>>570 >>上杉とか毛利中納言とかという呼び方がおかしい訳ではないよ
いや普通におかしい。
>>562にも書いているが会津中納言や芸中納言と書くのが常識。
>>和賀一揆が原因で引き揚げたというのは何に記載があるの?
政宗が和賀稗貫一揆を発生させたので南部がまず撤兵を開始した。
和賀一揆発生が確認できるのは一次史料上では南部家文書の8/13付の政宗書状
撤兵時期は南部が最上と起請文を交わした8/13以降ではないかとされる。
8/19の家康の帰陣文書は偽文書とされていて、家康のその前後の文書と明らかに違い
副状発給者が明示されてないばかりか「小野寺遠江守殿」と書かれるはずの文書が「横手殿」と書かれていて不審。
唯一の解釈方法は信夫郡宮代で守備についていた岩井信能へ直江が
8/12時点で小野寺がこちらに寝返り南部や仙北衆が陣を引き払ったと予言?しており、
それと同様な事態が起きており上杉による家康を装う偽文書だろうする解釈され
上杉・伊達・和賀・小野寺の共謀が見えてくる。
奥南旧指録附載には南部利直は前田&浅野と先代以来親しかったので東軍の立場を鮮明し
最上に加勢したが領内和賀一揆のために最上出羽守に相断り帰陣し一揆を討ったと記されている。
南部の遠野城主である阿曾沼広長も南部軍本隊と共に最上陣に出陣するが南部本国から和賀一揆の連絡を受けて
山形から急ぎ本国への撤退命令が来た際に阿曾沼広長は伊達に内通していたようで主家の南部に対して
「一揆の場所は我が阿曾沼に関係ない場所だし」と無視。しかし遠野の重臣の裏切りが発生し城は南部に渡り
帰る場所を失った阿曾沼広長は伊達を頼って気仙沼に亡命。その後も遠野復帰を伊達が支援していたが見事に失敗した。
>>信長なら呼ばれていてもおかしくない。その政権のトップなわけだから
お前は自分で書いた「「上様」はおそらく天皇や将軍くらいのレベルにしか使えないはず」って言葉も忘れたのかw
後から言い訳みたいに条件を追加して屁理屈を繰り返すなよwww
>>だれがどのように指摘しているの?
だいぶ前だからほとんど覚えてないがおそらく高橋先生だったはず。
つーかこちらが以前挙げた質問や問題点にはまったく答えず黙殺し続ける態度はどうなんだ?
早く答えろよ。史料抜き出しやお前が書くよくわからん内容の断片的書状内容から導き出して
いつの日付の書状か書いて答えてやってんのも全てこちらじゃねーか・・・