長谷堂城の戦い 2 【直江兼続VS最上義光】

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581人間七七四年
>>南部家文書の8/13付の政宗書状は現在の俺の手持ち史料に
ないから転記できないがしかし金子先生の書物を当たればすぐ見つかると思う。
>>8日に秋田は榊原に対して帰国すると伝えているし。
これはウソだろう?秋田実季が片桐且元へ提出した出陣算用状によると
山形へ7/28〜8/28まで1500の兵を出し、別に7/30〜8/15に院内まで2000を派遣している。
「対決之次第」によると実季が院内まで出陣。山形へは館岡・湊らが兵を率いたとしている。
「最上家伝覚書」に8/13南部・8/18戸沢・8/19本堂が義光に宛てて同内容の血判起請文を出しており、
義光からの返書の血判起請文が8/20戸沢宛が残っている。
安東らのもあったはずだが「最上家伝覚書」の編纂した当時は焼失して無くなっていたとされる。
つまり安東は8/21付家康を受け取ってから最上領撤退を始めて8月いっぱいかかったことになる。
実季は家康に状況の報告を8/8に送ったとされる。なぜ「される」のかと言えば、
家康の8/21付け帰陣命令が届いた際にその副状として
8/22付け榊原・有馬・佐々木の実季宛て8/8書状への返書が届けられているからだ。
だから「>>8日に秋田は榊原に対して帰国すると伝えている」わけがない。

>>サブの説によると、起請文は真偽不明なのでは。まぁそれはいいや。
さてこの血判起請文は8/13付けで、上様(家康)・中納言様(秀忠)であり、
和賀の件で早々と撤退するんだけど南部は一応、他の大名らに先駆けて
家康らを粗略に扱うわけじゃないと血判起請文だけはきっちり書いてから撤退しているわけだ。
でも君の言う上杉中納言を粗略に扱わないとする文章なら、
以後の大名はみんな同じ文章内容の雛形で日付だけ違う血判起請文を書いているわけだ。
こんなもん書いてたら南部どころか本堂や戸沢なんて瞬間的に改易されて消え去るだろ?
しかも義光からの返書の血判起請文にも上杉中納言と書かれていたら最上も危機的な状態だw
最上はまったくの潔白で証拠がない南部を何とか陥れようと考えて
他の大名より早く帰ったことをいいことに他の大名の文章と違い、
南部の場合だけ上杉に内通するので帰るわ!って内容に改竄したんだよ。