豊臣と徳川、なぜ差がついたか。慢心、環境の違い

このエントリーをはてなブックマークに追加
380人間七七四年:2012/01/15(日) 19:31:15.07 ID:BXN0vn+R
なかなか治らんもんやね。心の病気というのは。
381人間七七四年:2012/01/15(日) 22:41:03.86 ID:NbXggK4A
伊賀と伊勢が信雄家臣団の大半の所領。
それをほぼ全て秀吉に奪われた以上は
継戦能力ゼロで屈服。
これによって家康の最重要拠点三河が丸裸に晒された時点で、
家康敗北も同前。
382人間七七四年:2012/01/15(日) 22:54:30.22 ID:7nbsbxfH
伊賀伊勢戦線は徳川の支援が得られなくなり3月段階で秀長軍に攻められて崩壊しているが
伊勢北部ではその後も抵抗が続き長久手合戦後では南伊勢でも反撃に出ている

もともと家康信雄軍の主軍が伊勢方面での迎撃を想定していなかったから崩壊しただけの話

秋になって蒲生が攻めてきて伊勢伊賀の大半を占領したとか書いてる本は大嘘
実際には春段階で南伊勢戦線を織田方が捨てたため松ヶ島以南ではほぼ羽柴方が蹂躙
実際には長久手合戦以降ほとんど戦果は上がっていない
信雄は本拠地周辺の田畑を荒らしてくる
敵軍に対してまともに迎撃する事なく和議を結ぶヘタレだったから勝てただけ。
秀吉は長久手だけでなく戸木、木造、蟹江、加賀の井、奥など
各城郭で散々手を焼かされたり敗戦したあげく退却し膠着状態に陥っている
383人間七七四年:2012/01/15(日) 22:59:50.82 ID:7nbsbxfH
池田・森が味方についたわかげで秀吉方は木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で7倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法では瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
384人間七七四年:2012/01/15(日) 23:05:23.04 ID:7nbsbxfH
信雄は抗戦する気概のないヘタレだったから秀吉が助かっただけ
本領安堵をいう格好の餌に食いついて後に改易された馬鹿
伊勢も尾張も家康の領国だったら秀吉は死んでただろうな
385人間七七四年:2012/01/15(日) 23:08:29.87 ID:Bli4gjBZ
〜なだけ、と問題を単純化したがるのは科学的思考に向いてないって読んだわ
まさにお前のことだよw
386月孔雀:2012/01/15(日) 23:08:42.17 ID:41YT62j0
たらればはどうでもいい
387人間七七四年:2012/01/15(日) 23:12:17.53 ID:LU7GdOlP
まあ秀吉なんてどこ言っても
ものすごい大軍と調略や政略で作り出した有利な状況や条件で
敗戦・苦戦・大損害ばかりだから
信雄戦でけちょんけちょんにやられてても何は不思議はないがな
388人間七七四年:2012/01/15(日) 23:15:21.26 ID:5yykGEn4
※秀吉失態集※

・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる

389人間七七四年:2012/01/15(日) 23:33:09.29 ID:5yykGEn4
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長  姉川
謙信>>>>柴田  手取川
謙信>>信玄    川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉  84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉     しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉      伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉   小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉            尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川            神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族   中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津       九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦       鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直            天正壬午
仁科>>>信忠  高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀     二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部     戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利

これらを元に数値をつける
120 上杉謙信
110  武田信玄
100 徳川家康
  
  
 97 北条氏康 太原雪斎 山県昌景 上杉景勝 柴田勝家
 96 武田勝頼 明智光秀 葦名盛氏 田村清顕 本多忠勝
 95 本庄繁長 伊達政宗 織田信長 毛利元就
 94 佐竹義重 北条綱成 滝川一益
 93  立花道雪 北条氏直 相馬盛胤
 92 織田信忠
 91 島津家久 伊達政宗
 90 島津義弘 長宗我部元親 黒田孝高
    酒井忠次 真田幸村 朝倉宗滴


 70 羽柴秀吉

50 吉川 小早川(笑)
390人間七七四年:2012/01/15(日) 23:40:06.91 ID:5yykGEn4
S 北条早雲 織田信長 徳川家康 三好長慶
A 伊達政宗 毛利元就 島津貴久 武田信虎 長尾為景 伊達種宗
B 豊臣秀吉 上杉謙信 織田信秀 今川義元 本願寺顕如 松平康国 柴田勝家 斉藤道三 明智光秀
C 佐竹義重 滝川一益 浅井長政 葦名盛氏 加藤清正 竜造寺隆信 長宗我部元親 北畠具則 
D 武田勝頼 細川藤隆 藤堂高虎 真田昌幸 長尾顕景 伊達種宗 松永久秀 石田三成
391人間七七四年:2012/01/17(火) 08:25:56.94 ID:i6LcApj+
ランク付けは意味ないな。
時代も違えば環境も違うし、戦略、戦術でも違う。
392人間七七四年:2012/01/18(水) 19:50:40.15 ID:DsBmwv+A
滝川一益の娘婿で、
信雄家臣ナンバー1重臣の滝川雄利がいる時点で、
家康が負けるのは明らかだったからなあ。
つうか信長も信雄なんて軽視して、

滝川雄利に直接指示していたりと、
滝川雄利
が実質的に信雄家中を支配してたのが現実だし。
393人間七七四年:2012/01/20(金) 02:40:33.10 ID:KLQ2gbWF
あれだけ大恩を受けた織田家を事実上崩壊させた秀吉。
それと似たりよったりの事を家康にやられ豊臣滅亡。
因果応報という言葉がしっくりくるなあ〜。
394人間七七四年:2012/01/31(火) 14:38:29.84 ID:HQhxuYO9
それに比べて明治政府の徳川への恩情は家康とは天と地ほど違うな
395人間七七四年:2012/01/31(火) 15:43:11.64 ID:Am1sfaIe
そりゃ、徳川は力を残した上で手を上げたから
大坂城落とされて、櫓に逃げ込んだ状態で助命を願った豊臣と一緒くたにされても
396人間七七四年:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN ID:daZoZVbn
徳川家達とか教科書に載るほどの人材も輩出されているね。
397人間七七四年:2013/09/04(水) 16:32:31.51 ID:z0RC7QFJ
豊臣秀吉は自分の欲の為に信長他を殺した。
徳川家康は天下泰平の為に行動した。
398人間七七四年:2013/09/04(水) 17:48:30.92 ID:FDmJH7w1
アンチ秀吉のキチガイ反日織田半島人暗躍中www
399人間七七四年:2013/09/11(水) 22:12:44.30 ID:Uv26+N7W
豊臣家宗家が滅んでも
秀吉の母方の縁者の小出氏が3万石の大名として幕末まで存続している
小出氏の秀吉の親戚で 小出秀政は秀吉の死後も秀頼に仕えている
秀政は1604年に病死…
400人間七七四年:2013/09/11(水) 22:56:14.23 ID:KN/Ka1R1
>>397
むしろ信長の敵討ちしてくれた秀吉には織田家は感謝していたからこそ、
大坂陣でも信雄親子や有楽斎親子は豊臣方としてギリギリまで籠城組にいて、
一応はリーダーと目されてたじゃん。
ギリギリのタイミングでこりゃもう救えないと悟ると逃亡したけど、
やはり織田家としては家康の天下ってのは嫌だったんじゃないかね。
401人間七七四年:2013/09/12(木) 06:56:13.11 ID:l+pxmdyx
>>400
家康が信長や秀吉のように増長するのが嫌だったんじゃね?
たとえ形ばかりでも、関白(準后だっけかにもなってたか?)を輩出する家が、
反徳川の旗印として存続してくれてた方が生きやすいだろ
402人間七七四年:2013/09/12(木) 12:29:03.63 ID:rE7IfGhM
いやいや秀信を旧領の岐阜に封じてくれたりと
よくしてくれてるし、三成も秀信の体調が悪いと聞くとすごい心配して、
真田信之に連絡して、秀信を上野国草津温泉で湯治させてあげたいから
国元の人たちに不便がないよう案内してくれるように頼んでくださいって
頼んだりと織田宗家を大切にして配慮してるくらいだし、
これはもう秀吉の意向そのものなんだよ。
だから秀信は関が原の戦いでも秀頼様を守るために西軍に参加したわけ。
403人間七七四年:2013/09/14(土) 23:19:58.04 ID:w+j4FQ1f
バカテスの木下秀吉について語りましょう。
404人間七七四年:2013/09/23(月) 06:56:52.87 ID:boh32KSo
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/
405人間七七四年:2013/10/13(日) 10:25:11.95 ID:GSq8Fif4
家康は身内に大領を持たせず細かく分割統治し統率力を保った
秀吉は気に入った身内に大領を持たせ、結果、統率を失い内部から崩壊した。
406人間七七四年:2013/10/13(日) 12:19:38.86 ID:DQ/8Yera
"徳川"に従っていたか"秀吉"に従っていたかの違い
407人間七七四年:2013/10/13(日) 13:14:53.65 ID:3sbmom2J
秀吉は個人崇拝以外、仕組みも組織も作れなかったからな
408人間七七四年:2013/10/13(日) 13:19:38.10 ID:K3FJarO7
>>407
それは信長のことだろw
409人間七七四年:2013/10/13(日) 14:07:28.75 ID:JDWRSm7Z
よくもわるくも秀吉は信長と同じことしてるだけだからなぁ
410人間七七四年:2013/10/13(日) 14:18:20.29 ID:+zkbtDYA
>>409
デタラメ乙w
411人間七七四年:2013/10/13(日) 18:20:58.75 ID:GA0Nw/of
秀吉という下から実力で這い上がった人間が結果的に武家官位制
という概念の世界の力に頼ろうとしたのはなかなかに面白いのではないかね。
そんなもんでは家康どころか子飼いの加藤や福島あたりさえ縛れなかったわけだけども。
政治の世界は結局パワーゲームなんだよな。
412人間七七四年:2013/10/13(日) 18:36:50.87 ID:j1p/9IkX
>>秀吉という下から実力で這い上がった人間

秀吉は最初からかなり高い身分だった。
安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
乞食の経験?というとフロイスの記述にも秀吉が若いころ、一度、信長の元を出奔してることを書いているから
出奔後に乞食になってたのだろう。
天正11年4/12付秀吉→輝元宛では前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる
秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。 秀吉は親類だから公記での初登場でも すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が 氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。 完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
秀吉は最低でも1565年時点で織田家でもかなりのレベルの地位の領主だった事は間違いない
領土安堵状出してるのは丹羽佐久間柴田など大身とされる連中だけだし
そもそも他家の場合大名しか出してない例も多々あるほど。
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる

木下秀吉判物写

三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田

…(以下略)

あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)

清洲建設・墨俣一夜城は太閤記の糞講談 取り立てらたのではなく最初から丹羽と並ぶような大身だっただけ
太閤記は年次レベルで間違いあるような糞講談なのは常識
墨俣一夜城とか農民出身とか長久手の戦いが池田の献策とかデタラメばかりデッチ上げて秀吉マンセーしてる糞史料
1565年時点で既に領土安堵状だし1568年でも大身丹羽と並ぶような立場で領土安堵状出してるし
信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる
413人間七七四年:2013/10/13(日) 18:37:33.91 ID:j1p/9IkX
津田や木下は織田の一門でしょ。
天正11年4/12付秀吉→輝元宛では前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに織田家でかなりの地位にいたことがわかるし
一次資料初見は重臣や大名しか出せない領土安堵状。
信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる

マジレスすると秀吉の実家は卑賎の身分どころか皇室のながれをくむ名家なんだが
母の大政所の父は、朝廷で帝の側近として重用された荻中納言だということは判明してる
天皇の信頼あつく、朝廷の任を終えたあと、尾張中村の荘園を領土として拝領した
そしてそこで土着して名門豪族として栄えた
414人間七七四年:2013/10/13(日) 18:39:22.20 ID:j1p/9IkX
秀吉が天下取れたのは単なる棚ボタでしょ。
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)

尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
415人間七七四年:2013/10/13(日) 18:39:55.67 ID:j1p/9IkX
圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。
別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
416人間七七四年:2013/10/13(日) 18:42:57.25 ID:zudiJZeq
豊臣家は徳川家に滅ぼされた。 徳川家は北条家に諏訪高島で潰走させられた。
秀吉は滝川に伊勢で蹴散らされまくった。 北条は滝川瞬殺した。
普通に史実の戦績で本多500>>>>>秀吉軍20000(小牧長久手時の後詰妨害の攻防)
織田徳川16000〜17000>>>>>>秀吉軍100000(決戦しかけたら1万人戦死の大敗)
滝川6000〜8000>>>>>>>秀吉軍60000(天正11年の伊勢の攻防、ゲリラ戦で苦しめられまくり7月まで篭城、柴田・信孝の降伏で勝ち目なく降っただけ)
だから滝川破った氏直は秀吉の20倍くらいの戦闘力はあるだろうな
事実小田原合戦で235000対34500の普通なら半月くらいで瞬殺されて終わりそうな兵力比で
一柳・堀尾嫡男・前田重臣が戦死するなど苦戦しまくり忍城1000や小田原1000に手も足もでなかったし

秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから優勢になっただけだし
氏直が2倍程度の兵力で瞬殺した滝川(6000そこそこ)に5〜6万で挑んでゲリラ戦で苦しめられ蹴散らされてたし

神流川の戦いはガチンコ決戦だね。合戦の最中寝返りが出たとか講談にしかないデタラメだし 上野国衆勢はむしろ緒戦で敢闘して氏邦勢を撃退してる
本戦で氏直の偽退却戦術にかかって滝川軍18000のうち6000も戦死し重臣もことごとく死ぬなど
決定的に戦術で負けただけ。ようは実力で勝負がついただけの戦。 あと信長が死んでボロボロになったのではなく
元々弱くてボロボロになっただけ。 森なんか本能寺前ですら四面楚歌状態の上杉に長沼攻防で敗北してるし
信玄横死後、斉藤道三・義龍横死後でも 美濃信濃甲斐遠州は草刈場にならなかったのに
信長横死したら甲斐信濃上野は大混乱で徳川上杉北条の独壇場。
いかに織田が雑魚だったかわかる事例

北条>>>>>織田


信長や秀吉は畿内・美濃に大苦戦。

家康は瞬殺した。

その家康は諏訪高島で北条相手に敗走。

小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万
が加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。
秀吉書状で2、3万。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前

そんな戦闘で一柳や堀尾の子、前田重臣が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し
小田原1000程度や忍1000に手も足も出なかったのが秀吉。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方だったおかげ。

しかも北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況

北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
417人間七七四年:2013/10/13(日) 18:45:42.95 ID:zudiJZeq
信長や秀吉は畿内・美濃に大苦戦。
家康は瞬殺した。
その家康は諏訪高島で北条相手に敗走。

秀吉は信雄相手に7倍以上の圧倒的兵力で1万人以上ぶち殺された。
氏直は信雄より遥かに勝る家康相手に諏訪高島・乙骨で勝利し、全体でも引き分けした。

秀吉は6万の大軍を伊勢で滝川に蹴散らされまくり大苦戦。
北条は滝川を瞬殺した。

豊臣家は家康に滅ぼされて滅亡
北条家は江戸期も存続。旧臣らは家康配下で重宝され、統治システムも豊臣ではなく北条家の物が受け継がれた

小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万
が加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。
秀吉書状で2、3万。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前

そんな戦闘で一柳や堀尾の子、前田重臣が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し
小田原1000程度や忍1000に手も足も出なかったのが秀吉。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方だったおかげ。

しかも北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況

北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万
が加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。
秀吉書状で2、3万。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前

そんな戦闘で一柳や堀尾の子、前田重臣が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し
小田原1000程度や忍1000に手も足も出なかったのが秀吉。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方だったおかげ。

しかも北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況

北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉

享禄以来年代記によれば豊臣軍は29万。また榊原書状や那須記など50万の大軍。
にもかかわらず忍小田原韮山など1000〜500そこそこの拠点も落とせず
兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれた雑魚豊臣軍

秀吉は伊勢で滝川に蹴散らされまくる(3/4柴田→填島書状、滝川事書本多氏論文)
北条は滝川を瞬殺。6000戦死の壊滅的大勝

豊臣家は家康に滅ぼされて滅亡
北条家が江戸期も存続

北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
418金吾秀秋:2014/04/08(火) 21:16:30.26 ID:Z2YPztEC
どうつもこいつもヴァカばかり(´・ω・`)
419人間七七四年:2014/04/12(土) 17:13:43.56 ID:aMkSvscG
また織田チョンの自作自演か。
相変わらず気持ち悪いな。

織田チョンによる偽だがの見分け方。

昔のだがレスを盗用してコピペ爆撃する。
だがは秀吉擁護であり、
偽だがはアンチ秀吉である。
織田チョンが装う偽だがは、秀吉の功績は信長のおかげであり、秀吉は無能だと主張し、信雄を必死に擁護する。
アンチ秀吉コピペレスは、だがに対する反論になっているので、
織田チョンが主張するだが像がデタラメであることがわかる。
アンチ秀吉コピペ爆撃荒らし行為を織田チョンは絶対に非難しない。
420人間七七四年:2014/09/18(木) 08:01:46.45 ID:KZ1+ZUxV
りんごうクブラ宅備読流ラーメン

りんごうクブラ宅備読流ラーメン

りんごうクブラ宅備読流ラーメン
横浜駐車近代らーめん
421人間七七四年:2014/10/05(日) 00:17:18.07 ID:tzVW+cnf
とりあえず長文やめろ読む気失せる
秀吉ダメと思うならそれでいい
もっとコンパクトにまとめろよ

そしたら相手してやるたぬき信者
422人間七七四年:2014/11/01(土) 22:10:53.67 ID:rnRnQeOl
agw
423人間七七四年:2014/11/03(月) 17:25:34.10 ID:MT2RcwDD
家康が頑張って長生きしたのは清正等の豊臣恩顧大名の
死を待っての事だと言われるが、実は家康が一番死を
待ってたのは本多忠勝などの自軍の武断派だと思う。
豊臣が武断派と文治派の対立によって衰退するのを
目の当たりにしたから徳川も家康死後に忠勝等の
武断派と正信等の文治派の対立によって衰退して
外様大名に簒奪される事を恐れて、なんとか
武断派達より長生きしようとしたのかも。
424人間七七四年:2014/11/03(月) 20:39:45.97 ID:sbcQJ4tc
>>423
実は武断派、忠勝や康政と文治派正信は政治的対立はしていない。
両者は表向き対立することで、ある一族に武断派が吸収されるのを防いでいたんだよ。
その一族の長は文治派の旗頭だから武断派まで、その一族の元に集まると足利における高一族に
なりかねない連中だったんだよ。
そこで武断派の旗頭として忠勝や康政が、ことさらに正信を貶めて、武断派の不満を集める旗頭に
なった訳。老中になった康政が、早々に引退したのも、その一族に取り込まれるのを防ぐ意図があった。
関ヶ原の遅参は想定外だが、上田城攻めでの失敗は、正信、康政の想定内。その一族の面目を丸つぶれ
させるのに成功している。


その一族ってのは、どこのどいつだって・・・・・・・・大久保だよ。大久保!
425人間七七四年:2014/11/03(月) 22:14:25.98 ID:Li6CjO2m
そもそも忠勝や康政が正信を嫌っていたってのは『武家事紀』にしかでてこない与太話であってだな
426人間七七四年:2014/11/04(火) 23:29:47.21 ID:rYbgJx1i
>>425
ですよねー
正信や忠勝、康政、直政は家康を天下人にするってことで目的が一致してるのに内ゲバ起こすはずがない。
私的には、彼らの共通の敵は大久保だったと思う。彦左衛門が大久保一族こそ徳川の股肱だと言ってるが
鳥居さんみたいにオヤジは家康のために蓄財、息子は伏見城で玉砕とか、姉川、長久手で名を挙げた榊原、本多
みたいな連中こそ股肱の臣ともいうべき連中で、関東移封後の大久保は単なる大族閥に成り果ててる感があるね。
427人間七七四年:2014/11/06(木) 00:13:17.77 ID:4qnmpfdH
どちらが理〜やら非〜やら
428人間七七四年:2014/11/06(木) 01:04:27.75 ID:Kl0o+jaa
氏んでほしいやつがいたら暗殺するだろ
429人間七七四年