>>583 >>(1)政宗は寂光院に有った臼の中へ身を潜めた。 そして隙を見て、裏手から帰った。
(2)これにより伊達代々の尊崇を得てきた寺社が伊達累代の法宝ともども灰燼に帰したのである
この出典も挙げてくれ
たぶん下記じゃないの?
>信夫山が焼き払われたのってどのタイミング?
「寂光寺羽黒山因縁記」「富田文書」「第一次寂光寺事件文書」などを研究した梅宮茂
(梅宮氏は政宗が本陣を置いた黒沼神社、その神主の末裔)は
信夫山の社寺、山伏村、民家が全て上杉により一字も残さず焼き払われ、
山上の 宮人、六供坊らすべての山伏が政宗に付き従い、北目へ向かったと明らかにしている
上杉側の記録にも「政宗陣所(黒沼神社)を襲い、悉く焼き払」ったいう記述もあるので、
政宗が敗走を開始する混乱の最中に、上杉による焼き討ちが行われてる
>どういう意図と効果があったの?
松川合戦において、伊達軍と共に、北目へ遁走した信夫山(別名・青葉山)の山伏達
彼らは11代持宗以前から代々伊達家に尽くし、血の繋がりが深い者達も多かった
伊達氏も米沢、三春、伊達の総鎮守として、代々厚い信仰を捧げてきた関係
これら伊達氏が築き上げた影響力が松川合戦で焼き払われ、 北目へ叩き出された事実
上杉家が梁川〜伊達〜桑折〜信夫そして福島まで跨る信達地方への支配を浸透させる上で
絶好の機会を政宗が与えてくれた
よって政宗が愛宕神社前に本陣を据えていた最中、
羽黒山全体に火の手が回ったと考えるのが自然。
というのは、全焼してしまった黒沼神社に属していた神主の末裔である
梅宮茂氏によると それまで伊達氏の尊信を集め、且つ
伊達氏によって総鎮守と定められ、繁栄を極めた羽黒山一帯の社寺には
累代の伊達氏が捧げた願文、宝剣、鎧といった宝の数々が納められていた。
しかし松川合戦の折、これら貴重な史料の数々が灰になってしまった〜
と、歴史家兼考古学者でもある梅宮氏は述べられている。
本来なら、父祖伝来の宝物を放置する筈はない。 陣払いする際に、仙台へ持ち帰る筈。
しかし政宗は、この伊達氏にとってかけがえの無い社寺を焼かれたばかりか
歴代の当主が納めた、宝物を回収する事すら叶わなかった。
領主にとって、敵に氏神を焼かれるのは屈辱以外の何物でもなく、恥。
羽黒山から立ち昇る黒煙は、伊達、信夫、梁川、福島における伊達氏支配の終焉を意味していた。
そして黒沼神社は上杉氏によって再建される。