長谷堂城の戦い 2 【直江兼続VS最上義光】

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542人間七七四年

政宗を疑っている家康が政宗に実は江戸へ帰ってましたw書状は8/12付で出している。
ちなみに和賀一揆発生が確認できるのは一次史料上では南部家文書の8/13付の政宗書状
3月22日付 政宗→井伊書状で政宗は南部との戦いを歪曲して報告してる。詳細は>>490
自南部も境中へ少々人衆参 此方之者 度々被討申候へ共 此方よりハ不得御意候条 一切不存躰ニ而 指置申候
結局、政宗は家康にすべて和賀のせいにして無理やり自刃させ、その首を利直へ贈り、
「あなたの賊は政宗が成敗したから今回の事は水に流して欲しい」と哀願。

9/29の宗薫宛での政宗では南部の話の他にもデタラメや歪曲が多数存在する。
例えばさも湯沢城を上杉から奪ったかのように報告したり、新宿城を攻略したような話ぶりだ。
さらにこれを足がかりに政宗自身も長井郡へ乱入してやると言ってるが、それを実行するつもりもない。
誰も見てない刈田郡奥地の湯原城では家康の監視もないので、
白石城のような戦うフリもせずに安心して無血開城して伊達にプレゼントしてたのが実情。

だいたい白石落城させておきながら家臣への恩賞に関わる大切な討ち取り人数が数百人とか曖昧過ぎだろw
奥羽永慶ですら白石城での討ち取り人数はまったく明記されてすらいないわけだが
まぁ捏造報告だから曖昧なんだろうが。 商人や鷹匠らによる家康の監視があるから、
最初から密約に基づいて登坂が降伏するわけにはいかないから1日だけちょっと抵抗してみせた自演だろうが。
我等手前抱置候←降将に対する扱いではないな。やはり示し合わせた談合の証拠。
そして誰も見てない刈田郡奥地の湯原城では家康の監視もないので、白石城のような戦うフリもせずに安心して無血開城して伊達にプレゼントしました。

三陸河北新報社の石巻かほく昭和60年8/20〜12/1連載小説の「危うし独眼竜」の話において
白石城主は、甘粕備後が留守で登坂式部勝乃兄弟が城を守っていた。城中には大崎三次、葛西長三郎、…旧葛西大崎の名のある武士団がかなり籠城していた。
伊達家の厳しい残党刈りを逃れ、上杉氏傘下に入ることで再起を期したものだろう。」
「激戦の末、白石城兵七百余人が討ち取られ、大崎三次らは戦死し、城は本丸をのこすばかりで、落城必死の形勢と
なった。そのため城代の登坂兄弟は、伊達家武将の石川昭光、片倉景綱を通じ、降参の助命を申し出た。」
「石川、片倉の両将はこれを許し、誓詞を書き送り、開城の運びとなった」
が、籠城軍の中に鹿子田右衛門という過激武士がいて、降伏絶対反対、1人になっても戦うと宣言し、手の者を連れて
城外へ打って出てしまったのである。助命誓詞まで受けた城内の者は、鹿子田のルール違反に手を焼き、
仕方なく城内から鹿子田らを狙って鉄砲を打ち掛け、味方討ちの形にして全員殺してしまった。」
「味方撃ちの中で果てた右衛門の最後は哀れであるが、ここにも歴史の因果がにじみ出ている」
郷土軍記小説家の紫桃氏によれば、「大崎三次」とは大崎三次義興、「葛西長三郎」とは葛西三郎清高。
前者は葛西十七代太守晴信の子、後者は大崎十三代太守義隆の子だとする家譜があると述べている。

大崎三次 葛西長三郎 なんて家系図や家臣団の中に名前が見つからない。
あくまでも自称で、どこの馬の骨がもわからない人物ではないのか?
だいたいシナリオ通りに開城する約束を実行しようとして、土壇場で聞かされてなかった反対意見の者達を討つあたりはやはり密約の存在を証明してるようなもんだな。