいいかも?なんせウチ小豪族だし
清盛は結構寛大だし、なにかの拍子に許されて京に戻れたり。 =京とのパイプができるかも。
まーなにかあったら、こっちで始末しちまえば・・(政子にゃ悪いが) =(後に畠山の外孫殺ってる実績があるよね)
なんてつもりじゃないのかな。
199 :
人間七七四年:2011/02/25(金) 15:50:32.64 ID:1FGfmqVi
盛方の弟の阿多美聖範が阿多美郷を開発ている。
もっとも実は、阿多美聖範じゃなくて盛方が阿多美郷の開発領主って言う話もあるが、
盛方の処刑の関係で、阿多美郷の開発領主は、盛方の実子阿多美太郎が継いで、
都の盛方流を聖範の実子の時方が継ぐ事になる。
で、都の盛方流を継いだ時方は、中央官職への猟官運動に失敗し地方周りばかりって感じ。
200 :
人間七七四年:2011/02/25(金) 21:40:16.48 ID:KXTirIWo
こいつら一体いつまで戦国時代とは関係無い話題を続ける気なんだ?
201 :
人間七七四年:2011/02/26(土) 00:19:53.64 ID:wRsOIGNT
スレタイがああなんだから仕方がないよ。
202 :
人間七七四年:2011/02/26(土) 02:36:15.88 ID:6stKTRsV
>>198 >アレ、どうしよ?
始めは時政も怒ったらしいねw
京大番に行っている最中に何やってんだ!って感じで。
時政が居ない間の北条館は、政子が預かっていたらしいから(宗時・義時兄弟はまだ子供?)
時政からすれば「留守番放り出して何してるんだ!」って感じだろうな。
>京とのパイプができるかも。
イヤ、既に時政はかなり前から牧氏の従者となり、そこから京の政界情報を得ている。
それ+京大番のついでに色々と聞いて来たりしている。
ただ三浦氏、上総氏、千葉氏あたりが計画していた、頼朝武装蜂起計画は、
伊東氏や北条氏には当初明らかにされなかった。
北条、伊東両氏は、清盛から頼朝監視の任務を頼まれていたから、
むしろ平家サイドと思われていたんじゃないかな。
頼朝武装蜂起計画は、義平十七騎の生き残りや文覚、比企の尼の間で計画されていたのでは?
>まーなにかあったら、こっちで始末しちまえば・・(政子にゃ悪いが)
それもあっただろうな、伊東祐親はそれをやっちゃった。
時政もイザとなったら子供殺して、政子は山木兼隆と結婚させてしまおう、って魂胆。
ただし比企の尼や安達盛長がそうはさせじと、色々動いている。
伊東氏の時も動いたらしいが間に合わなかった。
203 :
人間七七四年:2011/02/26(土) 04:04:28.04 ID:6stKTRsV
桓武平氏は、早い段階に関東に入植したので、そう意味では先住の国造系の豪族や部民と
上手くやっていかないと、開墾もままならなかったのかも知れない。
そうなると清和源氏よりも桓武平氏の方が、国造系豪族との婚姻関係は深いだろうと思う。
桓武平氏は、京での出世競争にあぶれて関東を始めとする外官(地方官)に追い
やられたと言う背景もあるが、その一方で朝廷としては、東北での征服戦争で
捕まえた俘囚を関東に入植させたが、免税特権を与えたのに、農業は全然しな
いは、反乱を起こすは、しまいには群盗やしゅう馬の党に加わるは、で関東の
治安が極端に悪化、結局朝廷は群盗やしゅう馬の党を鎮圧し俘囚を奥州に強制
的に帰す事になった。
その俘囚の奥州強制送還や群盗としゅう馬の党の鎮圧の為に都の軍事貴族が
関東に国司として派遣された、一応これらの軍務が成功したが、今度は関東
を軍事的に制圧した都の軍事貴族が任期終了後も関東各地に土着した、と言
うのが武士の発生工程と言われる。
これらの俘囚や群盗、僦馬の党の横行を鎮圧したのは、平高望、藤原利仁、
藤原秀郷ら都から派遣されて来た軍事貴族だが、彼ら関東に土着した軍事
貴族らが子や孫の代になってから内部分裂を生じ平将門の乱や平忠常の乱が
発生、源頼朝の蜂起に繋がる。
丁度この時期に関東で製鉄技術が確立し、日本刀の原型この時期に完成している。
また、関東に派遣された都の軍事貴族は、鎮圧対象である俘囚が有していた狩猟
技術・武芸技術を吸収した。乗馬と騎射を中心とするものであり、俘囚の戦闘技
術は当時成立しつつあった武士(関東に土着した軍事貴族)たちへ大きな影響を与えた。
例えば俘囚が使用していた蕨手刀は、武士が使用することとなる毛抜形太刀へと発展している。
このように、俘囚の戦闘技術は揺籃期の武士へと継承されていったのである。
これらの事実を見ると、関東に土着した軍事貴族たちは、国造系の豪族だけではなく
奥州系俘囚との婚姻関係も有ったのではないか?と想像される。
204 :
人間七七四年:2011/02/26(土) 07:42:35.26 ID:wRsOIGNT
日本刀の成立や戦術を取り入れたところまでは間違いないと思うけど、それで俘囚と姻戚関係まで結んだとするのはどうだろう。
郡司化していた旧国造階層などとは積極的に姻戚関係を築いていったとは思うが。
郡司の側でも、国による地方行政改革によって、任国における国司の権限が強められる(郡司側からすれば自分たちの既得権益が減る)政策が推し進められるなど、
自分たちのそれまでの権益確保や生き残りのために、国司として赴任してきた中央貴族と積極的に姻戚関係を築いて行かねばならない必要性が増してもきていた。
軍事貴族については、寛平延喜期の東国における群党蜂起や、瀬戸内海における承平南海賊の鎮圧過程を通じて、その第一期世代が形成したとされるね。
そして続く承平天慶期の平将門、藤原純友の乱鎮圧における勲功者たちがその第二期世代。
まあ狭義には特に第二期世代やその子孫たちを指して言うことが多い。
これら軍事貴族第二期世代の子孫たちが、やがて(特に東国において)郡司など地方豪族たちから積極的に招婿されていくことになる。
205 :
人間七七四年:2011/02/26(土) 08:23:31.34 ID:wRsOIGNT
軍事貴族第二期世代は具体的には藤原秀郷、平貞盛(&繁盛)、源経基、平公雅、橘遠保、大蔵春実といった面々。
特に前三者が勲功BIG3とされて、その子孫が中央政府内で軍事部門において重用されて行くことになるし、
また国司として地方に赴任して、在地豪族に請われて彼らと姻戚関係を結んで各地に土着して行くことにもなる。
不可解なのは平良文流の所謂坂東平氏の面々。
両総や相模や武蔵の在地豪族たちは何故貞盛.繁盛でなく、承平天慶の乱での動向が不明な(つまり同乱鎮圧勲功者=中央軍事貴族とは言い難い)良文を婿に選んでその子孫を称するようになって行ったのかということ。
学者でもその点について積極的に説明を加えてくれる人はいないようだ。
高望とその息子・孫たち及び、それぞれを招婿した在地豪族同士の間で既に軋轢か何かがありそうな感じだ(特に将門を挟んで)。
それから、地方に受領、押領使などとして任じられることは、衛府の武官などとして中央に留まるととに比べて劣ることとは言えないよ。
経済的にはむしろ有利なことですらあるし、軍事貴族を含む諸大夫身分に属する貴族たちは競って受領職に就くことを望んだし、寧ろこちらの方が狭き門でもあった。
206 :
人間七七四年:2011/02/26(土) 09:11:03.57 ID:6stKTRsV
>郡司化していた旧国造階層
本当に武芝みたいに郡司で出世止まるっているなw
大和朝廷は、その点は厳しく人事査定している。
>それから、地方に受領、押領使などとして任じられることは、
>衛府の武官などとして中央に留まるととに比べて劣ることとは言えないよ。
そうかね?
桓武平氏も清和源氏も嫡流は京に居るぞ?
自分の生まれ故郷ならともかく、全然関係ない土地に行くのは
仕事として無理矢理行かされる以外何者でも無いじゃん?
まあ畿内なら首都圏と言う事で京官と余り違いはないかもね。
美味しいポストもそれなりにあるでしょう。
でもとんでもない地方の支店や営業所への辞令もらって君はうれしいの?
その点平時方は、自分の生まれ故郷だし父聖範や盛方の実子の阿多美太郎も
居る伊豆に国司として赴任し任期切れと共に田方郡北条郷に土着したのは、
判らない訳ではない。
時方は、諦めたんじゃね?京官への任官を。
で伊豆の北条郷に土着したと。
>貴族たちは競って受領職に就くことを望んだし、
それは任期が終われば都に帰れるからだろ?片道キップだったら?
高望王も次の任務地に移動して、その地で死んでいるはず。
高望王の子や孫は、関東が故郷だろうけどさ。
摂関家や院庁にコネの有る公家は、次の職を斡旋してもらえるが、コネのないのは如何するの?
経歴にトンでもない古傷の有る直方流の平時方さんなんかは?
207 :
人間七七四年:2011/02/26(土) 09:30:08.27 ID:6stKTRsV
>両総や相模や武蔵の在地豪族たちは…
>良文を婿に選んでその子孫を称するようになって行ったのかということ
国造系の土着豪族にムコの選択権はないでしょう。
選ぶのは都の軍事貴族でしょうね。
何度も言いますが、国造系の豪族→武士と言う事例はほとんどないですよ。
信州の諏訪氏ぐらいですか?国造系の豪族→武士は。
あそこは大祝というミニ天皇で、信州には権威がありましたからね。
あと奥州安倍氏は奥六郡の郡司まで行ったけど、時代がだいぶ違いますね。
国造系は武士ではなく、地元神社の神官になっているケースが多いのかと。
208 :
人間七七四年:2011/02/26(土) 11:27:49.84 ID:wRsOIGNT
>>206 > そうかね?
> 桓武平氏も清和源氏も嫡流は京に居るぞ?
> 自分の生まれ故郷ならともかく、全然関係ない土地に行くのは
> 仕事として無理矢理行かされる以外何者でも無いじゃん?
だってそれが受領級貴族たる諸大夫層の「仕事」だから。それが嫌なら貴族やめろってことでしょう。
清盛の祖父の正盛だって最初はなかなか受領職を得られなくて、壱岐守になった藤原為房の実務スタッフ(執鞭)として壱岐に付いていってるくらい。
そんな「下積み」時代を経験してやっと得られた受領職もその壱岐守。つまりは下国の守だが贅沢は言ってられない。
当時は藤原氏だけでも諸大夫層は350人くらいはいたそうだから、数10ヵ国しかない受領職(仮に全ての国に権官を設けても120ヵ国くらい?)に就くことは高嶺の花だったんだよ。
だから受領になれなくてあぶれた中下級貴族たちは上で述べた受領の実務スタッフである執鞭を勤めて糊口を凌ぐわけ。
だけど、これは中々旨味のある仕事でもあったらしい。
将来、受領になった時の為の良いトレーニングになるし、在地勢力とコネクトをつける良い機会にもなるから。
209 :
人間七七四年:2011/02/26(土) 13:07:21.30 ID:6stKTRsV
なるほどね。
210 :
人間七七四年:2011/02/26(土) 13:08:44.70 ID:wRsOIGNT
>>207 > 国造系の土着豪族にムコの選択権はないでしょう。
> 選ぶのは都の軍事貴族でしょうね。
律令制施行〜王朝国家期に至るぐらいまでの地方豪族は、一方的に中央(具体的には国司)から簒奪されるような弱い存在だったわけではないよ。
いわば、中央、地方双方に相克があり、綱引きがあり、両者の関係は微妙なバランスの上に成り立っていた。
> 何度も言いますが、国造系の豪族→武士と言う事例はほとんどないですよ。
旧国造階層は律令時代には郡司層に転換しており、彼ら郡司層は積極的に中央から赴任してきたきた受領階層(特に軍事貴族)から招婿していたと思います。
> 国造系は武士ではなく、地元神社の神官になっているケースが多いのかと。
国造系氏族そのものが「祭」を司る一族と、「政」を司る一族とに分かれて謂わば「役割分担」をしていたといいます。
その際、長兄の家系が祭祀を担当していたと思いますが。
それで「政=俗」の方を担っていた一族が、(
>>204で述べた理由などにより)受領などとして赴任してきた中下級貴族(特に軍事貴族)から積極的に招婿したと考えてます。
211 :
人間七七四年:2011/02/26(土) 14:17:30.36 ID:6stKTRsV
>両者の関係は微妙なバランスの上に成り立っていた。
そりゃウソだw
寛平・延喜東国の乱でペシャンコに潰されたジャンよ、都の軍事貴族に。
物部氏永って武蔵国造系の豪族じゃん。
平将門の乱では、同じ氏族と思われる物部長臣、長處、長根が
関っているが、それでも将門と一緒に潰されたり東北に逃げたりしている。
基本的には、都の軍事貴族が関東を平定し制覇している。
その後に関東を平定し土着した軍事貴族の子や孫が、相続や納税問題、領地争いで内部分裂している。
それが、平将門の乱であり、平繁盛と平忠光の対立であり、平忠常の乱となる。
その中でどっちに付くか右往左往しているのが国造系豪族で、
彼ら自身が政局を作り出せているわけではない。国造系豪族は従属変数だ。
力関係は、都の軍事貴族>>国造系豪族だよ。
招婿、招婿って言うけど、軍事貴族の母親や妻の名がほとんど判んないじゃん。
212 :
人間七七四年:2011/02/26(土) 14:49:14.89 ID:6stKTRsV
>受領職に就くことは高嶺の花だったんだよ。
これも疑わしい。
治安が極度に悪化している関東での受領に任命されて誰が嬉しいんだ?
軍事貴族だから何とかなったんで、普通の公家じゃ手に負えない地域だろ。
この時期の関東への受領としての赴任は、都では将来への展望が無い軍事貴族の官位回復のためであろう。
つまり、京の貴族社会から脱落しかけていた状況を、当時多発していた反受領武装闘争の
鎮圧の任に当たり、武功を朝廷に認定させることによって官位の回復を図っているのだと思う。
平時方は、京での出世を諦めて、伊豆守の任期切れと共に故郷の伊豆北条郷に土着した。
元国司で、伊豆国府のすぐ近くに土着したなら、国府に対して何らかの影響力を行使出来るかもしれないし。
213 :
人間七七四年:2011/02/26(土) 15:11:15.90 ID:itybZeY3
まあ、なんだ。
スレ違いなので他でやっておくれ。
興味ある話ではあるけどね。
214 :
人間七七四年:2011/02/26(土) 15:17:32.46 ID:wRsOIGNT
>>211 >そりゃウソだw
> 寛平・延喜東国の乱でペシャンコに潰されたジャンよ、都の軍事貴族に。
> 物部氏永って武蔵国造系の豪族じゃん。
なにも両者の関係は5対5だったなんて言ってはいないよ。
何しろ「中央」による(律令制)時代なんだから。
でも10対0だったわけでもない。
6対4とか7対3くらいの割合ではあったのではないかっていうこと。
逆に地方豪族・郡司富豪層によって受領が襲われたり、殺されたり、サボタージュされて罷免されたりっていう例だって山ほどもある。
例えばその武蔵国足立郡司・武蔵武芝(在地)は武蔵介・源経基(中央)の言いなりにならずに逆に経基を都に追い払ってるよね。
> 平将門の乱では、同じ氏族と思われる物部長臣、長處、長根が
> 関っているが、それでも将門と一緒に潰されたり東北に逃げたりしている。
>
> 基本的には、都の軍事貴族が関東を平定し制覇している。
> その後に関東を平定し土着した軍事貴族の子や孫が、相続や納税問題、領地争いで内部分裂している。
> それが、平将門の乱であり、平繁盛と平忠光の対立であり、平忠常の乱となる。
そこで大事な視点になってくるのが、将門やその伯父・叔父の国香や良兼や良正の母方や妻の一族たちなんだよ。将門の乱は父系一族だけの関係に目を奪われていたら、その本質が見えてこない。
将門らは父系で見ると(地方土着)王臣子孫だが、母系で見ると在地豪族。そして彼らは中央の論理で戦っているというよりも、既に在地豪族の論理で戦っている側面が強い。
これは将門を倒した側である秀郷も、そして忠常も同じこと。
> 招婿、招婿って言うけど、軍事貴族の母親や妻の名がほとんど判んないじゃん。
系図は意図があって書かれたものだから。
系図に限らず、文字記録というものは総じてそういう側面がある。
意図して何を記録し、
意図して何を記録しなかったのか。
だから文字記録だけではなく、祭祀形態や家紋やその他の周辺情報なども含めて総合的に判断していく必要があると考えてるんだよ。
215 :
人間七七四年:2011/02/26(土) 15:35:43.45 ID:wRsOIGNT
>>212 > >受領職に就くことは高嶺の花だったんだよ。
> これも疑わしい。
いや、疑わしくはないですって。
上に述べたように、藤原氏一氏だけで350人も諸大夫層がいた時代。他氏の諸大夫層も含めるとその数はもっと膨大な数に登ったはず。
そんな彼らの就けるポストの中の「華」が受領職だったんです。
> 治安が極度に悪化している関東での受領に任命されて誰が嬉しいんだ?
> 軍事貴族だから何とかなったんで、普通の公家じゃ手に負えない地域だろ。
だから軍事貴族誕生以降、坂東・東国の国司には軍事貴族が充てられることが多くなっていく。
216 :
人間七七四年:2011/02/26(土) 21:38:25.37 ID:DatI8enf
小田原北条氏や戦国時代の鎌倉について話しましょう。
217 :
人間七七四年:2011/02/27(日) 05:24:07.21 ID:g87ipDAm
国造厨や招婿厨が桓武平氏は仮冒!仮冒!って騒ぐからさ。
>将門らは父系で見ると(地方土着)王臣子孫だが、母系で見ると在地豪族。
将門の母の県犬養春枝女は中央官人系の娘だろ、記録が有ったはず。
将門の乱は、基本的に桓武平氏内部の相続領地争い。
将門の乱を“中央軍事貴族vs国造系豪族”の構図に当てはめて寛平・延喜東国の乱の延長戦にしたいんだろうが、
将門のところに終結していた8千名の兵力は、最後では将門から離れて居なくなり将門は敗死している。
第一将門が、新国家建設まで意図していたかどうか判らんじゃないか。
税金負けてね!位だと思う。
国造系の豪族も人事上国司や介にはなれないが在庁官人には成れて、
国府の業務には参加している訳で、日常生活の面で、差別されていたわけではない。
ただ中央軍事貴族が、権限を持って関東に来ているため
国造系の豪族もこの時期はもう地方公務員なのだから
キャリア組国家公務員(中央軍事貴族)に従わなくては成らない、
と言うことだろう。
関東に移送された俘囚は差別されていた可能性があるが、それは風貌がやはり日本人離れしていたり、
マジで凶暴だったりして大多数の国造系の豪族も迷惑を被っていた可能性が有る。
武蔵国造系の物部氏は、俘囚と結託していたかもしれんが。
>系図は意図があって書かれたものだから。
記載事項を無視して勝手な事を言うのは詐欺師かチョソだな。
同時期の他の資料と比べれば、何とか判るはず。
だいたい、この時期の関東の軍事貴族の妻や娘の名がないのは、女系が大して重視されていないからだよ。
都の風雅な国風文化に浸っている公家と、ダイハード状態の関東の軍事貴族では婚姻関係も一緒には成らない。
将門の奥さんの一人に国造系が居たからって、それで将門の乱を全部説明するのは無理。
218 :
人間七七四年:2011/02/27(日) 05:33:43.30 ID:g87ipDAm
>だから軍事貴族誕生以降、坂東・東国の国司には軍事貴族が充てられることが多くなっていく。
じゃ〜受領のポストが公家の垂涎の的である。
と言うアナタの主張が、間違えなのは認めますね?
219 :
人間七七四年:2011/02/27(日) 05:39:12.83 ID:g87ipDAm
>逆に経基を都に追い払ってるよね。
武芝は追っ払っていないよ。
チキンな経基が、勝手にビビッて逃げ帰っただけ。
220 :
人間七七四年:2011/02/27(日) 05:55:10.12 ID:XA5rb/9T
>>218 > じゃ〜受領のポストが公家の垂涎の的である。
> と言うアナタの主張が、間違えなのは認めますね?
別に非軍事貴族の諸大夫層が忌避したからというわけじゃないよ。
ただ軍事貴族の割合が多くなっていくというだけ。
別にこれは否定していないし。
むしろ諸大夫身分の軍事貴族にとっては願ったり叶ったりの状況になったとすら言える。
ところ次の
>>219もそうだけどで何故に一字一句にこだわるの?
221 :
人間七七四年:2011/02/27(日) 06:00:58.22 ID:XA5rb/9T
だいたい諸大夫層の貴族にとって受領が憧れのポストだったなんてことは常識中の常識のだと思うんだが。
何故にそこに粘着してそれを躍起になって否定しようとするのか分からない。
ならそれこそ貴方のこだわっているらしい文字史料にでも、諸大夫層が受領職を忌避したがっていたとでもいう資料でも有るの?
222 :
人間七七四年:2011/02/27(日) 06:04:57.95 ID:XA5rb/9T
>>219 > 武芝は追っ払っていないよ。
> チキンな経基が、勝手にビビッて逃げ帰っただけ。
こんなのはもはや揚げ足とり以外の何者でもないと思うんですが?
223 :
人間七七四年:2011/02/27(日) 06:08:47.15 ID:XA5rb/9T
>>217 > 国造厨や招婿厨が桓武平氏は仮冒!仮冒!って騒ぐからさ。
熱くならずに冷静に過去ログを見直して下さいね。
私は一言も仮冒なんて言っていませんよ。
一体誰のレスと勘違いしてるの?
224 :
人間七七四年:2011/02/27(日) 06:27:43.10 ID:XA5rb/9T
>>217 > 将門の母の県犬養春枝女は中央官人系の娘だろ、記録が有ったはず。
> 将門の乱は、基本的に桓武平氏内部の相続領地争い。
ですから将門の母系の犬養氏や、将門の伯父や叔父である国香や良兼や良正の妻方一族である常陸大掾源護の一族自体が、既に平高望よりも前の時代において在地豪族からの招婿婚招婿婚により、自身が在地豪族化していた可能性について申し上げているのです。
なにも平高望が招婿婚「第一期生」であるわけではありません。
この頃の地方豪族は既にかなり中央貴族との婚姻が進んでいて、中央貴族の姓を名乗る率が上がっていました。
225 :
人間七七四年:2011/02/27(日) 07:33:04.03 ID:53QwJMu1
知識があるのはわかったから、まとめて他でやってくれい。
226 :
人間七七四年:2011/02/27(日) 10:04:30.64 ID:XA5rb/9T
>>217 >記載事項を無視して勝手な事を言うのは詐欺師かチョソだな。
>同時期の他の資料と比べれば、何とか判るはず。
ならばその
>資料
とやらを提示して
>比べ
てみることをまずあなたから始めて下さい。
> だいたい、この時期の関東の軍事貴族の妻や娘の名がないのは、女系が大して重視されていないからだよ。
意図して
>重視
しなくなったとも考えられますね。
>都の風雅な国風文化に浸っている公家と、ダイハード状態の関東の軍事貴族では婚姻関係も一緒には成らない。
あなたが上(
>>211>>212その他)で述べたことと矛盾していますよ。
そんなに中央がヤワだったのなら、どうして貴方の仰るように中央が地方を押さえつけて優越できるんです?
「軍事貴族」と言いますが、その軍事貴族も「中央」から誕生したんですよ?
>将門の奥さんの一人に国造系が居たからって、それで将門の乱を全部説明するのは無理。
曲解は止めて下さいね。
いつ私が
>全部説明
しましたか?
227 :
書き忘れ:2011/02/27(日) 11:16:49.38 ID:XA5rb/9T
>>217 > 将門の乱を“中央軍事貴族vs国造系豪族”の構図に当てはめて寛平・延喜東国の乱の延長戦にしたいんだろうが、
> 将門のところに終結していた8千名の兵力は、最後では将門から離れて居なくなり将門は敗死している。
それは
>8千名の兵力
すべてが将門直属の兵というわけではなかったからです。
「同党」と呼ばれる将門の同盟者たちが率いる士卒を合わせた総数が8千だったわけです。
彼ら「同党」は、将門が「新皇宣言」して以降急速に将門の元を離れて行きます。
それで、最後まで従った4百ぐらいが将門直属兵で、彼らは「従類」と呼ばれた者たちだと思われます。
228 :
人間七七四年:2011/05/05(木) 06:56:16.50 ID:sO96MLE1
このバカなスレ立てたヤツって小田原のヤツなの?
鎌倉と比較する事自体間違ってるだろ、小田原は所詮地方大名の街でしかないんだからさ
歴史 鎌倉>>>>>>>小田原
人口 小田原>>鎌倉
隣接地 箱根>>葉山←隣接地に意味があるのか?馬鹿 あえて書くなら湘南や江ノ島だろwww
知名度 鎌倉>>>>>>>>>小田原←武家政権を開いた都市と地方大名の都市を一緒にするな
面積 小田原>>鎌倉←面積って必要かwwwww
都心アクセス 小田原>>鎌倉←逆だろバカ
武士勢力 小田原>鎌倉 ←源氏の拠点と地方大名を一緒にするなよな・・・
229 :
人間七七四年:2011/05/05(木) 15:00:23.30 ID:BdWGGTFM
鎌倉って新幹線の駅あるの?
小田原はあるよ。
230 :
人間七七四年:2011/05/05(木) 15:03:48.71 ID:HBqr0sl8
横浜って新幹線の駅あるの?
新横浜にはあるよ
なんて言われても困るだろ
231 :
人間七七四年:2011/05/05(木) 21:03:15.10 ID:E2kWUf/4
小田原のほうが拠点として優れているね。
新田義貞の進軍をみれば、
鎌倉は本拠地として失敗だったと思う。
232 :
人間七七四年:2011/05/05(木) 21:06:15.92 ID:7X1bcKYe
でも観光地とか言われる割に無人駅とかあって、
時刻表が穴あきだらけで鎌倉交通の便が悪いのは事実だ
233 :
人間七七四年:2011/05/12(木) 22:35:17.05 ID:XH0FBE0h
津波にはどつちも弱いな
234 :
人間七七四年:2011/05/24(火) 13:04:31.52 ID:V3Nl2meP
とりあえず鎌倉に車で来るな
235 :
人間七七四年:2011/07/20(水) 21:09:22.94 ID:tnaTvlOP
電車。
236 :
人間七七四年:2012/02/12(日) 00:43:55.50 ID:hL9tGdBS
鎌倉北条氏って時政以前の系図なんかは良く判らないらしいが、案外伝承どおり、
平直方流じゃないのかな?と思える。
平直方-平維方-平盛方の直方流三代は、貞盛流の嫡流であり、
従五位下の京の軍事貴族として公卿の警護みたいな仕事をしていた。
平盛方が活躍する時代は、同族伊勢平氏(貞盛流)の平忠盛(清盛の父)が台頭
し活躍している時期でもある。当然、平盛方と平忠盛はライバル関係に有り
新興勢力の忠盛は、平貞盛流の嫡流の座を狙い始めていた。
平盛方の子供と言われる熊谷氏の伝承によると朝廷で平忠盛襲撃事件があり、
その一味に同族である平盛方が加わっており、その罪により処刑されてしまう。
事実、平忠盛は当時は異例の高待遇である内昇殿を許可された。
『平家物語』では武士である忠盛が殿上人となったことを憎んだ公卿たち
による闇討ちが企てられるが、事実忠盛は銀箔の木刀によって公卿たちを脅す
機転によって彼らの襲撃を防ぎ、鳥羽上皇から賞された事(殿上闇討事件)が有った。
それ以外でも武士でありながら出世を重ねる忠盛に対して公家による襲撃事件が多数あった。
この平盛方処刑により盛方流は没落、これで貞盛流嫡流だった直方流の都での評価は地に
落ちたと思う。盛方流は、都に居られなくなり、盛方の弟である阿多美聖範の家筋に平直
方流の当主の座は移ってしまう。そしてこれが伊豆北条氏の直接の家祖として考えても良
いのではないだろうか。
処刑された盛方の弟の阿多美聖範は伊豆阿多美郷に土着し開発領主としてこの地域を開発した。
阿多美四郎を名乗り伊豆北条氏の通字である四郎が始めて登場する。罪人となった平盛方の
実子は聖範が引き取り、阿多美郷の領主を引継ぐ。
聖範の実子である平時方は、当初は阿多美郷和田里に居住して和田太夫四郎と名乗っていたが、
処刑された盛方にかわって直方流を継ぐ為に都に上がり宮仕えを始める。
平時方は、処刑された盛方とは違い、順調に出世し上総介や肥後守を勤めた。そして晴れて
伊豆守に任命され伊豆の国司となる。この時期の国司は国元には赴任せず代理人を派遣して
国司業務を代行させたが、平時方は父の聖範や盛方の子らが居る伊豆に赴任して在国の国司
として三島の国府庁舎で国司業務をこなした可能性が高い。またその方が地元の事情が判り
国元での影響力を行使し易く、国司業務がはかどる、という事もあったであろう。
国司任期終了後の平時方は、都に帰らず三島国府庁舎の直ぐ近くにある北条郷
に土着し氾藍原の開発領主となってしまう。俗姓も平から北条に改め、都での
平直方流軍事貴族としてのキャリアを捨て東国武士として伊豆北条氏の歩みを
始める。
もっとも自分の故郷の近くであり、任国として実際に数年間統治し、父や盛方
の実子が居る伊豆でのんびりやっていた方が、都での軍事貴族として出世競争
にあせくせするよりマシだ。 と言う判断が、時方に有ったのかもしれない。
また平直方-平維方-平盛方の直方流三代は、貞盛流の嫡流の地位を継承してきたが、
盛方の忠盛襲撃事件関与により直方流の没落が決定的となり、忠盛-清盛流が貞盛
流の嫡流の座を引継ぐ事になった。
その為に盛方処刑後に直方流を継いだ時方は、貞盛流の嫡流の座を忠盛に明け渡し
平の姓を捨てて北条を名乗り伊豆に土着し東国の御家人としての歩を始めたのだろう。
237 :
人間七七四年:2012/02/12(日) 07:45:21.73 ID:y9egck3i
>平の姓を捨てて北条を名乗り
238 :
人間七七四年:2012/02/12(日) 20:15:00.48 ID:hL9tGdBS
初代伊豆北条氏と言える時方は、伊豆国司だが、
その子の時家も伊豆介・伊豆権守に就き国司に次ぐ地位で伊豆国衙に関与している。
時家の弟に当るのが、時兼で彼も伊豆介となっており在庁官人である。
この様に伊豆北条氏は、伊豆国衙では上級の地方行政官職を確保し続けた比較的官位
の高い武士であるが、その割には北条氏の領地は北条郷しか確認出来ておらず、高い
官位に見合った領地を確保出来ていない武士だった。この様な事から伊豆北条氏は、
開発領主としての性格よりも伊豆国衙の行政執行を実質的に担う在庁官人としての性
格が強い地方官僚的な武士だった。
平安時代後期からは律令制が動揺を始めており、在庁官人は国司の従順な部下である
だけではなかった、在庁官人はの実態は決してそうではなく、元々現地有力者(大規
模開発領主)でもあり、中央の国司に対峙する地元利益代表としての顔も持っていた。
しかし伊豆北条氏は、伊豆に土着する時期が遅く、当時の農業土木技術では
もはや開発余地が少なく開発領主として伊豆で田畑を開発し北条氏の領地を
拡大する事が出来なかった。その為に伊豆国衙での勤務や地方行政上の影響
力維持に注力する地方官僚色の強い在庁官人業務に注力した武士となったのであろう。
日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた政務機関
の役所庁舎群を(国衙)、さらにその中枢で国司が儀式や政治を行う施設を国庁
(政庁)と呼んだ。
239 :
人間七七四年:2012/02/23(木) 21:23:41.09 ID:2w8BsxQ0
そろそろ小田原北条の大河ドラマやってくれないかな 鎌倉北条はやったし。
240 :
人間七七四年:2012/02/25(土) 03:57:27.31 ID:9+PWFV5d
後北条が小田原を統治した期間よりも狭山を統治した期間の方が長いから
狭山も入れるべきじゃね
241 :
人間七七四年:2012/02/28(火) 00:43:02.19 ID:+OULHqBh
北条時政って伊豆北条氏の3代目なんだね。
伊豆に土着して三代じゃ〜
京での貞盛流嫡流時代の豪勢ブリはまだ忘れていないなw
でも時政は伊豆の大武士団である伊東家から嫁をもらっており、
周囲からは次第に伊東家の武士団に吸収されつつある存在だったと
見なされてた可能性がある(細川重男説)
その為に何とかして家名を盛り返し、武士としての独立性を維持し様と
せっせと京都大番やったり京の中堅公家の牧氏の被官になったり、
四苦八苦していたところに頼朝が流されて来て娘の政子が妊娠したと…
将来の幕府執権まで想定していたと思わないが、娘の政子が頼朝の子を妊娠したと聞いて
「これで清和源氏嫡流とコネが出来た、お!w」とやる夫的発想をした可能性はある。
一度は、政子と頼朝を別れされて政子を山木兼隆と結婚させ様とした話も作り話らしいし、
時政にとっても、このまま伊豆でグズグズしていたら、伊東家の下僕にされかねないし、
政子と頼朝の出会いは、リスキーではあるが、伊豆北条氏にとって一応
「天下第一武勇之家(河内源氏棟梁)」の外戚となり、中央権門とのコネが出来た事になる。
それに頼朝にとっても
伊東祐親の娘の八重姫に手を出して子供と共に危うく殺されかけた事もあった。
政子なら平直方流で、清和源氏嫡流とは元々縁のある伊豆北条氏の方が、
今後を考えて何かと都合が良いと思ったのかもしれない。
242 :
人間七七四年:2012/02/28(火) 02:17:01.42 ID:n/Kpx5wd
京都住みだけど
鎌倉と小田原って同じ場所にあると思ってたわ
鎌倉幕府の北条〜室町の公方〜後北条
この流れしか知らないやつからすると
同じ場所にあると思うのが普通だろjk
243 :
人間七七四年:2012/02/28(火) 08:38:19.37 ID:aYyjA2/4
そりゃ平安京と平城京が両方とも奈良にあったと思ってたレベルだなw
244 :
人間七七四年:2012/02/28(火) 09:00:17.57 ID:n/Kpx5wd
平城京から平安京への遷都は中学歴史レベルの問題だから、全然違うよ
245 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 15:28:49.61 ID:rIuZq32M
ワイが聞いた情報によると、もうじき中国はバブルがはじけて昔の貧乏な中国に戻るらしいで
もう経済は破綻してて、取り戻すのは無理なんだそうや
その世界ではごっつい有名な政府関係者筋から聞いた確かな情報やで
まあお前ら頭の良い連中には、今さらなくらいのネタやな、
お前らからすればもう常識的なくらいの知識やろ?
2ちゃんねるやってるやつならこの情報でもう大儲けしてるしな
246 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 20:41:27.11 ID:BsP9TUgM
247 :
人間七七四年:2012/03/27(火) 14:24:53.02 ID:srl89VbF
元共産党員でシナ共産党のスパイの故網野喜彦とその弟子の細川重男を粉砕せよ!
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248 :
人間七七四年:2012/04/25(水) 00:28:06.22 ID:zgeUT0N1
氏照
249 :
人間七七四年:2012/05/12(土) 17:23:04.29 ID:RCUO9sKM
250 :
人間七七四年:2012/10/05(金) 07:52:59.03 ID:0kynQ2kL
日本人の子供を差し置いて、朝鮮人などの外国人を9月入学させる、東大は潰せ!
日本の大学のランクが本当に下がっているとすれば、それは国による補助金が他の国に比べ低いからではないのか?民主党の仕分けのせいだ! これ以上日本に日本人の負担になる害国人を増やすな!
あいつら日本人の税金から数千万の金を1人当たり与えられるということを忘れてはならない。金がなく大学に行けない日本の子を差し置いてだ!この問題を黙認してはいけない!
251 :
人間七七四年:2012/10/06(土) 06:56:13.52 ID:UG6MxYWy
潰せ!だの粉砕せよ!だの戦後左翼のバカどもは鬱陶しいな
それはさておき、鎌倉北条氏というスレタイには違和感がある
玉縄北条氏じゃないのかね?
252 :
人間七七四年:2013/01/09(水) 19:50:48.46 ID:bbr1Zn2H
相模の国は、元々
国分寺のあった海老名
社殿のあった寒川の方が由緒
どちらも内陸の港町
253 :
人間七七四年:2013/02/06(水) 11:41:35.44 ID:n5nhBrF2
高座郡が中心だからねぇ。
国分寺辺りは少し小山だけど、その下はだだっ広い平野だから、米とか作り
やすかったのだろうか。
254 :
つまらないものですが名無しです:2013/03/02(土) 16:56:05.40 ID:HVs4rVBi
てゆうか鎌倉ってただのコシギンチャクタウンだろwww
255 :
人間七七四年:2013/03/03(日) 01:11:13.52 ID:BbrJlXua
鳩サブレー対虎朱印最中
鳩の勝ちか
井上かまぼこ対小田原の蒲鉾いろいろ
これは知名度や生産量から小田原の蒲鉾の勝ち
256 :
人間七七四年:2013/03/03(日) 12:47:14.53 ID:Q8v84YSF
他国の凶徒偽北条
257 :
人間七七四年:2013/03/22(金) 10:29:42.51 ID:FVpJoBcp
他国じゃないのっているのか?
258 :
人間七七四年:2013/04/02(火) 21:14:09.22 ID:Vslqpo2F
どっちもどっちかな
259 :
人間七七四年:2013/06/04(火) 22:29:45.18 ID:AgJQ1jLj
260 :
人間七七四年:2013/09/21(土) 21:31:11.01 ID:4eNJOktq
261 :
人間七七四年:2013/10/17(木) 23:13:15.68 ID:kWR5RF3b
後北条氏と鎌倉北条氏は何の関係もないと思っていたから
早雲が伊豆韮山に本拠構えてたと最初知ったときは驚いた
鎌倉北条氏の地盤と同じじゃん、てな感じで
何に家名と家紋を真似しただけじゃないのか
262 :
人間七七四年:2013/10/20(日) 02:00:54.80 ID:Cg95VPa2
歴史に詳しくなかった頃は鎌倉北条が戦国時代まで残ってるんだと思ってた
263 :
人間七七四年:2013/10/20(日) 11:27:27.04 ID:Qrnkk9ss
>>262 小田原市以外の神奈川県民にそんなこと言ったら
お前は永久排除になるぞw
なんせ横浜市民や鎌倉市民を中心に後北条は
相模国を糞田舎に落した最低大名として嫌われてるからな。
執権北条氏時代の先進的武士文化時代に終止符をうち、
発展途上国にしたのは高利貸し暴君の偽北条の他国の凶徒伊勢氏だからな。
264 :
人間七七四年:2013/10/20(日) 13:05:31.95 ID:/mbV4/Fl
まあ、北条を名乗っちゃいかんわな
平氏という以外に関係ないし
三つ鱗まで使って詐欺だろアレ
265 :
人間七七四年:2013/10/24(木) 20:26:40.78 ID:bLfNZXQ4
266 :
人間七七四年:2013/12/23(月) 16:08:39.82 ID:tIyWlVLb
267 :
人間七七四年:2014/03/22(土) 12:08:13.60 ID:0D5Wcx9N
268 :
人間七七四年:2014/03/30(日) 17:36:23.26 ID:oNk3czD2
269 :
人間七七四年: