96 :
人間七七四年:2011/07/10(日) 07:57:57.92 ID:hnDwhm00
中小の勢力からおだてられていいように利用されただけだよね軍神さまは
97 :
人間七七四年:2011/07/29(金) 10:28:24.15 ID:a/O0UDOL
98 :
人間七七四年:2011/10/08(土) 09:05:21.74 ID:9BPojUfM
島津や伊達や毛利の統治と支配体制の後進性は比定できないな
99 :
人間七七四年:2011/10/08(土) 22:41:53.10 ID:YAuY/knU
進歩主義者は支配体制に先進後進があると思ってるのが笑える
100 :
人間七七四年:2011/10/09(日) 09:06:04.20 ID:d3ln5Fo0
進歩主義は政治や教育における対立概念であり
史学には当てはまらないのも知らん無知ぶり…
101 :
人間七七四年:2011/10/10(月) 23:13:37.26 ID:hmC/FDoZ
田舎者の仙台人がたてたスレねw
102 :
人間七七四年:2011/10/24(月) 10:41:32.94 ID:rG9DSj0E
103 :
人間七七四年:2011/10/26(水) 09:53:18.72 ID:Z5h8KT/L
104 :
人間七七四年:2011/10/27(木) 16:07:27.04 ID:ZsMShJ9Z
時代錯誤大名
北条の武将って戦の前に
お歯黒してたんだろ。
武田や上杉の兵から
爆笑されながら石投げられてたんじゃないかw
105 :
人間七七四年:2011/10/27(木) 19:50:33.63 ID:NAmL905Z
結果、上杉や武田をはるかに凌ぐ200万石以上の広大な版図を築いた北条氏って凄いね
106 :
人間七七四年:2011/11/26(土) 18:23:43.05 ID:Scwhcn2S
107 :
人間七七四年:2011/11/26(土) 18:29:05.49 ID:Scwhcn2S
訂正
子 義久、義弘、歳久、家久
108 :
人間七七四年:2012/01/05(木) 17:33:10.56 ID:RfsndirT
109 :
人間七七四年:2012/01/08(日) 17:17:01.50 ID:0WBrf6vE
関ヶ原前の五大老署名順
前田、毛利、上杉、宇喜多、徳川
上杉はナンバー3にまで登りつめた。
徳川は朝日姫、
宇喜多57万石は秀吉養女豪姫と縁戚。
宇喜多は小身なので上杉は実質的にナンバー2
それにしても、なぜ輝元は上杉より下なんだ。
110 :
人間七七四年:2012/01/16(月) 18:10:00.23 ID:n7p1Px0x
111 :
人間七七四年:2012/02/09(木) 22:05:36.31 ID:V0Ypu3HF
112 :
人間七七四年:2012/03/17(土) 10:11:08.78 ID:4V2vhMAG
113 :
人間七七四年:2012/04/25(水) 17:37:23.83 ID:kzHU8JaS
名家島津氏も凄いが鹿児島(薩摩)の歴史と人物自体が凄すぎる
「超簡単」に書いただけでもこれだけあります
●日本でも特に歴史が古く、名家である名門島津一族
島津氏は鎌倉時代以来の名族で、初代忠久が元暦2年(1185年)に、
源頼朝から島津荘の 下司職 ( げししき ) (荘園の管理責任者)に任命されている。
●戦国時代から現在でも有名な親と優秀な息子4兄弟とその一族
島津貴久(父)と息子達 (義久、義弘、歳久、家久) そして関ヶ原でも有名の家久の嫡男、豊久
●戦国時代の島津家の最終勢力分布
九州統一(琉球王国含む)
●関ヶ原の合戦
島津軍は関が原の戦いで、わずか数百人で家康の本陣目掛けて敵の大軍の中を
敵中突破を決行。豊久は壮絶な死を遂げ家康や全国の大名らに「島津ここに有り」を認めさせた
●我々日本人が誇る「日本国旗」にも大きく関係していた名家島津氏
後に船印として「薩摩藩に服属していた琉球王国」が中国への進貢船に
日章旗(現日本国旗)を用いており、江戸時代後期からは「薩摩藩の船印」と
しても用いられるようになった。
開国後は幕府が日本国共通の船舶旗(船印)を制定する必要が生じたときに
薩摩藩からの進言(進言したのは薩摩藩主、島津斉彬)で 日章旗を用いることになった。
島津氏の日本への影響力がいかに凄かったか伺える。
114 :
人間七七四年:2012/04/25(水) 17:37:57.01 ID:kzHU8JaS
115 :
人間七七四年:2012/04/25(水) 17:38:27.37 ID:kzHU8JaS
116 :
人間七七四年:2012/04/25(水) 17:39:29.06 ID:kzHU8JaS
島津は戦国時代も今も全国に知られた名家だからな
琉球王国支配、九州統一、関ヶ原の合戦、朝鮮出兵などなど
関ヶ原では本陣突破と壮絶な捨て奸で東軍総大将家康と側近を驚かせ
朝鮮出兵では明・朝鮮連合軍をフルボッコにし、九州では秀吉が
島津を恐れるあまり、かの黒田や細川を警戒して置くぐらいだ
最終的に島津が九州最大勢力であった事は史実
117 :
人間七七四年:2012/04/25(水) 17:40:06.74 ID:kzHU8JaS
以下島津アンチ
1.島津にフルボッコにされたチョン、シナ、在日
2.島津の九州統一によって、島津家にお家を潰された九州各地の
ヘタレ弱小大名の出身地の奴。幾度が捏造カキコ
3.島津に攻められて降伏しようとしたら、勝手に自滅したヘタレ龍造寺
4.島津の猛攻に耐え切れず、猿秀吉に助けを求めたヘタレ大友
5.西軍の総大将にして裏切り者、引き篭もり、ヘタレ毛利
6.自称、神奈川(笑)、愛知(笑)出身。スレチ以前に薩摩島津氏を語る資格は無い
118 :
人間七七四年:2012/05/12(土) 17:22:15.10 ID:RCUO9sKM
119 :
人間七七四年:2013/05/05(日) 08:36:02.35 ID:p8w2Lne6
島津など上杉景勝の地位と石高に比べたら屁。
島津は金がないし直接戦しても勝てないよ。
120 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 11:20:30.78 ID:SizNbeoh
一度も自力で合戦に勝った事ない上杉景勝こそ屁
121 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 12:10:10.04 ID:HZPUzW9x
乱発生当初は景虎が春日山を包囲する形で城を押さえる
武田軍が迫る中景勝は春日山包囲を崩して諸城との連絡を復旧
景虎逆に包囲される
この頃すでに葦名は越後に攻め入ってきており景勝方の揚北衆と戦闘中
勝頼は越後に入るも北条の行動に不信感を持って景勝と和睦して撤退
景勝は武田対策に回していた分の兵を北条対策に増派して持ちこたえ
結局北条は雪が降りだしたため撤退
同時に芦名が秋に再度越後に侵攻し山浦衆を味方につけるなどしていたが景勝これを撃退
伊達も黒川と提携し侵攻してくるがこれも撃退
その間景虎は景勝方に兵糧攻め食らっていてあちこちに救援依頼
雪のおかげで外国勢の相手から解放された景勝方が集まってきて
景勝からの総攻撃食らって景虎逃げる途中にアボン。
御館の乱が長引いたのは北条武田葦名伊達の介入のせいであって
死線につぐ死線をもたらしただけの勝頼のおかげで勝ったなどという妄想は到底いえない
上杉37万石上杉37万石程度(御館の乱や新発田の乱で極端に瓦解)に
伊達・芦名・新発田と共同戦線で9倍の兵力差でもって
2年も越中中部で足止め食らったのと同列視して考えるとか馬鹿かと
景勝>>>>>>柴田
122 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 12:12:10.38 ID:HZPUzW9x
御館の乱
家中二分。武田北条伊達蘆名が敵方でこぞって国内出兵
これで当初は景虎優勢なほどだったが武田北条の大軍が迫りくる中
本城と枝城の連絡を復旧して逆転勝利
天正8年〜天正10年
9倍もの圧倒的大軍で御館の乱や新発田の乱で極度に弱体化したところ狙って迫りくる中
越中中部〜魚津松倉間で2年も敢闘。長沼攻防で森長可撃退
本能寺後
信濃を北上してくる徳川勢4000を二年連続で撃破(麻績・青柳の戦い)
長久手戦でも徳川方軍勢をほとんど領国に残させるほどの貢献を見せる
上野でも北条の軍勢打ち破り北進阻止。同時に佐々も越中に足止めし
八幡原の戦いで新発田も新潟津から駆逐し蘆名義広にも大勝。
ちなみに上杉の動員兵力は5000程度で、北信4郡と佐渡と出羽庄内が加わった小田原合戦時でも1万そこそこ。
どうみても景勝は強いです。本当にありがとうございました。
9倍もの圧倒的大軍で御館の乱や新発田の乱で極度に弱体化したところ狙って迫りくる中
越中中部〜魚津松倉間で2年も敢闘。長沼攻防で森長可撃退
景勝>>>>>柴田(織田家トップ格)
武田滅亡がもう少し遅れてたら
魚津城攻防で柴田ら45000の大軍は5000そこそこの上杉軍に瞬殺されてただろうな
何せ御館の乱や新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で
能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに越中中部で天正8年から天正10年半ばまで
2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
こんな体たらくじゃ史実で上杉が信濃に派兵した隙をついて居留守泥棒的に奪った魚津攻防でも
初めから越中に軍動かして魚津城外で圧倒的な大敗劇を演じていたんじゃないか。
何せ松倉の須田に手も足も出ずに苦戦していたんだしな
新発田なんて完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞に追い詰められていただけだし。
内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・下野(20000)
から総兵力7万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北
越中中部で苦戦する織田軍じゃ100年戦っても勝てないだろ
123 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 12:15:20.30 ID:HZPUzW9x
御館の乱
家中二分。武田北条伊達蘆名が敵方でこぞって国内出兵
これで当初は景虎優勢なほどだったが武田北条の大軍が迫りくる中
本城と枝城の連絡を復旧して逆転勝利
天正8年〜天正10年
9倍もの圧倒的大軍で御館の乱や新発田の乱で極度に弱体化したところ狙って迫りくる中
越中中部〜魚津松倉間で2年も敢闘。長沼攻防で森長可撃退
本能寺後
信濃を北上してくる徳川勢4000を二年連続で撃破(麻績・青柳の戦い)
長久手戦でも徳川方軍勢をほとんど領国に残させるほどの貢献を見せる
上野でも北条の軍勢打ち破り北進阻止。同時に佐々も越中に足止めし
八幡原の戦いで新発田も新潟津から駆逐し蘆名義広にも大勝。
ちなみに上杉の動員兵力は5000程度で、北信4郡と佐渡と出羽庄内が加わった小田原合戦時でも1万そこそこ。
どうみても景勝は強いです。本当にありがとうございました。
御館の乱や新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で
能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに越中中部で天正8年から天正10年半ばまで
2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
こんな体たらくじゃ史実で上杉が信濃に派兵した隙をついて居留守泥棒的に奪った魚津攻防でも
初めから越中に軍動かして魚津城外で圧倒的な大敗劇を演じていたんじゃないか。
何せ松倉の須田に手も足も出ずに苦戦していたんだしな
新発田なんて完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞に追い詰められていただけだし。
内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000)
から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北
越中中部で苦戦する織田軍じゃ100年戦っても勝てないだろ
上杉37万石程度(御館の乱や新発田の乱で極端に瓦解)に
伊達・芦名・新発田と共同戦線で9倍の兵力差でもって
2年も越中中部〜魚津・松倉のわずかな区間で進めず立ち往生
景勝>>>>>>柴田
越中にしたって御館の乱とその後の混乱の中で
織田軍はそれに乗じて占領もできず
河田長親が病没するまで見事に一進一退だったし
その後に越中方面の総指揮官になって越中三大山城のひとつである
松倉城に入って越中方面を指揮していた須田満親が篭城してたからなぁ。
平城の魚津城は所詮、松倉城の支城でしかないんだわ。
124 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 12:16:51.92 ID:HZPUzW9x
・御館の乱で国中が二分し武田北条葦名伊達が敵方で越後侵攻してきた状態で見事勝利
・80年までの内乱や平定戦で国はボロボロ。その頃には本願寺と織田の和議がなり
越中や能登の衆も次々織田方に従い下越で新発田が乱を起こす等絶望的な状況で圧倒的兵力で迫り来る織田相手に
越中中部〜魚津・松倉間で2年も食い止めた
・信長死後の信濃で家康の誘いに乗って寝返った屋代氏や塩崎氏ら信濃衆を瞬殺(天正11年・12年)
・83,84年二回とも麻績・青柳の戦い小笠原、青柳、仁科衆ら4000に大勝し、
徳川の北信方面への進出を完全に頭打ちにさせる
(小笠原貞慶は笠系大成や岩岡家記でその能力や器量を賞賛される程の武将で1582年に家康の支援を得て府中に入って以来安曇・筑摩を北部を残し統一し
小県の領主も多く従え諏訪の一部も領有出来た程有能な武将)
・真田とともに信濃で徳川、上野で北条(ともに大軍)を撃退した
・新発田との八幡表の戦いに見事勝利(天正11年)
・赤谷・津川の戦いで新発田を援助してた葦名に勝ち輸送物資を大量に強奪
・佐渡平定戦
・本庄に援軍送り出羽庄内を奪った十五里が原の戦いで大勝
・小田原合戦で国境を守る松井田城を撃破
・北条氏邦が籠もる絶対死守の5000の鉢形城で血で血を洗う激戦を制する
・北条が小田原侵入を許すため最終絶対防衛とした八王子城をわずか1日で落城させる
・大阪の陣の今福・鴨野の戦いで豊臣方の大軍を破る
御館の乱で景虎が負ける可能性なんて普通に考えればなかったはず
機先を制して御館を占拠し国内国人衆を次々味方につけ
伊達蘆名武田北条に援軍要請し実際皆景虎方で越後に出兵(蘆名なんか春・秋と二回も出兵してる)
普通に敵方が迫り来る中本城と枝城の連絡を復旧しつつ
周辺諸大名をこぞって撃退した景勝がなかなかだったというだけの話だろう
乱発生当初は景虎が春日山を包囲する形で城を押さえる
武田軍が迫る中景勝は春日山包囲を崩して諸城との連絡を復旧
景虎逆に包囲される
この頃すでに葦名は越後に攻め入ってきており景勝方の揚北衆と戦闘中
勝頼は越後に入るも北条の行動に不信感を持って景勝と和睦して撤退
景勝は武田対策に回していた分の兵を北条対策に増派して持ちこたえ
結局北条は雪が降りだしたため撤退
同時に芦名が秋に再度越後に侵攻し山浦衆を味方につけるなどしていたが景勝これを撃退
伊達も黒川と提携し侵攻してくるがこれも撃退
その間景虎は景勝方に兵糧攻め食らっていてあちこちに救援依頼
雪のおかげで外国勢の相手から解放された景勝方が集まってきて
景勝からの総攻撃食らって景虎逃げる途中にアボン。
北条武田葦名伊達の介入のせいで国内がガタガタで天正8年半ばまで内戦が続き、後半になると新発田が挙兵するなど
一層弱体化する要因となるが
125 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 13:54:40.44 ID:CrA84FXE
コピペうぜぇよカス
上杉?屁だろ
126 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 18:15:39.28 ID:Hm7yNLSR
景勝なんて豊臣、徳川、武田といったジャイアンが付いてないと勝てないスネ夫なのは明らかだろうに
127 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 20:54:45.98 ID:19ry/NPh
景勝が豊臣や徳川武田の援助受けた戦なんて全くないどころか戦った相手(新発田・景虎・北条・小笠原など)が
伊達葦名織田徳川北条武田の援護受けまくってるのにジャイアンがついてるとか相当馬鹿だな
128 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 20:56:53.02 ID:HZPUzW9x
信長や秀吉って自力で戦に勝ったことないよな
対斉藤戦では甲賀衆や浅井、美濃三人衆の援軍がきまくって勝てただけだし
対浅井朝倉や上洛戦でも徳川とか浅井とか朝倉一門衆とかジャイアンに助けて〜とかなきついてなんとかやっつけてるスネオでしかねぇしw
129 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 21:04:29.25 ID:19ry/NPh
信長や秀吉が景勝の立場で生まれてたら景虎&武田・北条・伊達・葦名連合軍に瞬殺されてたのは間違いない。
何せ史実で信長は餓死寸前の一揆勢数百を数万の大軍で騙まし討ちにしたら一門10人以上ぶち殺され、秀吉も雑魚信雄を135000の大軍で短期決戦挑んで1万人殺され、
雑魚の毛利にも3000殺される馬鹿だしな
130 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 21:14:18.64 ID:HZPUzW9x
信長や秀吉が凄いのは敗戦をすべて捏造でもみ消した事
それでももみ消せず後世に伝わったものがいっぱいあるが所詮火事場泥棒と騙まし討ちと棚ボタで取っただけの形骸政権なのですぐに滅ぼされた。
131 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 21:25:15.81 ID:CrA84FXE
捏造でもみ消したとか寝言は寝て言え
正直上杉なんて武田しか目に見えない戦馬鹿、毛利ごときに数千殺される上杉
132 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 21:30:30.38 ID:HZPUzW9x
信長の勝ち戦なんて講談がほとんどだしなぁ
桶狭間も一次資料にないデタラメだしその軍記内ですらたまたま先陣と思っていった先が本陣で
たまたま偶発的に都合いいタイミングで雨や風が吹いて勝てただけだし
御館の乱や新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で
能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに越中中部で天正8年から天正10年半ばまで
2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
こんな体たらくじゃ史実で上杉が信濃に派兵した隙をついて居留守泥棒的に奪った魚津攻防でも
初めから越中に軍動かして魚津城外で圧倒的な大敗劇を演じていたんじゃないか。
何せ松倉の須田に手も足も出ずに苦戦していたんだしな
新発田なんて完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞に追い詰められていただけだし。
内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000)
から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北
越中中部で苦戦する織田軍じゃ100年戦っても勝てないだろ
上杉37万石程度(御館の乱や新発田の乱で極端に瓦解)に
伊達・芦名・新発田と共同戦線で9倍の兵力差でもって
2年も越中中部〜魚津・松倉のわずかな区間で進めず立ち往生
景勝>>>>>>柴田(織田家トップ格)
133 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 21:31:44.25 ID:19ry/NPh
上杉は御館の乱や新発田の乱で崩壊状態の所を9倍もの兵力で火事場泥棒されたのに
越中中部〜魚津松倉で2年も食い止めてたし毛利も南条宇喜多草刈が寝返るなど崩壊状態だったが美作攻防で勝利してるし滅亡寸前なんて笑わせるなと
信長が生きてても北陸平定はまず無理
内乱の連発で崩壊状態の上杉を9倍もの兵力差と神保・長・佐々など送り込んだりして火事場ドロしたのにろくに進めてないからね
越後に織田軍がなだれこんできたら100%織田方は撃退されてただろ
柴田軍45000は天正8年中頃から2年も越中中部〜魚津松倉付近で立ち往生し小島や須田などに大苦戦
ろくな備えもない魚津城に大苦戦
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず
森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田に
あと数月で落とせるわけがない
まず手も足も出ず苦戦しまくりの須田のいる松倉城どうするかだな
実際に攻め込んで撃退されたり苦戦してる。松倉城でも飛騨口別働隊は撃退され
ろくな備えもない魚津城では4ヶ月もかかり
柴田軍45000は天正8年中頃から2年も越中中部〜魚津松倉付近で立ち往生し小島や須田などに大苦戦し
天正12年段階ですら富山奪い返されたりしてる
森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
しかも当時の上杉は石高もしょぼく御館の乱や新発田の乱で極度に弱体化
武田滅亡がもう少し遅れてたら
魚津城攻防で柴田ら45000の大軍は5000そこそこの上杉軍に瞬殺されてただろうな
何せ御館の乱や新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で
能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに越中中部で天正8年から天正10年半ばまで
2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
こんな体たらくじゃ史実で上杉が信濃に派兵した隙をついて居留守泥棒的に奪った魚津攻防でも
初めから越中に軍動かして魚津城外で圧倒的な大敗劇を演じていたんじゃないか。
何せ松倉の須田に手も足も出ずに苦戦していたんだしな
新発田なんて完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞に追い詰められていただけだし。
134 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 21:37:59.74 ID:HZPUzW9x
武田戦では滝川平手佐久間水野はおろか徳川軍崩壊を見殺しにし
浅井朝倉戦や本願寺戦では原田森とか坂井正尚・久蔵とか平手とか氏家とか重臣クラスでも信長のアホな戦でかなり死んでるしそのおかげで
上がいなくなって抜擢されて有名になっただけなのが柴田明智羽柴滝川。坂本・宇佐山に置かれなくて運がよかったな
その与力の織田信治とか青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎も戦死
坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳
林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤
小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越
大量に戦死してる
しかも天正8年に一番の功臣佐久間信盛や安藤やら水野を粛清しだし
家臣達に反感を買い、光秀に殺されるヘタレぶりw
135 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 21:38:53.01 ID:19ry/NPh
弱い者いじめで家臣をぶち殺されまくるのは織田や豊臣や毛利、島津のお家芸だからなw
三方が腹や上村合戦でボッコボコに敗れた織田軍は
これ以降近江にだけは兵をバンバン送ってぶつかり合うという弱腰っぷりで
武田に対して全く挑みかかる気すらなく一番頼りになる徳川家康を見殺しにしたからなw
これ以降武田軍は織田信長の援軍を見込んで包囲を崩さなかったのに、信長は家康に援軍いくいく詐欺しまくって
武田軍の攻囲から半年たってようやく重い腰を上げるビビりっぷりw
結局二股城野田城岩村城など東美濃や遠江は落ちて平手や森、青地や坂井はぶっ殺されて〆るという天正3年の勝頼による家臣虐殺劇は幕を閉じる
はっきり言って北条氏康の方がよほど強国だなw
援軍到着の可能性まで見込んで浅井にちょろっと攻勢かけただけで
136 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 21:39:59.88 ID:CrA84FXE
どうでもいいけど、論破されたら何ですぐ長文で逃げるんだ
137 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 22:13:16.77 ID:19ry/NPh
にしても、毛利はあれだけの国力と経済力を持ちながら弱小勢力に総がかりで攻め込んで苦戦しすぎ。
・大内・尼子の内部分裂を利用して併合しようとするもガチで戦うと忍原崩れや富田城始め負けばかり
・大友なんて竜造寺にもボロ負けするヘタレ相手に反大友の国人の加勢がありながら大苦戦・敗戦して九州撤退。
・尼子・大内に再三、再興軍や一揆を起こされ大苦戦。
・僅か5万石の南条に大苦戦して援軍派遣まで阻止される。
・備前半国程度の宇喜田秀家相手に反宇喜田勢の加勢を受けながら大苦戦。
・今度は大大名となった宇喜田の加勢を受けながら浦上らに大苦戦。
・織田がやってくるとやはり中国から追い出すどころではなく宇喜多直家・忠家に辛川合戦・加茂崩れで大敗するなど大苦戦
圧倒的国力差で支援もほとんど受けていない宇喜多と一進一退
・四国でも河野らの支援を得ながら事実上敗退。
ヘタレ過ぎる…。
138 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 22:15:46.50 ID:HZPUzW9x
結局、伊予国での主導権も隆景は失っちゃうしな。
元亀三年(1572)には大友の後援の一条氏が西園寺も降し主導権を握るが
兼定が讒言を信じたりで自爆して最後は家臣に1573年9月に強制隠居に追い込まれ1574年には四国から追放されちまう。
豊後へ逃げたのちに大友兵を借りての1575年に四国上陸し長宗我部との決戦が天王山だったし。
(一条房家死後に嫡男の房冬がわずか2年で死去し、
その跡を継いだ房基が28歳で自殺し7歳で家督を継いだ兼定ではあるが
相次ぐ当主の死去で一条氏は弱体化していた)
大友の後援の一条氏が西園寺も降し主導権を握るが
相次ぐ当主の死去で弱体化していた
(一条房家死後に嫡男の房冬がわずか2年で死去し、
その跡を継いだ房基が28歳で自殺し7歳で家督を継いだ兼定)
兼定が讒言を信じたりで自爆して家臣に追放されちまう。
豊後へ逃げたのちに大友兵を借りての長宗我部の決戦が天王山だったし。
鳥坂峠の戦いだけを強調する毛利の捏造史観では
翌年11月には東表の合戦に一条氏が大勝利し
甲之森城主の長山伯耆に切敷のうち六町を与えて形勢逆転してる話は黙殺してんだよな。
さらに元亀年間には甥の宗麟と宇和郡へ大攻勢をかけるなど河野氏は衰退する一方。
結局、秀吉の手先になった隆景は河野氏滅亡の元凶に変身したし。
139 :
人間七七四年:2013/05/13(月) 23:39:00.38 ID:5C2Mlukp
アスペルガーだが大暴れ
140 :
人間七七四年:2013/12/23(月) 18:35:54.71 ID:tIyWlVLb
141 :
人間七七四年:2014/03/22(土) 20:39:55.86 ID:0D5Wcx9N
142 :
人間七七四年:2014/10/07(火) 23:51:11.02 ID:KdHSuxnF
伊達>毛利>今川>上杉>武田>>島津
これが妥当だな
143 :
人間七七四年:2014/11/23(日) 16:58:41.32 ID:6FAQJP02
>>142 一応、根拠を聞いてもいい?
いや、煽り抜きで聞きたい
144 :
人間七七四年:2015/02/07(土) 18:47:57.09 ID:XeO5lbtV
謙信公があと半年生きていた場合
手取川の戦い 天正5年(1577年)9月
滝川一益・丹羽長秀・稲葉一鉄・不破光治・前田利家・佐々成政・金森長近・
長谷川秀一・徳山則秀・堀秀政による4万の軍勢が上杉軍に敗れ越前まで撤退。
北ノ庄の戦い 天正6年(1578年)3月
足利義昭・本願寺顕如の懇願により越前へ出兵。織田軍は手取川で兵力を失ったうえに、
越前の領民は越前一向一揆の残党により上杉軍に協力したため、柴田勝家は籠城を選択、
米俵を真っ二つにして善戦したが半月で落城し、不破光治・佐々成政・前田利家共々討ち死にした。
賤ヶ岳の戦い 天正6年(1578年)4月
織田信長は北ノ庄の救援を諦め、木の芽峠にて4万の兵をかき集め上杉軍を迎え撃った。
しかし上杉軍の勢いに押され、余呉湖東岸まで後退する。ここで信長は馬防柵を用いた陣を構築し、
新たに徴兵した丹羽勢に西側から上杉軍の側面を突かせた。しかしこれを読んだ謙信は、
自ら余呉湖西岸から迂回し賤ヶ岳を急襲、丹羽勢を包囲殲滅、そのまま織田本体を急襲したため、
馬防柵も三段構えも機能せず織田軍は総崩れとなった。この戦いで丹羽長秀、そして、
手取川の汚名返上を期して殿を務めた羽柴秀吉、そして退き佐久間と謳われた佐久間信盛まで
もが壮絶な 討ち死を遂げた。
安土城の戦い 天正6年(1578年)6月〜9月
信長は安土城に籠城し上杉軍を迎え撃った。更に飛騨から越中攻め、若狭から敦賀攻め、
美濃から近江攻めを企図したが、全て失敗。逆に若狭および湖西を武田氏等に奪われ、
明智光秀が投降、琵琶湖の制海権を失い、9月に落城、 信長は炎の中に消えていった。
上杉謙信は上洛し足利義昭を京に迎え自らは管領に就任、戦乱の続く東国征伐を準備、
京都の酒を存分に楽しんだものの、9月13日の未の刻(午後2時)に厠で倒れ、急死した。享年50。
辞世「五十年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒 嗚呼 柳緑 花紅」
145 :
人間七七四年:
展開早すぎる