長谷堂城の戦い 2 【直江兼続VS最上義光】

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591人間七七四年

>>589
会津陣物語を信じることに変更したのなら下記を事実認定でOKだね。

軍議に納得がいかない岡左内が軍法違反をして寡兵で渡河して
陣を構え呆れられるメンバーに小田切や北川や布施らも参加している。
宇佐美民部が他の蛮勇を持つ者どもの渡河メンバーを引き止める。
岡左内ら400は河を背に2万の伊達二万の大軍に包囲される。
北川が親しい小田切に陣羽織を息子への形見に手渡してくれと頼み突撃して死ぬ。
それをみて北川と親しかった布施も長年の友と一緒に枕を並べようと突撃して死ぬ。
彼らの奮闘に2万の伊達軍は渡河できず大苦戦を重ね
政宗が怒り来るって1人で陣頭に出てきて河を渡れと怒鳴り、
岡佐内を大将と見て背後から背を切り付けてくる。
岡佐内はきっとなって振り返りざまに政宗の顔を目掛けて太刀を斬り浴びせ
政宗の眉の上を覆う部分から具足の胸板鞍の前輪を切り下げて
政宗が怯んで太刀を突き出すところを続けて横に切りつけて折ったので政宗は逃走したが、
岡佐内は「追って組み打ちに持ち込んだら討てるけど雑兵のように武具が粗末なヤツだから価値ないだろ」
と判断して撤退した(伊達の書状はこの時のものと言うことになる)
この後さらに青木新兵衛によって政宗は兜の三日月の半分を叩き割られる悲劇に見舞われる。
のちに政宗が3万石で岡を誘うが蒲生家へ戻ったとする。

謎の人物である小田切加兵衛・・・信州川中島出身で武田家にて高坂弾正に仕えた。
のち家康譜代の臣となり小牧長久手では上半身裸で戦って一躍有名人となっている。
【ここから最大の謎】会津陣物語ではどういうわけか北川や布施たちと共に
蒲生家臣になっており蒲生減封と共に上杉家臣になっているとする?????
のちに伊豆守と呼ばれ前田家にいて冬の陣では真田丸攻め参加してるのは確認済み。

布施の死について・・・このくだりは小田切を悪く書くこと&岡佐内の武功を記すことに意味がある行。
小田切は同じ蒲生衆の親しい間柄の北川の討ち死にを見て布施ら他の蒲生衆が見捨てずに死んだのに
こいつは生き延びたと批判する一方で同じ境遇の岡佐内は批判しないどころか褒める。
その他Aの布施はモロにザコキャラで彼らを描くために添えられただけの存在。ちなみに彼らは景勝衆ではない。

会津陣物語は幕府老中の酒井讃岐守忠勝が幕命で各藩から史料提供させて公式に編集したもの。
その論旨は直江兼続を天才だが悪人に描き、仲が悪い安田上総の軍功を握り潰したりする姿が描かれる。
幕府は直江を許せば、他の藩でも西軍に通じた大勢の家老達が安心するから許したとしている。
この戦の結果について家康の考えは
「中沢主税を派遣して伊達では上杉に勝てないから戦わず固く守れば、それだけで百万石の加増をするつもりだったのに
8回も負けるとは言語道断なので約束の沙汰もしなかった。また上杉については
西国に組した者どもはみんな陳謝しているのに上杉は少しも怯まず伊達に勝ち続け、今に至るまで姿勢を変えないのは
真に武門だとして召しだしたいとして本多佐渡守を通じて
「およそ天下を望むことは、弓矢を取る侍の常であるので咎めることはない。
その上に景勝は初めから逆臣を抱いてないないのは知っている。」と言わせ
景勝が「ご赦免でも切腹でも家康の好きなようになされ」と言ったの和睦になり
家康は「本領を変える必要はまるで無いが、外部の者への教えのために・・・」と転封にした。